遊びの流儀ー遊楽図の系譜(2)

わが国近世の「遊楽図」を見渡すと、画中びは共通して描かれる当時の特徴的な風俗がいくつも見出せる。一つは三味線という楽器の存在であり、野外や邸内を問わず、三味線が奏でるリズムの旋律が、人々の遊び楽しむ場に響いていることがうかがえる。二番目にファッションへの関心が高さが挙げられる。「遊楽図」に登場する男女の髪型や小袖の意匠の描写からは、時代の流行の最先端を意識した彼らの心映えを感じ取ることが出来る。第三に舞踊は、「遊楽図」のまさしく花形として時代を超えて描かれてきた要素であり、人々が熱中する輪舞や、扇を片手に舞う姿は、「遊楽図」のまさしく花形として時代を超えて描かれてきた要素であり、人々が熱中する輪舞や、扇を片手に舞う姿は、「遊楽図」を見応えのあるものにしている。そして当時、男女の間で交わされる手紙は、「文使い」と呼ばれる若い禿などが取り持ったが、手紙のやり取りもまた、遊楽の場には欠かせない心惹かれる場面として描かれている。これらの遊楽図に繰り返し描かれる勝訴は、お互いに絡み合い、それぞれ比重を変えながら、「遊楽図」を一層豊かなものにしていく。やがて「誰が袖図屏風」や「舞踊図」へと展開し、いわゆる「寛文美人図」の流行から、浮世絵の誕生を促す素地を形成した。

重文 舞踊図屏風 六曲一双 紙本金地着色 江戸時代(17世紀) 京都市

江戸時代前期の寛永年間(1624~1644)から寛文年間(1661~1673)にかけて屏風の各扇に、扇を携えて踊る舞妓を一人づつ描いた作品が多数制作された。女性の舞姿や衣装の美しさに焦点を当てた一群の屏風は、遊女の舞姿や衣装の美しさに焦点を当てた一群の屏風は、遊女歌舞伎のの舞台や遊郭における舞踊の人気、美人画愛好の機運の高まりを背景として誕生したもので、今日では「舞妓図屏風」と呼ばれている。

重美 舞踊図 紙本金地着色 江戸時代(17世紀) サントリー美術館

右扇

左扇

本来は屏風であったと思われるが、現在は一面ずつ額装となっている。舞妓の表情は画一的であるものの、注文主や画家の関心は衣装美の方にあったと見え、琴柱や鳳凰、孔雀、龍、蜻蛉、鶴といった吉祥紋様の描写には精緻を極めている。

誰が袖図屏風 紙本金地着色 六曲一双 江戸時代(17世紀)根津美術館

右隻

左隻

江戸時代初期の17世紀前半から半ばに」かけて、今日では「誰が袖図屏風」の名で呼ばれる一群の作品が制作された。この屏風は、畳敷きの室内を背景とした作品で、余白を金地で埋めながらも、畳や敷居、障子などの建築の細部を描くことで、この空間が室内であることを強調する。両隻あわせて三つの衣桁は、大きさや材質、文様が異なり、そのそれぞれに、小袖や袴、帯、印籠、裂などが掛けられている。文机の上に置かれた硯箱の蓋は無造作に身に被せられており、蓋を開ける途中で立ち去った主人の存在を暗示するかのようである。この屏風は、いわゆる「誰が袖図」の図様に二人の女性を組み合わせたもので、他に類例がない。

重文 本田平八郎姿絵屏風 紙本着色 二曲一双 江戸時代(17世紀)徳川美術館

左隻

右隻

年若い遊女に、恰幅のいい若々しい侍が振り向く様子が描かれる。画面の周囲の表層にも葵文があしらわれていることから、古くから右扇の葵文の美女を千姫(徳川秀忠の娘)とみなし、右扇の若衆を本田平八郎(姫路藩主本田忠正の子息)とする伝承がある。当時の男女の文のやり取りは「文使い」と呼ばれる禿が取り持っていたが、この構図はまさしく両者が出会いを表現している。この文のやり取りを描いた「文使い図」は当時の出会いを表現している。この文のやり取りを描いた「文使い図」は当時の「遊楽図」において主要なモチーフとして繰り返し描かれた。近世初期の「遊楽図」の中でも傑作として名高い。

重文 湯女図 紙本着色 一幅 江戸時代(17世紀) 大阪・寂光寺

この図はけっして原画ではあるまい。多分原画から何度目かの写しだろうと辻暢雄氏は推測している。この図の女たちの「デロリ」とした不思議な実態感、肉体の存在感はどこから来るのか。「沐」という湯女の記号が文様の意匠をつけた女の尻の張り、大きな桜の紋様をつけた小袖に懐手をし、(”空歌うたひ、うそぶひぇて」ーまるで「廻国道之記」闊歩する番長役の女)ーまるで彼女らがタイムスリップして現代の我々の眼前を通り過ぎていくようではないか。辻氏は、この画家は又氷と推測している。面白い意見であると思う。

国宝 婦女遊楽図屏風(松浦屏風) 紙本金地着色 六曲一双 江戸時代(17世紀)大和文化会館

右隻

左隻

「松浦屏風」と呼ばれるこの屏風の名称は長崎県・平戸の大名 松平家所蔵であったことによる。しかし、松浦家の記録では、この屏風はその制作年代と考えられてきた近世初期に平戸にあっちゃのではなく、松浦家34世の活(号は静山1760~1842)が京都で入手したものであり、当時は岩佐又兵衛作とされていたという。総金地を背景とする大画面に、十八人の婦女を立たせり座らせたたりなど変化をつけて配列している。こうした等身大に近い人物群像の描写は、他の日本の風俗画には類例がない。

舞妓図 一幅  紙本着色  江戸時代(17世紀) 大和文華館

島田髷をはね元結で根結わいにして、大胆な花模様の小袖を纏う女性の舞姿である。本作のように、背景を省略した画面の中に一人の女性の立姿や舞姿を描いた作品は、江戸時代初期の正保から寛文年間(1644~1673)に盛んに描かれた。こうした作品群は今日、「寛文美人図」と総称されている。左足を前に踏み出して腰をひねり、扇を内側に返しながら右手を掲げ、袖口をつまんだ左手を斜め下へ張る。扇と同じ方向へ顔を傾け、左の袖崎へと視線を落とすという、一連の流れるような動作を無駄のない輪郭線によって巧みに描写している。

扇舞図 紙本着色 一幅  江戸時代(17世紀) 千葉市美術館

唐輪髷に結った女性が舞う姿を描く。正保から寛文年間(1644~1673)頃に流行したいわゆる「寛文美人図」に中でも、舞扇をする一人立ちの美人を描いた掛け軸は、複数の女性の舞姿を各扇に一人ずつ描いた「舞踊図屏風」のような先例を母体として成立したと考えられている。こうした舞姿の「寛文美人図」には、当時の人々の舞に対する興味とともに、最新のファッションに対する関心がうかがえる。女性が舞う白地の小袖は、全体に小花模様を散らし、腰と裾に松皮菱形を、両肩と裾に大きな円模様を配し、両肩と裾に大きな円模様を配し、鹿の子絞りを多用する。こうした動きのある大胆な構図や奇抜な模様には、寛文年間(1661~1673)に女性の間で流行した「寛文小袖」の特徴が表れている。

 

本稿では、「遊楽図屏風」「舞踊図」など、17世紀の江戸時代に流行した屏風絵、扇舞図などを紹介した。非常に、繊細で、流行に敏感な江戸時代の人々の気分がよく出ている美術品であった。都市商人、庶民の間には浮世絵が、高級武士層、支配階級層には「優渥図屏風」という形で、当時の最新のファッションが採用されていった様子が良く理解できる展覧会であった。もう一歩で「浮世絵」という時代背景であった。

 

(本稿は、図録「遊びの流儀、遊楽図の系譜  2019年」、図録「寛永の雅 2018年」、辻暢雄「岩佐又兵衛 浮世絵を作った男の謎」、元色日本の美術第24巻「風俗画と浮世絵」を参照した)

遊びの流儀  遊楽図の系譜(1)

遊びは人類にとって普遍的な行為である。誰でも、生活の中に遊びを取り入れものである。絵画の題材としては、古くもあり、新しくもあるテーマである。中国文化における「琴棋書画」(きんきしょが)は君子のたしなみとして尊重されて、日本文化における一つの規範となり、中世以降は襖絵や屏風の画題として好まれた。江戸時代の「邸内遊楽図」においては、琴は三味線となり、囲碁(棋)は双六に置き換わって「琴棋書画」の伝統が「遊楽図」を描く際の枠組みとして好まれた。江戸時代の「邸内遊楽図」においては、琴は三味線となり、囲碁(棋)は双六に置き換わって「琴棋書画」の伝統が「遊楽図」を描く際の枠組みとして受け継がれていたことがうかがえる。桃山時代に流行を見せた「野外遊楽図」や、遊興施設や遊離を背景とする「邸内遊楽図」は、当時の幅広く奥深い遊びの世界を丹念に再現している。本稿では、特に近世初期の貴重な「遊楽図」を中心にまとめてみた。

重文 琴棋書画図屏風 六曲一双 海北友松作 桃山時代(17世紀)京都・妙心寺

右隻

左隻

海北友松(1538~1615)は桃山画壇を代表する武人画家である。本作は友松の最晩年の優品であり、金地に濃彩と水墨を巧みに融合させた画風は、画業の完成期を示すものとして評価されている。友松は生涯に「琴棋書画図」をいくつか描いており、得意の画題であったようだ。本作では右隻に衝立(画)、琴、碁盤を、左隻に書(高士と童子が持つ掛け軸、高士が差し出す書状、机上に置かれた書物)を拝する。注目すべきは、右隻の高士らの表情である。画面中央、白い衣の高士は、碁盤の上に琴を置き、さらにその上に肘をついて眠りこけている。これと対峙する橙色の衣の高士や童子もまた熟睡している。彼らを見つめる樹下の高士たちは、あっけにとられているように見える。室町時代以来、「琴棋書画図」は中国の文人たちが営む高雅で理想的な生活の象徴として、憧憬の念を込めて数多く描かれた。そうした中にあって、友松最晩年の本作は高士の人間臭い一面を露わにしたという意味で、極めて特異な存在と位置付けらられている。

重文 遊楽図屏風(相応寺屏風)紙本金地着色  八曲一双 江戸時代(17世紀)徳川美術館

右隻

左隻

八曲一双の両隻にわたり、野外から邸内に向けて人々がありとあらゆる遊楽に打ち興じ、太平の世を満喫する様が繰り広げられる。きわめて精緻な人物描写もさることながら、様々な遊楽を破綻なくまとめた構成力、見る者を引き込む細密描写とにより、本図は近世初期に描かれた邸内遊楽図の中でも最も初発的な作品と位置付けられている。本図は、尾張徳川家初代義直が母お亀の方(相応院・家康側室)の追福のために建立した相応寺の伝来したことから、かっては相応院の遺愛品とされてきたが、記録としては三代綱誠の十九男松平通温(1696~1730)の遺愛品として寺に納められたことが判明している。このような遊楽図は、高級商人の遺愛品と思い込んでいた私には、最高級の武士階級の愛用品と知り、意外でもあり、遊楽図のような高額な屏風は、最高級の武士層でないと、購入できなかった次第も分かった。八曲一双であるが、高さは126・1センチでとどまり、やはり私的な空間での親密な鑑賞にふさわしい画面と言えよう。しかしながら遊楽の諸要素をただならぬ密度で細部もゆるがせにせず描き込む態度と、これを破綻なく画面にまとめ上げる力量は卓抜であり、しかるべき注文主の要望に応えてみせたしかるべき力量の絵師の存在が想定される。いずれにしても近世初期の遊楽図を代表する記念碑的作例と言えよう。

