バベルの塔展(1)

東京都立美術館で、ボイスマン美術館所蔵の「バベルの塔」展が7月2日まで開催されている。オランダ絵画については、17世紀の南のルーベンス、バンダイク、北のレンプラント、フェルメール程度の知識しか持っていない私には、それより古いオランダ絵画を見るのは初めての経験であった。「初期ネーデルランド美術」とうたっているが、そもそもネーデルランドとはどの場所を指す言葉だろうか。図録の説明によれな、ネーデルランド(低湿地諸邦)は、およそ現在のベルギーとオランダに相当する地域であり、政治的に融合された地域ではなく、南(現在のベルギー地方)はフランス伯領、ブラバンド公領、北(現在のオランダ)はユトレヒト司教領、ヘルデルン公領、ホラント州、ゼーラント州が割拠していた。14世紀末以降はこれら所領の多くがハプスブルグ家の領土に組み込まれ、1543年にはハプスブルグ家出身の神聖ローマ皇帝カール5世が最後の州を征服し、17州の名で呼ばれる国家が創設された。しかしやがて各地域の伝統、法律、社会体制を犠牲にして中央集権制度を強化しょうとする皇帝の試みに抵抗運動が起こり、これらが特に都市部での反乱へと繋がっていく。低地諸邦はヨーロッパでも最も都市化の進んだ地域の一つだった。15世紀にはヘント(ゲント)とブリュッセル(ブリュージュ)、16世紀にはアントウエルペン(アントワープ)とブリッヘ(ブリュージュ)が最大の規模を誇るようになった。北部の諸都市、ユトレヒト、アムステルダムは遅れをとった。当然、宗教画が一番もてはやされたが、1500年頃になると、「奇想の画家」と呼ばれるヒエロニムス・ボスが最も有名な画家となり王侯貴族や富裕な貿易商が顧客となった。ボスは、大胆に自作に署名した最初のネーデルランド出身の画家となった。

放浪者(行商人) ヒエロニムス・ボス作 油彩・板  1500年頃

ヒエロニムス・ボスは、日常生活の風景を始めて絵に描いた画家の一人である。この絵でボスが描いたのは行商人で、背負子(しょいこ)を結んだものから判断すると、猫の皮と木の杓も商うようである。帽子に錐で糸を留めているから、靴の修繕もするのであろう。服がほころび、左右不揃いの靴を履いているには、貧しいからに違いない。この男は、背後の荒れ果てた建物で、金を使い果たしてしまったのであろう。鳥籠の中のカササギは、屋根の棟に刺した棹の先に掛るジョッキ、鳩小屋と白鳥のの看板とくれば、これは娼婦の家であることは一目瞭然である。男が宿から今しも出てきたところか、それとも通りすがりか、あるいは後戻りを思案中か、知る術がない。最新の解釈では行商人は男性一般を象徴する。男は誰しも、ありとあらゆる誘惑にさらされる。ここではそれがもっぱら色事にまつわる。絵が円形なのは、おそらく鏡を仄めかすのだろう。元々この作品は三連画の両翼の外側に描かれた2枚の絵であった。これら3練画は、おそらく19世紀に、いくつかに切り分けられた。両翼の外側の2枚の絵は接着されたうえで、切り詰められたに違いない。一部を切り取って八角形にしたのが誰であれ、「放浪者(行商人)」に当初から独立した作品として描かれたという印象を与えたいと願ったに違いない。

聖クリストフォロス  ヒエロニムス・ボス作  油彩・板  1500年頃

巨人レブロスは世界で最も力のある人に仕えたいと願い、危険な川を渡ろうとする旅人を背負い、対岸に送り届けていた。ある日、小柄な少年を向こう岸に連れて行くことになったが、歩むほどに少年の身体は重くなり、対岸に着くのがやっとのありさまであった。レブロスが少年になぜそれほど重いのかと問うと、世界と世界の創造者をともに背負ったからと返答があった。巨人はクリストフォロス(キリストを担う者)に改める。ボスは赤い外衣をはためかせ、大股で川を渡る巨漢の姿を描く。手にする杖から生える小さな葉は、少年が真に神の子であることを示すため、枯れ枝に生やしたものである。キリストの最古のシンボルの一つである魚が、杖に吊るされ血を滴らせている、これはキリストが十字架につるされて死ぬことを指している。隠者の背後の木には奇妙なものがこまごまと描かれ、たとえば巨大な水指しの頸部に第二の隠者と思わしき小男が立ち、灯をともしたランプを結わいたロープを枝にかけて狼煙にしている。水の周辺では、小男が蜂の巣に近づこうとする。木の根元近くに繋がれた狐の死骸は、別の木の枝に吊るされようとしている射殺された熊と同様、悪に対する勝利を示すものとも考えられる。色々と不思議な現象や物が目立つ絵である。このボスに倣った絵が沢山出品されていた。ボスの影響力が窺える。それは「ボスのように描く」という第5章にまとめられている。

野ウサギ狩り ピーテル・ブリューゲルⅠ世作  エッチング  1560年

この作品はブリューゲルが図柄を考え、自ら版刻した唯一の版画として名高い。手前の丘から峡谷超しに広々とした風景を望むことが出来る。前景に少人数の人の姿がある。ブリューゲルの緩やかな描写、無数の短い筋や点を伴う不揃いな線の扱いは当時としては珍しく、17世紀のレンプラントの作品に見られる自由なエッチングを予感させる。これによって素晴らしい光の効果も生まれた。

聖アントニュウスの誘惑 ピーテル・ブリューゲルⅠ世作  1556年

聖アントニュウスはエジプトの砂漠で隠遁生活を送った修行僧である。紀元356年に没した後、聖人として敬慕された。伝説によると、アントニュウスは悪魔が徳義に至る道を踏み外させよと企み繰り出すありとあらゆる誘惑に見事うちかった。悪魔の仕掛けるこうした誘惑は、画家の絵心を大いに誘う。この版画でブリューゲルは自らの想像力ばかりではなく、ヒエロニムス・ボスの得意としたモチーフの宝庫を存分に生かした最初の作品である。多くの作品には聖アントニウスを誘惑しようとする女性が描かれるが、ここでは木のうしろで楽器を奏でるひとりを除いて登場しない。何より目立つのは無論、川中に浮かぶ巨大な男の頭で、巨大な魚を載せ木まで生やして奇観をなしている。

金銭の戦い ピーテル・ブリューゲルⅠ世作  板版   1570~72年

「貯金箱よ、樽よ、金庫よ、いざ進め/この闘いも、すべて金と財産のため」。この版画の銘文の意味するところは明らかだろう。すべての悪弊の源は強欲にある。金欲しさのため、人々は我勝ちに烈しく闘う。半身を巾着、財布、金庫に変えた兵隊や騎士たちが、剣、短刀、槍をかざして互いに切り刻む。ユーモアと教訓が手を取り合い、画面にひしめくこの版画はブリューゲルの原画をもとに、作者の没後間もなくアントウエルペンのピーテル・ファン・デル・ヘイデンの手によって彫版され、ヒエロニムス・コックの未亡人により出版された。この作品は、ネーデルランドの交易の中心地アントウエルペンでは、商業、金融が栄えた。ブリューゲルはそうした活動をこの暗部ー強欲、蓄財、私欲ーを創意豊かに暴露し、笑い物にしたのである。しかし、私は、ここから逞しく資本主義が生まれたのだと思う。

バベルの塔  ピーテル・ブリューゲルⅠ世作  油彩、板  1568年

今回の展覧会は、この絵を見る為に、私は半日を費やしたのである。実に見事な絵であり、感激した。旧約聖書の冒頭に「創世記」がある。その中身は「アダムとイブの原罪」、「楽園追放」、「アベルを殺すカイン」、「ノアの洪水」、そして神話的部分の最後に当たるのがこの「バベルの塔」である。この物語の骨子は、思い上がった人々による「天まで届く塔」の建設を試み、その高慢さに立腹した神は「言語の混乱」により、互いの言葉を理解出来ないようにして全地に散らせたのである。「バベルの塔」は多くの画家によって描かれたが、ブリューゲルは2作を作っている。彼はイタリア留学の際に見たローマのコロッセイムは下書きになったことは間違いあるまい。旧約聖書が初めて印刷されたのは15世紀紀後半であった。以降、多くの画家がこれを描いたが、ブリューゲル以前は四角い低層の塔として描かれていた。ブリューゲルの描いた螺旋状の巨塔を目にした当時の人々は、さぞ驚いたことであろう。バベルの塔は、人間の高慢に対する教訓としての物語である。戒めを強調するため、神々の怒りが強風となって塔を崩壊させる様子を描く画家もいた。しかしブルューゲルはむしろ、物語の途中である塔の建設場面を描いている。ボイスマン美術館のシャーレル・エックス館長は「神の怒りよりも、人間が挑戦する場面を選んでいる」と話す。他の追随を許さぬブリューゲルの特徴は「マクロとミクロの統合」である。すなわち巨視的な視点に基ずく大胆かつ明快な構図とディテールにおける驚くべき細密描写が無理なく両立している。「バベルの塔」に描かれた人間の数は1400人に及ぶという。豆粒よりも小さい人々が描き込まれている。ブリューゲルは螺旋状に塔を描くことにより、まるで無限大に、塔が拡大できるように思わせる。兎に角、16世紀の絵画とは思えない壮大な「バベルの塔」である。

 

ブリューゲルの「バベルの塔」は、何故螺旋だったのか?この絵画のバベルの塔の巨大画面を制作した東京芸術大学大学院教綬の宮廻正明先生は「ブリューゲルが表現したかったのは螺旋のエネルギー」と分析している。「螺旋は無限に上昇する構造で、永遠の時間や進化の営みを含意します。塔が未完なのも、螺旋のエネルギーには終わりがないからでは」。バベルの塔は、人間の愚かさに神が鉄槌(てっつい)を下す物語である。天に届かんとする塔の建設を企てた人間への制裁ー。実はブリューゲルが絵の舞台にしたとされる当時のアントワープは国際貿易のハブとして盛期を迎え、建設ラッシュだった、とすると、この絵には人々の戒めの意図もあったのか。「確かに戒めの意もあるでしょう。でも鉄槌が下る前の良き時代をポジチブに振り返る絵、とも解釈できる」と、ボイスマン美術館のフリーゾ・ラメルツさんは語る。「宗教革命で価値観が揺らぎ、また、制作年のまさにその年、オランダではスペインから独立すべく80年戦争が勃発した。崩れるものへの警告であると同時に、人々が協力して作り上げるバベルの塔は、希望の象徴でもあったのではないでしょうか」と語る。

 

(本稿は、図録「バベルの塔 2017年」、図録「栄光のオランダ絵画と日本 1993年」、日経大人のOFF「2017年1月号」、朝日新聞号外「別摺り特集」、岡崎邦彦「繁栄と衰退」を参照した)

新薬師寺   十二神将の寺

奈良市街地の南東方の高畑町にある寺院である。かって、志賀直哉がここに住み「暗夜行路」の筆をとった所である。だらだらと数百メートルの歩んだ先に、崩れ落ちた土塀に沿った小径を愉しみながら歩くと、新薬師寺の東門に着く。それを過ぎて右へ曲がると、南門に達する。「新」薬師寺は、薬師寺と混同を防ぐために「新」と付けたという意見と、「新」には「大きい」という意味があると説く人がいるが、どちらが妥当かは私には分からない。この寺の創建については正史(続日本紀)は何も語っていない。平安時代末頃に成立した東大寺要録という本によれば、天平19年(747)3月、聖務天皇の御病気平癒の祈願として、光明皇后によって建立されたものと伝える。丁度、大仏鋳造が行われた年である。東大寺要録には、次のように伝える。                         十九年丁亥三月、仁聖皇后、縁天皇不予  新薬師寺並造仏七仏薬師像     また   新薬師寺亦名香薬師寺   仏殿九間在七仏浄土七躯 左寺仁聖皇后之建立也  実忠和尚西野建石塔、為東大寺別伝、云々             とあり、仁聖皇后というのは光明皇后の諡名(おくりな)である。この寺の規模は良く判らなかったが、「仏殿九間」といい、宝亀11年(780)落雷により西塔・金堂・講堂を焼失したという。この要録の記事から察すると、東西に塔を備えた七堂伽藍完備の大寺院であったことがわかる。(詳細な歴史については、最後の文章で詳しく解説する)現在の本堂は、宝亀11年(780)の雷火に焼け残った、この寺唯一の天平の建物だが、果たして創建当初の何に当たるのであろう。金堂などの主要建物ではなく、食堂(じきどう)かなにか焼け残ったものであろう。

重要文化財  東門   木造・本瓦葺        鎌倉時代

お寺は、大半が焼け衰退したが、鎌倉時代になって解脱(げだつ)・明恵(みょうえ)両上人が一時この寺に住んだ時、再興した。東門、南門、地蔵堂、鐘楼がこの時期に建立された。

重要文化財 南門  木造・本瓦葺           鎌倉時代

現在の新薬師寺の表門であり、この南門から見る本堂正面は、素朴でしかもゆったりとした優雅な気風をたたえる。

重要文化財  地蔵堂  木造・本瓦葺        鎌倉時代

地蔵堂、鎌倉時代に、この新薬師寺に造立された。景清地蔵菩薩像と通称する鎌倉時代の菩薩像が有り、明治22年(1869)に近隣の地蔵堂から遷されたものである。昭和58年(1983)に。この像の解体修理を行ったところ、内部から裸形像の体部が発見された。納入文書により、この像は興福寺別当を勤めた実尊の追善のために弟子の尊編が造らせたことが判明した。「おたま地蔵」として寺内の香薬師堂に安置している。

