「黒川孝雄の美」300編を書き終えて

2011年(平成23年)12月に書き始めて、300編に至るまで7年の歳月を要した。1年に44編を書いたことになる。スローな様であるが、途中で80編程を失ったため、実質は380編を7年で書いたことになり、1年間に平均54編を書いた計算になる。ここ数年、急いで書いた理由は、その辺にある。このブログを書き始めたきっかけは、望洋会(名古屋大学経済学部第4期生の同窓会)の「幾山河」に学生時代の思い出として飛鳥、奈良地方の古寺を廻ったことを書いたことである。大学時代の思い出と言われても、特別勉強したこともなく、敢えて言えば「飛鳥・奈良・大和地方」の古寺・古仏を訪ね歩いたことが唯一の財産であったからである。「幾山河」には「おほてらの まろき はしら」と題して幾つかの古寺・古仏の思い出を書いた。飛鳥寺、法隆寺、中宮寺、薬師寺、唐招招寺など、思い出深い5ケ寺を描いたように思う。題名の「おほてら」とは、唐招題寺にて、會津八一が「鹿鳴集」で謳った金堂の歌である。奈良・京都の仏寺が当初のテーマであったが、いつしか「美術展の招介」に移行していった。古寺巡礼と同様に、私は大学生時代から、数少ない経験であったが、西洋絵画の展覧会は必ず見学するようになった。また「徳川美術館」が、古い建物で残っており、毎月1回は訪れることにしていた。展示物は殆ど変らず、毎回同じ物を見学する訳だが、何かそこには、日常とは異なる物があるような気分であった。                会社へ入社(昭和31年)して、本社の近くに「ブリジストン美術館」が在ったのは、大変幸いであった。ここで、西洋絵画、近代日本絵画、彫刻等に触れ、大きな感動を覚えるようになった。昭和34年(1959)6月に国立西洋美術館が上野に完成したのも大きな変化であった。旧松方コレクションの一部(絵画196点、素描80点、彫刻63点、参考作品5点)合計370点が、フランスからの返還として上野にもたらされた。この松方コレクションは本来、もっと大きな収蔵品であったが、戦時中に「敵性美術品」としてフランス政府に没収され、一番素晴らしい美術品はフランス政府が美術館に収蔵し(例えば、ゴッホの「寝室」)、残り370点を「日本国民への寄贈」という形で返還したものである。松方コレクションは、15世紀頃から20世紀にかけてのコレクションであり、西洋美術を理解する上で、この上ない教科書であり、むさぼるように見学したものである。    さて「美」の読者数は月間4,500回という数字(年間54,000回)が基礎になる。誰に読んでもらっているかは、不明であるが、最近パソコンよりスマホに移動している。読者層が、20代~50代にシフトしたことが窺える。しかし、その内容は分からない。望洋会に記事が招介されるようになったのは、2012年9月9日の「荻巣美術館」からである。望洋会の読者数は、ネットを扱える人と考えると10人~13人位と思う。私たちの同世代は、残念ながら、パシコンには詳しくない人が大半である。従って、読者層は殆ど名前も地位も知らない人ばかりである。                                   ブログを書くためには、まず美術館へ行く、図録を買う(これで1日)、図録を詠みこむ、過去の関連図録や図書を読み直す(これで1日)、これを基礎にして原稿を書く(ここが一番時間を取られる。2日程度は必要)、同時に写真を10枚程度選んで、パソコンに収録する(これは前の2日間に含まれる)、原稿・写真をパソコンに取り込んで「ブログ」として完成させる(約1日)、これをアップして、望洋会や友人にアップしたことをメールで連絡する(2時間)、合計すると一つのブログを完成するのに4日強を要するということになる。            これを年間54編×4日=216日という計算になる。要するに私の自由になる時間の大半は、「美」に取られていることになる。果たして、それだけの価値があったであろうか?どうせ、何もすることも無い身であるから、自由になる時間をつぶす絶好の機会であったと思っている。しかし、このままでは、やや情けない。折角ならば、多少は、誰かのお役に立つ記事にしたいと思う。           話は変わるが、私は自分のホームページ上に、10年(120回)に渡り、「フランチャイズ時評」という記事を書き、いまだに大学生から「卒論に引用したいが、許可してもらいたい」という電話が架かってくる。それどころか、関西の有力私大のフランチャイズ専門家(大学教授)より、「メガフランチャイズ」について私の見解を聞きたいとして、上京されることが最近あった。「フランチャイズ」は私の専門であり、その程度の要望があっても可笑しくない。しかし、それ以上に時間を掛け、情熱を燃やしている「美」に対しては、特段の要望も出ない。      察するに、私の「美」のレベルは美術愛好者の域を出ず、誰も専門家とは見ていないからである。300編が一応の目標であり、ここで止めても良いが、私の気持ちは、まだまだ続く。多分500編程度までは掻き続けることになるだろう。専門家とまではいかないが、一つの意見として注目してもらえるようになるためには、やはり専門的知識の素養が足りない。日本美術史、西洋美術史から進んで、日本仏教史、日本史、西洋史、中国史、旧約聖書、新約聖書等など、美術全体の系統的知識、教養、更には専門的見識に至るまで備えなければ、誰も「意義あるブログ」とは見做してくれないのである。所詮、現在程度の知識、素養では素人の域を出ないのである。本格的、かつ体系的知識を身に付け、専門家からも一目置かれる「黒川孝雄の美」を更に書き続けたいと思っている。                 なお、望洋会へのブログ・アップについては佐藤君、中山君に大変お世話になった。この二人の励ましが、今日まで続いた原動力であった。厚く御礼申し上げる。なお、この「300篇」に関しては、DVを作成して、古い友人に配布したいと思っている。

 

畠山記念館  生誕150年  原三渓ー茶と美術へのまなざし(2)

原三渓(1863~1939)は、増田鈍翁と並んで明治、大正を通じて、日本美術品の海外流出を防いだ、日本美術品の大コレクターであった。また、この二人は数寄者としても著名であった。原三渓は慶応4年岐阜県に生まれ、明治21年に上京し、跡見女学校で漢学と歴史を教える傍ら、東京専門学校(現早稲田大学)に学んだ。明治25年、教え子の原屋寿と結婚した。原屋寿は両親に早く死なれ、横浜で生糸問屋を営んでいた祖父原善三郎の相続人となっていたため、富太郎が原家に入籍して店を継いだのである。善三郎亡き後は原商店を原合名会社に改組して輸出業に着手、34年からは株式会社第二銀行の頭取も勤めた。三渓は事業を拡大する一方、その莫大な財産を後ろ盾として本牧三の谷の三溪園に居を移し、ここに古建築の購入、移築を行い、今日の「山渓園」を作庭した。また数寄者として、茶人との交流も多く、三溪園でも茶会を催している。しかし、至福の時は続かなかった。大震災で強羅の別邸白雲洞を失い、生糸も焼失し、その後の世界的恐慌もあり、後継者も亡くなり、晩年は恵まれないまま、昭和14年(1939)に亡くなった。膨大な収蔵品は、奈良の大和文華館や東京国立博物館に多数引き取られた。また、茶道具をはじめ一部の美術品は、畠山即応にも渡り、今回の展覧会となった。今回は、写真が多く入手出来たので、2回に亘り、連載することにした。畠山記念館としては、初めてである。

重美  四季花木図屏風  渡辺始興作   六曲一双 紙本着色 江戸時代

誠に華麗な屏風であり、茶人の即応が何故、このような美しい屏風を手に入れたのか、不思議に思ったが、琳派の収蔵品も多く、琳派の一人であるため、入手したものであろう。四季花木図は琳派の画家達が好んで屏風絵とした題材で、四季の花木や草花を右から左に配置し、一双を立て廻らせることによって、居ながら花園を鑑賞することができるものである。本作は始興の代表作とも言うべき作品であり、たらし込みの技法や胡粉を盛り上げ、その他草花に用いらた意匠化など琳派様式であり、如何にも公家好で王朝風である。この姿勢は、始興が仕えた近衛家煕(いえひろ)の影響があったのではないかと思われる。地味な茶道具の最後に、この華やかな屏風には、毎度驚かされる。原三渓の旧贓品である。

重文 竹林七賢人図屏風  雪村周継作  六曲一双屏風 紙本墨画 室町時代

中国の魏末・晋初(3世紀頃)竹林に集まって酒を酌み交わし、琴を弾じ、清談にふけった七人の陰士がいたという。彼らの姿は権力欲や物欲などを捨て、あるべき人間の理想の一つと認識されている。中国では四世紀以降、この逸話を題材にした「竹林七賢図」が描かれるようになり、日本では等伯や探幽なども描いている。雪村周継は、室町時代末期の画僧。常陸を中心に會津、鎌倉において活動し,晩年は三春(福島県)に渡り、当地で没した。昨年、名古屋で「雪村周継展」が開催され、見学できなかったことが残念であったが、思わぬ所で作品に接し、大変勉強になった。本作も、原三渓の旧贓品である。

重文 大慧宋杲墨跡  尺牘           南宋時代(12世紀)

この墨蹟はは大慧晩年70歳のもので、宛名は判明しないが、厚誼の深い禅者に送った書簡である。終わりより三行目に戊寅とあるから、南宋高宗朝の紹興8年(1158)であることが知られる。茶会の席に飾られたものであろう。

水玉透鉢  野々村仁清作            江戸時代(17世紀)

この作品は、畠山記念館で拝見したのは初めてではない。全く同じ品を、今年の2月にサントリー美術館で開催された「寛永の美」で拝観したので、係員に「サントリー美術館に貸し出したのか?」と聞いたところ、外部には全く貸し出していないとの返事であった。「寛永の美」の図録を確かめたところ、MIHO MUSEUMの所有であった。思うに仁清は、似たような作品をある程度の数を作り、各所に販売したのであろう。なお「白釉円孔透鉢」の名称で陳列されていた。図録では「シンプルかつシャープな造形で現代の工芸品にも引けを取らない斬新さを見せるこの鉢は、色絵とは違った面での仁清の真骨頂に位置付けられる作品であろう」とまとめている。誠に要点を得た説明であり、そのまま借用しておく。なお、この作品は、三渓とは無関係とのことであった。

備前種壺共蓋水指  銘 太秦(うずまさ)    室町時代(16世紀)

中世以来壺・甕・擂鉢等生活雑記を焼造してきた備前焼は、侘び茶の広がりと共にその素朴な作風が好まれ、水指・建水等に見立てて使用されたり、次第に茶陶として茶人好みの作品が焼かれるようになった。この水指にような器形を、種壺と称している。箱蓋裏には三渓の花押があり、その横に畠山即応が「太秦」と銘を書きつけている。作意の感じられない侘びた趣は、小壺を見立てたものとも考えられる。

青磁鍔花入                 南宋時代(13世紀)

青磁は今から2千年ほど前、中国の漢時代(前220~後221)の初期には既に黄河や揚子江流域で焼かれていたが、釉色は茶色味がかかってオリーブ色を呈していた。青いいわゆる青磁の美しい色が出せるようになるのはそれから千年後、宋時代(960~1279)のことである。日本には花入・香炉・瓶などが禅宗の渡来と共に請来され、寺院の荘厳具、座敷の床飾りにと、珍重された。この花入れは古代銅器をかたどって造られたもののようである。中蕪の胴に太い円筒状の頸がつき、頸の胴に近い部分にある張り出しを茶人は刀の鍔に見立てて、鍔花入れと呼んでいる。

共筒茶杓  銘寿  尾形光琳作        江戸時代(18世紀)

尾形光琳(1658~1716)は、高級呉服商の雁金屋の次男に生まれた。絵画の制作、手箱の蒔絵、弟の乾山陶器への絵付けなどさまざまな作品を残し、江戸琳派を代表する一人となった。芸術家の茶杓としては、狩野探幽・尾形乾山・酒井抱一などが知られるが、蒔絵類まで手掛けた光琳の茶杓には、その洗練された意匠性がうかがわれる。櫂先は丸みを帯びてゆったりとした中節の茶杓で、節下、追取の部分は竹の模様に沿って削り込まれ景色をなし

共筒茶杓 銘 有明 小堀十佐衛門政貴作        江戸時代(17世紀)