重文 四条河原遊楽図屏風 五巻のうち四巻 江戸時代(17世紀)阪急文化財団

右隻

左隻

近世に入って、京都四条河原は一大歓楽地となった。その往時のにぎわいを活写した名品が「四条河原遊楽図屏風」であり、本屏風の他にも、二曲一隻の屏風(個人蔵)が極めて近い関係の作例として知られる。この屏風は二曲一双の中央部分に水量豊かな鴨川の流れを描く、。左右両岸には様々な娯楽施設が臨時に立ち並び、右上と左上に描かれた遊女歌舞伎の芝居小屋が目を日引く。歌舞伎の歴史を物語る上でも貴重な絵画資料となっている。さらに右隻には「犬の曲芸」や「山嵐の見世物」、左隻には「矢場」を描くなど都市ならではの娯楽が目白押しであり、これを目当てに集まった群衆の熱気が観る者にも直に伝わる臨場感あふれる描写は圧巻である。また中央左の河原では夏の鴨川で水浴びをし、胡瓜やところてんを食べる人々も描かれており、気持ちよげな人物描写が各所に散りばめられている。多分、最初にこの屏風を買い取った人は、京都の豪商であろうと思う。武士階級も、こぞって遊楽図屏風を求めた裕福な次代が来たのであろう。

かるた遊び 紙本金地着色 一幅 江戸時代(17世紀)立命館アート・リサーチ・センター

国宝「彦根風俗図屏風」の登場人物のイメージを受け継ぎなら、別の主題への転換が図られている作例で、画面に漂うけだるい雰囲気は両者に共通するものである。後世の書入れと判断されているが、人物に書き添えられた名前のうち、「吉野」「小藤」「野風」は、いずれも六条三筋町に実在した遊女の名前という。カルタ遊びに興じる場面は、主要な遊楽図に頻出する。中でもこの作例は、手持ちのカルタで口元を隠す仕草が遊興の場にふさわしく表情がゆたかである。それぞれの視線が交錯する様子など、カルタ遊びに興じる時間の流れが臨場感をもって再現されている。この絵の持ち主は、多分高級商人層であったろう。

桜花弾玄図屏風 二曲一双 紙本金地着色 江戸時代(17世紀) 出光美術館

満開の桜の木の下に、屏風を立てめぐらせた畳の座敷が見え、三味線を奏でる女性を描く。この横には手紙を手にして読む様子の女性が描かれ、左には金色の長い煙管を手にした女性を描く。「三味線」「煙草」「文使い」という江戸前期の「遊楽図」の定番ともいうべき諸要素が、三つ巴のような構図で描かれる。傍らには墨を揃え、墨を摺る少女や、三味線箱を開ける少女が描かれる。女性たちの姿は、いわゆる又兵衛風であり、白塗りの面貌にはほのかま紅が施されている。着物の柄や桜の樹木や花弁の描写も緻密であり、細部にわたり描写に隙がない。二曲一双の画面の中で野外と邸内を金雲によって巧みに連続させており、女性たちのゆるやかに交錯する視線も、群像表現として卓抜である。やはり上流商人層の好みであろうか?

重文 舞踊図屏風 六曲一双 紙本金地着色 江戸時代(17世紀)京都市

右隻

左隻

江戸時代前期の寛永年間(1624~1644)から寛文年間(1661~1673)にかけて、総金地の屏風の各扇に、扇を携えて踊る舞妓を一人ずつ描いた作品が多数制作された。女性の舞姿や衣装の美しさに焦点を当てた一群の屏風は、遊女歌舞伎や遊郭における舞踊の人気、美人愛好の機運の高まりを拝景として誕生したもので、今日では「舞妓図屏風」あるいは「舞踊図屏風」と呼ばれている。サントリー美術館、個人蔵等の作品が知られている。六曲一双形式の京都本は、製作当初の姿を伝える勇逸の作例として貴重である。衣装美はやや控えめながら、舞妓の表情には個性的な要素が残っており、各人を描き分けとする画家の意思がうかがえる。

 

主として野外遊楽図と邸内遊楽図を中心にまとめてみたが、愛好相は、最高級の武士層から裕福な商人層が浮かびあがってきた。浮世絵が庶民の楽しみとすれば、遊楽図は高級武士層、高級商人層が想定される。江戸時代の比較的初期に、かくも大胆な遊楽図が愛好されたのかと驚く。それほど平和な次代であったのであろう。江戸時代の歴史を見直すような気分にされた。

(本稿は、図録「遊びの流儀ー遊楽図の系譜  2019年」、原色日本の美術第24巻「風俗画と浮世絵」を参照した)

奈良大和四寺のみほとけ(2)

室生寺については、この「美」で、過去に2回取り上げている。それほど思いで深いお寺である。大学2年生の5月の連休の後に、K君(法学部)と共に室生寺を訪れた。この時は駅から6キロの道のりを、バスに頼らず、近鉄室生寺駅から歩いて参詣した。それは途中で大野寺の摩崖仏が見られ、自然の大岩壁に光背を彫りくぼめて内部を平らにして、その平滑な面に線彫りでえ弥勒の尊像を彫り付けたものである。岩に刻み込んだ人間の悲願の大きさと深さが、伺い知ることができた。像とともに刻み込んだ尊勝曼荼羅がその信仰の結晶のように見えるのである。この大野寺の摩崖仏を、ゆっくりと見学するために、あえてバスを利用せず、6キロの山道をわざわざ歩いてきたのである。時刻は夕方に近く、室生寺にたどり着いた時は、夕方のややうす暗い時刻であった。当然、室生寺のは閉門しており、私たちは、お寺の門前にある「橋本屋」と呼ぶ宿に1泊した。夜遅くなったのは、多分奈良の薬師寺や唐招提寺などを巡った後になったのであろう。翌朝、橋本屋を後にして、待望の室生寺にお詣りした。お寺の門前に「女人高野山」の大きな石塔があったことが記憶に新しい。丁度、石楠花(しゃくなげ)が一面に咲き、実に美しいお寺であったのが強く印象に残っている。

国宝  五重塔  木造・五重     平安時代(延暦年間782~806)?

五重塔は、室生寺の建物の中で一番古い建物である。奈良時代との説もあるが、やはり平安時代と見るのが妥当だろう。この塔は、室生寺の中で最も人々に愛され、親しまれている建物である。しかし、この五重塔の建立に関する記録はなく、奈良から平安時代初期の建築で年代的に基準となる作例に乏しく当塔が一般建築物とはかなり異なる存在であり、様式的にも創建年代を確定することは困難であるが、私は平安時代8世紀頃の建築物だろと見ている。屋外に立つ五重塔としいては最も小さい総高16.1メートルの塔で、奈良時代に一般的であった十六丈級の五重塔の三分の大きさである。現実的には、可憐で優雅に見える。石楠花の咲く5月には素晴らしく可憐な塔である。平成10年9月の台風で、大きな被害を受け、全国から浄財が集まった。

重文  弥勒堂    木造・杉製          鎌倉時代

よろい坂を上り詰めた右側に立つ、方3間の建物が弥勒堂である。入母屋造り、杮葺き、方3間の建物である。鎌倉時代の建物であるが、江戸時代に大修理が行われている。

国宝  釈迦如来坐像  木造・彩色   平安時代(9世紀)

全体像が二等辺三角形の枠内に収めた、極めて安定感に富む仏像である。平安初期の一木彫刻特徴が顕著である。また木彫の特色である、衣文線の鋭く流麗な彫においても、遺憾なく魅力を発揮している。造像年代は9世紀半ばと思われる。彩色は殆ど落ちて、ところどころに胡粉地が残っている。カヤの竪(たて)一材より彫成し、背面に背刳りを施す。脚部は横木一財を用いる。極めて男性的な釈迦如来坐像である。本像は、興福寺の僧賢驍が室生寺を創建した当時の本尊だった可能性がある。

国宝  本堂(金堂)  木材・杉材   平安時代(貞勘9年頃ー867)創建

鎧坂の上第二段目の台地上、前が二段に落ち込む地形に立つのが本堂(金堂)である。古くは{根本動}「薬師堂」と呼ばれていたが、江戸時代に真言宗になって以来は「金堂」と呼ばれている。この堂は創建以来、天承元年(1131)を初めとして鎌倉、江戸時代など数回にわたる修理が施され外観、構造共に創建当初から大きく変わっている。本堂の今一つの特徴は、奈良時代以降寺院の主要伽藍堂宇はすべて檜材を用いているが、当堂の用材は杉が用いられている。あえて杉材を用いたのは、当地での調達が極めて容易であったことと、山林修行を旨とする興福寺奥の院としての性格に由来するものではないだろうか。

金堂の諸尊  国宝・重文が多い。

金堂母屋に設けられた須弥壇には、現在中央に国宝・釈迦如来立像、向かって右に薬師如来立像(重文)と地蔵菩薩立像(重文)、向かって左に文殊菩薩立像(重文)と十一面観音菩薩立像(国宝)の五体が祀られている。前方には鎌倉時代の小ぶりな十二神将立像(重文)が祀られている。大ぶりの五尊はそれぞれ作風にやや違いがあり、同時一具の作とは考えにくい。なお、今回はすべて、この展覧会に出品されているわけではないので、これ以上の推測は辞めておきたい。

国宝  十一面観音菩薩立像   木造・彩色  平安時代(9~10世紀)

本堂の,向かって一番左側の仏像である。金堂には、柱三間の須弥壇上に、高さ2メートル超の薬師如来(現在は釈迦如来として信仰されている)を中心にその左右に四軀の像が並ぶ。この像は、室生三本松に所在する地蔵菩薩立像と共に、中尊の薬師如来の脇侍として、9世紀後半に造られたものと見られる。さざなみのように細戦で刻まれる衣文線が美しく、ふっくらとした頬と見開いた小さな眼が、観音の慈悲を表しているかのようである。私は、室生寺の諸尊の中で、一番美しい仏像であると、かねて思っていた。

重文   地蔵菩薩立像、   木造・彩色  平安時代(10世紀)

本像は、本来の安置佛だった室生三本松の地蔵菩薩立像が寺外に出たあと、他堂から移された。本像の光背は、本来は、この寺外に出た三本松の像のもので、中尊の光背と同じ作風を持つ。唐草などを域彫や透彫とする通例の光背と異なり、板に彩色で文様を描く板光背で、南都文化圏に特有のものである。外延部にあらわされた唐草文の先端はひるがえって火炎となり、その躍動感は見事というほかはない。

安倍文殊院(崇敬寺)

山田道から飛鳥への入口は安倍氏の根拠地である。ここに安倍梯麻呂(はしまろ)の建立と伝わる法隆寺式大伽藍の安倍文殊寺院跡が埋まっている。中世、阿部氏は東北200メートルの安倍山にある阿部氏にかかわりのある古墳群に接して現在地に移築し、文殊院となった。本尊である文殊菩薩像(国宝)は、総高7メートルを超える日本三大文殊の一つで、文殊菩薩が眷属を従えて海を渡る「渡海文殊」として信仰される。

