フランチャイズ時評バックナンバー

黒川孝雄の美

「揺りかごから墓場まで」~フランチャイジーの夢は広がる

 メガフランチャイジーとして著名なメガエフシーシステムズ(株)の中島康博社長にフランチャイジーの現状と将来について語ってもらった。 最初に、会社概要より簡単に全社の全容を紹介する。

設立 1968年7月
資本金 1億円
代表者 代表取締役社長  中島 康博
売上高 24億25百万円(2009年6月期)
従業員数 正社員 34名
  パート・アルバイト 88名(1日8時間換算、2009年6月末)
店舗数 5業態 28店舗
  吉野家 18店舗
  牛角  6店舗
  玄品ふぐ 1店舗
  あみもと大吉 1店舗
  介護事業    茶話本舗 2店舗

 会社概要から判る通り、外食中心のフランチャイジーから、最近では介護事業にまでウイングを広げている。

1. 生い立ちと父親

 社長は昭和1953(昭和28)年3月神奈川県生まれの57歳。
1975年に立教大学経済学部卒業、和食「さと」に入社。目的は調理技術を学ぶためである。
 この理由を説明するためには、父親中島利雄氏の経歴に触れざるを得ない。父利雄氏は昭和2年生まれ、早稲田大学理工学部卒業後、鮮魚卸し最大手の東京・築地の中島水産に入社、その後熱海・中島水産に転じた。この両社は父の叔父の経営する会社であり、この会社で修行を積んだ後、湯河原で旅館専門の鮮魚卸し会社を独立して始めた。
 市場の支払いは現金、旅館からの支払いは手形で、勘定合ってゼニ足らずの商売で、資金繰りは何時も苦しかった。そこで1968年に真鶴道路沿いに海鮮料理を提供する飲食店の開業を目的として(有)中島商事を設立し、磯料理「あみもと大吉」をオープンした。手形商売より日銭商売に転換したのである。
 父親は仕入れのため、築地市場へ毎日通っていた。そこで眼にしたのが大繁盛している吉野家であった。「早い、うまい、安い」を標榜する吉野家がFC店を募集していることを月刊食堂で知った。当時珍しかった吉野家のマニュアル経営にひかれたのである。1973年に(株)吉野家と「吉野家フランチャイズチェーン加盟契約」を締結し、フランチャイズ加盟店第1号となった。当時の吉野家は食材供給型のFCであったが、1975年に関内店の物件の紹介を受け、出店を決意した。同店は今でも営業を続けている。
 関内店以降の吉野家のフランチャイズ・システムは大きく変貌した。凡そ事業を営むためには、経営の3大要素であるヒト、モノ、カネが必要である。新しい吉野家の仕組みは、ヒト、モノは本部が差し出し、カネは加盟店が提供する「業務委託システム」であり、加盟店展開のスピードは上がった。

 「成功するメガフランチャイジー」杉本、伊藤著(同友館)では「1974(昭和49)年といえば第一次石油ショックの年であり、高度経済成長が行き詰まり、巷に不況風が吹き始めた年である。吉野家はこの不況を逆に利用して多店舗化を断行していった。これは、不況によって投資の行き場を失った地主たち資産家が、吉野家の委託経営に注目したせいであろう。5千万円投資しても5年で元が取れる(当時)うまい話に、地主たちが飛びついたのである」と柴田書店刊の「吉野家再建」を引用して説明している部分である。
 因みに「成功するメガフランチャイジー」では、第一世代メガフランチャイジーが加盟する代表的フランチャイザーとして、ケンタッキー・フライド・チキン、吉野家、ミスタードーナッ、オートバックス、TSUTAYAの5社を挙げている。

 父利雄氏は、鮮魚問屋、飲食店経営、吉野家加盟店の他、バー、喫茶店、スーパーの鮮魚売り場等を経営し、失敗も多かったけれどもそれを糧として和食では成功したと中島社長は懐かしそうに話してくれた。
 さて、その和食であるが真鶴の道路沿いに土地を買ってドライブインを開業すると言うもので、投資金額も大きく、家族は反対であったそうである。

