フランチャイズ時評バックナンバー

黒川孝雄の美

トーマス・S・ディッキー著「フランチャイジングー米国における発展過程」を読む(2)

第1章  フランチャイジング序曲

マコーミック刈取機会社とシンガーミシン社

 産業革命は1760年代にイギリスで始まったが、アメリカでは南北戦争(1861年~65年)で北部の工業資本が南部の農業資本に勝利して産業革命が確立して、農業国から工業国へ転換を遂げたとされる。正に、この時期にフランチャイジングの序曲とも言うべきマコーミック刈取機会社とシンガーミシン社が誕生して、新たに導入、展開した流通システムがフランチャイジングへの重要な先駆けをなしたのである。(わが国のフランチャイジングの文献でマコーミック刈取機会社に言及しているのは、川越憲治先生の「フランチャイズ・システムの法理論」のみであり、その意味でも本書は貴重な文献である)

Ⅰ 米国におけるビジネス・システムの変容

 国内市場の成長は、野心的な人々には大量生産と大量流通に適合する方法を開発させる大きなインセンチブとなった。商人や製造業者たちが新しいビジネスの方法の開発を迫られるほど高い人口密度に達したのは、1830年代以降のことである。
1840年代までは、米国におけるビジネスの支配的形態は狭い市場を商圏とする小企業であった。1840年代初め頃から幾つかの技術革新が、重なり合って、米国経済の基本構造を変えていった。
これら技術革新の中心部分は、人間や家畜の動力が機械によって代替されたことである。水力、蒸気機関の導入は、狭い地域内顧客向けの手工業を基礎にした経済の終わりをもたらし、広い地域市場、国内の全体市場及び国際的な市場に向けて機械生産を基礎にした工業経済を生み出した。水や水蒸気から得られるエネルギーの莫大な集中は、新しい機械群の開発を可能にした。その結果、生産面では、大量・低コスト生産を可能にする方法として、機械と人の統合された工場システムが生まれた。
蒸気船や鉄道を動かす蒸気力の利用は、アメリカの隅々まで製品を輸送する速度と信頼性を一気に高めることにより、ビジネス化できる市場を大いに拡大させた。
19世紀初頭、流通面において最も重要な変化が起こった。卸売業者の支配的勢力と製造業者の販売進出の二つがそれである。卸売業者は製造業者のために信用と運転資本を提供し、市場状況が不明な地域への遠距離流通システムの確立という重荷を製造業者から取り除いた。小売業者のために、卸売業者は生産地から離れた小売店主に対して製品を供給するだけでなく信用も供与した。
卸売業者は、アメリカにおいて産業資本が育つのに大変有益な存在であった。製造業者たちは大量生産の実現を模索しているとき、その主要関心事は当然に流通よりも生産にあった。大量生産技術の開発は通常困難で、リスクを伴う事柄であったがゆえに、大多数の初期製造業者にとって自前の流通チャンネル構築のような複雑かつ面倒で費用のかかることは、大量生産と併行して追及していくだけの時間と資金の余裕もなく、またヤル気もなかった。