重要文化財  鐘楼  木造・本瓦葺        鎌倉時代

解脱(げだつ)・明恵(みょうえ)両上人が、この寺に住んで再興した時の建造物であり、時代を感じさせる建物である。鐘楼の風情はなかなかのものである。

国宝  本堂  入母屋造、本瓦葺         奈良時代(8世紀)

やや本堂にしては屋根が低い印象である。この堂は宝亀11年(780)の雷火に焼け残った、この寺唯一の天平の建物である。果たして創建当初の何に当たるのか。二重壇の上に七間と五間、単層入母屋本瓦葺きの屋根を乗せてしっかり建てられた安定感や、伸び伸びとした大棟、ゆるやかな屋根勾配、深い軒の出、太く簡素な柱と木組みの線、天平建築のみが持つ気品と体臭を感ずる。同時代の唐招提寺金堂とやはり時代的に通じる共通した気品を感ずる。より以上に簡明であるのは、もともとこの堂が、金堂などの主要建物ではなく、食堂(じきどう)か何かの焼け残ったものであるためなのだろう。内部はカワラ敷きの土間、中央五間・二間が内陣で、周囲の一間通りが外陣になっている。内外陣とも化粧屋根裏で、大杜、肘木、虹梁、又首などの構造法はいずれもいたって簡単に要領よく間とまとめられており、外観のみではなく、その内部からも天平の気品が満ちあふれている。

国宝本尊薬師如来坐像と十二神将造平安時代と奈良時代(8世紀)

内陣の中央、白漆喰でつき固めた円形の土壇という珍しい仏壇の上に本尊薬師如来像(国宝・平安時代)であり、これを取り囲むようにして十二神将が円形を描いて安置されている。塑像十二神将立像(国宝・奈良時代)。約1・8メートルの塑像群が、円陣をつくって思い思いの姿態で立っている様はまさに圧巻である。十二神将は薬師如来の十二本願を守護する武将たちで後世もその作例は多いが、塑像で、しかも等身大の堂々たる法量を持ち、写実とともに内造する精神を持ち、制作年代も奈良時代であるというこれらの像に勝るものは無い。十二神将の白眉の像である。これらの像は、元来、この新薬師寺に伝わったものではなく、もと高円山にあった岩淵寺が荒廃したので、ここに移しものだと言う。十二体のうち波夷羅大将の一体は最近の後補であり、国宝ではない。十二神将の塑像の美しさもさることながら、この円陣を組む構成の美しさは他に比類を観ないものと思う。

本尊  薬師如来坐像  木造      平安時代初期(8世紀末頃)

制作年代は記録が無く不明であるが、新薬師寺の創建期までさかのぼらず、平安時代初期・8世紀末頃の作と見られる。坐像で高さ約2メートル近い。頭、躰の主要部分はカヤから造り出し、これに脚部、両脇の一部を繋ぎ合わせるように造られている。一般の仏眼に較べ眼が大きいのが特徴で、「聖務天皇の眼病を光明皇后が眼病平癒を祈願して新薬師寺を創建した」との伝承がある。(まったく逆の伝承もある)昭和50年(1975)の調査の際、像内から平安時代初期と見られる法華経8巻が発見され、国宝の「附(つけたり)」として指定されている。光背には六体の化仏が配されていて、像本体と合せると七体となり「七仏薬師経」を表現していると見られる。(詳細は、後の文章を参考にしてもらいたい)

国宝  十二神将像のうち迷企羅(めきら)像       奈良時代(8世紀)

十二神将と言えば、迷企羅像である。本尊に向かって右側に立つ迷企羅(めきら)像は、私の好みであり、カット眼を開き、怒りを表す像の魅力は最大である。会津八一氏は鹿鳴集の中に歌を残している。「たびびと に ひらく みどう の しとみ より めきら が たち に あさひ さしたり」やはり会津八一氏も、一番好んだ神将だったのであろう。それどころか、入江泰吉氏も、迷企羅像の、素晴らしいカットを残している。十二神将のすべての写真があるが、この像のみで、他は類推して頂きたい。

国宝  十二神将立像のうち迷企羅像    奈良時代  入江泰吉氏撮影

入江泰吉氏は、氏の写真集である「入江泰吉大和古寺巡礼 全6巻」の内の「第1巻 平城京」の中の「新薬師寺・十二神将」の項で、迷企羅像の写真を出して、次のように述べている。「本尊薬師如来を取り囲む守護神、十二神将のなかでも特に傑出した天平期の仏像である。悪魔を取り払う勇猛さが全身にみなぎって、私の好きな仏像の一つである。」この入江泰吉氏の言葉を見つけた私の思いは、いかばりであったろうか。入江泰吉氏は、昭和20年代に大和古寺巡礼をした者にとっては、神様のような存在であった。その思いは今も変わらない。

国宝  十二神将  迷企羅像   彩色再現CG  奈良時代

彩色は、奈良県立大学の研究者が色付けしたものである。「三次元レーザー計測で迷企羅大将の三次元化を行い、鮮やかに彩られていた天平時代の彩色を再現した」と説明している。尚、お寺では、この彩色の過程をテレビ化して、映像を流している。しかし、このまばゆいばかりのメキラ神将は、私には違和感が大きい。

今は無き香薬師像

このお寺には、もう一体の代表的な仏像があった。白鳳期の造仏を代表する傑作であった。この仏像は、小さいためか、可愛いためか、明治期に2回盗難にあい、2回とも短期間に発見された。しかし、昭和18年(1943)に盗難にあったまま、行方が知れない。もう70年以上経過するので、発見は難しいと思われる。誠に痛恨の極みである。白鳳仏の愛らしいお姿であるだけに、痛ましい。現在は、模作が展示されている。

会津八一氏歌碑                昭和時代(20世紀)

この無くなった香薬師像を会津八一氏がうたった歌碑である。「ちかづきて あふぎ みれども みほとけ の みそなわす とも あらぬ さびしさ」

重要文化財 十一面観音菩薩立像  木造彩色  平安時代(11世紀)奈良国立博物館寄託

平安時代初期の代表作である国宝・薬師如来坐像を安置する新薬師寺本土に伝来し、ある時期に薬師寺像の脇侍として安置されていた。きわめて保存状態の良い像で、頭上面の大半や体側を垂加する天衣(てんね)の遊里部、表面の彩色、また光背、台座まで当初のものを伝える。腹部に塑土(そど)を盛り上げて成形する珍しい技法を併用する。木製の板光背を負うことや、胴板切抜きの宝冠をつけるところなど、室生寺金堂の十一面観音像に通ずる。室生寺像に比べ制作年代は1世紀近く降るかもしれないが、南都の技法の伝承があったことを推測させる。この素晴らしい十一面観音菩薩立像が、万一新薬師寺の薬師如来坐像の脇仏として立っていたら、観光客は、現在の10倍になったであろう。それほど素晴らしい菩薩像である。これお奈良国立博物館で発見した時は、正に天にも昇る気持ちであった。この寄託仏の写真をお見せするのは、多分私が最初だろう。

重要文化物 准聤観音(じゅんていかんのん)菩薩立像 木造 彩色 平安時代(10世紀)奈良国立博物館寄託

千手観音として指定されているが、儀軌(ぎき)に合わず、准聤観音(じゅんていかんのん)である可能性が考えられる。サクラ材を用いた一木造りの像。原材の丸太を思わせるような体形や、像内に丸枘穴(まるほぞあな)をあけて台座から出した枘を差し立てる仕様など、平安時代中期の特徴が認められる。現在の表面の彩色は少し下った時期のものとみられ、光背も鎌倉時代の補作であろう。台座の蓮弁の一枚に天禄元年(970)の墨書銘があり、これを造像年と見なす見解がある。奈良・新薬師寺蔵(多分、これは新薬師寺の関係者が戦後、売りに出したものが文化庁の手に入ったものであろう)そういう意味で、この観音菩薩像は、戦後の荒れた人心を示す見本であろう。(新薬師寺が荒れていた時代があったそうだ)なお、私見として、この2体が本尊の両脇に立つ侍仏と見たい。(そうなれば、国指定通り千手観音菩薩立像と見ることができる)

 

正史に創建時の歴史が記録されないため、平安末期に成立した東大寺要録で、この寺の歴史が語られることが多い。東大寺要録によれば、新薬師寺は東大寺の末寺であり、同書の巻1には「天平19年(747)、光明皇后が夫聖務天皇の病気平癒のため新薬師寺を建て、七仏薬師像を造った」とある。同書巻6・末寺章によれば、新薬師寺は別名香薬師寺といい、九間の仏堂に「七仏(薬師)浄土七躯」があったと言う。「続日本紀」によると天平17年(745)9月に聖務天皇の病気平癒のため、京師と畿内の諸寺に薬師悔過(けか)の法の実施命じ、また諸国に「薬師仏七躯高六尺三寸」の造立を命じている。新薬師寺の創建は、この七仏薬師造立の勅命にかかわるものと見られている。先に述べた通り、新薬師寺には香薬師寺という別名があったと伝えられているが、「正倉院文書」によれば、これとは別にやはり光明皇后創建と伝える「香山寺」という寺の名が見られる。正倉院には、東大寺の寺地の範囲を示した[東大寺山偕四至図」という絵図がある。この絵図を見ると、現・新薬師寺の位置に「新薬師寺」、東方の春日山中に[香山寺」の所在が明記され、絵図が完成した天平勝宝8年(756)の時点では、この両寺院は併存していたことが明らかである。福山敏雄博士は、次のように説明している。「続日本紀天平17年(745)9月の条に聖務天皇不予のため京師・畿内の諸寺及び緒名山浄所において薬師悔過の法を行わせたのは,香山寺が京師近傍のため、それにあたるのではないか。その後更に、皇后の御願として西方の平地に大規模な七仏薬師堂が建てられ、これを新薬師寺と呼び、香山の上の堂との由緒上つながりによって、香山薬師寺とも称されたものと考える。こうして七体の薬師像を本尊として規模を誇った新薬師寺も宝亀11年(780)金堂・講堂・西塔を雷火に失い、延暦12年(793)東大寺領の中から百戸を割いて修理料にあてた等の記事が見える。応和2年(1162)、台風のために金堂以下諸堂が倒れた後は、昔年のおもかげを失った。その後、鎌倉時代になって解脱(げだつ)・明恵(みょうえ)両上人が一時この寺に住した時に再興し、東門、南門、地蔵堂、鐘楼(いずれも重文)が建立された。平成20年(2008)、奈良教育大学の校舎改築に伴う発掘調査が行われ、同大学構内で新薬師寺金堂跡と見られる大型建物跡が検出された。同年10月の奈良県立大学の発表によると、検出された建物跡は基壇の規模が正面54メートル、奥行27メートルと推定され、基壇を構成したと思われる板状の凝灰岩や、柱の基礎を支えていたとみられる、石を敷き詰めた遺構などが出土した。当地は現・新薬師寺の西約150メートルに位置し、先に述べた「東大寺山境四至図」にある新薬師寺の七仏薬師堂に相当する建物跡と推定されている。更に十二神将像について、会津八一氏は南京新唱の注で、次のように述べている。「本尊薬師如来像を囲む十二神将は、本尊よりも古き様式を持つのみならず、廃絶せる岩淵寺より移入せるという伝説あり。またこの寺の最初の十二神将は、何の時か興福寺の衆徒のために奪い去られて、その寺の東金堂の段上に陳列され居りしことは、保延6年(1140)の「七大寺巡礼私記」に記しあれども、これ等の神将像は、かの治承4年(1180)の罹災によりて全滅して、今また見るべからず」誠に、この寺の十二神将像は、多難な歴史を辿って、私たちに美しいフォルムを見せてくれているのである。

(本稿は、青山茂他「大和古寺巡礼」、会津八一「自注鹿鳴集」、探訪日本の古寺第12巻「奈良Ⅲ」、入江泰吉大和古寺巡礼「第1巻 平城京」、原色日本の美術「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」を参照した。)

畠山記念館  茶の湯の名品ー破格の美・即翁の眼 

今年に入って「茶の湯」に関する美術展が非常に多い。国立近代美術館「茶碗の中の宇宙 楽家一子相伝の芸術」(3月14日~5月21日)、東京国立博物館「特別展 茶の湯」(4月11日~6月4日)、出光美術館「茶の湯のうつわ」(4月15日~6月4日)等大型美術館が、「茶の湯」美術展を開催し、いずれも若い人達であふれている。一方、近代の数寄者ー畠山即翁の美術品を集めた「畠山記念館」は「茶の湯の名品ー破格の美・即翁の眼」(4月8日~6月18日)は、名品を展示しているのに、来客の数は少ない。私は、5月25日(木)の午前11時頃に入館したところ、せいぜい10名程度の入館者で、空いていた。今回は、創建者の畠山即翁の茶道具コレクションから、誰しも名品と認める極め付きの逸品が多く展示されていた。国宝、重要文化財も多く含まれていた。例えば、「重文 伊賀花入 銘からたち」など、破格の造形に特徴がある桃山茶陶を拝観できた。また生前の即翁が当館の展観で披露した茶道具も再現して並んでいた。近代最後の数寄者と言われた畠山即翁が愛した名品を通して茶の湯を考える好機であった。しかし、残念ながら拝観者は少ない。しかも、期間中「重文 竹林七賢人図屏風 雪村周継筆」を特別公開していた。何故、これだけの名品が揃っている、「茶の湯の名品」を拝観しないのか、私には理解できない。白金台で環境も良い。私の好みの美術館である。是非、一度足を運んで頂きたい。