国宝  文殊菩薩像内納入品 仏頂尊勝陀羅尼・文殊真言等 紙本墨書鎌倉時代(承久2年ー1220)

安倍文殊院の本尊である文殊菩薩五尊像の納入品である。奥書に、慧敏が発願した九尺の文殊像に収めるため明編(みょうへん)が承久2年(1220)に執筆した旨が記される。奈良東大寺の僧であったことから、阿部文殊院の前身は、東大寺を本寺とする崇敬寺の別所であったことから、文殊菩薩五尊像は東大寺や南都の文殊信仰にもとずいて造像されたと考えられる。

 

奈良大和四寺として岡寺、長谷寺、室生寺、阿部文殊院の四寺の仏像類を展示する展覧会であった。手寺された仏像類は15店で、内国宝4点、重要文化財9点という豪華な内容であった。小さいが、優れた展覧会であった。特に「図録」は860円と格安で、求める人が多かった。最近、「図録が売れない」という話を聞く機会が多いが、大冊で高い図録は買わない人が多いと思う。図録の有り様を見直す時期ではないだろうか。

(本稿は,図録「奈良大和四寺のみほとけ  2019年」、図録「室生寺の御仏たち  1999」、探訪日本の古寺第10巻「奈良1」、保育社「飛鳥路の寺」、保育社「室生路の寺」を参照した)

奈良大和四寺のみほとけ(1)

奈良東北部に所在する岡寺、室生寺、長谷寺、阿部文殊院の四寺(よじ)は、いずれも7~8世紀に創建された古刹で、極めて魅力に富んだ仏像を伝えている。卓越した造形と厚い信仰を物語るみほとけ展であり、是非拝観して頂きたい。日本の異称に「ヤマト」がある。この「ヤマト」とは、本来御神体としてあがめられた三輪山の西麓一帯の地名であった。すなわち、奈良盆地の東南部、現在の天理市南部にある大和神社から、卑弥呼の墓と目されている箸墓古墳を経て、磐余と呼ばれた天の香具山東麓地域を指す。このヤマトを拠点とした王が、古墳時代初期の4世紀初頭、列島の覇者となった倭王権(ヤマト政権)の誕生である。一地域を指すに過ぎなかったヤマトという言葉も次第に、今の奈良県のあたる大和国全体、ひいては日本国全体を意味するようになった。このヤマトに存在する安倍文殊院、岡寺、長谷寺、室生寺の四寺の仏像類を一堂に会し、展覧するのが今回の展覧会の目的である。それは日本仏教の歴史であり、日本文化の発祥の歴史でもある。

岡寺

今回の飛鳥地方、室生地方、長谷地方は私の大学時代の憧れの地であり、しばしば学友と共に歩いた古い記憶の中に生きている。今回展示された仏像類は、私に取っては、懐かしい古仏である。飛鳥ブームが起きる前までは、飛鳥を訪れる人々の多くは、むしろ岡寺が目当てであった。西国三十三所巡礼の第七番が岡寺、厄除け観音を拝み、その後次の第八番長谷寺へと歩を向けたのである。ところが現在は、その岡寺は孤立している。飛鳥めぐりのコースから外されることが少なくない。現在の観光客は、飛鳥の寺々ということと、飛鳥時代に眼が直結しがちである。飛鳥時代より約半世紀のち、白鳳時代の初めに天智天皇の願を受けて義淵僧正が創立した、という寺伝さえ、すでに岡寺は、新しいと見られる所以だろう。

重文    岡寺  仁王門  木造         桃山時代

岡寺は、今の飛鳥でもっとも寺観のととのった寺であり、他の飛鳥寺院とは、拝観の仕方も異なってくる。正面の仁王門は、飛鳥唯一の重要文化財の建物である。本瓦葺の屋根は変形ながら和風の入母屋、二階の垂木は中心から放射線状に流れる禅様の扇垂、建物の木鼻は鎌倉期からの天竺様、こうした三様を巧みに混用し、室町時代の古様をひく桃山建築はすこぶる興味深い。本尊は、塑像の如意輪観世音菩薩像。坐像である。丈六の大仏である。銅像は東大寺廬舎那仏、木造なら長谷寺十一面観世音菩薩とともに、わが国の三大仏である。

重文  菩薩半跏像   銅造 鍍勤   白鳳時代(8世紀)

岡寺本尊の体内から発見されたと伝えられ、岡寺の歴史に関わる遺品として貴重である。片脚を組み思案する姿の半跏思惟像は、日本では仏滅から五十六億七千万年後に現れる弥勒菩薩として信仰されることが多い。本像の体つきや衣文の表現は自然で、白鳳時代に制作されたとみられる。(尚、図録では奈良時代とされているが、私は昔の白鳳時代という時代区分が好きで、好みの時代区分と理解して頂きたい)

重文   天人文甎    土製          飛鳥時代(7世紀)

「塼」とは焼いて仕上げた煉瓦のことで、「塼」(せん)とも書く。室内を飾るため、寺院の壁などにはめて使用される。中央のひざまく人物は、その独特な装束や、手にする衣が浮遊することから、天人と思われる。三国時代に新羅に類品があり、大陸の影響で制作されたと見られる。

重文  釈迦涅槃像  木造、彩色     鎌倉時代(13世紀)

釈迦が涅槃に入る時の姿である。二本の沙羅双樹の間に整えた寝床の上に、体の右側を下にして横たわったという説話にもとずいている。こうした涅槃の姿は他は一般に絵画に表されることが多く、木造のような大型の彫刻作例は、日本では極めて珍しい。平安時代までは両手を体に沿って伸ばす形が主流だが、右手をまげて頭に添える形は鎌倉時代以降に多くなる。また整理された衣文線や抑揚のある体つきの表現などから、本像は鎌倉時代に制作されたものとみられる。

国宝  義淵僧正坐像  木心乾漆像  彩色  奈良時代(8世紀)

岡寺の開基、義淵(?~728)の肖像として伝来した、日本古代肖像彫刻の名作の一つである。顔に刻みこまれた皺や浮き出たあばらなどの老いた姿と、目尻の下がった大きな目や鼻筋の通った異国の表情が融合しており、中国で定型化した僧侶の理想的な姿とされる。本像も実在の人物ではなく、僧侶の尊崇を受けた仏弟子の賓頭盧尊者像として造られたと見られている。重量感のある体つきと深い皺は、長年修行を重ねてきた高僧の精神性を表しているかのようだ。

長谷寺

長谷寺は、奈良県桜井市初瀬に所在する。この土地は、平安遷都以前の政治の中心地から伊勢神宮へと抜ける街道の要衝であり、「萬葉集」には「陰口(こもりく)の」という枕詞を冠した「初瀬」を読む歌が収められている。奈良時代前半に創建された長谷寺は、平安時代になると、しだいに朝廷からその霊験力が認められるようになった。有力な観音霊場として仁人気を博していた様は「源氏物語」や「枕草紙」などの文学に、「長谷詣で」が多く描写されることにもよく表れている。本尊は十メートルを超える十一面観音菩薩立像(重文)である。西国三十三所霊場の第八番札所でもある長谷寺は、今なお参詣者の絶えない観音霊場として名高い。

国宝  長谷寺本堂    木造        天平7年(735)

長谷寺の伽藍は天平7年(735)聖武天皇の世に、徳道上人によって上棟され、天平19年(747)に完成した。正に廬舎那仏の大仏鋳造が始まった年である。私は、長谷寺の階段状の伽藍が大好きで、三百九十九段あるという回廊の石段を上がり下りする回廊が大好きで牡丹の花が美しい寺である。

重文  難陀竜王立像  木造、彩色    鎌倉時代・正和5年(1316)

一般に雨乞いの本尊である難陀竜王は、長谷寺では本尊十一面観音立像の脇侍として安置され、春日明神と同体とされる。難陀竜王は竜を体に乗せた武将の姿であることが多いが、本像は「王」と書いた冠や衣服が中国の役人姿である点が珍しい。像内の銘文から制作年代と作者がわかる。舜慶以下八人もの仏師が造像にたずさわったのは5月2日に造像開始、13日に完成という短期間で完成させる必要があったためと思われる。

重文  赤精童子(雨宝童子)立像   室町時代・天文7年(1538)

雨宝童子とも呼ばれる雨を司る神。雨宝童子は天照大神と同体とされ、天照大神が伊勢に鎮座する時に長谷を取ったという伝承にもとずいて安置されたという。難陀竜王とともに本尊の脇侍である。髪型は童子の定型だが、衣服は女神像に近い。右手に宝棒、左手に寶珠を持つ。頭上に五輪塔戴くものもあるがこの像には無い。像内に安置された木札等に赤精童子と記されており、制作年代と作者がわかる。

重文  十一面観音菩薩立像  銅像・鍍金  鎌倉時代(13世紀)

本像の頭上面、両肩から先、天衣の垂下部、光背、台座は別鋳製とし、それぞれ本体に接合している。古代の金銅仏は全体を一度に鋳造するのが一般的だが、寄木造のように各部を別に造るのは鎌倉時代の銅像に多い。造形、鋳造技法ともに優れている。台座も岩座ではなく蓮華座である。かって付属していた文書によれば、護国寺の僧正決意が所持していたという。

十一面菩薩立像  木造、彩色          平安時代(12世紀)

住職の居所、慈眼院において、毎朝礼拝される像である。錫杖をと、岩座に立つ姿は、長谷寺本尊に特有の姿で「長谷寺様式十一面観音」と呼ばれる。右腕を垂下して錫杖をとるのが定型だが、本像は少し異なる。一木から両肘と両足までを造り、内繰りはない。穏やかな容貌と浅めの衣文は平安時代後期の特色を示す一方、胸腹部の抑揚に富む肉付き、内繰りのない一木造という構造は平安時代前期の要素である。

重文 地蔵菩薩立像  木造・彩色         平安時代(11世紀)

本像は、長谷寺の僧に変身して学生を誘って寺に入門させ、議論の席で問答したと伝えられ、論議地蔵と呼ばれる。長谷寺の学僧が特に信仰すべき像とされた。針葉樹(カヤ又はヒニキ材)の一木造で後頭部と背中から内繰り深く施す。両肩下がりから外側は別材で、左足先は後補である。一木造で背中から刳る構造、衣の襞に鋭さがある点に平安時代前期の名残はあるが、肉付きの薄い体に和様化の進行が見られ、十一世紀の作と考えられる。

阿弥陀如来立像  木造、漆箔   平安時代(12世紀)

来迎印を結ぶ、典型的な平安時代後期の定朝様の像である。定朝は平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像を造った仏師である。藤原道長、頼道など王朝文化をリードした貴族の求めに応じて、その好みにかなったいわゆる和様彫刻を完成させた。この像は正面中央で二材を矧ぐ。嘉永2年(1849)に寄進された。

(1)では、岡寺と長谷寺を取り上げた。恐らく岡寺を拝観した人は少ないと思うが、「天人文甎」は、誰でも見ているだろう。逆に、長谷寺は、大勢の人がお詣りしているはずである。しかし本尊の十一面観音像に惹かれ、他の仏像は殆ど記憶にないのではないだろうか。こういう展覧会があるお蔭で、お寺ごとの仏像に親しく触れることが出来た。また、奈良大和の巡礼の旅に出たい。

 

