東大寺  法華堂(2)

法華堂の仏像配置は、不空羂索観音の両脇に日光・月光菩薩が立つという配置が、私が見慣れた法華堂の景色であった。平成8年(1996)から平成11年度(1999)にかけての法華堂諸像の剥落修理の際、仏像を移動、調査して意外な事実が明らかにしたのは、文化庁の主任文化財調査官、奥健夫氏であった。2009年9月の「仏教美術」に寄せた「東大寺法華堂八角二重基壇小考」と題する論文である。この論文は、「小考」どころか、学会に大きな反響を巻き起こした。

八角二重基壇の写真         日経新聞2012年3月4日記事より引用

真中の一番小さい八角形は本尊の台座跡である。その左右が修理前の日光、月光菩薩の立ち位置である。その下の、下段の上に残る、円に近いぼんやりとした痕跡が、かっての日光、月光と四天王像(戒壇院)の置かれていた跡だというのである。奥論文は「ここで注意されるのは、これらの八角台座の痕跡が日光月光像並びに現戒壇院四天王像の台座底辺輪郭と一致することである」と記している。「これらの台座は一辺長さが34cmほど、向かい合う二辺の距離がおよそ82~84cm前後で、須弥壇下段の床面には内外にそれぞれ3~5cmを残して納まる」という。「6体の保存状態の良好さは、安置されていた堂が火災に遭ったり倒れたりした場合にあり得ず、それが安置される堂宇とともに相当長い間伝えられてきたことによると見るのが自然である。東大寺で奈良時代の建立になる唯一の仏堂である法華堂の八角二重基壇の下段に、大きさと形が一致する台座痕跡がある以上、塑像6体はかってここに安置されていた可能性を積極的に考えてよいのではないか」と述べている。台座の痕跡という「事実」が、1200年余ぶりに「史実」に一撃を与えたのである。

台座上の配列図

これはある新聞の記事から引用したものであるが、創建時の仏像の配列と、2010年の配列を示したものである。この配列記事は奥論文を基にして作成したものであろうが、私は、現在やや異論を持っている。2010年の「東大寺大仏 天平の至宝」という展覧会の図録で、(当時慶応大学教授の)金子啓明氏が「東大寺大仏と天平彫刻」と題する論文を寄せている。その中で、金子氏は「創建時の仏像」として、「七体の塑像群は九体の脱活乾漆像とは制作工房が異なり、作風と文様が脱活乾漆像群より塑像群が先行するとする説を肯定し、本尊を執金剛神とする考えである。造像の発願者はもちろん良弁」である。上段に設けられた宝殿部に執金剛神が安置されたと考えれば、像高が170cmの等身像であっても違和感はない。八角二重基壇の大きさに較べれば執金剛神はやや小ぶりであることは確かだが、むしろゆったりとした空間に、本尊としての違和感は際立つ筈である。伝日光、月光菩薩像は像高が2mをやや超えて本尊より高いが、当初は八角二重基壇の下段か、そこから外れた須弥壇上に安置されたと見れば、像の高さの相違は特に問題ない。」このように法華堂の最初期の本尊は執金剛神であったことを積極的に肯定している。私は、現時点では、金子説が一番あり得る配置であると考えている。

国宝 執金剛神立像  塑像 彩色 像高 170.4cm 奈良時代(8世紀)

 

現在は法華堂本尊の不空羂索観音像の背後の厨子内に北面して立つ。「日本霊異記」(822年頃成立)に記述があり、既に北向きであったと言う。慶応大学の金子教授の意見によれば、最初は、法華堂の本尊であり、現在不空羂索観音立像の立つ位置に立っていたことになる。後に不空羂索観音菩薩像が法華堂に本尊として新たに安置されることになるが、執金剛神像は、厨子に入って八角基壇下段に移されたことになるだろう。執金剛神の名は手にした金剛杵から付けられた。長く秘仏とされたため、彩色が良く残る。平将門の乱(939)に際し、この像の髪の元結紐の端が蜂となり、平将門を刺殺したという説話が残るように、古来、霊像として良く知られていた。開扉は毎年12月16日で、良弁僧正像と同日である。

国宝 日光菩薩立像 塑像、彩色、載金、像高206.3cm奈良時代(8世紀)日光菩薩立像          月光菩薩立像

 

法華堂本尊の左右に立っていた。須弥壇中央の八角二重基壇の上段に安置されていた。当初は極彩色だったという。日光、月光菩薩の呼び方は江戸以前の文献には出て来ず、仏教の守護神として採り入れられたインドの梵天・帝釈天の像ではないかとされる。後世に他の堂から法華堂に移された「客仏」と考えられてきたが、最近の調査では、もともと不空羂索観音の眷属として立っていた可能性が強まった。しかし、東大寺では、この説を取らず、現在は新設された「東大寺ミュージアム」に常時展示されている。この研究によって日光・月光両菩薩像に投げかけられてきた「客仏」というレッテルが、理由の無いものになった。(「客仏」とは後世になって、他の堂から持ち込まれた仏像のことである)日本美術史家のみならず、「「古寺巡礼」の和辻哲郎も、日光・月光菩薩像など法華堂の塑像をさして、「しかしこれらは本来この堂に属じたものではあるまい」と記している。町田甲一は、日光・月光は「客仏」と前置きをして、「この像は、もともと本尊に随侍する脇物だと主張したもいるが、多くの人はこの考えに否定的で、材も本尊の乾漆とは異なる塑であり、像高もはるかに小さい。それよりも作風が全く異なり、表出する感情が完全に異質である。後世、同じ東大寺の他の堂より伊座されたものであろう」(大和古寺巡礼)と言い切っている。

国宝 四天王像 増長天像 塑像彩色 像高163.6cm 奈良時代(8世紀)

西南隅の増長天は、右手に鉾をつき、左手を腰にあて、大喝しながら激しく相手に迫ろうととする姿で、このように侍国天と増長天には、仏敵破摧(ぶってきはさい)の積極的なはたらきが示されている。

重要文化財  法華堂経蔵              鎌倉時代(?)

重要文化財であることは確かであるが、何時建設されたものかを示すものは、私の持っている図書では明確にできなかった。法華堂の正面から、手向山八幡宮に寄った所に建つ経蔵である。良弁時代の経蔵は、平氏の戦火で焼けたのであろうか。重源によって再建された鎌倉時代ではないかと思う。HPで確認のため「法華堂 経蔵」で羂索したところ、次のような文章が見つかった。「もとは東大寺油倉の上司倉でした。東大寺食堂跡の北東に位置する油倉の地に並んで建っていました。正徳4年(1714)現在地に移したと伝えられ、天平時代の創建と見られます。」かつ、この経蔵は「手向山神社宝庫」としている。また一方、東大寺法華堂経蔵とも書いている。ネットの記事なので、あまり信用できないが、一つの意見としてお知らせする。

 

2010年に開催された「東大寺大仏  天平の至宝 2010年」展の図録で、慶応大学教授の金子啓明氏が「東大寺大仏と天平彫刻」という論文を発表している。それによれば、初期の法華堂の本尊は、執金剛神であり、その下段を6体の塑像が取り巻いていたとしている。金子論文は、次のように締めくくっている。「今、法華堂、三月堂と呼ばれる羂索堂は等初は不空羂索観音像の堂ではなく、堂の名称も異なっていた。それ以前のこの堂では、良弁が大切にしていた執金剛神を当初の本尊とし、伝日光、月光菩薩像と現戒壇院の四天王像の7体の塑像による群像構成であった可能性のあることを指摘しておきたい。」東大寺は、これらの指摘とは反対の意見のようで、新設した東大寺ミュージアムに伝日光、月光菩薩像を常に安置している。どちらが史実かは、いずれ歴史が証明するであろう。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏 天平の至宝  2010年」、ビジュアル文庫「第5巻 東大寺」、田中英道「日本美術全史」、原色日本の美術「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」、日経新聞2012年2月26日、3月4日、3月11日「美の美」「東大寺法華堂の秘密」を参照した)

東大寺  法華堂(1)

和銅3年(710)に藤原京から遷された都・平城京は聖務天皇が即位した神亀元年(724)ころには、「青丹よし寧楽の京師は咲く花の勲ふがごとく今盛りなり」(小野老 萬葉集巻三 三一八)と詠まれたように、大陸より遣唐使によってもたらされたさまざまな文物を取り入れた若々しい息吹が感じられる国際的な都市となっていた。そのような社会状況の中、神亀5年(728)、前年に誕生した聖務天皇待望の皇太子・基親王が夭折した。聖務天皇は親王の菩提を弔うために平城宮の東の山中に山房を建て、9名の僧を住ませた。その中に、後に東大寺の初代別当になる良弁(ろうべん)が含まれていたとされる。この山房が後に金鐘寺(きんしょうじ)と呼ばれるようになった。東大寺にはこの山房(寺院)にその源流を求めているのである。山房が建てられた場所は、大仏殿の東側の一段と高くなった二月堂や法華堂がある上院と呼ばれる地区内のさまざまな場所が研究者の推定されてきたが、最近、二月堂北側の山中にある人工的に造られた平坦地から創建時の東大寺で多数使用されている型式より先行する興福寺型の瓦片など遺物が多数発見され(丸山遺跡)、金鐘寺の堂宇がこの場所にあった蓋然性が大きくなった。ところで、上院地区にはもう一つの寺院があったとされる。光明皇后と関係の深い福寿寺と呼ばれる寺院である。福寿寺はその後、天平13年(741)頃までには寺観も整えられていたようである。また平安時代に成立した東大寺の寺誌「東大寺要録」には東大寺に先行する寺院として天地院の名も見られる。和銅元年(708)大仏建立の際に勧進の役を担った行基によって造営されたものとされる。さて、この頃の政治社会情勢は天然痘が各地で流行し、政治の中枢にいた光明皇后の兄弟である藤原四兄弟が相次いで病死、九州・大宰府では藤原広嗣が反乱を起こすなど、華やかで色鮮やかな情景を謳った萬葉集とは違い、政治的社会的に不安定な状態が続いていた。聖務天皇はこの状況を打破するために平城京を出て、伊賀、伊勢、美濃、近江の国々を次々と廻り、山城国恭仁(京都府木津川市)に都を遷すことにした。天平13年(741)、新都・恭仁京(くにきょう)において国家の災害、困難などを消去することを説く「金光明最勝王経」を具現化した国分寺の建立の詔を発した。各国に国分寺が建てられることになり、大和国では金鐘寺を中心とした上院に存在していた寺々が一つの寺院として統合されて国分寺となり、金光明寺となった。

国宝  法華堂  寄棟造(正堂)、入母屋造(礼堂)   奈良時代、鎌倉時代

平安後期に編纂された「東大寺要録」には、東大寺の前身である金鐘寺(金鐘山房)は天平5年(733)に聖務天皇が良弁のために羂索院(法華堂)を創建したとある。しかし、これまでは、この「東大寺要録」の記述は疑問視されてきた。しかし、平成8年(1996)から11年度(1999)にかけての法華堂諸像の剥落止め修理の際、年輪年代法を用いて八角二重基壇の構成部材を測定したところ、西暦729年と言う値を得た。神亀6年(天平元年)で基親王の亡くなった翌年である。さらに法華堂須弥壇上方の用材から731年、須弥壇後方の用材から730年、あるいは731年の伐採年を得た。天平3年に当たり、「東大寺要録」の記述に近く、その信憑性がにわかに高まったのである。これまでは法華堂は、屋根瓦の文様や本尊光背に関するとされる天平19年(747)正月付の文書が存在することから、天平18,19年頃の創建とする見方が強かった。年輪年代法という科学的な手法が20年近く年代を遡らせたことは、大きな衝撃であった。「東大寺要録」に法華堂建立年次として見える天平5年(733)は、かなり近い年次であることを示すと思われる。法華堂が始めから不空羂索観音菩薩像を本尊として安置することを目的として建立されたものではないらしい。観音像が法華堂(羂索堂と呼ばれたこともある)の本尊となるのは建物完成後しばらく間をおいての時期と考えられ、天平14年(742)より後と考えるのが自然であろう。法華堂は、向って左側が天平時代の建物(正室)、右側が鎌倉時代の建物(礼堂)である。旨くマッチしている。