国宝 林檎花図(りんごはなず)伝超昌(ちょうしょう)筆南宋時代(13世紀)

中国の花卉画で花木の一枝を画いたものを「折枝」と呼ぶ。林檎の花の一枝を描いた本図は古来北宋の折枝画の名手、超昌の作との伝承が付されてきたが、実際の制作は南宋と考えられ、南宋期院体花鳥画の洗練された様式を示す優品である。林檎の花はわずかに赤みを帯び、美しく開いたもの、ほころびかけたもの、まだ蕾の花はわずかに赤みの中に画き込まれている。超昌筆とされた画は日本の茶人に好まれ「君台観左右帳記」の中でも高い評価が与えられているほか、「宗湛日記」、「津田宗及茶湯日記」などの茶会記にも掛物として使用されたことが記され、茶人の間での高尚のほどが知られる。東山御物(ごぶつ)クラスの名品であり、千利休以前の茶人に愛好された作品であろう。

十二ケ月花鳥図の内(6月 百合・葵に雀)酒井抱一作 12幅絹本着色 江戸時代(18世紀)

抱一作品のなかに、十二ケ月花鳥図と呼ばれる十二図一組の作品群がある。各月にちなんだ花と鳥を十二図に描く十二カ月花鳥図のテーマは、伝統的な画題であり、狩野派や土佐派を中心に光琳、乾山らも手掛けている。抱一は琳派の伝統を基本としながらも、自由な十二ケ月花鳥の取り合わせを行い、自身の画風を生かした情緒豊かな作品を作り上げている。中でも私は、この6月の葵が好きである。この掛軸を掛けた茶会は、明るい茶会であったろう。

粉引茶碗 銘松平                 李朝時代(16世紀)

粉引は、白い釉膚があたかも粉を吹いたように見えることから粉引とも称された。三島や井戸と共に高麗茶碗としては古作に属する。しかも伝世品は少ない。作行はいずれも鉄分を多く含んだ黒土に白化粧を施し、その上に透明釉を掛けたものである。施釉の際に一部釉を掛け残し、黒い土層が笹の葉状に現れる景色を火間と呼び、粉引茶碗の重要な見所としている。銘松平は松江藩主松平不昧所持に因むもので、不昧はこれを大名物に列するものとして蔵帳に収録している。

紅葵花絵巻硯箱(こうきかまきえすずりばこ)尾形光琳作 江戸時代(18世紀)

二段重ねの身に深い被蓋の付く硯箱である。身の上段には硯・水滴・筆が備わり、蓋の両脇は大きく削られているが、身と蓋の文様は連続するように蒔絵が施されている。立葵と八重葎が底から生え出し、のびやかに全体を覆う大胆な意匠である。華やかな装飾効果となっている。

黄瀬戸胴紐茶碗(きぜとどうひもちゃわん)      桃山時代(16世紀)

もとは向付として作られたものであろうが、早くより茶碗として用いられている。玉縁の口造り、胴から腰にかけてはゆるやなかな曲線に仕上げられ、底部は浅く彫り込まれた碁笳底(ごけぞこ)である。胴の中央には箆によって刻まれた線が廻り、胴締と呼ばれているが、これにより器を一段と引き締めている。黄瀬戸茶碗の名品である。

赤楽茶碗 銘 早船 長次郎作          桃山時代(16世紀)

初代長次郎の赤楽茶碗である。長次郎七種に数えられる赤楽茶碗では、これが現存する唯一である。この茶碗は、薄作りで、口縁はやや内に抱え込み、胴はまっすぐで、腰のあたりは丸みを帯び、小さな高台が付いている。腰には幅広く箆目が二筋巡り、胴と腰との境界がはっきりしている。口縁から腰回りまでは長い貫入があり、黒漆の繕いを施している。赤土の素地に黄味を帯びた赭釉が掛かり、潤いのある艶を見せる一方、高台際は直接火を受けたかのようにカセている。胴から高台に向かって、山形に青鼠色の釉が流れて独特の景色をなしている。「早船」の銘は、利休が茶会のために高麗から早船で取り寄せたと語ったことに由来する。利休の書状が付属している。

重文 割高台茶碗(わりこうだいちゃわん)      朝鮮時代(16世紀)

割高台とは、文字通り高台の一部を切り落した茶碗のことである。十文字に溝を入れる例はしばしば見受けられるが、本件はかなり大振りの撥形(ばちがた)をしており、まず箆で円形の高台の四方を大きく切り取り、焼成後に畳付の十文字部分をさらに十字型に彫り込んだ珍奇なものである。手取りが重いための工作とも思われるが、そのエキゾチックな形状からキリシタンの洗礼用祭器と見る説もある。元古田織部所持と伝える。如何にも破格の美である。私の好みの逸品である。

重文 伊賀花入(いがはないれ)銘からたち    桃山時代(16~17世紀)

独得の焦げや釉色の変化に特徴がある伊賀焼の中で、その魅力を充分に備えた作品である。口部はふっくらと作り、縁を内側に曲げて姥口とする。頸部は左右に四方板耳を付け、前後に鐶付用の孔の跡があることから、この種の大きな花入も掛花入として茶席に用いられたことが知られる。裾広がりに作った胴部は、六角に面取りし、箆目を入れて区切っている。裾にも箆目が一周する。俗にビロード釉と称される自然釉が裾を残してほぼ全体に厚く掛りそこへ釜の中の灰や土が付着して鮮やかな褐色や緑色、黒く焦げた部分など、さまざまな景色を作り出している。私は、古田織部の匂いを感ずる。誠に伊賀焼独特の造形が加味され破格の美が備わった豪快な花入に仕上がった。口縁の一部が欠けて、その破片が胴に付着した様子を、「からたち」の棘に見立てて銘としたものである。長く加賀金沢の緒家を転伝し、昭和9年(1934)に畠山即翁の所有となった。私の最も愛する逸品である。

黒織部(くろおりべ)筒茶碗   黒部焼き     桃山時代(17世紀)

黒織部の茶碗は腰が張り、口が厚く帯状になった杏形が主であるが、本作は胴が長く歪んだ筒型の姿である。厚手の口縁を箆で削って起伏を持たせ、さらに一段張り出させ丈線を廻らしている。胴には轆轤目が見え、箆による大小の面取りや押し当てなどの技巧が施され、また腰部は張って広く八角形をなして安定もよい。見込みは深く、中央に円形の鏡が認められる。胴の文様は網干といって海岸で漁に用いる網を干している風景を文様にしたものである。黒と白とが醸し出す調べは現代絵画にも通じ、桃山時代の茶陶の底力を見せつける。

重文竹林七賢人(ちくりんななけんじん)図屏風雪村周継作室町時代(16世紀)   左隻                    右隻

中国の魏末・晋初の頃(3世紀)、竹林に集まって酒を酌み交わし、琴を弾じ、清談にふけった七人の陰士がいたという。彼らの姿は権力欲や物欲などを捨てたあるべき人間の理想の一つとして認識されている。中国では4世紀以降、この逸話を題材にした「竹林七賢人図」が描かれるようになり、日本では、他に等伯や探幽なども描いている。雪村周継は、室町時代末期の画僧である。常陸を中心に会津・小田原・鎌倉において活動し、晩年は三春(現在福島県三春町)に渡り、当地で没した。宋元画を学ぶ一方、日本水墨画の大成者、雪舟の画風を慕って大きな影響を受けた。本品や「呂洞賓図」(大和文華館蔵)などに見られる。力強い衣文線、個性的な表情の人物像に独自の画風が観取される。三春における雪村晩年の大作であった。なお、私は、この作品が展示されていることは知らず、現物を見て驚いた次第である。「雪村展」は、芸術大学でこの春に展覧していたが、残念ながら見学することが出来なかったが、ここで、大作にお目に掛かり、大変感激した。

 

この展覧会の副題である「破格の美・即翁の眼」を心行くばかり楽しめた2時間であった。室町時代の御物(ごぶつ)に入るような傑作をはじめ、「破格の美」とも呼ぶべき「伊賀花入 銘からたち」や「割高台茶碗」など、日常見られない傑作を見て、高揚した気分になれた。楽茶碗も良いし、「曜変天目」も素晴らしかったが(「茶の湯」展)、畠山記念館の「茶の湯の名品ー破格の美・即翁の眼」も素晴らしかった。この美しさ、この感動を、僅か700円で堪能できる幸せを痛感した。

 

(本稿は、図録「與願愛衆Ⅰ」、図録「松平不昧の数寄ー「雲州蔵帳」の名茶器」、図録「與衆愛玩ー畠山即応の美の世界」、図録「與願愛衆ー琳派」を参照した)

奈良西大寺展  叡尊と一門の名宝

近鉄の大和西大寺駅を降りると、古びた土塀に囲まれた静寂な伽藍がある。これが西大寺である。その創建に遡ると、聖務天皇の娘である孝謙天皇が天平宝字8年(764)9月11日に恵美押勝の反乱を平定するために発願(ほつがん)した金銅四天王像の像造である。上皇方が勝利し、孝謙上皇は称徳天皇となった。「西大寺資材帳」(宝亀11年ー780年)は、この翌年(781)の西大寺創建を伝えている。この資材帳によると、金堂には薬師如来を安置し、講堂には弥勒菩薩を祀り、その境内は東西十一丁(1200m)、南北七丁(約760m)という広大な寺域には百十を超える堂塔が立ち並ぶ壮麗な大伽藍であった。父の聖務天皇が平城京の東側に創建した東大寺に対して、この寺は西大寺と呼ばれた。神護慶雲4年(770)、称徳天皇が崩御され、都も長岡京を経て平安京に移った。左大寺は、鎮護国家の大寺として栄えたが、その後は他の南都の寺院同様衰退し、再び注目されるのは鎌倉時代に入ってからである。鎌倉時代に中興の祖、叡尊(えいそん)が登場した。叡尊の活動の理念は「興法利生」(こうぼうりしょう)と言われる。「興法」とは仏教を盛んにすることであり、叡尊はそのために、当時乱れていた戒律を復興し、釈迦本来の仏教に立ち戻ろうとした。そして「利生」(りしょう)とは、人々を救うことである。叡尊にとっては、この二つは分かちがたく結びついていた。文暦2年(1235)正月、35歳で西大寺に入った叡尊は、ここを拠点として「興法利生」の活動を始めた。従って、左大寺の歴史は、奈良時代と鎌倉時代に分かれる。

重要文化財 塔本四仏坐像  木心乾漆造 漆箔    奈良時代(8世紀)

西大寺創建間もなく建立された東西いずれかの塔に安置されていたと伝える。四軀とも奈良時代後期に流行した木心乾漆の技法で制作されている。この四仏は、釈迦如来、阿弥陀如来、宝生如来、阿閦如来(あしゅくにょらい)である。前期に並べられた仏像は釈迦、阿弥陀如来の2像であった。(写真右2仏)現在光背を亡失するが、台座は同大同巧のものが揃っている。この四体の基本構造は、頭部・体部をすべて檜の一材で彫り出し、その内部に内刳りを施す。表面の木屎漆(こくそうるし)の盛上げに厚い薄いの差はあるが、木心部はほぼ木彫像と同様の彫りを示している。その様式や技法からみて奈良時代末期から平安初期(延暦初年)にかけて造立されたと考えられる。

国宝  十二天像  絹本着色           平安時代(9世紀)

十二天は八つの方位を守護し、天・地・日・月・を支配する計十二の護法神から成り、密教の修法道場を守護する役目を担っている。本図は現存する十二天の作例の中では最も古いものであり、各尊はそれぞれ二侍者をしたがえ、鳥獣に騎乗している。本図は帝釈天像であり、白象に騎乗している。十二天の図像の組み合わせは、承和2年(835)に始まった真言院御七日御修法(ごしちにちみしほ)など、重要な密教の修法が完成される過程で整備されていったと推測される。本図はその過程に対応する9世紀後半の作と考えられる。(老化が目立つが貴重な国宝である)

国宝 興正菩薩坐像  木造 彩色    鎌倉時代(弘安3年ー1280)

興正菩薩叡尊を慕う門弟たちが合力で造立した叡尊80歳の寿像(生存中に造られた肖像)である。昨年(2016年)に国宝に指定された。作者は仏師善春。善春もまた父善慶とともに叡尊を師と仰ぎ、戒を授けられた弟子同朋であっあったと考えられる。像は鎌倉時代後半を代表する肖像彫刻の傑作である。像内には叡尊の行実や信仰を偲ばせる各種経典、舎利容器、綬菩薩戒弟子名など数多くの納入品が納められているほか、門弟の鏡恵が記した弘安3年8月27日付の造象願文などが納入されていた。

重要文化財 愛染明王坐像  木造 彩色   鎌倉時代(法治元年ー1247)

西大寺愛染堂の厨子内に納めらている秘仏の本尊像で、法治元年8月18日に叡尊とその弟子範恩が、西大寺における三法久住を願って造立した。作者は南都関係の造像を多く手掛けた仏師善円である。日輪光を背にし、宝瓶上の赤色蓮華に坐す総身真紅のお姿は、煩惱をそのまま悟りのあらわれとする密教究極の真理を具象化したものである。焔発を逆立て、五鈷鉤(ごここう)をつけた獅子冠を戴いた三目六臂の憤怒(ふんぬ)の像容は、本経である「瑜伽瑜教」(ゆがゆきょう)に説かれるところと一致している。納入品も多数ある。叡尊は弘安の役のおり、弟子300人余を率い南北二京の僧560余人とともに京都・石清水八幡宮で祈願すると、結願の日に叡尊所持の愛染明王像の鏑矢が八幡宮から西を目指して飛んでいき、異族を滅ぼしたという伝えが広まっている。これは叡尊の験力と愛染明王の霊験の両方を伝えている。