本稿は、図録「奈良大和四寺にみほとけ   2019年」、探訪日本の古寺第10巻「奈良一」、入江泰吉 大和古寺巡礼2巻「飛鳥・葛城古道」を参照した)

国立西洋美術館開館60周年記念 松方コレクション(3・終)

1921年に渡欧した松方は海軍からドイツの最新鋭の潜水艦の設計図を密かに入手するよう依頼されており、パリでの派手な作品購入はそのカモフラージュであったとも云われる。実際、1921年8月頃に松方はドイツやスイス、北欧などを訪れて、ゴーガンなどのフランス近代絵画のほかに、ムンクなど北欧の画家の作品やオールドマスター、タペストリーなどを購入した。この時入手された作品群はすぐに日本へ送られたが、その輸送箱には各国が狙っていた潜水艦の設計図を紛れこませてあったのだろうか。これの作品は先にロンドから届いた作品群とともに、東京や大阪で披露されている。

鳥罠のある冬景色 ピーデル・ブリューゲル(子)作 油彩・板 国立西洋美術館

本作品は、ブリュッセルのベルギー王立美術館が所蔵するピーテル・ブリューゲル(父)の作品に基づいて、長男のピーテル・ブリューゲル(子)が手掛けた模写と見られる。ブリューゲル(父)の作品の人気は高く、エルツのレゾネ(1998~2000)には、ブリューゲル(子)作に分類されるものだけでも44点の模写が収蔵されている。2005年に当館に入った本作品は、エルツの模写は含まれていないが、ブリューゲル(子)による模写の中でも特に質の良いものに数えられるだろう。描かれるのは当時のフランドルの冬景色である。家々や教会は雪に包まれ、川を覆う厚い氷の上を人々が往来し、子供たちがスケートやホッケーなどに興じている。一見して、ただ穏やかな日常のひとこまが切り取られているかのように思われるかも知れないが、幼い子供がそり遊びをしている傍らには、氷が暗い穴を覗かせている。右手前の木の下に集う小鳥たちの側にも罠が仕掛けられている。これらのモチーフには、人の命の儚さ、運命のあてにならなさへの警告が込められているのである。

雪の中の労働者たち エドヴァルド・ムンク作 油彩・カンヴァス 1910年個人蔵

松方の取集活動が始まった第一次世界大戦中の1916年、それはヨーロッパに前衛の嵐が吹き荒れるようになった直後ーつまりキュビズムや未来派から表現主義やシュールレアリズムなどに至る芸術のラデイカルな諸実験が各地で沸き起こり、美術史上に決定的な地殻変動が生じた。その余波は松方コレクションにも影響を与えずには置かなかった。1912年にケルンで開かれた「ゾンダーブント展」は、総勢160人の美術家たちによってポスト印象派以降の国際的な前衛美術の潮流をドイツの地に提示した事例である。その際、100点以上を出品したファンゴッホに次いで約30点を展示したムンクに与えられた地位は特筆すべきものであった。ムンクは1890年代にベルリンを拠点に活動したドイツでは名の通った画家であった。ムンクは1910年代には「表現主義」の中心に位置付けられていたのである。1920年代のオスロ市庁舎のために構想された「労働者シリーズ」の中のモニメンタルな一作「雪の中の労働者たち」は、特筆すべき一作であった。当時、ベルリン国立版画素描館でアシスタントをしていたクルト・クラーザーが購入した。その後1921年に松方が購入することが決定した。ドイツにおける前衛美術の先駆的な作品の取集であった。

吸血鬼 エドヴァルド・ムンク作 カラーリトグラフ 1895~1902年 大原美術館

吸血鬼を表すこの多色摺り木版画において、ムンクの表現はほとんど抽象の域に達している。波面は主に弧を描く形態と、緑や青、黄土色や橙の色面からなる。女の吸血鬼と男をかたどる輪郭線と細部は、同モチーフを表す他のヴァージョンほどに明確にされていない。恐らく夜の森にのこるであろう彼らの周囲の環境は、緑と青の色面によって曖昧に示されている。図像としての描写と抽象的な形態とが緊張関係にあるようだ。換言すれば描かれたイメージの形態は、内容の単なる描写ではなく、むしろそこにには形態と内容の均衡状態と、強固な自立性が見出される。

「籠の中の花」ポール・ゴーガン作 油彩・カンヴァス 1885年 個人蔵

松方は1920年から1923年にかけ、タンハウザーのほかにパリに複数の画商、ベルリンのカッシーラ画廊から約20点のゴーガン作品を集中的に買い求めている。その中でも「籠の花」は画家のかなり初期の作品、すなわちアルルでファン・ゴッホとの共同生活に入る前、ブルターニュ地方に滞在していた時期の作品に分類される。ハッチングのような細かい筆致やモチーフの構造的配置には、当時交友のあったピサロやセザンヌの影響が垣間見える。画面上部、花籠の背後に塗り分けられた色彩は、あるいはその頃ゴーガンが感心を示し始めた日本の浮世絵版画の一部であろうか。それとも自作の一部だろうか。なお本作品と同構図の扇形図作品も存在する。

「神話の一場面」 ローデヴェイク・ファン・スホール/ピーテル・スピーリンクス(カルトン制作)18世紀初頭 絨毯(羊毛、絹) 国立西洋美術館(寄贈品)

1922年、大阪の毎日新聞社主催で開かれた「松方幸次郎氏所蔵泰西名画展覧会」には36点の絵画と2点のタペストリーが展示された。また日置とベルリンに滞在していた松方は「ドイツ旧王族」の売立に行って「30点近い油絵とゴブラン織りの壁掛け」などを購入したという。帝国海軍からドイツの最新鋭型の潜水艦の図面入手の密命を受けていた松方、こうして入手した美術品に図面を紛れ込ませてベルリンから密かに運び出したという真偽不明な逸話も添えられている。本作品では、緑滴る庭園に女性や狩人、花々が描かれ、オウイディウスの「変身物語」の一場面のような神話的主題が描かれていると考えられる。

「長椅子に座る女」 アンリ・マチス作 油彩・カンヴァス 1920~21年 バーゼル美術館

松方コレクションのうちパリを中心に入手された作品群は、一部日本に送られたものの、主要部分は、1920年代前後から第二次世界大戦初期に至るまで20年近くにわたってロダン美術館の旧礼拝堂に保管され続けた。諸経費を捻出するため、パリに残った日置氏は、松方の許可を受けてボナール、マチスなどの作品を一部売却した。1959年に日本へ返還された「松方コレクション」には、マチスやボナールもなく、モダーン・アートに対する松方の関心の低さを示しているようにも思われがちであるが、実際には相当数の作品が集められていたことになる。本作品は1920年9月末からの滞在時にフランス窓のあるホテルの部屋の中でアンリエット・ダリカレーモデルをモデルに描いた作品の一つである。カウチの傍らに無造作に脱ぎ捨てられた靴が気だるく寛いだ空気を醸し出す一方で、壁や床の赤とコントラストをなす鎧戸の青と人物像やカーテン、テーブルクロスの白さが、窓から差し込む明るく透明な南仏の光を巧みに表している。

自画像 藤田嗣治作 1926年  混合技法・紙  国立西洋美術館

1913年にパリに渡った藤田嗣治はエコールド・パリの画家たちと交流しながら苦労の末に独自の画風を作り上げ、1920年代のパリ画壇の寵児となった。1925年にレジオン・ドヌール勲章を受け、翌1926年にはフランス政府によって作品が買い上げられた。まさに藤田は画家として絶頂期にあった。おなじみの背中に猫が乗った自画像はこの頃にいくつも描かれている。また額の裏には、日置氏の手で「神戸の松方氏の所有、1936年9月16日・日置」と書かれた紙が貼られていた。

ページー・ボーイ ハイム・スーチィン作 油彩・カンヴァス 1925年 パリ国立美術館

エコールド・パリの画家たちの作品は松方コレクションの中でその制作時期の遅さからも異質な存在である。「ページ・ボーイ」は現在では1925年作、藤田作品は1926年作である。松方自身が購入するとすれば1926~27年の渡欧期となるが、この時の購入は殆ど知られず、荒荒しく表現主義的なスーチィンの作品がようやく評価を高めていくのは1920年代後半のことである。スーチンは、両大戦間のパリ画壇において表現主義的な画風で成功を収めた数少ない画家の一人である。彼はベラルーシ(当時ロシア帝国領)の主都ミンクスの近郊の村で貧しいユダヤ人の家庭で生まれ、リトアニアのヴィリニュスの美術学校で学び、1913年にパリに出た。パリではモンパルナスの集合アトリエ「ラ・リュッシュ」(蜂の巣)に住む外国人画家たちの仲間に加わり、特にモデリアーニと親交を結んだ。1919年から3年間、南仏のセレナに暮らし、荒ら荒らしい筆致と極端なデフォルメを特徴とする個性的な風景画や肖像画を制作した。1923年にアメリカの大取集家アルバート・バーンンズが彼の絵に眼を止めて作品を大量に買い取ったことから、一躍有名になり、エコールド・パリを代表する画家の一人として評価を確立するに至った。

睡蓮、柳の反映  クロード・モネ作 1916年 油彩・カンヴァス 国立西洋美術館

「睡蓮、柳の反映」は、オランジェリー美術館に設置されている「睡蓮」の大装飾画のうち第二室「木木の反映」に関連付けられる作品の一つである。柳の木がさかさまに映り込んでいる睡蓮の池の水面を描いたものであり、同様の構図はマルモッタン美術館、北九州私立美術館、地中海美術館などの所蔵品に見ることができる。モネが本作品については1922年5月4日付のベネデット宛の手紙で、モネが松方の購入後も未だアトリエに残されている作品として言及していることからも、画家から直接購入したことは確かである。本作品はロダン美術館で保存されていた1923年に、ジョルジュ・プティ画廊でベネディットの主導により、関東大震災の被災者のために開かれたモネ回顧展へ松方コレクションの他のモネ作品とともに出品される。本作品はロダン美術館に保管されたまま第二次世界大戦を迎えた。それらは、パリ解放後、フランス政府によって敵国人財産として接収された。現在、本作品はカンヴァスの上半分を決失した状態であるが、この損傷は恐らくこの疎開時代に生じたものであろう。接収作品リストには「破損作品」と記されている。それゆえ本作品は、返品リストから漏れたのであろう。本作品が持つ200×425cmという本来の寸法は、オタンジェリーの「木木の反映」を構成するふたつのパネルの寸法に等しい。また画家の手で、署名と共に「1916年」という制昨年が入っている点も重要である。この「睡蓮 柳の反映」は美術館と凸版印刷による共同事業として、本展での公開を目指して復元作業を進めたものである。(NHK日曜美術館で放映した)

 

松方コレクションの成り立ち、内容を細かく報告したもので、図録の冒頭論文「松方コレクション百年の流転」(陳岡めぐみ国立西洋美術館館長)の論文を引用した。是非、原典を読んで、館長の熱意を感じて頂きたい。)

 

本稿は、図録「国立西洋美術館60周年記念  松方コレクション2019年」、図録「国立西洋美術館名品集  2013年」を参照した)

開館60周年記念  松方コレクション(2)

1920年代の第一次世界大戦下のパリでは、松方はパリに拠点を置き、名作を次々と購入していった。この時期、パリにいた松方の部下日覆三郎、姪の黒木竹子とその夫黒木三郎夫妻、仏文学者成瀬正一夫妻のほか、美術史家矢代幸雄や洋画家和田英作ら多数の日本人が滞在していた。多分、これらの人々のアドバイスもあったのであろう。松方は次々と名作を買い集めた時代であった。

