畠山記念館  近代数寄者の交遊録

近代日本経済を支えた実業家の多くが茶の湯を第一の趣味にしていた数寄者(すきしゃ)と呼ばれた。その筆頭にあげられるのが藤田財閥の藤田田三郎(香雪)、三井財閥の益田孝(鈍翁)、帝国蚕糸の原富三郎(三渓)、荏原製作所の畠山一清(即翁)等である。彼らは、旧大名家の蔵や、神仏分離令によって逼迫した寺から流出した、膨大な古美術の蒐集に向かい、そののちに蒐集品を活かすことのできる茶の湯へ踏み入れたのである。特に益田孝は、維新後、世界初の総合商社となる三井物産を創業して三井財閥の大成に貢献した財界人であった。畠山記念館の創設者・畠山一清(即翁・1881~1971)は鈍翁に見込まれて数寄者への道へと導かれた。鈍翁との年齢差は34歳あり、二人の交友は、鈍翁が亡くなる直前の数年間であったが、密度の濃いものであった。なかでも深い友情を伝えるのが、「柿の蔕茶碗」である。今年は、鈍翁80年忌に当たることから、即翁と鈍翁を結ぶ一つの線となった「柿の蔕茶碗」を披露する茶会を切り口に、表記の美術展が開催されることになった。まず、昭和12年(1937)11月29日に茶会が開催された。これは即翁が新茶亭をまず鈍翁に披露し、京都毘沙門堂旧蔵の「柿の蔕茶碗」でもてなした茶会の様子から説明したい。

秋色に染まる畠山記念館の入口

畠山記念館の入口から撮った写真である。紅葉に染まり、秋色を帯びた畠山記念館の入口正面を写したものである。畠山即翁の蒐集品(主として茶道具、能面、能衣装等)を展示する美術館であり、私は、少なくとも年1回は訪れている。閑静な美術館であり、私のお気に入りの美術館である。今年は11月24日(金)の午後3時頃に訪れている。

竹自在   千李休作             桃山時代

在辛斎宛ての李休添状が付属している。在辛斎については詳らかでないが、修理の斡旋状のようである。添状が道具に対して大きな価値を有することが示されている。これから記す茶道具は、昭和12年(1937)11月29日に行われた茶会に使用された道具を紹介するもので、客は鈍翁夫妻、横井半三郎(夜雨・1883~1945)の3名であり、「柿の蔕茶碗」を、鈍翁に招介することが目的であった。

瓢花入(ひさごはないれ)銘木菟(みみずく)  千道安作  桃山時代

瓢箪や夕顔の実で作った花入れは、竹や籠花入と比肩する侘びた風情が備わっているものである。上方に花窓を大きく穿ち、頭も目も大きな木菟(みみずく)になぞらえて銘とした本作は、愛らしくふくよかな形と、古色を帯びた肌が茶味を感じさせる。姫路藩酒井家に伝来したものである。千道安は利休の長男である。

重要文化財 志野水指 銘古岸(こがん)       桃山時代

桃山時代の志野水指の中でも、器形・釉薬・絵文様において優れた作行きを示す名品である。肩と胴下部に段をつけて箆で整えており、力強く堂々とした姿の水指で、腰のゆったりとしたふくらみに対して頸のしばりは強く、外側に開き気味の厚い口縁と矢筈口を強調している。内箱の蓋裏には、表千家九代了々斎による「絵瀬戸水さし 古岸ト号」の箱書きがある。

重要文化財 柿の蔕(へた)茶碗  銘 毘沙門堂    朝鮮時代

柿の蔕とは褐色の素地にごく薄い透明釉を掛けて、あたかも焼締めのような味わいを持たせた茶碗を言い、伏せておいた形が柿の帯に似ることに因む名勝である。京都山科の毘沙門堂旧蔵であったことから、この銘がある。藤田美術館所蔵の「大津」と共に、柿の蔕の代表作として並び称されている銘碗である。実はこの茶碗は隠居の身であった鈍翁が購入を断念した品で、当日の道具組には、実業においても茶においても崇敬した大茶人、鈍翁に対する心づくしが示されている。ここで並べた道具類は、当日の茶会に用いられた茶道具の一部である。

毘沙門堂狂歌  益田鈍翁筆     昭和13年

この書には、次のようなことが書かれている。「くやしいといふもおもしろの世や 九十二歳鈍翁」、「毘沙門堂」、「柿の蔕ひとつか老いのおもひ出に」     柿の蔕茶碗を手に入れることができなかったくやしさを狂歌にしたものである。相伴の横井夜雨に与えたものであるが、のちに畠山即翁に贈られた。鈍翁と即翁の交情を物語る一幅である。この先は、鈍翁が一代で築いた膨大なコレクションの内、即翁が入手した名品の一部を紹介する。

絵高麗梅茶碗(えこうらいうめちゃわん)          明時代

絵高麗とは「絵付けのある朝鮮産の茶碗」と解するが、現在は中国北方系磁州窯の製品とする説が有力である。内外面に漬け掛けされた白化粧の上、外側面に鉄絵で施文されているものを指す。なかでも梅鉢茶碗には鉄絵あるいは白土で七曜文が点彩され、それを梅花に見立ててこの名がついている。この茶碗は後者、帯状に施された鉄釉上に白土による七曜文が五箇所あり、灰青色の帯に梅鉢文の鮮やかな対比が見所となっている。加賀前田藩の家臣本田家に伝わった茶碗だが、梅花文は前田家の家紋にも通じ、因縁を窺わせる。その後益田鈍翁の所蔵となり、内箱・外箱ともに鈍翁による「絵高麗 茶碗 梅鉢」・「加州本田家伝来」の箱書きを持つ。

御所丸茶碗  銘堅田               李朝時代(17世紀)

御所丸茶碗は、朝鮮との交易船「御所丸」で将来されたため、この名があると言われる。古田織部の好みで造られたとも、島津義弘が運んだとも言われるが、確証はない。黒釉と白釉が掛け分けられたものと、白釉のみが掛けられたものがあり、俗に前者を黒刷毛、後者を白刷毛と呼んでいる。この茶碗は、全体が楕円形に歪んだ沓形で、作為の強い黒織部の沓形茶碗に近似する。口縁から胴にかけ黒釉の刷毛目が荒々しく廻り、白釉とのコントラストを見せている。伝来・小堀遠州・益田鈍翁

共筒茶杓  狩野探幽作               江戸時代(17世紀)

櫂先は幅広く、ゆったりとしてしかもきりっと立ち、中節から手許まで追取り一面に皮が削られている。探幽は、高野山金剛峰寺金堂障壁画の潤筆料として弘法大師筆「座右銘」十六字一巻を譲られたが、のちにこの巻物は鈍翁の入手するところとなり、明治29年(1896)品川御殿の自邸で披露され、この茶会が大師会の始まりであった。(後に、この大師会の会長は、畠山即翁が承継している)探幽は大師流の書もよくするなど弘法大師崇敬者であったことから、鈍翁がこの茶杓を所蔵することにも因縁が深い。

志野撫四方酒野呑(しのなでよほうさけのみ)      桃山時代(17世紀)

この酒呑は、大正の初め、鈍翁が当時としては破格の1万円という高値で買い求め、終生愛玩し、よほどの客でなければ用いなかったという。二重の箱の両方に鈍翁の書付が記されているが、中でも「愛什」の言葉に鈍翁の想いが込められている。酒呑の逸品であり、実に愛らしい。鈍翁の気持ちが判る。

 

近代数寄者と呼ばれる人たちは、文明開化の時期を過ぎ、自国のアイデンティを身に付けることの必要性に迫られた文化人達で、内務大臣の井上薫(世外)、藤田財閥の藤田田三郎(香雪)、三井財閥の益田孝(鈍翁)、帝国蚕糸の原富三郎(三渓)、東武鉄道の根津嘉一郎(得庵)、「電力の鬼」松永安左衛門(耳庵)、東急電鉄の後藤啓太(古経庵)、荏原製作所の畠山一清(即翁)等である。明治、大正、昭和の政治、経済を動かした人々であり、茶道に引き込まれていったのである。日本美術の海外流出を防いだ意義は大きい。畠山一清(即翁)は、近代数寄者の最後を飾る人物であったと言えよう。

 

(本稿は、図録「近代数寄者の交遊録  2017年」、図録「四衆愛玩 壱 1909年)、図録「四衆愛玩 畠山即応の美の世界 2011年」、千宗屋「茶 利休と今をつなぐ」を参照しした)

北斎とジャポニズム展  北斎と風景画(2)

北斎漫画について、その成り立ちを説明しておきたい。漫画とあるので、現在のコミックを想想される方も多いだろうが、「北斎漫画」は絵手本の意味である。北斎は文化前・中期の読本挿絵での活躍もあって、門人の数は増える一方であった。しかし、門人のみを対象にした絵手本を出版することは困難であったのであろう。「北斎漫画」初編が出版されたのは文化11年(1814)で、北斎没後の明治11年(1882)までに15編が刊行されている。実に68年の歳月を要している。如何に、「北斎漫画」が人気を得たかが分かるであろう。なお「北斎漫画」は、現在も出版されており、15編の分冊もあるし、1冊にまとめたものもある。外国系ホテルへいくと、この1冊の「北斎漫画」が1室に1冊ずつ用意されていることがある。私が見た「北斎漫画」全一冊は6千円であった。因みに、版画で15巻にして36万円という高額品も出版されている。次に「富嶽三十六景」の出版は天保元年(1830)に広告が出ている。そして刊行が始まるのは、同じ年からである。宣伝文は様々な場所から望む富士山を描き別けたことを売り物にしており、富士というモチーフで統一した名所絵揃物であると謳っている。「富嶽三十六景の成功は、浮世絵にいろんな効果をもたらした。一つは名所絵におけるベロ藍(プルシアン・ブルー)と呼ばれた舶来の化学顔料の効果を証明したことである。もう一つは「異例の売れ行き」を示したことである。三つ目は揃物として、次世代に繋がったことである。西洋の受け入れ前に、日本の浮世絵の世界でも「富嶽三十六景」の果たした役割は大きい。

「北斎漫画」七編 葛飾北斎作  文化14年(1817)江戸時代(19世紀)

「阿波の鳴門」の渦巻を描いた北斎漫画である。モネは、この北斎漫画七編と、「富嶽三十六景」甲州石班沢の両者を保有していた。

ベリールの嵐  クロード・モネ作   1886年

モネが1886年にブルターニュ半島の付け根のベリールに制作旅行に行って高所から海を見下ろしたとき、「北斎漫画」七編の「阿波の鳴門」の構図が頭に浮かんだことであろう。画面いっぱいに荒れる海と岩だけが占めるこの構図は、波のエネルギーとそれに抗うかのような岩の存在感を表している点で、両者に深く共感している。

富嶽三十六景甲州石班沢天保元~4年頃(1830~33)江戸時代(19世紀)