重要文化財 文殊菩薩坐像(文殊五尊像のうち)木造・彩色 鎌倉時代(正安4年ー1302)

文殊菩薩が四眷属を従える文殊五尊像は文殊信仰の中心地として著名な中国・五台山の文殊菩薩の一形式とされ、鎌倉時代には渡海文殊として広く知られていた。叡尊や忍性(にんしぉゆ)は「文殊涅槃経」に説かれる文殊思想をもとに数多くの民衆救済事業を行ったが、法会は25日の文殊縁日に墳墓の近くなどで実行されるのが通常で、亡魂救済の意味も含まれていたらしい。叡尊の文殊信仰の記念的事業になった般若時文殊五尊像の造立もこの思想にもとずいている。左大寺像は文殊菩薩の像内墨書銘から、叡尊が亡くなった3年後の永仁元年(1293)に門弟によって像立が発願され、叡尊の13回忌にあたる正安4年(1302)に完成したことがわかる。前期には右前の善財童子と左奥の最勝老人の二像が展示された。

重要文化財 釈迦如来立像 木造 素地 鎌倉時代(建長元年ー1249)

西大寺本堂の本尊で、造立の経緯は、昭和47年(1972)の修理で像内から取り出された納入品によって鮮明となった。清凉寺の釈迦像はすでに三国伝来正身釈迦として天下に名高く、その模造も実に多いが、原像を前に直接摸刻したと確かに言える像はまさに本像のみである。宝治2年(1248)8月8日に造立の発願がなされ、翌建長元年(1249)2月14日に本仏の供養、木作りが行われ、4月3日には完成し、5日に西大寺に入り、5月7日に開眼供養される。作者は仏師善慶以下9人、他に絵師や番匠の名も判明している。本像が造られた目的は戒律復興と広法利生にあった。檜材の寄木造りで、素地仕上げとし、頭髪に彩色、特徴のある細やかな衣装や丸文などに切金を施している。面貌からわかるように原像の忠実な摸刻というよりも善慶一派の作品解釈、明快な刀さばき、穏健な作風というものが極めてよくうかがえる作品である。

国宝 金銅透彫舎利容器 1基   鎌倉時代(13世紀)

現在西大寺に伝わる、外部を灯籠型とした舎利容器で、内部には、蓋の中央に宝蓋をもつ小さな金剛界大日如来を安置した、脚付の塔形の舎利瓶を納めている。外部の燈籠形の頂上には火焔宝珠舎利容器を置き、屋根は六花形で魚々子地に雲龍と蓮華草文を鋤彫りの肉薄で表し、蕨手の先に宝鐸・瓔珞を下げる。西大寺には、この他に金銅宝塔、鉄製宝塔など3点の国宝舎利容器がある。叡尊の釈迦信仰を物語る逸品であるが、中でも、この透彫舎利容器は、他に類例を見ない逸品である。

重要文化財金銅火焔宝珠形舎利容器 鎌倉時代(正応3年ー1290)海龍王侍

真言律宗一門の名宝である。台座は六花形の二重框座とし、六葉複弁の半花、獅子座、華盤、敷茄子、蓮台と順次積み重ねて、頂上に四方火焔で囲んだ水晶製舎利容器を安置している。当時の金工装飾の粋を尽くした舎利容器である。台座の裏に「正応3年」(1290)の刻銘があり、正応3年に京の工人によって制作されたことが分かる。正応年間は叡尊の尽力によって海龍王寺の堂舎が復興された時期であり、この舎利塔もこの間に作られたことが知られる。

重要文化財 吉祥天立像 木造 彩色 鎌倉時代(建暦2年ー1212)浄瑠璃寺

建暦2年(1212)の造立され、本堂(九体阿弥陀堂)に安置された厨子入の吉祥天女像である。この像を収める黒漆春日厨子内面は、扉六面に梵天・帝釈天・四天王の全六天が彩画され、後壁には八臂弁財天を中心にした五神が一図に描かれている。これらは彫像の吉祥天をはじめいずれも「金光明最勝王経」に説かれる諸尊であり、彫像と厨子絵とで構成される全体が「金光明最勝王経」の立体曼荼羅世界を表すものと考えられる。本像は、浄瑠璃寺でも秘仏であり、滅多に参拝できない。此の吉祥天を拝むだけでも、この展覧会を拝観する意味があると思う。

 

西大寺は創建の由来から言っても、東大寺と並ぶ南都七大寺の中でも、由緒深いお寺であるが、現実には遺跡のみで、殆ど往時の面影はない。この「西大寺展」が開催され、西大寺に伝わる仏像が展覧されるのが、殆ど唯一の機会である。しかし、四大寺由来の仏像は、塔本四仏坐像と十二天像(懸け絵)位で、後は国宝の経典2巻と経箱、西大寺伽藍絵図程度のものであり、後は中興の祖、叡尊に関する仏像や「真言立宗」一派各寺の仏像や図像である。平安時代の末、皇室や政権担当者である藤原氏の内輪の権力争いによって起こった保元・平治の乱は、それぞれの肉親が二手に分かれて戦う痛ましい骨肉の争いであり、それに引き続く血なまぐさい源平合戦の有様と共に、都の人々に「乱世」を実感させた大きな出来事であり、それより前、浄土教系の仏家によって唱えられた、仏法の終わりを示す「末法の世」がまさにやって来ているという危機感を持たせる事件でもあった。こうした状況の中で鎌倉時代がはじまるのである。この時代、寺や僧侶の堕落は眼にあまるものであったらしく、教団の持つ巨大な力を背景とした武力を備えた僧兵の集団を組織して政治に介入したり、世俗的な権利を主張し、争いを起す者さえあった。こうした仏教界に登場したのが、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍、法華宗の日蓮などで、新仏教とされた。これらは、末法の世から救済を目指したことである。そしてむずかしい修行は必要ではなく、一つの教えを選んでそれに一心にすがれば良いと説き、武士も大衆も競ってこれらの新しい仏教に救いを求めることとなった。こういう時代に生まれた叡尊は、まず醍醐寺で出家し、密教の修行をし、ついでこうした先学の思想と実践に直接、間接に影響を受けながら、天平以来の名刹で、衰微の極にあった西大寺に住み、ここを信仰活動の拠点としてこの寺を再興し、また当時形骸化していた南都の戒律の復興に勤めた名僧として忘れることの出来ない大きな存在なのである。しかもそれだけでなく、実践家として、社会の最下層に位する大衆や、病苦にあえぐ不幸な人たちを救済するなど、思い切った慈善事業まで自ら実行しているのである。叡尊によって1500個寺の末寺を有したとされる。「叡尊と一門の名宝」という名前の通り、末寺のすばらしい仏像等も多数拝観できる展覧会であった。

(本稿は、図録「創建1250年 奈良西大寺展 叡尊と一門の名宝」、図録「奈良西大寺展  1991年」、青山茂他「大和古寺巡礼」、日経新聞2017年4月8日「奈良西大寺展」を参照した)

東京国立博物館  特別展   茶の湯(3)

江戸時代、大平の世においては茶の湯は変化の時代を迎えた。小堀遠州(1579~1647)を中心として、足利将軍家以来の武家の茶を復興しようとする徳川将軍家や、それを取り巻く大名家における動きがあり、公家の雅な世界を取り入れて新しい茶風を創ろうとする動きが生まれた。それが相互に影響を及ぼしあつていたのである。この章では、復古精神に基づきながら「きれいさび」と称される新たな茶風を確立し、武家の茶を再興した小堀遠州にまつわる道具を中心に、江戸時代前半の茶の湯を展観する。更に、松江藩主松平不昧(1751~1818)にまつわる道具や、江戸時代の豪商が所蔵した名品を招介する。なお、第5章として「近代数寄者の眼」があるが、ここでは畠山即応(1881~1971)の残した畠山記念館の名品を2点紹介する。

重文 志野矢筈口水指  銘 古岸 安土桃山時代(16世紀) 畠山記念館

桃山時代の志野水指の中でも、器形・釉調・衣文様において、優れた作行きを示す名品である。肩と胴下部に段をつけて箆で整えており、力強く堂々とした姿の水指で、腰のゆったりとした膨らみに対して頸のしばるは強く、外側に開き気味の厚い口縁と矢筈口を強調している。胴の周囲には鉄釉で葦と桧垣文が下絵付けられており、まるで水墨画のようなその風情が、冬枯れの岸辺を思わせることから「古岸」の銘が与えられた。

国宝  志野茶碗  銘 卯花墻(うのはなかき)安土桃山時代~江戸時代(16~17世紀) 三井紀念美術館

日本で焼かれた茶碗で国宝に指定されているのは、本阿弥光悦作の白楽茶碗(銘富士山)と、この卯花墻の2碗のみである。美濃の牟田ケ洞(むたがほら)釜で焼かれたもので、歪んだ器形、奔放な箆削り・釉下の鉄絵などは織部好みに通じる作行きと言える。もと江戸冬樹家にあり、明治20年代中頃に室町三井家の高安の有に帰した。

黄瀬戸根太香合 美濃安土桃山時代~江戸時代(16~17世紀)三井紀念美術館

上手の黄瀬戸に見られる油揚げのような釉色に、胆盤(たんばん)の深い緑色と鉄顔料のかすれた褐色が味わい深い。陶器の香合としてはごく初期のものである。

志野重餅香合 美濃 安土桃山時代~江戸時代(16~17世紀)三井紀念美術館

志野裕の白に、釉下の鬼板(鉄顔料)の発色や赤い火色は絶妙で、志野香合の優品として知られている。

重文 奥高麗茶碗 銘三法 唐津 安土桃山時代~江戸時代(16~17世紀)久保惣記念美術館

褐色のざらざらとした胎で、口がやや端反りの自然な碗形を描く。両手に余るほど大きく、腰をわずかに折り、裾まで釉を掛けている。見込みには目跡が五つ残り、底は低めに緩く削り出し、兜巾が立つ。「奥高麗」とは、16世紀後半に焼かれた高麗茶碗の初期的な唐津焼と考えられる。

重文 禅院額字「潮音堂」 無準師範筆 南宋時代(13世紀) 致道博物館

無準師範(1177~1249)は臨済宗の高僧で、経山第34世となった。(1232)弟子には円覚寺の開山となった無学祖元や建長寺第二世となった兀庵普寧(1197~1276)、あるいは日本から入宋した円爾(1202~80)等がおり、日本の禅宗にも多大な影響を与えている。これは無準が円爾に贈った法堂の額字である。円爾は宋より帰国した直後、博多に承天寺を創建し、仁治3年(1242)に開山となった。無準はこれを祝して諸堂に懸ける額や牌(看板)のための書を贈った。本幅の紙面には、「普門院」朱文長方印がみられ、円爾が開創した東福寺に長らく伝えられたが、やがて小堀遠州が入手するに至った。茶会の席でたびたび床に掛けている。

重文 菊花天目茶碗 瀬戸、美濃 室町時代(16世紀) 藤田美術館

瀬戸または美濃で焼かれた和製の天目茶碗。中国の天目に倣った姿であるが、色や模様は日本特有のもので、鉄釉に黄色い釉の流れた様子を菊の花に見立てている。茶人小堀遠州が愛蔵したものの一つである。

重文 色絵鱗波文茶碗 仁清作  江戸時代(17世紀) 北村美術館

野々村仁清は色絵を大成し、江戸初期における京焼に大きな影響を与えた陶工である。本作品のように胴をゆるく撓めた茶碗は高麗茶碗に影響を受けたものと言われる。京都の雅な趣きを写した仁清の茶陶は、加賀藩や丸亀藩など、地方の有力大名に好まれ、注文制作が行われたことが記録に残る。本作品も加賀前田家の家老、本田家に伝わったもので、その後三井家に渡った、

重文 粉引茶碗 三芳粉引  朝鮮時代(16世紀)  三井紀念美術館

戦国の梟雄三好長慶が所持したところから三好粉引と呼ばれている。素地に白化粧を施し、上に透明釉を掛けた白茶碗で、その色調から粉引または粉吹と呼んでいる。胴に見られる笹葉状の火間(ひま)は釉の掛け残しによるもので、粉引茶碗独特の見所である。長慶のあと豊臣秀吉の手に渡ったという。

重文 井戸茶碗  銘細川  李朝時代(15~16世紀) 畠山記念館

かって細川三斎の所持によりその銘を冠する「細川」は、「喜左衛門」「加賀」と共に天下三井戸として茶人松平不昧に格を与えられ、大井戸茶碗の代表作に挙げられる。轆轤目が廻ったゆるやかな碗形の姿、ほんのりと赤味をたたえた明るい琵琶色の有、やや小振りであるが、くっきりと削り出された竹節台は高く、腰下高台脇から高台内にかけて梅花皮(かいらぎ)の鮮やかさなど見所を備え、とりわけ品格高く優美な作振りとなっている。本作は、畠山即応の取集品で、畠山記念館に収まっている。私は、畠山記念館は年間に何回も訪れるが、何時行っても目新しい茶器が展示されている。他館から借りず、すべて自館のみの所蔵品で、年間4回の展示替えをする、素晴らしい美術館である。多分、最後の「数寄者」であろう。

