元興寺(がんごうじ)  極楽堂・禅室と境内

日本書紀・朱峻天皇元年(588)に、飛鳥の地に巨大な寺院が建立された模様が、次のように書かれている。「蘇我大臣亦(ま)た本願(ねがひ)の依に(ままに)飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)を起つ(たつ)。」即ち、崇峻天皇元年に法興寺を起工したのであり、日本書紀では、法興寺、飛鳥寺、元興寺の3つの名称を持つ寺である。この日本で最初に建てられた法興寺は、1基の塔に3つの金堂を備え、金銅でできた釈迦如来像(現在の飛鳥大仏)、石でできた弥勒菩薩像、刺繍の仏画をそれぞれ本堂の本尊とした本格的な寺院である。やがて都は飛鳥から藤原京へと遷る。「続日本紀」によれば養老2年(718)に飛鳥の地にあった法興寺を平城京へ遷したという記録が見られる。この移築に関しては、元興寺極楽坊本堂の建築材を年輪年代法で測定したところ、法興寺創建に近い588年頃に切られた木材であることが判明したので、寺の移転は間違い無い事実である。しかし、飛鳥の地には、その後も飛鳥大仏を祀る飛鳥寺が存在しているので、移建に際しては金堂以外の僧坊などの周辺建物を解体移築したものであろう。なお、元興寺は、平成10年(1998)にユネスコの世界文化遺産の一つに登録されている。

重要文化財  東門  木造建築物   室町時代初期(14世紀)

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元興寺の正門である。一間一戸の四脚門という構造形式で、屋根は本瓦葺き、もとは東大寺西南院(さいなんいん)にあったものを応永年間(1394~1428)に移築した建物で、応永18年(1411)と箆書きされた瓦が使われていることから、室町時代初期まで遡る建築と考えられている。

国宝  極楽堂(本堂) 木造建築物  奈良時代(8世紀)

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養老2年(718)に飛鳥から平城京に移築された元興寺は、現在、本来僧侶の居住施設であった僧坊である。極楽堂(坊)も、この僧坊の一部が「極楽坊」として発展したものである。元興寺の僧坊には「智光曼荼羅」と呼ばれる極楽浄土を描いた絵(曼荼羅)が置かれている。平安時代以降、阿弥陀仏のおられる浄土への信仰が高まり、浄土の姿を見ることが出来るこの曼荼羅(まんだら)に対する信仰が盛り上がり、多くの人々がここへ訪れるようになった。その結果、元興寺の堂舎が次々と衰退していくなかで僧坊の一部のみが「極楽坊」として発展していったのである。

国宝 極楽堂(本堂)  木造建築物   奈良時代(8世紀)

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極楽堂を南側(庭園側)から眺めた写真である。屋根に黄色い瓦が見えるが、行基葺き(ぎょくきぶき)伝わる瓦であり、飛鳥時代の瓦と伝えられている。

国宝  極楽堂(本堂)内陣  木造建築物  奈良時代(8世紀)

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曼荼羅堂(まんだらどう)とも呼ぶ。東を正面とし、桁行(けたゆき)・梁間(はりま)ともに六間で、正面に一間の通り庇(ひさし)が付く本瓦葺きの建物である。「寄棟造(よせむねつくり)」で、妻入り(つないり)」という珍しい建物であり寛元2年(1244)に東室南階大房(ひがしろなんかいだいぼう)(僧坊)の東半分を切り離して改築し、今の姿になった。この建物の最も重要なところは、堂内中央に僧坊時代の一房がそのまま取り込まれていることである。まさにこの一房が、極楽坊と呼ばれた智光法師(ちこうほうし)がおられたと伝えられる房そのものであろう。改築後は、中央一間を方形に囲って内陣とし、その中央やや西寄りに須弥壇(しゅみだん)と厨子(ずし)を置く。さらに周囲を拾い外陣(げじん)が取り巻き、「念仏講(ねんぶつこう)」など多くの人々が集うことを可能とした。この改築を契機として納骨の場へと発展し、極楽往生を願う多くの人々が集い、祈る場へと変化したのである。

重要文化財  智光曼荼羅厨子  絹本着色   室町時代(15世紀)

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通常、寺院の本尊は仏像であるが、元興寺極楽堂(本堂)には智光曼荼羅(ちこうまんだら)が本尊である。智光曼荼羅とは、奈良時代、元興寺で学んだ僧侶・智光法師が夢で見た極楽浄土の様子を描かせた図のことであり、青海曼荼羅、当麻曼荼羅とともに日本三大曼荼羅と呼ばれている。そのため、それが安置された堂に極楽坊・極楽堂の名が付けられた。平安時代末期より極楽往生を願う浄土教信仰(じょうどきょうしんこう)が広がり、それによって智光曼荼羅が脚光を浴びるようになり、「七大寺日記」などの貴族の日記や「覚禅抄」(かくぜんしょう)などの仏教書にしばしば登場する。これらに智光曼荼羅が、約一尺(約30cm)四方のものであったと書かれている。このように智光曼荼羅の正本は奈良時代から、元興寺極楽坊で大切に守られてきた。しかし、宝徳3年(1451)土一揆により起きた火災で元興寺周辺が罹災した際、難を避けるため禅定院(ぜんじょういん)に移された智光曼荼羅は、建物もろとも焼亡してしまった。しかし、元興寺には様々な智光曼荼羅写しが存在していた。この厨子入本は、約50cm四方の大きさで絹の布に描いた絹本着色板貼りのもので、春日厨子に納められている。明応7年(1498)頃の成立とされる。これ以外に板絵本(重要文化財)、軸装本、尊覚開版本等が残っている。

国宝  禅室(僧坊)  木造建築物   鎌倉時代

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元興寺僧坊の姿を伝える建物である。旧僧坊の平面を生かし鎌倉時代に改築したものだが、細部に当時の埼信様式であった「大仏様」(だいぶつよう)を巧みに使用している。桁行4間、梁間4間で平屋の切妻造、本瓦葺き。屋根の一部に飛鳥時代の瓦を使って、行基葺き(ぎょうきぶき)を復元している。室内は南、中央、北と三室に区分されていたと考えられている。現在は、東側3房分を大きな部屋にしているが、西側の一室は僧坊時代の様子を復元している。

講堂の礎石(うち1組)  3個在り    鎌倉時代

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綜合収蔵庫の北側に並ぶ三基の礎石は、平成10年(1998)に奈良市教育委員会が中屋敷町で発掘調査を行った際に発見したものである。礎石は江戸時代始めに穴を掘って埋められていたものと考えられる。いずれも上面に直経80~90cmほどの柱座を持つ。礎石の上には柱座と同規模の太さ80~90cmもの柱が立てられていたと想定でき、講堂がいかに立派なものであったかを想像できる。

浮図田(ふとでん)   鎌倉時代~戦国時代

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元興寺を訪ねると、まず目に付くのは境内に整然と並べられた石塔である。これらは近年まで禅室の北西部石舞台に積み上げられていたものであるが、昭和63年(1988)現在の形に並べ直され、浮図田(ふとでん)と呼ばれている。因みに浮図とは仏陀のことであり、文字通り仏像、石塔が稲田のごとく並ぶ場所という意味である。これらの石塔には様々な形態のものが存在する。もっとも目に付くのは5つの部品を組み合わせて造る「五輪塔」(ごりんとう)である。五輪塔は密教の教義をもとに作り出された塔で、地・水・火・風・空という宇宙を構成する五大要素を体現し、大日如来(だいにちにょらい)と阿弥陀如来を塔の形で表したものである。

舟形五輪塔    戦国時代~江戸時代前期

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この「五輪塔」と、数は少ないが「豊筐印塔」(ほうきょういんとう)の二つの塔の形を舟形の碑に浮彫や線刻したものを舟形五輪塔板碑(ふながたごりんとういたひ)と呼ぶ。この板碑は戦国時代から江戸時代前期に多い。興福寺大乗院の菩提寺墓所の一つとなっていたので、僧侶の石塔が多い。

その他の石塔

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このほかに箱型の枠内に阿弥陀や地蔵を浮彫した地蔵石龕仏(じぞうせきがんぶつ)、自然石に文字を刻んだ自然石碑など様々な種類の石造物が、浮図田以外にも境内に置かれている。江戸時代以降の法柱状のいわゆる「墓石」がほとんどないが、これは江戸時代前期に元興寺が徳川家のための祈祷を行う寺(御朱印寺ーごしゅいんじ)として指定されたことで、通常の町民の墓寺として機能しなくなったことによるものである。

国宝 薬師如来立像 木造 素地 平安時代(9世紀) 奈良国立博物館寄託

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平安初期の木彫りの代表作である。羅髪や両手首先を除き、足元はもとより台座の蓮肉部まで含めてカヤの木の一材から彫成する。肩幅の広いゆったりとした体型、渦文(かもん)や翻波式衣文(ほんぱしきえもん)を駆使した、深く自在に刻まれた衣のひだ、腹部や大腿部の充実した肉取りなど、存在感あふれる造形である。伝来は不明であるが、江戸時代には元興寺の五重塔に安置されていた。

重要文化財 十一面観音菩薩立像 木造 漆箔 鎌倉時代(13世紀)奈良国立博物館寄託

 

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左手に華瓶(けびよう)を握り、下げた右手に錫杖(亡失)を執る長谷寺式の十一面観音立像。左耳上の頭上面は奈良時代末~平安時代初期制作の乾漆造。左胸の条帛に表された渦文(かもん)や、深めに刻まれた徑部の衣文、膝付近をわたる天衣の装飾的な表現など、やはり奈良~平安初期の像に通ずる要素が認められ、古像の復興像としての性格をもつもの。本像の作風は、鎌倉時代前・中期に南都を中心に活動の知られる仏師善円の作風にきわめて近い。国宝、重要文化財が なぜ総合収蔵庫に納められていないのか、不思議である。

 

日本最古のお寺の歴史を引き継ぐ元興寺は、現在では小さな寺域になっているが、かっては「ならまち」の下に埋もれ、その確かな文物は残り少なくなったが、三ケ所の史跡(極楽坊境内・塔跡・小塔院跡)と、関連する重要文化財や町名などに往時を偲ばせるものがある。平安時代末期より極楽往生を願う浄土信仰が広がり、智光曼荼羅が脚光を浴びるようになり、平安貴族や庶民から篤く信仰されるお寺として栄えた。しかし、寺院としては戦国時代の終わりに近い時代に、元興寺中枢部が町になり始め、江戸時代に入ると急速に都市開発が進むようになった。その背景は、織田・豊臣政権が奈良に進駐することを契機に、それまでの元興寺を支えてきた古い権威が奪われてゆき、江戸幕府の成立でこれが決定的になったというところではないだろうか。東大寺、興福寺を訪れる人は多いが、この元興寺こそ、日本一古い歴史を持つ寺であり、中世には庶民信仰の拠点でもあった。興福寺の下、猿沢池の南にある元興寺を、是非奈良見物の際に加えて頂きたい。元興寺の名称は、「仏法元興之場 聖教最初之地」に由来し、法興寺(飛鳥寺)を前身とする、わが国仏法興隆を願った歴史、基礎仏教の初傳を誇った寺名を有しているのである。