国宝  法華堂内の仏像群             奈良時代(8世紀)

法華堂の仏像群は、2013年の修理により、展示仏ががらりと変わった。脱乾漆像の巨像のみが残り、美しい塑像類の展示が無くなった。昔を知る私に取っては、非常に寂しい展示であるが、東大寺としては法華堂の建設当初の仏像に統一した積りであろう。仏像展示は、ある意味ですっきりとし、何も知らなければ、これが法華堂建立時の姿と思うだろう。確かに、ここは、天平彫刻の宝庫である。しかし、和辻哲郎「古寺巡礼」や亀井勝一郎「大和古寺風物詩」を読んで、大和古寺巡りを始めた人には、違和感が大きいだろう。日本で最も美しい日光、月光像が無い法華堂には魅力を感じないのではないだろうか。そんな風に考えると、堂内の人数が減ったようにも思う。

国宝 不空羂索観音立像 脱活乾漆造 像高362.0cm 奈良時代(8世紀)

法華堂の本尊として、須弥壇中央に安置されている。額には縦に三眼(天眼)があり、合掌した手以外に6本の太い腕を持つ。中心の合掌する両手に注目すると、その掌の間に小さな水晶玉がみえる。水晶玉は如意宝珠を意味する。如意宝珠とは、すべてを意の如く自由に成し遂げる魔法の玉である。その神呪を唱えると一切の災いや諸悪は忽ち消え去るという。不空羂索観音菩薩像の表現には、この観音の呪的な救済力が現動することが意図されている。羂索は、古代インドの狩猟具でひもを縒(よ)って索(網)にしたもので、これで獲物を捕るように、衆生の悩みを救済するという意である。

国宝 不空羂索観音立像の宝冠 銀製鍍金 総高88.2cm奈良時代(8世紀)

中心に銀製鍍金の阿弥陀如来の化仏を配し、翡翠(ひすい)・琥珀(こはく)・真珠・瑠璃(るり)などの珠玉をちりばめ、周囲を銀製透かし彫りの宝相華で飾って荘厳する。天平時代の工芸技術の最高峰を示す作品である。

国宝 梵天・帝釈天立像 脱活乾漆造          奈良時代(8世紀)

梵天・帝釈天は、もともと古代インド神話中の代表的な神格で、梵天は創造神とされるプラフマー、帝釈天はインドラという最強の武勇神であった。仏教に早く取り入れられ、仏法を守護する神として一対で表されるようになった。両像は、いずれも4Mを超える堂内最大の尊像で、本尊不空羂索観音の左右に侍立する。衣の下に甲(よろい)を着けた武装形の方(向って右)は梵天としている。ゆったりと唐風の衣をまとい、すっくと立つ姿は、内省的なその表情とと相まって威厳が感じられる。手の指は長くしなやかに造形されている。

国宝 金剛力士立像 阿形脱活乾漆造 総高326.0cm 奈良時代(8世紀)

法華堂の須弥壇前面左右に安置され、梵天・帝釈天・四天王像とともに一具をなし、ほぼ同時期に同じ工房で制作されたものと推定されている。通例の金剛力士(仁王)像と違って、向って左に阿形(あぎょう)、右に吽形(うんぎょう)を安置している。また、一般的には上半身を裸形とするのに対し、これは甲冑姿に表されているのが特徴である。像の表面には、金箔地に朱・緑青・群青などの彩色が施され、甲(よろい)の縁に乾漆を盛り上げて菱に十字繋ぎ文や花文を配するなど、華やかに装飾されている。阿形は、髪を逆立て、表情も怒りをきわめて露わに表現している。

国宝  四天王立像 自国天立像 脱活乾漆造     奈良時代(8世紀)

四天王はもともと古代インド神話中の神々で、仏教に取り入れられ、仏法を守護する尊格として四方を守る。法華堂でも、高さ約3Mの脱活乾漆の大きな像が須弥壇の四隅に安置されている。怒りの直截(ちょくさい)な表現は抑え、ゆったりとした相貌に造られている。侍国天・増長天・広目天・多聞天のそれぞれの肉親を、白緑(びゃくろく)・朱・肉色・白群(びやくぐん)の4色に塗り、各々文様も変化をつけて描かれている。東南にある自国天像は、眉を吊り上げ、両目を大きく見開き、腰をわずかにひねっている。甲兜の背面には宝相華と鳳凰文がえがかれている。

 

東大寺は、この法華堂を中心として作られたお寺である。古くは金鐘寺(きんしょうじ)と呼ばれ、また光明皇后と関係の深い福寿寺とも関係があった。聖務天皇が天平14年(742)8月に紫香楽宮で大仏建立の詔を発し、「自ら念を有し、廬遮那仏を造るべし」、「人有て一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんと情(こころ)に願はば、恣に(ほしいままに)聴せ(ゆるせ)」と述べ、皆のための大仏として、造立に広く民衆の協力を求めたのである。聖務天皇は天平13年(741)に、新都・恭仁宮(くにきょう)において国分寺建立の詔を発して、各国に国分寺が建てられることとなり、大和国では金鐘寺を中心として上院に存在していた寺々が一つの寺院として統合されて国分寺となり、金光明寺(金光明四天王護国之寺)となったのである。現在の法華堂こそ、東大寺の始まりであった。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏  天平の至宝  2010年」、ビジュアル文庫「東大寺」、探訪日本の古寺 第12巻「奈良Ⅲ」、和辻哲郎「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、日経新聞2012年2月22日、3月4日、3月11日「東大寺法華堂の秘密」を参照した)

入江一子  100歳記念展ーシルクロードに魅せられて

上野の森美術館の前を通ったところ、この表題の展覧会を開催していた。不勉強ばがら、入江一子という女流画家については全く知らず、普通ならそのまま見過ごす処だが、100歳記念展という珍しい長寿と、シルクロードの魅力に惹かれて、思いがけず入館し、思いがけない感動を得ることができた。近来稀にみる、感動であった。そこで、この感想を「美」で取り上げてみたい。入江和子先生は、大正5年(1916)5月に、韓国天邱(テグ)で生まれた。入江家は毛利藩士の家系で父は貿易商を営んでいたが、早く亡くなった。しかし、十分な資産があり生活に困ることはなく、母親フミノは芸術的天文の豊かな人で、特に手芸に堪能だった。この血を受け継ぎ、入江先生は幼少から異様なまでに描くことが好きだった。1929年、大邱公立高等女学校に進学し5年生のとき、第12回朝鮮美術展に2点入作した。昭和9年(1934)、女子美術専門学校師範西洋画部に入学した。当寺は、ここ以外に女子が学べる美術学校は無かったそうである。上京して、美校に学んだが、「日本の風景が箱庭のようで驚きました。本当に美しい国だと思いました」と語っている。しかし、彼女の色彩は、不器用なまでに大陸的であったと言う。私が、この全く知らない画家の100歳展を見て、思わず引き込まれてのが、色彩の異常なまでの美しさであった。女子美を卒業後一旦朝鮮に帰国し、丸善のソウル支店に勤務し、ショーウインドーを担当し、生涯の師となる林武氏を知った。昭和16年(1941)8月に入江先生は一人で汽車に乗ってハルピンやチチハルに出かけ、ホテルの会場で自分の描いた絵を売りさばいていた。そこで、彼女は次のような言葉を述べている。「満州の空は、抜けるような青色です。ノンコウという川に行ってみると、川面は血を流したように夕日で真っ赤に染まり、そこにジャンクのような舟が一隻浮かんでいます。その風景は生涯、忘れることができないほど、たいへん感動的なものでした」。この原始的な青と赤。これが入江一子と色の出会い、色彩の発見であり、これが後に画家をシルクロードへ駆り立てる原動力となったのである。(本江邦夫氏筆)私が、シルクロードを描かれた入江一子氏の絵を見て感激したのは、まさに本江先生のご指摘通り、シルクロードを描く、色彩の素晴らしさに強く惹かれたのである。入江先生のシルクロード巡りは50歳代になってからであるが、力作は、その絵を100号、200号というとてつもない大きさで描いたことである。まず、シルクロードの絵を招介したい。

イスタンブールの朝焼け  1975年  100号F 第29回女流画家協会展

作者の言葉より、引用して説明に替えたい。(以下このスタイルによる)「中国の西安をシルクロードの起点とするならば、トルコのイスタンブールは、東方のシルクロードの終点ともいえるところです。6本のミレット(祈りの塔)のあるブルーモスクやアヤソフィア、ハギヤソフィアとトプカプ宮殿などがあります。人々の服装もかなりヨーロッパ的な感じになってきて、東洋と西洋を結ぶシルクロードの接点としてエキゾチックな魅力にあふれた街です。長年、チチハルのノンコウに血潮を流したような景色がずっと目に焼き付いていたのですが、この時、ノンコウの面影とボスボラス湾の朝焼けを重ね合せることができたのです。ボスボラス湾の刻々と変わりゆく自然の美しさを作品にしょうと、スケッチブックに色を重ねていきました。この絵を描くことで、シルクロードへの憧れをより深くすることができると思ったのです。そこには、いつも心の中に焼き付いていたノンコウの美しさと同じ色彩がありました。ノンコウは夕陽でしたが、この朝焼けの真っ赤な色彩に運命的に出会ったことで、この作品を描くことができました。思えば私にとってシルクロードの旅は、このノンコウの色彩を追い求めることから始まったともいえるのです。」(色彩自在ーシルクロードを描きつづけてーより)

敦煌飛天 1979年  200号F    第47回独立展

「私は320窟(くつ)の飛天の魅力にすっかり魅せられて、なんとしても画き留めたいと思いました。ここは撮影が許可されていないので、男性の通訳が外で見張りをしています。しかも中は真っ暗で、本来は、外国人には、模写はさせてもらえないのですが、懐中電灯を明かりとして、2時間かけて飛天を模写させてもらいました。3階もある莫高窟(ばっこうくつ)の壊れかけた木の階段をリュツクサックに画材やカメラ、テープレコーダー、懐中電灯などを持って、大変な思いをして登った私の熱心さに感激してくれたのか、女性の通訳の好意により特別に模写することができました。そうした死闘の結果、200号の「敦煌飛天」が出来上がったのです。」(色彩自在ースルクロードを描きつづけてーより)敦煌320窟は、「阿弥陀浄土変相図」と呼ばれる窟で、一番上の飛天が美しいことで有名な窟です。私も感激して観た記憶があります。(黒川)

トルファン祭りの日  1981年  200号F

「ウルムチやトルファンはシルクロードとともに歴史を刻んだ場所です。葡萄棚の下のウイグルの人々の踊りを、どうしても絵にしたいと思っていましたので、訪ねるならば葡萄の実が成る時と決めていました。その機会に恵まれて、1980(昭和55)年8月7日に訪れることができたのです。スケッチは翌日ほとんど完成しました。そうして個展に出品する作品に仕上げるために、日本に帰ってからもアトリエで200号のキャンパスに描きつづけました。」(色彩自在ーシルクロードを描きつづけてーより)

パミール高原  1990年  150号F   第58回独立展

この高原は天山、カラコルム、ヒンズークッシュの3つの大山脈が集まって形成された巨大な高原地帯です。高原と言っても平均海抜5000メートルにも達する場所で、6000,7000メートル級の山々がそり立っています。パミールは珍しく快晴で、砂ぼこりがおさまり、これらの白い山々を遠望できました。古代中国の人は、これを「惣嶺」(そうれい)と呼んでいますが、この場所から、ブルンクリンまで訪ねました。高原で絵を描いていると、集落の家々から人がたくさん出てきました。ウイグル、タジク、その他多くの少数民族の人々で、モチーフとしては格好の題材でした。(「色彩自在ーシルクロードを描き続けて」ーより)