 

東京国立博物館の「茶の湯」と題する展覧会は、昭和55年(1980年)以来の出来事であり、約40年ぶりの開催である。ところが、「茶の湯」は上野だけではない。東京国立近代美術館では「茶碗の中の宇宙 楽家一子相伝の芸術」を3月14日から5月21日まで開催中である。その図録によれば、1997年のイタリア展から2015年のロシア(モスクワ)展まで6回の海外展覧会を終えて、最後に日本で、「茶の湯」と、ほぼ同時期に開催している。それだけではない。出光美術館では4月15日より6月4日まで「茶の湯のうつわ」展を開催している。日本を代表する美術館が同じ時期に、かくも大々的な「茶の湯」展を開催する理由は何だろうか?日常的に、さほど興味を示さない人々が、ある時、偶然に、爆発的に「茶の湯」に興味を示すのは何故だろうか。常々、畠山記念館を愛好する私が、あれだけ素晴らしいお茶の美術品を展示する美術展には、お茶愛好家のご婦人としか思えない方々が、十数名程度しか観覧していないのに、何故、爆発的に、観覧者が増えたのであろうか。勿論、美術館側の作戦もあるだろう。例えば、東京国立博物館と近代美術館の間では、直行バスが運行されていた。美術館も独立行政法人となり、自立採算が求められる時代である。相互に顧客を送迎することにより、客数を増やそうとする商業主義も垣間見える。しかし、問題は主催者側だけでは無いだろう。観客側に大きな理由があったのであろう。日本人の生活は、この50年間ですっかり変わってしまった。50年前には、何処の家でも、床の間があり、違い棚があり、室町時代以降の日本の家の基礎が続いていた。それが、戦後、マンション住まいが普通になり、今や床の間や、違い棚が有る家が少数派になった。そんな生活の中で、「お茶を喫する習慣」がすっかり日本人から消えてしまった。「お茶の教室」に通う人すら、お茶を飲むのは「お稽古の日だけ」と答える人が多いそうである。(千 宗屋 「茶」)日常と切り離された「お茶」は今や、憧れの文化であり、文化人としての最低の教養として「茶の湯」を愉しんだのであろう。中には、勿論熱心な「お茶」を好む人がいたことは間違いないが。

 

(本稿は、図録「茶の湯  2017年」、図録「美の伝統  三井家 伝世の名宝  2010年」、図録「茶椀の中の宇宙  楽家一子相伝の芸術  2017年」、千宗屋「茶ー利休と今をつなぐ」を参照した)

東京国立博物館  特別展  茶の湯(2)

室町幕府が力を失った15世紀末頃になると、新たな時代の担い手となる町衆が力を急速につけ、それまで公家の嗜みであった連歌や能、茶、花、香などを愉しみ、究めるようになった。茶の湯を嗜む人々の層が拡大していくと、茶の湯を愉しむ場所、空間が変わっていき、当然茶道具にも大きな変化が現れる。戦国武将や豪商の中には、足利将軍家から流失した第一級の唐物を競うように求める者も現れたが、一方、禅に親しんだ珠光(しゅこう)(1423~1502)や下京茶の湯者と呼ばれた人々の間では、唐物だけでなく、日常の生活の中から自らの気持ちにかなうものを見出し、取り合わせる「数寄」(すき)の茶、いわゆる「侘茶」(わびちゃ)が生まれた。この精神は、堺の豪商武野紹鷗(たけのじょうおう)(1502~55)ら多くの町衆へと広がった。第2章では、15~16世紀を生きた武将や茶人の眼を通じて「唐物」から「高麗物」(こうらいもの)「和物」へと、茶道具に対する価値観が移り変わる様子をたどる。第3章では「侘茶の大成」として「千李休とその時代」を取り上げる。千李休から、「李休没後の様相」として古田織部、織田有楽斎、細川三斎を取り上げるが、桃山から江戸への過渡期を生きた武将たちの茶の湯を展観することになる。

唐物肩衝茶入 銘 桜 南宋~元時代(13~14世紀) 三井紀念美術館

灰色を帯びた茶色の釉で、総体に細見である。甑(こしき)から肩の衝き方は堂々とした姿である。釉には斑があり、幽際が濃い褐色を呈している。なだれには勢いがあり、表常豊かな景色をなす。銘は当初の所蔵者とされる足利義正が命銘したという。戦国武将蒲生氏郷からその孫、忠郷(1602~27)に伝わるが、子がないまま没したため、将軍家の御物となる。その後、徳川第三代将軍家光(1604~51)から家康の外孫で家光の後見人をつとめた松平下総守忠明(1538~1644)が拝領した。子の忠弘から再び家光に献上され、将軍家に伝わり、後に三井家に移った。

重文 大名物 唐物肩衝茶入 北野肩衝 南宋~元時代(13~14世紀)三井紀念美術館

足利義正の東山御物で、三好宗三から天王寺屋津田家に伝わった。当時すでに北野肩衝と呼ばれている。その後、鳥丸家に伝わり、北野大茶会で同家から出品されて、秀吉の目に止まったという。以来、北野大茶会ゆかりの茶入として伝わった。三井家に享保年間に伝わったが、幕末~大正期は若狭の酒井家にあり、その後再び三井家のものとなった。

重文 法語 無夢一声宛 小林清茂(こばやしせいも)墨蹟 三井紀念美術館

小林清茂(1262~1329)は浙江温州の人で、元代禅林の第一人者に挙げられる。日本からの求法僧の間でも産学の師として憧憬され、多くの入元僧がその会下に集まった。冒頭の「清禅人」とは無夢一清のことで、小林ほか諸僧に参禅した在元30年におよんだ。この偈後は一清の熱心な参禅を賞し、一層の勉学を説示している。

国宝  大井戸茶碗 喜左衛門井戸 朝鮮時代(16世紀) 京都 孤篷庵

大井戸茶碗の最高峰として名高い茶碗である。畳付きからわずかに残して、高台脇を力強く大きく削る。高台内もやはり力強く削り込まれ、中央は兜巾状となる。腰からは斜めに開き、胴上方にゆったりとした膨らみをもたせた後に、口縁に向けてわずかに開く。胴には轆轤目が残り、見込は深く、釉の流れも景色となっている。高台内と高台脇の削りの部分には、一部露胎としながら、釉が流れて梅花皮(かいらぎ)が現れている。井戸茶碗はそのなかでも高台の高さや見込みの深さ、そしてそこに現れる景色から、風格と大きさが感じられる名碗である。松平不昧から子の松平月潭に伝えられるが、不昧の正妻静楽院より、大徳寺弧篷庵に贈られた。不昧の「雲集蔵帳」では、この茶碗は「大名物之部」に所載されている。

斗々屋茶碗 銘 かすみ 朝鮮王朝時代(16世紀) 三井紀念美術館

「ととや」は斗々屋、魚屋、渡唐屋等と書き、名の由来は、李休が魚屋の店先で見付けたという説や、堺の豪商魚屋が所持していたなど諸説がある。この茶碗は霞が棚引くような釉景色と腰の縮緬皺が見える見事なコントラストを見せている。永坂町三井家の高泰から室町三井家の高大(ながひろ)が譲り受け、際晩年枕辺に置いた遺愛の品である。「唐物」から、朝鮮半島産の茶碗に嗜好が大きく変更したことが分かる。

千李休像 伝長谷川等伯筆 固渓宗陳賛 安土桃山時代・天正11年(1583)正木美術館

田中宗易(そうえき)(千李休、1522~91)の姿を描いた現存唯一の生前像(寿像)である。黒襟の下着に淡菁色の着物を着け、黒い上被を羽織り、濃紺に縞の入った腰帯を締める。右手に扇子をとり、上畳に坐す。細部にわたり緊張感のある描写がなされている。頭上の大徳寺第百十七世古渓宗陳(1532~97)の賛から、本図が天正11年8月に描かれた六十二歳の寿像であることが分かる。作者は長谷川等伯と伝えるが、これおを裏付ける資料はない。侘茶の大成者として知られる利休の、また異なる横顔を活写した重要な作品である。

国宝偈頌(げじゅ)照禅者宛(しょうぜんしゃあて)破れ虚堂(きょどう)虚堂智愚筆紙本墨書 南宋時代(13世紀)

虚堂智愚(1158~1269)が入宋僧の無象静照(むぞうしょうしょう)(1234~1306)の求めに応じて贈った五言の偈頌である。無象静照は、鎌倉の人で、東福寺の円爾に師事し、建長4年(1252)に宋へ渡った。静照は、慶山の石渓心月について印可を受けたのち、景定3年(1262)に阿育王山に虚堂を訪ねて参禅し、文永2年(1265)に帰朝するまで、虚堂のもとを離れなかった。よって本幅は、虚堂が78~81歳頃の書と推定される。

重文 黒楽茶碗 銘 ムキ栗 長次郎作 安土桃山時代(16世紀)文化庁

楽茶碗については、既に東京近代美術館で行われていた「楽家一子相伝の芸術」で、詳しく伝えているが、そこに展示されなかった作品を若干補足したい。楽茶碗は、手捏ね(てづくね)によるもので、利休の創意を受けて、陶工の長次郎が焼き上げたものと言われる。小ぶりで、手にすっぽりと収まるような独特の姿をした、赤や黒色の楽茶碗は、唐物天目でも、高麗茶碗でもなく、李休の理想とした侘び茶の碗として、利休の感性にかなうものだったのであろう。この茶碗は上半を方形、下半を円形に作る、他に例をみない姿である。利休好みとされる四方釜に通じる造形であることから、この茶碗もまた李休の好みを反映していると考えられる。

重文 黒楽茶碗 銘 俊寛 長次郎作 安土桃山時代(16世紀)三井紀念美術館

利休が薩摩の門人から長次郎の茶碗を求められ、3碗を送ったうちこの茶椀を残し他の2碗が送り返されてきたので、鬼界ケ島に残された俊寛僧都に見立て命名したと言う。極限まで削り込んだ器形には、包み込むような絶妙な手取りの良さがある。長次郎の茶碗への思い入れがそのまま凝結したような精神性を秘めた名碗である。

重文 伊賀耳付水指 銘 破袋 伊賀 江戸時代(17世紀) 五島美術館

伊賀独特の赤黒く焦げた表情と、青いビロードが流れた表情とが一つの器の名に現れ、大胆な造形にさらに釜の炎によって生じた大きなひび割れがその強さをさらに増している。この造形には古田織部が大きくかかわっている。伊賀水指に添えられていたという大野主馬宛ての古田織部の書状には主馬から頼まれていた伊賀の水指ができたことを伝え、「今後是程のものなく候間、如此候 大ひされ一種候か かんにん可也と存候」と、と水指しでありながら、大きなひびというものがその価値を損するものではないと述べている。

 

戦乱で京都が荒れていた頃、茶の湯で大きな存在感をもったのは、新興都市堺であった。幕府の統治力が低下してからは町民の代表である会合衆(えごうしゅう)による自治が行われた。貿易によって財を成した富裕な町衆たちの間に、茶の湯を嗜む者たちが現れた。その中心として茶の湯を牽引したのが武野紹鷗(1502~1555)であった。茶の湯の理論的支柱として禅の思想を取り込んでいった。「茶の湯は禅宗より出でたるによって、僧の行を専らにする也。珠光紹鷗みな禅僧也」と「山上宗二記」に記されるようになった。千利休(法名=宗易)は大永2年(1522)に堺に生まれた。幼名を与四郎と呼ぶ。商家のたしなみとして、与四郎は少年時代から武野紹鷗に茶の湯を習ったとされる。信長は堺や京都の町衆から名物と呼ばれた唐物の名品を強制的に買上げた。「名物狩り」や、家臣が茶の湯を行うことを許可制とした「御茶湯御政道」によって、文化的な側面の覇権を握ろうと企てた。信長は豪商茶人の中から今井宗久、津田宗及、千利休を「茶頭」として召し抱えたのである。本能寺の変で信長が討たれた後、混乱を勝ち抜いた豊臣秀吉は、信長以上に茶の湯に傾倒し、李休をことさらに重用した。そのため周囲の武将たちmp積極的に茶の湯を習い、李休に弟子入りするようになった。大友宗麟は国許宛の手紙に「内々の儀は李休、公儀のことは宰相(秀永)存じ候」と書いた程である。その利休も天正19年(1591)、突然秀吉の怒りを買い、切腹を命じられた。61歳で秀吉の茶頭になったからおよそ10年間、「天下一宗匠」として、李休が茶の湯に与えたインパクトは大きかった。李休没後、古田織部は、窓の多い、明るい茶席を好み、茶席内で使う道具も、動きや力感を大らかに外へ発散していく、ゆがみやひずみを持った道具を好んだ。この織部に師事した小堀遠州(1579~1647)は、織部の死後、将軍家が大名家を正式訪問する「お成り」の際の茶会や、将軍主催の茶会の後見役を務めるなど、茶の湯に存在感を示した。

 

(本稿は、図録「茶の湯  2017年」、図録「美の伝統 三井家 伝世の名宝」、図録「南宋の美 2010年」、千宗屋「茶ー利休と今をつなぐ」を参照した)

東京国立博物館  特別展  茶の湯(1)