(本稿は,図録「わかる!元興寺 2014年」、、図録「なら仏蔵館 名品図録 2010年」、図録「なら仏蔵館 名品図録 2016年」を三照した)

RE 又造    加山又造展

加山又造は、私が最も好きな日本画家の一人である。今回奇妙なRE 又造という展覧会が恵比寿のEBIS303イベントホールで開催された。一応主催者はテレビ東京、グッドスピード、企業家俱楽部、有限会社加山が名前を連ねている。日経新聞のガイドワイド爛(2018年4月6日号)で「RE 又造」(4月11日~5月5日)、恵比寿・EBIS・303イベントホール。戦後の日本画界をリードした加山又造の華麗な屏風絵や版画を中心にした展覧会。現代作家による最新技術を使った映像演出も見どころ。入場料2000円)という記事を見付けて、僅かな時間を割いて、見学に行ってきた。主催者が誰か、絵葉書はあるか、図録はあるか等基本的知識も無しに見学に行った。私見としては、面白い「加山又造展」であり、記録に残す価値があると判断し、「美」に採録した次第である。加山氏の代表作は一応網羅していると思うが、絵画そのものではなく、映像を中心に構成した美術展であった。加山又造は、京都市生まれ。父は西陣織の衣装図案を業としていた。京都美術学校工芸科を経て、1949年に東京美術学校を卒業し、山本岳人に師事した。各種展覧会に出展し、新人賞等を多数獲得している。何時の間にか、日本画の大家となり、1966~72年には多摩美術大学教綬をつとめる。1973年日本芸術大賞を受賞した。1974年に創画会が結成され、同時に彼も会員となる。私は、加山又造は現代の琳派と位置付けている。1927年生まれ、2004年死去。享年76歳。2003年に文化勲章を受章している。なお、作品の順序は「出品目録」の番号に従って、年代順ではない。

倣北宋寒林雪山 紙本墨画  六曲一双  1992年   個人蔵

古今東西のさまざまな画業をあさりつくした加山が、晩年になって最も心を傾けたのは、古代中国の水墨山水画であった。傾倒はまず、南宋から元にかけての書家から始まったが、究極的には、北宋時代(960~1127)の画家、李成(りせい)、范寛(はんかん)、郭熙(かくき)などの作品であり、語り出すと止まらなくなる程であった。この「倣北宋水墨山水雪景」は、北宋水墨山水に倣った2作目のの作品である。タイトルの倣は「ならう」の意味である。古名画の真意をくみとり、咀嚼しようとする積極的な試みをいう。単なる模倣ではない。「その絵画性は神仙思想を帯びて怪異だが、高い精神、境地の表現となっており、実に素晴らしいというほかない」と加山は語っている。「倣北宋水墨雪景」では、画面中央奥に屹立する屏風のような堂々たる山塊を大きく配し、見る者との間に巨大な空間を設定している。中国の画論にいう、高々と見上げる「高遠形式」の画法山水画で、范寛の特色とされた。この作品について加山は、「北宋水墨山水の実験的倣作は、前年に引き続きこれが二度目である。この作では発想をより自由に延ばして雪景にしてみた。しかし、苦心を重ねながら、考えていたほどのスケールを得るに至らないたらなかった。再び試みて、苦い経験を乗り越えねばならないと思っている」と述べている。常に自信満々に見えた加山が、多少の苦渋の念をここに吐露したことは珍しい。

おぼろ 紙本彩色  四曲一双  1986年   個人蔵

「おぼろ」では染職工芸の「ろうけつ染め」の手法を使っている。加山は、この頃から自分の生まれ育った京都の文化、その優雅さや凄み、自分のルーツというものを意識し始めたような気がする。円山公園のしだれ桜を月夜に描いたものである。月に雲がかかっているのはリアルである。

狐 紙本彩色  額装   1942年    広島県立瀬戸田高等学校蔵

御子息の話によれば、加山は動物が好きで京都にいた時も動物園に通って写生をされたそうである。東京美術学校在学中は上野動物園に通いつめて動物の写生を繰り返していたそうである。しかし、この狐は、動物園に飼われた狐ではない。野性味あふれる狐で、こんな孤高の狐は見たことがない。極めて攻撃的で、誰にも馴染まない、個性あふれた孤高の狐である。これだけ魅する狐は少ない。

黒い鳥  紙本彩色  額装    1959年       個人蔵

ご家族によれば、「特にカラスは山ほど描いていました。興味をそそられた存在だったようです。カラスに対して父はシンパシーを感じていたように思います。あるいは自画像の積りで描いていたのかも知れません。父は生来、体が小さくて左利き、子供のころは喘息持ちでみんなにいじめられていたそうです。人には明かさなかったのですが、かなり強いコンプレックスを持っていました。それを払拭させたのが日本画家の横山操先生でした。それまでは内面に向かうような絵を描いていた父が、自分の想いを画面にぶっつけるようになりました」しかし、この「黒い鳥」は、私から見ると、決して内向的な絵では無い。むしろ攻撃的な激しい鳥の性格が現れているように思う。素晴らしい絵では無いだろうか。闘争心を感ずる。

冬  紙本彩色   1957年         東京国立近代美術館

辻惟雄氏は、この「冬」はブリューゲルの影響が見て取れると言われる。枯れた樹木を厳しい感じで描いているそうである。確かに、冬枯れの野原に狼が吠え、鳥が舞っている姿は厳しい冬を感じさせる。洞窟壁画やシュールレアリズムの影響を受けていると先生は言われるが、私は、そんな昔の話ではなく、現代の厳しい孤高を感じずにはいられない気がする・

火の島  絹本着色  六曲一双    1961年   今治大三島美術館

(この絵は最大の絵で各(167.6×261.0)で、3つに分割して写真を入れてみたが、どうしても2枚しか入らないので、止むを得ず、一番左の長い裾野の部分をカットして2枚に収めたので、全体像を表していないことをお断りする。)この「火の島」は、噴煙の桜島を描いたものである。海上には雄大に突き出た火山が、地球の遙か奥底から高温の溶岩と高圧のガスを天空に吹上げ、轟音を響かせている様は、非常に美しいと加山は語っている。以来加山は、火山にひかれ、数えきれないほど登り火山を描いた。ひとつことに凝ると、とことんまで突き詰めないと済まない人だった。この絵は、初めの金屏風への制作だった。画商は「しっかりしたつくりの金屏風を見つけたから、思い切って描いてみたら」と置いていってくれたものという。絹本に純金のやき箔が落ち着いた光沢を放っていた。それは凄絶な豪華さで、それを最大限に生かすには火山でなければならず、装飾様式のものでなければならないと画家は腹をかためた。折しもこの頃、加山は横浜・鶴見の自宅にアトリエを新築した。六曲一双の高さ1.6メートル、一双で幅7メートルの大画面をゆったりと広げることができるようになったのである。得意を胸に、「ともかく強引にねじ伏せるように画面を作った」と意気込みのほどを述べている。用いる色も金、赤、プラチナに限り、「どこまで轟くものの強烈さを出したかった」という。心の高ぶりが伝わってくる。加山は「私は私の絵の中にいつも生命があるようにと念じながら毎日を送っている」と述べている。彼の作品には強烈な生命感がみなぎっている。その「絵の中の生命感」とは中国の言葉を使えば「気韻生動する画面」のことではないかと思う。

月光波涛 紙本墨画  四曲一双  1979年     イセ文化基金

加山は、父の内懐(うちぶところ)に、カンガルーの子供のように鎮座して、目の前の紙を眺めて育ったといわれる。父親の懐を離れた加山は、父の仕事部屋で、図案志望のお弟子さんたちに遊んでもらいながら、一日を過ごしたという。虚弱体質に生まれた加山は、中学生になるまでは、体のどこかが痛かったと述懐している。「子供心に、このやっかいな肉体と折り合って生きていくいためにはどうしたらいいかと真剣に考えた。そして、何かをあきらめるしかないと悟った。まわりの人が望んで可能なことでも、私には無理なことがある。だから努力をしても、人なみの事は望まないことだと、そう私は開き直ったのだ」と書いている。加山はそうしたコンプレックスをバネにして、終生、不屈の闘志で生き抜いたのだと思う。この「月光波濤」について、98年の図録で次のように記している。「和紙に胡粉の上澄みを数度引き、エアガン、バイブレーター噴霧器、染色的手法、数種類の銘墨の併用、と、現在自由に出来るあらゆる手段をぶち込んでみた。私は、音にならぬ音、停止した動感、深い、しずけさを表現してみたいとおもった、」この浪のしぶきの表現は、北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」をしのぐ快挙だと思った。画面中空にふわりと浮かぶ月は、単なる点景の域を超えて、さながらスパームーンの威風堂々の姿をしのばせる見事な存在感である。

春秋波濤  絹本着色  六曲一双   1966年   東京国立近代美術館

この絵画は、国立近代美術館で何度か拝観したことがある。今回は、別に4重のガラス板で紅葉の山、満開の桜、黄色い波の山、の3種の山を4枚のガラス絵に表現して、立体的に見せる工夫をした部屋があった。こんな企画も、今回の展覧会の面白さであった。六曲一双屏風のひとつの画面の中に、満開の桜の山と紅葉の山、つまり春と秋の情景が一緒に描かれている。現実にはありえないこの表現は、大阪・金剛寺の「日月山水図屏風」(室町時代)が四季を屏風一双に現しているのに触発されたものだろう。本作では、技法的にも載金(きりがね)など伝統的な技法を駆使されている。二つの山の間でうねる波は様式化されているが、その表現には逆遠近法が駆使されている。加山は、1960年代に入ると、やまと絵や琳派の伝統に基づきつつ、それを現代的に捉え直し、自然を装飾的に再構成する方向へと進んだ。晩年には水墨の世界に取り組んだ。

身延山久遠寺天井画 墨龍  紙本墨色    1984年  身延山久遠寺

法華宗の本山、久遠寺には、天井画の墨龍と、襖絵がある。10年ほど前に私は、家内と久遠寺を訪れたことがある。残念ながら、加山又造の作品があるとは知らず、展望のみを楽しんできた。今回初めて天井画の墨龍を拝観することができた。日本画家として、最後には山水画にたどり着き、お寺の天井龍と襖絵を描いたのであろう。縦9M、横9Mの大きさは、天龍寺に比較すると、やや小さめである。日本画家は大成すると、不思議にお寺に作品を遺すものである。色はやや黄身がかかっているのが特徴かも知れない。