2.中島社長のサリーマン時代

 ここまで述べればお判りの通り、社長は父親の経営する「あみもと大吉」の調理技術を身に付けるために、和食の「さと」に勤務したのである。調理人と飲食店経営者との関係について触れておきたい。この時代には、経営者と言えども調理には口出しが出来ず、厨房はすべて調理人が握っており、職人の世界には経営者は手出しできない関係であった。
 大庄の平社長の一生は、調理人に頼らない厨房技術の改革であった。高卒もしくは大卒の社員を雇い、自ら調理技術を教え、職人に頼らない居酒屋経営を実現したのである。
 中島社長の父親・利雄氏も調理人に頼らない厨房技術を息子に取得させ、職人からの開放を求めたのであろう。(これは筆者の推測)
 しかし、中島社長は「さと」でセントラル・キッチンや渥美氏の指導するチェーン・ストア理論に触れ、飲食業が「外食産業」としてインダストリー化していく時代を経験したのである。それは、父親が調理技術を内製化し、コックレスを希望したよりも、もっと先を見る結果となった。
 中島社長が大学を卒業した1975(昭和50)年は、日本の飲食業にとっては大きな変動の時代であった。それに先立つ1970(昭和45)年は記念すべき年であった。高度経済成長の真っ只中であり、「大阪万博」の開催された年、本格的フランチャイズが外資の自由化に連れて上陸した年、日本で外食産業が生まれた年、(すかいらーくの1号店が国立市にオープンした年)であった。
 「さと」の勤務は1年半。その後「吉野家」本部に勤務した。当時の吉野家の社長は松田瑞穂氏(故人)であり、「成功するメガフランチャイジー」では次のように紹介している。「当時の吉野家社長であった松田瑞穂氏は、生業から出発した飲食店の社長としては非常に近代的・合理的経営を志向し、チェーンの情報をオンライン化するなど吉野家を近代的外食業に脱皮させるべく経営努力を図った」
 中島社長によれば吉野家もチェーンストアー理論で武装され、違和感は無かったと話している。また、松田社長(当時)は従業員教育には熱心であり、「牛丼を科学する」「棚卸しは1日3回、日次決算を行い、しかもコンピュター化されていた。経営数値が論理化されて興味がわいた」と話してくれた。
 正に、日本の外食産業の立上げの時代の生き証人である。
 吉野家の新入社員として新橋店に配属され、店長は安部修仁氏(現吉野家HD社長)であった。吉野家に10年勤務する間に27回転勤した。成長の早い会社は、人使いも荒いものである。しかし、社内の人事昇進も早かった。店員、店長、スーパーバイザーを経て、25歳で仙台の地区本部長(ゼネラルマネージャー)に昇進した。
 吉野家は急成長した後1980年に倒産、会社更正法の適用を受け、その目途が付いた時にアメリカのボストン大学に1年間休職して留学した。ロスアンゼルスの米国吉野家の店でも勉強したそうである。
 結局、中島社長は吉野家に10年間勤務し、会社更生法の目途が立った中で退職した。会社が成長、破産、会社更生法適用という激動の中での10年間であり強く記憶に残るサラリーマン経験であった。退社と同時に、上記の中島商事の専務取締役として入社した。
 中島商事は1980年までに吉野家のフランチャイジーとして13店舗をオープンし、併せて「あみもと大吉」を経営する大手フランチャイジーに成長していた。
 サラリーマン時代に、「事業のやり方はすべて吉野家に学んだ。」そうである。
 しかし、吉野家勤務は中島社長の人生経験で大きなエポックであった。
松田瑞穂社長(当時)、安部修仁店長(当時)、父親中島利雄氏、それに後ほど加盟するモスバーガー桜田慧会長(故人)から大きな影響を受けている。
 会社沿革を見ると、1995年以降再び吉野家の加盟店加入が再開されているところをみると、吉野家のフランチャイズ展開が再度軌道に乗り出したことが判る。

 吉野家がフランチャイズ加盟を中止している間も、企業の成長を止めることは出来ないので、中島専務は業態転換を考えた。サンマルク、高田屋、牛角を出店したが、現在残っているのは牛角(6店)のみである。「選択と集中」戦略が始まったのである。