四姑娘(しーくーにゃん)山の青いケシ 1992年 200号P 第60回記念独立展

中国の成都よりチベットに向かう四姑娘(シークーニヤン)山麓に青いケシの花が咲いているという話を、ずっと以前から聞いていました。青いケシを見たい一心で、遂に行く決心をしました。ガイド役に植物にくわしい先生がつき、現地では、もし落ちそうだったら添乗員が私を馬に乗せていってあげるというので、その言葉を頼りにしての決心でした。1992年7月、まずは中国大陸に渡り、上海からの出発です。上海からは空路で成都へ向かいました。成都に行くのは、山岳地帯に向かっているわけですから、かなり気候は涼しくなってきています。翌朝、専用車で臥龍(がりゅう)まで向かい、臥龍の招待所で泊まる予定です。その予定で出発したのですが、7月は雨が多い季節で長雨のために土砂崩れでバスが通れません。仕方なくバスを捨てて耕運機に乗って1時間ほど進むことになりました。臥龍に近づいていくと、今度は橋が落ちていて、耕運機も通行できない状態です。もう歩くよりひかに方法がなくなり、泥んこ道を1時間ほど歩きつづけました。みんな山登りの人たちですから装備は完璧です。山崩れで道が悪くても、臥龍まで歩く予定でしたが、途中、臥龍からバスが出迎えに来てくれました。今度はバスで日隆(リーロン)に向かうことになりました。途中は、やはり多くの花が咲いていました。この辺は中国といっても、完全にチベット文化圏に入っている地域です。招待所はひどい状態でした。翌日は、いよいよ山登りの旅であり、四姑娘山麓のお花畑に向かっていきました。日隆の標高は3600メートル。これからベースキャンプに行って、テント生活をします。途中の山の斜面には、ヤギや羊の群れがみえて、村の子どもが世話をしています。民族衣装を着たチベット娘たちが、花が一面に咲いている高原で「四姑娘の娘」を歌いながら、籠の中に草を採って歩いています。翌朝はタークーニャン4300メートルまで、いよいよ青いケシの花を訪ねて山登りになります。雨が降って霧が流れているのでUターンして帰ろうとすると、突然、青いケシの花が一面に咲いているのがみえはじめました。はるばる訪ねてきた甲斐があったと、みんな大感激でした。息苦しい4000メートルの高地に、ようやく美しいケシの群生をみることができたのです。感激を心の中にとどめながら、私は雨の降るなかを、ベースキャンプに向かって下りて行きました。(「色彩自在ーシルクロードを描きつづけて「-より)この絵は、私が見た入江さんの絵の中で一番美しい絵でした。(黒川)

敦煌飛天  2005年  150号F    第73回独立展

前に見た1979年の「敦煌飛天」と同じ320窟の「敦煌飛天」の色を変えた絵ですが、私の好みから言えば、前作の色の方が、敦煌の壁の色に似ていると思います。しかし、色を変えた、この新しい「敦煌飛天」も魅力的です。なお、「敦煌飛天」は同じスケッチを基にして描かれた作品と思いますが、ここまで変わり得るものかと思いました。(黒川)

雲南ジンボー族まつりの日  2015年  200号P  第83回独立展

残念ながら、この絵について、入江さんの説明はない。多分、雲南地区の少数民族(ジンボー族)の祭りの様子を描いたものです。ややキュビズム的な感じがしますが、色の美しさ、衣装の美しさを鑑賞してください。民族ののぼり旗が3本たち、沢山の旗がきらめいています。多分、チベット仏教のお経を書いた旗では無いかと思います。祭りの儀礼だろうと思います。99歳の老人の描く絵かと思います。勢いを感じます。(黒川)

ホータンのまちかど  1986~2015年  200号P 第84回独立展

「この作品は、ロシヤとの境にある、並木の美しい、土塀のつづく小さなモスクのある中国の町です。外人は入れないのですが、特別に入らせて頂きました。10号のスケッチブックを開いて20号にしてがんばりました。カセットテープで録音をとり、当時の臨場感をだして、がんばりました。中々思い通りに進まない時、今でも大切に保存している林武先生のはげましの言葉を思い出します。「君が中途で止めておく手腕があれば、君が近々絵を描ける様になったと思います」。当時はあまり分からなかったのですが、現在では苦労の末に分かる様になりました。今年も「シルバーカー」を押しながら、200号をがんばります。」2016年と言えば、正に100歳の時です。こんな素晴らしい絵を描き続ける入江先生の「がんばり」に驚き、感激しました。(黒川)

あだし野  1970年  100号F   第38回独立展

「最近、石仏に興味をもち、京都・深草の五百羅漢、奈良の浄瑠璃寺周辺の磨崖仏、兵庫県北条の五百羅漢、或いは九州の装飾古墳、などをテーマに描いております。私の石仏は、宗教につながるものではなく、石の肌合い、表情の面白さにひかれているのです。」残念ながら出典はあきらかではありませんが、入江先生の文章です。私が思うに、これは京都・化野の念仏像と思います。1970年と言えば54歳の一番力の籠った時期と思いますが、面白いことに100歳の絵(「ホータンのまちかど」)の方に、力を感じます。それがシルクロードの絵のせいでしょうか。(黒川)

 

 

入江先生の絵は、若い時ほど色彩が暗く、いかにも専門の画家が描いた絵という感じがします。お年をめす程、色彩が明るくなり、素晴らしい「シルクロード」の案内となりました。特に「敦煌飛天」は2図ありますが、最初の(1979年)方が、はるかに現実に近く、私が見た第320窟の思い出に近い色になっていますが、後年(2005年ー入江先生89歳)の方は、思い切って明るく、写実を離れて、色合いも変えて、自由自在に描かれた絵のように思います。全く偶然に「シルクロードの魅力」の言葉に惹かれて拝見し、思いがけない美しさに酔いました。大村智先生(ノーベル生理学賞受賞者、女子美大理事長、韮崎大村美術館館長)は、図録の招介で「入江一子先生の生き方」と題して、次のような文章を寄せられています。「女流画家の大御所の一人である、入江一子先生が、2016年5月に100歳を迎えられました。私は女流画家協会展のオープニングパーティーに毎年招かれて行きます。女子美術大学は、2013年11月に、最初の”女子美栄誉賞”を入江先生に授与させていただきました。(途中略)入江先生の精力的な制作発表はまだまだ続きます。この度の上野の森美術館で開催される”百彩自在”と題した展覧会会場にて、またその美しい色彩が織りなす大作を拝見するのを楽しみにしたいと思います。」

 

(本稿は、図録「入江一子100歳記念展ーシルクロードに魅せられて」をほぼ原文のまま引用させて頂きました。なお、入江一子作の「色彩自在」を改めて読んでみたいとおもいます。もし、先生の展覧会を観る機会がありましたら、今度は自分の言葉で、感想を述べます。また「砂漠の美術館ー永遠なる敦煌  1996」は第320窟を確認するために参照しました)

岩佐又兵衛と源氏絵ー古典への挑戦

岩佐又兵衛(1578~1650)の生い立ちは数奇である。父荒木村重(1535~1586)は摂津国伊丹(現兵庫県)の有岡城主であった。父村重は、織田信長の配下に属して信認あつい戦国武将である。しかし、村重は毛利輝元、石山本願寺の連合に組し信長に反旗をひるがえす。又兵衛が生まれた天正6年の10月のことである。11月、信長は自ら有岡城を攻めを決断し、1年がかりでやっとこれを落とした。だが落城の直前、村重は意外なことに、わずか5,6人を連れて、かれの子・村次がたてこもる尼崎城、次いで花隈城に逃げ込んだ。信長は、村重への残酷な見せしめを行う。天正17年(1587)12月、まず郎党の男女500人あまりが尼崎近くで四つの家に閉じ込められて焼き殺された。ついで荒木一族の者三十余人が、京都へ護送され、六条河原で処刑された。又兵衛はわずか2歳(以下数え)で乳母の手で城から救い出され、京都の本願寺のもとにかくまわれたと後世の「岩佐家譜」は伝える。又兵衛がどのように育ったかは不明であるが、姓も荒木から母方の姓と言われる岩佐に改め、自らの絵の才能を世渡りの術として生きようとした。彼は絵画だけでなく和漢の幅広い教養を身に付けていた。さまざまな絵画の技法を身に付け、和漢のあらゆる主題に貪欲に取り組んだ又兵衛の画域は、実に広い範囲に及んでいる。又兵衛は、京都から北の庄(福井)に移り、約20年間にわたる絵筆を振るい、その後活動の拠点を江戸に移している。今年(2017年)は、又兵衛が江戸へ拠点を移してから380年の記念の年に当たる。今回は、出光美術館で、又兵衛の源氏絵を中心に、広く又兵衛の画業を招介する企画である。(出光美術館 2月5日まで)

重要美術品 四季耕作図屏風 岩佐又兵衛作 紙本墨画淡彩 江戸時代(17世紀)出光美術館

山あいに展開されるのは、移ろう四季に応じた農作業の風景である。右隻の「浸種」にはじまり、「耕」や「灌漑」等をへて、左隻に移る。このひと続きの行程は、室町時代に輸入され、南宋の画家・梁楷(りょうかい)の作と信じられてきた「農耕図巻」の内容を踏襲して描かれている。この屏風絵全体を見ると、当時の又兵衛が操ることができる狩野派の技法と図様のすべてを動員することで出来上がっている。又兵衛晩年の作と考えられている。

重要美術品 職人尽図巻 一巻 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代(17世紀)出光美術館

この図巻に収録される場面は、巻頭が童子と戯れる布袋、酒杯を持っている大国、大原女、医師、仏師などさまざまな職人を描いている。背景は殆ど無い。29の場面があるが、それぞれに有機的なつながりがあるわけではない。それぞれに独立した図採集の趣が強い。職人尽の図は広く描かれている。非常に淡白な仕上がりである。この絵の制作は晩年期であると推測される。

重要美術品 在原業平図 一幅 岩佐又兵衛作 紙本淡彩 江戸時代(17世紀)出光美術館

上部に記された「古今和歌集」に収録される在原業平の和歌は「伊勢物語」第八十八段に採用されていることで知られる。左手に弓を握り、緌(おいかけ)と細桜(さいえい)のついた冠に狩衣(かりぎぬ)をまとって立つ業平の図である。本図も歌仙図であるが、いかにも斬新である。この絵は、元和年間(1615~23)から寛永年間(1624~43)のはじめにかけて制作されたと推察されている。福井時代の画業の円熟期を迎えた又兵衛の、秀抜な技量を示す一図である。同時期の作品の中でも秀逸である。

伊勢物語 くたかけ図 一幅 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代(17世紀)出光美術館

伊勢物語第14段「くたかけ」の図と見られる。名残惜しそうに女を振り返る男の様子がやや気になるところであるが、女の風采がいあかにも鄙びた様子で捉えられることも物語本文の内容に忠実な描写と言えよう。辻惟雄氏は第53段「遭ひがたき女」の情景を描いたものと説き、「むかし、おとこ、遭ひがたき女にあひて、物がたりするなどするほどに、鶏の鳴きければ{いかでか鶏の鳴覧人知れず思ふ心はまだ夜深きに}の内容を察知」したとする。かって「樽屋屏風」と呼ばれる押絵貼屏風の大六扇目に貼られていた一図である。池田家を離れ屏風装を解かれたあと、大正8年(1919)に日本画家・下村関山が落札したのち、「観山会」で分譲されたものである。

三十六歌仙図 柿本人麻呂 一幅 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代(17世紀)出光美術館

大正時代末期には28名の歌仙の姿をおさめた巻子装であったらしい。その後、分断され掛軸に改装された。現在、国内外で20幅ほどが確認されている。各図には歌仙の名とともにそれぞれの代表的な和歌が一首ずつ記されており、書きぶりが一手であると思われる。寛永7年(1640)に仙波東照宮に奉納された扁額と同一の姿を示す。扁額に残された和歌もまた、本図と同じ青連院尊純の揮毫と伝わる。寛永17年(1640)からそれほど隔たらない時期の制作と考えられる。