天龍寺 法堂天井画 雲龍図  白土墨画  1997年  臨済宗総本山天龍寺

加山は、次のように述べている。「水墨画。それは中国五千年の歴史に輝く、全人類的意味で最高の絵画表現である」(加山又造全集第4巻)この言葉通り、晩年になって「倣北宋水墨山水風景画」等を描いている。最晩年の作が、この天龍寺 法堂(はっとう)の雲龍図である。畢生の大作である。天井は縦10.6M、横12.6M、厚さ3センチのヒノキの板159枚を張り合わせ、全面に黒の漆を施し、白土を塗った上に龍を描いた。この絵の制作のため、加山は、神奈川県藤沢市鵠沼に、小ぶりの体育館ほどもあるアトリエを提供してもらった。加山は「私の履歴書」(日経紙)の中で、次のように述べている。「私は生まれつき体の小さいせいもあって、大きな絵を描くことにかぎりないあこがれを抱いてきた。大きな絵を描いてみたい。それは幼い頃からの素朴なねがいであり、生きがいのようなものだった」と述べている。最晩年になり天龍寺の雲龍図を描いたことは、加山の画家としての最後を飾るに相応しい絵であった。天龍寺は渡月橋から近いのため、非常に行きやすいお寺であり、雲龍図は公開しているので、京都へ行く機会がある方には拝観をお勧めする。

黒い薔薇の裸婦 紙本彩色  四曲一双   1976年  東京国立近代美術館

加山の子息の加山哲也氏(画家)は、次のように回想している。「黒い薔薇の裸婦」という裸体像では、シルクスクリーンを使用したのですが、そのことも大論争を巻き起こしました。しかし、父は(これほど使いやすい技法が光琳や宗達の時代にあったら必ず使っていたはずだ。現在に生きる私たちだからこそ使える技法なのだから、大いに使うべきだ)と言っていた。そういう父でしたが、筆遣いの名手でありました。私が父に最初に言われたのは、(日本画は線一本であらゆるものを表現できる。細くて強い線、細くて柔らかい線、太くて弱い線など、様々な線を使い分けられるように練習をしなさい。祈りのこもった線を画けるようにならないと絵描きにはだめだ。たとえ一本の線でも祈りを込めて描けば、観者はそれが地平線なのか水平線なのか、たちどころに理解する)と言われました。線に関する一家言を持った画家でした。」

 

加山又造は、私が最も好きな日本画家の一人である。しかし、残念ながら、今日まで「加山又造展」を見たことが無かった。今回「RE又造」と題する変わった加山又造展を見学した。図録は写真のみで解説はない。展覧会場でも、各々の絵画にはコメントは一切無い。光線を使って加山の世界を再現することは珍しく長けている絵画展であり、「RE又造」という名称も変わっている。何か前衛芸術の世界に招かれた感覚であった。しかし、永年望んだ加山又造展には違いない。展示された作品には満足した。出来れば、国立近代美術館等が開催する「加山又造展」を見てみたい。

 

(本稿は、図録「RE 又造展   2018年」、「ONBEAT 2018年12月号」、日本経済新聞社2018年2月4日、2月11日「美の粋」、「名品選」東京国立近代美術館、を参照した)

プラド美術館  ベラスケスと絵画の栄光

私は、プラド美術館よりもベラスケス(1599~1660)の絵画見たさに、この展覧会を見学した。ベラスケスは、私の記憶する一番最初の西洋画家であり、スペイン王家の宮廷画家として記憶に残っている。それは、父が買い求めた「西洋美術全集」のなかの、スペイン王家を飾る一番素晴らしい絵画がベラスケスであり、王家の一家の中の可愛い王女を描かれた「ラス・メニーナス」(1656)を是非拝観したいという小学校時代の思い出の名画を見る為に、出かけたのである。70点近い絵画を見た最後に、私の希望した絵画が無いため、学芸員に説明を求めたところ、その絵(「ラス・メニーナス」)や、他の王家一同の絵画は、プラド美術館の至宝であり、外部に貸し出したことは一度もないとのことであった。希望が叶わずがっかりしたが、それでもベラスケスの絵画7点も見られたので、一応満足して美術館を出ることが出来た。さてプラド美術館は、スパイン王室によって収集されたスペイン、イタリア、フランドル絵画を中心に、1819年に王立の美術館として開設されたものである。この展覧会は、日本とスペインの外交関係樹立150周年を記念して、プラド美術館の収集作品のうち、ベラスケスの作品7点を軸に、17世紀絵画の名作61点を合せて、約70点を紹介するものである。プラド美術館は現存する約120点のベラスケス作品のうち約4割を所蔵しているが、その重要性のゆえに館外への貸し出しを厳しく制限している、そうした中で日本において7点もの傑作が一堂に展示されるのは、特筆すべきことである。(この部分は、図録の「ごあいさつ」より引用した。これさえ知っていれば、「ラス・メニーナス」が展示される訳がないことが、事前に理解できた。)これに較べると、日本は、フランスへ「鑑真和上像」を貸し出したことがある。これはフランスが日本に「モナ・リザ」を貸し出してくれたお礼であると聞いたことがある。17世紀のスペインはベラスケスを始めリベーラ、スルバランやムリュリョなどの大画家を排出した。彼の芸術を育んだ重要な一因は、歴代スペイン国王がみな絵画を愛好し取集したことがあげられる。国王フェリペ4世の庇護を受け、王室コレクションのティチアーノやルーベンスの傑作群から触発を受けて大成した宮廷画家ベラスケスはスペインにおいて絵画芸術が到達しえた究極の栄光を具現化した存在であった。本展はフェリペ4世の宮廷を中心に17世紀スペインの国際的なアートシーンを再現したものである。

ファン・マルテネス・モンターニスに肖像 ベラスケス作 油彩・カンヴァス1635年頃

この作品は、画家が制作中の彫刻家の肖像を描くという、珍しい作品である。描かれているのは、16世紀末から17世紀前半、セビーリヤで最も重要な彫刻家の一人であったモンタニュースとされている。ベラスケスが修行時代を送っていたときには、すでに名を知られた彫刻家であり、ベラスケスの師であるフランシス・パチェーコとも親交があった。彫刻家は、繻子のようなつやのある黒い宮廷服に身を包み、右手に箆を持ち左手で粘土像支え、胸を張り姿勢を正した半身像で描かれている。彫刻家が制作しているのは国王フェリペ4世の頭部の粘土像である。この像は、ブロンズによるフェリペ4世騎馬像を制作する際の参考として、フィレンツェの彫刻家ピエトロ・タッカのもとに送られたものと考えられる。国王と一面識もない、イタリア彫刻家に送るための胸像制作が、モンタニエースに委託されたのである。ようやく無事に完成したタッカの彫刻は、現在マドリード王宮前のオリネンテ広場の中央に堂々としたその姿を見せている。

聖ベルナドゥスと聖母 アロンソ・カーノ作 油彩・カンヴァス1657~60年

簡素な礼拝堂の中で、祭壇の前に白衣の修道士が跪き、祀られた幼子イエスを抱いた聖母マリアの彫刻が乳房から彼の口をめがけて母乳を注いでいる。手前には、聖人に向かって手を合わせて祈りを捧げる目撃者が描かれている。この一風変わった場面に、私は驚いた。この場面は、12世紀にシトー会修道院長を務めた神学者クレルヴォーの聖バルナンドスの生涯にまつわる、神秘の授乳の物語を表している。それは幾つかのヴァージョンが伝わるが、本作が依拠しているのは1119年にフランスのシャチヨン=シュル=セーヌという町のサン・ヴォルル聖堂で起こったものとするものだろう。マリア信仰のあついことで知られたベルナルドゥスが彼女の前に祈りを捧げ、いつもより熱意を込めて「あなたは母たることをお示しください」と口にすると、彫像が生を得て動き、3滴の乳をペルナンドスの唇に垂らせた、というものである。この幻視の逸話は13世紀末のスペインで創案されたとみられ、その後17世紀末の同国において、マリア信仰の高まりとともに頻繁に表されるようになった。本絵画は、当時のスペイン彫刻が単なる美術作品ではなく、どのような力を持つと見られていたかについて、端的に教えてくれている。

メニッポス ベラスケス作 油彩・カンヴァス  1638年頃

髭を生やした老人が外套を羽織りこちらに背を向けて立ち、今にもその場から去らんとするかのようである。肩越しに我われの方を振り返っている。彼の立つ空間は室内であることだけが漠然と理解され、彼の足元には広げられた本や壺などが雑然と並んでいる。この男は、18世紀初頭の財産目録の記述、および画面左上に記された銘文(ベラスケスの手によるものではない)から、古代ギリシャの犬儒学者派の哲学者メニッポスであることがわかる。かれはかって奴隷で、その後金貸しとして財をなすもののそれを失い、自ら命を絶ったと伝えられる。本作はマドリード近郊にあった狩猟休憩場の装飾として、寓話作家として名高いイソップと対をなすべく、ベラスケスによって描かれた。トーンの装飾全体にいかなるプログラムがあったかのか、そしてそれをどのようにしてベラスケスが制作に関与したのか、詳しい経緯はわかっていない。

マルス ベラスケス作 油彩・カンヴァス   1638年頃

本作は、エル・バルドの森にあった狩猟休憩場のために制作された。国王フェリペス4世は狩猟を好み、1636年にはこの狩猟休憩場の内部装飾のためにルーベンスとその工房にオウイディウスの「変身物語」、古代の哲人、狩猟や動物を主題とした作品など100点を超える作品を依頼している。この塔の装飾のため、ベラスケスはメニッポス、やイソップに次ぐ古代世界3人目の人物として、軍神マルスを描いた。「マルス」という主題は、王家の狩猟のための休憩室にはふさわしい主題と言える。狩猟は、平和の時代にあって「戦い」の疑似体験でもあった。フェリペ4世をはじめ、ハプスブルグ王家の人々が狩りを好むようになったのは、そのような伝統があったからである。本作で画家は軍神マルスをあくまでも現実の戦士と捉え、その疲れ切った姿を描いている。戦いから戻り、鎧を脱ぎ武器を置いた戦士の姿である。このマルスの姿をフェリペ4世と結びつけ、メランコリックなポーズは、疲弊するスペインの姿であるとの解説もある。1640年代、スペインは幾度かの戦いによってその軍事力は弱体化する一方であった。