青い胴着の女 パブロ・ピカソ作 油彩・カンヴァス 1920年 国立西洋美術館

1912年8月31日に、タ・ベ通りのレヴィ画廊を見た松方、和田、矢代はボエシー通りのローザンベール画廊を訪れ、ここでポカソの作品を多数見ている。同年9月14日に、先の4人のほかに成瀬夫人を加えて5人で改めて同画廊を訪ね、ここでピカソの「青い胴着の女」を求めている。これは「新古典主義時代」のピカソ作品の特徴を良く伝えている。

ばら フィンセント・ファン・ゴッホ作 1889年  国立西洋美術館

ゴッホはフランス南部のアルル=レミから北部オーヴェルへと遍歴した生涯最後の2年間に、地に生える草花や、花の枝に咲く花々をクローズアップで捉えた作品をたびたび描いている。間近から見た小さな花の枝に咲く花々をクローズアップで捉えた作品をたびたび描いている。間近から見た小さな植物を画面いっぱい描く構図は、ゴッホ以前の西洋絵画にはほとんど例がない。そこには日本の美術の影響もみらえるが、根本には彼の宗教的な自然観がある。ゴッホはパリの2年間に浮世絵を熱心に収集し、その大胆な構図と色彩に魅了されたが、1888年創刊の「芸術の日本」に掲載されたサミェル・ピングの評論をアルル滞在中に読み、ますます日本の美術に共感を寄せるに至った。                      アルルでのゴーガンとの共同生活が1888年の暮れに破綻して以来、ゴッホは何度かてんかん性の発作に襲われ、1889年5月上旬に自分の意志でサン=レミの涼養院に移る。最初の数週間は外出を禁じられ、専ら病院の庭で写生会を行った。弟テオに当てた手紙の中に独立した「バラの茂み」を写生したと伝えている。これが本作であると考えられる。

アルルの寝室 フィンセント・ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1889年オルセー美術館

1921年の9月14日に、松方ら5人がローザンベール画廊を訪れた。そこで「アルルの寝室」を発見し、購入した。「アルルの寝室」は3つのバージョンが知られている。明るい静けさに満ちた本作品は、サンレミの療養所で、母親のために描いたものである。この「アルルの寝室」は、戦後日本に返還するにあたり、フランス政府が、フランス国家に留置したもので、今回の展覧会のためにオルセー美術館から借り出した作品である。

扇のある静物  ポール・ゴーガン作 油彩・カンヴァス 1889年頃 オルセー美術館

松方がドリュエ画廊から買ったゴーガンは、1880年代のブルターニュ時代の作品に限られている。「扇のある静物」は日本美術に着想を得て画家自らが描いた扇肩作品が画中画をなす。この扇と画面右奥に置かれた陶器作品は「アレクサンドル・コーラ婦人の肖像」にも登場する。本作品は戦後もフランスに留め置かれ、現在はオルセー美術館に所蔵される。

ブルターニュ風景 ポール・ゴーガン作 油彩・カンヴァス 1888年 国立西洋美術館

大西洋に突き出たフランス北西部の半島であるブルターニュ地方は、19世紀後半にもケルト色の濃い古来の風習を残し、フランスにおける異郷といして芸術家たちの関心を引いていた。近代文明の及ばないこの素朴な世界に芸術の源泉を求めたゴーガンは、1886年夏に初めてこの地方を訪れて、この地方の村のポン=タヴェンを訪れて、この地方の村のポン=タヴェン を訪れ、独特の風土に魅せられた。彼は1888年11月末にこの村を再訪し、10月にゴッホの待つ南仏のアルルへ発つまで滞在した。次のような手紙を友人の画家に送っていたる。「私は静かに自然を眺めて暮らした。私はブルターニュが好きだ。ここには野生と原始性がある。私の木靴が花崗岩の大地に響くと、鈍く乾いた力強い音がする。それこそが私が絵画をに求めているものだ。細い筆致を並べた描写法は印象派の影響をとどめ、モチーフはピサロの農村風景を思わせるが、冬の野の侘しく荒涼とした雰囲気に独自の感性が現れている。

マネと婦人像 エドガー・ドガ作 油彩・カンヴァス 1868,9年頃 北九州美術館

1922年、コペンハーゲンの実業家ウイルヘルム・ハンセンの優れた絵画コレクsィヨンも一部購入する話が神戸の松方のもとに舞い込んだ。1923年初頭、松方は質の高い近代フランス絵画34点の入手に成功する。           妻シュザンヌがピアノに向かう姿を座って眺めていたマネを描いたドガの「マネとマネ婦人像」は、これを贈られたマネが妻の肖像を気に入らず、画面を切断したといわくを持つ作品である。のちにドガがマネ婦人の顔を描き直すために画布を付け足しが描き直されることがなかった。

積みわら クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1885年 大原美術館

モネはカミーユが遺したふたりの子供に、オシュデの妻のアリスとその子供たちを加えて新たな家族を形成しつつ、1883年にジヴェニールへ移住する。ノルマンディー地方南東に位置するこの小村でやがて数々のモネの代表作が生み出されることになる。「積みわら」は1885年に描かれた3点の「積みわら」のうちの1点で、モネの家の近くに広がる牧草地に積み上げられた干し草を描いたものである。単純な形と色彩を持つ積みわらに、モネは刻々と移り変わる光の効果を表すためのかっこうのモチーフを見出し、1884年から1886年にかけて8点を手掛けた。ここでは、さわやかに晴れ渡る空の下、光の効果で微妙に色を変える積みわらの影に憩うアリスと息子のミシェルが描かれている。背景にはポプラ並木が続く。この「積みわら」のモチーフが名高い連作に発展して1891年に発表され、大きな成功をもたらした。なお、本作品は松方旧蔵作品を多数所有している和田久左衛門の旧贓品の一つである。現在は、大原美術館に保存されている。松方コレクションを、やむを得ず手放した場合、多くが日本の西洋美術の美術館に保管された格好の事例である。

サン=マメス 六月の朝  アルフレッド・シスレー作 油彩・カンヴァス 1884年 ブリジストン美術館

サン=マメスはパリの南東イル・ド・フランスの村であり、セーヌ河とロワン河が合流する地点にある。シスレーは1882年9月にこの穏やかな自然に恵まれた小村に移り住みここを中心として多くの作品を制作した。青々とした緑が印象的な「サン=マメス六月の朝」は、1882年の第7回印象派展に出品されたもので、題名通り、初夏の爽やかな朝が描かれる。画面の片側へ向かって道と川が曲線を描いて遠のいていく伝統的構図だが、街路樹の茂りや対岸の植物、そしてそれらの緑が照り映える川の水面と、画面右手の建物のレンガ色が鮮やかなコントラストをなし、緊密な構図を作り出している。

収穫  カミーユ・パサロ作 テンペラ・カンヴァス 1882年 国立西洋美術館

この作品は、1882年の第7回印象派展の出品作である。オワーズ河を挟んでポントワーズの対岸にある麦畑を舞台に、収穫の後景が描かれている。地平線は画面の上の方に置かれ、横長の画面いっぱいに、麦の刈り取られた明るい緑色の畑が広がる。画面の左手前には、麦の束を腕に抱えて運ぼうとする農婦の姿がまじかに迫り、そこから画面の右上に向かって、畑に並べられた麦の束の列に沿って空間の奥行が表されている。1880年代初頭には、印象派の画家たちの多くが転換期を迎えていた。誰よりも印象派の美学に誠実であろうとしたピサロもその例外ではなく、制作活動の停滞を乗り越えるためのさまざまな試みをこの時期に行っている。この「収穫」は第7回印象派展の出品された作品の中で、唯一テンペラの技法を用いたものであり、彼のテンペラ画としては前例のない大きさをも持つことからも、この作品を通じて新たな方向を探る狙いがあったと考えられよう。この技法によって色彩の透明感を増し、油彩画とは味わいの違った、艶がなく乾いた感じのある絵肌が生まれている。

 

 

松方コレクションの中核をなす、コペンハーゲンの実業家ウイルヘルム・ハンセンの優れたフランス絵画コレクションの一部を購入するチャンスが神戸の松方のもとに舞い込んだ。スイスのオスカー・ラインハルトら各国のコレクターとの競合の中、パリのベネデットや成瀬らを通じて交渉の末、1923年初頭、松方は質の高い近代フランス絵画34点の入手に成功する。マネヤモネなど粒そろいの印象派絵画を中心とするこれらの作品は、いったんロダン美術館の旧礼拝堂で保管されたのち1930年代半ばまでほとんど日本へ送られ、」コレクション散逸期に多くが売却されていった。しかしながら現在それらの作品が、国内外、特に日本各地の美術館やコレクションの代表的な作品の数えられていることは、松方コレクションと、日本の西洋美術普及の歴史に残した足跡のひとつと言えるだろう。本編は、松方コレクションと、日本で売却され、日本の西洋美術館にかいそろえられた一部を表したものである。

 

(本稿は、図露「億立西洋美術観開館60周年記念 松方コレクション展 2019年」、図録「国立西洋美術館名作選」を参照した)

開館60周年記念  松方コレクション(1)

日本の芸術家、大勢の人々のために美術館を作るー神戸の川崎造船所(現川崎重工業株式会社)」は30年にわたって率いた松方幸次郎氏(1868~1950)は、大一次世界大戦によって船舶需要を背景に事業を拡大しつつ、1916年~1927年頃のパリやロンドンを中心に西洋の美術品を買い集めた。その総数は3000点を超え、フランスから買い戻した浮世絵の約8000点を加えれば、約1万点を超える規模であった。しかし、1927年、昭和金融恐慌により造船所は経営破綻に陥り、コレクションは流転の運命をたどった。日本に到着した作品群は売り立てられ、ヨーロッパに残された他の作品も流転の運命をたどった。日本に到着した作品群は売り立てられ、ヨーロッパに残された他の作品も一部はパリでフランス政府に接収された。戦後、フランスから日本へ寄贈という名目で返還された375点と共に、1959年(昭和44年)、国立西洋美術館が設立され、ようやく松方コレクションは安住の地を得た。(詳細については、図録の冒頭論文「松方コレクション百年の流転」-陳岡めぐみ・国立西洋美術館館長)に詳しく書かれている)

睡蓮  クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1916年 国立西洋美術館

「睡蓮」をめぐるモネの作品の中でも、パリのオランジュリー美術館に飾られている大装飾画は、モネの画業の集大成として広く知られている。ジヴェルニーに居を構えた晩年のモネは、1980年代後半から自宅の庭の睡蓮の池をモチーフとする一連の作品の制作に没頭した。1918年11月、第一次世界大戦の終結とフランスの勝利を記念してモネは、当時の首相で旧友のジョルジュ・クレマンソー(1841~1929)に作品の国家寄贈を提案した。完成に向けて努力したが、1926年12月に故人となった。作品は、その後、1927年にテュイルリー公園の一角にあるオランジュリー美術館に設置された。松方は、モネと親交があり、二度にわたって松方がジヴェルニーを訪れて多数の作品を購入した。モネは未完の作品をアトリエから外に出すことを嫌った                  松方はモネから入手した2点の「睡蓮」のうち1点が本作品である。恐らくジベルニーの作品の第一室の東の壁にある「緑の反映」に関連づけることができる。もう1点が近年発展されたが(睡蓮、柳の反映)、それは最後に紹介する。