作者小堀政貴(1639~1704)は、遠州の四男で茶道具の目利きに勝れ、特に茶杓は得意であつたと言われている。本作の銘の由来は明らかでないが、茶杓の露と櫂先は、急角度に曲げられている。露の先端中央から細い縦縞が通っており、中節を過ぎるとやや右寄りに流れている。全体的にほっそりとして引き締まった造形は、父遠州の作風を踏襲した瀟洒な作行きである。

共筒茶杓  佐久間将監真勝作       江戸時代(17世紀)

作者佐久間将監真勝(1570~1642)は、家康・秀忠・家光の三代将軍に渡って作事奉行を勤めた人物で、晩年は京都柴野の大徳寺に隠棲し、寸松庵という茶室を設けて茶湯三昧に過ごした。所持していた紀貫之の色紙は「寸松庵色紙」として知られている。茶杓は櫂先が大きくたっぷりとして、やや右上がりの作振りである。中節は直腰、節上は鼈甲色で直下には刀で刹ぎ目を入れた景色がある。本作は下方に「寸松庵」と墨書された珍しい一作となっている。箱裏蓋には三渓翁の署名が認められる。

備前火襷水指   銘玉柏           桃山時代(16世紀)

備前焼特有の緋襷(ひたすき)は器に入子にして焼成する際、作品同士のくっつきを防ぐために間に挟んだワラが器胎の鉄分と反応し、赤く襷掛けしたような文様に焼き上がったものを言う。備前焼は茶人に賞玩されてきたが、自然の力によって生まれた緋襷等は殊に珍重された。この水指の肩は心持ち張らせ、裾へかけてすぼまった端正な作行きで、白い地肌に襷の火色も鮮やかに出ている。形、色とも品格がある。

 

原三渓より畠山即翁が譲り受けた作品(水玉透彫は除く)ばかりであるが、優品が多い。特に二つの屏風には驚いた。重文、重美などの指定を受けたもので、雪村の「竹林七賢図」、渡辺始興の「四季草花図屏風」、共に傑作であり、この茶の湯専門の美術館でお目に懸れるとは思っていなかった作品である。また、水差、茶杓など、毎回拝観しているが、写真が入手できないため、招介をあきらめていたが、今回は図録などのおかげで、招介することが出来た。畠山記念館を2回にわけて紹介したのも、茶杓、水差など、常日頃招介できないものが、多数招介できたる機会となった。

 

(本稿は、図録「原三渓旧蔵の茶道具」、図録「与与衆愛玩  畠山相応の美の世界」、図録「与衆愛玩 琳派」を参照した)

畠山記念館  生誕150年 原三渓ー茶と美へのまなざし(1)

明治、大正そして戦前の日本美術コレクターであり、茶の湯も愛好された横浜の実業家・原三渓(1868~1939)。今年が生誕150年を迎える事を記念して、畠山記念館が所蔵する原三渓旧蔵の書画や工芸品約50点を、一挙公開をした。国宝1点、重要文化財6件、重要美術品6件を含む三渓コレクションと関連資料を通して山渓のまなざしに迫る企画である。三期に分けて展示され、私は中と最後の2回拝観した。構想としては、やはり全部3回とも見るべきであったことを残念に思う。あまり内容が多いため、今回は珍しく2回に分けて連載することにした。

布袋図  尾形光琳筆             江戸時代(18世紀)

光琳は布袋図を愛好し、蹴鞠をしている姿、馬に乗った姿など、様々に描いている。寿老人・大黒天も多く、めでたい絵として当時の人々に好まれたことがわかる。本図は、光琳晩年の作として知られる。宗達風のゆったりとした描線、衣に見られるたらし込みの手法などには余裕が感じられる。布袋の口の速い筆づかいなど、軽妙洒脱な味わいもある。大きな頭の複副しさ、温かくユーモラスな表情、がっしりとした足取りの悠々とした姿は、明るく親しみの感じられる絵である。

重文  春景山水図  横川景三賛        室町時代(15世紀)

山間に閑居する高士を友人が誘う様子を描いた図で、室町時代の五山僧に好まれた題材である。無落款であるが、従来、周文の弟子である岳翁蔵丘の作となされてきた。前景には大きく斜めに描かれた松があり、従者をつれた人物が歩いている。楼閣には高士らしい人の姿が見られ、後景には岩壁が聳え、更に遠方の山がかすんでいる。樹木や岩駿などの調所に濃墨の線を使用しており、また淡彩を賦して早春の雰囲気を伝えている。賛を書いた横川景三は、相国寺・南禅寺に住し、明応2年(1493)没。散文に勝れ、小補と号した。箱書きは狩野探幽である。

国宝  禅機図断簡  印陀羅筆 礎石梵琦賛   元時代(14世紀)

禅宗祖師や禅僧と参禅者の問答を描く禅機図のうち、李渤・智常の対面を描く一図である。江州の地方官吏であった李渤は、大変な読書家であっあたが、ある時「維摩経」の「芥子粒に須弥山を衲れる」という語をどうしても理解することができず、深く帰依する帰宗智常禅師を訪ねて問い、はじめてその意味を悟ることができたという、禅会の場面を描いている。本図と同一の画巻から切断されたと見られる断簡が「寒山拾得図」・「布袋図」等4点現存している。この禅機図鑑の制作は礎石が中天竺寺に住した元末の至正年間(1341~)頃と考えられている。印陀羅の作品はすべて禅宗関係の人物画であり、濃淡墨を対照的に用いて粗放に表現し、枯淡で素朴味を帯びつつ、奇々飄々たる独自の境地を示している。

重文 継色紙  伝小野道風筆         平安時代(11世紀)

「継色紙」は「枡色紙」・「寸松庵色紙」と共に「三色紙」と呼ばれ、古筆の中でもとりわけ珍重されている。「万葉集」や「古今和歌集」などの古歌を集めた未詳私選集の断簡である。料紙はさまざまな鳥の子の染紙を用いている。「色紙」と呼ばれているが。もとは粘葉(でっちょう)装の冊子本であった。和歌一首を見開の二頁にわたって書写し、方形の料紙を二枚継いだようにみえるため、この名で呼ばれる。1頁には「反首切」と呼ばれた。本品は、薄茶治の鳥の子の染紙に「古今和歌集」巻第二十・東歌の和歌一首を詞書や作者名を記さずに、歌のみを上の句と下の句に振り分けてそれぞれ四行に散らし書きする、ゆったりとした筆運びを基本に、一点一画すべての線が緊張感を持ち、軽妙かつ力強い書風である。文字の配置に工夫のあとが見られ、独自の散らし書きの構成力にも一段の冴えを見せている。筆者は小野東風(894~966)と伝えるが東風の自筆仮名が確認できないため確証はない。

赤楽茶碗  銘李白   本阿弥光悦作     江戸時代(17世紀)

能書家として知られる本阿弥光悦(1558~1637)の作陶活動は、元和元年(1615)鷹ケ峰に庵住するようになって以降のことと考えられている。楽第二代状慶や参代道入らの協力を得て、土を取り寄せたり、釉がけや焼成を依頼しての作陶はあくまでも素人の趣味的要素が強く、それゆえに鋭い感覚の生きた造形美を造り出している。このたっぷりした筒茶碗は「加賀光悦」「富士山」等に共通する作行きで、低い高台からほぼ直角に腰を張り、同部はやや開き気味に真直ぐ立ち上らせている。口縁の鋭い箆使いや、平に削られた見込も特徴的である。赤土に透明釉がかかり明るく発色しており、胴に丸くたまった釉が景色となっている。楽旦入の添状が備わり、内箱蓋表には「光悦茶碗」とし、裏には「李白 山渓(花押)」と書付けがある。

古瀬戸肩衝茶入  銘 畠山             室町時代(15世紀)

「畠山」の銘は閑事庵宗信の「雪間草茶道或解」によると、京都の畠山辻子で一条宗貞が北野天神社参詣の帰りに、これを求めたことに由来するという。口造りの甑は低く、捻り返しはなく、肩は一文字にきっかりと強く張り、腰で急にすぼまっている。裾から下は金氣色の土見であるが、総体に掛かる光沢のある黒褐色釉は天目風で厚く、随所に禾目の窯変が見られる。ざんぐりとした粗い糸切底で、手取りはずっしりと重い。伝来は、加賀前田家や原三渓を経て畠山記念館に伝来した。惹家の上蓋と箱、替蓋の箱書付は小堀遠州である。

青織部菊香合                桃山時代(17世紀)

蓋の甲に九弁の菊をあしらったこの香合は、「雲州蔵帳」の上之部に収められ箱書には松平不昧筆で「織部焼きく香合」としるされている。又、蓋裏に三渓の署名が認められる。愛らしい円型で釉を削り取って表された菊が、くっきりと白い土の色を見せている。合口までかけられた織部釉の濃淡も美しい。織部釉は酸化銅で、黄瀬戸の胆盤が発達したものだが、この香合では薄い所は透明な緑色、濃く溜まった所は表面が青く光って、移り変わる美しさを見せている。

由鉾香合   尾形乾山作            江戸時代(18世紀)

原三渓翁の箱書きで、左右にそれぞれ「春」「ゆいほこ」と記されている。前者は京都の祇園会の鉾に結いつけて吊るした飾に因んで名づけられた。乾山の香合では鑓梅の香合が名高いが、ゆいほこ香合は他に類品を見ない独特のものである。球形に近い形に、自由に箆目を入れ変化をつけ、香合の切れ目、甲に付けられた把手などが力強く、温かさを感じさせる。淡い色の地には、銹絵の幹枝と白土の梅に、紅と黄をあしらって白梅一株が描かれている。底は無釉で、銹絵の「乾山」の銘がある。

絵瀬戸割高高台茶碗  元鬢(げんびん)       江戸時代(17世紀)

すっきりと胴を立ちあがらせ、口縁を少し反らせている姿は端麗で、品のある筒型茶碗である。御深井釉と呼ばれる透明度のある淡黄色の釉がかかり、平に削られた見込には釉がたっぷりとたまり、ガラスのような青緑色を呈している。大振りな高台は無釉で、内部は削らず十文字に割ってある珍しい作りである。胴側面に一方に鯉に水草、他方に一群の笹が鉄絵具で描かれ、釉の景色と相まって趣深い。李朝鉄絵の影響を思わせることもあってか原三渓は内箱蓋裏に「元鬢」と張り紙している。陳元鬢(1587~1671)は明の亡命者で、尾張徳川家藩主徳川義直に厚遇され、瀬戸焼、特に徳川家のお庭焼である御深井焼を指導し、釉の改良を行った人物である。

出雲茶碗  倉崎権兵衛作            江戸時代(17世紀)

出雲焼は、出雲松江藩の御用窯として倉崎兵衛重由によって創窯された。権兵衛は朝鮮渡来の陶工を父に持ち、萩で生まれ育ったが、延宝5年(1677)松江藩主松平綱隆よりかねてから陶工招請があったことを受け、助手二名と共に出雲に移る。松江市東郊の楽山に窯を開いた。元禄7年(1694)に没するっまで作陶を行い、また技術者の養成にもあたった。その作風は朝鮮の焼物の影響が強く、伊羅保写・高麗写を得意とした。この茶碗も和陶にない大らかな作行きで伊羅保に似て薄作りであるが、大胆に箆を使い釉がかかり面白い。箱蓋裏に「権兵衛」と三渓が書きつけている。

 

畠山記念館は、主として茶道と能の道具を集めた美術館であったが、絵画、屏風など様々な美術品を収蔵する美術館であることを確認した。従来、抹茶の茶碗を多く招介してきたが、今回は屏風、茶杓、水指など茶器を種類多く書くことが出来たのは、写真が入手できたからである。今までの、畠山記念館の記事とは、大分異なる記事となった。趣味を同じくする旧友Y君と、いずれゆっくりと鑑賞したいと思う。

 

(本稿は、図録「與衆愛玩  畠山即応の美の世界」、図録「與願愛衆 琳派」、図録「原三渓旧蔵の茶道具」を参照した)