甲州石班沢はまずベロ絵のみで色づけしている浮世絵であり、そのことでまず有名である。更に、漁師の頭を頂点に岩と投げ網のつなが二等辺三角形をかたちづくり、かつ遠景の富士と相似形をなす図で、幾何学的な浮世絵としても有名である。

ベリールの海  クロード・モネ作   1890~91年

水平線を描いた素描「ベリールの海」は、海に突き出た岩の形に関心を払っているという点で、「富嶽三十六景 甲州石班沢」の構図により近い。

おしをくりはとうつうせんの図 葛飾北斎作 文化初期1804~07)頃

尖ったオック岬、グランカン  ジョルジュ・スーラー作 1885年

点描で画面を構成する点描派(新印象派ーシニャニック、クロスなど)でも、浮世絵に対する関心は高く、繰り返し語られている。特に、この「尖った岬、グランカン」と「おしをくりはとうせんの図」の構図の類似は驚くべきものである。風変わりな波の形とそっくりの尖った岩、共通する水平線と、点のように表されれる空に舞う海鳥など。北斎の浮世絵はたとえば1833年のビングの日本美術展などで広く紹介されていた。

富嶽三十六景 神奈川沖浪裏  葛飾北斎作 天保元~4年頃(1830~33)

北斎の最も有名な作品で、むしろ日本の浮世絵の代表作であろう。従って解説の必要はないだろう。西洋ではグレート・ウエーブの名で親しまれている。

交響曲「海」楽譜  クロード・ドビュッシー作  1905年

クローセルと親しい関係にあったドビュッシーは、この北斎の有名な浮世絵を所有し、「海」と題した交響曲の楽譜に図像を転用した。グレート・ウェーブは、画家のみならず、音楽家にも、インスピレーションを与えたのである。

波  カミーユ・クローデル作  1897~1903年

クローデルはダイナミックな大波を彫刻作品で実現した。水浴の主題が持つ牧歌的雰囲気は、ここで自然の雄大さを前に影をひそめている。抽象的な波の形は、幻想的な波の形となり、日本美術の流麗で装飾的な波の表現となっている。

 

「エッフェル塔三十六景」  アンリ・リヴィエール作  1888~1902年

北斎の「富嶽三十六景」をはじめとした名所絵は、同一のモチーフで繰り返し描き、シリーズとして展開させるアイデアを西洋にもたらした。これに触発されリヴィエールは、パリ市内の各所から眺めたエッフェル塔の諸相を季節の移ろいのなかに描きだし、リトグラフ集「エッフェル塔三十六景」に仕立てた。1889年のパリ万博に向け、塔の建設が開始された1888年に本作も着手され、1902年までに36点が完成、500部限定の冊子として出版された。この絵は「13番 バッシー河岸より」と題された絵である。

富嶽三十六景駿州片倉茶園ノ不二 葛飾北斎作天保元~4年頃(1830~33)

西洋において、「富嶽三十六景」や「富嶽百景」の連作を持った意味は大きかった。ひとつの山の姿を様々な時間や角度から描く北斎の連作への意識は、日本の美術に無関心を装ったセザンヌにも、強く働きかけたと考えられる。1882年から断続的に同じ山を、表現を変えながら最晩年まで描き続けたことは、北斎の影響だったろう。(図録の意見)

サント=ヴィクトール山 ポール・セザンヌ作  1886~87年

量塊として認識されている西洋の山の風景をセザンヌが、このような輪郭線でとらえる表現は生まれなかったとと思われるし、1882年から断続的に同じ山を、表現を変えながら最晩年まで描き続けることもなかっただろう。比較的早い時期の、この絵においては、両側の外側から挿し出してくる枝や、対角線を組み立てたような平野の表現が、「富嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二」に良く似ている。

サント=ヴィクワール山とシャトー・ノワール ポール・セザンヌ作 1904~06年

サント=ヴィクトワール山 ポール・セザンヌ作 1904~06年

いずれもセザンヌの最晩年の作である。この2作は、むしろ「富嶽百景」三編「武蔵野の不二」の抽象化された空間表現に近い.

 

日本の浮世絵が西洋美術に新風を吹き込んだジャポニズムは、古くから知られている。しかし、何故、北斎の作品が誰よりも多くインスピレーションを与えたのだろうか。私は、北斎の作品のバリエーションが豊富であったことだと思う。人物や植物、動物、風景など対称も多彩だし、版画から肉筆まで幅広い手法を自在にこなす技術である。特に、北斎には「北斎漫画」など絵手本的な作品が15編もあり、何でもありと言っても過言ではない。だから、盛んに参照、引用され、インスピレーションの泉になったのであろう。対象物への親密でユーモラスな視線、大胆な構図といった北斎作品の特質が、西洋の画家達の創作意欲を刺激したのであろう。

 

(本稿は、図録「北斎とジャポニズム  2017年」、読売新聞「特集 北斎とジャポニズム展特集」、図録「ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展 2014年」、大久保純一「北斎」を参照した)

北斎とジャポニズム展  北斎と植物画、風景画(1)

鎖国の国、謎の国であった日本について西洋諸国に詳細な報告を残したのは、出島のオランダ商会員たちであったが、彼らは同時代の北斎の絵本や肉筆画を西洋に持ち帰った。なかでもシーボルトは、北斎に言及し、絵本から取った画像を1832年に刊行する「日本」に複製として掲載したのである。西洋では日本への関心が非常に高まった。そうした中、ルネサンス以来の美術の規範に閉塞感を感じていた西洋の芸術家たちが、日本美術の新しさ、珍しさに魅了され、そのエッセンスを消化しながら、自らの創作活動を展開した。この現象が、ジャポニズムである。特に、浮世絵師・葛飾北斎の存在感は圧倒的であった。人物から風景まで、森羅万象を大胆にかつユニークに描いた北斎は、参照される頻度も群を抜いていた。モネやゴッホの事例は、先の「華麗なるジャポニズム展」で、充分披露されたが、近年、世界的にジャポニズムの研究が進む中で、北斎の影響はイギリス、フランスに止まらず、広い地理範囲に、また絵画だけでなく、彫刻や工芸、グラフィック・デザインなど様々な分野にわたっていたことが明らかになった。今回は、北斎と植物、風景画の一部について記載することにした。西洋の絵画のジャンルのなかで植物は花瓶に活けられて描かれた。自然から切り離され、やがて枯れてゆく一時の華やぎを見せる花々には「死を忘れるな(メイント・メモリ)」というキリスト教のメッセージが託されていたのである。反対に、花鳥画をはじめとする日本美術では、花々は地上に根を張って空を仰、ときに風に吹かれ、ときに蝶がその周りを飛び交う蛙が葉の上で休む。こうした大きな自然の一片として植物を捉えたが、彼らが見た日本美術のなかには、北斎が描いた花々も含まれていたに違いない。また風景画も驚きをもって取り入れられた。

牡丹に蝶 葛飾北斎作 天保2~4年(1831~33)頃江戸時代(19世紀)

画面いっぱいに花を配する大胆なトリミングは、従来の日本の絵画のでも他を凌駕するものがある。風に逆らいながら飛ぶ蝶の姿形も見事である。

黄色いアイリス クロード・モネ作   1914~17年頃

花の絵と言えば西洋では静物画として描かれる習慣があった。その際、花は切り取られて花瓶に活けられたものである。日本で描かれる「花鳥画」は、型にはまった花の描写ではなく、自然の中に風が吹き蝶やトンボが飛び交う姿を描くものであった。クロード・モネの「黄色いアイリス」は、画家が自然に近づくことでクローズアップされ、画面の中央を堂々と占めている。モネの「黄色いアイリス」は、後のモネの「睡蓮」の連作を想定させることでも、重要な絵画であろうと思う。

「ばら」 フィンセント・ゴッホ作   1890年

1888年12月末にゴーギャンとの共同生活が破綻して以来、ゴッホは精神障害の発作を繰り返し、89年5月上旬には自ら療養院に入った。この「バラ」は療養院の荒れた庭のバラの茂みを描いたものだろう。淡いピンク色の花を咲かせたバラが低い視点からクローズアップで捉えられ、描かれている。このような構図は浮世絵やジーグフリード・ビングの「芸術の日本」の挿図など、日本美術の影響が見てとれる。

「北斎漫画」四編 葛飾北斎作 文化13年(1816) 江戸時代(19世紀)

日本美術になじみ深い雪景色図である。ナンシー派のガレやドーム兄弟の装飾品や、北欧の画家に影響を与えている。

冬  アクセリ・ガッレン=カツレラ作   1902年

北欧(ヘルシンキ)の画家たちが至近距離で描いた雪景色は、北斎の影響を強く受けている。この地ではいち早く日本美術を受容した。豊かな自然を描く伝統のあった北欧では、日本の自然表現も受け入れやすかっただろう。ここから先は、「北斎と風景画」に移る。

「富嶽百景」二編  葛飾北斎作 天保6年(1835) 江戸時代(19世紀)

「富嶽三十六景」は、知らない日本人はいないと言っても良い浮世絵の最高傑作である。しかし「三十六景」と言いながら、実は46図あることは、案外知られていない。それと同様に「富嶽三十六景」は有名であるが、この「富嶽百景」と呼ぶ連作があることも案外知られていない。「富嶽百景」は冊子形式3冊で、墨のみで描かれている。白黒の刷り本である。これも良く売れた本であるが、色彩が付いていないため、現在では知る人が少ない。太宰治が「富嶽百景」の中で次のように述べている。「富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度、北斎にいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル塔のような富士さえ描いている」と書いている。この「富嶽百景」の「竹林の不二図」は、面白い構図である。

木の間越しの春  クロード・モネ作   1878年

風景画を描く時に、西洋ではルネサンス以降のなかでは、まず画面の中心に消失点を想定して、そこに画面両側からの直線が交わるように構図を組み立てることが必要とされてきた。印象派はこのような規則に縛られずに、自らの体験を様々に表現したが、このモネの作品のような例はさらに斬新であった。この「木の間越し」の風景は、北斎の「富嶽百景」のなかの「竹林の不二」と似通っている。

「ボルディゲラ」 クロード・モネ作  1884年

この作品の構図も前出の「木の間越の春」同様、北斎の「富嶽百景」の「竹林の不二図」に似通っている。影響を受けたのであろう。

「富嶽三十六景 東海道保土ヶ谷」葛飾北斎作天保元~4年(1830~33)頃

この松並木越しに見る富士山の表現は、その赤い幹と葉のリズムが、行き交う人々とともに、活気のある画面を作り出している。

ヴァランジュヴィルの風景 クロード・モネ作  1882年

モネはこの北斎の東海道保土ヶ谷図の構図を模倣するのではなく、常に自らの体験をしようとするのである。本作については、モネは海を見晴らす道沿いにリズミカルでひょろっとした木々の並木を発見したのである。

陽を浴びるポプラ並木  クロード・モネ作  1891年

1891年の初夏から秋にかけて、モネが取り組んだのは、ジヴァルニー近郊のエプト川岸辺の「ポプラ並木」の連作である。この連作では、季節や時刻、天候の違いにより光や色彩の変化と、川辺のポプラ並木が作る垂直と蛇行線のリズムの響き合いが重要なテーマとなっている。本作も含め「ポプラ並木」の連作は、翌1892年春、パリの画廊で展示され、「積み藁」に続いて、大きな成功をモネにもたらした。この作品も北斎の影響があるような気がする。