しかしながら、早くも1840年代、製造業者は一定の状況下において独立卸売業者の機能を代替し始めた。既存の流通業者が製品を販売する意欲を示さなかったり、出来なかったりした場合には、製造業者はその穴を埋めなければならなかった。市場の質的変化によってしばしば製造業者の流通進出が行われた。交通とコミュニケーションの改善によって地元以外の市場状況の把握が可能となった結果、製造業者の活動範囲は拡大し、市場における実質的な集中が起きた。この変化は二つの部面において現れた。第一は大市場中心部が発展し、消費財メーカーが大量の顧客へ容易にアクセスできる市場となった。第二は大企業が発展し、生産財メーカーの製品を大量に扱う小数の顧客を生み出した。いずれの場合でも、卸売業者に代わり、製造業者が流通を引き受けることの方がしばしばコストが安くついたのである。
ミシンや刈取機のように専門的サービスを必要としたりする場合には、製造業者が地元以外に販売を展開しようとすれば、自ら販売チャネルを構築しなければならなかった。新しい販売網を構築しようとした時、製造業者は自社所有のシステムを構築するか、それとも代理店として活動してくれる独立企業と直接契約をむすぶかどうかという選択に直面した。この二つの選択は必ずしも容易ではない。
独立小売業者との契約による代理店システムは、製造業者にとって、小売店舗の直接所有に代わる合理的方法であった。代理店はしばしば販売コストと信用リスクを引き受けたために、製造業者はほとんどコストを負担することなく広く販売網を素早く構築することができた。代理店販売の主な欠点は、販売に関し効果的な統制を行うことが出来ない点である。更に、代理店はしばしば複数のメーカーの製品を扱っていたために、メーカーの正規従業員と比べて一生懸命販売しない傾向が見られた。
企業が設立後間もなくかつ市場が分散的である場合には、その企業の所有者は代理店によるシステムを選択する傾向が強かった。市場が高度に集中している場合には、当初は製品名の確立のために代理店を利用したメーカーも、製品知名度が高まりかつ経営的に豊かになると、しばしば直営店舗の方がより効果的であることに気づく。
I・M・シンガー社の経験は後者のタイプを示す典型的な企業例である。最初は代理店を経由した製品の販売方法を選択し、さらに差し迫った必要から製品を代理店に直接売ったり、代理店を経由して売るなどの現金販売を行った。その後、ミシンが消費財として受け入れられるようになり、会社の資金繰りが余裕が出来ると、シンガー社は都市部での販売は自社販売に切り替え始めた。そして他の代理店に対しては、増大したパワーを行使して、会社所有の店舗とほとんど区別できないほどの緊密な統制を行った。
専門化の一部面として専属代理店の登場があった。専属的代理店とは特定地域においてメーカーの製品を独占的に販売する権利を保有する業者で、米国で最初に登場したのが1830年代のことであった。ひとたび、代理店が販売する製品と代理店が有すべき専門知識のほとんどを単一のメーカーに依存するようになると、代理店の持っていた行動自由度はその大半が失われ、これまでの主力メーカー(プリンシパル)とエイジェントという関係がフランチャイザーとフランチャイジーという関係へと変容する。
マコーミック社とシンガー社における販売上の戦略と構造の展開は、19世紀後半において代理店システムが進化する過程で選択された分岐点を示している。両社とも当初は製品の大部分を代理店経由で販売していた。マコーミック社の確立した代理店システムは、いろいろな修正を重ねながら現在に至るまで、アメリカの農機具産業において小売販売の支配的な方法として継続されている。
一方、シンガー社は会社所有の支店の確立に向けて早期に乗り出し、独立小売業者への依存度を低めた。