出光美術館 江戸絵画の文雅ー魅惑の18世紀

元禄年間(1687~1704)は江戸文化の爛熟時代を迎えた。日本は経済活動の発展により、空前絶後の繁栄を極めた。開府よりおよそ100年を迎えた江戸の人口は100万人を突破し、世界最大級の都市となった。そして大阪、京都もまた数十万規模の大都市へと発展した。日本における「都市」という新たな生活空間の誕生は、文学・演劇・美術など、多様な文化の成立・発展に結び付いた。これら文化芸術の特質を端的に表す言葉に「雅俗」、すなわち漢文学・和歌に代表される伝統的な「雅」と、俳諧や戯作といった新興の「俗」がある。この二つの文野が画然と分かたれてるものではなく、実際は相互に混じり合いながら、豊かな文化構造を形成していった。古くから文芸と絵画は不可欠の存在であり、雅俗の混交は、画壇にも当てはまるものであった。「雅」なるものの象徴とも言える文人画においては、漢文学に対する深い素養とともに、俳諧など「俗」なる文芸が重なり合いながら、日本独自の情趣性を帯びていった。この雅俗の絵画をキーワードに見て行く趣旨の展覧会であった。中国で生まれた、正統な画として君臨した文人画。画家の精神性を尊ぶこの絵画が日本で花開いた。そしてこの中で、日本の文人画を象徴する二人の画家が生まれた。それが池大雅と与謝蕪村である。

蜀桟道図   池大雅作  絹本着色     江戸時代(18世紀)

蜀桟道は、長安と蜀の都・成都の間の大山脈を越える難路である。古くより陜西と四川を結んできた交通の要所として知られる。3千メートル級の豊嶺山脈の断崖に穴を穿ち、穿った穴に柱を差し込んでで丸木を組んだ道は、人馬が一列になってやっと進める広さである。盛唐の詩人・李白が「蜀道の難は、青空に上がるよりも難し」と詠じるなど、古来、詩文や絵画の好画題となった。大雅の描く桟道も馬が落ちてきそうなほど急峻だが、馬上の人物の表情は愉しげで、振り返って聲を掛け合っている姿は滑稽なほどである。古来の文人画のイメージは、大雅特有のおおらかな人間性によって、今まで誰も無しえなかった明るく開放的な主題に生まれ変わった。

寒林弧鹿図  与謝蕪村作  絹本着色    江戸時代(安永8年ー1779)

蕪村は安永7年(1778)より、私淑する明時代の画家・唐寅にちなんで「謝寅」の号を用い始める。時に蕪村63歳である。多様な展開を見せた蕪村の画業は、これ以降円熟期を迎えることとなる。本作は謝寅時代の名品と呼ぶにふさわしい作品である。冷え冷えとした晩秋のくさむらの中を走る一本の道。そこを行くのは一頭の鹿である。道の脇を勢いよく流れる川の源をたどると、後景で高々と聳え立つ峻嶮な山へと行きつく。荒涼としてた情景と寄る辺ない鹿の姿が見る者の胸に迫る。本作において、峻厳な面持ちを見せる中国画風の山水でありながら、画面全体からそこはかとなく日本的情趣を感じさせるのは、物哀しいながらも飄逸な雰囲気を漂わせる鹿がなんともいえぬ俳味をかもしだしているためであろう。中国と日本、雅と俗が混交した、蕪村の達成を象徴する一作と言えよう。

龍山落帽図 与謝蕪村作    紙本着色  江戸時代(宝暦13年ー1763)

中国の晋時代、将軍・亘温が龍山で酒宴をもよおした時、補佐官の猛嘉の帽子が風で飛ばされた。周囲は猛嘉の失態を嗤ったが、猛嘉は当為即妙に返答し、かえって名を挙げたと言う。風流洒脱な文人をあらわすこの「猛嘉落帽図」の故事を、本作で蕪村は色彩豊かに描いている。中間色を多用しながらもヴィヴィッドな色彩感覚や奇矯な人物表現は、明末に活躍した徽宗派の画家を想起させる。当時の人々が描いた理想の文人表象を見て取ることができる。

国宝 夜色楼台図 与謝蕪村作 紙本墨画淡彩江戸時代(宝暦11年ー1761)

蕪村が最晩年m安永7年(1778)63歳から没するまでの5年間に描いたとされる作品の一つである。画巻を思わせる横長の画面は「夜色楼台雪萬家」の題で始まり、その左に雪降る夜の街並みの画が続く。しかし描かれているのは、中国の山水画で理想とされる雪に閉ざされた秘境ではなく、京都の東山ににた、どこか懐かしささえ感じる、ゆるく優しく引かれた山並である。家々の窓には室内から漏れる灯火の代赭が施され、人々の生活の温もりが伝わってくるようだ。俳諧を通じて、和漢の文学に精通した蕪村ならではの、雅と俗が融合した江戸中期を代表する名作である。実は、出光美術館の「江戸絵画の文雅」を拝観した大半の目的が、この蕪村の「夜色楼台図」を見ることが目的であり、この絵さえ見れば、目的はほぼ達成された。名画に接した興奮は、何物にも代えがたい歓びである。

重文山水図屏風与謝蕪村作六曲一双(一部)江戸時代(宝暦13年ー1763)頃

左右の両端に山並みを描き、中央に水景を配する。安定感のある雄大な構図の山水屏風である。右隻には青々とした木々が茂る春から夏にかけての風景が描かれている。第二扇の山並みの背に暮れ行く夕陽がうっすらと描かれ、空全体をほの赤く染めあげている。水亭には団扇を手にくつろぐ高士が配され、木々の葉はそよ風に揺れる。夏の夕暮れの爽やかな情景である。一方左隻では、木々の葉のあちこちが赤く染めあげられ、深まる秋の気配が感じられる。山に抱かれるようにして立つ茅屋の中には、青い衣を着た人物が一人。あるいはこれは蕪村かも知れない。光沢感のある布に描かれることによって、陽光のきらめきさえも表現されているようである。季節の微妙な変化までをも見事にとらえた、蕪村の鋭敏なまなざしが感じられる。

富士図扇面  伝尾形光琳作 下絵鈴木其一作  薄下絵 鈴木其一作 江戸時代

三保の松原を見越して雪をかぶった富士を望む。金地の扇面画である。落款がないため作者は不明であるが、光琳の系統に属する作例であることは間違いない。しかし、本来の光琳作とは思えないので、光琳の原本をもとに、次世代の絵師が描いたものと見做すのが妥当だろう。なお、本作は、掛軸に改められた際に、江戸琳派の絵師・鈴木其一(1795~1858)が薄を下地に描いている。本作の富士を「伊勢物語」「東下り」の段に擬した上で、同書の「武蔵野」を暗示させる薄を下絵として描いたのであろう。

梅に柳図扇面  伝 俵谷宗達作  紙本着色(上)     江戸時代    いんげん豆図扇面 伝 俵谷宗達作 紙本着色(下)     江戸時代

「琳派」の祖とも称される宗達(生没年不詳)は、「俵屋」という工房を率い、扇絵や料紙などを制作していたと考えられている。本作はこうした俵屋工房での扇面制作の実態をうかがい知ることができる珍しい作例である。「梅に柳図」はやわらかな筆墨で梅と柳の木が描かれ、そこに付け立で葉や花が描かれている。「いんげん豆」も緑青の付け立でインゲン豆を描き、下部には謹直な筆戦で波紋を配している。面白いのは画面余白で、各所に「銀泥」「金泥」など下地装飾の指示が認められる。これにより本作は、工房内で類品を制作するための粉本(見本)か試作品あるいは破棄された未完成品と考えられる。元和元年から寛永年間にかけて宗達工房内で制作されたものと推定できる。

芙蓉図屏風(一部) 六曲一双  伝尾形光琳作     江戸時代

群生する芙蓉が、花弁や葉に金や銀を用いて表される。図様の連続性が不自然である。もともと六曲一双で仕上げられた屏風がのちに一隻の屏風として再構成されたと考えられる。本作の伝称者である尾形光琳には、本作が呈する装飾性に富んだ金属的表現と通底する要素が感じ取れる。「絵画」と「工芸」の間を自由に行き来する光琳の特徴を良く感じさせる一作である。

重文 籠煙惹滋図  浦上玉堂作  紙本墨画     江戸時代

画面最下部の中央に配された土埞には木々が高々と伸び、その脇あずまやの中にはくつろぐ人物の姿が描かれる。その視線の先には水景が広がり、さらに奥に眼をやると、ひときわ高く屹立する峰を中心に、垂直方向に誇張して伸びる山々が立ちあがる。色紙程度の寸法の画面からは思いもよらぬほど広く深い光景が描かれている。画面左上には、玉堂自身による「籠煙惹滋」の四字題が見られる。玉堂が得意とする渇筆によって余すところなく表現されている。玉堂73歳頃の作品と見られる。

 

文人画の池大雅、与謝蕪村、琳派の宗達、尾形光琳、19世紀の浦上玉堂を取り上げ、「文と雅」を求めたが、矢張り蕪村の「夜色楼台図」に大半の興味を取られたの止むを得ないことだろう。但し、この絵はⅠ1月13日から18日までの6日間の展示であり、その期間は良く混んでいた。やはり、この絵を観たくて来た人が多かったようである。

 

(本稿は、図録「江戸絵画の文雅  2018年」、田中英道「日本美術全史」を参照した)

京都・大法恩寺 快慶・定慶のみほとけ(2)

六観音と言う言葉は、必ずしも仏教美術で決まった用語では無いようである。私が愛用する石田茂作氏の「仏教美術の基本」には、「六観音」という言葉一切出てこない。また平凡社刊の「仏教美術入門」全6冊にも現れない。これは、六観音という言葉は、何かしら謂れが有るのだろうと調べてみたら、次のような事情が分かった。平安時代に栄華を極めた藤原道長が造営に励んだ法成寺は、大日如来や阿弥陀如来などを祀る総合的な大寺院であった。七仏薬師を祀る薬師堂に六観音も安置されることになったが、その姿について道長から相談された真言宗の仁海(にんかい)は、従来とは異なる仏の名前を挙げた。それが、この大報恩寺に伝わる六観音と同じ観音像であった。日本では平安時代まで観音と言えば現世利益の仏であり、あらゆる世界の、特に来世の救済の対象となったことは画期的であった。古代インドの死生観では、あらゆる生き物は生まれ変わり続けるとされており、この転生(てんしょう)する世界をまとめて六道と呼ぶ。六道輪廻と呼ばれる転生の考え方は、仏教の伝来と共に東アジアでも広く受け入れられた。六道とは、上から天、人(じん)、阿修羅(あしゅら)、畜生、餓鬼、地獄という六つの世界であり、私も子供の頃から、祖母から六道について教えられた記憶がある。仏教とは、この輪廻(りんね)から逃れること、すなわち解脱(げだつ)を目指す宗教であった。六観音は六道のどこにいても救済の手を差し伸べるものである。このように説明すると、六観音はどの宗派でも、同じでは無いかと思うのだが、天台、真言宗等に限定されているようである。大報恩寺に伝わる観音像は真言宗で信仰された六観音と言えよう。しかし、大報恩寺の最初から、この六観音が伝来した訳ではない。もともと北野天満宮の鳥居の南側にあった願成就寺経王堂(がんじょうじゆじきょうおうどう)に安置されていたという。大報恩寺の縁起や棟札によれば、「六観音と地蔵像」は、寛文十年(1670)に破損甚だしかった経王堂から大報恩寺に移されたという。さて、この六観音はいずれもカヤ材が用いられており、表面は彩色や漆箔はせず、木肌を露出したままである。これは壇像(だんぞう)を意図して造られたものと考えられる。壇像とは本来、インド原産の白檀で造らるべきであるが、東アジアでは白檀は自生せず、代用材として日本では奈良時代後期より、白檀の代用材としてカヤを用いて多くの木彫像が造られるようになった。この六観音は、動物性の膠では無く、植物性の漆を採用していることも、大きな特徴である。展示会場では真暗な中で、六観音象が弧線状に並べられ、一像、一像にライトが当てられ、浮彫りのように美しく並べられていた。地蔵菩薩は、出口辺りに一躯にみ飾られていた。