音楽にくつろぐヴィーナス ティツィアーノ・ヴェチェリッオ作 油彩・カンヴァス 1550年頃

寝台に横たわる裸婦は、クッションにもたれ体を起し、左手で仔犬をあやしている。女性の首元や腕には豪華な装飾品が光る。足元に座る若いオルガン奏者は、左手を鍵盤にのせ、体を大きくひねり、女性と仔犬に視線を向けている。手摺の向うには、ポプラ並木の連なる風景が広がり、サテュロス像の立つ噴水やクシャク、タカジカのつがい、肩を寄せ合って歩く恋人たちがいる。並木道の先には街が見える。本作は、ティツィアーノが繰り返し手がけたヴィーナスとオルガン奏者を主体とする絵画の一つである。裸婦を眺めるオルガン奏者の存在は、観者が自身を奏者に重ね合せ、裸婦を眺めることを促す新たな仕掛けであろう。知的なユーモアと官能性を兼ね備えた本作品は、注文主の期待に巧みに応え、ヨーロッパに広くパトロンを得たティツィアーノならではの創意に満ちた絵画と言えよう。

狩猟姿のフェリペ4世 ベラスケス作  油彩・カンヴァス 1632~34年

マドリード近郊のエル・バルドの森にある狩猟休憩室のために描かれた、狩猟服姿の国王の肖像画である。離宮もあるエリ・バルドの森は、王家の人々が毎年秋になると狩猟を楽しむために必ず訪れた場所であるが、その狩猟の合間の休憩時などに王家の人々が私的に利用する施設が狩猟休憩場であった。17世紀前半に増改築工事が行われ、それに伴なって、無味乾燥な内部の壁を華やかにするための絵画作品が、内外の画家に対して発注された。スペイン人画家としてベラスケスも「イソップ」、「メニッポス」、「マルス」など、10点余りの作品を描いた。本作に描かれた国王フェルペ4世は、制作年代を考えれば、年齢が20歳代後半から30歳頃であり、いまだ体力、気力を失わず、狩猟の腕前も確かであり、政治手腕を発揮して王国スペインを統治した時代で、有能なる為政者としての姿がここにはある。狩猟用の衣装をまとった国王は右手に長い銃を持ち、その銃の横には猟犬を従えている。力強さに溢れた国王の姿である。

バリューカスの少年  ベラスケス作 油彩・カンヴァス 1635~45年

矮人(わいじん)の肖像画である。ビスカヤ地方の出身でその名をフランシスコ・レスカノーといい、1634年に宮廷に上がり、王太子バルタサール・カルロスに仕えたとされている。その出身地から「ビスカイーノ(ビスカヤ人)」とも呼ばれていた。王太子の死から3年後の1649年に25歳で没している。本作はモデルが12,3歳頃だとすれば、1636年頃に描かれたと考えられる。「バリエーカスの少年」という呼称は、1794年に王宮の財産目録作成に際して付されたものである。画面右奥にはマドリード近郊の王家の狩猟場、グアダラマの山系が眺望されるが、この景色はベラスケス作の「狩猟服姿の王太子バルタサール・カルロス」の景色とも重なる。レスカーノは道化や矮人(エナーノ)たちが宮廷で着用していた濃い緑の衣服を着ており、彼が王家の随員であることが明示されている。このように矮人たちは、主人たちの私的な用向きが仕事であった。

王太子バルタサール・カルロス騎馬像ベラスケス作油彩・カンヴァス1653年頃

王位継承者の王太子バッタサール・カルロスの凛々しい公式騎馬像である。王太子は王族の期待と希望を担って1629年10月17日、父国王フェリペ4世とフランス・ブルボン王家から嫁いだ王妃イサベルとの間に誕生した。当時、ベラスケスはイタリア遊学中のために不在で、国王は、幼い王太子の肖像を寵愛の「予の宮廷画家」のみに描かせるよう早急な帰国を心待ちしていたという。王都マドリードの郊外に離宮ブエン・レテイーロの造営が始まった頃である。本作はそれから数年後の1635年頃、ほぼ竣工した休息と娯楽のための離宮レティーロ内でその中核をなす唯一の政治的な空間、「諸王国の間(サロン)」を飾るために制作された。ここは諸外国の大使や要人が必ず訪ねる公的な場所であった。王太子の装いや持物、馬のポーズや彼らを取り巻く清澄な風景を理解するためには、この絵が掲げられる場(トポス)と他の絵画装飾、その機能をひもとくことから始めなければならない。王太子の顔から緑の丘陵に至るまで、自由闊達で簡略化したベラスケス一流の近代的描法が全面的に息づき、賦彩も「絶対色感」のような揺るぎなく、ベラスケスはもう成熟の域に到達している。パノラミックな山岳風景はアルカサル山系の写実であり(季節は3月頃か)、遠ざかるに従いブルーの色調が深まる流麗な空気遠近法が駆使されている。この展覧会の白眉の作品である。

東方三博士の礼拝 ベラスケス作 油彩・カンヴァス 1619年

ベラスケスがマドリードの宮廷に王付き画家として迎えられるのは1623年の秋であるが、その4年前の1619年に故郷のセビーリヤで描いた宗教画が本作である。1920年頃に行われた修復で聖母の足元の石の側面に年紀が発見され、当初は最後の数字の判読に議論があったが、現在では、最後の数字は9と読むことで意見の一致を見ている。描かれた主題は、マタイによる福音書第2章の「東方の三博士(マギ)の礼拝」であり、誕生したばかりの幼子イエスに敬意を表するために、3人の博士が東方から贈り物を携えてやってくるという場面である。伝統的にこの主題を扱う絵画では、幼子イエスを抱く聖母の足元に、3人の中でも最年長のカスパールが跪き、黄金の贈り物を捧げる様子が描かれてきた。しかし、ベラスケスはこの作品で、聖母の目の前の、我々鑑賞者に一番近い位置に跪くのは、年老いた王ではなく若い王であり、この主題の伝統的図像との相違が見られる。余計なモチーフを排除した画面の中で、その一番手前側、右上から左下へ対角線上に配置された聖母、幼子イエス、若い王はとりわけ目立っているが、なかでも画面左上からの光を受けて明るく輝く、白いおくるみを巻かれた幼子イエスは、見る者の注目を強くひきつける。十字架上での磔という未来がまっているのであり、画面右下の隅に描かれたアザミは、その受難を控えめながらもはっきりと示しているのである。

 

プラド美術館の絵画を、ベラスケスを中心に見て来たが、やはりベラスケスは、表面的な写実主義だけでなく、絵画を超越したリアリズムに到達した西洋美術史における最高峰の画家の一人と評価することが出来るだろう。宮廷画家という枠は外せないが、17世紀のスペインを代表する画家の第一人者であったと思う。

 

(本稿は、図録「プラド美術館  ベラスケスと絵画の栄光  2018年」、高橋秀爾「西洋美術史」、木村泰司「西洋美術史」を参照した)

寛永の美  江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽

寛永年間(1624~44)は、参代将軍徳川家光と大御所秀忠によって、幕藩体制の基礎が固められた時代として記憶されているが、文化的にも新たな潮流が生まれた時代として、歴史家の注目を集めてきた。歴史家・林家辰三郎氏は、昭和28年に「寛永文化論ー日本的伝伝統の起源をたずねて」という論文を発表している。簡単にまとめれば、寛永期こそ、中世の文化と近世の文化の結節点であったと主張された。寛永文化論は、暴走華麗な桃山文化の後、いきなり元禄文化が花開いたわけではなく、朝廷、幕府、町衆など各層のサロン的結びつきの中から大きな文化興隆期があったとする見方である。この展覧会では、その造形的な特徴と美意識に特に注目し、「きれい」という言葉に代表される瀟洒で洗練された美をクローズアップしている。まずは、新時代への胎動から見て行きたい。

鹿下絵古今和歌集断簡 本阿弥光悦筆 俵谷宗達画 江戸時代(17世紀)サントリー美術館

もとは「新古今和歌集」巻四、秋歌上の和歌二十八首が散らし書きされた全長20メートルに及ぶ長巻だったが、昭和10年(1935)に裁断されて上下二巻となり、さらに上巻が分割されたものの一つが本作である。巻物形式特有の時間的な展開によって秋の野における鹿の群れの生態を描く。上巻の参場面に当たる本作では、座り込んだ一群の鹿が右上から左下へと斜めに列をなし、光悦の書はそれに呼応するするように描き込まれ、書画一体の趣をなす。現在米国シアトル美術館に蔵される下巻の末に「徳有才光悦」の落款と「伊年」の朱文印があることから光悦書、俵谷宗達下絵の作品と分かる。

蔦下古今集和歌色紙 本阿弥光悦筆 俵谷宗達画 慶長11年 サントリー美術館

金泥のみで蔦の下絵を描き、その上に「新古今和歌集」巻四・秋歌上に所収される前大僧正慈円の和歌を散らし書きした色紙。生い茂る蔦には、顔料や墨の滲みを利用した宗達の特徴的技法「たらし込み」が用いられ、葉の質感が見事に表現されている。その下絵に対して、光悦は蔦の葉の重なりや蔦が垂れる様子に呼応して字の配置や書体を工夫しており、最後の句の「秋」を大きく描いて季節を強調している。文字と絵画が調和した優品である。「慶長十一年十一日」の年紀と光悦の落款印章をともなう一連の作品である。

柳下絵古今和歌集色紙 本阿弥光悦書 俵谷宗達画 江戸時代(17世紀)サントリー美術館

宗達による金銀泥の柳図の上に、光悦が「古今和歌集」巻第五・秋歌下に所収されるよみ人知らずの和歌を記している。柳の葉は水気の少ない金泥で描かれ、鋭利な線で表現された葉先が画面に緊迫感を与えている。一方、大きく描かれた葉などには、水気を含んだ筆が使用され、繊細な滲みやぼかしの表現が見られる。線の肥瘦を見事に使い分けた光悦の筆は上から下へと流れる柳の葉に寄り添うように書かれている。

伊勢物語図色紙「水鏡」近衛尚嗣筆(殿俵谷宗達画)江戸時代(17世紀)サントリー美術館

百二十五段本「伊勢物語」の第二十七段「水鏡(盥のかげ)」を描いた作品である。一夜限りで来なくなった男を恨み悲しむ女が、盥の水に自分の姿が映るのを見て、自分のほかにもう一人物思う人がいた、と歌を詠むところを男が立ち聞きするという場面である。本作は益田鈍翁旧蔵の一連の色紙のうちの一枚で、個々の色紙の作風に異動が認められることから、制作は宗達と工房の絵師による共同作業と見るのが妥当であろう。本作の裏書には「近衛大将様」とあり、これは近衛尚嗣を示すものと考えられている。本作は寛永年間における宗達の画業と、さまざまな文化人たちの身分を超えた交流」を示す点で、寛永文化の様相を良く伝える作品である。