3. メガエフシーシステムズ(株)の設立と多角化

 2000(平成12)年にファーストフーズ株式会社(形式上の存続会社)は(有)中島商事(本店所在地神奈川県湯河原町、実質上の存続会社)及び(有)中島商事(本店所在地小田原市)を吸収合併し、メガエフシーシステムズ(株)に商号変更し、中島康博氏が社長就任、本店所在地は神奈川県相模原へ移転。
 商号変更の目的は、言うまでもなく株式公開であった。しかし、2003年12月発生の米国発のBSEで、計画は振り出しに戻った。
 アメリカ牛の輸入停止に伴い、吉野家は主力の牛丼を販売停止し、豚丼、定食等でしのいだ。加盟店の経営内容は聞くまでもなかった。吉野屋は再び出店停止をした。
 新しいビジネスとしては玄品ふぐ(1店)に加盟した。また、セイエンタープライズが展開する「七夜月」とライセンス契約を締結して3年間営業した。ライセンス契約とは「パッケージライセンス」とも呼びブランド、店舗内外装、メニュー等一式を本部企業が提供するが、フランチャイズ契約とは異なり、継続的指導は行わない、通常メニュー開発も行わない、食材提供も行わない、という契約であり、開業支援のみを行うものである。メガエフシーシステムズのような飲食業の経験者には向く営業形態と考えられていたが、中島社長は3年で営業を中止した。
そもそも、中島社長がライセンス契約を結んだのは、いずれ自社業態の飲食業を開発する手段として考えたものと推察している。筆者の見るところ、凡そすべての飲食フランチャイジーは、自社業態の開発を志向するものであり、殆どのフランチャイジーは、自社業態開発には失敗している。唯一成功しているのは、愛知県西春日井市に本拠を構える「チタカ・インターナショナル・フーズ(株)」の「パステル」のみであると断言しても大過ないと思う。
中島社長が「七夜月」を3年間で廃業した理由は多くを語らないが、ただ「私には創造性が欠けていた」とのみ述べられた。察するに、新商品開発、新食材開発、複数の問屋との間の物流網の構築等フランチャイズ本部として必須の機能開発には莫大な費用が掛かり、到底独自に開発できるものではないことに気付いたものと思われる。昨年のフランチャイズ・ショーでお目に掛かった時に、「フランチャイジーに徹することが一番である。やはりロイヤルティーを支払った方が安い」と言われたことが真相であろう。
 中島社長のような飲食業のベテランが、ライセンス契約を破棄したことは、筆者の眼には「もはやライセンス契約は論ずるに足りない」という確信に変わった。
 メガエフシーシステムズのフランチャイズ選択の基準を聞いてみた。それは、次のような基準であった。

①より良いものを、より多くの人に、より易く

②所得ピラミッドの中間層より下の層が利用する業態

③トップが描く展望に共感できるかどうか。

④SVがトップの夢を理解し、業務にそれを反映しているかどうか。SVを非常に重視している。

⑤直営店のP/Lの公開を求め、公開しない本部には加盟しない。

⑥FC加盟店のヒヤリングを行う。本部の方針が加盟店の経営に生かされてい
るかどうか、利益が出ているかどうかを判断する。

⑦従業員が楽しそうに働いているかどうか。

⑧最終決定は本部のトップ面談である。

日本の外食産業の将来展望を聞いてみた。中島社長の回答は次のようなものであった。
 外食の規模は日本に住む人たちの胃袋の大きさに比例する。少子高齢化を考えると、日本の外食はオーバーストアーである。更に外食のみではなく、中食、コンビニも同じ胃袋を狙っているので競争相手である。弁当店、コンビニ、スーパーの弁当が低価格で売り出している。このような環境下で、成長を維持することは難しい。
 外食フランチャイジーが海外進出することも選択肢としてはあるかも知れないが、無理に外食で成長を維持するよりも、フランチャイジーとして考えれば成長戦略はある。
 メガエフシーシステムズは中島塾と呼ぶ従業員教育システムが有名であった。
これは、現在も生きており、新入社員を対象に年間3回開催される。テーマは次の通りである。
①なんのために働くか    1回3時間   中島社長の講話
②QSCとは                  ″      ″
③お金を儲けるとは          ″      ″