「富嶽三十六景 駿州江尻」 葛飾北斎作  天保元~4年(1830~33)頃

甲州三島超と比較すると、軽やかな木が特徴であり、強風にうねりながら揺れる様が描かれている。北斎は、文政末から天保前期にかけて、まるでこの間にため込んだ画想をはき出すように、数多くの錦絵揃物を生み出している。「富嶽三十六景」など、今日の北斎の評価を不動ににしている名所絵揃物の多くはこの時期に描かれている。また、北斎の活躍によって浮世絵における名所絵がジャンルとして確立された。

「アンティーブ岬」 クロード・モネ作  1888年

モネが描いたこの作品の構図に、北斎の「富嶽三十六景 駿州江尻」の構図が、大きな影響を与えたものと思われる。

 

ジャポニズムとは、西洋の美術家たちが自分の芸術を発展させるために、日本美術の表現方法を取り入れた現象で、19世紀後半に生まれたものである。産業革命やフランス革命を経た当時の西洋は、社会が著しく変化していた。その中で、モネやドガといった印象派を中心に、画家たちもルネサンス以降の遠近法から脱脚した新しい表現を模索していたのである。装飾的な平面の構成や、絵が物を途中で断ち切るなどの大胆な構図を特徴とする浮世絵は印象派が目指す方向と一致していたと言える。画家たちは衝撃を受けるとともに、浮世絵の要素を自分の作品にどんどん取り込んでいった。変革を求めていた西洋の美術界にとって、浮世絵は大いなる触媒になったのである。当時、最も影響を与えた絵師が葛飾北斎だったのである。理由として「群を抜く画力や構図の妙に加え、圧倒的な作品の数と、花鳥画や名所絵、美人画など何でもこなす幅の広さがあったから」と、三浦篤・東大教授は説明する。

(本稿は、図録「北斎とジャポニズム  2017年」、読売新聞「特集 北斎とジャポニズム特集」、日経新聞「2017年11月18日 文化」、図録「ボストン美術館  2014年」、日経大人のOFF「2017年8月号」、大久保純一「北斎」を参照した)

北斎とジャポニズム展  北斎と人物画、動物画(1)

「HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」という副題を持つ、「北斎とジャポニズム展」が国立西洋美術館で10月21日より2018年1月28日まで開催されている。江戸後期の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849)の作品110点と、その影響を受けた西洋の画家の作品約220点が、一堂に会する大規模な展覧会である。北斎と言えば、昨年両国に「すみだ北斎美術館」が誕生し、話題を集めた。初回こそ見学したが、2回目以降は見たことが無い。理由は「図録」が発行されないことである。図録の無い美術展には、私は行かないことにしている。それは記憶が曖昧になり、いずれ忘れてしまうからである。図録は、あの程度の美術館では、毎回発行は難しいだろう。それならば、写真なしの「説明録」を学芸員が作成し、写真は別途販売すれば良い。顧客を呼び込む基本を忘れている美術館には、如何にハードに金をかけても顧客は集まらない。さて、日本の浮世絵が幕末に西洋に流れ、ジャポニズムが一大ブームになったことは、「華麗なるジャポニズム展」で2014年の展覧会で有名になった。私の記憶によれば、「浮世絵は、日本から西洋に輸出された陶磁器を保護するために巻かれたものが話題を呼んだ」ということであった。この知識は、多分美術書を読んだとからと思うが、今年のNHKの番組の中でも同じ内容(「北斎漫画」が使用されていた)が放送され、多分事実なのだろうと思い込んでいた。今回の展覧会で、まず、その知識が大きく変わった。それは、次のような経緯であったと図録では説明している。日本が1854年に開国してから、西洋では次々と日本に関する紀行書が刊行されれた。これらは外交官たちが来日して見聞きした日本の歴史、社会、風俗、地理などを紹介した書物であるが、そこには日本人の手になる挿絵が多数掲載されていた。1850年代から1870年代までに出版されたこの類の書物には、それが誰の絵であるかは記載されないまま、画像だけが複製されたのである。最も多く使われたのが葛飾北斎の「北斎漫画」全十五編と「富嶽百景」全三冊であった。彼らは、北斎が何者であるかは殆ど関心がなく、日本の風俗や情景を表すのに、極めて都合の良い面白い絵として挿絵に使ったのだった。一方、フランスやイギリスでは、開国後早くから美術商が日本の美術品や工芸品を扱うようになり、芸術家、批評家、愛好家たちがそれらを蒐集したり評論したりしていた。彼らは関心を持った北斎について、「オクサイ」「ウクサイ」「ホフクサイ」等呼んだり書いたりした。その論調は当初単なる「興味深い画家」であったが、やがて「日本でも最も偉大な画家」というレッテルを貼るまでになった。この「北斎とジャポニズム」は、3編に分けて連載することとした。第一編は「北斎と人物、植物」であり、日本の北斎から影響を受けた画家、工芸家の作品を並べる。なお、文書で説明は出来るだけ簡単にして、作品主体に編成する。

「北斎漫画」十二編 葛飾北斎作 天保5年(1834)江戸時代(19世紀)

背中を拭く女 エドガー・ドガ作  1889~92年頃

浮世絵には庶民や遊郭の女性たちの日常生活の様子が多く描写されているが、北斎はこうした人々のくつろいだポーズや滑稽な姿を鋭く観察し、「北斎漫画」などに掲載した。このような姿勢は、取り澄ましたモデルの姿を描くドガの眼を引き、新しい裸婦像が生まれた。本来なら隠されるべきヌードは、マネやクールベの活動によって、ヌードの意義が問われる時代となり、ドガは、自然にふるまう人物が「窃視」されていることを意識せずに取る、本能的なポーズを描いたのである。

「絵本庭訓往来」初編 葛飾北斎作文政11年(1828)江戸時代(19世紀)

髪を結ぶ少女 ベルト・モリゾ作  1893年頃

浮世絵を多数保有し、家の壁に飾っていたモリゾはドガと少し違った姿勢で、同時代の女性達の日常生活を描くのに、北斎が見た様な飾らないありのままの動作を、親近感をもって描いたのである。

「北斎漫画」十一編の内 葛飾北斎作        江戸時代(19世紀)

右下の力士の姿を見てもらいたい。次の、ドガの絵との関連を考えてもらいたい。

踊り子たち ピンクと緑 エドガー・ドガ作   1894年

この絵は、この展覧会のポスターや案内書に出され、まるでこの美術展の目玉の扱いである。腰に手を当てた「踊り子たち ピンクと緑」の踊り子は、似たようなポーズを繰り返し素描で研究されているが、「北斎漫画」十一編の相撲取りのポーズと類似していることから、ドガはおそらく強い関心を持っていたものと考えられる。ドガの所蔵していた北斎の浮世絵や版本のコレクションは、一括して売られ、中身はわかっていない。

「画本千文字」 葛飾北斎作  天保6年(1835) 江戸時代(19世紀)

舟遊び  クロード・モネ作 1887年

北斎の影響は、私は印象派に一番大きな影響を与えていると思う。戸外での遊びは印象派の時代の新しい主題の一つであった。モネやルノワールは舟遊びの主題を繰り返し描いたが、ジヴェルニー移って1880年代半ば頃から描きだしたエプト川での舟遊びは、新しい構図への挑戦であった。画面に右から侵入する船と人物を俯瞰構図で大きく描き、岸辺の情景は大胆に除外され、水面だけが切り取られるという大胆な構図が適用されている。舟遊びの人物を拡大して描く表現や俯瞰図は浮世絵からのヒントだったが、大画面に水面だけを描くという挑戦は、のちの睡蓮の連作へとつながってゆく。画期的な秘薬であったろう。このように考えると、浮世絵の影響は、予想以上に大きいことが理解できる。

「百物語 さら屋敷」葛飾北斎作 文政2年(1819) 江戸時代(19世紀)

表情豊かでときに滑稽な北斎の幽霊や妖怪たちは、想像力を羽ばたかせてこの世ならぬ世界を描いた象徴主義、またはその流れをくむ表現主義の画家たちを魅了したに違いない。

「聖アントワーヌの誘惑」第一集 オデイロン・ルドン作 1888年

ルドンによる怪物は、構図もさることながら、陰鬱さのなかにユーモアさえ感じさせる点でも、北斎の描く幽霊の図に接近している。

2.北斎と動物画                             北斎と動物画に移る、西洋では動物画は、博物学的な関心を背景として、狩猟画から派生したものであった。したがって自然全体を想起させる導入口として動植物をとらえる花鳥画とは異なる自然観に根ざしていた。ジャポニズム以前の西洋では、とりわけ小動物や鳥、魚、爬虫類や昆虫といった小さな生命は、宗教的な象徴や寓意、あるいは静物画に添えられることはあったにせよ、その生きた姿が作品の主要なモチーフになることは殆ど無かった。西洋の動物表現に影響を与えた日本美術のなかでも、「北斎漫画」を筆頭とする北斎の絵手本が果たした役割は大きい。

「北斎漫画」六編  葛飾北斎作 文化14年(1817)江戸時代(19世紀)

競馬場にて  エドガー・ドガ作  1866~68年

ドガは1860年代の終わり頃から競馬場の情景をモチーフとして描いた。それは競馬場が、マネ曰く「パリの生活を表す市場、鉄道、港、地下、公園、競馬などの一つとして、当時のブルジョワに人気の」スポットであり、着飾った男女が社交や戸外でのスポーツ観戦を楽しむ場だったのだからである。この「競馬場にて」においては、出走を待つ静止した馬たちの中央の、まさに遠近法の消失点の位置にいる跳ねる馬が目を引く。1頭だけ異なったポーズのこの馬は、「北斎漫画」六編の右頁端上から二段目の騎馬を切り取って貼り付けたように見える。

「北斎漫画」十五編  葛飾北斎作    江戸時代(19世紀)

兎のいる屏風 ピエール・ボナール作     1902年頃

屏形式の西洋画は珍しい。私は、初めて見た。これもジャポニズムだろう。銀箔や漆を思わせる2色の地で上下に区分され、上部にはニンフとサテュロスの戯れと風景の断片が、下部には「北斎漫画」十五編を想起させる簡潔な描線で表される野兎の群れが描かれている。

「北斎漫画」二編 葛飾北斎作 文化12年(1815) 江戸時代(19世紀)

 

栓付瓶:蝙蝠・芥子  エミール・ガレ作  1889~92年

ガレはロベール・モンテスキューの詩「蝙蝠」(1892年刊)の出版を記念して栓付瓶を制作した。闇や不吉を象徴するコウモリ、眠りと結びつく芥子をモチーフにした本作は、退廃的な闇夜を想起させる。ガレはこの象徴派の世界観を表わすにあたり、北斎をも取り込んだようである。ガレにはトンボや蛙を取り込んだ花瓶などもあり、浮世絵を積極的に採用するジヤポニズム作家であった。