国宝洛中洛外図 上杉本 狩野永徳筆 安土桃山時代(16世紀)米沢上杉博物館

この洛中洛外図の第5図の上部に「北野天満宮」を示す鳥居が立ち、左側に北野経王堂が建つ。堂内外には数人の人影が見える。お堂の四面は開け放たれているように見える。蔀戸はあるが、開け放たれているように見える。これは江戸期に入ると壁が出来る。蔀戸を開け放つ状態で、六観音が祀られているとは思えない。慶長11年(1606)豊臣秀頼による経王堂の修繕が行われたことが資料により明らかである。六観音は、経王堂に移座されたとされる。寛文10年(1670)大報恩寺が修繕された際の棟札に「六観音」とある以前、大報恩寺の記録に六観音の記述は確認できない。寛文10年以降は、本堂内陣に安置されていたことがうかがえる。それは明治21年(1888)にフェノロサや九鬼隆一らが京都・奈良等を寺社宝物調査のために巡ったことが知られ、その際の写真(小川一真撮影)が残されている。それによれば本堂内陣向かって右側に馬頭観音・十一面観音・聖観音、向って左手には千手観音・如意輪観音・准胝観音が並んでいた。従って、霊宝館に入る前には、このように並んでいたのであろう。

経王堂扁額  木造・彩色  室町時代(応永32年ー1425) 大報恩寺

北野経王堂に掲げられていた額。「経王堂」と大書し、左下には「大樹陰涼」の方印が刻印されている。江戸時代初期に編まれた大報恩寺の寺誌には、応永8年(1402)足利義満が経王堂を建立した際、みずから「経王堂三大字」を書いて「大殿」に掲げたと記されている。北野経王堂に残された六観音像や「北野経王堂一切経」(5千帖を超す)は、現在大報恩寺に伝来している。六観音像は、いずれも木造、素地、玉眼である。

重文 聖観音菩薩立像  肥後定慶作  鎌倉時代(貞応3年ー1224)

六観音菩薩立像はいずれも針葉樹のカヤの一木造、一木内矧造で造られている。表面には彩色や漆箔をせず、木肌を露出したままとする。これは壇像造りを意図して造られたものであると考えられる。いずれも運慶の長男湛慶よりも10歳程若い「肥後別当定慶」の署名がある観音象であり、定慶一門の作品と解されている。鎌倉時代前期に定慶と呼ばれる仏師は少なくとも四人いたことが知られるが、この定慶は、運慶一門の仏師であることは間違いない。観音菩薩とは、観世音または観自在と訳す。この菩薩は衆生の苦しみを見るとじっとしていられず、その場に飛んで来て苦難を救って下さるのである。蓮華を持つものえを聖観音(しょうかんおん)と呼ぶ。

重文 千手観音菩薩立像  定慶一派作成  鎌倉時代(13世紀)

蓮華を手に持つ観音像である、銘は無く、定慶一派の作品と解されている。正しくは十一面千手千眼観音という。千手の一つ一つの掌に目がついていることによって一切の衆の苦しみをその目で見、その手で救って下さるという。観音菩薩の救済活動の絶大なるを具象的に表したものである。この尊を念ずれば、延命・滅罪・男女和合・転女身等の利益があると説かれ、奈良時代末期頃から平安・鎌倉にかけて信仰が盛んであった。この千手観音菩薩立像は四十二臂にしたものである。

重文 馬頭観音菩薩立像  定慶一派作   鎌倉時代(貞応3年ー1224)

納入経の奥書に貞応3年(1224)の年紀と施主である藤原以久と妻の藤氏の名が見いだされ、施主であると見られている。馬頭明王とも言い、その尊容は三目九目八臂の憤怒形で頭上に牛馬を置く。馬頭にちなんで牛馬の息災安全を祈る対象とせられることも多い。定慶一派の作品と見られる。

重文  十一面観音菩薩立像 定慶一派作   鎌倉時代(13世紀)

十一面観音菩薩立像は観音菩薩の頭の上にさらに十個の頭をつける。よって十一面観音という。もともとインド教の神であったが、仏教に取り入れられ観音菩薩の超人間的な頭の働きを分担する菩薩として崇められるに至った。従ってkの尊を念ずれば一切衆生の憂愁・病苦・悪夢等が除減せられると説かれている。定慶一派の作品と見られる。

重文  准胝観音菩薩立像  定慶作 鎌倉時代(13世紀)

准聤観音菩薩立像(じゅんていかんのんぼさつ)は清浄の意味である。女子の純潔の徳をあらわしたものであろう。夫婦和合法、また求児法は、この尊を対象として修せられることが多い。その像容は一面八臂の菩薩形で、連台に乗る。平安中期以降に信仰された菩薩で遺品は、わりあいに少ない。本像の背面に記された墨書銘には「肥後別当定慶」と記され、この六観音菩薩立像はは、定慶一派の作品と推定される根拠になった。

重文  如意輪観音菩薩立像  定慶一派作  鎌倉時代(貞応3年ー1224)

納入経の奥書に貞応3年(1224)の年紀と施主である藤原以久と妻の藤氏の名が見い出された。如意は如意宝珠を意味する。すなわち民衆のために財宝を与え、法輪を転じて煩悩を断徐するを本誓とする観音菩薩である。その尊容は、右足を立膝して坐し、右手第一手を頬に当てて思惟の相をし、第二手は宝珠、第三手に念誦を持ち、左第一手は垂れて地を押さえ、第二手蓮華、第三手に輪宝を持つ。一面六臂が普通である。定慶一派の作品と見られる。

地蔵菩薩立像  木造、彩色、玉眼   鎌倉時代(13世紀)

本像は、寛文10年(1670)、経王堂が解体される際に、六観音菩薩像とともに大法恩寺に移された像と考えられる。なお、京都府で昭和16年(1941)に始まった京都府寺院調査によると、この時点では本堂須弥壇上に安置されていたという。六観音菩薩像のうち、肥後定慶作の准胝観音菩薩立像とよく似ている。衣文は定慶が好んだ表文表現と共通している。また本像は六観音と大きさが釣り合うばかりではなく、鎌倉時代のこの大きさの像としては珍しく一木割矧造としており、六観音菩薩像のうち、十一面観音菩薩像と本像は同時期の造像で、一対の観音と地蔵として造られた可能性が高いと言えよう。本像は、左足の親指を持ち上げて上に向けており、この動きは仏の動的な性格を示すもので、現世に具体的に姿を現した仏であることを表していると言えよう。

 

本稿では、大法恩寺に古くから伝わって来なかった、六観音像や地蔵菩薩像を取り上げた。何時もならば、霊宝館に祀られ、十大弟子と、同様に並んでいるので、あまり深く考えず、制作年代を異にする仏像群程度の認識しか無かったが、「北野経王堂」の存在を知り、そこに安置された、美しい六観音菩薩像と地蔵菩薩像の詳細について触れることが出来た。この、六観音の美しさには、深く感動させられた。「鎌倉時代」の観音様で、一木造り、木肌も綺麗に見える六観音菩薩像は、私を惹きつけてやま無い。

 

 

(本稿は、図録「京都・大恩寺 快慶・定慶のみほとけ  2018年」石田茂作「仏教美術の基本」、原色日本の美術「第9巻 中世寺院と鎌倉彫刻」日経新聞社「2018年9月28日 ガイド ワイド」を参照した)

京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ(1)

京都の大法恩寺は、天台宗の僧侶・義空(ぎくうー1171~1241)によって鎌倉時代のはじめ、承久2年(1220)に創建された古刹である。大法恩寺の歴史は、寺に伝わる二つの縁起(えんぎ)から知ることが出来る。義空は出羽国の出身であり、岩手中尊時に眠る、奥州藤原氏三代目の藤原秀衡(ひでひら)を祖父に持つと言う。幼少期は鎌倉で学び、19歳で出家、授戒した。鶴岡八幡宮で夢告(むこく)を受け、天台宗を学ぶために上京し、滋賀・延暦寺に入り、澄憲(ちょうけんー1126~1203)に弟子入りした。承久元年(1219)、義空は霊夢を得て、大法恩寺の建立を発願した。翌年に仮堂を建て、3年後の貞応2年(1223)には本堂にとりかかった。この年、「仮堂」には「本尊等身釈迦と三尺の十大弟子」が置かれたという。棟木(むなぎ)の墨書によると、本堂の上棟は、更に4年後の安貞元年(1227)であった。実に発願から十年近い歳月をかけて棟上げにまでこぎつけたことになる。最近の年輪年代測定法で、本堂部材の年輪年代調査を行ったところ、最も新しい部材は、伐採年が1229年と判明した。この調査は、外陣の用材の伐採年が上棟の銘より2年遅れる事を示しており、上棟以後も、本堂の完成まで、さらに時間がかかったことをうかがわせる。多くの人々の寄付を募る勧進(かんじん)という手段によったからであろう。やがて寺は整備され、嘉貞元年(1235)に義空は、俱舎宗・真言宗・天台宗の参宗をあまねく広めること、天下が幾久しく続くよう祈願することを天皇に奏上した。これが認められ、大法恩寺は天皇のお墨付きを得た御願寺(ごがんじ)となった。多くの人々が、天台宗の戒律を受け、天台宗の根本経典である法華経の講義に結縁(けちえん)するために、門前に集ったという。内陣の骨格が出来上がり、最上部に棟木が架けられたのは安貞元年(1227)12月26日頃のことだった。棟木に記された義空自筆の願文には、本堂に等身釈迦如来、弥勒(みろく)、文殊(もんじゅ)、十大弟子の各像が安置されたと記されている。(墨書の写真がある)ここで、六菩薩が明記されていないことを、記憶にとどめて頂きたい。

国宝  本堂  木造・桧皮葺き  鎌倉時代(安貞3年ー1227の棟木あり)

大法恩寺本堂は、棟木銘の願文により安貞元年(1227)に、市井の人々の信仰を集め、天台宗に学んだ義空によって建立されたことが知られる。本堂は桁行5間、梁行(はりゆき)6間で、大棟に並行な方に入口のある平入(ひらいり)の建物で、檜皮葺(ひはだふき)、入母屋造(いりもやつくり)の屋根で、国宝に指定されている。平面は太い四天柱に囲まれた内陣と脇陣、正面に礼堂(外陣)、背面に後戸(うしろど)が取り付き、これらの周囲に切目縁が廻る。中世初期の密教本堂の代表作の一つである。同寺の最古の建築であり、建立後は、たびたび大きな修理によって改造がおこなわれてきたが、昭和29年(1954)の解体修理によって当初の姿に復元され、檜肌葺きの屋根のゆるやかな勾配に復元された。創建当初の姿をとどめる本堂は、奇跡的に戦火を免れた、洛中最古の木造建造物である。

国宝 礼堂(外陣)  木造  鎌倉時代(安貞3年ー1227年の棟木あり)

中世の密教本堂は、仏像を安置する正堂(内陣)と人間が礼拝する場である礼堂(外陣)が併設されることを大きな特徴とする。大法恩寺の礼堂は、母屋柱の上に大虹梁(だいこうりょう)を架けることにより梁間2間分の広々とした空間を作り上げている。私たちが、大法恩寺に詣でる時に、上がって仏像を拝む場所に当たる、現存する建築物のなかでは、大法恩寺本堂が初例である。

国宝  正堂(内陣) 木造  鎌倉時代(安貞3年ー1227年の棟木あり)

本堂中心部の平面は、太い四天柱(してんばしら)に囲まれた内々陣とその周囲一間をめぐる内陣で構成された一間四面堂の平面となっており、四天柱内には仏壇を作って厨子を置き、本尊を納めている。このような中心部に四天柱を持つ求心的平面形式は、天台宗の阿弥陀堂や法華堂などを原型として発展したものと考えられ、義空と天台宗の関係性が建築の形に表されたと考えられる。写真には本尊が映っているが、秘仏であり、私は、本展覧会で初めて本尊を拝した。

重文 釈迦如来坐像  行快作  木造、金泥塗り、漆箔 鎌倉時代(13世紀)