Ⅱ  マコーミック社の販売戦略

1. 販売組織の3つの段階

 1831年夏、22歳のサイラス・ホール・マコーミックは、ヴァージニア州の農場において、最初の実用機械式刈取機の実演に成功した。
マコーミックによる刈取機の実演から、マコーミック・ハーベスティング・マシーン社を核としたインターナショナル・ハーベスター社設立までの71年間において、マコーミック社による販売組織は3つの段階を経た。第1段階は1843年から1849年までのライセンス契約(製造を含む)による拡張であり、第2段階は1849年から71年にかけての、本社との直接契約に基づく独立代理店を経由した販売、第3段階は本社策定の全社的販売戦略のもと、多くの支店によって管理され小売代理店が実行する分権的構造を利用したものであ、1871年から1902年にかけて行われた。
サイラス・マコーミックは自分の発明した刈取機の製造と販売に関し、他の製造業者とも契約を交わし、個別的な地元市場を多数集めて全体として国内市場を構築した。製造と販売を特定の地域で5年間独占権を与えるライセンス契約は、マコーミックにとって市場拡張の主な手段であった。1844年までに10州において刈取機の売り込みに成功した。製造権の販売を通じてマコーミック社の市場拡大政策は明らかに成功を収めた。
マコーミックは他の多くの刈取機製造業者とほぼ同じ時期に市場参入を果たした。刈取機市場における成功の秘訣は、機械の品質だけではなく、この新生市場で会社を業界第一の確固たるものにする経営能力にあることを彼は認識した。マコーミックの成功の鍵は、できるだけ広い地域へ刈取機を販売するという果敢なマーケッティングにあった。この政策を実行するために、マコーミックは全国的広告の開拓者となり、製品保証を行わなければならなかった。
19世紀半ばの米国経済の急速な変化によって、従来のライセンシー利用の販売戦略に変更がもたらされた。マコーミックは刈取機製造の監視については最大の努力をしたが、製造を様々な製造業者に委託しているかぎり、統一的な高品質を維持することは不可能であった。(150年前の歴史であるが、現在話題になっている飲食のライセンス方式は、いずれ同じ問題点に悩むことになるだろうと推測する)
1849年にシカゴでライセンス権の買戻しを行い、刈取機生産の大部分とその流通を自らの手で引き受けるようになった。しかし、マコーミックの従来政策(自社工場から直接配送できない地域における刈取機の生産・販売に関し権利付与を通じた販売拡張の意図)が変更されたわけではない。シカゴ工場の買収がもたらした主要な変化は、直接的な監視下で生産される刈取機の台数が飛躍的に増大したことにある。1847年にマコーミックは約450台の刈取機を生産したが、2年後には生産台数はおよそ1500台にまで達した。
1849年から1870年台初頭まで、マコーミックは米国全体にわたる広告、寛大な掛売り条件、刈取機性能の品質保証書、および独立代理店を通した農家への直接販売を継続させた。販売組織は、巡回代理人、卸売ジョバー、地域特約店、および巡回販売員から成り立っていた。巡回代理人を除いてはマコーミック社と1年契約であった。巡回代理人は一番人数は少なかったが最も広い責任を持ち、販売組織の中で唯一、会社の正規従業員であった。6人程度の巡回代理人はすべて信頼のおける仲間であり、新しい地域に刈取機を紹介し、代理店と契約し、成果が出ない代理店とは解約した。会社の他の販売員とは違って、通年雇用のもとで冬季は工場で働き、収穫期には担当地域を巡回したのである。
マコーミック社は中西部において自社刈取機の四分の三以上を販売していたが、それは工場に販売状況を直接的に報告する地域代理店の販売に依存していた。通常、これらの地域代理店は、他のビジネスをしながら刈取機も販売するという現地の商人や農民であった。会社は収穫期に合わせて地域代理店を1年ごとに指名していた。
マコーミック社は1850年代および1860年代において、代理店経由販売の地域範囲を着実に縮小させていくために、中西部の代理店に対し手数料ではなく給料による補償へと転換した。代理店が契約書で求められていた責務は、次のようなものである。すなわち、「刈取機販売に関する業務はすべて行うこと」や「獲得した注文数をマコーミック社に直ちに報告すること」であった。これに加えて、代理店は天候や穀物ごとの作付量など、地域の状況についてマコーミック社に継続的に報告することが要請された。
マコーミック社のこの経営段階では、販売代理店は文字通り代理店そのものであった。代理店は販売した機械の所有権をもたず、機械が配送され設置された後は、修理についていかなる法的責任も負わなかった。農家との契約は、地域代理店とではなく、マコーミック社との間で交わされ、代理店は単にマコーミック社と顧客との間の仲介者として活動しただけであった。マコーミック社は代理店に対して要求を殆ど行わず、毎年新しい契約を締結したので、販売部隊を急速に拡大することができた。