和漢古事説話図 浮舟岩佐又兵衛作 紙本墨色 江戸時代(17世紀)出光美術館

旧岡山藩主の池田公爵家に伝来した時点では、全十二図からなる巻子装であったが、現在は1図ずつ掛軸に改装されている。12枚の主題のうち、「源氏物語」に取材するものが3図である。須磨巻(第十二帖)、夕霧巻(第三十九帖)、浮舟巻(第五十一帖)の情景をとらえている。浮舟巻においても「これなむ橘の小島」と告げて舟をとめる船頭や、付き従う女房の侍従などの姿をとらえず、説明的な描写を避けながら主役の二人に焦点を絞るあたりに、又兵衛の独自の解釈が光る。

重要美術品 源氏物語 野々宮図 岩佐又兵衛作 紙本墨彩淡彩 江戸時代(17世紀)出光美術館

福井の商家・金屋家に伝わった押絵貼屏風(通称、金谷屏風)には、あらゆる画題をとらえて絵画が納められていたが、明治42年(1909)に展示されたのち、屏風から掛軸に姿を変えて、それぞれの所有者に渡った。中国と日本の主題が無秩序に混在した配列であったらしい。源冶物語は、この野々宮図と官女観菊図(山種美術館)の2図である。源氏物語の賢木(さかき)巻(第十帖)の一場面を、水墨を主体にして描いたものである。源氏絵を細い線のみで描くことは、古くは鎌倉時代にさかのぼるが、その多くは「小絵」である。これほど大きな画面へと転換させたのは、日本絵画史上で又兵衛がはじめてである。周囲に秋草が繁茂する黒木の鳥居の下、たたずんで前方に視線を送る光源氏。晩秋のころ、伊勢下向をひかえたかっての恋人・六条御息所を嵯峨野・野宮に訪ね、これから榊のように変わらない恋募の情を伝えようとするところである。時期を少し前にずらしながら、源氏のみを近接してとらえるという劇的な手法は、まるで見るものがこの場面に立ち会っているかのような、鮮烈な臨場感を生み出している。この絵画の特徴を一言で言えば、漢画すなわち水墨画の画題をそのなかに自在にはさんで、和漢混交の画面を展開させていることである。又兵衛の特徴である「豊頬長顎」(ほうきょうちぉゆい)が、はっきり認められる絵である。又兵衛の北の庄(福井)時代を代表する名作である。

重要文化財 官女観菊図 紙本墨画淡彩 岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)山種美術館

この絵は、今回の展覧会に出展されていない。図録に参考作品として写真が写っているのみである。しかし、山種美術館で私が見ているので、あえて取り上げてみた。これは福井時代を代表する金谷屏風の一部であり、上掲の野々宮図とともに、金谷屏風に貼られていたものである。牛車から、侍女に御簾を上げさせて菊を観る二人の宮廷女性が描かれている。描線を主体にした緻密なモノクロの画面にふっくらとした頬と頤(おとがい)の「豊頬長頤」(ほうきょうちょうい)と呼ばれる、又兵衛作品に典型的な顔の3人である。もと「金谷屏風」と呼ばれた六曲一双の押絵貼屏風のなかの一つである。福井藩主・結城秀康の二男直正が生まれた時に、豪商・金屋家が「御養育方仰せ被」り、大切に養育したので成長後、金屋家感謝の意を込め、屏風が贈られたという。本作品の箱の中に納められている「勝以画口述伝来書」という書付けが含まれていた。

源氏物語 桐壷・貨狄造船図屏風 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)出光美術館

中国と日本の古事が、左右の画面に描き別けられる。左隻にとらえられるものは、紀貫之にまつわる伝説とされたが、現在は「源氏物語桐壷巻」が絵画化されたものであるとの解釈されている。階下に立つ束帯姿の男性は貫之ではなく、12歳となった光源氏の元服に際して、加冠の役を務めた左大臣と解される。画面の左側から引き立てられる馬は、かたわらの鷹などとともに桐壷帝から下賜された禄である。この絵を描いたのは、おそらく又兵衛工房絵師が主体となり、寛永年間頃に制作したものだろう。

源氏物語 伝岩佐又兵衛作 紙本金地着色 江戸時代(17世紀)泉屋博古館

金雲によって各画面を六つずつの空間に区切り、「源氏物語」の十二の情景を展開させる。左隻には桐壷(第一帖)、若菜(第五帖)、空蝉(第三帖)、紅葉賀(第七帖)、帚木(第二帖)、末摘花(第六帖)を描いている。物語の叙述に沿うように場面が配置されているわけではないものの、右隻に元服以降の源氏の青年期を描こうとする意識は強い。又兵衛工房の源氏絵の図様に熟知した画家が筆をとったことは疑いない。

 

岩佐又兵衛は、辻惟雄氏の「奇想の系譜」(1970年初版出版)の一番先に紹介された江戸時代の画家である。岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳の6名の画家が「奇想の系譜」の中で紹介された。初版出版以来約半世紀が経つが、伊藤若冲や曽我蕭白は、今や江戸絵画師のスターの座に上り詰めているが、岩佐又兵衛の知名度は高くない。何故、岩佐又兵衛の評判が高く無いのだろうか?私は、又兵衛の個人展覧会が、東京や京都で開催されないことが大きな原因では無いかと思っている。2016年の夏、福井県立美術館で開催された「岩佐又兵衛展」は、福井藩移住400年に合せて開催されたもので、又兵衛の代表作が的確に選ばれ、記念の年に相応しい展覧会であったそうである。(私は、福井ということもあり、見ていない)新しく国宝に指定された「舟木本・洛中洛外図」や「豊国祭礼図屏風」、「山中常盤物語絵巻」、「上瑠璃物語絵巻」など多彩に渡ったそうである。是非、そうした絵画を揃え、東京か京都で「大岩佐又兵衛展」を開催してもらいたい。恐らく、伊藤若冲に劣らない人気を博する筈である。しかし、今回出光美術館で「岩佐又兵衛と源氏絵ー古典への挑戦」が開催されたことは、大きな出来事であり、岩佐又兵衛の知名度を上げることに大いに貢献するものと思う。「舟木本・洛中洛外図」は、2013年の「京都 洛中洛外図と障壁画の美」で見ているので、「舟木本・洛中洛外図」については、近い内にこのブログで書いてみたいと思う。肝心の「山中常盤物語巻」と「上瑠璃物語絵巻」は熱海のMOA美術館の所蔵品であり、現在MOA美術館は大修理中のため、拝観はかなわないが、今年の2月には開館する予定であるので、展覧次第見学して、御招介したいと思う。また、又兵衛は、かねて「浮世絵又兵衛」とも呼ばれ、浮世絵の元祖とする説もある。例えば「大浮世絵展  2014」の図録の冒頭の「浮世絵前夜」で、次のように記されている。「こうした近世初期風俗画の世界で、豊頬長顎(ほうきょうちょうい)の面貌を反らした容姿の人物像を描いた絵師・岩佐又兵衛の存在を忘れてはならないだろう。近世初期風俗画に登場するモチーフ、最新流行のファッション、新しい演劇の歌舞伎、現世にある楽土の遊里などの描写に「浮世」の思想がうかがえ、浮世絵成立への先駆をなしたと考えられる」。これだけ話題豊富な岩佐又兵衛に美術愛好家の眼が届かない訳がない。是非、大々的な「岩佐又兵衛展」を、東京で実行して頂きたい。

 

(本稿は、図録「岩佐又兵衛と源氏絵  2017年をサンシxy王」、辻惟雄「奇想の系譜」、辻惟雄「岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎」、図録「大浮世絵展 2014年」を参照した)

東大寺    大仏開眼供養

大仏造立は大仏の原型となる土の像が天平18年(746)10月に完成、鋳造自体は翌年(747)9月に開始され、天平勝宝元年(749)10月までの3年、8度の鋳継ぎを経て完成した。大仏の鋳造が終わった年の2月、残念ながら勧進の役を担った行基は大仏の完成を見ることなく、82歳の生涯を閉じている。大仏の鋳造が終わると螺髪(らはつ)や脇侍の如意輪観音、虚空蔵菩薩の造像、さらに大仏殿の造営も行われ、天平勝宝3年(751)中には主だった作業が終了した。完成した大仏の開眼供養については「日本書記」に言う仏教の日本への渡来の年、欽明天皇13年(552)から200年という節目の年である天平勝宝4年(752)、釈迦の誕生日に当たる4月8日に執り行われることが決定された。しかし、実際には翌9日に開眼供養が行われている。この日程の変更理由の記述はどの記録、古文書にも触れられておらず、判然としない。雨天のためとかの理由かも知れない。天平勝宝4年(752)4月9日(続日本紀による)、東大寺大仏殿(廬舎那仏)の開眼供養が盛大に行われた。大仏殿の前の中庭には東西に五色の幡と宝樹が立てられ、購読師の座る高座が東西に設けられた。中央には舞台が設けられている。大仏殿の内部には裏に至るまで造花と刺繍の蟠が飾られ、大仏の前には玉壁がしつらえられた。そこには聖務太政天皇、光明皇太后、孝謙天皇が着席した。周りには多くの官人がとり囲んでいる。南門から僧侶千二十六名、東から大仏開眼導師であるインドから渡来した菩提僧正(菩提僊那)が参入。続いて西から「華厳経」を説く講師の隆尊律師が、同じく東からは同経を読む読師の延福法師が入場した。

大仏殿(現在の大仏殿)               江戸時代(17世紀)

img153

完成した大仏殿は、2度の兵火で焼かれ、復興され、現在の大仏殿は江戸時代の元禄5年(1692)に開眼供養が行われた。寺は創建当時より、かなり縮小している。

天平宝物筆ハチクの仮斑竹 鹿毛・羊毛・狸毛・一枝・奈良時代(8世紀)正倉院  天平宝物墨 一挺               奈良時代(8世紀)  正倉院

img152 img147

大仏の瞳に墨を入れる開眼の作法は、聖務太政天皇が行うところであったが体調がすぐれないためインドから渡来した菩提僧正が代行することになった。菩提僧正は大階段を登り、大きな筆に墨をつけて大仏の瞳を描き込んだ。この筆と墨は、正倉院に伝わっている。

縹縷(はなだのる)(開眼縷)  絹製、藍染   奈良時代(8世紀)正倉院

img148

開眼の筆を執ったのは、天平8年(736)5月に請われて来日をしていたインドの僧、菩提僊那(ぼだいせんな)であった。開眼筆に長大な縹(はなだ)色の縷(る)が結び付けられ、それを既に天皇の位を譲っていた聖務太政天皇や光明皇后、娘の孝謙天皇、文武百官、一万人の僧など参列者も持ち、ともに開眼した。開眼に用いた筆、墨、縹縷(はなだる)は、共に正倉院に保管されている。筆は長さが56.6cm、墨は長さが52.5cm、縷の長さが190メートルを超える長大なものである。私は2010年の光明皇后1250年遠忌「東大寺大仏」で拝観している。(写真は2010年に行われた「東大寺大仏」の図録から写した)

伎楽面 獅子児 捨目師作           奈良時代(8世紀)     伎楽面 獅子児 捨目師作           奈良時代(8世紀)

img149  img150

開眼に続いて「華厳経」の請説や唐楽、高麗楽、林邑(ベトナム周辺)楽など国際色豊かな舞楽が奉納された。この時に用いられた伎楽面は正倉院に伝わっている。作者名の判明した2面の写真を載せたが、他に多数の伎楽面が残されている。この時の様子を「続日本紀」は「仏法東帰してより齋会の儀、未だ寡て此のごとくの盛なることあらず」と記しており、非常に盛大なものであったことがうかがえる。大仏開眼供養会が終わると5月1日には良弁が東大寺の初代別当に任命された。

 