大法恩寺の秘仏本尊であり、年数回しか開扉されない。釈迦如来坐像で、本陣須弥壇の厨子内に安置されている。台座は蓮華九重座、光背は透かし彫り周縁部を伴う二重円光で、また厨子の天井中央には天蓋が吊るされているが、これらはすべて像造当初のものが残されている。本尊は、像高89.3cm(約3尺)の等身坐像である。像内には全面的に黒漆が塗られており、背面下部には「巧匠法眼 行快」と朱署名がある。鎌倉時代を代表する仏師。快慶の弟子、行快(ぎょうかい)(生没年不詳)の自筆の署名であろう。行快が法橋に任ぜられたのは、嘉禄3年(1227)8月以降であるとされる。衣を偏袒右肩(へんたんうけん)に着し、左手を膝の上に置いて掌を上に向け、右手は掌を前に向ける施無為・與願印(せむい・よがんいん)を結び、左足を上に坐している。図録によれば、最も重要な本尊を快慶が造らい訳がない。快慶作の本尊は、「仮堂」に安置され、それが何等かの事情で失われたために、一番弟子の行快が、秘仏を作成したものであろうと推察している。脇侍の弥勒・文殊菩薩は、何時しか失われたのであろう。

重文 十大弟子立像 快慶作  木造・彩色・裁金・玉眼 鎌倉時代(13世紀)

釈迦の弟子のなかでも、特に優れた十人を取り上げて「十大弟子」と呼ぶ。それぞれに出家した年次によってのみ上下関係が築かれ、協力して教団を支えた。経典には個別に登場することが多く、次第に釈迦の弟子の代表として4人、6人と選ばれるようになり、十人ひとかたまりとすることが定着した。出身地こそ、釈迦の布教範囲であるガンジス河流域に集中しているが、王族である釈迦の親族から司祭者階級のバラモン、労働者に至るまで、幅広い出自を持ち、さまざまなエピソードも知られる。奈良・興福寺の十大弟子(国宝・奈良時代ー8世紀、現存は六躯)、京都・清凉寺の十大弟子(重文、平安時代ー11世紀)、京都・大法恩寺(重文・鎌倉時代ー13世紀)神奈川・極楽寺十軀(重文・鎌倉時代ー13世紀)などが有名である。夫々に○○第一と名付けられるが、それは個々に招介したい。大法恩寺の十大弟子の色彩は、背面が今にも美しく残る。それぞれ頭部体幹部を一材から彫り出したのち、前後に割放して内刳りをほどこす割矧造(わりはぎづくり)の技法が用いられている。目建連には「巧匠/法眼快慶」の銘がある。また優婆離の像内には「法眼快慶/法橋行快」の銘がある。署名のある弟子、無い弟子と夫々であるが、快慶歳晩年の名作でまとまって現存するのは、この大報恩寺の十大弟子なのである。制作時期については、発願された承久元年(1219)から仮堂が建った承久3年(1221)頃が推定される。快慶は嘉禄3年(1227)に亡くなっているので、その最晩年の快慶(一門)の作である。

重文 十大弟子の内 舎利拂立像 像高 94.8cm 鎌倉時代(13世紀) 重文 十大弟子の内 目建連立像 像高 97.2cm 鎌倉時代(13世紀)

 

舎利拂(しゃりほつ)は聡明さで知られる「智恵第一」の舎利仏である。顔の肉付けがより肉感的で、衣にも深い襞と浅い襞を織り交ぜて変化が付けられている。目建連(もっけんれん)は釈迦の護衛を勤めた「神通第一」の舎利仏である。目建連立像には快慶の名前が記されている。優婆離と目建連以外に、他の像には銘文は見出されないので、素直に捉えるなら、目建連は快慶作であり、優婆離は、快慶とその弟子行快の合作であると解すべきであろう。

重文 十大弟子の内 大迦葉 像高 98.0cm 鎌倉時代(13世紀)   重文 十大弟子の内 須菩提 像高 94.0cm 鎌倉時代(13世紀) 

大迦葉(だいかしぉう)は清貧を貫いて、釈迦没後の教団を指導した長老で「頭陀第一」の舎利仏である。この像は快慶一門の工房作となるだろう。作者の名前は特定できない。須菩提(ずぼだい)は何事にも実体はないことを明らかにする「解空第一」の舎利仏である。この像も、快慶一門の工房作であろう。作者の名前は特定できない。顔の肉付けがより肉感的で、衣にも深い襞と浅い襞を織り交ぜて変化が付けられている。

重文 十大弟子の内 冨楼那立像 像高96.4cm  鎌倉時代(13世紀) 重文 十大弟子の内 迦旋延立像 像高 99.8cm 鎌倉時代(13世紀)

 

冨楼那(ふるな)は、仏弟子の中でもっとも説法に優れた「説法第一」とされた。冨楼那の風貌は、比較的若い。迦旋延(かせんえん)は、釈迦の教えを分かりやすく解説した「論議第一」とされる。容貌は穏やかで深く沈んだ表情をしている。この2体には作者の銘記が無いので、快慶工房の作であろう。

重文 十大弟子の内 阿那律立像 像高 96.7cm 鎌倉時代(13世紀) 重文 十大弟子の内 優婆離立像 像高 96.0cm 鎌倉時代(13世紀)

  

阿那律(あなりつ)は、説法中に居眠りを叱責され、不眠の修行に励んだため失明するに至り、代わりに智恵の眼を得た「天眼第一」とされた。穏やかな顔には、唇の朱が目立つ。失明したせいか、穏やかな風貌で若く見える。優婆離(うばり)は戒律を守ることに勝れた「持律第一」とされた。本像には像内の額裏に「法眼快慶/行快/法橋」と記されている。快慶と行快の共同作であろう。

重文 十大弟子の内 羅醐羅立像 像高97.9cm  鎌倉時代(13世紀) 重文 十大弟子の内 阿難佗立像 像高 97.0cm 鎌倉時代(13世紀)

   

羅醐羅(らごら)は、修行態度が堅実で、もっとも学ぶ意欲に満ちた「密行第一」とされた。釈迦の肉親であり、「釈迦の息子」と伝えられている。顔も若く見える。阿難佗(あなんだ)は、釈迦の侍者を勤め、多くの説法を聞いた「多聞第一」とされた。釈迦の従妹とされる。

 

この展覧会では、真っ暗な大きな部屋で、釈迦如来を中心に、十大弟子を扇面のように配置し、一つ一つの仏像にライトを当てるという素晴らしいレイアウトで魅了された。毎回、霊宝館で見てきた十大弟子が一人一人ライトアップされ、黒漆塗の肌が美しく照り映えた。「見せ方」一つでこんなに変わる物かと思った。釈迦の脇侍(きょうじ)だったと見られる弥勒、文殊菩薩の像は失われて今は無い。十大弟子像は、現在霊宝館に安置されているが、もともとは須弥壇上に、釈迦に随侍するかたちで置かれていたと見られる。ある時期には十大弟子立像は、厨子内に安置されていたようである。撮影時期不明の写真が、厨子内で本尊を十大弟子が取り巻く姿が写真で残されている。大法恩寺が建立された13世紀前半は、人々に仏の教えが届かず、仏法を実践する者すらいなくなる末法(まっぽう)の世を強く実感させる時代であった。12世紀末より全国規模で起こった源氏と平氏の内乱、度重なる大規模災害、なにより戦乱のさなかに東大寺の大仏が焼く崩れてしまったことは、仏法の破滅とそれと連動する王権の衰微を強く印象づけた。こうした時代背景のもと、仏教の教主である釈迦の教えに立ち帰ろうとする動きが強くなり、釈迦信仰が隆盛した。天台僧の義空は、釈迦は永久にこの世に存在し法を説くという「法華経(ほっけきょう)」の教えにもとずいて、大法恩寺を創建した。須弥壇表、裏には壁画が描かれている。今は、朽ちて殆ど満足に見られないが、比較的画題の判り易い仏後壁には「釈迦例鷲山説法図」(しゃかりょうじゆさんせっぽうず)を主題とするものである。大法恩寺本堂後壁は、裏面は壁画により、表面は壁画のみならず釈迦、十大弟子の像によって成り立つ立体曼荼羅により、釈迦霊鷲山説法を表した類例のない空間構成をとるものと思われる。

 

釈迦の脇侍(きょうじ)だったと見られる弥勒、文殊菩薩の像は失われて今は無い。十大弟子は、現在霊宝館に安置されているが、もともとは須弥壇上に、釈迦に随侍するかたちで置かれていたと見られる。ある時期には十大弟子立像は、厨子内にに安置されていたようである。撮影時期不明の写真が、厨子内で本尊を十大弟子が取り巻く姿が写されている。大法恩寺は、京都では千本釈迦堂と呼ばれ、愛されている。上京区にあり、本堂前には「お福さん」と呼ばれる笑みの美しい女性像が安置されている。「千本釈迦堂のお福さん」と京都の人々は愛称している。むしろ庶民信仰のお寺のように人気の高いお寺である。

 

(本稿は、図録「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ   2018年」、原色日本の美術「第9巻 中世寺院と鎌倉彫刻」、探訪日本の古寺「第8巻 京都Ⅲ」を参照した)

横 山 崋 山 展

 

江戸末期に京都で活躍した画家・横山崋山については全く知らなかった。NHKの日曜美術館で、「伊籐若冲に並ぶ画家」と教えられ、東京ステーション・ギャラリーで見学した。結論から言うと、「伊籐若冲と並ぶ」は言い過ぎであるが、一応注目しておく画家であることは間違いない。特に風俗画に勝れ、最後の作「祇園祭礼図」は素晴らしい傑作であり、歴史的記録としても貴重である。横山崋山(1781/4~1837)は江戸後期の京都で活躍した絵師であり、画壇の潮流に左右されない自由な画風と筆遣いで人気を博したと言う。同時代の記録によれば、かなり有名な絵師であったらしいが、大正、昭和期に入ると、いつしか無名の画家になってしまった。図録では「樺山崋山を見逃せない」という記事を描いている辻惟雄氏(かの「奇想の図譜」を書かれた)が、「私も実はこれまであまりよく知りませんでした」と冒頭に延べられている。この展覧会の聡監修者であった永田生慈氏(故人・葛飾北斎研究の第一人者)は、約20年前から崋山に興味を持ち、少しずつ「崋山の画業」を研究してこられ、「今は埋もれてしまったが、必ず年何年後に再評価される画家だ」と話されていたそうである。辻惟雄しは、最晩年の「祇園祭礼図」を絶賛されるが、私は初期のものから十分研究し、評価できる絵師ではないかと思う。詳しい履歴は略すが、越前の生まれ、京都の横山家に養子入りし、そこで曽我蕭白(1730~81)の絵に接し、その影響を受けたようである。その後、岩駒(がんく)に師事し、呉春に私淑して一家をなし、西洋風の陰影も学び、いずれの傾倒にも属さず、「平安人物誌」にも掲載されたことがあったそうである。また、江戸にも聞こえたこともあり、幕末には、京都・江戸では有名な画家であり、弟子も取って横山派を率いたとされる。明治15年頃には、フェノロサやウイリアム・ピゲロー、ヘンリー・アダムス等が崋山を評価し買い集め、すべてボストン美術館に集められたいるそうである。また大英博物館に所蔵されているものもある。明治初期に、外国人には高い評価を受けながら、日本社会からは何時しか忘れ去られた存在となった。私が、「崋山展」でみた作品から判断すれば、横山崋山は、十分評価できる画家であり、明治期の散逸が惜しまれる。

蝦蟇仙人図 横山崋山作 一幅  絹本墨画淡彩

曽我蕭白の蝦蟇仙人図(ボストン美術館)と並んで、懸けられていた。蝦蟇仙人とは、妖術を使った中国の仙人で、日本でも古来より好画題として描かれている。特に有名なのが、曽我蕭白の作(ボストン美術館)であるが、横山崋山は幼い頃から蕭白を学んでおり、自らの世界観を広げて蕭白に追いつき、超えよと努力をしてきた跡が見える。蕭白を写すのではなく、蕭白画の不自然な形態を変え、自然な姿に描いている。