2. 卸売業者の排除

 製品の販売を成功させるためには機械の操作を完全に習得した販売員による実演が必要であった。複雑な製品を広大で分散した市場に供給するときの問題は、タイムリーなサービスと修理をどうやって行うかという問題が出てくる。それゆえ、刈取機に故障のあった場合に修理が直ちに出来なければ、刈取ができなくなるし、また別の収穫方法を見つけたとしても費用が高くついた。結局、良い支援サービスを行えるインフラを確立できない刈取機メーカーはすべて敗退する運命にあった。
販売製品の複雑さからみて、出来る限り市場に接近することが極めて重要であった。修理部品と専門技術は工場からのみ提供できるものであった。卸売業者はどこからみてもマコーミック社と農民の間における不必要な連結点でしかなかった。
結局、マコーミック社は卸売業者を排除したが、それは卸売業者に頼っていては必要な自社ブランド認知が広くなされないからである。マコーミック社はライバル社製品に比べて高価格による販売を維持することができ、また自社の特約販売店を保持したことから、農民と個人的に蜜着した顔の見える関係を創り出すことが出来たのである。
マコーミック社は農民に対して、価格と販売条件を掲載したチラシとカタログを直接郵送し、部品や助言が欲しい場合はシカゴ工場へ直接連絡するよう薦めた。また、会社は、広告について厳重な統制を行い、総代理店に対し「会社が承認していない業務項目について地域代理店は広告や宣伝をしないように」といった指導を行い、常に販売の先頭に立ち続けた。
ますます無機能化した販売組織から、地域代理店との関係を変更せざるを得なかった。独立代理店から準独立代理店への移行が始まった。本社内に新しく設けられた代理店本部がすべての代理店に対して回状(circular letter)の形で統一的な指示と情報を送りつけるようになったのが1859年のことである。1860年頃から本社は販売代理店部隊を、むしろ代理店本部の指導下で働くチームの一部として取り扱い始めた。1871年のシカゴ大火の後、これまで会社全体の販売戦略を策定してきた販売本部は、戦略の実行責任と日常の活動責任を米国とカナダに散在する約40の総代理店へ移管した。その後、長い時間を掛けて、それら代理店は会社所有の支店へ移行し、代理店は独立のビジネスマンというよりも会社のマネージャーとなった。しかし、小売流通の主力は相変わらず代理店にあった。代理店が会社の直接的コントロールの下に置かれるようになった。
農機具市場は広く分散し季節的なものであって、各地域の状況についての幅広い知識を必要とした。会社所有の販売店舗を多数設置することは、あまりにもコストが掛かりすぎた。農機具の複雑さ、価格の高さ、部品の即時入手必要性などのために、製造業者にとって代理店なしで成功することは望み得なかった。
マコーミック社および農機具産業一般において発展した流通システムは、伝統的な小企業と現代的な垂直統合企業とをブレンドさせたものであった。大規模生産は生産=流通間の調整を必要とした。しかしマコーミック社の場合、この調整は流通システム全体を所有することなく達成できた。マコーミック社は小売店舗を直接保有するまでには至らなかったが、販売代理店が工場特約店へと進化していった。
農機具市場の季節的性質によりマコーミック社の代理店は同社製品の販売に特化できなかったために、独立特約店をマコーミック社の専ら影響下に完全に留めておくほどまでには強くはなかった。製造業者に対する農機具特約店の関係は、代理店とフランチャイズ小売店との中間のどこかに位置するものとなった。