東京国立博物館でが、昭和55年(1980)秋、特別展「茶の美術」が開催された。東博の長い歴史の中で、茶の湯と正面から向き合う大規模な展覧会は、初めてであったそうである。この展覧会の図録の中で林家晴三氏は次のように書いている。「喫茶の歴史的な流れのなかで、いつしか固有の文化事業まで高められた「茶の湯」の世界で賞玩されてきたさまざまな美術を唐数寄物(からすきもの)、詫数寄(わびすき)、数寄(すき)の展開と三区分して展示した」。そこでは室町時代から江戸時代にかけて茶の湯を「唐物数寄」から「侘数寄」へ、そして「数寄の展開」という大きな展開としてとらえ、伝世の名品をそれぞれのなかに位置付け、茶の湯の歴史を見ようとするものであった。今回の展覧会では、これおを5つに区分して、茶の湯の全体像を、もう一度通観しようとする試みである。5章に分けて、唐物荘厳から唐物数寄、侘び茶の誕生からその大成へ、さらには江戸期における古典復興と現代の茶の湯の基礎となった近代数寄者の茶の湯を見るところまでである。まず、第一章の「足利将軍家の茶湯」から見てみよう。喫茶の習慣は、本格的に日本で浸透しはじめるのはおよそ12世紀の頃と言われる。僧侶を主とした中国との往来によって、当時宋王朝で主流であった抹茶の新しい喫茶法がもたらされ、次第に禅宗寺院や、武家、公家といった上流階級の間まで広まったと考えられる。室町時代になると、最高権力者である足利将軍には最高級の「唐物」が集められ、それらはコレクションの管理や鑑定を担当した同朋衆(どうぼうしゅう)によって系統立てて評価、分類された。茶の湯にまで及んだこの価値観は、のちの「茶の湯」に大きな影響を及ぼした。

国宝 曜変天目 稲葉天目 中国・建窯 南宋時代(12~13世紀)静嘉堂文庫美術館

「曜変」(ようへん)とは窯変の意味で、内面の黒釉上に斑文がうかび、その周囲に、青から藍に輝く光彩があらわれたものを言う。中国宋時代の建窯(福建省)で焼成された黒釉茶椀(天目)のうち、わが国で最も格付け高く、貴重なものとして伝えられてきた。今日現存するのは世界で三碗のみである。大徳寺龍光院、藤田美術館、静嘉堂所蔵の各一口で、いずれも国宝に指定されている。近年、中国で初めて南宋の都・臨安府(杭州)の官衙(迎賓館)跡地から曜変天目の陶片が出土し、注目を集めている。本碗は「稲葉天目」との別称があるように江戸時代に入って長く淀藩主稲葉家に伝えられた。昭和9年(1934)より岩崎家の所蔵となる。中国陶磁の至宝とされる名碗である。

国宝 油滴天目中国・建窯 南宋時代(12~13世紀)大阪市立東洋陶器美術館

油のしずくを敷きつめたような美しさから、中国では「滴珠」(てきしゅ)とも呼ぶ。黒釉のなかに含まれる鉄の微粒子が偶然に定着してあらわれる現象で、いわゆる窯変(ようへん)である。建窯産の天目茶碗は鎌倉・室町時代から日本に多く請来されたが、なかでも曜変天目と油滴天目は特に珍重された。この茶碗は古来、油滴天目中最高のものとされ、関白秀次が所持していたと伝えられる。その後、西本願寺、三井家、若狭酒井家に伝来したものである。

国宝 出山釈迦図 梁楷筆 三幅の一 南宋時代(13世紀) 東京国立博物館

梁楷(りょうかい)は南宋時代の宮廷画家で、人物・山水・道釈・鬼神を巧みに描いた。南宋初めの宮廷画家である。その精妙な筆は宮廷で敬服された。出山釈迦図は、永い苦行が正しい悟りへの道でないことを知って深山を出る釈迦の姿を描いたものであるが、「御前図画梁楷」の落款から宮中で描かれたことが明らかな作品である。雪景山水2巻と併せ、三幅対として、日本に伝わった。この三幅には、足利義満の「天山」印があることから、日本に舶来後、おそらく義満の時代に三幅対として鑑賞されるようになったと思われる。足利将軍家の蔵品目録である「御物御画目録」に記録され、唐絵の最上の品格を持つ東山御物として重んじられてきた。その後、三井家、本願寺などに別れて伝世したが、平成16年に三巻すべて東博の所蔵となった。

国宝紅白芙蓉図李廸筆絹本着色 南宋時代(慶元3年ー1197)東京国立博物館

李廸(生没年不詳)は南宋の宮廷画家で花鳥画の名手といわれた。本図は李廸の代表作の一つであり、画中に」「慶元丁己歳李廸筆」の落款があり、制作年の明らかな南宋画として貴重な作例である。図は紅白の芙蓉を描いたものだが、これは早朝に白い花を開き、時とともに少しずつ紅くなり、最後は真紅の花になる種類のもので、まるで、酒に酔うようであることから酔芙蓉と言われる。白芙蓉図は酔芙蓉の朝の姿、紅芙蓉は図は酔芙蓉の昼に向かう頃の姿を描いたものと思われる。李廸は時とともに変化する酔芙蓉図を、鮮麗な色彩と細微な筆描を用いて極めて写実的に描いている。本来はそれぞれ画冊形式の作品であったが、日本舶来後、茶室の掛物として対幅の掛軸に仕立てられたものと思われる。

重文 猿図 伝・毛松筆  絹本着色 南宋時代(13世紀) 東京国立博物館

単なる写実を超えて猿の心までとらえて表現していると言われる宋画の名品である。この幽庵とした空間の中に大きく描かれた猿は日本猿であると言われる。狩野探幽は本図に付属している外題で、筆者を南宋宮廷画家である毛松と鑑定している。毛松は南宋の乾道年間(1165~73)に宮廷画家となった子の毛益とともに花鳥走獣画をよくしたと伝えられている。本図の作者の確定は出来ないが、南宋時代の宮廷画家の名手の筆である可能性は高い。武田信玄の添状が付属しているが、それによると、本図は、元亀元年(570)に曼殊院の覚如が天台座主に任ぜられたことを祝って、信玄が覚如に寄進したもので、久しく曼殊院に伝来した。

国宝 青磁下蕪花入  南宋時代(13世紀) アルカシェール美術財団

粉青色の青磁釉がたっぷりと掛った甁は、腰が大きく張り丸く膨らんだ胴に筒状の頸がつき、口縁は平に作られている。大きめの高台が、総体を引き締めて調和の取れた姿にしている。この甁は南宋官窯の作と分類されたこともあったが、現在では龍泉窯の優れた作行きの青磁とされている。伝来は黒漆塗りの内箱の蓋裏に「節斎岡氏什物」と朱書きされているので、江戸時代後期の幕府の医官であった岡節斎の所持していたものと考えられている。節斎はのちに将軍家斉の侍医となり、松平不昧を茶友とした。

重文青磁 鳳凰耳花生龍泉窯南宋時代(13~14世紀)大阪市立東洋陶磁美術館

砧型の器形に、鳳凰をかたどった耳がつく青磁で、俗に鳳凰耳の花生と呼ばれるている。室町時代以降、中国陶磁は日本にさかんに運び込まれ、伝世している例が多い。この甁も何時のころからか丹波青山家に伝えられたものという。鳳凰耳には、「満声」(ばんせい)「千声」という名高いものがあるが、この甁はその比類ない釉色の美しさから、これらの花生に勝るとも劣らない。浙江省龍泉窯の最盛期の制作になるものと思われる。

重文青磁茶碗銘馬蝗絆」ばこうはん)龍泉窯南宋時代(13世紀)東洋陶器美術館

日本に伝えられた青磁茶碗のなかでも、姿、釉色が特に美しいばかりでなく、その伝来にまつわる逸話によって広く知られている作品である。この茶碗は安元初年(1175頃)に平重盛が浙江省杭州の育王山に黄金を喜捨した返礼として仏照禅師から贈られたものであり、その後室町時代に将軍足利義正(在位1449~73)が所持するところとなった。このとき、底にひび割れがあったため、これを中国に送ってこれに代わる茶碗を求めたところ、当時の中国にはこのような優れた青磁茶碗はすでになく、ひび割れを鎹(かすがい)で止めて日本に送り返してきた。あたかも大きな蝗(いなご)のように見える鎹が打たれたことによって、この茶碗の評価は一層高まり、馬蝗絆(ばこうはん)と名付けられた。

重文木葉天目このはてんもく)吉州窯南宋時代(12~13世紀)東洋陶磁美術館

建窯で作られた天目茶碗とは違い、吉州窯の天目茶碗は胎土が白く、土が緻密であるため、薄作りで、碗形も直線的に広がっている。高台が小さいのも特徴の一つである。吉州窯で黄褐色と黒釉の二重かけで、べつこうに似た釉調(ゆうちょう)のものを作っているが、この木葉天目も、その手法を使用して、その葉脈まで焼き上げる技法については、まだ定見を見ない。加賀藩前田家に伝来したものである。

 

通常、「茶の湯」の展覧会と言うと、年配のご婦人方が多数集まることが多いが、今回は若い女性(20~30代)が特に多かった。何故、茶の湯に若い女性だろうか?やはり、一種の教養として、「茶の湯」の道具も見て、知って、話題の一つに加えようとする気持ちが感じられた。だからお茶碗の前は、すごい人出で、釜や掛物は素通りで、殆ど見学する人もいない状態であった。入館する時に、切符を購入したら、「混んでますよ」と言われた。例えば畠山記念館では、未だかって「混雑していますよ」と言われたことは無かった。まさかと思い入って見たら、若い女性の大行列であった。茶道具に興味を持って戴くことは、この上も無く嬉しい。是非、お抹茶も楽しんで頂きたい。この項(1)は室町時代の将軍家の唐物(からもの)が多かったが、次項(2,3)以後は、桃山時代、江戸時代、近代数寄者(すきしゃ)の世界となる予定である。あまり面白い話ではないが、我慢して読んで戴きたい。

 

(本稿は、図録、「特別展 茶の湯  2017年」、図録「美の伝統 三井家 伝世の名宝」、図録「南宋の美  2010年」、図録「東洋陶滋の展開 1990年」、千宗屋「茶ー利休と今をつなぐ」を参照した)

 

東大寺(終)   正倉院

 

「正倉院」の名称は、現在では東大寺大仏殿の背後に位置する宝庫の呼び名として広く知られている。しかし「正倉」とは、本来、田祖として国家に収めた正税(正稲)を保管するとともに、絹製品、鉄製品その他財物をもあわせて収納した主要(=正)な創庫=倉)のことをいい、この正倉院が軒を並べる一区画が正倉院と称するものであった。したがって、正倉院は、奈良時代には多くの大寺を含め、中央の政庁や、地方の国・郡衙にも設置されていたいわば普通名詞であった。しかし長い歴史の間に、東大寺の正倉院を除くすべてがなくなり、正倉院といえば、東大寺のそれを指すようになり、更に明治8年(1875)に東大寺から離れて国に管理が行われるに及んで、全く独立した固有名詞として用いられるようになった。

正倉院建物                奈良時代(8世紀)宮内庁

宝庫は間口33m、奥行9.3m、総高14m、床下の高さ2.4mで、檜材による寄棟造本瓦葺の高床建築で、南北に長く、一棟を3区分して、北倉、中倉、南倉と称している。北倉と南倉は、三角杉の校木(あぜき)を組み上げた校倉造(あぜくらつくり)、中倉は板倉造であるが、現状の3倉は、後世に改造を受けた形とも言われている。北倉の宝物は、天平勝宝8歳(756)6月の聖務太政天皇の七七忌に際し、光明皇太后が天皇のご冥福を祈って東大寺廬遮那仏に献納された天皇遺愛品である。中倉及び南倉は造東大寺司や東大寺の諸行事に関連した品々に分類される。東大寺開眼供養の品々は、ここに収められている。収蔵された宝物類の数は1万点とも言われるが、数え方によっては数万点にも及ぶ。正倉院は長い間「帝室の秘宝として、一部の人を除いては、一般人の伺い知ることの出来なかった正倉院御物の最初の公開は、敗戦直後の虚脱した人々の心に初めて一抹の光りらしいものが差し込んだ感じで、国家の事業としても時宜を得た催しであった」と井上靖は初期短編小説「漆胡樽」(しっこそん)の冒頭で述べている。

鳥毛立女屏風(第4扇)           奈良時代(8世紀) 宮内庁

6扇のうちの第4扇である。各扇は五枚継の本紙に白土を塗り、その上に墨で女性と樹木、岩などを描き、肉身に彩色を施している。当初は、頭髪、着衣、飛鳥、などに鳥の羽毛を貼り付けた六扇一畳の屏風であったが、いまは鳥毛は殆ど剥落し、各扇は分離した状態である。本作品は「東大寺謙物帳」に記載されており、聖務天皇の遺愛品であった。(1990年「日本美術名品展」より)

楽毅論(がっきろん)部分 光明皇后筆天平16年(744)奈良時代(8世紀)宮内庁

「楽毅論」は三国時代の魏の夏候玄(かこうげん)の作で、戦国時代の燕(えん)の武将であった楽毅の人物について論じた文章である。舶載された東晋(とうしん)の王羲之(おうぎし)を模写したもので、筆力の充実した格調の高い書風である。最後の「藤三女」(とうさんじょ)は、藤原不比等の第三女の意味で、この一巻は皇后44歳の筆と知ることができる。(1990年「日本美術名品展」より)

螺鈿紫檀阮咸(らでんしたんげんかん)      唐時代(8世紀)