観山拾得図 横山崋山作 一幅 紙本墨画 江戸時代 ボストン美術館

松ノ樹の下で巻子と箒を持って佇む寒山と拾得は、奇矯な行動で知られた中国・唐代の国清寺の僧である。寒山の落款と印章がなければ、蕭白画と見誤る人も多いだろう。この絵は蕭白だけでなく、岩駒(がんくー1749~1833)の画風も偲ばせるものがある。両者を見後に折衷している。蕭白よりも近代性を感ずる。

唐子図屏風 横山崋山作 六曲一双 紙本着色 江戸時代(文政9年ー1826)

右隻では犬と猫を連れた子供が走りだし、花を摘む子、蝶を追いかける子の姿がある。画面中央では闘鶏が行われている。子供達の円らな瞳はその対戦に向けられている・第4扇で手を挙げる子供の視線の先には、極細の線で描かれた糸が伸び、鳳凰を象った凧が空を飛ぶ。岸辺には亀を放つ子、川の中では少年がドジョウを取り逃がすまいと両手を挙げている。屏風浦には明治25年(1892)の監査状が転付されており、認定者には岡倉天心、九鬼隆一の名前が見える。当時の所蔵者は、大丸創業者十二代当主の下村正太郎氏であった。少なくとも、明治時代中頃には、横山崋山は、監査状を貼られる程に著名であったことが分かる。

華落一覧図 横山崋山作 紙本木版摺  江戸時代  京都市資料館

崋山の名を一躍世に知らしめた刷物で、京都を俯瞰的に捉えた近世の都市鳥瞰図として知られる。刷物であり、広く京落の人々から愛好されたのであろう。京都の様子を西山の上空から東山方面を大きく俯瞰している。画面中程の左右に鴨川が流れ、中央やや左寄りに二条城、右より御所が見える。右下の東寺、鴨川をはんさんだ反対側には、当時焼失したはずの方広寺の大仏殿のみが描かれ、名所が分かりやすい。それだけ大雑把に描かれているのであろう。文化5年(1808)に京都で発行されたものである。なお、発行元の風折政香は京都の蒔絵師である。発売されると大評判になり、版が重ねられた。

紅花屏風 六曲一双 横山崋山作 紙本着色 文政6年、8年(1823~25)山型美術館

 

これより先は、図録で風俗(人々の共感)と題している部類である。私は崋山らしさが一番発揮される絵画であると思う。この絵は、京都の紅花問屋、伊勢屋理右衛門が、祇園祭の屏風祭で飾る為に本図の制作を崋山へ依頼したものである。伝統的な四季耕作図の画面構成を下地に、画面上部は山々や川を遠景に描き、画面下部には紅花生産に従事する市井の人々の営為を描く構図となっている。右隻に種まきから花摘みといった紅花を育て収獲するまでの光景mそして大振りの紅餅(花餅)を作る様子が描かかれる。左隻には小振りの紅餅を作る作業風景とともに、荷造りを経て紅花を出荷する光景が表現されている。人物の顔や体には西洋風の陰影表現も見られる。両隻には年紀があり、右隻は文政6年(1823)、左隻は同8年(1825)と左右両隻で制作年が異なる。本図の制作に際し、崋山が文政2年(1819)に紅花の産地を巡る取材旅行を敢行したことが分かっているが、右隻の制作年まで4年の歳月があることから、取材旅行は2回行われたと思われている。最良質の岩絵具や紙、金を惜しげも無く遣い、長い年月をかけて丁寧に制作しているだけあって、崋山が描く風俗画の屏風としては飛び抜けた出来栄えの作品である。山形県指定有形文化財である。

夕顔棚納涼図 一幅 絹本着色 江戸時代    大英博物館

実に牧歌的な絵である。夕顔の蔦が伸び、花開く棚の下、夫婦らしき男女2名二人が涼む夏のひと時を描く。鍬が二人の傍らに描かれており、農作業を終えた跡の解放感に満ちた姿であろう。庶民の何げない日常のひと時を描きながら、風雅な印象を与えている。崋山が私淑したという吾春の描法をしっかり身に付け、存分にこなしていることが本図より明らかである。画中にある「平安」の文言により京都ではなく、地方に住む人の注文作とわかる。この画題から、私は国宝の久隅守景の「夕顔棚納涼図屏風」を想い浮かべた。図録の作者も同じ感想を漏らしている。しかし、何故、この名画が、大英博物館に移ったのであろうか?大英博物館の目利きの鋭さと、日本人の鈍さを痛感した。

 

天明火災絵巻 横山崋山作 紙本着色  江戸時代  京都国立博物館

天明8年(1788)に、京都で天明の大火が発生した。正月晦日の夜のことで、若冲も住居を失い、転居している。近世京都を大きく2分した出来事である。団栗橋の東詰より出火した後、その炎は鴨川を超えて京都市中のごとんどを瞬く間に焼きつくした。天明の大火の被災状況を報じる瓦版や版本は多いが、この未曾有の大火を描く肉筆画は無い。本図は無款のため、筆者の名を直接示す情報は無いが、人物や樹木などの描法は崋山そのものである。落款や印章を捺す必要は無かったのであろう。特定の人物による依頼作だった絵巻と思われる。炎のすざまじさが、良く表現されている。

やすらい祭図屏風 横山崋山作 紙本着色六曲一双 江戸時代 京都国立博物館

京都洛北の今宮神社のやすらい祭の祭列を大きく活写した作品である。鉦や笛などで奏でるお囃子の音が今にも聞こえてきそうである。一人ひとりが大きく描かれているだけに、祭列の直ぐ傍らにいるかのような錯覚を覚える。このように臨場感に富む祭礼描写は崋山の独壇場である。本図には引手の跡があり、もとは襖絵であったことが分かる。

祇園祭礼図巻 横山崋山作 上巻 紙本着色 縦31.7×長1514.5cm天保6~8年 江戸時代 下巻 縦31.8×長1570.0cm

(上巻)

(下巻)

上下2巻、計30メートルもの長さにわたって祇園祭の全貌を描き尽くそうと稀有の例の祭礼絵巻である。上巻(上2枚)は稚児社参より始まり、宵山、そして前祭の山鉾二十三基が巡行する様子を丁寧に描く。下巻(下2枚)は後祭の山鉾十基が巡行する光景を描き、三基の神輿が御旅所より祇園社へ還幸する様子、そして四条河原の納涼、祇園ねりものと実に印象的に描いている。本図は江戸後期の祇園祭の祭儀を知る上で欠かせない資料である。

 

 

冒頭で、横山崋山について全く知らないと述べたが、自分が持っている本を確認したところ、井浦新「江戸絵画の非常識」にしばしば出てくることに気付いた。作品として「紅花屏風」、「花洛一覧図」が写実的描写として招介されている。最後の「祇園祭礼図巻」が紹介されていないのが残念である。横山崋山は、江戸時代から明治時代までは、割と知られた絵師であったようである。しかし明治15年頃にアメリカ、イギリスに大量に流出し、特に昭和になってからは、殆ど忘れられてしまった絵師である。夏目漱石の「坊ちゃん」の中にも出てくる。岩波文庫版30pに崋山が二人出てくる。四国の骨董好きの下宿の親爺から、二人の崋山のどちらかの掛軸を15円で売りつけようとする場面がある。明治期には、地方でも知られた存在であったことが分かる。横山崋山を何時、何故、日本人は忘れたのか?思いがけない、横山崋山との出逢いは、近代日本とは何であったのか、何故大切な美術品をやすやすと外国に売り飛ばしたのか、等幾つかの疑問が出てきた。特に大英博物館に出た、「夕顔棚納涼図」が残念である。

 

(本稿は、図録「横山崋山展    2018年」、安村敏信「江戸絵画の非常識」、夏目漱石(岩波文庫版「坊ちゃん」を参照した)

オルセー美術館 ピエール・ボナール展(2)

1900年代に入ると、ボナールは食堂、果物、花を画面の中心にした静物画を多く残した。このような室内画や静物画では鮮烈な色彩によって、慣れ親しんだモチーフが未知のものへと変貌を遂げているかのようである。ボナールはやがてやわらかな光のなかに壮大な風景が広がるノルマンディー地方の自然に魅了されるようになった。クロード・モネの睡蓮の展示を見たボナールは1909年の冬、ボナールはヴゥイヤールと連れ立ってジヴェルニーにモネの家を始めて訪れた。翌1910年には、ジヴェニールからおよそ5キロメートルのところに位置するヴェルノンの地に小さな家を借り、1912年にこの家を購入している。ノルマンディーの暮らしはボナールの制作意欲をおおいに刺激し、窓やテラスに広がるセーヌ川の眺めをはじめ、野生の植物の茂る庭、窓やテラス等に制作意欲を刺激されている。また、南フランスの陽光にも魅せられており、1910年の初めから、フランス各地を転々としながら制作に励んだ。それはモネやルノワールら印象派の画家たちを発見した時期にも重なっている。1900年代半ばからコート・ダジュール沿岸を毎年のように訪れていたボナールは1926年にル・カネの丘の上に建つ家「ル・ボスケ(茂み)」を購入し、この地からは、なだらかな斜面を覆う家々とその先に地中海を臨むことができた。1939年以降は、パリやノルマンディーに赴くことを止め、第二次世界大戦の戦火を避けて、ル・カネに引き籠ることになった。このようにフランス各地を転々としながら、各地で制作に励んだ。

猫と女性 あるいは餌をねだる猫 油彩・カンヴァス 1912年頃 オルセー美術館

モデルの顔の上半分陰で覆われいるが、丸みを帯びた顔、ぼってりとした唇、そして栗色の髪の毛は、彼女をマルトだと認識できる。1893年、パリの街角でボナールはマルト・ド・メリニーと名乗る少女と出合った。彼女はやがてボナールの恋人となり、1925年には正式に結婚した。出逢ってから1942年にマルトが亡くなるまで、彼女はボナールの作品にしばしば登場する。本作でボナールは、マルト、猫、そして食卓という、馴染み深い3つの主題を一緒に描いており、日常の何気ない主題が扱われているにもかかわらず、工夫を凝らした構図が用いられている。前景では、皿の丸み、そしてテーブルの丸みとマルトの肩の丸みが呼応しており、後景では、暖炉の端、壁、椅子に用いられた垂直方向の直線の要素が画面を支配している。この静的な画面に動きを与えているのが斜めの要素である。テーブルに乗り出した白い猫の体を伸ばした斜めの姿勢は、皿の上に置かれた魚を狙う猫の視線とほぼ同じ角度で描かれている。この絵はボナールを代表する絵であり、展覧会の冊子の表紙に取り上げられていた。

ル・カネの食堂の片隅 油彩・カンヴァス  1932年頃 オルセー美術館

ボナールは1926年にカンヌ近郊のル・カネに別荘を購入し、「ル・ボスケ(茂み)」と名付けた。翌1927年、それに隣接するアーモンドの木々が植えられた土地も購入して同地に居を定め、1931年以後はこの別荘を南フランスの主な住居とした。ボナールはこの時期「ル・カネの食堂」等の構図を好んで採用した。「ル・カネの食堂」等の構図を好んで採用した。「ル・カネの食堂の片隅」は、1933年のベルネーム=ジュンヌ画廊での個展に出品された。この作品は、空間の統一性という点では比較的整合性の取れた作例であった。

ル・カネの食堂 油彩・カンヴァス  1935年  オルセー美術館

画面の手前にテーブルを置き、その一番奥に人物や動物を配した構図が非常に多く見られるようになった。本作も、人物が一番奥に配され、壁の色に溶け込んで、注意して見ないと見落としてしまうほどである。シャルダンを崇拝したボナールは、テーブルの隅にモチーフを置くことに喜びを覚えていた。淡いタッチで画面の端に描かれた人物は、周辺部がぼやけて見えるという、私たちの実際の視覚とも呼応したかのようである。人物が背景に溶け込み、容易に見付けることが出来ない。こうした室内画では、鮮烈な色彩によって、慣れ親しんだモチーフが未知のものへと変貌を遂げているかのようである。