源氏物語画帳 園基副詞 住吉如慶画 江戸時代(17世紀)サントリー美術館

後水尾院(1596~1680)は、その長い生涯の中で朝廷と幕府の関係に配慮しつつ、宮廷文化の再興に力を注ぎ、寛永文化の中心人物として活動した。後水野尾院は率先して和歌を中心とする古典文化の研究を進め、宮廷周辺では古典復興の気運が高まった。ここに示す源氏物語の五十四帖それぞれの一場面は約17センチ四方の小画面に描き、それに呼応した詞書の色紙とともに画帳にまとめたもの。色彩は淡く、透明感があり、優美、精緻な筆で丹念に描き混まれている。各人物の可憐な表情や樹幹の形態、葉の表現など、如慶の源氏絵の典型作例に位置付けられる。「土佐広通」の印からは、制作年代が寛文三年(1863)の住吉派の再興以前であることが分かり、詞書の園基幅の筆跡などと合せて、承応(1652~55)のころの制作と推測される。本作の色彩などから、狩野探幽をじはじめとする江戸狩野派様式と親近感が指摘される。また描かれる殿舎や調度にかんしても、古典からの引用によって復古的な様相を描く場面もあるが、几帳や襖障子の意匠は繊細で装飾的となり、屏風などの画中画も淡彩となるものが多く、寛永期の「きれい」の趣向が混入しているとする見解がある。

小袖屏風 小袖 二曲一双  江戸時代(17世紀) 国立歴史民俗博物館

鬱金色(うこんいろ)の絖地(ぬめじ)大柄な菊花型と帯状の文様を藍で塗り染め分け、菊花型には複数の菊唐草、帯状にはさらに目の細かい鹿子絞を配置している。鬱金の地には単弁の菊花と鹿子絞を配置している。空間をゆったりととり、一つの大柄な文様を中心に据えるところは典型的な寛永小袖の特色である。この小袖については野村正次郎の著した「時代小袖雛型風」目録によると、「後水野尾天皇第三皇女昭子内親王ご着用」と記した在銘の裏裂が存在することが示されており、近衛尚嗣へ嫁いだ後水野尾院と東福文院の次女・昭子内親王所用とみられている。

冠形大耳付水指 修学院焼 江戸時代(17世紀)    滴翆美術館

万治二年(1659)ごろ落成したとみられる後水野尾院の別荘、修学院離宮には寛文年間に窯が築かれた。ここで焼かれた焼物を修学院焼と呼ぶ。この修学院はたびたび皇族や公家に下賜されたことが記録に残っている。「冠型大耳付水指」は、修学院焼を代表する作品として知られるもので、円筒の袴をつけた形が逆さにした公家の冠に似ていることから、このように呼ばれている。左右均整のとれた瀟洒な趣の中に、独特の作為を見せる大きな耳の曲線が美しい。修学院離宮は、公開されているが、1日10人程度と限定されており、中々籤が当たらないことで有名である。私は昭和46年秋に、妻と申し込んで2名とも当選し、修学院全体を見学する幸運に恵まれた。深秋の修学院の山の印象は、忘れることの出来ない美しさであった。一生に一度の幸運であった。

小井戸茶碗  銘 六地蔵  朝鮮   朝鮮時代    泉屋博古館

小堀遠州(1579~1647)は寛永文化を代表する茶人であるとともに、伏見奉行を長く勤め、多くの建築造作も指揮した江戸幕府の有能な官僚であった。そうした演習は、幕府によってもたらされた大平の世にふさわしい、武家の教養としての「大名茶」を目指すべく、さまざまな新機軸を打ち出した。小堀遠州が愛玩した小井戸茶碗の代表作として知られているもので、遠州が京都の六地蔵で入手したことからこの名がついたという。遠州の茶会に井戸茶碗が見られるようになるのは寛永20年(1643)以降のことである。侘茶(わびちゃ)を代表する茶碗が晩年になって登場することには注目される。

共筒茶杓  銘 玉川  小堀遠州作  江戸時代(17世紀) 五島美術館

平安後期の歌人、源利頼の和歌「明日もこむのちの玉川萩こえて色なりなみに月やどりけり」(千載和歌集)より銘を付けた遠州作の茶杓である。遠州は典拠となったこの和歌を筒に定家様式で記し、栓と口にかけて「玉川」の二字を大きく書いている。和歌の連想による見立てや和歌を記す書、そして素材となる竹の選別など、いずれも細心の注意が向けられており、遠州の美意識が凝縮された名品と言えよう。

錆絵富士文茶碗  野々村仁清作  江戸時代(17世紀)  出光美術館

色絵の技法を大成し、京都随一の名工として名高い野々村仁清(生没年不詳)は、正保四年(1647)頃御室仁和寺の門前に窯を開き、御室窯の活動を開始した。そして、この開窯にあたって指導的な位置にあったのが、遠州と同じく寛永期に活躍した茶人・金森宗和(1584~1658)である。宗和は武家や町人、さらには公家とも交流を持ち、彼らに自身のプロデュースした御室焼を斡旋していた。その「宗和好み」が、意外なことに落ち着いた色調と独創的かつ洗練された造形を持つ作品群に行きつく。それらはまさに「きれい雅」のような寛永の美意識を継承・発展させたものと言っていいであろう。本作のような蒔絵白釉茶碗の一群は、金森宗和の指導のもとに作られた御室焼の比較的初期から作られていたものとなっている。それの銹絵白釉茶碗の一群は、金森宗和の指導のもとに作られた御室焼の比較的初期から作られていたものとなっている。それらの銹絵白釉茶椀の描写は、絵画としても風格を備えるものが多く、本作に描かれる富士山図も、三峰形であることや、外隈で描きだされた山容や余白の重視などの点が、当時流行していた狩野探幽の富士図との共通性が指摘される。大変優れた作行きを示すものである。

色絵花輪違文茶碗  野々村仁清作  江戸時代(17世紀) サントリー美術館

全体を碗形に轆轤引きし、腰下に面を取って姿を引き締めている。長石の多い独特の白釉を地軸とし、内外に黒釉を塗る。口縁の外側に銀彩の帯を巡らせ、同部の中幅に赤・青・緑の八個の花輪違文を描き、胴下部には八個の花入り連弁文を並べる。この花違文と連弁文は白釉地に色絵で表さされている。そしてすべても文様において、色と色が接触しないように輪郭を丁寧に縁取っている。本作は宗和好みを継承しつつ、さらに華やかさがくわえられていったものではないかと考えられる。

白釉円孔透鉢  野々村仁清  江戸時代(17世紀) MIHO MUSEUM

白濁釉が薄く掛けられた白一色の器形の側面全体に大小の円孔が無数に開けられた鉢。この穴は専用の工具で開けられたらしく所々に工具を押し付けてみたものの、貫通させなかった跡が残っている。この口縁の処理の違いでバリエーションがあり、真円、木瓜形の作例が確認されている。仁清は実に瀟洒で洗練された姿に再生させている。仁清は明らかに高取焼を意識した造形を追い求めていたことが、本作はその成果が結実したものである。シンプルかつシャープな造形で現代の工芸作品にも引けを取らない斬新さを見せるこの鉢は、色絵と違った面での仁清の真骨頂に位置付けられる作品である。

桐鳳凰図屏風 狩野探幽作 六曲一双 江戸時代(17世紀)

狩野探幽(1602~74)は、狩野派の絵師である狩野孝信の長男として京都に生まれた。幼くしてその画力を徳川家康・秀忠に認められ、本拠地を江戸へ移して幕府の御用絵師として活躍した。徳川政権による新たな時代にふさわしい美を探究したその生涯は、まさに寛永文化の展開に重なるものである。今日、探幽が巨匠とされる理由の一つは、豪壮な桃山時代にかわって、大きな余白と淡彩を主体とする独自の様式を確立し、狩野派の画風を一遍させたことにある。その優美で平明な画趣は、探幽と交流のあった小堀遠州の「きれい寂び」に通じるものがあったと言えるであろう。すなわち、探幽の新様式は、武家や公家と言った枠組みを超えて共有されていた、最先端の「時代の美」であった。本作は数少ない探幽の金地濃彩屏風で、六曲一双の大画面にそれぞれ見つめ合うつがいの鳳凰二組と桐樹、草、流水などを描く。これらのモチーフを水平方向に分散して配置し、緑・紫・赤・茶などの絵具を使って彩色されるが、濃彩は全体にわたるものではなく、淡い色味が多く用いられている。金地、金運で埋められ、金砂子で飾られた余白の中、緩やかに水流が蛇行し、鳳凰がゆったりと舞う。聖人が世を治める時に現れるという鳳凰にふさわしく、落ち着いた晴れやかな画面となっている。この特徴は「本朝画史」に「一変狩野氏」と評価された探幽の新しい構成原理が端的に現れたものであり、完成された探幽様式を示している。

重用美術品 歌仙源氏類人形図鑑 狩野探幽作 一巻 江戸時代(17世紀)京都国立博物館

本作は「時代不同歌合」「源氏物語」「紫式部日記」「枕草紙絵詞」を写した縮図が納められた一巻である。時代不同合は百人の絵歌仙とその上方に各歌仙三首づつの和歌を納めた長大な縮図で、上下二段に貼り付けて歌仙絵は墨画を本体とし、所々に朱や淡彩を加えている。寛文2年(1662)10月9日に制作した縮図で、「中程の土佐筆」と鑑定されている。枕草紙絵詞は旧浅野家の歌本を模写した縮図で、寛文12年(1672)正月11日に制作された。この枕草紙絵詞はほかの縮図とことなり、一段に張付けされている。

 

宗達も屏風も専好の和歌書巻も桂離宮も修学院も、仁清も狩野探幽も、きれいで美しいという美意識の中にあったと言えるであろう。きれいという意識は、桃山の豪放、慶長のかぶきとも異なり、また元禄の展合やさびとも異なる寛永の独自の美の領域を示すものである。慶長20年(元和元年(1615)をもって古田織部に象徴されるかぶきの時代は終わった。このあたりから寛永文化が姿を明確にしてきたといえよう。華やかな寛永期を過ぎて、万治3年(1660)ごろ修学院離宮が完成を見た。その間もなく桂離宮も現在の姿となった。そして延宝8年(1680)に後水野尾院は没した。ほぼその頃には、次に来る元禄文化の足音が時代の相の中に混じってきたのである。

 

(本稿は、図録「寛永の美 江戸宮廷文化と遠州・仁清・探幽  2018年」、図録「生誕400年記念 小堀遠州展  1978年」、陶器講座「仁清」、陶磁体系「第23巻 仁清」を参照した)