 

 

鎖国の間、日本については詳細な報告を残したのは、シーボルトを始めとする出島のオランダ商館員たちであったが、彼らは北斎の絵本や肉筆画を母国に持ち帰り、広く西洋社会に広がった。日本が1854年に開国してから時を置かず、来日した外交たちの日本についての紀行書が刊行された。そこには北斎の手による挿絵が多数掲載された。画像だけが複製され、日本の風俗や情景を表すのに都合の良い絵として挿絵に使われたのである。一方、イギリスやフランスでは、開国後早くから日本の美術品を売る店ができ、愛好家たちが群がった。西洋になかった斬新な表現をするこの画家について評論やコメントを残し、やがて「日本でもっとも偉大な画家」というレッテルを貼るまでになった。北斎が民衆の画家であることから、共和主義者たちが彼を大画家として持ち上げるようにしたと考えられる。この編では、北斎が西洋の絵画、工芸で、どのように取り入れられ、愛好されたかを部分的ではあるが伝えたものである。更に、北斎と植物、北斎と風景画等を逐次取り上げたい。

 

(本稿は、図録「北斎とジャポニズム  2017年」、読売新聞「特集 北斎とジャポニズム展特集」、図録「ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展 2014年」、大久保純一「北斎」を参照した)

重要文化財  長谷川等伯障壁画展

長谷川等伯(1539~1610)は、戦国時代から桃山時代に生き、果敢に天下一の絵師への道を切り開いた男として有名である。等伯は現在の石川県七尾市に生まれ、始めは「信春」(のぶはる)と名乗り、能登地方には「信春」落款のある日蓮宗関係の仏画が多数伝えられている。信春は30代前半頃に妻子と共に上洛し、実家の奥村家の菩提寺・本延寺の本山である本法寺の塔頭・教行院に身を寄せた。町絵師として扇絵等を描いていたと伝えられるが、天正17年(1589)に千李休が寄進し、利休が秀吉より切腹を命じられた原因とも言われる大徳寺山門の内部の天井画と柱絵には「長谷川等伯五十一歳筆」の款記があり、等伯の作と言われている。等伯と利休の関係は深く、利休没後に「千利休像」(表千家不審庵蔵)を描いており、その賛者は大徳寺111世・春屋宗園(1529~1611)である.宗圓は大徳寺山門の落慶法要を担当していたのである。天正15年(1591)豊臣秀吉の嫡子・鶴松がわずか3歳で没する。等伯は、鶴松の供養のために創建された祥雲寺の障壁画を担当することになる。「楓図壁貼図」「松に秋草図屏風」は等伯の金碧壁画の代表作として、現在は智積院に伝えられている。しかし、この頃、成功を手にした等伯は様々な不幸が襲う。天正19年(1591)等伯の良き理解者であった利休が自刃し、文禄2年(1598)には、祥雲寺に「桜図襖」を描いた長男・久蔵が26歳の若さで没している。等伯はこの頃より、制作の中心を水墨画に定め、「竹林猿猴図屏風」(大徳寺蔵)など猿猴を多く描くほか、日本水墨史上の傑作である「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)を描いている。南禅寺塔頭の天珠庵は、暦王3年(1340)に南禅寺の無閑普門の塔頭として創建された。その後、戦乱の世を経て荒廃していたが、雲岳零主が住持となったとき、雲岳の銘が細川幽斎夫人だった関係から、幽斎が天綬庵を細川家菩提寺として、復興した。現存する方丈は、棟札によって、慶長7年(1602)8月に建立されたことが分かる。障壁画もその折の制作とみなされ、等伯64歳の制作ということになる。晩年における等伯の水墨人物画の基準となる作品である。

南禅寺天綬庵   写真

南禅寺の塔頭である天授庵の写真である。

天授庵方丈の部屋割りと障壁画について

天授庵方丈には、室中(真中)に「禅宗祖師図」、上間二乃間に「商山四皓図」、下間二乃間に「松鶴図」が描かれている。いずれも長谷川等伯の制作であると考えられている。(落款は無い)今回の展覧会は、2期に別れ、第1期には「禅宗祖師図」が、第2期には「商山四皓図」が展示された。

重文  禅宗祖師図 爛瓉煨芋図(らんさんわいうず) 長谷川等伯作 桃山時代

一番左側の「爛瓉煨芋図」は、中国唐代の名僧、懶瓉和尚(らいさんおしょう)の故事を描くもの。石窟に隠れ棲む和尚の所に皇帝の勅使が参内を求めて来たが、和尚は牛の糞を燃やして暖をとりながら芋を焼いて食べている真っ最中。涙や鼻水を垂らして食おうとする和尚に勅使が、その鼻水を拭いてはどうですかと言うと、「俺は今、一大因縁のために工夫中である。鼻を拭う手間が惜しい。俗人に法を説く暇もない」と、参内を断ったという話である。

重文 禅宗祖師図 南泉斬描(なんせんざんびょう) 長谷川等伯作 桃山時代

この絵は、一匹の猫をめぐって争う僧徒を戒めるべく、その猫を切断したという中国唐代の故事の名僧、南泉普願の故事を描くもの。南泉の気迫漲る表情は迫力満点。対照的に、絶対絶命の猫には、その辺にいる猫を描き込んだかのような親しみやすさがあふれている。愛情をこめて描かれた、憐れなその姿といたいけない表情に目をこらしたい。

重文 禅宗祖師図 趙州頭戴草履図(じょうしゅうずたいあいず)長谷川等伯作桃山時代

南泉は、先ほどの出来事を弟子の趙州に話し、「汝ならばどうするか」と問いかけた。すると趙州は、何も言わずに履いていた草履を脱いで頭に乗せ、出ていった。趙州は、おどけているような態度で、猫を殺した南泉の行為を揶揄しているかのようである。この行動に対して南泉は、「お前がいたならば猫を救えたものを」と、趙州の機知を讃えたと伝えられている。ここでは鬼気迫る南泉の飄々とした表情が印象的である。この他に「船子夾山図」があり、全部で16面である。

重文 商山四皓図(しょうざんしこうず) 長谷川等伯作 桃山時代

上間二乃間に8画面で描かれている。この絵は、中国・秦末、乱世を避けて陜西商山に入った東園公(とうえんこう)、綺里季(きりき)、夏黄公(かこうこう)、用理先生(ろくりせんせい)の四人の隠士(いんし)で、皆髭(ひげ)や眉が皓伯(真っ白)の老人であったので四皓(しこう)と呼ばれた。西側四面に一人、南側四面に三人、それぞれ騎驢(きろ)姿で描かれている。天授庵方丈画において、人物のサイズはこれまでになく拡大し、必要最小限のモチーフによって、それぞれの画題を過不足なく表している。

松鶴図(しょうかくず)部分  長谷川等伯作  桃山時代

下間二乃間に描かれたのが松鶴図である。松や鶴は長寿をあらわす吉祥画題として、古来描かれている。この襖絵では五羽の鶴が描かれている。伏せている2羽の鶴は、いかにもくつろいだ表情をしている。少ない筆致で的確に鶴の体躯を表現しており、筆遣いには勢いを感じさせる。

重要文化財  等伯画説 日通作  桃山時代   本法寺蔵

日蓮宗の本山「叡昌山本法寺」は、法華宗を信仰した長谷川等伯とのゆかりの深いお寺である。30代前半頃に能登から上洛した等伯は、本法寺の塔頭・教行院に身を寄せており、本法寺には等伯の絵画だけでなく、貴重な資料が残されている。そのなかの「等伯画説」は、本法寺10世の日通が、等伯との談話のなかで聞いた絵画に関する話題を97条に亘って書き記した冊子本である。日通(1551~1608)は、堺の豪商である油屋一族の出身で、本法寺中興の祖とされている。「等伯画説」は、記された内容から成立時期は天正10年(1582)頃と考えられる。桃山時代を代表する画人である等伯の芸術観が記されている。かねてこの冊子を見たいと考えていたが、思いがけない場所で見る機会に恵まれ、特に印象に残った作品であった。

重要文化財 玉甫紹琮像  長谷川等伯作  桃山時代  高桐院蔵

沓を沓床に脱ぎ、竹箆(しっぺい)を手にして曲彔(きょくろく)に座る玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)(1546~1613)を描いている。簡略な筆致ながら、対象の特徴を的確に捉えている。玉甫は細川幽斎の弟で、幽斉の長子である細川忠興により慶長7年(1602)に創建された大徳寺塔頭(たっちゅう)高桐院(こうとういん)の開祖である。高桐院には等伯の襖絵があったとされる。(現在は確認されていない)尚、高桐院には数年前に訪れたことがあるので、いずれ「美」に記事を記載したいと思っている。

 

永青文庫は、肥後の細川家の美術館で、目白駅の近くにある。立地的には行きやすい場所であるが、私は今回が初めての見学であった。長谷川等伯の障壁画が何枚も並ぶと聞けば、何が何でも拝観に出かける筈である。極めて見応えのある内容であった。南禅寺の塔頭である天珠庵の等伯障壁画は2010年の「没後400年 長谷川等伯」展で観たことはあるが、あまりにも展示品が多く、深く印象に残っている訳ではない。今回の展覧会は2期に分かれ、天珠庵の襖絵全32面を公開するもので、細川家ならではの企画であった。直ぐ目の前に、桃山時代の傑作が並ぶ様は、夢のような印象であった。襖絵の墨絵は、視難くて、この「美」の写真を通してでは、残念ながら、あまり印象には残らないと思う。出来れば、是非、ご自身で拝観していただきたい。残念ながら、写真を販売しておらず、雑誌や図録からの転写であるため、非常に視にくいと思う。また、この展覧会で、重要文化財「等伯画説」を直接見る機会に恵まれ、非常に幸運であった。等伯の理解には欠かせない資料である。この点は、大変有り難い機会であった。

 

(本稿は、「永青文庫99号 重要文化財 長谷川等伯障壁画展 2017年」、図録「没後400年 長谷川等伯  2010年」、安倍龍太郎「等伯上下」、田中英道「日本美術史全史」、日経新聞 2017年9月29日号「ガイドワイド」を参照した)