ボート遊び 油彩・カンヴァス  1907年   オルセ美術館

20世紀に入って印象派を「再発見」したボナールは、とりわけクロード・モネに惹きつけられ、1912年には彼の住むジヴェルニーに近いヴェルノンに居を構えている。この絵は、前景のボートは、犬を連れた女性と子供たちを乗せて川のたゆたう。水鳥や落葉で彩られた水面に向かって、画面右端のボートで寝そべる少年は、木の枝を垂らしている。緑景の丘には家々が立ち並ぶ。ここで舟先は大胆にトリミングされており、見る者の立ち姿と遠景のモチーフが同じ色調で描かれているために、本作の遠近法は厳密ではない。戸外ではなくアトリエの内部で印象派的な主題に向き合った彼の絵画には、現実離れした空間構成や色使いが認められる。

セーヌ川に面して開いた窓、ヴェルノンにて 油彩・カンヴァス 1911年頃 ジュール・シェレ美術館

ボナールが購入したヴェルノンの家「マルロット(私の馬車車)は、セーヌ川に面する斜面に建つている。2階にはテラスがあり、そこから見える眺望を、ボナールは風景画や装蹄画で度々描いている。本作に描かれた窓は解放された室内に明るい光をもたらしている。本作を手掛けた頃、彼はアンリ・マチスの「開いた窓」(1911年)を購入した。画面端で切断された家具や、壁にかけられた画中画は、マチスの作品に共通するモチーフであるが、本作の特徴的なのは、室内に差し込む西日に沈んでいる点である。本作は室内画であると同時に風景画なのであり、両者の関係は、暖色と寒色、人工物と自然物、定型と不定形といった対立項の均衡で表現されている。

にぎやかな風景  油彩・カンヴァス  1913年頃 愛知県美術館

本作は富豪ヘレナ・ルビンスタインの邸宅を飾るために注文されたものである。小さな別荘「マ・ルロット(私の馬車馬)」のセーヌ川の対岸に位置するジヴェルニーにはモネが住んでいる。本作の舞台はセーヌ川が流れるヴェルダンだと推測される。川の畔で、前景右側のマルトと愛犬ユビュは陰に覆われるように描かれており、中景には動物を従える人物たちがひっそりと描かれているのが分かる。前景左側で明るい陽射のもと動物たちと戯れている4人の女性は、日常を楽しんでいるようであり、この世ではないアルカデイアの住人にも見える。1910年代にボナールは、このような叙情性に満ちた牧歌的風景を描いた大型の装飾画を立て続けに制作している。

ル・カネの眺望  油彩・カンヴァス  1924年  オルセー美術館

この地からは、なだらかな斜面を覆う家々と、その先の地中海を臨むことができた。また「ル・ボスケ」の2階のテラスに立つと、眼下に広がる家並みと彼方の海、背後にそびえるエステケレ山脈を一望でき、ボナールは飽きることなくこの俯瞰の風景を描いている。1939年以降は、パリやノルマンディーに赴くことを止め、第二次世界大戦の戦火を避けてル・カネに引きこもることになった、政治や社会のみならず、歴史や芸術までも揺らいでいた時代にあってボナールは、ただひたすら自然に対峙し、そこから得た感動を絵画化するという姿勢を貫き通した。こうした態度をニースに暮らすアンリ・マチスも共有しており、戦争中ふたりの画家は多くの書館を交わしてお互いを鼓舞しあった。

南フランスの風景、ル・カネ 油彩・カンヴァス 1928年 オルセー美術館

ボナールは1926年に小高い丘に建つ家「ル・ボスケ(茂み)」を購入した。この家からは、ル・カネの街並みと地中海、エステル山脈が一望できた。庭にはミモザやアーモンドの木が茂っている。晩年のボナールは、あらゆる角度から「ル・ボスケ」の周辺を描いている。ボナールは、下り坂に広がる街並と、高くそびえる山脈の織りなす起伏に興味を持ったようだ。

花咲くアーモンドの木 油彩・カンヴァス 1946~47年 オルセー美術館

「ル・ボケ(茂み)」には小さな庭があり、画家の寝室からはアーモンドの木を見ることができた。冬が終わりを告げるとともにピンクがかった白い花を咲かせるこの木を画家はしばしば描いている。一連の作品の中でも最後の1点となる本作は1946年に着手された。黒々とした線で描かれた木の枝は、それまでの作品に較べるとかなり簡略化されれ、色彩はより鮮やかなものとなっている。死が目前に迫った1947年の1月、すでに自ら筆をとることのできなくいなっていた画家は、甥のsィアyルル・テラスに頼んで画面左下の緑色の部分を黄色で覆い尽くした。色彩の限りない豊かさを求めることでボナールは、この小さな絵の中に、毎年花開くアーモンドの再生を謳い上げようとしたのである。

 

パンフレットによれば、ピエール・ボナールは20世紀に入ると、目にした光景の印象をいかに絵画化するかという「視神経の冒険」に身を投じ、鮮烈な色彩の絵画を多数生み出した。本国フランスでは近年ナビ派の画家たちへに評価が高まり、2015年にオルセー美術館で開催されたピエール・ボナール展では51万人が魅了され、2014年のゴッホ展に次ぐ歴代企画展入場者数の第2位を記録したそうである。約130点超の作品で構成される展覧会には約30点の初来日の作品が含まれているそうである。間違いなく「色彩の魔術師」のとりこにされるだろう。

 

(本稿は、図録「オルセー美術館 ピエール ボナール展  2018年」図録「国立西洋美術館名作選」、高橋秀爾「近代絵画(上)」、日本経済新聞社2018年10月27日「ピエール ボナール展」を参照した。

オルセー美術館企画 ピエール・ボナール展(1)

1880年代の後半から90年代にかけて歴史の上で決定的な役割を果たすようになったゴーギャン、ゴッホ、ルドン等の新しい傾向は、印象派の後に登場したという意味で、一般的に「ポスト印象派」という名称で一括されることが多い。事実、私も「国立近代美術館 平常展(2)」で、「印象派以降」という名称で、ゴーギャン、ゴッホ、ボナール等を取り上げた。たしかに彼らは、多少印象派の美学の影響のもとに育ち、スーラー、ゴーギャン、ルドン等は印象派グループ展にも参加しているから、その意味で「印象派」の画家の後継者であったと言えないことはない。実は、彼らの活動を見てみると「ポスト印象派」というより、むしろ「反印象派」だったのである。1886年の第8回印象派グループ展は、形式的には印象派の最後の展覧会であったが、実質的には「反印象派」の最初のマニフェストであったと見て良い。では、1886年の第8回印象派展に続く歴史的催しは、1889年、ゴーギヤンやその仲間たちが集まって開催したポン=タヴェン派の展覧会であった。この展覧会は「印象主義及び反印象主義のグループ展」と名乗った。後に「象徴主義」と呼ばれる派や、ゴッホ、ロートレックを経て「ナビ派」が誕生した。若い画家が、秘密結社に似た熱心なグループ活動を行った。ネブライ語で「預言者」を意味する「ナビ」という言葉のグループの名称とした彼らは、自分たちの仲間だけで通用する独特の用語を使ったり、絵画、彫刻、工芸、舞台美術などの広い分野で、多面的な活動をした。この「ナビ派」は、19世紀から20世紀にかけての転換点を代表する重要な運動であった。ポール・セリュジェ、ピエール・ボナール(1867~1947)、エドュワール・ランソン、モーリス・ドニ(1870~1943)、ポール・ランソン等が主要なメンバーであった。この「ナビ派」の中で、特に代表的な芸術家を選ぶとすれば、ピエール・ボナールであろう。彼は、仲間から「日本かぶれのナビ」と呼ばれた程、日本の芸術(特に浮世絵)に強く惹かれたのであった。ピエール・ボナールは20世紀に入ると、「色彩の魔術師」と呼ばれるほど、多彩な輝きの豊麗な色彩に覆われるようになる。ピエール・ボナールは間違いなくフランスを代表する画家の一人である。「オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展」は、オルセー美術館の豊富なコレクションを中心に国内外の作品を集めた大回顧展である。企画や素描や版画、写真など約130点を展示する。うち30点が初来日である。東京国立新美術館で12月17日まで展示される。

庭の女性たち  4組装飾パネル  1890~91年  オルセー美術館

ボナールの日本美術に対する強い関心が現れている初期の代表作で、1891年に画家が初めてアンデパンダン展に参加した際に出品された装飾パネルである。当時フランスでは日本の浮世絵が関心を集め、ジャポニズムという流行が生まれた。ボナールはナビ派の一員として活動していた。彼のなかでもボナールの日本美術への愛着は際立っており、「日本かぶれのナビ」と称されるほど、作品には日本美術の影響が強かった。この絵の縦長は、日本美術における掛軸の形式を想起させる。長いドレスを着た後ろ向きの女性の服装に施された幾何学的文様と背景に描かれた植物文様は、画中の奥行きを暗示することなく、遠近感を無効化する効果を画面に与えている。

黄昏(クロッケーの試合) 油彩・カンヴァス  1892年 オルセー美術館

1892年の第8回アンダパンダン展に出品された。この絵を見た評論家が「日本かぶれのナビ」と評した。本作は、一つの視点から描いたような遠近法の統一は見られず、複数の異なる視点が画中に導入されていることがわかる。これはナビ派時代のボナールの描き方の大きな特徴の一つである。舞台はイゼール県ル・グラン=ランスにあったボナール家の別荘の庭である。当時流行していたクロッケーに興じる家族とその周りを走る犬、その奥には白いドレスを着た少女たちが輪になって踊っている姿が描かれ、これらの人物を手前の木立から覗き見る構図となっている。

格子柄のブラウス  油彩・カンヴァス  1982年   オルセー美術館

これも第8回アンデパンダン展に出品された作品である。ボナールは、画面はあくまでも自然とは別のひとつの「構成された世界」であり、それ自身の秩序を持つ自律的な世界だったのである。あくまでも自然の忠実な鏡であろうとしたモネの美学との差は、おのずから明らかである。

乳母たちの散歩、辻馬車の列 多色摺りリトグラフ 1987年 ボナール美術館

この作品は1894年にテンペラで描かれた4点1組の屏風形式の作品で、110部限定で制作された多色摺りリトグラフの一つである。この作品も日本美術の要素が色濃く反映されている。屏風形式や広い余白の取り方は、明らかに日本美術からの影響である。腰をかがめた女性の姿勢は浮世絵にしばしば現れる女性の姿である。ボナールの手紙によれば、本作の場面はコンコルド広場である。上部に描かれた停車する辻馬車の列は、各々の屏風の場面を一つに統一する役割を果たしている。この辻馬車の列を後景として、中景では柵を前に釣鐘型の衣装を身にまとった3人の乳母たちが、前景の人物たちを静観している。静的な後景と中景は、前景の車輪で遊ぶ子供達と2匹の犬、それを見守る女性の動きを際立たせている。

ランプ下の昼食  油彩・厚紙  1898年  オルセー美術館

このランプのある室内というテーマは、当時のブルジョア家庭の雰囲気を伝えると同時に、ナビ派画家たちが携わっていた象徴主義演劇の仄暗い演出にも通じていた。ボナールにとってこの主題は、ランプが生み出す思いがけない光と影の効果を探究する場でもあった。5人の登場者がいるが、判るであろうか?閉ざされた空間の中に巧みに人物や調度品を配置しながらボナールはありふれた日常にひそむ幻想性を描き出している。

大きな庭 油彩・カンヴァス  1895年   オルセー美術館

ボナールはしばしばフランス東南部イゼール県のル・グラン=フランスにある別荘「ル・クロ(果樹園)」を訪れ、夏の余暇を両親や妹アンドレの家族と共に過ごした。敷地内の果樹園で、一家は果物の収穫を楽しんだ。「大きな庭」の舞台もこの地である。犬や鶏が歩き回る庭で果物を収獲する子供達はアンドレの子供達と推測される。右を向いた女性と画面右側の体半分しか描かれない子供は、画面の右外側で起きている見えない出来事に対して観者の意識を促す。自然の風景と、子供の外部の出来事を推測させる不思議な絵である。