続日本紀の天平勝宝4年(752)夏4月9日の項には、次のように記している。(現代語訳 続日本紀 中巻)「東大寺の縷舎那仏の像が完成して、開眼供養した。この日、天皇は東大寺に行幸し、天皇みずから文武の官人たちを引き連れて、供養の食事を設け、盛大な法会を行った。その儀式はまったく元旦のそれと同じであった。五位以上の官人は礼服を着用し、六位以下の官人は位階に相当した長服を着た。僧一万人を招請した。それまでに雅楽寮(うたりょう)および緒寺のさまざまな楽人が集められた。またすべての皇族・官人・諸氏族による五節(ごせち)の舞・久米舞・竪伏(たてふし)(楯・刀などをもって舞う)踏歌(あられしばり)・袍袴(袍や袴をつけた舞)などの歌舞が行われた。東西にわかれて歌い、庭にはそれぞれ分かれて演奏した。その状況のすばらしさは、一々書き尽くせない程であった。仏法が東法に伝わって以来、斎会(食事を供養する法会)としていまだかってこのような盛大なものはなかった」続日本紀の中でも一番生き生きと描かれた状であった。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏  2010年」、小学館ビジュアル文庫「東大寺」、入江泰吉「大和古寺巡礼」全六巻のうち「第一巻 平城京」、入江泰吉「写真 大和路」、探訪日本の古寺「第三巻 奈良Ⅲ」続日本紀三巻の内「中巻」を参参照した)

 

 

東大寺   大仏殿

東大寺建立に先立ち、金鐘寺(きんしょうじ)、金光明寺(こんこうみょうじ)等の建立があるが、それは他日法華堂の項で触れることにして、まずは東大寺大仏殿の建立から述べたい。天平15年(743)10月15日、聖務天皇は盧舎那仏造立の詔を発している(続日本紀)。近江国紫香楽(しがらき)の離宮においてであった。盧舎那仏は紫香楽宮近くの甲賀寺で造像が始められた。この大仏建立事業は民間僧(私度僧)であった行基が率いる集団が中心となって進められた。その功績により行基は大僧正(だいそうじょう)となった。しかし、大仏建立は中座し、天平17年(744)5月11日に紫香楽宮から平城京に都が戻るとともに、都の東の春日山麓の現在の地に造立の場を変えられた。その造営は大和国の国分寺に位置付けられた金光明寺で行われ、天平19年(746)9月に鋳造は始まった。銅は山口県の長登鉱山からもたらされたものである。天平20年(747)には造東大寺司が設けられ、金光明寺は東大寺と改称された。大仏の場所は甲賀寺から東大寺に変更となったが、盧舎那仏造立の詔にみられる聖務天皇の国家的理想はそのまま引き継がれた。東大寺の寺域は、丸山、若草山、春日奥山から南の山に至る広範囲を占めている。その中心となるのが天平勝宝4年(752)に開眼供養された大仏を本尊とする大仏殿(金堂)である。東大寺は二度の兵火により伽藍の大半が焼失した。治承4年(1180)、源平抗争のさなか12月には平重衡(しげひら)の軍勢が奈良を攻め、東大寺の大半の伽藍を焼失させた。この時の様子を「平家物語」は「御頭は焼落ちて大地に有り。御身は溶合いて山の如し」と書いている。また九条兼実は、その日記「玉葉」(ぎょくよう)に「仏法王法滅尽し了るか。凡そ言葉の及ぶところにあらず。筆端の記すべきにあらず。余このことを聞き、心身厝く(さく)がごとし」と綴って嘆き悲しんでいる。現在の仏像と大仏殿は公慶による勧進によって元禄4年(1691)、大仏の修復が完了、翌5年(1692)に盛大に改元供養が行われた。公慶の願いを聞き入れ幕府と諸大名からそれぞれ金五万両が拠出され、大仏殿も再興された。大仏殿の規模は七間四方に縮小された。大仏殿は宝永5年(1708)6月に完成し、翌6年3月に落慶供養が行われた。現在の大仏殿が完成した。

重要文化財 中門  木造  本瓦葺き   江戸時代(18世紀)

img_3464

大仏殿が完成したのは宝永5年(1708)であるが、それ以後、中門や廻廊が次々と建てられ、元文2年(1737)6月に現在の大仏殿が完成した。(現在修理中である)

国宝 大仏殿 一重裳階付き 寄棟造 本瓦葺 江戸時代(18世紀)

img_3524

宝永5年(1708)に大仏殿は寛政したが、明治維新の廃仏稀釈の流れは、巨大な堂舎があるが、一方で檀徒を持たない東大寺にとって、その維持管理に深刻な影響を与えた。大仏殿は江戸時代の再建から百数十年が経過しており、大規模な修理が必要であったが、明治政府には援助する余裕がなく、東大寺も大分会(だいぶつかい)という勧進組織を結成し勧進に勤めたが思うに任せなかった。この時期の本格的修理の着手は明治36年(1903)まで待たなくてはならなかった。明治の大修理は屋根の重さで湾曲してしまった虹梁の下にイギリスから輸入した鋼材を用いて支え、屋根の一部をセメント補強するなど当時の最新技術の導入によって成し遂げられた。大正4年(1915)5月に大仏殿落慶供養が行われた。また昭和49年(1974)から55年(1980)にわたって国の補助と有縁者の寄付によって修理が行われ、これも昭和55年に落慶供養が行われた。私は、この昭和の落慶供養には、たまたま明治乳業京都支店長に赴任した時であったので、出席して、当日の盛儀を拝観した。

国宝 大仏殿と八角灯籠(但し、灯籠は現代のものである)江戸時代(18世紀)

img_3527

現在の大仏殿は、奈良一番の人気スポットであり、観光客であふれている。奈良市内で一番観光客が多いのは、間違いなく大仏殿である。逆に、奈良時代建立の法華堂、正倉院、転外門(てがいもん)等を訪ねる観光客は、殆どいない。無知と言えばそれまでであるが、大仏殿だけが、東大寺で無いことは、この後、ゆっくり解説したい。

国宝 八角灯籠  銅製鍍金              奈良時代(8世紀)

img141img142

東大寺大仏殿(金堂)の正面に立つ巨大な金堂製(銅製、鍍金)の燈籠で、総高は実に464.4cm、総重量は3327.5キログラムをはかる。昭和20年代は、この国宝が大仏殿の前に立っていたが、風化の恐れがあり、現在は昭和製に置き換えられている。大まかな構成としては上から宝珠・笠・火袋・中台・竿・基台の組み合わせである。各部材は銅鋳造で、現在は緑青のため緑色を呈しているが、多くの材料に鍍金の跡が認められて、金銅であることがわかる。制作当初は全体が金色に輝いていたのである。八角形の火袋の四面には、斜め格子の透かしをバックに、天衣をなびかせながら楽器を奏する、あでやかな姿態の音声菩薩(おんじょうぼさつ)がレリーフ状に鋳出された羽目板が嵌匠されている。その作風からしばしば天平彫刻の代表的イメージともなってきた。根津美術館の中庭に、模造の八角灯籠が置かれている。

国宝 大廬舎那仏(所謂大仏さん) 金堂製・鍍金   江戸時代(17世紀)

img138

廬舎那仏(るしゃなぶつ)は智慧と慈悲の光明をあまねく照らし出す大仏である。天平15年(743)、聖務天皇の詔によって造像が発願され、天平勝宝4年(752)に完成し、開眼供養が行われたのである。使われた銅は500トンに及ぶという。聖務天皇の「国中の銅を使い果たしてでも」という言葉通りの大事業であった。現在われわれが見る大仏は元禄年間(1688~1704)になって公慶上人の勧進によって再興されたもの。当初の姿は腹部から台座の蓮弁にかけて、わずかにとどめている。観光客の大半は、この大仏さんを見学して満足して帰る。

国宝 廬舎那仏台座連弁(大仏周囲を取り囲む連弁)の一部 奈良時代(8世紀)

img144

大仏の台座連弁には、蓮華蔵世界が描かれている。蓮華蔵世界は、とてつもなく広大無辺な世界で、蓮華の上に無数の世界が様々な形で積み重なっている。「華厳経」には、廬舎那仏がこの蓮華蔵世界にあって、大光明を放って世界をあまねく照らし、無数の毛穴から化身の雲を出して一切の衆生(しゅうじょう)に説法しているところが説かれている。

廬舎那仏台座連弁の復元模写図

img145

台座連弁は度重なる被災ににも関わらず、幸い天平の連弁がかなり現存し、各仰蓮には線刻で蓮華世界が表現されている。この模写図は、その連弁から写し取った図である。まず、上段には蓮肉に座る説法相の如来像が中央に大きく、その周囲に22体の菩薩坐像が描かれている。図で興味深いのは右胸の乳首からも光線が放たれていることで、これは如来の全身から光が輝き出ることの象徴的な表現である。中段は26本の横線が真をおいて水平に引かれ、25段の区画を作る。この区画には頭光を付けた菩薩の頭部と楼閣などを描いているが、上の3段には何もなく空白である。下段には7つの大きな連弁からなる蓮華座があり、その左右に海が広がって、さらに山脈が蓮華座を囲むように聳えている。七つの仰蓮にはそれぞれの須弥山の世界が表現されている。

本尊右脇仏  虚空蔵菩薩像  木造         江戸時代(18世紀)

img139

虚空蔵とは広大無辺の功徳が虚空のように大きくてまた請われることがないという意味である。この菩薩は念じれば記憶が増すと考えられ、特に智慧を授ける仏として信仰されるようになった。ここの造像されたものが日本で最初の虚空蔵菩薩の作例となった。(現在のものは後作)大仏と反対に右手院、左手に施無為印を結ぶ。(この仏像について触れている本は一冊もない)

東北偶  多聞天像   木造          江戸時代(18世紀)

img140

本尊の脇侍と言うより、東北偶を守る四天王の一像と見られる。(但し、他の3天王像は見られない)古代インドより信仰された護世神、四天王像のうちの一つ。北方を、守り、左手に鉾を取って地に支え、右手は仏塔を捧げると言われる。毘沙門天とも呼ばれる。

重要文化財 東大寺回廊  木造           江戸時代(18世紀)

img_3525

東大寺大仏殿を取り囲む回廊であり、現在の建物は元文2年(1737)完成である。その中門と同じ時期に完成している。

東大寺遠景   二月堂より写す

img_3484

東大寺大仏殿の鴟尾が輝いている。東大寺はまじかに見るより、遠方から眺めたほうが美しい。これは二月堂から眺めた大仏殿の写真である。

晩秋大仏殿遠望                入江泰吉氏撮影

img143

入江泰吉氏は、戦後大和路をカメラを持って数十年に亘り歩き続けた、懐かしい人である。大阪で、終戦の年に戦災にあい、ふるさとの奈良へ引き上げた経緯がある。入江氏は、戦後の厳しい生活の中で、大和路を訪ね廻る人であった。「ちょうど、そのころ、意外な噂が街に流れた。わが国の古美術品を賠償の一部として、国外に持ち去られる、というのである。京都や奈良を爆撃しなかったのも、そのためだったのだ、と聞かされると、噂とはいえ、あるいは事実なのかもしれないと、思われるのであった。そうだとすれば、大変なことである。せっかく恵まれた、私にとって一番大切な、心の糧を奪い去られてしまうのである。私は暗然とした。あきらめきれないことだが、せめて写真に、のこそうと、考えついた。とにかくまがりなりにも機械のそろいしだい、撮影に着手した。」(かっこ内は入江泰吉「写真大和路」の「大和とともに」から引用)。私の大和古寺巡礼は、常に入江氏の写真に導かれて、始まった。この「晩秋大仏殿」は、入江泰吉 奈良写真美術館で購入した写真である。私が撮った写真とは比較にならない美しい写真である。

東大寺 萬灯会(まんとぅえ)の大仏殿         入江泰吉氏撮影

img137

「大晦日の夜、大仏殿内に燈がともり、殿前正面の八角灯籠(国宝)には火が入り、松明が焚かれる。情緒ある古都の新年である。」(かっこ内は入江泰吉氏の文承である)この景色は、大仏殿の新年の姿でもある。

 

東大寺大仏殿は、奈良観光の目玉であり、何時行っても満員の盛況である。最近は特に外国人(欧米系は昔から多かったが、ここ数年、アジア系外人が特に増えた。東京ー京都ー奈良はゴールデンルートなのだろう。しかし、観光客は、大仏さんを見るだけで満足し、東大寺のその他の社殿や仏像には興味を示さない。私は、今年は、まず東大寺全体をご招介したいと思う。古い歴史や、行事を通して東大寺全体を示せるような記事にしたい。