岩佐又兵衛作 国宝  舟木本・洛中洛外図

京都の中心部と郊外の景観を俯瞰して描いた図が「洛中洛外図」である。室町時代から江戸時代を通して数多く制作された。横長の画面に京都のパノラマが広がって四季が巡り、御所をはじめ公家の御殿、武家の屋敷、名高い社寺、名所をとりあげて、さらにそこに暮らす人々の生活を描き出した風俗画である。現在知られている洛中洛外図は百点ほど存在している。その発端は応仁の乱(1467~77)だと言ってよいだろう。戦火で京都の街は焦土と化し、「洛中洛外図」が扇面図などに描かれるようになった。戦乱によって、はじめて京都市街の姿を絵に表す意味が生まれたと言える。洛中と洛外とあわせた「洛中洛外図」が生まれたのは、遣明船で中国に渡った禅僧たちによって、北宋の都、開封内外の賑わいを描いた「清明上河図」のような都市図が日本にもたらされたことも大きな要因であった。現在、室町時代に描かれた「洛中洛外図」は三作品が知られている。江戸時代になると、洛中洛外図屏風は新たな姿となる。京都を東からみて徳川家康の築城した二条城を大きくとらえ、洛西地域の景観を描いた画面と、御所と洛東、つまり秀吉が築いた方広寺大仏殿や、人々が祇園祭に熱狂する様子などが対になるような画面構成となった。そして京都には将軍が不在となった後、京都は観光都市化し、洛中洛外図自体の意味も変容していく。屏風絵の供受者も天下人のような武将ではなく、各地の大名、あるいは花嫁道具の一つとして買い求めるものとなった。今回は、2016年に新たに国宝指定された、舟木本・洛中洛外図に焦点をあててみたい。理由は、作者が岩佐又兵衛とされることや、私が洛中洛外図の中で一番好きだからである。

国宝「洛中洛外図」舟木本 岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)東京国立博物館        左隻                     右隻

「舟木本」(以下このように略す)は、戦後間もない昭和20年代の初め、滋賀県長浜市の医師、舟木栄氏が、彦根の古美術商から手に入れた。昭和24年(1949)、渡岸寺参拝の道すがら、同氏の宅に立ち寄った美術学者源豊宗(みなもととよむね)氏は、部屋に立ててあったこの屏風に目をとめる。又兵衛作だと直感した。狩野永徳筆の国宝「洛中洛外図ー上杉本」は中でも有名であるが、「舟木屏風」も描写内容が生き生きとした、個性的作風という点で、永徳のものにひけをとらない。というよりも、人々の生活をとらえた描写のユニークさにおいて「洛中洛外図屏風」の中でもっとも異彩を放つもの、と言ってよいだろう。鴨川の流れが左上から右下へ流れ、左右の画面をつなぐ。右隻の右に豊臣秀吉が建てた方広寺の威容を大きく描き、左隻左方に徳川家康が建造した二条城を置いて対峙させている。全体で7メートルを超える大画面となり、洛中洛外図屏風の中でも特異な画面構成をとったものとなっている。右隻は大仏殿と豊臣秀吉を祀る豊国神社が人々でにぎわい、四条河原の喧騒を描き、左隻に六条三筋街の遊郭を細かく描写している。巨大で華麗な幌を担いだ母衣武者(ほろむしゃ)たちが寺町を下がっている。店先での商いや、街路をゆく芸能者などが通りを埋める。左上に紫宸殿前で舞楽を催す御所を描き、そのすぐ近くに二条城の威容を描いている。東寺五重塔の上から眺めた景観を描いたものとも言われている。この図は、現世ー浮世への欲望を主題とした浮世絵につながる作品といえるのである。人物の身振りは誇張され、いずれ現れる浮世絵の人物たちを彷彿させる。作者の岩佐又兵衛が浮世絵師の祖と言われる所以である。(又兵衛作については別途論じたい)

舟木本  大仏殿楼門前

誘っているのは女性である。侍女が男性を手招きしている。

舟木本 大仏殿  鐘楼

慶長19年(1614)に完成した梵鐘である。鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」とあって、これを徳川家康に咎められ、大阪夏の陣のきっけとなった。

舟木本  五条大橋

天正17年(1589)、豊臣秀吉が大仏殿の参拝のため新たに付け替えた五条大橋、橋上に花見返りの集団が踊り騒ぎ、賀茂川を上る船頭も驚いて見上げている。

舟木本  四条河原 人形浄瑠璃

源義経が母常盤の仇討をする「阿弥陀棟割」と「阿弥陀の霊験譚「山中常盤」の場面である。又兵衛が「山中常盤絵巻」という大作を発表しているが、その一場面である。

舟木本 六条三筋町 中の町

二条城築城のため慶長7年(1602)に六条界隈に移転した遊郭。上中下の三筋の通りがあった。「中の町」遊女たちが牡丹や菖蒲を手に持って身をくねらせながら踊る様子を、男たちが袖や扇で口元を隠しながら見つめている。これは、まるで浮世絵である。

舟木本 祇園祭

鉾は描いていない。それは、多数の人物を表現するために省いたものである。寺町通りから四条通りへ進む大きな幌を担いだ母衣武者(ほろむしゃ)風流。笠鉾の前では鬼面のものや赤毛を被った赤熊(しゃぐま)が笛太鼓で囃す。

舟木本  御所

鳥兜の舞人が舞う正月節会。

舟木本  二条城

家康建築の二条城。天主は慶長11年(1606)に完成した。家光が後水尾天皇行幸を迎えるため、寛永元年(1624)に大改築に着手する前の姿である。

 

舟木本「洛中洛外図」を岩佐又兵衛作として、論を進めてきたが、異論は勿論ある。又兵衛を発掘した辻惟雄氏は「奇想の系譜」の中で次のように述べている。「舟木本・洛中洛外図屏風は、慶長末年の京都の市民の活気に満ちた生活ーとくにその享楽的な側面の諸相を、旺盛な好奇心と風刺精神によって描き出している点、風俗画の新傾向のさきがけとしての画期的な意味を持つものであり、しかも人物表現の特徴に又兵衛のそれと似た点があるところから、彼の京都時代の作ではないかと推測する向きもあるのだが、描かれている人々の野趣に満ちた闊達な表情は、又兵衛の内面的資質とはあまりにも無縁でありすぎる。むしろこれは「又兵衛前派」というべきすぐれた無名の画人の筆と考えたい」と述べ、又兵衛作を堅く拒否している(1970)。2008年に刊行された「岩佐又兵衛ー浮世絵をつくった男の謎」の中で。、「舟木本屏風左隻第四扇中央の、薬屋前で口をあけていなないている馬を、「山中常盤」第三の草津の宿で、子供に手綱を引っ張られ、苦しそうに口を開けている気の毒な馬のユーモラスな表情と比べてみた。舟木本屏風の馬の長い頸が、引っ張られていっそう長くなった様が、山中常盤の馬に読み取れる。両者の馬が同じ画家の筆から生まれたことはもはや疑えない。舟木屏風は又兵衛作だ!」として、舟木本が岩佐又兵衛作あることを認めている。実に37年後の意見変更である。又兵衛研究の第一人者の意見であるだけに重い。なお「洛中洛外図と障壁画の美」の解説は、東京国立博物館であるので、考証はしっかりしていると思う。私は、出展された7艘の洛中洛外図の中では、この舟木本が一番好きである。風俗画として一番魅力がある。この図が描かれたのは、辻惟雄氏は慶長年末(1615年頃)としているが、「洛中洛外図と障壁画の美」の解説でも慶長20年(1615年頃)としており、又兵衛の京都時代の作として一致している。この洛中洛外図から、浮世絵又兵衛の名が生まれたとするのは、やや難点があるが、又兵衛の京都時代の絵が、現在これしか確認できない以上、やや飛躍があっても、この「洛中洛外図」をもって、浮世絵又兵衛と呼ばれたことを実証する以外に方法は無いだろう。

 

(本稿は、図録「洛中洛外図と障壁画の美  2013年」、辻惟雄「奇想の系譜」、辻惟雄「岩佐又兵衛ー浮世絵をつくった男の謎」を参照した)

狩野元信展   天下を治めた絵師

狩野元信(147?~1559)は、室町時代より400年間に亘り日本画壇の中央を担ってきた狩野派の二代目である。狩野派とは、血縁関係でつながった「狩野家」を核とする絵師の専門集団であり、元信は始祖・正信(まさのぶー1434~90)の息子として生まれた。正信は優れた画技を持ち、その作品は歴代の狩野派絵師の中でも最も高く評価されているのみならず、工房の主催者として勝れた能力を発揮した。画技と統率力、組織力に抜群に優れた絵師であった。幕府の御用絵師となった狩野派は、日本絵画史上最大の画派へと成長していくが、その繁栄は二代目元信なくして語れない。狩野派の台頭を支えた要因の大きなものに、「画体」(がたい)の確立がある。従来の漢画系の絵師たちは、中国名家による手本に倣った「筆様」(ひつよう)を巧みに使い分け、注文に応えた。元信はそれらの「筆様」を整理・発展させ真・行・草(しん、ぎょう、そう)の三種の「画体」を生み出した。その「型」を弟子たちに学ばせることで、集団的な制作活動を可能にした。襖や屏風などの制作時には弟子たちが元信の手足となって動き、質の高い大画面を作成することに成功した。すなわち、オルガナイザーとしても、素晴らしい能力を発揮したのである。また父・正信は中国絵画を規範とする漢画系の絵師であったが、元信はさらにレパトリーを広げ、日本の伝統的なやまと絵の分野にも乗りだした。濃彩の絵巻や、金屏風の伝統を引き継ぐ金碧画(きんぺきが)など、形状・技法の導入に加えて、風俗画や歌仙絵など、やまと絵の画題にも積極的に挑戦し、特に扇絵制作は、工房を維持する上で、重要な仕事となった。このように和漢の分野で力を発揮し、元信工房は多様なパトロンを獲得していった。なお、本稿では、元信の作品を中心に開設する。図録には、初代正信、中国画人の優品が多数紹介されているが、極力、元信の作品の作品を中心とする。

重要文化財 四季花鳥図 狩野元信 (旧大仙院方丈壁画)室町時代(16世紀)

大徳寺大仙院方丈では、室内に相阿弥が担当した瀟湘八景図を描き、元信が旦那乃の間に「四季花鳥図」と衣鉢乃間に「禅宗祖師図」を担当した。制作は永正十年(1513)頃であり、現存する元信の作品としては最古である。この作品では、画題の骨組みとなる松や岩、滝などを水墨で描き、一方、画面の主役である美しい花や珍しい鳥の絵は、いずれも着色で、しかもほぼ実物大に描かれている。大仙院四季花鳥図の中には、ひとつの作品の中に和の要素と漢の要素が併存しているのである。これもまた、元信の「漢にして倭を兼ねる」(本朝画談)画風を表している。元信の代表作であり、かつ最古の作品例である。(なお、大仙院は2016年1月16日の「大徳寺と塔頭・大仙院」の中で「石庭の寺」として詳しく報告しているので、ご確認いただきたい)

重要文化財 禅宗祖師図(部分)狩野元信作六幅(旧大仙院方丈壁画)室町時代(16世紀)京都国立博物館

この障壁画は衣鉢(いはつ)乃間に設えられたもので、元信の真筆と認められている真体人物の代表作である。この部分は5.六祖渡航、6.徳山托鉢、の場面である。すなわち5、五祖・弘忍(ぐにん)が六祖・慧能(えのう)を送る場面、6.まだ食事の合図が無い内に、鉢を持って出てきた徳山宣鑑(とくざんせんがん)禅師を見て、弟子の雪峯義存(せっぽうぎぞん)が声をかけ、徳山は戻るが、後にその真意を悟る話が表されている。巨岩や土埞、樹木、橋などの山水景物の描き出す力強い線や、モチーフを重層的に組み合わせる構築的な構図、人物の表情を的確に捉える筆さばきなど、いずれも出色の出来栄えである。