松方幸次郎氏の肖像 フランク・ヌラグイン作 油彩・カンヴァス 1916年 国立西洋美術館

この肖像は、松方とブラグイがロンドンで出会った頃、そして美術品収集を始める1916年に制作された。松方にこの画家を紹介したのは、ロンドンに外交官として駐在していた芸術通の兄正作や、在英日本人画家の石橋和調等と言われるが、画家と石橋は親しい関係を築き、松方はブラグインに彼の作品の売却、東京に建設予定の美術館のデザイン、そして他の画家の作品の購入の代理を依頼するようになった。本作品では、カンヴァス裏面に「1時間で描く」とあるように、素早い筆さばきで生き生きと、モデルの姿を捉えている。

花野に眠る少女 ジョバンニ・セガンティー作 1884-85 水彩・カンヴァス        国立西洋美術館

牧歌的な情景を描いたパステル画(花野に眠る少女)はブリアンツ地方で描かれた。後にセガンティーニ画風は「生」や「死」と言って普遍的な概念を扱う象徴主義へと移行していくだが、松方は自然主義的な作品に限って購入した。実際、コレクション全体を見渡しても、神秘主義や観念を偏重するタイプの象徴主義的作品はほとんど含まれていない。

春(ダフニスとクロエ)ジャン・スランソワ・ミレ作 1865年 国立西洋美術館

農民画家として名高いフランソワ・ミレーはノルマンディーの海辺に生まれた。1837年にパリに出て、国立美術学校でドラロッシュに師事し、1840年にサロン初入選。当初は肖像画や物語絵を描いたが、次第に素朴な農民生活を題材とした作品に取り組んでいく。1849年にバルビゾン村に移住し、後にバルビゾン派と称された。大地に根差した農民の姿を感情豊かに描き続け、晩年は高い名声を得た。1864年、ミレーはマールの銀行家トマの注文を受け、翌年にかけて、パリの邸の食堂を装飾するため「四季」を主題に天井画と3枚のタブローを描いた。そのうち本作は、「春」を描いたものである。春の陽光が降り注ぐ森の中で少年と少女が雛に餌を与え、木立の向こうには山羊の親子と海辺の遠景が覗く。場面は二人の捨て子ダフニスとクロエがエーゲ海のレスボス島の牧歌的な自然の中で幼い愛を育み結ばれるという、古代ギリシャで書かれた恋愛物語に取材している。後ろに立つ石像は、草花や卵を捧げられた豊穣の神である。ここでは人生の春に四季が重ね合わせられている。

並木道(サン=シメオン農場の道) クロード・モネ作 1864年 油彩・カンヴァス 国立西洋美術館

貧しき農夫 ピエール・ピュヴィス・ド・シャバンヌ作 1864年 油彩・カンヴァス 国立西洋美術館

19世紀フランスを代表する壁画家ピュツヴィ・ド・シャバンヌは第二帝政期から第三共和政期にかけて、重要な公共建築物を飾る裕福な家庭に生まれるが、病気静養で訪れたイタリアで画家を志し、パリでトマ・クチュールらに師事する。古典の伝統を受け継ぐ継ぎつつ、抑えた色彩と簡潔な表現、平坦で装飾的な画面構成を特徴とする作風で、独自の象徴主義的な作品世界を築き、続く世代へ大きな影響を与えた。本作は、ピユヴィ・ド・シャパンヌの代表作の一つ「貧しき農夫(パリ・オルセー美術館)」のヴァリトンである。貧し気な漁師の一家を水辺に風景と共に横長の画面に描いた1881年の作品は、サロンに出品された当時は批判の声も多かったものの、1887年に当時の所有者エミール・ボアヴァンから国家に買い上げられ、リュクサンブール美術館に展示された。スーラーやマイヨールをはじめ、多くの若い画家たちがこの作品の影響を受けたことが知られている。本作については、1893年に画商デュラン=リュエルからポワヴァンのもとに渡った記録が残されていることから、恐らくこの愛好家のためにオリジナルに代わるものとして制作された。縦長の構図や小船のモチーフとあいまって、画面はジャポニズムの影響をより色濃く見せている。

波  ギュスタヴ・クールベ作 油彩・カンヴァス 1887年 国立西洋美術館

フランス東部、スイスと国境を接するフランシュ=コンテ地方に生まれ育ったクールベにとっては、海は長い間未知の世界だった。彼が生まれて初めて海を見たのは、ノルマンディーの地方を旅した22才の時である。1850年代のモンペリエ滞在の折に、地中海の風景をいくつか描いている。その後、1850年代のモンペリア滞在の折に、地中海の風景をいくつか描いている。しかし、クールベが海の風景に本格的取り組むのは1860年代後半のことである。この時期、彼は英仏海峡に面したル・アーブル周辺の海岸をたびたび訪れた。特に1866年はブーダンとモネを伴なって周辺の海岸をたびたび訪き、海岸の風景を25点ほど描いている。更に1869年の夏には、断崖の奇観で知られるエトルタ海岸に約2ケ月滞在し、それから翌年にかけて、嵐の海の風景を沢山制作した。1870年のサロンに出品した「嵐の海」と「嵐の後の風景とエトルタの断崖」は共に高い評価を受け、前者はクールベ歿後間もなく、彼の作品として初めてリュクサンブール美術館のためにフランス政府に買い上げられた。エトルタの嵐の海を描いた本作には、ほとんんど同一の構図による異作が数点ある。茜色に染まった雲が広がる暗い空の下で、巨大な波のうねりを頂点に達すると同時に崩れ落ち、岩礁にぶつかって白いしぶきをあげる。画面は空と海にほぼ二等分され、荒れる海面はカンヴァスの境界を越えて手前に広がり、大波が目の前に迫るかのようである。構図はごく簡潔だが、茜色の空と暗い緑色とを対比させた配色や、絵筆とペインテイングナイフを使い分けた質感表現に、優れた技量が認められる。一連の波は物語的要素や感情を一切交えずに、峻厳な自然の実相を客観的にとらえようとした点において、故郷の山岳地方に取材した1860年代中期の「ピュイ=ノワールの渓谷」や「ルー河の水源」の作品に通じる性格を持つクールベの風景画の独自性を示している。」

芍薬の花園 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1887年 国立西洋美術館

ヴェトゥイユ時代を経て1883年にモネはパリの北西、ノルマンデイーも南東部に位置する小村ジヴェルニーに移り住む。」セーヌ河とエプト川が合流する自然豊かなこの水辺の土地を気に入ったモネはやがて自宅の周囲に土地を広げ、後期の制作においては重要な着想源となる庭園の造成を進めた。「芍薬の花園」は、この題材として描かれた作品の中で初期のものである。この庭に水を引いて造った睡蓮の池は、モネ晩年のライフワークとなる「睡蓮」の連作を産むことになる。「芍薬の花園」は「睡蓮」への道のりを示す作品である。

「日本婦人の肖像(黒木夫人)」 油彩・カンヴァス 1922年 エドモンド・アマン・ジャン作  国立西洋美術館

画家モネに愛され、松方とモネの出会いにも貢献した黒木竹子は、松方家長兄で十五銀行頭取の松方巌の娘であり、大蔵省の委嘱により国際金融情勢を調査する目的でパリに対在したていた夫の三次とともに1920年前後のパリに滞在していた。夫妻も美術を好み、画家と交流し、絵を集めている。当時のフランス画壇の中心的地位を占め、洋画家児島虎次郎との交流でも知られていた。和服姿の竹子を描いた「日本婦人の肖像(黒木夫人)」は、夫妻がパリを発つ1922年4月の年紀を持つことから、夫妻のパリ滞在の記念に松方が注文したようだが、1922年4月に始まったパリの国民美術協会のサロンの画家から出品されている。おそらくそのためにパリに残されたのだろう。

 

かって「国立西洋美術館名品選」を、「黒川孝雄の美」に連載したことがあり、かなり重複する記事があるので、重複を避けるようにした。「松方コレクション」は第一次世界大戦後、美術品を日本に持ち帰ろうとした時に、「関東大震災の時と合致し、政府は奢侈品に十割という関税を課すし、それれを嫌って松方が欧州に送り返した」という程度の知識は持っていた。ところがパリとロンドンに送り返した美術品は、まずロンドンでは倉庫の火災で焼失し、パリに残った美術品には敵国性美術品としてフランス政府に没収された。戦後、松方コレクションが返還された際には、その専用美術館としてフランス政府の要請で建設されたものであり、かつ「返還」ではなく「寄贈」とすることにより、歴史的意味にかんがみて若干の絵画作品を返還の対象から外すという3点が問題となったとうに記憶する。幸い、フランス政府の指名した建築家はル・コルビジュであった、              久さしぶりに国立西洋美術館に入館したが、いかにも狭い。せめて、美術品はゆったりと拝観したいものである。

 

(本稿は「図録 確率西洋美術館開館60周年記念 松方コレクション展 2019年」、図録「国立西洋美術館名作選」を参照した。)

奈 良  大 安 寺

天平19年(747)の「大安寺伽藍欄縁起並流記資材帳(だいあんじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)によれば、大安寺の創立は聖徳太子の熊懲精舎(くまごりしょうじゃ)に遡るとする。しかし、私は、これは神話の世界だと思う。太子の遺志を引き継いで舒明天皇は舒明11年(639)に百済川のほとりに百済大宮と百済大寺の造営を開始した。天王家が建立した最初の寺であり、「大寺(おおでら)」の名を持つ規模であり、偉大な大王の寺の意味を持つ。王宮護持のため、大寺は大宮と対にして造営された百済大寺に建てられたという九重塔は王家の象徴でもあった。百済大寺の遺跡は吉備池廃寺(桜井市吉備)が最も有力視されている。(発掘されている)                          天武天皇2年(673)に百済大寺は高市の地に、高市大寺となる。高市の地に遷されたのは、飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはら)の護持に関わると見られ、天武6年(677)には大官大寺(だいかんだいじ)の寺号が与えられた。     現在、藤原京の左京八条二坊の地の大官大寺跡は、発掘調査の結果、7世紀末、文武天皇の代に造営された大官大寺であり、未完成で焼失していることが明らかになった。和銅3年(710)、都は平城に遷される。王宮、国家の護持のため大寺も遷都によって平城京に遷され、新都には官寺として大安寺、薬師寺、私寺として元興寺、興福寺が営まれた。大官大寺を受け継ぐ大安寺はいちはやく、霊亀2年(716)に平城京左京六条四坊後に遷されることになり、天平元年(729)には入唐留学生を経験した道慈律師が造営の任に当たることとなった。搭は六条大路を隔てた七条四坊の別院に営むことを特徴とする大安寺伽藍となった。天平10年(738)前後には塔を除き、主要伽藍はほぼ完成していたと考えられる。   奈良時代には、大安寺は四大寺の筆頭に位置し、道慈、善議,勤操に連なる三論の系譜ほか、来日僧も止住し、都の教学拠点であった。

平城京における大安寺の位置

官寺である薬師寺より、広い寺地を持つことが明らかで、奈良時代の官寺の最高位にあった。今日、薬師寺は観光地として有名であるが、大安寺を知る人は殆どいない。私が、大安寺に参詣した3時間ほどの間に、観光客は一人も来なかった。