生誕140年記念 木島桜谷展 近代動物画の冒険

木島桜谷(このしまおうこくー1887~1938)は、明治から昭和にかけて活躍した京都の日本画家である。今年、生誕140年を記念して、六本木の泉奥博古館において、「木島桜谷特別展」が開催されている。宮内省(明治天皇)や住友財閥等の買い手がつく人気作家であったが、戦後はなぜか人々の記憶から遠ざかってしまった。私がこの名を知り、名作「寒月」の写真を見て、一度是非拝観したいと思ったのは、日経新聞が日曜日に連載している「ザ スタイル・アート」の2017年10月15日、10月22日の連載記事を見た時である。記事によれば「忘れ去られた京都画壇の俊英」であり、「さえざえとした冷たさと孤独感」、「文展の寵児 100振りに光」、「明治天皇に財閥 堂々たる買い手」等見出しが躍る記事であった。私は近代の洋画・日本画を知るために「日展100年」という展覧会を見て(2007年7月頃)、その分厚い図録を字引き代わりに使用して、画家の略歴や絵画を調べることにしていた。ところが「文展の寵児」と書かれながら、この「日展100年」の図録には、木島桜谷という氏名も絵画も見つけることが出来なかった。これほど何度も日展の最高賞に選ばれた人が、何故「日展100年」に全く氏名を残さなかったのか?不思議である。さすがに「原色日本の美術第26巻 近代の日本画」(昭和52年版)には、木島桜谷の代表作「寒月ーかんげつ」(1912年)を見開き2ページを使い、紹介している。解説を書かれた河北綸明氏は「こうした桜谷の作風も現在ではほとんど顧みられることはない。時代は、このような静雅なものを執り残して展開したのであろう」と述べられている。戦後、日本の高度経済成長は、桜谷のような画家は捨て去ってしまったのだろうか?低成長の今日、その解決を求めて、今回の特別展 木島桜谷展を拝観した次第である。なお、木島桜谷氏の紹介は、記事の最後にまとめたい。

獅子図屏風 紙本着色  六曲一双屏風       明治37年(1904)

ライオンが岸辺でふと歩みをとめ、探るように遠くを見つめる。威風堂々たる立ち姿に対し、左隻にうずくまり水を飲む柔和な虎がいる。日本画らしく輪郭線はほとんど見られず、淡彩から濃彩へ塗り重ねた色面にもで肉体を作り上げる。油彩画を意識した青年期の冒険作というべき1点で、淡墨の背景描写や、そこはかない金泥霞が典雅さを添える。桜谷は明治36年大坂で開催された第5回内国博覧会の余興動物園に通ったようである。そこで実際の虎を見て、この絵を描いたのであろう。虎の威力が良く映されている。

熊鷲図屏風  紙本墨色着色  二曲一双       明治時代

 

雪原でたちどまり遠くを見つめる熊。大小の割筆を用い乾いた墨調で毛描きする。筆致は素早く放埓に見えるが、ごわついた質感、顔や足先など細部を的確にとらえる。一方、鷲は屈曲した松幹に鋭い爪をたて、やはり前方に視線を投げる。湿潤な側筆で風になびく羽毛を大胆に描き分ける。墨調た筆づかい、そして動物の表情など左右の対比も鮮やかである。熊を片寄せ余白を取る構図は、優しく内省的な眼差しと相まって余剰染み渡る静謐な空間を作り出す。確かな運筆、素早い奔放な筆致、そして円山派の写生に西洋画の写実表現を取り入れた、青年期のひとつの到達点である。

しぐれ 紙本着色 六曲一双 第1回文展2等賞(最高賞)明治40年1967)東京国立近代美術館

この作品は第一回文部省美術展覧会(文展)で二等賞一席(日本画で最上位)を獲得した。桜谷(おうこく)は一気呵成に描きだしたそうである。薄なびき、枯葉舞い散る秋の荒野を、子連れの鹿一行が行き過ぎる。ふと首をもたげる牡鹿はやさしい瞳でこちらを見るとも、空を舞う紅葉に気遣うとも見える。余白を活かしたバランスの良い配置、流麗な描線による秋草の表現などが詩情をかきたてる。今日伝わる桜谷の写生帳で最も多いのは鹿である。鹿の絵については、相当自信を持っていたのであろう・

和楽(わらく)絹本着色六曲一双 第4回文展 明治43年(1909)桜谷文庫

右に農家の軒先でくつろぐ家族や仔牛、左に家路の農婦と向かえる子らを描く。左が夕方ならば、右の霧が多く鶏が餌をついばむ様はさしずめ朝の光景だろうか。紅葉や葛の花も見える秋の一日、労働前後の和みの時であろう。これは第三回文展出品作品であるが、見所を盛り込み過ぎたとの批判もあった。西洋画的な写実主義をも見せる。先割れの刷毛や筆による仔牛のうぶ毛、濃青によるハイライトを点じた潤んだ瞳(右隻の下の牛)などは桜谷の真骨頂であろう。

かりくら 絹本着色 二幅 第4回文展出品  明治43年(1910)桜谷文庫

  

高さ250cmの巨大な画面に、薄野を疾走する騎馬の武士三人が勇壮華麗に描かれる。これは表第通り、狩り競べそのものをクローズアップする。渾身の力で馬を駆る男らの表情のさりばがら、写実的で躍動感ある馬にみるべきものがある。前年の「和楽」とは対照的な鮮やかな濃彩に、西洋画的な陰影をほどこされる。桜谷最大級の作ながら、第4回文展での発表後、翌年の選画会、ローマ万国博覧会以降記録が途絶えていたが、近年桜谷文庫でマクリ状態で発見され、2017年に修復を終えた。桜谷の絵の中では異例の装飾が施された絵画である。

寒月 絹本着色 第6回文展出品最高賞 大正元年(1912)京都市美術館

森閑とした月夜の竹やぶ。降り積もった雪の上に足跡を残しながら、キツネが一匹、水を求めてさまよい出てきた。天敵に目配りしてか狷介(けんかい)そうな目であたりをうかがっている。六曲一双の左隻端が幾分かすんでいるのは雪がやみ切っていないのだろう。横長の画面を生かした構図と配置である。色彩に乏しいモノクロ画面のように見えて、竹幹や木々には青、緑、茶などの色料が薄く厚く筆跡を残して施され、見る角度によって鮮やかに浮かび上がる。林立する竹にはダークな絵具を使い、さえざえとした冷たさと孤独感を際立たせている。凛(りん)とした空気が漲る絵である。この作品が描かれた当時、日本の画壇に旋風を巻き起こしていたようだ。名指しで批判した文豪がいたという。夏目漱石である。夏目漱石は、次のように酷評している。(朝日新聞)「木島桜谷氏は昨年沢山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といい眼付といい、今思い出しても気持ちの悪くなる鹿である。今年の「寒月(かんげつ)」も不愉快な点においては決してあの鹿に劣るまいと思う。屏風に月と竹と、それから狐だか何だか動物が一匹いる。その月は寒いでしょうと言っている。所が動物はいいえ昼間ですと答えている。とに角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」この時代ならではの酷評である。たしかに漱石の指摘通り、この作品には月明かりによって竹に生じるはずの影がない。一つ一つの細部は写実的かもしれないが、合理性に欠ける。「日本画に西洋的リアリズムをなじませようとした矛盾がわざとらしい。そんな感じがして英国帰りの漱石の鼻についたのでは」(野地耕一郎・泉奥博古館分館長談)。桜谷本人は絵画の技量だけでなく、論も立つ文書家だったが、礎石に反論・抗弁した形跡はない。意に介さなかったのか、あえて無視したか。しかし、漱石の批判をよそに「寒月」(かんげつ)はこの年の第6回文部省展覧会(文展)で2等賞を取った。1等賞がなかったから、全国から出品された入選作186点中、事実上の主席であった。木島桜谷は文展が開説されて以来、上位入賞の常連だった。文展は第9回まで1等賞はない。1907年に開設された第1回では鹿の群れを描いた「しぐれ」で2等賞、第3回、農村の風俗を題材にした「和楽」で3等賞。第4回が騎馬武者の狩りにせまった「かりくら」で3等賞。第6回の「寒月」の2等賞を最後に、翌年から桜谷は36歳で審査員に回った。私は、この「寒月」の前の椅子に座り1時間ほど見せてもらったが、やはり明治時代の日本画の最優秀作品の一つであると実感した。漱石先生の酷評は、的を得ていないと実感した。

幽渓秋色 絹本着色 一幅    大正時代     京都府

紅葉する晩秋の渓谷で、絶壁の隙間から流れ落ちる滝が望まれる。雄大な風景のなか、前景の岩上に姿を見せた子連れの猿の一群が風情を添える。桜谷は若い頃から橋本雅邦に私淑しており、本作が雅邦の代表作(白雲紅樹)を彷彿とさせるのは偶然ではないだろう。壮年期に取り組んだ顔彩による油彩風のマチエール表現で、樹木の葉叢を点描で盛り上げる。その彩色層の厚さゆえに珍しく剥落が目立つ。

葡萄栗鼠(ぶどうりす)絹本着色  一幅         大正時代後期

鬱蒼(うっそう)と茂る葉影からたわわな美がのぞく葡萄畑に、一匹の栗鼠(りす)が現れる。たらふく食べた後なのだろうか、満足げに目を細め指先の手入れをする。葡萄は多く実をつけ、また栗鼠は多産の鼠に似ることから、ともに子孫繁栄の象徴として、古来から中国や日本で合せて描かれてきたが、桜谷は伝統の吉祥画を微笑ましい初冬の景に転換させている。桜谷の動物画の手腕が遺憾なく発揮されている。

獅子 絹本着色 一幅           昭和時代   桜谷文庫

桜谷は生涯に二度、獅子図を集中的に制作した。明治後期の30歳前後と、昭和初期の50台前半である。本作品は後者に分類される。生涯を通じて桜谷の獅子は顔を左斜め前に向けるが、表情は少しずつ変遷を遂げ、時には猛々しく、時には威圧的だ。しかし、ここではその雰囲気は払拭され、威厳をたたえつつ内省的で言い知れぬ哀愁すら感じさせる。朝鮮美術展覧会(1922~45)出品と伝えられてた。

角つぐ鹿紙本墨画 一幅 第13回帝展出品 昭和7年(1932)京都市美術館

山の斜面で苔むした木に角をすり付ける牡鹿。黄や赤に色づく木々の葉も残り少ない晩秋から初冬の景である。生え替ったばかりの豊かな冬毛もよく描かれている。中央の大木は今なお衣笠の自邸画室前に健在の唐楓、鹿は動物園や奈良公園のそれをモデルにたという。最晩年の第13回帝展出品作品である。桜谷は生涯を通じ鹿を多く描いたが、縦長の作品としては突出して大きい。この絵には下書きが、最近発見された。紙を貼って微細な試行錯誤が多数見られ、入念な構想の上で画面全体のバランスや奥行が表現されている。