浄瓶踢倒図(じょうへいてきとうず)狩野元信絹本墨色一福室町時代(16世紀)

京都市指定有形文化財に指定されている唐時代の人物画であり、無款であるが、元信真筆とされる行体人物画である。この主題は、唐時代の高僧・百丈懐海と弟子の司馬頭陀が、湖南にある潙山に住山せしめる者を弟子からひとり選ぶことになり、善覚首座と霊祐典座の二人が候補となった。百丈は浄瓶を示し、「これを瓶と呼ぶべからず。では何と呼ぶか」という公案を与えたところ、霊祐は瓶を蹴倒して立ち去った。その結果、霊祐が選ばれたという。本図では向かって右が霊祐、左の岩座に坐す老僧が百丈、袈裟を着ていない奥の人物が司馬頭陀、手前が善覚であろう。元信は同じ画題を「禅宗祖師図」でも取り上げているが、それぞれの表情は本作の方が豊かである。

本湍図(ほんたんず)「元信」印 紙本淡彩一福室町時代(16世紀)大和文華館

「本湍図」は典型的な元信様式の真体山水図で、秋元公爵家から原三渓の手に渡った名品であり、一本の掛軸となっている。画面左下に「元信」の朱文壺形印があるが、掛軸に改装時に捺されたものであろう。岩の細かい皺法や濃い青を基調とする彩色から、元信本人ではなく、有力な弟子の作とする指摘があるが、力強い流水表現など、作者の腕の確かさがうかがえる。

重要文化財 瀟湘八景図 狩野元信筆 紙本墨画 四幅 室町時代(16世紀)東海庵

元信による行体山水図のなかで、最も高く評価されている作品である。瀟湘八景とは中国・湖南省で瀟水と湘水という二つの川が合流し、洞庭湖にそそぐ景勝地を八つの景観として描く画題を言う。本作では一福に二景ずつ表されている。このような描写はともに室町幕府に仕える相阿弥から、大仙院での共同制作を通じて学んだものと言われているが、元信はモチーフや構図をより明確にし、判り易い画面に仕上げている。各福の右下に捺される「元信」朱文津語形印は基準印の一つである。

群雁図屏風 「元信」印 紙本墨色 六曲一双 室町時代(16世紀)サントリー美術館

松が枝を指し伸ばす水辺に七羽の雁が群れて身を寄せている。左方を眺める雁の視線の先には燕が飛んでいる。元は六曲一双の右隻に当たり、「花鳥図屏風下絵」の四双目の下絵に類例を見出せる。画面の右端下方には「元信」朱文壺形印が捺されている。筆写については諸説あるが、元信自身の可能性が高いと思われる。松の針葉や枝振りなど細部の筆致から見ても、やや工房的性格も認められる。

重要文化財 酒伝童子 「元信」印 紙本着色一福 室町時代(16世紀)サントリー美術館

源頼光が家来の四天王である綱・侯時・末武・及び藤原保昌らを引き連れ、八幡・住吉・熊野の緒神の加護を得て、近江国伊吹山に住む鬼神・酒伝童子を退治する物語を描く。この絵巻は小田原北条氏の第二代・氏綱(1487~1541)の発注によるもので(異説がある)、絵は狩野元信、奥額は三条実隆が担当しており、当時の京都でも第一級の文化人たちが集結している。絵に関しては、場面によって描写の精粗に差があるため、最も優れた出来栄えを示す第一巻は元信、第二・第三は有力な弟子が中心になって制作に当たったとする説が有力である。第三巻(写真)は、鬼が泥酔し、本来の鬼の姿に戻った童子の寝所に討ち入り、見事にその首を刎ね、退治するクライマックスである。童子は首を切られてなお毒気を吐き掛け、頼光に噛みつくが、氏神から授かった帽子甲の力で無事であったという。絵からは土佐派を始めとするやまと絵系絵師の絵巻から学んだ様子が見えて取れる。狩野派は、やまと絵の絵巻物まで、注文を取るようになったのである。

月次(つきなみ)風俗図扇面流し屏風「元信」印紙本金地着色室町時代(16世紀)京都・光願寺

川面を背景に、まるで扇流しのように散らされた二十四面の扇面は、京名所や祭礼、年中行事を表す。画題は正月の左義長(さぎちょう)から、六月の祇園山鉾巡行まで、一年のうちの上期のものに限られる。(右側)現状は六曲一双のみ伝わるが、おそらく当初は、下期のもう一隻とあわせて月次風俗を描いた一双屏風であったと考えられる。実際に扇として使用された折り目の残る各扇面には、元信の基準印の一つ「元信」朱文壺形印が捺されており、永承13年(1516)から天文17年(1548)頃に、元信工房で制作されたことが確実な扇として貴重である。元来、扇絵は主としてやまと絵系や町絵師系によって生産されていた。しかし元信は、新しい顧客獲得を見込んで、扇絵制作に積極的に乗り出した。扇絵を新たに求め始めたのは、京都町衆であろう。なお、この屏風は、私は江戸時代に、現在の屏風の形にされたものだと考えている。

白衣観音像 狩野元信  紙本着色 一福 室町時代(16世紀)ボストン美術館

この白衣観音像を見た時に、私はこの絵は一度見たことがると思いだした。帰って図録集を調べたら1983年の「ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展」の図録に掲載されていた。34年前に一度見た白衣観音像を、思い出した勘には驚いたが、名品中の名品である。忘れる訳がない。元信の確実な作品である。全体を墨隈して幽遂な崖下の空間に、二重の光背を負い禅定印(ぜんじょういん)を結んで結跏賦座(けっかふざ)した白衣観音を描く。胡粉塗の白衣に墨の衣文線、頭の飾り、胸の瓔珞(ようらく)には金泥、頭髪は白群色であらわした正面向きの像容である。背景の懸崖や岩の皺、波頭に見られる手堅い技法を本格的に取り入れている。私は、この仏像の神々しさに、自ずから頭が下がった。元信による仏画の最高傑作である。仏画は本来、仏画の専門職人が制作するものであったが、狩野派は、確実に仏画の部門で最高傑作を造りだしている。この神々しさは、34年経っても忘れることが出来ない傑作である。なお、本作は阿波の蜂須賀家の旧蔵品で、山中吉兵衛(後の山中商会)からフェノロサが購入し、愛蔵していた。

重要文化財 神馬図額 板字着色 2面 室町時代(16世紀)兵庫・加茂神社

正信自身の署名と花押の捺された大型絵馬は、室町時代の絵馬の中でも、有数の名品である。瀬戸内海の重要港湾として栄えた室津の鴨神社に伝来し、奉納者は弥延長門守乃家の名が記される。播磨守護であった赤松政村の被官であった。制作年代は明らかでないが、絵馬各所に天文8年(1539)など16世紀中頃の年紀を伴う落書きが複数ある。従って、天文初頭、1530年代の元信画と見て間違いない。資本を蓄積した商人や有力大名のみならず、在地領主層にも狩野派の信奉者が浸透したことを示している。いわばパトロン層の拡大である。

 

狩野派の元祖は、狩野正信(1434~1530)であり、最初に記録に現れるのが寛正4年(1463)、30歳の時である。相国寺の僧・季瓊真蘂(きけいしんずいー1401~1530)が私費を投じ、自坊である雲頂院の将堂に観音及び十六観音の壁画を画かせたのが「性玄」こと正信であった。この季瓊は陰涼職(いんりょうしき)という地位にあり、将軍が参禅や法を聴くために相国寺内に設けた陰涼軒を預かっていた。正信が室町幕府の御用絵師に上り詰めた背景には、足利将軍と密接な関係があった季瓊の推挙があったと推察される。正信は、次に文明15年(1483)、50歳の時、将軍の座を譲った足利義正(1436~90)が隠居所として造営した東山御所、いわゆる東山殿において、日常生活の場となる常御所の障子絵を担当している。その後、延徳2年(1490)には義政の葬儀のための法体像を描いている。正信は更に第九代将軍・義尚(1465~89)関係の画事も請け負っており、延徳元年(1489)には義尚の病気平癒の祈願に用いるため、弥勒像の制作を行っている。正信は義尚の母である日野富子(1440~96)の葬儀用肖像画も描いており、将軍家と密接な関係を作った。本来、仏絵師たちの専門領域であった仏画や、やまと絵系絵師たちが手掛けていた肖像画の領域までレパトリーを拡張していた。二代目の狩野正信は父・正信の遺産を受け継ぎ、狩野派の画風や、その組織を確立していく。正信については、本文で詳しく書いたが、正信の狩野派にもたらした成果をまとめてみると、次のようになるだろう。1.狩野永納の「本朝画伝」には、「狩野派は元信の代に「天下画工の長(おさ)となったと記されている。2.正信は筆様では無く、真体、行体、草体の三種の「画体」を創り出し、元信様式としてマニュアル化することで、一定の品質を保った作品群を生み出す土壌を創った。3.一方で、やまと絵の分野においても特筆すべき活動を見せている。狩野派は漢画を専門とする絵師集団と理解されてきたが、元信の時代になり、やまと絵の領域にも進出し、和漢両方の画題や手法を使いこなせることが狩野派の宣伝文句となり、レパトリーを広げ、大勢の需要者を造りだした。「本朝画伝」では「狩野派は是れ漢にして倭を兼ねる者なり」と記されている。元信の孫・永徳や、永徳の孫・探幽と狩野派の稀代の大天才が相次いで登場したことにより、「狩野派ブランド」に大きな信頼が寄せられるようになった。正に、二代目正信が、歴代狩野派の中で最も優れた画力を持ち、かつ組織力、経営力を持つ稀有の能力を発揮したことが、狩野派が400年に亘り、画壇の頂点に君臨し続けた、大きな要因であった。

 

(本稿は、図録「狩野源信  天下を納めた絵師  2017年」、図録「ボストン美術館 日本絵画名品展 1983年」、田中英道「日本美術全史」を参照した)

春日大社   国宝殿の神宝

春日大社には、かねて宝物殿があったが、この度、第60回造替式を紀念して、新しく「春日大社 国宝殿」が新設され、多くの観光客が参拝に集まっていた。私も昨年(2016年)11月に新しく生まれ変わった「国宝殿」を訪ねた。この項では、「春日大社 千年の至宝」で伝えなかった武器、兜類を解説することにした。

春日大社   国宝殿の写真                                                   展示場の外観                入口

新しい国宝殿は写真に見る通り、入口と展示場が廊下で繋がっている。入口で入場券を渡すと、次の部屋は”真っ暗”な部屋であり、恐ろしくて歩けない。壁伝いに、少しずつ歩くと、やがて次の部屋へ移る。此の部屋には春日灯籠が数個懸っており、多少明るくなる。この部屋を過ぎると、鼉太鼓(だだいこ)(複製)が2個並ぶ部屋へ移る。