4.介護事業への参入

 会社沿革によれば2007年11月に(株)フジタ・エージェント(現株式会社日本介護福祉グループ)と茶話本舗フランチャイズ加盟契約を締結し、神奈川県小田原市に「茶話本舗・デイサービス小田原浜町」をオープン、2008年には「茶話本舗・デイサービス小田原成田」をオープンしている。
 元来、父親から「あみもと大吉」の従業員のために介護老人ホームを経営しないかと言われたことがあった。しかし、外食で「行け行け」の時代であったため、その意見を聞くことにはならなかった。しかし、外食も難しい時代になった。食材リスクが高くなり、例えば中国産食材、食品偽装など課題が多い。衛生面の投資も多額になり、採算的に厳しい局面も現れた。
 マーケットを見ると子供が減って、高齢者が増加している。とに角老人が増加し、介護のフランチャイズは将来有望であると考えた。その時、小規模多機能介護事業を展開する「茶話本舗」の話を聞く機会があり、加盟を検討した。そのフランチャイズ本部の姿勢は当社の経営理念に適合しているのでフランチャイズ契約を締結することとなった。
 小規模多機能介護事業とは、1日10名までの介護規模である。介護保険適用は朝9時より午後4時までであり、それ以外の時間帯は介護保険外である。即ち、時間延長、お泊りは保険外である。茶話本舗では、延長時間1時間当り100円、泊まり1泊800円である。この時間延長とお泊まりサービスは介護者を送り出す家族にとって大きなプラスである。働く人は16時まででは困る。時間延長がないと働けない。
 では、メガエフシーシステムズの介護の実態はどうなっているのであろうか。介護度は1から5まである。2店舗の平均で介護度は3.5であり、結構介護度は高い。月間売上高の最高は1拠点で390万円であり、経費は人件費が一番大きな費目であり、売上高の50%を占める。1拠点の必要人員は正社員4名、パート・アルバイト3名で、外食とは正反対の人員配置である。売上高が高ければ利益は出るが、その売上高に上げるまでには時間を要する。茶話本舗の最大の特徴は365日、24時間営業(これは吉野家では常識である)であり、他社との差別化になっている。
 介護事業の最大の課題は人材確保であり、中島社長が選んだ小田原市は地の利があり、時期的にも人材確保に大きな問題もなく、非常に恵まれた開業であったそうである。
 介護ビジネスの成功のポイントは、次の7点に要約された。
 ① 人材の確保と教育
 ② 人材育成は経営教育であり、介護従事者の給料は利用者から戴いていることを徹底することであり、換言すればサービス業の基本を教育することである。
 ③ 物件は働き手を集めるために、交通の便が良い場所が望ましい。 昭和の香りがする古民家が一番良い。利用者には日常から日常への移動であり、不安感がない。かえってホテルのような豪華な施設には不安を覚える利用者がいる。
 ④ 従業員任せでは駄目。トップ自らが介護実務を経験しなければならない。
 ⑤ 始めたからには失敗は許されない。利用者に迷惑を掛けてはいけない。 
 ⑥ 初期投資は掛けない。機械設備は最低の投資に抑える。
 ⑦ 人材は新規に募集する。既存の外食からの転用は考えなかった。採用はトップ自身がやることが大切である。

 介護ビジネスの将来性や方針について聞いてみた。
 ① 市場の将来性は大きい。医療の発達による長命化で、老人は更に増加する。
 ② 中国でもいずれ高齢化社会となる。介護の仕組みは海外でも利用できる筈である。
   ③ 介護の仕組みで、人は集まる。この仕組みを選んだ私は恵まれていた。
 ④ 元気な中高年者に働いてもらう。これは中高年者の自立支援業であり、時代の要請に応えるものである。
 ⑤ 飲食業で自分が学んだことはすべて生きている。活力再生の場になっている。

5.フランチャイジーのビジネスチャンスは「揺りかごから墓場まで」

 日本の外食産業の創業時から関わってきたが、フランチャイジーには無限の広がりがある。現在の外食産業は厳しい局面に立たされているが、眼を転ずれば無限のマーケットが広がっている。
 生活シーンとしては、正に「揺りかごから墓場まで」がフランチャイズ・ビジネス化される。(現在なくても将来はフランチャイズ化されるであろう)例えば、幼稚園、保育所、学童保育、学習塾、お葬式など民間に任せればより良いサービスが提供できる場は沢山ある。
 ビジネスチャンスは「揺りかごから墓場まで」ある。自分のビジネスのゴールは飲食だけでは無い筈である。勿論、自分の能力には限界があるので、何でも出来る訳ではないが、学童保育のようなビジネスにも興味がある。
 フランチャイジーは既存の枠に縛られることなく、思い切った多角化をする時代ではないだろうか。

 なお「メガフランチャイジー」という用語は、「成功するメガフランチャイジー」(同友館)で用いられた次の定義に従った。(P8)
「メガフランチャイジーとは加盟店舗数30店舗以上または売上高20億円以上のフランチャイズ加盟企業を言う」

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