秋野弧鹿  絹本着色  一幅   大正7年(1918) 泉屋博古館分館

古来、鹿はその姿や声に秋の到来、もの悲しさ、孤独が重ねられ、絵画化もされてきた。桜谷は鹿の図で青年期から一定の評価を得、生涯大小の作品を手掛けた。その多くは秋野を舞台とするが、ここでも縹緲たる草野でふと耳をそばだてる雄鹿の後姿を描く。桜谷の鹿図には背を向けたポーズが多多見られ、白い鏡毛に覆われた姿が愛らしい。少ない筆致で形態や質感を確実にとらえる。粗略に徹した草との対比、十分な余白をとった配置などバランスも秀逸である。なにより、ふと見返るまなざしの透明感こそ、桜谷の鹿の魅力であろう。

写生帳

桜谷が生涯何よりも大切にしたのは「写生」であったという。それを実証する大量の帳面類が、今日、桜谷文庫に遺される。その数674冊である。俗に「背丈まで積み上がるほどの写生をしたら一人前」と言われる日本画の世界だが、これらは桜谷の身長の倍は優に超えていた。特に「動物」の写生が多い。紙面類は写生以外に、古今の絵画を縮小して模写した「縮図」が含まれるので、正しくは「写生縮摸帖」と呼ぶべきであろう。体裁は和紙を綴じた手製のものと洋紙の規制スケッチブックに大別され、前者はさらに大小に分かれる。桜谷は自ら画塾を主宰するようになってからも、かっての塾友や弟子たちと鷹ケ峰、貴船、大原などに足を運び、道々の風景や建物、牛馬や鶏といった家畜などを素早く写しとっていった。奈良にもしばしば出かけ春日の鹿を写生している。生きた動物観察の場である動物園が京都に開設されたのは明治36年で、それ以後は虎、鹿、ライオン、鳥類などを求めてしばしば通った。桜谷は大正11年の入場優待券、いわゆる年間パスポートを贈呈されている程である。

 

木島桜谷(このしまおうこくー1877~1938)は、木島周吉とすえの次男として、京都に誕生した。本名は文次郎という。曾祖父の木島元常は狩野派の絵師吉田元陳の弟子で、寛政期の内裏造営障壁画制作にも参加した。祖父周吉は内裏に高級調度を納める有職舎を興し、父周吉(二代)はそれを継承したが、明治初年には店をたたみ、自適生活を過ごしていた。当時木島家は三条室町東入ル御倉町にあった。三条室町と言えば、染色商が集中する商業の町であり、同時に画家や学者なども多く住まう、京都の経済と文化の中心地であった。このような環境下で桜谷は幼い頃から絵が好きだった。京都の中京(なかぎょう)の商家のならいとして京都市立商業学校予科に進んだ。算術、簿記などには全く興味を持てずに明治25年(1893)、父が逝去。それを機に退学した。その年の12月、16歳の桜谷は父の知己であった今尾景年(1845~1924)の門をたたいた。今尾景年は円山派に南画を融合させた鈴木百年の弟子で、のちに帝室技芸員に任じられるなど明治・大正のの京都画壇の重鎮であった。その号「桜谷」は入門時に景年から授かられたものである。景年の塾では、師風を超えて個性のまま制作活動をすることを容認し、展覧会には多彩な作品が並ぶ稀有の画塾であった。桜谷自身も、景年が花鳥画や山水画をもっぱらとするのに反しして、歴史画に強く惹かれ、東京画壇の研究も行い、中世に取材する武者絵を展覧会に出品し、景年は温かく見守った。明治35,6年前後には桜谷は画家として独立し、37年11月まで生家からほど近い御池両替町角の借家に転居して龍池画塾を開いた。明治40年(1907)、文部省美術展覧会(文展)が始まる。初の公設展覧会の開催に東西画壇が大きく揺れる中、桜谷の「しぐれ」は二等主席に選ばれる。文展は9回まで一等は空席のままだったので、実質日本画壇の主席ということになる。以後、春には京都の新古美術展、秋には文展を両軸として大作を連続出品していく。題材は武者絵、農村風俗、動物、技法も水墨淡彩を基調とするものから濃厚な彩色を施すまで、毎年めまぐるしく変わり、二等、三等などを連続受賞した。第6回文展で第一席となった「寒月(かんげつ)」は、彩色と康生に独自の方法で挑んだ意欲作であったが、その表現と審査をめぐり大きな議論を呼んだ。夏目漱石が朝日新聞紙上で酷評したこと、また桜谷を擁す今尾景年と安田靫彦を推す大観とが審査会場で衝突したとも伝えられる。当の桜谷は黙して語らない態度を貫いた。その後、京都衣笠(きにがさ)に邸宅を新設し、後に「衣笠絵描き村」と称されるほど画家が集まってきた。今や画壇の頂点に立ちながら、帝展(文展改め)では審査員を務めながら、3回以降連続出品している。50代にさしかかった桜谷は、公務から身を引き、画壇のつきあいから遠ざかり、自邸にひきこもるようになった。ただ写生だけは続け、すでに功なり名を遂げた桜谷だが、この作品の夥しい下絵、写生からは、50代にしてなお、求道者として純粋な姿勢が介間見られる。昭和13年(1938)62歳で没する。何故、この木島桜谷という俊才を日本は忘れてしまったのであろうか?植田彩芳子。京都文化財博物館学芸員は次のように語っている。「記憶から遠ざかると、関連図書がなかなか出版されず、回顧展も開かれない。そうなると悪環境に入ってしまいがち。文展では東京画壇の気鋭、菱田春草と争うくらいだったのに、春草の光の当たり具合に較べると、桜谷は割を食っている感じです」

 

(本稿は、図録「生誕140年記念 木島桜谷展   2018年」、原色日本の美術「第27巻  近代日本画」、図録「日展  100年  2007年」、日本経済新聞社2017年10月15日、10月22日「忘れられた京都画壇の俊英木島桜谷」を参照した)

「東京⇄沖縄」展   沖縄ニシムイ美術村編

1930年代以降、沖縄と東京の画壇は、東京に学んだ沖縄出身の画家を通じて関係を深めていった。落合と池袋には、沖縄から上京し東京で絵を学ぶ画家や詩人が暮らしていた。沖縄の女性を多く描いた名渡山愛順、落合と池袋にともに棲みシュルレアリスムの影響を受けた山本恵一らである。彼らは戦後、今の那覇市の北東部、首里にニシムイに移り住み、戦争で壊滅的な打撃を受けた沖縄の美術運動を推進してゆく。1930年代に、沖縄を訪問する画家が急増する要因として、1937年に沖縄行きの航路が時間短縮されたことがある。沖縄は、観光地としても注目を集めるようになり、藤田嗣治や北川民治などの画家たちも沖縄に来た。そして1940年には、当時東京美術学校の学生であった野見山暁冶(のみやまぎょうじ)が、春休みを利用して赴いている。

孫 藤田嗣治作 油彩・カンヴァス 昭和13年(1938) 沖縄県立博物館

なかでも昭和13年(1938)の藤田嗣治の沖縄訪問は、地元紙「琉球新報」でフランス帰りの世界的な画家の来沖として連日、大々的に報じられた。藤田と沖縄を結びつけたのは南風原であった。南風原が同じ池袋モンパルナスに暮らす画家の竹谷富士雄、加治屋隆二を案内するために沖縄旅行を計画したところ、藤田が同行を申し出たのである。報道新聞によると藤田一行は同年4月27日から約3週間にわたって沖縄に滞在した。彼の滞在中には新聞社主催で講演会や展覧会が行われ、訪問は歓迎された。この「孫」は、沖縄特有の亀甲墓と年老いた女性とふたりの子供が描かれている。この作品に描かれた姉弟は南風原の子供達で、背景に描かれているのは南風原の妻の実家の墓だという。沖縄旅行から戻った藤田は、沖縄を題材にした作品を二科展に発表した。藤田の沖縄訪問は、日本各地の風物を描いた藤田に新たな画題を与えたと同時に、沖縄の画家たちにとっても「沖縄」を再発見するきっかけとなった。

沖縄風景 北川民治作 油彩・カンヴァス昭和14年(1939)沖縄県立博物館

北川民次は大正2年(1913)にアメリカに渡り、アート・スチューデンツ・リーグに学んだが、メキシコ革命後の壁画運動に参加し、13年間をメキシコ美術運動のなかで生活し、メキシコ美術史のなかに記録される画家となっている。北川は1930年代末頃に沖縄を訪れ、この「沖縄風景」や「海王丸ニテ」などを制作している。

沖縄の女 名渡山愛順作油彩・カンヴァス昭和31年(1956)沖縄県立博物館

沖縄は1944(昭和19)年の十・十空襲により壊滅的な状態となり、多くの住民の命が奪われ、那覇市の市街地では建物の9割が破壊された。1945年1月には沖縄本島に上陸し、その後、住民を巻き込んだ地上戦があった。その直後から、沖縄は米軍の占領下に置かれるのだが、海軍が文化人類学的視点を重視し、沖縄の文化芸術は早くから保護される対象となった。彼らは沖縄の伝統文化を高く評価し、美術展覧会や舞踊公演、残された文化財を集めた博物館の設立などに尽力した。山元らを中心に「沖縄美術家協会」が結成され、画家たちは自立の道を探ることになる。1948年に文化部が解消されることもあり、彼らは東恩納を離れニシムイ美術村を新たに設立した。かっての首里城下に位置する、米軍の”ゴミ捨て場”になっていたニシムイと呼ばれる地域にニシムイ美術村を建設することにした。東京美術学校を卒業した名渡山愛順は1950年に沖縄女性を描き始める。その一つが、この「沖縄の女」である。

若衆こてい節 名渡山愛順作 油彩・カンヴァス 昭和45(1970)個人蔵

沖縄の伝統と文化を残すために描いた作品だろう。

貴方を愛する時と憎む時 山本恵一作 油彩・合板 昭和26年(1951)沖縄県立博物館

ニシムイ美術村の画家たちは、自身の活動に止まらず、広く沖縄の美術文化の発展にも貢献した。現在に続く沖縄美術展覧会は、沖縄における美術文化振興を目的に「沖縄タイムス」の創刊1年の紀念事業として始まった。山元の「貴方を愛する時と憎む時」は、昭和26年(1951)の第3回出品作品である。この作品は、この展覧会での優秀作品を決める投票で、専門家投票の第1位を獲得した。廃墟を背負いながら明日へと歩み出す沖縄の戦後を象徴する代表作である。