Ⅲ シンガー社の販売政策

1. シンガー社の初期の販売政策

 1850年夏、アイザック・メリット・シンガーはミシン市場の競争へ参入した。その4年前にエリアス・ハウがミシンの特許を取得し、ハウの成功に刺激されて多くの発明家が新しいミシンの考案や改良を行った。当時のミシンは高価格で複雑であるため、大衆消費市場には適していない商品であった。
シンガーはハウと同様に、機械による裁縫は仕立屋の動作を真似る必要がないことに気付いていた。1850年9月に、シンガーは布を抑えて裁縫する新しいメカニズムの製造特許を開発した。
シンガーは出来のよい機械が発明されたからといって販売が保証されるものでないことを悟った。1850年11月に最初のミシン広告を行ったが、シンガーは「米国内のあらゆる市や町での代理店を求む」と発表したが、代理店の指定に手間取り、販売の大半は自ら行った。
1851年初夏には、I・M・シンガー社は有名となり、新しくニューヨークの弁護士のエドワード・クラークとパートナーとなった。クラークの指揮下、シンガー社は地域独占販売権の付与を通じて市場の拡大を図るという、1850年代におけるミシン業界でよく見かけた商慣行の採用を始めた。
エドワード・クラークは直営店を設立する資金的余裕がないという主な理由から、地域独占権の譲渡による成長政策を実施した。しかし、シンガー社における地域独占権の販売は、真剣に流通システムを構築するというよりも、商品投機の類であった。シンガーミシンの販売権は数百ドルで入手できたが、大抵の投資家はシンガー社が業績を上げて独占は按配権の価値が増大することを期待して、その権利を購入したのである。1851年から地域独占権販売を止める1856年までの間、シンガーは市単位及び州単位にわたる様々な独占的特許権を数十も販売した。数年の間は、ミシンの販売利益よりも特許権販売からの利益の方が多かった。(今日の加盟金収入の方が、ロイヤルティ収入より多い
フランチャイズ本部を彷彿とさせる)。権利を譲り受けた者は、代価が数百ドルから数千ドル範囲内で直針垂直動作ミシンの使用及び第三者への販売に関する独占権(但し製造権は含まず)を獲得した。
この地域販売権を利用したミシン販売は、シンガー社にとって幾つかの魅力を有していた。まず短期的な運転資金の調達と長期的な国内市場の開拓というシンガー社の抱えていた二つの緊急課題に応えるための唯一の手段であった。しかし、シンガー社の経営者は、この方法には多くの点で不満を持っていた。それは、シンガーのミシンは競争者のものと異なり十分出来がよかったことから、商業的にも十分成功するはずだという信念を持っていたからである。パテントの販売よりもミシンの販売の方がより多くの利益が得られると考えていたからである。
クラークがシンガー社の販売システムを構築する過程で直面した最も重要な課題は、シンガーの機械にあるのではなく、地域独占件の販売を奨励するために考案された契約そのものの中にあった。シンガー社の契約期間はパテントの契約期間と同じであったために、契約者の事業活動をほとんどコントロールすることは出来なかった。例えば、初期の契約条項には代理店が必要とする購入量や代理店の定める価格についての規定がなかった。これらの問題点から、シンガーとクラークにとって、会社の長期的健全化を図るためには販売組織の変革が必要であった。
権利保護から権利を買い戻すという攻撃的な経営政策へ転換する契機となったのは、1856年における二つの出来事である。一つは、「ミシン連合」の結成である。ミシンに関するすべての主要なパテントを管理し、ミシンの製造・販売を行うメンバー会社へのライセンスを売り戻すというパテント・プールの創設であった。これは、ミシン産業の投機的時代に終止符を打つ出来事であった。二つ目は、シンガー社による大衆消費者向け製品の投入である。1856年アイザック・シンガーは国内市場向けに特別設計した最初のモデル「タートル・バック」を発売した。タートル・バックは旧モデルよりも小型かつ安価で、ミシン台を兼ねた木製箱に収納されたものであった。ミシンの完成度はすでに家庭用として十分耐え得るものとなり、またミシン連合の結成は最終的に各メーカーが製造と販売に専念することを可能にした。しかし、ミシンが大衆消費財として販売されるためには、それに相応しい新しい販売方法の確立が必要であった。すなわち、消費者信用の供与、消費者への信頼ある取扱説明とサービスの提供、およびシンガー社のミシンと競合他社のものとを明解に区別するといった方策が必要であった。これらの要請に応えるべく、シンガー社は会社所有の店舗を設立すると共に、短期契約で専属代理店を通じた販売という政策を採用した。これら二つの変革は年間販売量の増大となって明確に現れた。これらの要請に応えるため、シンガー社は会社所有の店舗を設立すると共に、短期契約で専属代理店を通じた販売という政策を採用した。これら二つの変革は年間販売量の増大となって明確に現れた。
1856年に長期パテント権の買戻しを行った後、シンガーは都市部では会社所有の支店や総代理店を中心とし、農村部では短期的契約を交わした地域代理店および巡回代理店を核とした販売組織の構築を開始した。
1850年代~60年代のシンガー社はいまだ支店システムの試行中であり、その間支店所在都市を除くミシン販売は相変わらず地域代理店に依存していた。およそシンガー社は、ライバル製品の代理人である業者は拒否したが、競合しない製品を販売している商人であれば快く採用した。
1860年代以降の代理店契約は、本社と販売組織の間における希薄な関係を表している。契約書は1ページしかなく、わずか4項目から成り立っていた。契約には期間の定めがなく、理由のいかんを問わずどちらか一方から解約することができた。契約はシンガー社に対して代理店の業績を監視したり帳簿を監査したりする権限をまったく与えていなかった。
ひとたび会社が大衆消費市場へ参入すると、シンガー社は、分割払いのミシン販売で消費者信用を行うのに十分な資金を持たない代理店一般に対して信用を供与する必要性を認識した。シンガー社は代理店に対して当初考えていたよりも緊密に関わらざるを得なくなった。
ミシンは高価で馴染のないものであったから、製造業者がミシンの販売に成功するためには、末端の顧客に対して幅広いサービスの提供を行う必要があった。組立、微調整およびミシンの操作説明などのサービスは最低限の訓練を受けた代理店なら行うことができた。しかし、修理や消費者信用といった他のサービスがうまく遂行されるためには、本社と代理店の間に広範かつ継続的な連携が必要である。ミシンの型式数が増えるにつれて、会社と緊密な連携を持たない代理店にとって修理サービスはますます困難となった。