鼉太鼓(だだいこ)の外観

だ太鼓の概容を、外部から撮影したものである。だ太鼓は舞楽に用いる楽器であり、左右で一対となる。宮廷芸能である雅楽は平安中期に左右区別が生じ、左方を唐楽系、右方を高句麗系に分類して用いる。春日大社には源頼朝による寄進という伝承のあるだ太鼓が一対あり、この写真は昭和51年(1976)の複製である。

国宝  本宮御料古神宝類  黒漆平文装剣     平安時代(12世紀)

飾剣は高位の公家が佩用する刀装で、朝廷の儀式に参列する際、正装姿で見に着けた最も格式の高い太刀である。原型は奈良時代に舶載された唐太刀(からたち)に求められ、平安時代になると、刀剣が焼刃のない鉄身となるなどして早くから儀仗化した。この太刀は、柄(つか)を白鮫皮包として黒漆塗りの鞘に宝相華とおぼしき文様を平文で表した痕跡が残る。

国宝  菱作打刀                南北朝時代(14世紀)

付属の箱に「奉納 春日御社剣一腰(菱作打刀)右為財奉納如件 至徳2年5月22日(花押)」とある。至徳2年(1385)に藤原北家勧修寺(かしゅうじ)流の支流である葉室長宗が、この太刀を奉納したことがわかる。こうした奉納経緯がわかる刀剣は極めて珍しい。更に当時の刀装名称が確実に把握できる点も稀有である。

国宝 赤糸威大鎧(あかいとおどしおおよろい)(梅鶯飾)鎌倉時代(13世紀)

大鎧は、馬に跨って矢を射ることを目的に生まれた甲兜であり、胴の右脇で引き合わせ、広く開いた隙間を脇盾でふさぎ、大腿部を防御するため前後左右に草摺をつける。さらに、頭に星兜、胸上に栴檀の板と鳩尾の板、両肩に袖を加えるのが基本である。この大鎧は、本殿に隣接する宝蔵にあったことが知られ、同社のなかでも特に大切にされていたことが知られる。

国宝赤糸威大鎧(あかいとおどしおおよろい)(竹虎雀飾)鎌倉時代(13~14世紀)

この大鎧は、わが国の甲兜のなかでも、その華やかさにおいては屈指の作例として著名である。前作等と共に宝蔵に収められていたことが知られている。全体を緋色と呼ばれる茜(あかね)で染めた鮮烈な赤糸で威し、随所に繊細な彫金を施した金銅の金物をつけ、その色彩的なコントラストは目にもまばゆい。

国宝  籠手(こて)           鎌倉時代(13世紀)

籠手(こて)は、鎌倉時代においては弓を射るのに適した「片籠手」と呼ばれる左手と腕を守るものが一般的で、両側を守る「緒籠手」(もろこて)は討物合戦が普及した南北朝時代にから主流となった。この籠手は、諸籠手の最初期の作例とされ、かっては興福寺勧修坊に伝来し、源義経が兄・頼朝に追われた際、この籠手を同坊に残していった伝承から「義経籠手」とも呼ばれた。

 

ここで紹介した武器・武具は、単なる武器。武具ではなく、本質的には制作当時の最高の技術と高度な造形感覚を結集させて誂えられた「特別な宝」であり、決して武具ではない。ここに示した刀剣や甲兜は、見事な装飾に飾られ、これらの刀剣や甲兜が、単なる武器・武具ではなく、神へ奉納する最高の品であることを物語るのである。

 

(本稿は、図録「春日大社 神々の秘宝」、図録「春日大社 千年の至宝 2017年」を参照した)

お江戸散歩  大名庭園から庶民信仰まで

昔の勤務先のOBグループ有志で、毎年行う秋の「お江戸散歩」を10月24日に愉しんだ。最初の計画では、23日の予定であったが、台風上陸のため、1日延期したものである。この日は例年快晴に恵まれるが、今年は台風のためか曇りで写真の出来栄えが悪い。一行は20名余で、90歳代から65歳までの定年組のグループである。今回は、大名庭園で有名な六義園(りくぎえん)から、巣鴨駅近くの「とげ抜き地蔵」まで約2キロの道を2時間かけてゆっくり廻るコースである。江戸の名残りと、庶民の町「巣鴨通り」まで、東京の、古き、良き街並みを楽しんだ。

六義園の正門としだれ桜

六義園は、徳川六代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保(よしやす)が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。元禄8年(1695)に加賀藩の下屋敷跡を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観を持っ回遊式築山泉水庭園を造り上げた。柳沢は、将軍のお側用人で、綱吉の寵愛を受けた人であったので、このような大庭園が造れたのであろう。(艶吉との関係は藤澤周平の「市塵」に詳しい。なお「市塵」は優れた本である)園内には、幾つも見所があるが、「しだれ桜」が一番有名だろう。現在は、こんな容姿である。なお、しだれ桜は、染井吉野の満開から5日程度遅れて満開となることが多い。その時は、庭園は一番賑わい、多分写真は、他人様の頭越に撮ることになるだろう。

六義園の地図

拝観料を払うと、「特別名勝 六義園」というパンフレットをくれる。その中に園内の地図があるので、ここに紹介した。

内庭大門

建物と庭園の入口に内庭大門が立つ。大門と呼ぶほど大きな門では無いと思ったが、建物は、なかなかしっかりした建物で、多分お寺の門に匹敵するほど、しっかりした門である。

大名屋敷跡

内庭大門を入ったすぐ左側に「六義館跡」(りくぎのやかたあと)の縦看板がある。目立たない場所であるので、大部分の人はこの碑におは気遣かないと思うが、私には極めて重要なモニュメントである。地図の上では、「宣春亭」と「心泉亭」の辺りである。ここからの眺めが大切である。吉保(よしやす)はどのような庭園を見ていたのか、大名の立場で庭園を眺めることが出来る。

妹山・瀬山(いものやま・せのやま)

お屋敷の座敷(通常は、屋敷の一番奥にあるー現在の通路の一番池に近い場所)から、庭園を眺めれば、目の前に島があり、妹山・瀬山という二つの高みが写真左湍に見える。

肉筆浮世絵 美人鑑賞図 寛政2~4年(1790~92)歌川春章作出光美術館

出光美術館で「勝川春章と肉筆美人画」という展覧会を見た時、ひときわ大きい肉筆浮世絵が目立った。解説によれば、この美人達がたむろするお屋敷は、六義園ーすなわち柳沢家の座敷だろうとのことであった。確かに、浮世絵では屋敷内の座敷にたむろする美人が11人いる。これに見える庭園は、正に池の中の妹山・瀬山と思われる二つの山が、ややオーバーに描かれている。浮世絵は江戸庶民の楽しみであると思い込んでいたが、この肉筆浮世絵は1点もので、かつ絹本着色で69.4cm×123.4cmと極めて大きい浮世絵である。図録の中で出光美術館の渡海信彦氏が「俗中の雅」という小論文を寄せている。それによれば、この肉筆浮世絵は二代大和郡山藩主・柳沢信熈(のぶときー1724~92)が注文制作したとしている。浮世絵は庶民だけでなく大名まで愛した絵画であることを知った。1点もので、かなり高額な謝礼であっただろう。美人画としては破格に大きい画面であり、極めて上質な絵具を惜しげもなく使って仕上げられた「美人鑑賞図」は、特定の注文主の意向に沿ったカスタム・メイドと考えるのが妥当との見解であり、邸宅主の柳沢氏を注文主と想定するのは当然であろう。この肉筆浮世絵を見て、是非、この判定の可否を判断したいと思ってこの散歩に参加したが、渡海学芸員の論文に全面的に賛成することにした。さて、柳沢氏の屋敷であるが、江戸末期まで、火災に遭うこともなく明治を迎えたそうである。明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園を整備し、この時周囲を赤煉瓦の塀で囲ったそうで、関東大震災による被害も殆ど受けず昭和13年(1938)に東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった。東京大空襲の被害を受けることもなく、造園時の面影を残したまま今日まで生き延びた。東京都内では、宮城と同じ位、稀有の存在である。三菱財閥にお礼を言いたい。

大和郷(やまとむら)

六義園の西側本駒込6丁目の白山通りまでの間一体を大和郷(やまとむら)と呼ぶ。江戸時代は加賀前田家の中屋敷であつたところであり、明治維新後、六義園とともども三菱財閥の岩崎弥太郎の所有となった。大正時代に入り木造家屋が密集した東京の劣悪な住環境が社会問題となり、華族が所有していた広大な土地を市民に開放しようとする運動が起こり、松濤(渋谷区)や西方(文京区)などが代表的な例である。正に大正デモクラシー運動の成果であろう。岩崎家も六義園西側の土地を市民に開放することとし、当時の建築界の重鎮・東大教授の佐野利器に設計を委ねて、大正11年(1922)から分譲を開始したゆとりある土地区画を整然とした道路の街並みは高級住宅街として「大和郷」とネーミングされた。現在はマンション街となっているが、この写真の部分は、まだ高級住宅街の面影が残っている。

徳川慶喜公の梅屋敷跡

大成奉還を行った15代将軍・徳川慶喜公は、静岡で長い謹慎生活を送っていたが、61歳の時(明治30年ー1897年11月)に巣鴨に移り住んだ。こ屋敷は中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥には故郷の水戸に因んだ梅林があったことから、町の人々から「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ、親しまれた。しかし、巣鴨邸の横に鉄道(現在の山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌って、明治34年(1901)に小日向第六天町に移転し、明治35年(1924)に公爵に叙され、貴族院議員にも就いて、実に35年振りに政治に携わることとなった。大正2年(1913)その地で感冒により死去。享年77歳。徳川将軍の中では最長であったそうだ。

真性寺

「江戸六地蔵尊」の一つとして知られるこのお寺は、真言宗豊山派醫王院真性寺と言う。起立年代は不詳である。元和元年(1615)境内には松尾芭蕉の句碑があった。大きな傘を被り、杖を持つお地蔵様であり、庶民信仰の寺である。江戸の六海道の出入口に置かれ、旅の安全を見守ってくれる。(巣鴨は中山道の出入り口である)関八州江戸古地図、江戸図ほか多くの文献から真性寺界隈は交通の要衝として賑わっていたことが伝わっている。現在も巣鴨商店街の近くであり、賑わっている。真性寺の地蔵尊は江戸深川に住んでいた地蔵坊正元という人が願主となり、宝永3年(1706)造立の願を発してから14年間の間に、おおよそ同型の地蔵菩薩像6体を造立された中の1体で、4番目に造られた銅製の坐像で、この像の完成は正徳4年(1714)9月である。毎年6月24日に行われる百万編大念仏大念珠供養では、全長16m、541個の桜材の珠からなる大念珠を500~600名で廻し江戸六地蔵の供養を行う。10月24日にも、大勢の方が参詣に参られている。江戸の庶民信仰は、現在まで生き残っている。