(本稿は、図録「東大寺大仏  2010年」、小学館ビジュアル文庫「東大寺」、入江泰吉「大和古寺巡礼全六巻の内「第1巻 平城京」、入江泰吉「写真 大和路」、探訪日本の古寺全15巻の内「第3巻 奈良 Ⅲ」、続日本紀全3巻の内「中」を参照した)

東大寺   南大門

東大寺を約10回程度に分けて、歴史と仏像についてまとめたい。歴史の上からは、法華堂(金鐘寺)から語るのが妥当であろうが、まず大仏殿の中の南大門から入りたい。近鉄奈良駅から登大路(のぼりおおじ)を東へ徒歩15分歩くと、東大寺の正門である南大門に至る。途中、鹿の歩く奈良公園を抜け、奈良国立博物館、興福寺を横に見て、参道を歩く。門を通してはるか向こうに中門と大仏殿が望まれる。南大門を仰ぎ見ると、その巨大さに圧倒される。高さ約25.5メートル、日本の寺院の中で最大、最高の南大門である。

国宝  南大門 5間3戸二重門 木造入母屋造 本瓦葺 正治元年(1199)鎌倉時代

img_3458

昭和の修理時(1930年完成)の調査によって、天平時代の創建時の門も、位置や平面の大きさは今と変わらないことが判明した。しかし、その構造や意匠は、現在の建物とは大きく違っていた。この門は応和2年(962)の台風で倒壊し、その後再建したか、あるいは治承の兵火(1180)で焼けたのか不明である。現在の門は正冶元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)の東大寺供養には、門内に安置される金剛力士(仁王)像と共に竣工していた。鎌倉時代初期、重源(ちょうげん)が大勧進(だいかんじん)となって進めた東大寺修復事業の一環として再建されたのである。「大仏様」(だいぶつよう)と呼ばれる中国・宋の建築様式を取り入れた技術で造られたこの門は、特別な構造を持っている。

国宝 南大門を横から写す 木造入母屋造 本瓦 正治元年(1199)鎌倉時代

img_3459

高く延びる柱を上層まで一本で通し、下の屋根は柱のすぐ内側で止まっていて、中は、上部の化粧屋根裏まで見える。長く突き出した軒を支える挿肘木(さしひじき)の重なり、扇形に配された軒の垂木(たるき)。どこから見ても力強さと量感に満ちており、見る者を圧倒する。

国宝 南大門の内部を写す 木造入母屋造 本瓦 正治元年(1199)鎌倉時代

img134

両端に板壁を設けるほかは、金剛力士後壁の上方もすべて葺き放しとしているため、はるか上の化粧屋根裏まで構造材を見通すことができる。柱には、貫(ぬき)が何段にも十文字に差し通されている。この建築様式が「大仏様」であり、「天竺様」(てんじくよう)とも称された。

国宝 金剛力士像(阿形)木造 運慶・快慶作 建仁3年(1203)鎌倉時代

img132

南大門の両側に立つ金剛力士(仁王)像で、むかって左が阿形像、右が吽形像(うんぎょうぞう)である。両者が向き合うのも他に例がない。当寺独得である。建仁3年(1203)、運慶・快慶ら4人の大仏師と多数の小仏師によって69日間という短期間に造られたという。まさに建造物のような組立である。一体当たり3000ケという。大仏の脇侍(きょうじ)(1567年に大仏殿とともに焼失)をはじめ、巨像の制作を行ってきた慶派一門の組織力と技術力の高さがうかがえる。施主は、重源上人である。阿形は金剛杵(こんごうしょう)を右手に持っている。

国宝 金剛力士像(吽形) 木造 運慶・快慶作 建仁3年(1203)鎌倉時代

img133

吽形は左手を大きく前に突き出す。風になびく天衣(てんね)と裳(も)の曲線、眼光鋭い憤怒(ふんぬ)の表情はいまにも動き出しそうな迫力で、鎌倉彫刻のリアリズムを代表する大作である。昭和63年(1988)から5年がかりで解体修理が行われ、その際、納入品や銘記が発見された。その結果、阿形から運慶・快慶の墨書銘が、吽形から上覚(じょうかく)・湛慶(たんけい)の墨書銘が確認された。吽形は内から湧き上がるような力を感じさせる表現力が見事である。

国宝 金剛力士像内納入品 如来面・菩薩頭部・比丘尼頭部 木造 平安~鎌倉時代(12~13世紀)

img135

東大寺南大門に立つ像高8メートルを超す阿吽一対の金剛力士像の像内に納められた木造の小仏像である。一部は昭和48年(1973)に取り出されたが、ほかは昭和63年から平成4年(1988~1992)に実施された解体修理の際に発見された。いずれも国宝指定を受けている。(納入品については図録「東大寺大仏展」から引用した。お経についても同じ)

国宝 法筐印陀羅尼経 紙本墨色  平安~鎌倉時代(12~13世紀)

img136

阿吽の像に各一巻が納められていた。巻末には阿形には建仁3年(1203)8月7日の年紀に続いて、光明真言「勧進東大寺大和和尚南無阿弥陀仏」、阿弥陀仏縁者名が記されている。阿形像は同様の重源の阿弥陀仏号の後に「大仏師運慶・アン阿弥陀仏・小仏師十三人、番匠十人/造東大寺大勧進大和尚/南無阿弥陀仏」と墨書されている。別当次第により、重源上人の指示で大仏師である運慶、湛慶、快慶、定角が造像に当たったことが、この納入品からも分る。

 

南大門に懸けられた額には「大華厳寺」と記されている。今まで何十回と見ているが、注意深く見て来なかったため、多分「東大寺」の額が掛けられていると思い込んでいたが、華厳経の世界を現す、大仏の南大門であるから「大華厳寺」は、当然の額かも知れない。治承3年(1180)、平重衡(しげひら)の兵火によって大仏殿や伽藍の多くを焼かれた東大寺では、その修復と復興に当たって勧進(かんじん)に抜擢(ばってき)された重源(ちょうげん)は、既に61歳を迎えていた。今ならば、総責任者として妥当な年齢であるが、奈良時代の60歳代は、多分現在の90歳代に当たるのではないだろうか。重源は、何回も宋に渡り、寺院造りに深い経験を持ち、まず大仏修理・鋳造を果たした。続いて大仏殿の再建に着手し、巨材は周防(山口県)の山中で得たと伝わる。ここでも、重源は、宋から連れてきた工人を登用し、日本と宋の技術を折衷改善して導入した新技法を採用した。この建築様式が「大仏様」、「天竺様」とも称されるものである。この「大仏様」が一番残っているのが、この南大門であり、今では貴重な遺構であり、兵庫県小野市の浄土寺(国宝)と二例が現存するものである。この直線美を生かした豪放な建築様式も、その斬新な意匠のゆえか、重源の死後は次第にすたれていった。

(本稿は、図録「東大寺大仏殿 天平の至宝  2010年」、小学館ビジュアル文庫「東大寺」を参照した)

小田野直武と秋田蘭画(2)

小田野直武を中心として、西洋美術と東洋美術が結びつた秋田蘭画が生み出され、佐竹曙山(しよくざん)、佐竹義躬(よしみ)、田代忠国など秋田藩士を中心にその画法が波及したと思われる。直武の江戸滞在中、曙山は参勤交代で2度、義躬は1度江戸を訪れている。義躬が帰国する際、直武は病の身ながら面会に行き、深夜まで話をした上、オランダ文物を贈ったことが「佐竹北家日記」に記されている。江戸に出てから4年後の安永6年(1777)12月に、直武は角館に帰国して、佐竹北家に出仕した。佐竹義躬とは、しばしば面会し、その機会に蘭画法を伝授したものと思われる。安永7年(1778)、直武は、佐竹北家の上役から江戸の仕事振りを詰問されたという。また「銅山方産物吟味役」も役名は消え、直武の江戸行は、暇ごいで唐絵の修行に行ったとされ、久保田(秋田市)へ引越しを命ぜられた。そして9月には「御側御小姓並」という身分で秋田藩に召し抱えられ、佐竹北家から抜け、藩主佐竹曙山の側近くに仕えることになったのである。欄画を描く直武を絵の相手として近くに置きという曙山の強い意志が働き、家臣の反対を押し切って直武の移動が決まったようである。そしてこの年の10月に直武は曙山の参勤交代に伴って、再び江戸へ向かった。佐竹北組から藩主の側仕えと異例の出世であったが、直武の生涯は終わりを迎えようとしていた。安永8年(1779)11月21日、秋田蘭画の理論的指導者であった平賀間源内が人を殺めた咎で捕まり、12月18日に獄中で死んでしまった。所謂「源内事件」である。直武は源内が入牢する以前の11月上旬頃、秋田藩から突然に遠慮(謹慎)を命じられていた。遠慮の理由については明らかではない。12月に角館に帰郷した直武は、翌年の安永9年(1780)5月17日に没した。死因について語る資料はない。数え年32歳のことであった。直武の死後、曙山はあまり絵筆をとらなかったようで、天明5年(1785)に江戸藩邸で生涯を閉じた。源内・直武・曙山という秋田蘭画誕生に関わった人物が相次いで世を去り、その後佐竹義躬や田代忠国らも亡くなり、秋田蘭画が画派として存続することはなかった。(サントリー美術館2017年1月9日まで)

要文化財 唐太宗・花鳥山水図 小野田直武作 絹本着色三幅江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

img129

本図は中幅に人物を置き、左右にそれに対比する供花をそえる東洋的洋画の形式にもとづいている。しかし、中幅の唐太宗に陰影を加え、しかも西洋画的な室内空間の表現もこころみていることは注目される。左右両幅の花鳥山水は、秋田蘭画としてもっとも普通のかたちのものである。秋田蘭画が江戸時代後期の洋風画の先駆であるとともに、戦国時代以来の武人画の伝統にもとずいていることを、本図はもっともよく示している。

富嶽図小野田直武作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

img118

前景に人物や川、橋、松などを配し、画面の左から叢林が次第に淡くなりながらリズミカルに反復され、富士山へと収斂してゆく。俯瞰図が多い伝統的な富士図に対し、本作では絵を見る者の視点が低く設定され、三次元空間が再現されている。本作は黄瀬川(静岡県)から富士を見た図という説が有力である。三峰型の富士ではなく、実際の山容に近く、富士の形を損ねるために省略されがちな宝永山も描いており、実際に目にした光景に基づいていることを感じさせる。高い完成度の作品で、直武の真価が発揮された作品である。なお、本作は秋田県指定文化財になっている。私は、宋紫石の「富嶽図」の影響が大きいと思う。

日本風景図 小野田直武作 絹本着色 二幅 江戸時代(18世紀)三重・照現寺

img119

縦長の画面に奥行きのある風景が描かれている。実際の場所がモチーフと考えられている。右幅が江の島、左幅が金沢八景(横浜市)とされる。絵の島図は、切り立った断崖が手前に極端に大きく描かれる。奥に向かうにつれて崖の色彩は3段階ほど淡くなり、画面下の水平線に向かって遠近感のある構図となっている。驚くべき細部の緻密さがあらわされている。笠をかぶる男や杖をつき水面を除き込む人物などが細やかに活写されている。一方の金沢八景は、前景に波打ち際の値上がりの松を表し、画面中央やや上には5羽の鳥が描かれている。その姿は雁だと思われる・実際の場所をモチーフとした晩年の制作と考えられる。三重の照源寺は松平定信の菩提寺である。定信は曙山の息子佐竹義和と親交が深く、佐竹家との交流を通して本図は、松平家に渡ったと考えられる。本作は桑名市指定文化財となっている。

燕子花にナイフ図 佐竹曙山作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀)秋田市立千秋美術館

img120

作者の佐竹曙山(1748~85)は、秋田藩の第八代の藩主であり、直武に蘭画を習ったとされる。秋田蘭画の作家たちは燕小花(かきつばた)を好んで描いているが、本図はそのうちの代表作である。基本的には在来の漢画の花卉図にもとづいているが、花や葉をオランダ銅版画から学んだ細い線によって精密に写し、花器の中の水も青く描いていることに、西洋的な写実の精神がうかがわれる。ことに輸入品の西洋ナイフを配して、従来の伝統的絵画には見られなかった静物画として構成している。本作は秋田県指定文化財である。