2. 1870年代以降の販売政策

 シンガー社や他の主要ミシンメーカーは支店の設立を展開したが、ミシンメーカーにとっては別の誘引もあった。都市のように高度に集中したミシン市場では、会社所有の支店は利益の出る販売拠点となることができ、かつ自社ミシンの評判を高めるのに貢献する広告塔としても利用できた。シンガー社やウイルソン社のような主要ミシンメーカーでは、主要支店内に大ショールームが入念に設置された。
シンガー社が販売組織に対し「厳格な中央管理」を維持させたことが、パテント・プール結成以降急速に利益を獲得した一つの重要な要因であった。シンガー社はミシンの小売価格を設定したことによって、また製品の販売というよりもむしろ製品の市場浸透を促進するために全国広告を広く利用したことによって、統一と統制の外観を生み出したのである。
アイザック・シンガーの死の翌年にあたる1877年に改組されたシンガー・マニュファクチャリング社の初代社長となったエドワード・クラークは、販売組織全体を本社の厳格な管理の下に置き始めた。彼は監視の強化が販売コストの低下につながるものと期待した。1860年代と70年代において、ミシンの販売価格はどんどん下落した。
クラークの計画は完成するまでに7年間を要した。その間、販売部門の極端な分権構造は、厳格な中央集権の管理構造に置き換わった。この組織変更によってシンガー社と代理店との関係に二つの変化がもたらされた。第一は、各地域の独立代理店は会社所有の店舗に転換された。第二は、特約店経由の販売を続けた地域では、シンガー社が特約店の活動に対し極めて厳格な管理を行ったことから、特約店はシンガー社の正規従業員とほとんど区別ができなくなったことである。
シンガー社の組織再編のお手本となったのは、シンガー社の英国総代理店ジョージ・ボールドウイン・ウッドラフの開発したシステムであった。ウッドラフは卸売業者経由の販売から脱却することによってこれを実現した。ウッドラフは代わりに、国中に小規模な小売店舗―独立および会社所有―のシステムを構築して市場を徹底的に開拓したのである。この計画では流通経路から卸売業者が排除されたために、販売量が高水準に維持されただけではなく販売コストも削減された。
ウッドラフの成功に刺激されたシンガー社の最高幹部は、米国市場に英国式システムが適用可能かどうかを議論するために1877年、国内代理店の総会を招集した。この会議の結果、旧支店と旧総代理店は統括事務所と呼ばれ、統括事務所は自身の存在する都市を除き、郡の中心地や販売地域の中で最も人口の多い町に会社所有の支店事務所を開設した。農村市場では会社所有店舗にするよりも代理店の方が経済的に安くつくことが知られていた。
シンガー社が応諾要求を行った唯一の分野は財務報告であった。クラークはすべての統括事務所と支店事務所に対し、在庫数や委託数および実販売数を本社に報告するように求めた。販売コスト低減のため、統括事務所、支店、代理店を巡回する移動監査員を設け、帳簿、領収書など精査すると共に本社に報告する制度をつくった。
1885年に組織再編が行われた。会社幹部達は各統括事務所の管理者に対し、最下層の販売員を管理している勧誘監督員には通常の手数料の他に「名目上の賃料」もしくは「オフィス賃料の代わりに名目上の給料」を支払うよう強く督促した。これから分かることは、所有というものが販売組織を構築するための唯一の手段でもなければ、最も有益な方法でもないことの認識が最高経営者層の間で高まりつつことである。
代理店が自身で店舗を所有し、自ら従業員を雇用・管理し、収入の大半を給与ではなく利益に依存していることは、法的には独立性を示すものであるが、シンガー社の経営者は、代理店を自社の厳格なコントロール下に置くことができるために、「自社勧誘員を所有し管理する」という目標をうまく達成したのである。シンガー社は巧みな契約によって代理店の活動を完全に掌握することができ、仮に契約条項のすべてを実行できない時は即座に代理店契約を解除できた。
シンガー社の最高経営者層は、シンガーという名前と関係をもつメリットが大きいがゆえに、如何に厳格なコントロールを行っても、会社はいつでも代理店になりたい人を見つけることが出来ると考えていた。