とげ抜き地蔵尊  高山寺

「とげぬき地蔵尊」の名で親しまれるこのお寺は、正式には曹洞宗萬頂山高山寺と言う。慶長元年(1596)に江戸湯島に開かれ約60年後に下谷屏風坂に移り、巣鴨へは明治24年(1891)に移転してきた。ご本尊は「とげぬき地蔵」として延命地蔵菩薩であるが、秘仏として拝観は出来ない。高山寺本堂に安置されている。江戸時代最大の火事であった「明暦の大火」(1675)で、当時の檀徒の一人「屋根屋喜平治」は妻を亡くし、その供養のため「聖観音菩薩像」を、この寺に寄進した。この聖観音菩薩像に水を掛け、自分の悪い所を洗うと治るという信仰がいつしか生まれた。これが「水洗い観音」の起源である。その後、永年に亘ってタワシで洗っていた聖観音菩薩の顔などもタワシで洗っていたため、次第にすり減ってきたので、平成4年(1992)11月に、新しい聖観音菩薩の開眼式を行い、同時にタワシを廃し布で洗うことになった。散歩当日の「水洗い観音」は、行列をなして、私も水を掛け、布でふいてきた。江戸の庶民信仰は、21世紀の今日まで生き続けていることを感じた。

 

今回の「お江戸散歩」も内容が充実し、わずか二時間の散歩であるが、江戸=東京の底知れぬ魅力を再発見する散歩となった。特に六義園は、肉筆浮世絵を見て以来、是非現地を見て、座敷からの景色を確認したいという思いが強かったが、正しく、「美人鑑賞図」は「柳沢邸」に間違いなく、浮世絵が江戸庶民のみならず、大名にまで愛好がおよんでいたことが確認でき、永年の謎を解くことができた。また、江戸の庶民信仰が、今に息づいており、大勢の善良な市民が日常的に参詣している姿に感銘した。日本人は無信仰であり、本人も無信仰と言ってはばからない姿に接するが、結構、形を変えて信仰心は生きているのでは無いだろうか?

 

(本稿は、パンフレット「特別名勝 六義園」、図録「勝川春章と肉筆浮世絵 2016年」、「東京都の歴史散歩 上」、ウィキペディア「真性寺・高岩寺」を参照した)

素心伝心 クローン文化財 失われた刻(とき)の再生

シルクロード特別記念展として、東京芸術大学で、クローン技術を利用した文化財の展示会が開催されている。現代社会において文化財保護は厳重に保管される一方で、強く公開が求められている。この保管と公開の両立という課題を解決するため、東京芸術大学では芸術と科学技術の融合による高精度な文化財の複製「クローン文化財」の技術開発に着手した。「クローン文化財」とは、最先端のデジタル技術と伝統的なアナログ技術を融合し、人の手技や感性を取り入れることによって、単なる複製ではなく新たな芸術を生み出すことを目指している。文化財のクローンをつくることで、劣化を避けるためにオリジナルの公開を制限しながら、常時オリジナルと同価値、あるいはそれ以上のものを公開できるという発想である。コピーやレプリカと訳されるような単なる複製品ではなく、オリジナルと同素材、文化的背景など芸術のDNAに至るまでを再現する、まさしく文化財のクローンなのである。今回、芸大が総力を挙げて、「シルクロードの文化財」のクローン文化財を造り上げ、それを公開展示したものである。(なお「クローン文化財」を理解するためには、今回の図録を購入し、熟読されることをお勧めする、)本展覧会では古代シルクロードの各地で花開いた文化を代表する遺産をクローン文化財として甦らせる企画である。絹の道シルクロードは仏教の道である。インドで生まれた仏教は、シルクロードを通ってギリシャ、ローマ、イラン等の文化と融合し、グローバルな文化様式が生まれ、さらに中国において大きな変容を遂げ、東アジア仏教美術の様式が形成された。現在、シルクロードの文化財は様々な危機に直面している。実物を鑑賞することが難しい作品が多数ある。このクローン文化財の一部は、展覧会終了後、故国に「帰還」する予定である。シルクロード美術の伝統は残念ながら多くの地域で途絶えてしまったが、その終着点である日本では幸運にも今日まで継承してくることができた。「クローン文化財」の展示は「浮世絵のクローン文化財」展として「ハイカラー覚醒するジャポニズムーボストン美術館スポルデイング・コレクション」展(2015年4月)、「G7伊勢志摩サミット」(2016年5月)で、「バーミヤン東大仏天井壁画のクローン技術による復元」展示を行って好評を博している。

法隆寺金堂壁画         2014年開催「別品の祈りー金堂壁画ー」

法隆寺金堂壁画は文句なく、わが国の壁画の最高傑作である。その制作年代については、各種の意見があるが、芸大の意見としては、法隆寺の焼失後、金堂が再建されたのが、和銅4年(711)までには完成し、それと共に壁画も、それまでに完成していたとの見解であり、以後この説に従う。しかし、金堂壁画は、昭和24年(1949)1月26日に、壁画の模写中に火事を起し、焼失した。損傷した壁画は建築資材と共に、収蔵庫に収められている。今回展示された「法隆寺金堂壁画」は、損傷前に撮影されたガラス乾板やコロタイプ印刷、鈴木空如(秋田県仙北市)らの模写等、あらゆる美術資料を参考にされた。集めた資料をもとにすべての壁画資料をデジタル化し画像を統合していった。画像の編集と印刷のみデジタル技術に頼り、それ以外の質感再現や彩色仕上げは、伝統的な方法を用いることで模写技術は承継された。昭和の再現模写において発生した作業者の技術差や感覚差による完成模写の恣意的差異を限りなく小さくすることが可能となった。かくして完成した「法隆寺金堂壁画」は、2014年春に「別品の祈り」と題して公開された。この写真は、この2014年の「別品の祈りー法隆寺金堂壁画ー」の写真である。

法隆寺金堂の釈迦三尊像                 クローン像

法隆寺金堂の釈迦三尊像のクローン像である。但し、脇侍仏が左右入れ替わっている。図録の説明は「美術史における先行研究を踏まえて脇侍(わきじ)の左右を入れ替えて配置した」と説明するのみで、如何なる研究に基づくかは、語っていない。なお、釈迦三尊像は、無条件に飛鳥仏と説明しているが、異論があることは述べておきたい。なお、クローン像の作成については、図録44ページに詳しく説明されているが、詳細な技術論であるので、再現は控えたい。

釈迦三尊像の光背銘                   クローン製

釈迦三尊像の光背には、有名な光背銘が彫られている。文章の一番最後(左側下部)には、次の銘文が刻まれている。「司馬鞍止利仏師造」は「司馬造りの首(おびと)とり仏師造る」と読むのであろう。この光背銘も後世の作とする有力な異説がある。この光背銘もクローン製品である。

敦煌幕高窟(ばっこうくつ)                 山河満理 写す

中国甘粛省の西端部に位置し、1987年に世界遺産に登録された幕高窟(ばっこうくつ)石窟、鳴沙山の断崖に千年に渉ってつくられた多数の洞窟内には仏塑像が安置され、美しい壁画が描かれている。敦煌の文化遺産を守り伝える敦煌研究院では、飛躍的に増加した観光客により、文化遺産の劣化が加速度的に進むという懸念から一部の石窟では、拝観者を制限している。

第57窟 主室西壁の写真             敦煌研究所より写真提供

敦煌窟内での写真撮影は厳禁されている。これは、敦煌研究所より提供されたものである。本来、この展覧会は「クローン 展覧会」であり、この57窟もクロー壁画・像が展示されていた。しかし、図録には、肝心のクローン壁画・像を採用しないで、この写真しかないため、止むを得ず、写真を提示した次第である。クローン像は、この写真とは相当異なっている。塑像は、真中の釈迦仏と、向って右手の脇侍仏の2体のみで、他は作っていない。解説によれば、後世の補正が多く、原像を維持しているのは二尊のみなので、二尊を再現し、他の仏像は、再現しないままで57窟を再現している。第57窟は典型的な唐代のものである。この57窟は現在公開されていない。それは飛躍的に増加する観光客の吐く息が、文化財を劣化させるためである。将来、クローン文化財による57窟が出現するかも知れない。それでも見学したい人は多いだろう。

敦煌莫高窟57窟  主室南壁          敦煌研究院より画像提供

この石窟は「美人窟」よ呼ばれる。それは、この窟の観音菩薩像(向って一番左側の尊像)の絵像は、端正にして秀麗、なまめかしく鮮やかで、人呼んで「美人菩薩」といい、これに因んで石窟も「美人窟」と呼ばれる所以である。この壁画は緻密かつ華やかで、「細部精緻にして甚だ華麗」(歴代名画記)な唐代の画風が随所に現れている。井上靖氏は「敦煌 砂漠の大画廊」の中で「第57窟の美しい胸飾りを付けた観音菩薩像」と名指しで「眼につく仏像」を挙げている。私は、敦煌の土産物として、この美人観音像の掛軸を買ってきて、時々懸けて楽しんでいる。肝心のクローン像の写真は無い。ここで注意して頂きたいのは、壁画を取り巻く千仏像である。色彩は黒くなっているが、作者の信仰心の高さが窺える。第57窟は白眉の出来栄えである。

バーミヤン石窟の写真                 安井浩美氏撮影

かって玄奘三蔵が訪れ、仏教文化の繁栄を表すように光り輝いていたアフガニスタン・バーミヤンの東西大仏は、2001年にタリバーン・イスラム原理主義勢力によって破壊された。この写真は、大仏破壊後の石窟を示す写真である。

バーミヤン東大仏破壊の跡            共同通信・ニューズコム

タリバンによって破壊されたバーミヤン東大仏立像の跡である。天井壁画も失われた。この展覧会では、破壊された前の1970年代に撮影されたポジチブフィルムと、後に計測された仏龕の3Dデータをもとに合成し、ラピスラズリを始めとする絵具で彩色し、東大仏天井壁画「天翔る太陽神」を復元しようとする試みである。

バーミヤン東大仏天井絵復元図                 クローン絵

2016年東京芸術大学で行われた天井絵の想定復元図である。彩色はしてあるが、中央に大きな欠損が残ることに、注意して頂きたい。

天井絵の復元と、その天井絵の完成を見上げる人達

2016年の天井絵のクローン復元が完成し、アフガニスタンからの留学生たちも含んで撮影した写真である。今回の展覧会も、この写真と同じ条件で展示された。この展覧会終了後、クローン文化財の一部は、故国へ「帰還」する予定である。

 

文化財は唯一無二の物であり、その真正性は本来、複製は不可能である。東京芸術大学では、劣化が進行しつつある或いは永遠に失われてしまった文化財の本来の姿を現代に甦らせ、未来に継承していくための試みとして、文化財のクローンとして復元する特許技術を開発し、今回展示を試みたのである。この展覧会では古代シルクロードの各地で花開いた文化を代表する遺産がクローン文化財として甦ったことを示すものである。失われたり、劣化したりした文化財をクローン技術で、再生、復元する今回の試みは、文化財の「保護」と、「公開」という難問題に対する一つの問題提起であろう。

 

(本稿は、図録「素心伝心ークローン文化財 失われた刻(とき)の再生 2017年」、シルクロード「全12巻」、図録「敦煌石窟の珍品 1999年」を参照した)