重文 十一面観音菩薩立像        奈良時代

十一面観音菩薩は、疾病をまぬがれ、財宝や食物に恵まれるといった、さまざまな功徳が説かれている。頭部と両腕部が後世に補作されているが、体部から造立当初の端正なお姿を知ることが出来る。帯に掛かる衣は波形にひるがえり、裳腰の左右はたくし上げられ、流麗な衣文(衣と皺)と相まって、衣に軽やかな動きが感じられる。花や唐草を連ねた胸飾が極めて華麗であり、台座にも華の文様が浮き彫りされている。奈良時代の秀作である。                     (秘仏  毎年10月1日より11月30日まで開扉)

重文 馬頭観音立像     奈良時代

災厄を消除する馬頭観音像として信仰されている。目尻を吊り上、上歯で下唇をかみ、厳しい怒りの表情を見せる。腰には獣皮をまとい、胸飾と足首に蛇を巻き付ける。一般的な観音のおだやかな姿と異なり、悪事や邪心を退けるような、畏怖すべき姿である。平安時代に密教が流行すると多趣の憤怒像が造られるが、本像はそれに先立つ貴重な古作である。                       (秘仏で、毎年3月1日より31日まで開扉される)

重文  聖観音立像    奈良時代

聖観音菩薩(観世音菩薩、観自在菩薩)は、姿をさまざまに変えて人を救うとされ、本来の姿が聖観音と呼ばれる。大安寺の他の観音像と同じく、カヤの一木造である。足下に楕円形の台(履物か)を表すのは、馬頭観音・楊柳観音と共通する珍しい特徴である。顔立ちはおだやかで、肩から垂れる天衣は優美である。衣の衣文は細かく数多く刻まれ、装飾も華やかであり、全体に造形感覚が現れている。  (この仏と他の6佛像は、常設で鉄筋の讚仰殿(さんぎょうでん)に、祀られている。常時拝観出来る)

重文  不空羂索観音立像    奈良時代

不空羂索観音は、慈悲の縄(羂索)で、すべての衆生を救いとると説かれる菩薩である。8本の腕は小ぶりに補作されているものの、当初の形をとどめる体部は、幅と厚みも大きく、量感豊かである。顔立ちや衣文も力強く刻まれ、実に堂々たるお姿である。衣には、彩色されていたと見られる装飾文様の痕が、浮き彫り状になって残っている。

重文  楊柳観音立像      奈良時代

岩座に立ち、目尻を吊り上げて開口する。その姿は類例を見ないもので、本来の尊は明らかではなく、馬頭観音立像と同様に、空海が真言密教を広める以前の古い古密教(雑密)の尊像とと考えられている。肉体表現に優れ、体の肉づきの抑揚や、顔の筋肉の隆起が巧みに表されている。肩にかかるお髪は、木と粉の木糞漆(こくそうるし)によるものである。                       多くの菩薩像が着ける丈帛(じょうはくー左肩から右脇にかける衣)が見られず、腹部に薄い衣をまとうように帯を腹部上方で締めるのも珍しい。容姿が異色で彫技も優れた重要な像である。

重文  四天王立像   多聞天    奈良時代

4体とも頭部から台座までカヤの一本で掘出(両腕先は後補作)されているが、作風に違いがあることから、複数の四天王像があったうちの4体が残ったと考えられる。多聞天像は前身の動きが大きくバランスも良い。その肉づきは抑揚に富んでいて、顔立ちが気迫に満ち、甲冑も体制に応じた自然な動きを見せる。

重文  四天王立像 持国天立像    奈良時代              重文  四天王立像 増長天立像    奈良時代              重文  四天王立像 広目天立像    奈良時代

この三天王立像は、頭体部の動きを控えて重厚な姿に造られ、鷹揚な趣がある。持国天と多聞天は胸甲に華やかな花紋の浮彫が良く残る。力強さと華麗さを併せ持つ名作である。

大安寺西塔の遺構(東南から)

大安寺には、寺からかなり離れた場所に七重塔跡が残る。東西両塔で、現在の奈良地方では見られない大きな東西二棟の堀跡が残る。大安寺を見学される場合は、少々寺から離れているが、この東西二棟の跡地は必ず見学して頂きたい。いかに大きな規模のお寺であったかが、一目でわかる。

和辻哲郎や亀井勝一郎の「古寺巡礼」等には、一度も出たことが無く、恥ずかしながら私も「大安寺」と呼ぶ、「大官大寺」の後系となる古寺の存在に全く気付かなかつた。奈良の旅行案内書を読んで、「大安寺」に気付き、遅ればせながら、「大安寺」に詣でた。規模の大きな、大官大寺の後を継ぐ大寺を、遅ればせながら拝観した。仏像類は、七仏は常時「讚仰殿」(さんぎょうでん)に祀られており、何時でも拝観できる。2佛は秘仏で時期限定で拝観できる。近鉄奈良駅からバスで約20分で「大安寺前」で降りて、15分程歩く。小学校や、民家があり、昔の「大安寺」の遺構は見られない。現存する「大安寺」は、狭くて小さなお寺であるが、鉄筋の讚仰殿は何時でも拝観できる。七仏は常時拝観出来る。大安寺の規模を知るためには、やはり東西両塔(七重塔)跡地を拝見する必要がある。バスを降りて約20分歩き、仏像類を拝観して、更に10分程歩くことは、かなり厳しいが、大安寺のかっての規模や、寺格を知る上で是非拝観して頂きたい。同じ官寺である「薬師寺」の規模をはるかに上回る規模に驚かされる。

(本稿は、森下惠介「大安寺の歴史を探る」、大安寺編「大安寺」を参照した)

ウイーン・モダーン クリムト・シーレ・世紀末への道

 

今年は日本とオーストラリアの外交樹立から丁度150年目に当たる記念すべき年であり、2019年はこの展覧会を開催するに最も相応しい年である。ただし、オーストリアと言っても、当時のオーストリアは、オーストリア・ハンガリー二重帝国であり、換言すればハプスブルグ帝国であった。ウイーンは「ハプスブルグ帝国の主都」であり、1740年から1790年までの半世紀の間に大きく改造されて、近代化を果たした。ウイーンは「自由な精神」を持つ啓蒙された知識人たちを魅了し、ヨーロッパ文化の中心地となり、更に知性の中枢となり、様々な国人たちが出会う場所となった。この展覧会の特徴は、展示作品が400点以上に上り、かつウイーンの町の改造を示す絵画や写真、座椅子等の家具類、銀の家庭用品、装身具、ポスター、グリーティングカード等様々な生活用品が展示されており、その一部に絵画と彫刻が混じっていることである。そのすべてを解説する知識が、私に無いため、絵画のみの解説にした。私に能力があれば、家具類、服飾類も解説したいと思った。また絵画も19世紀末頃の知名度の高い画家に限定した、これも私の能力不足が原因であることを、最初にお断りしておく。

愛 グスタフ・クリムト作  油彩・カンヴァス 1895年

この作品は、グスタフ・クリムトが1895年に描いた「愛」の寓意画である。これはウイーンの有名な出版社ゲルラハ&シエンク社が発行した絵画制作のためのアイディア集「アレゴリー:新連作」のために描かれた。この図案集には多くの素描が掲載されたが、一方で油彩は数点しかなく、本作品は、有名な「接吻」(1908~09年)の初期ヴァージョンに位置付けられる。背後に見える不気味な姿は、恐らく運命の擬人像達として解釈できるが、併せて過去と未来の光景としても読み解くことが出来るだろう。若いカップルの幸福に満ちた愛に対して、苦々しい警告か、裕津さを与えている。画面を三分割する手法は、クリムトの初期の作品のも現れるが、金箔表現の巧みな表現は、これほど早い段階で、すでにクリムトが日本美術に関心を寄せていたことが分る。ジャポニズムの浸透である。

バラス・アテナ グスタフ・クリムト作 油彩・カンヴァス 1898年

1898年、分離派会館の開館にあわせた展覧会で発表するために、グスタフ・クリムトは、戦闘態勢にあるポーズを取ったバラス・アテナの油彩画を制作した。アテナが身に着けいる金属製の胸当ては、見ている人をあざ笑い舌を出すメドゥーサの顔になっている。これは明らかに分離派を批判する人々に向けられた反論だろう。女神は右手に小さな女性像を握っている。もし伝統的なハラス・アテナの像ならば、この小さな像は翼を持った勝利の女神の女神ニケアと同定できるのだが、本作品に描かれている、この小像は、見る者に鏡を向ける裸のスータ・ヴェルタス、つまり「裸の真実」である。背後には、海の怪物トリトン(反動的な保守主義者)と戦っているヘラクレス(新しい芸術の象徴)がいる。つまりクリムトの「ハラス・アテナ」は、分離派の哲学的寓意を描いたものとして解釈できる。

黄色いドレスの女(画家の妻)マクシミリアン・クルツヴァイル作 1899年

ウイーン分離派の創設者の一人であるマクシミリアン・クルツヴィルは、1895年に結婚したフランス人妻を、伝統にとらわれない方法で描いた。歯ながらのソフアーの背面に腕を伸ばした彼女は、エレガントなイヴニングドレスを身にまとい、自身に満ち溢れ、そして少々扇情的なポーズを取っている。明るい肌と黄金のような黄色いドレスは、青や緑など補色の模様が散りばめられたソフアーの前で際立っており、彼女自身が光り輝いているような印象を与える。彼女は冷笑を浮かべて鑑賞者を挑発するようかのようであり、わずかに首をかしげ、画面が持つ厳密な左右対称性を崩してしまう。

朝食をとる母と子 油彩・カンヴァス カール・モル作 1903年

カール・モルはウイン分離派の創設メンバーの一人で、初代副会長を勤めた人物である。本作品の中でモデルは、自身のプライベートの様子を鑑賞者に垣間見せた。本作では、画家の妻アンアと娘マリーが一緒に朝食をとる様子が描かれており、これと似たような作品をモルは複数描いている。

エミーリェ・フレーゲの肖像 グスタム・クリムト作  油彩・カンヴァス    1902年

クリムトの「エミーリェ・フレーゲルの肖像」は、ウイーン・ミュージアムが所蔵する作品の中で最も有名貴重な絵画の一つである。ここにお描かれているのは、等身大のエミーリェ・フレーゲだ。彼女は恐らくクリムトの人生で一番重要な女性だったと言ってよい。そんな彼女が、まるで泥のようなぼんやりとした色を背景に、顔や手、そしてデコツテだけが浮かび上がるように描かれている。写実的に描かれた顔とは対照的に、体全体、そして頭や肩のまわりを、まるでオーラのように抽象的な装飾が覆っている。フレーゲが着ているドレスを、研究者たちはたいてい「改良服(リフォーム・ドレス)として解釈しているが、しかしこのドレスは異例である。ドレスがぴったりと体に張り付くので、臀部のかたちがはっきろちわかる。肖像画としては細すぎるフォーマットと、二つの落款のような四角い署名を見たならば、日本美術がクリムト作品に影響を及ぼしたことがよくわかるだろう。