「東大寺献物帳」に記載がある。阮咸(げんかん)は中国晋時代(3~4世紀)の頃、漢式の琵琶から生まれた弦楽器で、円盤形の胴と長い棹、竿灯の三部からなっている。弦は四本で、棹から胴の上部ぬいかけて十四の柱(じ)を設け、棹頭には絃を巻く天手をつける。表面に貼ってある腹板以外はすべて紫檀製である。なお、阮咸(げんかん)という名称の由来は必ずしも明らかではないが、中国の故事にある竹林の7賢の一人がこれを愛奏したことからその名をとったと言われる。(1990年「日本美術展」より)

十二稜鏡(じゅうにりょうきょう)         奈良時代(8世紀)宮内庁

正倉院には北倉に十八面、南倉に三十八面の鏡鑑が収蔵されており、南倉に伝わったこの十二稜鏡の背面を七宝で飾った注目の一品である。鏡背は盛唐(8世紀)に流行する、連弁系を三重に組み合わせて一つの華やかな花房を構成する典型的な意匠法を採用している。(1990年「日本美術名品展」より)

漆金箔絵磐(うるしきんぱくえのばん)         奈良時代(8世紀)

岩座の上に各段八枚の蓮華弁を交互の御鱗葺(ぎょりんぶ)きに四段を巡し、中心に半球形の蓮肉をすえた蓮華座である。岩座、連弁、蓮肉はいずれも木製で、岩座の裏に「香院座」(こういんざ)の墨書銘があって、仏に備えて香を炊く炉磐(ろばん)の台座であったことがわかる。平成5年(1993)に展示されたものである。(「平成5年(1993)正倉院展」より)

紫檀金鈿柄香合炉(したんきんでんえこうごうろ)   奈良時代(8世紀)

柄香炉(えこうろ)は、僧侶が法会の際などに手に持って仏前で焼香をするのに用いる。炉の口縁に獅子形の鈕を取り付けている。二十四花形にかたどった炉座に金銀珠玉で花文・朱文を表している。柄つきの香炉である。(「平成6年(1994)正倉院展」より)

 

正倉院は、本来宮内庁の管轄であり、東大寺の項目に加えることは問題かも知れないが、元々東大寺の正倉院であり、明治8年(1875)に宮内省管轄、明治17年(1884)に宮内庁管轄となり、宮中管轄はせいぜい130年程度の話であり、それ以前の1200年間は、東大寺の管轄であり、しかも宝物は聖務天皇あるいは光明皇后の遺物であり、本来東大寺に伝わったものであるから、東大寺の締めとして正倉院を述べた次第である。戦前は、天皇家もしくは政府高官(例えば伊藤博文)のみの拝観であったが、日本の敗戦後の昭和21年(1946)十月に初めて、一般国民に公開したのである。当時、新聞記者であった井上靖氏が初期の短編小説「漆胡樽」(しっこそん)の最初の部分に「敗戦後の虚脱した人々の心に初めて一抹の光りらしいものが射し込んだ感じ」と、当時の心境を語っている、正に「開かれた皇室」の第一歩であったのであろう。私は何度も10月20日ごろから11月初めにかけて行われる正倉院展の見学に出かけたが、非常に混雑し、そのために奈良国立博物館では、新館を設立して、国民の期待に応えようとしたが、益々観客は増え、相変わらず、混雑が今日まで続いている。この正倉院の一般開放や、入江泰吉氏が「日本の古美術品が戦後賠償の一部として、国外に持ち出される」というウワサを書いているが、どうも、そういった事実があったようである。詳しいことは、今となっては分からないが、是非その噂を検証してみて、はっきりすれば、この「美」の記事に書いておきたいと思う。「東大寺」というシリーズを書き始めて、この「正倉院」が11回目となり、これを以って終了とする。今後も、日本美術の美しさに気付かされた奈良の記事を引き続き書きますので、是非ご覧頂きた。

 

(本稿は、図録「日本美術名品展   1990年」(天皇陛下の御即位の御大典紀念)、図録「平成5年(1993年)正倉院展」、図録「平成6年(1994年)正倉院展」を参照した)

茶碗の中の宇宙   楽家一子相伝の芸術

桃山時代は、政治史では天正から慶長(1573~1614)までの四十余年を指し、また文化的には江戸初期の元和(げんな)年間(1615~23)まで含めても、五十余年の短期間であった。にもかかわらず、この時代の文化は飛躍的な発展をして、ようやく近世的な息吹を示している。従って清新さにあふれている。楽焼は、この時代(今から450年前)に、千李休の指示のもとで長次郎という人物によって創造され、一子相伝と言う形態で今日まで続いている。この楽焼は茶器の焼成を専らとし、造形は「ロクロ」を使わずに、指先のみの手こねで制作した。同時代の瀬戸や唐津にくらべると異色の焼物であり、日本の陶芸の中でも他に類を見ない独特の美的世界を作り上げてきている。特にその美意識と思想性は「侘び」という言葉に集約され、その美意識は禅、タオイズム等と深い精神的繋がりをもち、日本の精神的土壌に深く根を下ろしていると言えよう。当時長次郎および長次郎の家族は田中姓を名乗ったが、安土桃山時代の天下人(最高権力者)であった豊臣秀吉より楽の印を賜り、楽焼という名称が生まれ、それはやがて楽家という家の姓になったという。以来、450年にわたって楽焼は、日本陶芸史において重要な役割を果たしてきた。

重文 黒楽茶碗 銘大黒(おおくろ)初代長次郎作桃山時代(16世紀)楽美術館

楽家初代であり、楽焼の創始者である。渡来人・阿米也の子とされる。阿米也は中国・明国より三彩陶(素三彩、あるいは華南三彩)の技術を日本に伝えた人物と考えられる。この技術が楽焼の釉技の基本となった。長次郎の妻は田中宗慶の孫娘とされる。田中宗慶は楽家血脈上の直系の家祖であるが、長次郎は田中家の婿として宗慶らと共に楽焼を営む。李休の創意を受け、利休が大成させた「侘茶」の精神を色濃く表した一碗の赤色(土色)の茶碗を制作、さらにその後、黒楽茶碗を完成させる。これが楽焼の始まりとなる。大黒は、利休の侘びの思想が最も濃厚に反映されている作品である。楽の典型的な姿である。腰が丸く、ふっくらとしている。口縁はやや内へ抱え込み気味で、平である。高台は丸く、高台内に兜巾渦巻がある。見込みには茶溜りがなく、丸く、広々とした感じである。茶色味を帯びたやや光沢のある黒釉が塗られている。千李休所持と伝わる。

重文 赤楽茶碗 銘 無一物 初代長次郎作 桃山時代(16世紀) 潁川美術館

 

「無一物」の銘は六祖禅師慧能(えのう)禅師の偈頌(げじゅ)から取られた。高台が丸く、中に兜巾(ときん)渦巻がある。高台のまわりに竪しわがある。口縁は平に近く、見込には茶溜りがない。赤釉はかさかさした感じで、粉を吹いたような肌である。色は薄い赤色である。一切の装飾性を抑え、削ぎ落とした志向性は、簡素化を推し進める抽象表現を感ずる。

重文 赤楽茶碗 銘太郎坊 初代長次郎作 桃山時代(16世紀) 表千家今日庵

「大黒」と全く同じ形である。腰が丸くふっくらとしている。口縁はやや内へ抱え込み気味で、平である。胴に少しへこみがあるが、腰がふっくらと丸い。高台は大黒と同じである。胎土に子砂が多く、肌がさらさらしている。赤色は薄く 、見込みの方がやや濃い。利休が愛宕山の太郎坊の頼みで作ったとされるものである。長次郎は「寿楽土」と呼ばれる聚楽第付近から出る土を用いて制作したと言われる。

重文 黒楽茶碗 銘 青山 三代道入作  江戸時代(17世紀) 楽美術館

三代道入は、二代常慶の長男である。別名「のんこう」の愛称で呼ばれている。本阿弥光悦と親交が深い。光悦が京都・鷹峯の土地を拝領するのは元和元年(1615)、光悦58歳の時である。その時、道入は17歳の青年であった。その後道入は光悦が亡くなるまで長きにわたって光悦と親しい関係を持ち、光悦の茶碗を焼くなど作陶にも協力する。また光悦から、茶碗を造るということに関して大きな影響を受け、光悦の芸術性、新たな造形へ挑む精神を学んだようである。装飾を極限まで切り捨てた長次郎茶碗の伝統に、軽やかな装飾を持ち込む。艶やかな黒釉に抽象的な文様、黄抜けの意匠を表し、黒釉が抽象文に流れ入って自然な変化を加える。

重文 赤楽茶碗 銘 鵺(ぬえ)三代道入作江戸時代(17世紀)三井紀念美術館

この茶碗は、口縁にやや変化があるが、平に近く、美しい赤色で、艶がある。胴部中程に見る不思議な黒い景色。銘は、正体不明の文様を、平安時代に御所に夜な夜な出没した怪鳥「鵺」(ぬえ)にちなんで付けられた。おそらく刷毛で意識的に描いたものだが、どのような釉薬を用いたのかは不明である。野々村仁清の装飾とは異なる発想である。腰は丸く、ヘラの切りまわしがあう。

重文黒楽茶碗銘雨雲(あまぐも)本阿弥光悦作江戸時代(17世紀)三井紀念美術館

刀剣の鑑定や研磨を生業とする本阿弥家、本阿弥光二の子である。寛永の三筆に数えられる。書だけでなく、陶芸や蒔絵など、多くの分野で活躍し、琳派様式の創始者でもある。楽家とは、法華、日蓮宗の信仰を同じくして親しい関係を結んでいたようである。光悦は楽家二代常慶、三代道入の指導・協力を得て、京都・鷹峯を拝領、所謂光悦村を開き、そこで自由気ままな作陶を始めた。それら楽茶碗の制作には楽家二代常慶が手ほどきをし、そのほとんどは楽家の窯で焼かれた。光悦の茶碗は、風流に生きた人の手すさびであったから、その作風は誠に自由で、こころの働くままに手と箆を駆使して形成している。口造りに鋭く平らな箆目をつけたこの茶碗には、長次郎や道入には見られない迫力が感じられる。高台を極度に低く削り出し、まるい腰から直線的に立ち上がった姿は光悦の独創であり、前面にかけたものを一部掻き落としたと見られている釉は、あたかも驟雨(しゅうう)を伴う雨雲のような趣きであることから「雨雲」と銘されたものであるが、一説には、この釉調は窯中で自然に飛び散ってできたものではないかとも推測されている。

重文 赤楽茶碗 銘 乙御前(おとごぜ) 本阿弥光悦作 江戸時代(17世紀)

ふっくらと花の蕾が開くような愛らしい一碗、光悦の赤楽茶碗を代表する作である。口部を三角形に変型させ、口部一方を端反らせ、他方は内に抱え込ませている。左右非対称の動きを巧みに表現している。胴部から腰にかけた丸みは光悦独特の造形、高台は底部からめり込んでいる。いずれもこれまでの楽茶碗には見られない独創的な造形である。なお、楽家とは離れた存在である光悦作品を楽家の作品に混ぜて展覧した企画者には篤くお礼を申し上げたい。実にありがたかった。

赤楽茶碗 家祖年忌 12代弘入作  1890年(明治23年) 楽美術館

十一代慶入の長男で、15歳で家督を継いだ。弘入も父・慶入と同じく明治維新前後の茶道の衰退した時期を過ごしているため、代を継いだばかりの20歳前後の時期は、楽茶碗の制作にも依頼は少なく苦労の日々を過ごした。そうした事情も反映し、実際に作品を世に出せたのは25歳の頃であった。34歳の時(1890年)に父・慶入と共に、長次郎三百回忌を行い、赤楽茶碗300碗を制作しているが、この作品である。この頃から茶道具界の活気が戻り始めた。若い時の作であるが、好入はさまざまな箆を用いてこの茶碗を制作している。

黒楽茶碗銘林鐘(りんしょう)14代 覚入作1959年(昭和34年)楽美術館

13代惺入の長男。第二次世界大戦に従軍し、昭和20年(1945)に帰国するが、父・惺入はすでに1年前に他界していた。混乱の中で楽家を立て直し、晩年には、楽焼の普及や保持のために、「財団法人 楽美術館」を開館した。戦後の厳しい世の中で、お茶の世界もあれたことだろうが、この道一筋に進み、開館と同年、文化庁より無形文化財技術保持者として認定された。九代了入の開発した箆削りの技法は、それ以降、近代の歴代へ大きな影響を与え、装飾的な表現を強めた。角入の取り組みは近代の歴代が見せる装飾的な箆とは異なり、茶碗自体の骨格、形を形成する彫刻的ともいえる箆削りへと昇華させている。この「林鐘」こそ、典型的な楽茶碗であると私は思う。

焼貫黒楽茶碗 15代吉左衛門 銘隴明(ろうめい) 1986年(昭和61年)楽美術館

際めて前衛的な茶碗であり、これに対し世間は驚き、世の中の常識、価値観を揺るがす起爆剤となった。称賛するもの、批判するもの、世の中、ことに茶の湯界は沸騰したそうである。私自身は「この茶碗では、さぞかしお茶は飲みにくいだろう」と思ったが、この色の景色には魅力を感ずる。

 