フランス=シャンパーニュ 多色摺りリトグラフ1891年川崎市民ミュージアム

ボナールの父は息子が法律の道に進むことを望んでいたが、芸術に目覚めたボナールは、大学で法律を学ぶかたわら絵画制作に励んでいた。そして1889年、ボナールが制作したポスターがフランス=シャンパーニユの広告コンクールで受賞し、賞金100フランを獲得したことをきっかけに、父はようやく息子が画家になることを認めた。黄色い背景に、シャンパンを持つ女性の身体とシャンパンの泡がリズミカルなアラベスクで浮かび上がるこのポスターは、1891年にパリの街中に張り出されて話題を呼び、ロートレックにも大きなインスピレーションを与えた。このようにボナールは(ナビ派は)絵画に止まらず、ポスター、印刷にも乗り出したのである。

化粧台 油彩・カンヴァス 1908年   オルセー美術館

1908年頃からボナールは、身体を洗う裸婦の主題に取り組むようになる。バラ模様の壁紙に彩られた室内に立つのは生涯の伴侶マルトだろう。鏡の枠で裸婦の頭部は大胆に切り取られているが、かとぁらに写り込む白い布から、入浴する裸婦の姿であることが分かる。この作品が描かれたモンマルトルのアパルトマンでは数々の裸婦画が生み出されたが、特に重要なのは、鏡の効果を探究した一連の作品である。

化粧台あるいはバラ色の化粧室 油彩・カンヴァス 1914~21年オルセー美術館

化粧室内における裸婦像の中で一番完成された作品が、この作品であると私は考えている。特に裸婦像の中で重要なのは、鏡の効果を探究した一連の作品であり、この作品が、一番完成した作品であると思う。裸婦の姿が鏡に執り込まれた様子が良く判る。バラ色の壁紙も美しいが、裸婦の後ろ姿も一番美しい。生涯の伴侶であったマルトと推定されている。「ボナール展」の冊子にも採用されている。

浴盤にしゃがむ裸婦 油彩・カンヴァス 1918年 オルセー美術館

本作は10年ほど前に撮影されたスナップショットやデッサンに基に描かれた作品である。浴盤の上にしゃがんで、緑色に輝く水を注いでいるマルトは画家の存在に気付いていないかのようである。浴女という主題や折れ曲がった身体の表現、俯瞰する構図は、エドガー・ドガの裸婦像を思わせる。ボナールは、モデルにポーズを取らせず、各々の動作に没頭するように求めた。ここで描かれているものも、持病の神経障害を和らげるために一日に何度も入浴したというマルトの日常的動作である。一連の入浴する前後の夫人像は、マルトの持病が、一つの要因であったかも知れない。

 

ピエール・ボナールと言う作家は、それ程日本では興味を持たれていなかった。私も、わずか1回だけ、国立西洋美術館 常設展(2)の中で一度取り上げただけである。ナビ派についても、詳しい説明をしてこなかった。今回の展覧会を通じて「色彩の魔術師」と言われたボバールの全体像が示され、単に「ポスト印象派」ではなく、「ナビ派」として世紀の転換点に立つた、絵画であることを理解した。「ボナール」はフランスを代表する画家の一人であり、印象派に続く世代であり、日本美術にも強い影響を受け、浮世絵の手法などを積極的に取り込んだ画家である。この作品は世界的に人気が高まっている。

 

(本稿は、図録「ピエール ボナール展  2018年」、図録「国立西洋美術館名作選」、高橋秀爾「近代絵画史(上)」、日本経済新聞社2018年8月20日「特集 アートライフ」を参照した)

お江戸散歩  江戸川と大名庭園から大隈庭園まで

明治乳業のOBグループ有志(東京在住)で、毎年行う秋の「お江戸散歩」を10月16日に楽しんだ。曇り勝ちで、写真の出来栄えは悪い。今年は20名余の参加で、年々参加者が増加している。一番若い人で65歳位から、最長老は90余歳であるが、70~80歳代が一番多い。世間から見れば、高齢者かも知れないが、日常的に牛乳やヨーグルト、チーズ等を常食しているためか、年齢以上に元気な方が多かった。昨年から「大名庭園」をテーマにしてコースを組み立てているが、今年は肥後熊本家の池泉回遊式庭園が選ばれた。まず、地下鉄有楽町線の「江戸川橋駅」に集合して、表に出て、江戸川橋まで歩いた。本来神田川であるが、何故かこの辺りは江戸川と古来呼んでいたようである。今でも駅名は「江戸川駅」である。

江戸川の流れ

川は真っ黒い色をした悲しい情景を見せてくれている。

江戸川橋の名札

確かに「江戸川橋」と書かれており、今でもこの辺りは江戸川と呼ばれているのであろう。東京と千葉の県境にあるのが「江戸川」であると思っていたのに、何故お江戸の真ん中に江戸川があるのだろうか?橋だけでは無い。公園まで「江戸川公園」となっている。

「江戸川公園」の地名表

橋だけでは無い。公園まで「江戸川公園」になっている。ちなみに東京都の「歴史散歩」と題する本には次のように記している。「井の頭池・全福寺池・妙正寺池から流れる川が合流して江戸川となり、九段下・一つ橋・本石町あたりから日本橋川となって永代橋で隅田川に流れ込む。浅草橋で隅田川に流れ込む。浅草橋で隅田川にそそぐようにしたのが人工の神田川なのである。」江戸川とは、東京と千葉県の間を流れる「江戸川」と関係なく江戸に流れる川なので、江戸川と呼んだのであろう。不思議に思った川の名前が良く分った。まるで、全体が「神田川」と勝手に思い込んでいたが、どうも「神田川」という歌に引かれて、すべての川を「神田川」と勝手に思い込んでいたのであろう。この公園は文京区が管理する公園で、気持ち良く整理されていた。

江戸川の両岸の桜

この江戸川橋あたりから上流にかけて桜が両岸に植えられ、桜の季節にはさぞ、賑わうことであろう。今でも、桜が咲いていないのに大勢の人が散策を楽しんでいるようである。

大滝橋

この辺りから神田川と呼ばれていたようである。昔はこの辺りに大洗堰(定量以上の水は堰の上を流れこえるように設計した堰堤)と呼ばれた堰(せき)が造られていたそうである。伊賀」上野藤堂家が幕府からこの堰堤(えんてい)工事を命ぜられたとき、旧主家の縁で、芭蕉も工事に従事したとの伝えがある。

関口芭蕉庵の門

この工事の関係か、芭蕉は「隠棲庵」と呼ばれる水番屋に住んだが、これがいつしか関口芭蕉庵と呼ばれるようになった。月、火が休みなっているため、当日は中に入り見学することは出来なかった。古い建物では無く、現代の建築物である。門の写真のみでを写した。この辺りは椿山荘が近く、椿山荘ホテルの建物も見えた。ここから先は急坂で、大凡20度程度の角度の傾斜面を登った。かなりきつい坂であった。

永青文庫

肥後・細川家の家宝を伝える美術館である。この美術館は細川家の2代前の細川護立氏が建立し、細川家に伝わる美術品の保管と、自身が集めた白隠や仙崖の作品等の保管・展示を目的とした美術館で、江戸期の作品が多く保管されている。熊本県立美術館にも、細川家の美術品が保管されており、永青文庫と熊本県立美術館の間で、美術品が往来することもある。この美術館の大きな特徴は、図録を造らず、「永青文庫」世飛ぶ呼ぶ小冊子を年4回の特集に合せて発行することである。最近の図録は一般的に厚くなり、3000円程度の金額になり、それを残そうと思うと、大変な重さになり、余程、保管能力を家の設計時に作って置かないと、10年、20年間の図録を保館することは不可能である。しかし永青文庫は、前は300円であったが、今回の「江戸美術の美」は絵入り印刷が多く、500円で28ページに纏められていた。軽量で低価格の図録となるが、欠点は全作品が採用されていないことである。小松館長が、永青文庫104号に「館長の独り言」というエッセーを書かれている。それに依れば、「最近、業界の人たちが集まると、展覧会図録の売れ行きが悪い、という話が良く出ます。これも、お客様と図録を作る側の意識のずれていることのあらわれではないでしょうか。(一部略)展覧会情報をコンパクトに発信し続けている「季刊永青文庫」の形は、まことに斬新で、多くのお客様の意にかなったものではないかと思います」と述べられ、大体10人に1人が買上げてくれるそうである。「図録販売不調の時代にあって、これはすごいことだと思います」と結ばれていた。誠にその通りだと思った。図録の3000~2500円は高すぎると思う。小さい美術館では、図録の発刊が難しくなっいている。例えば、隅田区立の「すみだ北斎美術館」では、最初の図録は出来たが、その後は図録を作っていない。従って、私は、1回しか「すみだ北斎美術館」には行っていない。

永青文庫 「江戸絵画の美」 衛藤良行筆「領内名勝図鑑」 江戸時代後期

熊本で細川家の御用を勤めた絵師に矢野派という流派がある。室町時代の雪舟とその画流を受け継いだ雲谷派を祖とした。初代矢野三郎兵衛吉重が、細川忠利が熊本に転封されたときに付き従い、以後熊本に根付いた。5代目良行の代に全盛を迎えた。その代表作が「領内名所図鑑」であり、15巻にわたって濃密な筆致で描いたもので、全巻合わせると400メートル以上になる。この時代、細川斉滋(なりしげ)のもとで、熊本では多彩な絵画文化が花開いた。この絵は図鑑の中の「上益城郡矢部手之内」を描いたものである。

肥後細川庭園への案内板

本日のメイン会場である、肥後細川庭園への入口であるが、ここから庭園に降りるまでは急坂の連続であり、体力のある人でないと無理である。かねて急坂であると聞いていたが、聞いた話以上に急坂が続いた。

肥後細川家庭園

これは池泉回遊式庭園であり、庭の大半が池である。実は尾張徳川家の庭園が解放され、今年の6月に、徳川庭園を訪ねたが、大半が池で、これは庭園というより徳川池と呼ぶ方が相応しいのではないかと思ったが、この肥後細川家の庭園も80%以上が池である。これだけの池を造るのに、どれだけの人力が懸ったかは、思いのほか、多いであろう。後方に見えるのが「松聲閣(しょうせいかく)」と呼ばれる建物で、旧熊本肥後藩下屋敷のあった地で、細川家の学問所として使用されていた。大正時代に改修を行い、一時期は細川家が使用していた。現在の建物は、歴史性を生かして保存・修復を行うと共に、耐震性を確保し、平成28年(2016)にリニュアル・オープンした。集会室が四室、回遊式展望所・山茶花、喫茶・椿があり、そこではお抹茶とお菓子が頂ける。

大隈庭園

歩く会の終点は、早稲田大学内にある大隈庭園である。この庭園は、井伊掃部頭、松平讃岐守の下屋敷にあった和様四条家風の名園を早稲田大学の創設者・大隈重信が文人風に改造したものである。没後、邸宅と共に大学に寄贈された。昭和20年5月の空襲で庭園は廃墟と化したが、多くの人々の努力により、ほぼ昔の景観どおりに復元され、今日に至っている。

桜が満開

先の台風で葉が散ってしまい、桜が季節を間違えたのか、この桜は満開であった。異常気象の影響もあるだろう。大隈庭園の入口に近い場所である。後ろに、大隈講堂の頭が見える。

重文 早稲田大学大隈記念講堂 鉄筋コンクリート造 三階建地下一階 時計台付

庭園の近くに大隈講堂が建っている。重要文化財に指定されていたので、写真に収めた。昭和2年(1927)に建設され、早稲田のシンボル的存在であり、ロマネスク様式を基調としたゴシック様式を加味したわが国近代の折衷主義建築の優品として、高い価値がある。佐藤功一氏の代表作である。平成19年(2007)に重要文化財の指定を受けた。

 

今回の「お江戸歩き」は、階段の多い道であり、胸突坂や、永青文庫から細川庭園まで降りる急坂など、結構階段の多い散歩となった。しかし全員、終点の大隈庭園まで、無事到達し、午後4時半から6時半まで、大隈講堂の横に新設された高層ビルの15階にある「森の風」レストランで、ビールと食事を楽しんだ。15階からの夕方の東京の景色は素晴らしく、暮れゆく夕色を楽しんだ。

 

(本稿は、「東京都の歴史散歩・上」、文京区刊「目白台・関口の歴史」、「肥後細川庭園」、「松聲閣」、図録「永青文庫NO104号」を参照した)