自画像 エゴン・シーレ作 油彩・板          1911年

エゴン・シーレ(1890~1818)はグスタム・クリムトを称賛してやまなkったが、彼自身は、すでにクリムトら先駆者たちとは全く違ったスタイルや要素を操る、新しい世代の芸術家であった。この表現主義的な自画像は、1911年、ボヘミアのクルマウを去り、新たな住居を構えたニーダーーエスターライヒ州のノイレンバッハで、シーレが描いたものである。若い画家は恐らく自己肯定感を得るために田舎に引っ越したのであろう。この自画像では自身の姿を横長画面の左側に描いている。シーレは自分の頭を右肩の方へわずかに傾け、左手の指を暗色で覆われた上半身の前で広げている。彼の背後にあるのは、枯れ木を描いた絵画や、クルマウの町を描いた作品など、おそらく彼自身の手による作品であろう。シーレは1907年、ウイーンのミートケア画廊で開催されたゴーギャンの作品を見て、インスピレーションを得たのであろう。いずれにしても、象徴主義の伝統からも影響を受けていると解釈できる。こうした手法により、彼自身が思い抱く自分に対する考えを、あるいは同時代の社会に対する考えを反映させながら、双面神ヤヌスの顔として自分自身を描いたのだ。

ノイレングバッハ画家の部屋 油彩・板  エゴン・シーレ作  1911年

1911年秋、シーレは小さな家にある自分の部屋を描いた。シーレはボヘミアのクルマウから戻ったあと、ノイレングバッハの郊外にあるこの家を借りていたのである。この小さなフォーマットの作品が、フィンセント・ファン・ゴュホの「アルルの寝室」と較べられることが多いというのは驚くことでは無いだろう。シーレ自身、ゴッホに対して親近感を抱いており、ゴッホが死んだ年に自分が生まれたのだと、繰り返し語っていた。1909年に開催された国際美術展クンストシャウ、シーレは、カール・ライニングハウス・コレクションの小さな展示室にあった「アルルの寝室」(1889年・シカゴ美術館)を見ることが出来た。シーレの本作品の特徴の一つは、サインが三回繰り返されている点である。この絵が完成するやいなや、アルトゥーレ・レスラーは」すぐさま本作品を入手した。このほか多くのシーレの作品とともに、レスラーの遺産の一つとしてウイーン・ミュージアムの所蔵となったのである。

ひまわり  油彩・カンヴァス エゴン・シーレ作  1909~10年

1909~10年に描かれたこの「ひまわり」を見ると、若い頃のシーレがどのように自然に対してアプローチしていたか、その姿勢がよくわかる。萎れた葉が茎から垂れ下がる様子は、まるで疲れた手足のようだ。乾ききった花はわずかに傾き、疲れてうなだれるた様子を思い起させるだろう。特徴的な画面形式は、当時の流行を反映させたものだと考えられる。縦長のフォーマットは、世紀末ウイーンのブック・アートに見られる欄外装飾のようであり、あわせて当時人気を博していた日本美術のイミテーションを思い出させる。ひまわりというモチーフは恐らく画家フィンセント・ファン・ゴッホからインスピレーションを受けたのであろう。シーレはゴッホの作品をウイーン国際美術展クンストショウで間違いなく見ていたはずだ。また同時に、ほまわりは1900年頃のウイーン芸術界で人気のモチーフだった。

美術評論家アルトゥール・レスラーの肖像 エゴン・シーレ作 油彩・カンヴァス1910年

この肖像画は、若き芸術家シーレとそのパトロンの長年に亘る親密な関係性を記録した点で、重要な作品である。目を閉じたレスラーの顔は左を向いているが、上半身は鑑賞者の方を向いているが、両手の指は広げられ、それぞれ反対方向に向けられている。右足は画面の左端まで広げられている。こうした対照的な動きによって、鑑賞者の視線は、白い淡いピンク色の背景から浮かび上がる人物像の上にジグザグをたどってゆくのである。右肩のすぐ近くに書き込まれた「s。10」という文字が目を引くが、これは画家のイニシアルと年紀である。この作品は世紀末ウイーンの装飾性豊かなデザインをはっきりと拒否した、革新的な性格を持つ。描かれている人物の心の状態に光を当てた本作品は、心理学的解釈を示した最初期の例の一つであり、あわせて、シーレがオーストリア表現主義に手を染めた最初の作品である。

イーダ・レスラーの肖像 エゴン・シーレ作  油彩・板  1912年

この絵の描かれた1912年には、エゴン・シーレは未成年者誘拐と公然猥褻の容疑で逮捕・勾留されている。世紀末の大画家として紹介しようとしたところ、飛んでもない疑惑で逮捕された。「イーダー・レスラーの肖像」は、肖像画の構想段階に当たる作品で、完成作ではない。

 

ウイーン万博は1873年に開催されている。明治政府は、初めて国をあ揚げて参加し、この展示品は観客たちを魅了したと伝えられている。その前から、ジャポニズムが西洋世界に大きな影響を与えていた。一番影響を受けたのはゴッホかも知れない。世紀末ウイーンの画家達(グスタム・クリムト、エゴン・シーレ等)にも多大な影響を与えたことが、この展覧会の作品を通しても理解できる。

 

(本稿は、図録「ウイーン・モダーンクリムト・シーレの世紀末への2019年」、図録「クリムト展 ウイーンと日本展   1919年を参照した)

美を紡ぐ  日本美術の名品(3)

[美を紡ぐ  日本美術の名品(3)」は、本稿をもって終わりとする。江戸時代から昭和までの明作を綴る。一度、取り上げた作品もあるが、日本美術の粋として選ばれているので、我慢して読んで頂きたい。勿論、大半が、初めての収録である。

虎図  一幅 谷文晁作 絹本着色  江戸時代(18^19世紀)三の丸尚蔵館

多彩な画題、画風を学び、多くの絵師をはじめとして、さまざまな分野の文芸人と交流した谷文晁(1763~1841)が、西欧から渡来したヨンストン「動物図譜」の指図の模写や、伝統的な水飲虎の図様をヒントに描いたもの。近代絵画の萌芽を感じさせる。

花鳥版画「牡丹に蝶」「紫陽花に燕」葛飾北斎2枚 錦絵 江戸時代(19世紀)東京国立博物館

「牡丹に蝶」

「紫陽花に燕」

葛飾北斎による花鳥画の代表作で、「富岳三十六景」と同時期に同じ版元の西村屋与八から出版された十図のシリーズである。「牡丹に蝶」では墨を面的に使って筆線に強弱をつけるなど、各図の描き方を変える意欲的な試みがなされている。北斎70歳代前半の作品。

玄圃瑶華(げんぽようか) 伊藤若冲自画・自刻 江戸時代・明和5年(1768)東京国立博物館

「壇特・華鬘草」(だんとく・けまんそう)

「花菖蒲・棕櫚」(はなしょうぶ・しゅろ)

「玄圃瑶華」の「玄圃」は仙人の居所、「瓔華」(ようか)は玉のように美しい花の意味。草花と虫などを組み合わせた四十八図がある。版木に紙を充着させ、拓本と同じようにその上から墨を打つて形を出す。若冲特有の拓版画の技法が用いられている。版も若冲自身が彫っている。53歳の時の作品である。なお、初収と思い思い、「生誕300年記念 若冲」の図録を調べたところ、図録の148,185ページに発見した。地味な作品であるから見逃したのであろう。しかし、自画・自刻は珍しい。見たことも、聞いたこともない。流石に若冲の「奇想振り」である。

「玄圃」(げんぽ)は仙人に居所、「瓔華」(ようか)は玉のように美しい花の意味。草花と虫などを組み合わせた四十八図がある。版木に紙を密着させ、拓本と同じようにその上から墨を打って形を出す、若冲特有の拓版画の技法が用いられている。版も若冲自身が彫っている。53歳の時の作品である。

「舞子」 黒田清輝作  カンヴァス・油彩 明治26年 東京国立博物館

明治26年夏、9年に及ぶフランス留学から帰国した黒田清輝(1866~1924)は、その秋に京都を訪れた際に舞妓を新鮮に思いスケッチをとり、本図を絵が描いた。鴨川を背に座る舞妓は、京都祇園の小野亭という茶屋の「小えん」を、隣は「女中のまめどん」をそれぞれモデルにしたという。黒田は、外交派と呼ばれた明るい画風を日本の洋画界に紹介し、明治43年(1910)には洋画家として最初の帝室技芸員に任命された。もし、黒田が本は本格的に印象派を学んできたならば、日本の洋画の世界も変わったのではないかと思う。如何であろうか。黒田の日本洋画界に及ぼした影響は、図り知れないものがる。

「雩性(うせい)」一幅 絹本着色 竹内栖鳳筆 大正13年 三の丸尚蔵館

古木の柳で白鷺が羽をつくろい、上部の枝では雀が喧しくさえずっている。丸山四条派の写実的な画風がに西洋画の描法や空間表現を取り入れた竹内栖鳳(1864~1942)の特徴がうかがえる作品。「東の大観、西の栖鳳」と呼ばれ京都画壇の中心として活躍した栖鳳は、皇室の御用も多く手掛けた。

秋茄子 絹本着色 西村五雲筆 昭和7年(1932)  三の丸尚蔵館

昭和7年の第13回帝展にて宮内省お買い上げとなった西村五雲(1877~1932)の代表作である。五雲は師である竹内栖鳳ゆずりの温雅な動物絵に定評があり、そこには徹底した観察眼が根底にあった。制作にあたり名古屋動物園に足を運ぶだけではなく、山奥まで野生の狐を探し、ついには自宅の庭に狐を飼い写生を繰り返した。

重文 色絵若松図茶壷 仁清作 江戸時代(17世紀)  文化庁

仁清は丹波(現兵庫県の一部)出身の陶工である。性を野々村、名を仁清といい、洛西御室の仁和寺前に窯を開いた。江戸前期に活躍した京焼の大成者として名高い。この茶壷は、小型の肩衝茶入の形態を拡大して茶壷にし、四方の肩に耳を付したもので、仁清独特の器形をしている。底は、平底とし、銅部は薄く焼き上げられて均整のとれた姿を呈しており、卓越した轆轤技術が遺憾なく発揮されている。さらに、細く緩やかな曲線は、総体に嫋やかで瀟洒な印象を醸している。地には仁清黒と呼ばれる独特の光沢を発する黒漆が掛けられており、下方の土膚は土埕に見立て、金泥で遠景の山並みを表し、赤、緑、金泥、銀泥を用いた若松、椿、桜などの花弁を組み合わせた吉祥の図様がリズミカルに配置されている。深い漆黒地に色絵によるミチーフが鮮やかによく映えた本作は、仁清色絵陶器の代表作の一つとして、評価が高い。

重文 色絵牡丹図水差  仁清作  江戸時代(17世紀) 東京国立博物館

17世紀前半に京都の仁和寺の門前で御室窯を開き、京焼における色絵の大成者として知られる野々村仁清(生没年不詳)の代表作の一つである。明治41年(1908年)に明治天皇の皇后により、東京国立博物館の前身である帝室博物館に御下付された。

 

「美を紡ぐ  日本美術の名品」を3回に亘り連載した。いずれも宮中となにかの形で縁のあった作家か、作品である。何れも名品であり、二度と見れないものが多数展示された。皇室の代替わりか、20周年記念などでない限り、二度と見れない名品揃いであった。改めて、「令和」の代が、人々にとって良き時代になることを祈りたい。

(本稿は、図録「美を紡ぐ 日本美術の名品  2019年」、「生誕300年記念 若冲  2016年」、図録「生誕150年黒田清輝  2016年」田中栄道「日本美術全史」、小林忠「日本水墨全史」を参照した)