松原龍一氏が、冒頭の論文で、この「茶碗の宇宙 楽家一子相伝の芸術」について、極めて適切な論文をものしているので、以下引用する。「今から450年前、千利休の指示のもと長次郎という人物によって創造された楽茶碗は、一子相伝という形態で現在まで続いている。一子相伝とは、技芸や学問などの秘伝や奥儀を、自分の子の一人だけに伝えて、他にも秘密にして漏らさないことであり、一子は、文字通り実子ではなくても代を継ぐ一人の子であり、相伝とは代々伝えることである。このような考え方で、長年制作が続けられている楽家の楽焼きは、長い伝統を有しているが、しかし、それらは伝統という言葉で片付けられない不連続の連続であるといえる。長次郎から始まり十五代を数える各々の代では、当代がそれぞれ”現代”という中で試行錯誤し創作が続いている。本展では、現代からの視点で初代長次郎はじめ歴代の”今ー現代”を見ることにより一子相伝の中の現代性を考察するものである。まさしく伝統や伝承ではない不連続の連続によって生み出された楽焼の芸術世界の検証を試みるものである。」これ本展の意義や目的が見事に表明されていると思う。尚、東京(京都)国立近代美術館で開催されていることにも注目して頂きたい。正に、一人一人の現代が「今ー現代」であり、初代長次郎でも歴史的な長次郎ではなく、現代を生きた長次郎である。最後に、12代弘入の「赤楽 家年忌」を取り入れた理由について述べる。私が、昭和31年(1956)、学校を卒業して会社に入社し、最初の任地、長野県上田市に赴任する時、母が12代弘入の制作になる明治12年頃(1879)の作品である「黒楽茶碗」と茶道具一式を、私の旅立ちの記念として贈ってくれたのである。母の形見として、爾来60年以上に亘るが、常に毎日お抹茶を嗜む生活を送ってきた。今年で制作後140年近くになるが、10回以上の転勤にも耐えて、疵一つない黒楽茶碗は、私の大事な「お宝」である。そのために、12代弘入の「家祖年忌」を挿入した次第である。

 

(本稿は、図録「茶碗の中の宇宙ー楽家一子相伝の芸術  2017年」、陶磁体系 磯野信威「第17巻 長次郎」、原色日本の美術 全30巻の内「第19巻 陶芸」、林家晴三「日本の陶磁器」を参照した)

燕子花図と夏秋渓流図

根津美術館の至宝ともいうべき国宝・燕子花図と夏秋渓流図が、今年は同時公開された。期間は4月12日より、5月14日までの約1ケ月間であるが、根津美術館が一番華やぐ1ケ月間である。尾形光琳と言い、鈴木其一と言い、日本琳派を代表する画家である。琳派と呼ばれる画家群の著しい特徴は、古来からあった日本独特の装飾性と調和感覚を、率直大胆に純粋の立場でみずみずしく発揮したところにあり、その点では宗教性や物語性を否定して、純粋な美術として伸びてきたのである。しかし、このような形の美術を生み出す適切な母胎が必要であった。その母胎となったのは、日本の近世の幕を切って落とした根本の勢力と言ってもよい京都を中心とする新興ブルジョジーである。これらの富商階級は、当時は町衆という名で呼ばれていたが、町衆は応仁、文明の乱以後、急速に富力を増し、実力を失った足利幕府にかわった自治能力をも備えてきた自由な階層であり、彼らは没落した宮廷貴族を保護することによって、富力という現実の地盤の上にさらに日本の古典文化の教養を移し入れ、独自の町衆文化を作り出していったのである。桃山文化全体が、こうした町衆文化の背景に根ざし、いきいきとした自由さに支えられたものだったが、時代の主勢力が桃山から江戸にうつり、徳川政権が次第に堅固な藩政をしいて封建的な支配体制をつよめるようになると、これらの町衆は、江戸幕府に対抗する京都宮廷と密接につながって、文化の上で一つの強力なサークルを形成するにいたった。この結びつきは、江戸幕府の政治勢力に対して、文化的実力で対抗しようとした点で、いっそ強いものとなり、事実、近世初頭において、貧弱な江戸文化とは比較にならなぬ高度の文化的成果を続々とあげていったのである。この宮廷と町衆の結合体が生み出したと言って良い名高い修学院離宮や、桂離宮の造営をはじめ、華道や香道の確立、文学や芸能の高い洗練など、その実情をみていただければただちに納得できる事柄である。今回は、根津美術館が保有する琳派の名品を通して、見てゆきたい。

四季草花図屏風  伊年印  六曲一双 紙本金地着色 江戸時代(17世紀)

「伊年」の記の捺された草花図屏風は数多くの作例が現存しているが、本図はその代表となる作品である。「伊年」の印は、作風を異にする多くの作品に捺されている。つまり一人の画家の印ではなく、俵谷宗達(生没年不詳・17世紀の江戸で活躍)の工房内で商標のように用いられた印と推則される。六曲一双の画面いっぱいに金地が透けるように濃淡を微妙に変えた絵具で、約70種の四季の草花が左右に傾きながら植物ごとに株をまとめて右から春夏秋冬の季節の流れに沿って描かれている。手前には背の低い花を配し、上部には空間をあけることで野の広がりが生み出されている。本図は完全に無背景で、土埕も描かれず、草花はほぼ均等に併置されている。「伊年印草花図」の初期の様相を良く示している。

重美 桜下蹴鞠図屏風 紙本金地着色 六曲一双  江戸時代(17世紀)

向かって右隻には、四本の桜の樹に囲まれた懸りあるいは鞠壺(まりつぼ)と呼ばれる場所で、公郷や僧侶、稚児ら8人が蹴鞠に興じる姿を、左隻には、垣根の外の周辺の水辺に近い場所で主人を待つ従者たちを描いている。静かに鞠を追う高貴な人々の優雅さに満ち、一方、待ちくたびれてあくびをする者までいるお供たちはユーモラスである。幾何学的な構図と、飄逸にしておおらか、しかし優美な人物の表現と併せ、寛永年間に宗達周辺で、制作されたと考えられる。宗達は、もともと、富裕な階級の出身であったと考えられている。上層部が抱く公家文化への憧憬が、こうした公家風俗画のベースにあるようにも考えられる。同じ図様の作品が少なからず知られており、その愛好がうかがえる。

国宝 燕子花図屏風 尾形光琳筆 紙本金地着色 六曲一双江戸時代(18世紀)

咲き乱れる燕子花(かきつばた)だけを群青と緑の鮮烈な色彩で描いた。ひとまとまりの花群がいくつかの箇所で同じ形態であることが指摘されており、反復して繰り返し花が絵がかれている。これは染職における花模様の反復を応用したものと言われる。尾形光琳が京都の高級呉服店の生まれであることと関係があるのであろう。燕子花だけを描く花鳥画であるが、「伊勢物語八橋図」に描かれた八橋の段をより純粋に絵画化したと思われる。さらに「かきつばた」の五文字を折り込んだ業平の詠歌そのものを絵画化したとも考えられている。八橋における旅僧の前で杜若(かきつばた)の精が、業平の詠歌の力で成仏したことを語り舞う「杜若」を主題としているとの意見もある。

夏秋渓流図屏風 鈴木其一筆 紙本金地着色 六曲一双 江戸時代(19世紀)

檜の太幹に蝉がとまり、紅葉した桜の葉がまさに水面におちつつある夏秋の光景である。大画面のなかで鮮烈な色彩の対比と水流などに見られる形態感覚に、其一の個性が余すところなく発揮されている。京都画壇の重鎮、丸山応挙の絶筆「保津川図屏風」に見られる水が湧出してくるかのような表現を喜一は知っていたのではないだろうか。檜と山百合、熊笹の大きさの比例関係は無視されて、白昼夢を見る光景となっているとも言われる。樹幹やギザギザした岩にアメーバーのように張り付いた苔の緑が無限に増殖していくという神経を逆なでするような形態感覚がくどうほどに描き込まれている。この屏風を目にすれば、せせらぎと蝉の声が一瞬消えた後に、無音となって凍りついた時空間が現れる。其一渾身の力作である。

夏草図屏風 尾形光琳筆 紙本金地彩色 二曲一双  江戸時代(18世紀)

画面の右上から左下にかけて、晩春から夏にいたる三十種類近い草花が、濃厚な彩色と豊富な金泥によって華麗に描き出されている。本作品の魅力は何と言っても、二曲一双を通じての大胆な対角線構図であり、それにさまざまな視覚効果が生まれている。たとえば屏風下辺でトリミングされた左下の水生植物は自ずとやや俯瞰する視点、本作品の主役ともいうべき紅白の立葵は正面視、右上の春の草は仰ぎ見る視点が感じられ、それは「燕子花図屏風」の左右隻における視点の変化と似ている。金屏風における光琳の草花図のひとつの到達点と言えるかもしれない。

白楽天図屏風 尾形光琳筆 紙本着色  六曲一双  江戸時代(18世紀)

神物の能「白楽天」に取材した作品である。唐の太子の宣旨を受けた白楽天が日本の知恵を計ろうと海を渡ってきた。漁翁の姿の住吉明神が適当にあしらい、日本には和歌や唐に劣らぬ文明があることを示し、白楽天を神風で吹き戻すというストーリー。本図の場面は、白楽天が即興で「青苔衣を帯びて巌の肩にかかり、白雲帯に似て山の腰をめぐる」と、筑紫の海の情景を見事に漢詩で表すと、即座に住吉明神が、「苔衣着たつ巌はさみなくて、衣着ぬ山の帯をするかな」と返歌を返したところを絵画化したものである。横長の画面に漁翁と白楽天が対峙し、船の異様な傾きによって円環的な動きを生じさせる劇的な光景を強調している。

銹絵梅図角皿 尾形乾山作 尾形光琳画 一枚  江戸時代(18世紀)

白化粧した四角い皿の見込みに、銹絵で光琳が梅を描き、林和靖(りんなせい)の詩を乾山が書している。幹のフレームアウトと、垂直や対角線を強く意識した枝の構成、画面中央の枝の真下にほどこされた署名、そして味わい深い書風による漢詩。銹絵具による陶器への絵付とはいいながら、賛のある色紙形の優れた水墨画を見る感覚である。光琳が乾山に本格的に参画するようになったのは宝永6年(1709)江戸滞在を終えて京都に戻ってからであると考えられる。

重文 銹絵染付金彩替土器皿  尾形乾山作  五枚 江戸時代(18世紀)

鉄分の多い土を用い、轆轤を使わず手で形成した五枚の皿。それぞれの意匠に合せて一部を櫓化粧して下地の文様を作り、その上に銹絵具と呉須で絵付けをしてから透明釉を掛けて焼き、更に金彩をほどこしている。下地の梅文様のなかに繰り返される梅、陽光にきらめく海を行くいくつもの帆掛舟、流れる秋の雲を背景に風に揺れる雄刈萱(おがるがや)満月に照らし出される薄、冷たい流水に舞い落ちる雪。日本的な季節感や情緒がすぐれたデザインに昇化され、巧みな筆致であらわされている。

目連棕櫚芭蕉図屏風 伝立林何帠(たてばやしかげい)筆 紙本墨彩画 江戸時代(18世紀)

中淡色を主体にわずかに淡彩を加え、白目連と黄色い花をつけた棕櫚、大きな葉を広げる芭蕉を描く。棕櫚の細い葉にいたるまで、ほとんどのモチーフに「たらし込み」と呼ばれる水墨の滲みをいかした手法が用いられる。光琳の名である「正祝」(まさとき)の印が押されているが、光琳画とは考えにくく、江戸で尾形乾山に学び、光琳三世を継いだとされる立林何帠の筆と見られている。

七夕図 酒井抱一筆 絹本墨画淡彩  江戸時代(18~19世紀)

酒井抱一(1761~1829)は、姫路藩主酒井家の二男に生まれるも、37歳の時に剃髪得度し、以降若い頃からたしなんでいた俳諧と書画に邁進して、ついに江戸文化のリーダーの一人になった人物である。出家後、絵画では尾形光琳の作品に大きな影響を受け、やがて江戸琳派とも呼ばれる。麻のひもに五色の糸が掛り、その下の角盥(つのだらい)には梶の葉が浮かぶ様子を描く。陰暦7月7日の夜に牽牛、織女の二星を祭り、手芸や芸能の上達を祈願した七夕祭りの飾りである。

根津美術館のカキツバタの生える池

根津美術館の庭園の一番下にカキツバタの池がある。5月6日はカキツバタの花の一番美しい季節であった。大勢の観客が、この池の廻りに集まり、写真を撮っていた。これほど綺麗に咲いたカキツバタは珍しい。

 

根津美術館が保有する琳派のほぼすての絵画や、一部の陶器が出品され、今年の燕子花図展は賑やかであった。毎年、五月には根津美術館が大勢のお客さんで賑う。昨年は出品作が少なく、私はあきらめて見学しなかったが、今年は見学者が多く、毎年の五月らしい賑わいを見せた。尾形光琳の「カキツバタ図屏風」と、鈴木其一の「夏秋渓流図屏風」を並べて展示する見せ方は素晴らしかった。鈴木其一は、酒井抱一の弟子で江戸琳派を飾る名画家である。昨年、「鈴木其一展」を開催され、私は「今に鈴木其一が若冲より人気を凌ぐ画家になるだろう」と予言した。中々、「鈴木其一展」の展覧会は難しいが、五月に是非根津美術館で「カキツバタ図屏風」と「夏秋渓流図屏風」を展示して頂ければ、必ず「鈴木其一」ブームはやって来ると思う。

 

(本稿は、図録「琳派コレクション 2013年」図録「KORIN展 2012年」、図録「大琳派展  2008年」、河北綸明「日本美術入門」を参照した)