重要文化財松に唐鳥図 佐竹曙山作 絹本着色一幅 江戸時代(18世紀)個人蔵

img121

佐竹曙山と小田野直武は秋田蘭画の代表的作家であるが、ともに短命であった。確実な落款印章を持つ遺作は直武よりはるかに少ない。本図は曙山の代表的大作である。近景に伝統駅な狩野派の大画面装飾画の構図を用いて、巨大な根上がりの松が拡大描写されているが、絵には陰影は施され、西洋画的な立体表現がこころみられている。この日本の松にとまっている赤い異国の鳥、インコは曙山の写生帳にまったく同じものがみえるが、たまたま輸入されたものを写生したか、あるいはオランダの動植物の挿絵を写したのであろう。インコのとまっている枝は屈曲して極端に遠方にのびているが、奥行きが十分にあらわされていない。

松に椿に文鳥図 佐竹曙山作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀) 個人蔵

img125

この絵は、画面右下から左上にむかって松の太い幹が大胆に配されている。背後には薄紅色の花を咲かせる椿が描かれ、文鳥が2羽とまっている。松・文鳥・椿のいずれも曙山が好んで用いたモチーフで、画面を横切る松の構図も得意としたものである。

岩に牡丹図 佐竹義躬作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀)個人像

img126

佐竹義躬(よしみ)(1749~1800)は、秋田角館の城主であり、直武から蘭画法を江戸滞在時に習ったとされる。秋田蘭画を担う一人であった。岩と牡丹の取り合わせは南蘋派の作品や秋田蘭画によく見られるもので、直武や曙山も類似の作品を残している。幹や葉は丁寧に陰影が描かれ、立体感が現れている。描写の技法や表現には直武の牡丹図との類似が認められ、直武に教授受けながら描いた作品と思われる。

松にこぶし図 佐竹義躬作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀)帰空庵

img130

佐竹義躬は、秋田蘭画の作家のなかでは比較的長命で、遺作もかなり多い。秋田蘭画には前景に花木などを拡大して描き、それに湖沼などの遠景を配した構図がはなはだ多い。義躬の作品は写生図をのぞくほとんどこの方式によっており、いささか変化に乏しい傾向がある。しかし、本図は彼の社会的地位の高さに基ずく品格が、画面ににじみ出た佳作である。

紅毛童子図 田代忠国作絹本着色一福 江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

img128

田代忠国(1757~1830)は秋田藩の俳人森田顕忠の子として生まれたが、秋田藩士田代綱記の養子となり、産物方として曙山、義和の2代に仕えた。忠国の名を曙山より賜ったとされる。安永2年(1773)に直武と共に、源内から洋画法を直接伝授されたと伝えられるが、詳細は分からない。洋画から受ける印象をそのまま取り入れたような、濃彩によるあくの強い表現が作風の特徴と言える。大きな角柱の前にたたずむ西洋人物を前景に大きく描いた作品で、忠国特有の濃厚な色彩とあくの強い人物表現である。人物が左手に持つ朱塗りで金彩のほどこされた杖は、ギリシャ神ヘルメスの持物であるケーリュケイオンのようである。曙山の写生帳や直武の遺品に神話図が納められているように、ギリシャ神話の図像はすでに江戸時代にも伝わっていた。

七里ガ浜 司馬江漢作 絹本着色 一福 江戸時代(18~19世紀)大和文華館

img131

司馬江漢(1738~1818)は、直武が江戸にいた時に、直武に学んだ絵師であり、洋風画家として活躍した。土方定一「日本の近代美術」の中では、司馬江漢を日本美術における洋画の創始者のように扱っている。源内周辺の絵師や蘭学者と交流した司馬江漢は、堂版画と油彩画という新たなジャンルを切り開いた。例えば、神奈川近代美術館の蔵品のうち、近代洋画は司馬江漢が圧倒的に多い。司馬江漢を日本における洋画の先駆者と位置付けてもよいであろう。おそらく江漢は、富士山を眺望する場所として七里ガ浜に特別な想いを寄せていたのであろう。この七里ガ浜図は富士眺望図としての性格を有しているが、本図では富士山が江の島の左側に描かれているが、これは実景とは異なる配置であり、遠近感を強調するためにあえて行ったものと思われる。

 

昭和5年(1930)に、日本画家・平福百穂が「日本洋画の曙光」という本を出版し、秋田蘭画を世に喧伝した。その「日本洋画の曙光」は、現在岩波文庫に納められ、誰でも読める。その巻末の言葉を紹介したい。「近世洋画の鼻祖と言えば、常に司馬江漢の名が挙げられているが、直武、曙山公等が早くも安政期に於いて、かかる業績を遺して居りながら、全く世に埋もれて居る事を遺憾とし、不敏も顧みずこれが闡明(せんめい)を期して此刊行を志した。一つには又郷国を同じうする故人に対して、私の為すべき務めとの考えたのである。只文中誤聞、憶測の多々あるを怖れているが、これ等に関しては大方諸賢の御示教を仰ぎ度いと思う。尚本書の書名に就いては、「江戸洋画」とするは当たらず、また「秋田洋画」となすのも妥当を欠き、かれこれ迷って居たが、偶々(たまたま)黒板勝美博士(当時・東大教授)の御教示に依って「日本洋画の曙光」と命名する事にした。(現代仮名使いに変更)

壮(わか)くして逝きし人の阿蘭陀絵は世に稀なりやくりかえし見つ 平福百穂

 

(本稿は、図録「小野田直武と秋田蘭画 2016年」、図録「栄光のオランダ絵画と日本」、安村敏信「江戸絵画の非常識」、平福百穂「日本洋画の曙光」、原色日本の美術第25巻「南蛮美術と洋風画」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)

小田野直武と秋田蘭画(1)

小田野直武は寛永2年(1749)12月に秋田藩角館城代の槍術指南役であった小田野直賢の第四子として生まれた。字は私有、通称武助と呼ばれていた。角館は秋田藩を治める佐竹一門の佐竹北家が統治し、直武は「角館給人・佐竹北家組下」という身分だった。角館給人とは秋田藩から禄を受ける角館在住の武士のことである。直武は若い頃から画才を示し、秋田藩のお抱え絵師・竹田円碩に狩野派を学んだ。安永2年(1722)産出量が減少していた阿仁銅山の開発のため、平賀源内と石見国の山師・吉田利兵衛を招聘した。当時、長崎におけるオランダとの貿易では銅が用いられており、その半分あまりを秋田藩が担っていたという。江戸時代は、長崎・対馬・松前・薩摩を通じて中国やオランダをはじめとする世界各国と交流を行っていたのである。秋田蘭画誕生を促す源内の秋田来訪は、このようなグローバルな動静と無縁ではなかった。角館滞在中に源内が直武に西洋絵画を教授したと画家平福百穂は述べている。確かなことは、源内が江戸に戻るため久保田(現秋田市)を発った翌日の10月30日に、直武が秋田藩から江戸行きを命じられ、役名は「元内手、産物他所取次役」で、期限は3年であった。角館に戻った直武は、佐竹義躬(よしみ)に江戸詰めの挨拶をし、12月1日に江戸へと向かった。数え年25歳の時である。江戸での直武は、源内のもとで活躍していたと考えられる。工房のような雰囲気を持っていた源内の家には、貴重な洋書類があり、蘭学者も周囲にいた。また源内の知人には江戸に南蘋派(なんぴんは)を広めた宋紫石(そうしせき)がおり、宋紫石からも大きな影響を受けたとされる。

解体新書 杉田玄白ら訳小野田直武画五冊安永3年(1774)早稲田大学図書館

img110

日本で初めて刊行された本格的な西洋医学書の翻訳として名高い「解体新書」である。その図を担当したのが小田野直武であり、江戸でのデビュー作となった。江戸に出たばかりの直武が、早くも歴史に残る大事業の一翼を担うことになったのは、この安永3年(1774)8月に刊行された杉田玄白らによる日本初の西洋医学書の本格的な翻訳である「解体新書」だったのである。何故、玄白らは江戸に出て間もない青年武士を抜擢したのか。源内が友人の玄白に直武を紹介したといわれるが、近年、秋田藩医稲見家に伝わるワルエルダの解剖書が注目されたのではないかという意見が出ている。むしろ、直武の江戸行きと解体新書の制作に関連が有ったかも知れない。

ファン・ロイエン筆花鳥図模写 石川大浪・孟高作 寛政8年(1796)秋田県立近代美術館

img111

享和7年(1722)、第8代将軍・徳川吉宗はオランダ商館に5点の油彩画を発注し、享和11年(1726)に日本へもたらされた。5点のうち2点は江戸本所の五百羅漢寺に下賜された。この絵は、その2点のうちの1点を写した作品で、原画は堂内に懸けられていたが、風雨にさらされ、やがて失われしまったと推測される。本図には大槻玄沢による賛が付されている。原画がファン・ロイエンなる画家によって1725年に描かれたことが判明する。寛政8年(1796)、石川大浪、孟高兄弟が五百羅漢寺に通い、模写を行った。2人は日本の伝統的な画材を用いながら、西洋画の立体感を再現しようと試みている。原画の制作者であるファン・ロイエンについては諸説があり、明らかではない。

富嶽図 宋紫石作 一幅  安永5年(1776) 大和文華館

img112

宋紫石は江戸に南蘋(なんぴん)風花鳥画を広めた絵師で、本名は楠本幸八郎という。平賀元内と交流があり、江戸に出た直武も宋紫石から南蘋派(なんぴんは)を学んだようである。後に洋風画家として活躍する司馬江漢もはじめ宋紫石に習っている。雪を冠した富士を横長の画面いっぱいに配した作品である。たなびく雲が富士の周りを取り囲み、山の立体感を強調する。画中の款記によれば、安永5年(1776)、当時62歳だった紫石が伊豆国田子浦からの眺望を描いたことが判明する。本図の富士の描写には、直武の富士図に通じる要素がある。南蘋派の影響を受けて言われる由縁である。

写生帳 小田野直武作 紙本着色 一帖江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

img113

小田野直武筆とされる写生帳は、3帖知られている。この写生帳は、秋田県文化財であり(秋田近美本)、日本画家の平福百穂によって大正年間にひとつの帖にまとめられたものである。この部分は蓮の花の咲く前の蕾である。上野・不忍池(しのばずいけ)は蓮の名所として知られ、おそらく直武も何度も池を訪れて蓮の花が咲く光景を目にしたのであろう。江戸時代の写生帳は、丸山応挙が良く知られているが、一種のデッサンであろう。

笹に白兎図小田野直武作 絹本着色一福江戸時代(18世紀)秋田県立千秋美術館

img123

宋元体画以来の東洋の花卉図の伝統にもとずいた作品である。しかし、兎は陰影をつけて立体的に写され、地面の線や兎の影も加えるなど、西洋的な表現も認められる。一般に秋田蘭画は時代の限界をよく意識して、無理な飛躍は試みず、東洋画の基礎の上に節度をもって西洋画法を加味しているが、これはそのような長所のもっともよく出た愛すべき作品である。

鷹図 小野田直武作 絹本着色 一福 壊疽時代(18世紀) 個人蔵

img115

海辺の巨木の枝に1羽の鷹がとまっている図である。画面下部には大きな岩が配され、左上方から切り立った崖が奥へと導き、広々とした空が著されている。波はしぶきを上げ、紅葉した木の葉が強風に揺れている。鷹という画題は、狩野派にしばしば取り上げられ、初期の直武の作品にも見出すことができる。権威の象徴として武家に好まれたモチーフで、威厳のある鷹の姿を描いた本図も直武周辺の武家の間で受容されたものと思われる。本図の細部には、木の枝に鷹の糞がついていることにきづき、やや意表を突かれる感じがする。「不忍池図」のアリにも共通する見る者に驚きを与える表現は、狂歌や俳諧といった文芸との関わりも指摘される。直武や曙山(しょくざん)らの近くには、当時を代表する狂歌師で秋田藩江戸留守居役の手柄岡持がいたのである。