Ⅳ  結  論

 マコーミック社とシンガー社の経験は、製造業者が全国市場でビジネスを展開するとき、代理店システムの適用の仕方について両極端を示している。マコ-ミック社の場合、従来の代理店システムに修正を加える必要はほとんど無かった。農機具市場は巨大であって、しかも疎らに分散し、季節的特性を有していたために、代理店を厳格に統制することは不可能であった。他方、シンガー社の場合、伝統的代理店システムは比較的短期間を経て捨て去られた。代理店は人口密度の高い都市部では正社員の管理する会社所有の店舗に、また人口密度の低い農村部では厳格に統制された特約店に、それぞれ置き換えられたのである。
両社とも当初は代理店システムを採用しその後に販売組織に修正を行ったのである。両社にとって、代理店経由の販売は全国市場へ製品を売り出す効果的な手法であった。コストがほとんど掛からず、管理が容易で、しかも素早く構築できた。しかし、製品が全国レベルで販売される段階になると、両社とも販売員たちの活動について統制の強化を試みた。販売について効果的な統制を拡大したい願望と、販売費用を削減したいという願望とが拮抗した。この対立する二つの願望が均衡点に落ち着くのは、販売に関し会社所有方式が中止されて、代理店方式に移行した時であった。マコーミック社の場合、この緊張は卸売レベルで解消された。他方、シンガー社の場合、市場の大部分が都市区域内に集中していたために、特約店を徐々に廃止することは実際的に可能であった。
両社とも販売組織の形成に際し、所有なき統制が可能であることを次第に認識し、所有に基づかず代理店に対する厳格な統制に成功したのである。独立代理店が準独立特約店へ変貌していくステップとなった。マコーミックやシンガーのような会社が代理店に対して影響力を増大させることができた理由は、寡占化の進展によって、専門知識をもつ独立販売店にとって一緒にビジネスを行えるメーカーの数が極めて限られたからである。
19世紀末では、フランチャイジングは未だ揺籃期にあった。企業は全国市場で複雑なブランド商品を流通させる方法として代理店システムの限界を明確に認識し、代理店経由の販売方法を自らのニーズに適合するように修正した。だがマコーミック社もシンガー社も、まだ代理店システムを様々な形で修正した他のどの企業も、フランチャイジングという流通方法の実現の可能性を十分には理解していなかった。20世紀に入り、急成長しつつあった自動車産業がフランチャイジングの十分な発展へ導くのである 。


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