芍薬花籠図 小野田直武作絹本着色一幅江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

img124

秋田蘭画においては、前景の花卉や樹木などをまるで部分拡大写真のように近接描写しているため、その一部が本図のように画面外にされていることが甚だ多い。秋田蘭画の作家たちはすべて高級武士、ないしはその周囲に仕える人々であったから、書院装飾絵画は常に生活の周囲にあったし、彼らの基礎とした狩野派の画技である。そこで、このような構図法は近世障壁画の部分拡大描写にもとずき、それに西洋画的な奥行きの表現を加えるために着想されたものと考えられる。竹籠もオランダ銅版画から学んだ細線で精密に写している。また、花や蝶や虫を配することも、東洋画では古くからおこなわれたが、本図の場合にはオランダ静物画の影響も認められる。

重要文化財 不忍池図 小田野直武作 絹本着色 一面 江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

img117

この大画面作品はかって掛幅であったが、いまは額装となっている。これが山形県で発見されたとき、落款があるにもかかわらず、その時の所蔵者は、司馬江漢(しばこうかん)の作品と思っていたという逸話が残っている。秋田蘭画が忘れた存在であったことを物語っている。近景に花卉を拡大描写し、それにオランダ銅版画の影響を受けた遠景を配するという、もっとも秋田蘭画らしい構図を用いている。しかし、近景の芍薬の花は鉢植となって地面に置かれていて、遠景は江戸名所の写生であるなど、現実感を強める努力が見られる。この絵は短い直武の生涯のうち、比較的晩年の円熟期に描かれたと思われる。そして最晩年の直武は東洋的な花鳥画を洋風化する段階をしだいに脱して、この絵の背景に見られるような特定の場所を写す風景画に進んでいったと考えられる。なお、図版では見えないが、芍薬の蕾に二匹の蟻がたかっている。小虫が花や果物にたかる絵は中国の宋元画にあるが、これはそのような漢画の伝統を物語るとともに、直武の科学的な観察力を示している。

 

小野田直武の名前は高校2年生の時に日本史で教わった。それは杉田玄白らによる日本初の西洋医学書の本格的な翻訳「解体新書」の図を担当したからである。しかし、秋田蘭画という言葉に接したのは、昭和41年(1966)の土方定一先生の「日本の近代美術」の中の「近代美術の黎明期」の項に秋田洋風画として、小野田直武、佐竹曙山の名前が名記されて知った。同じく昭和41年(1966)に「栄光のオランダ絵画と日本」という展覧会(たばこと塩の博物館)を見学して、レンプラントやゴッホの絵画を見て、更にオランダ洋画を日本に導入したのは司馬江漢であること等を確認した記憶がある。昨年、府中市美術館で見学した「ファンタスチック 江戸絵画の夢と空想」には、全く小野田直武とか秋田蘭画の名前は出て来なかった。多分、秋田の一洋画として軽視されたのであろうと思っていたが、今回の「小野田直武と秋田蘭画」を見て、180度見方が変わった。秋田蘭画こそ、日本における近代洋画の黎明期であったと考えるべきでは無いかと思っている。もし、これ言い過ぎならば、秋田蘭画とは西洋画法と共に南蘋派(なんぴんは)に代表される東洋絵画の精神を引き継いだ画法を始めた画派であると、言い換えても良い.

 

(本稿は、図録「小野田直武と秋田蘭画  2016年」、図録「栄光のオランダ絵画と日本」、安村敏信「江戸絵画の非常識」、平福百穂「日本洋画の曙光」、現色日本の美術「第25巻南蛮美術と洋風画」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)

2016年「黒川孝雄の美」10選

 

「黒川孝雄の美」を書きはじめて丸4年が経過する。その出発点は望洋会の「幾山河」への寄稿で「おほてら の まろき はしら」と題する原稿である。「幾山河」に寄稿するということは、名古屋大学の4年間で、私は何を一番学び、何が記憶に残ったかを書いたのである。実際、執筆に当たって大学4年間の記憶は、殆ど消え失せており、大して役に立つものは無かったという印象である。唯一、有るとすれば大和の古寺への散策であった。それを書いてから、この美術体験を何か記録に残せないかと考え、ブログ「黒川孝雄の美」となったのである。書き始めて4年間が過ぎた。この4年間のうち3年間は会社経営、1年間はある会社の社外監査役以外は一切仕事の無い身となった。従って4年間のうち、3年間は開業した会社の社長、1年間はほぼ無職に近い状態であった。この4年間を総括すれば、非常に充実した日々であった。それは「美」を書くために多大なエネルギーを費やし、それがまるで私の人生の目的であるように動き回ったからである。そこで、今回は、2016年の記事を振り返り、その中で特に思い出の深い記事を10篇上げて、振り返ってみたい。因みに、この1年間で書いた記事は60編となり、6日に1回の割で書き上げたことになる。これは、前3年と比較すると約2倍のスピードになっている。どの程度の時間を費やしたかは、正確な記憶は無いが、取材(美術館の場合は、自宅を出てから)に要する時間は一般的に5時間を要する。1日に2つの美術館へ行くこともあるが、出来るだけ避けている。印象が希薄化するからである。購入した図録や関連図書を読み込む時間数は5時間程度である。粗筋を頭の中で整理し、選択する写真を選び、パソコンに入力するのに1時間は掛かる。原稿を書く時が、一番頭を使う。図録、参考図書、新聞記事、雑誌記事などを確認しながら、およそ5時間を要する。その原稿を、ブログに写すのに4時間程度の時間が掛る。取材から、ブログの入力まで、トータルで実に20時間を要する。私の空いている時間は1日5時間である。従って、1つのブログを完成するのに、合計4日間を要することになる。60編を書くためには、実に240日を要した計算になる。年間トータルすれば、必要金額はかなりの金額に成るかも知れないが、それで得た楽しみと、費用を比較すれば、効用の方が遥かに高いと思っている。さて、満足した順位の番について、簡単にまとめたい。なお、この記事を1点と計算すれば、今年は61点を執筆したことになる。

第1位 大徳寺の塔頭 聚光院 狩野永徳筆 四季花鳥図 2016年9月13日

img768img767

聚光院は千国武将の三好義嗣が、養父長慶の菩提を弔うために創建した塔頭(たっちゅう)であり、ここには狩野永徳(子)と狩野頌栄(父 16世紀)による障壁画46面が納められている。すべて国宝であり、通常は京都国立博物館に寄託されているが、創建450年を記念して、今年の3月から、来年の3月26日まで一般公開されたものである。特に方丈室中の花鳥図が素晴らしい障壁画であった。また庭園は「百積庭」と言われる名園であり、私が訪れた6月には沙羅双樹の花が、開花、落花していた。この聚光院は、今年の京都観光の目玉となり,JR東海の宣伝や、各種美術番組、京都特集では何度も取り上げられた。是非、他の寺院でも聚光院に見習い、長期(できれば1年間)開館をして、毎年の観光の目玉になってほしいと思う。なお、この寺院には千利休の墓もあり、三千家の菩提寺でもあるので、茶道関係者も大勢参観された。

第2位生誕300年記念若冲展 棕櫚雄鶏図2016年5月4、7、11、17日

img638

1716年に生まれた伊藤若冲は、今年生誕300年となり、それを記念して開催された展覧会であり、1ケ月間に40万人以上が訪れるという記録づくめの展覧会であった。宮内庁に残る「動稙彩絵」や相国寺の「釈迦」三尊像」をはじめ、鹿苑寺大書院障壁画、西福寺の金碧障壁画、プライス・コレクション等、現存する若冲の名作を揃えた展覧会であり、多分今後50年間は開催されないだろうと思われる豪華な記念展であった。

第3位 ルノワール展            2016年8月9日、16日

ルーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会   1876年

img686

日本で最も人気の高い外国人絵画と言えば、無条件にルノワールの名前が上がるだろう。印象派時代から古典主義への回帰、成熟期と大きな転換を遂げながら、78歳の生涯を絵画に捧げた画家であり、東京には「ルノワール」と名付けた喫茶店が100店以上あり、日本人に親しまれている。初来日という作品もあり、大変な人気であった。

第4位 黒田清輝展            2016年4月10日、16日

重要文化財 智・感・情      明治32年(1989)

img547

同時代の画家、久米桂一郎は「黒田清輝を思うとき、ぼくは幸福な環境、幸福な才能、幸福な時代と言う言葉が浮かんでくる」とまで言わせた、黒田清輝の全時代に渡る作品類を展示したもので、「外光派」と呼ばれる作風で、一世を風靡した。東京美術学校の洋画科の最高峰に上り詰め、唯一の官展であった白馬会を支配し、貴族議員になり、第二代帝国美術院長まで登りつめた。珍しく、デッサンも多数展示された。

第5位 鈴木帰一展   江戸琳派の旗手    2016年10月3日、9日

夏秋渓流図  6曲1双   江戸時代後期

img937img938

本阿弥光悦、俵谷宗達らが生み出した琳派は、江戸時代に酒井抱一、鈴木其一に引き継がれ、発展した。鈴木其一は江戸琳派の旗手として活躍した。恐らく、其一の作品をこれだけ集めた展覧会は、初めてであろう。其一の色の鮮やかさは、素晴らしい。いずれ若冲を上回る人気が出るだろう。

第6位  藤田嗣治展  府中市美術館   2016年11月2日、7日

5人の裸婦  布・油彩  1923年   東京国立近代美術館

img983

藤田の戦前の作品(特に戦争絵画まで)と、戦後の「フランス国籍取得と祈りの世界」と二分しないと、その本質は理解できないと思う。1920年代のフランスにおける大成功(絵画の値段はピカソ、マチスと並んだと言われている)と1940年代の戦争画の成功、戦後の戦犯扱いと、フランスへの脱出、フランス国籍の取得、祈りの世界への到達は、一人の画家としては理解できない程複雑な世界である。府中市美術館の今年一番の話題展覧会であった。

第7位  原安三郎コレクション 広重ビビッド  2016年6月2日、7日

六十余州名所図会 尾張 津嶋 天王祭り   嘉永6年(1853)

img701

原安三郎氏の浮世絵コレクションは世界的なコレクションであり、あまり公開されないもので、今回、サントリー美術館にて広重「六十余州図絵」、「江戸名所百景」、北斎「富嶽百景」、「千絵の海」、国芳「東都」、「東都名所」、「近江の国の勇婦お兼」が出展された。日本にこんな素晴らしい浮世絵コレクションがあったのかと感じいった展覧会であった。

第8位 すみだ北斎美術館 北斎の帰還       2016年12月8日

隅田川両岸景色図巻(最終場面)      江戸時代後期

img094img095

すみだ北斎美術館が11月22日に開館した。その場所は、北斎が約90年の生涯の大半を過ごした墨田区の一画、北斎通りに面した場所である。この隅田川両岸景色図巻は約100年余り行方不明であった北斎の肉筆浮世絵であり、その全部が開館に合わせて披露された。北斎専門の美術館として、墨田区が集めたコレクションや、各美術館が保有する北斎の名画が、逐次披露される予定であり、楽しみにしている。

第9位  東寺       2016年2月15日、20日、28日、3月3日

国宝 不動明王  木造  承和6年(839) 平安時代(9世紀)img444

平安時代に空海によって真言密教の寺院として生まれ変わった。東寺は、新幹線が京都駅を出て、大阪に向かう時に一番最初に目に入る五重塔で有名である。特に講堂に並べられた立体曼荼羅は、空海が日本にもたらした真言密教を立体的に表現した密教の世界である。長い間、秘仏として守られてきたため、平安時代の色を今に伝えている。

第10位  丸山応挙 「写生を超えて」     2016年12月16日

国宝  雪松図屏風 6曲1双  天明6年(1786) 江戸時代(18世紀)

img064img065

円山応挙は、狩野派の粉本主義を打破し、対称を徹底的に観察し、その形を完璧に写すことができれば、対称の生命感を生き生きとして表現できるとと考えた。応挙の「写生図巻」2巻は、重要文化財に指定されている。

 

(本稿は、2016年の間に書いた「黒川孝雄の美」60点から、私の主観で好きな10点を選んだものである。甲乙付けがたい作品が多いが、敢えて10選として見た。時間のある方は是非読んで戴きたい)