塔 安谷屋正義作 油彩・砂・カンヴァス昭和33年(1958)沖縄県立博物館

安谷屋の作品もまた、1954年頃から形が単純化されていく。壺や人物などが輪郭だけで表現され半抽象的な画風へと展開する。さらにその輪郭線を追求した作品が第1回創斗会で発表した「塔」である。熱心なキリスト教徒の両親を持つ安谷屋は「バベルの塔」のイメージを重ねながらこの作品を完成させた。「塔」を発表し以降、安谷屋は軍艦や軍港などの直線的で無機質な人工物をモチーフとして選択した。

望郷 安谷屋正義作 油彩・カンヴァス 昭和40年(19659沖縄県立博物館

さらに1960年代に入ると、安谷屋の作品において基地が重要なテーマとなる。”望郷”には、基地の歩哨に立つひとりの米兵が描かれている。妻の節子の回想によると、安谷屋は昭和42年(1967)まで、太平洋戦争で召集され兵隊だった頃の夢を見ており、机の上にも「直立不動の兵隊の姿や軍艦らしきもの」も描き残されていたという。戦争によってあらゆる文化財を失った上に、彼の言葉を借りれば「歴史的、地域的重荷」を背負った沖縄の複雑な立場が安谷屋の作品の中には表現されている。

 

本展のタイトルである「⇄」は、沖縄から東京へ絵を学ぶために上京した沖縄出身の画家たちや東京から画題を求めて沖縄へゆく画家たちの物理的な行き来に加え、上京した画家たちや詩人が故郷沖縄を見つめ、帰郷した画家が再び東京の画壇を通じて自らの絵画を問い直すというふたつの場所の行き交う想いも同時に示している。戦前から戦後にかけて東京と沖縄の、戦争と占領により混乱が生じ、自由を剥奪された時代にアトリエ村の画家たちがどのように対峙したのか、今後も解明が進められるべき課題であろう。「沖縄と占領(基地の残存)」という問題は、極めて今日的な課題であり、安谷屋の「望郷」は、極めて今日的な課題を描いた作品であり、”ずしり”と心に響く名作である。

 

(本稿は、図録「東京⇄沖縄展 2018年」、図録「名品選 東京国立近代美術館」、図録「近代日本の美術  東京国立近代美術館」、神奈川県立近代美術観コレクション選 絵画 明治から1960年まで」を参照した)

 

 

 

「東京⇄沖縄」展   池袋モンパルナス編  

画家たちが住んだ芸術村というと、パリのモンパルナスやモンマルトルが有名であるが、日本の画家で良く知られた場所に、東京の落合と池袋がある。後者は「池袋モンパルナス」と呼ばれ、その研究が今も進む。東京の板橋区立美術館で「東京⇄沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ村」展は、この落合と池袋というアトリエ村と沖縄の古都首里に生まれたニシムイの芸術家村の密接な関係を解き明かす展覧会である。展示はまず落合から。渡欧前の1920年代はじめ落合に新居を建てた佐伯祐三や、松木俊介など、戦前の落合丘陵には、日本美術史を飾る数々の俊英が居を構えた。

下落合風景(テニス) 佐伯祐三作 油彩・カンヴァス 大正15年(1926)新宿区

和様折衷の邸宅の並ぶ落合の風景を描いたのは佐伯祐三である。彼は大正10年(1921)に知人を通じて落合に土地を入手し、アトリエを新築した。フランスと日本を行き来しながら制作を続けた佐伯がこのアトリエで過ごしたのは4年足らずの間であったが、ここでは「下落合風景」の連作を完成させている。本展出品の「下落合風景(テニス)」は、「目白文化村」にあったテニス場が描かれている。住宅に囲まれたテニスコートの踏みならされた赤土の地面が、佐伯特有の筆遣いで生き生きと再現されている。佐伯はパリの街角と同じように、落合の住宅地を興味深く繰り返し描いた。

郊外  松本俊介作 油彩・板 昭和12年(1937) 宮城県美術館

松本俊介は昭和11年(1936)、結婚を機に落合に暮らし始めた。この頃、松本は二科展に入選した若手画家であったが、その後の彼の代表作の多くは落合のアトリエで生まれている。緑に囲まれた洋館の前に子どもたちや犬が遊ぶ情景を描いた、この「郊外」は、彼の暮らす落合をモチーフにしたと言われている。「N駅近く」(1940年、東京国立近代美術館)や「立てる像」(1942年、神奈川県立近代美術館)をはじめ、この界隈の景色を利用した作品は複数あり、落合の地は松本の創作の発想源となった。

顔(自画像) 松本俊介作 油彩・板  昭和15年(1940)個人蔵

落合時代に描いた松本の自画像である。この頃、並行して発行した総合文化雑誌「雑記帳」では、林文子をはじめ落合の隣人に原稿を依頼していたが、やがてこの雑誌も資金難で廃刊したが、本格的な戦争に入る直前のささやかながらも存在した、知識人たちの交流の場であり、その雰囲気は落合と重なる。

新宿風景 長谷川利行作 油彩・カンヴァス 昭和12年(1937)頃 東京国立近代美術館

長谷川俊行は、画家達を訪ねて池袋に出没した。彼は、本作「新宿風景」をはじめモダンな東京の街の光と影を描き、それらの作品は二科展などで高く評価されていた。芸術と酒を愛し、地位や名誉、身なりなどに構うことなく、ひたすら絵画に情熱を注いだ長谷川は、池袋の若手画家たちに作品共々一目を置かれていたが、自己破滅型の画家であり、太平洋戦争開戦1年前の昭和15年(1940)に亡くなった。

野菜と果物 南原風朝光作油彩・カンヴァス昭和15年(1940)沖縄県立博物館

南風原は、日本美術学校に学び、1930年代中頃から池袋の住人となった。「野菜と果物」は池袋で制作された。昭和15年(1940)に行われた紀元二千六百年奉祝美術展覧会で入選した作品である。この作品は、机の上に洋ナシや栗、かぼちゃが並んだ静物画で、その奥には群青色の海原と空が広がっている。艶やかな野菜と果物の色彩は、沖縄の紅型などを思わせる。また背景に広がる海は東京と沖縄、そして家族の暮らす台湾を行き来した南風原の源風景のようだ。夜になると南風原は「珊瑚」等池袋駅周辺の泡盛の店に現れた。

グラジオラス 靉光作 油彩・板 昭和17年(1942)頃 横須賀美術館  鳥     靉光作 油彩・カンヴァス 昭和17年(1942)頃宮城県美術館

かって池袋モンパルナスにあったアパート「培風寮」に暮らしていた頃の靉光(あいみつ)は、部屋に切株や死んだ雉などのモチーフを持ち込んで繰り返し描き、絵画の発想源とした。彼は日本画に宋元画の技法を取り入れ、薄塗りした絵具や線を重ね合せることにより「グラジオラス」や「鳥」のように繊細であると同時に色彩もイメージも重層的な画面を作り上げた。靉光の作品や制作方法は、寺田や麻生をはじめ周囲の画家たちを刺激し、彼らは競うように日本のシュルレアリスム絵画を模索した。しかし、シュルレアリスム運動は、その発祥の地であるフランスで共産主義思想と接近していたため、日本でも共産主義と結びつけ考えられるようになった。日本におけるシュルレアリスム絵画の先駆者とされた福沢一郎を代表に靉光や井上や寺田らをはじめシュルレアリスムに関心を持つ画家が多く参加したため、思想を取り締まる特別高等警察より要注意団体として監視されていたそうである。日本のシュルレアリスムびは政治的な主義主張はなかったが、1941年4月に福沢が治安維持法違反の容疑で逮捕された。この一部に、池袋モンパルナスに暮らす画家たちは動揺した。同年11月に福沢は釈放されるが、美術文化協会は「国民美術の創世」を宣言し、会員たちはシュルレアリスム絵画の発表をしないよう通達がなされた。

女 吉井忠作 油彩・カンヴァス 昭和15年(1940) 宮城県美術館

日本におけるシュルレアリスムの流行と並行して1930年代の中頃より、画家たちが関心を寄せたのは、アヴァンギャルドとは対極にあるような古典絵画であった。池袋モンパルナスに暮らしていたこの「女」吉井忠作は、古典中の古典、レオナルドダヴィンチの「モナ・リザ」の構成と似ている。大地を背景に4分の3正面で描かれている点において、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の作品の影響を指摘できる。

自画像 靉光作 油彩・カンヴァス 昭和19年(1944)東京国立近代美術館

1946年(昭和21)に、上海で戦病死した靉光(あいみつ)の自画像である。この自画像が、暗い時代に意志を持って生きる画家の心象風景が浮かび上がる名作である。戦時下の池袋モンパルナスで誕生した象徴的なグループの一つに「新人会」がある。この会は昭和18年(1943)に麻生三郎、井上長三郎、寺田政明をはじめとする池袋の住人を中心に靉光、糸園和三郎、松本俊介など8人により結成された。新人会展で、松本俊介も「Y市の橋」、麻生三郎の「うつぶせ」、靉光の「自画像」などが、戦意高揚画一色のなかで、あまり紹介されることのなかった身辺の家族の姿といった日常的な作品が発表された。

 

戦前、腺中の暗い時代に描かれた絵画の中でも、比較的戦時色の無い絵画が集められた展覧会であった。戦争中の画家たちのため、若くして死んでいった人たちの作品もあり、よくぞこれだけの作品を集めたものだと感心した。板橋区立美術館へは、初めて訪ねてみたが、立派な図録を作り、過去の展覧会の図録や絵葉書も安くして売っていた。東京の展覧会の会費や、図録、絵葉書が高騰し、求め難い時代になったが、ここでは極めて良心的な価格で、区立美術館が維持されていることに感心した。板橋区に住む住人と思われる人たちが多数展覧会に来ていた。これら住民の支持の中で成り立っているのであろう。今後も出来るだけ区立美術館、市立美術館を訪れ、地域の美術館を応援していきたい。今回は、松本俊介、靉光など、通常滅多に見られない絵画を、これだけ多数、良くぞ集まったものだと感心した

(本稿は、図録「東京⇄沖縄  2018年」、日本経済新聞社2018年3月7日「芸術家村の不思議な関係」、図録「名品選 東京国立近代美術館のコレクション」、図録「神奈川県立近代美術館コレクション」を参照した)

 

至上の印象派展  ビューレル・コレクション  ポスト印象派編

印象派と呼ばれた中から、いろいろなグループが生まれた。本稿では、ポスト印象派として点描派、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギヤンを取り上げる。3人の共通点は無いが、時期的に印象派の後を継ぐ世代であり、一般的に後期印象派と呼ばれることが多いから、このような区分を採用した。ビューレル・コレクションでは、この後、フォーヴィズム、キュビズム等と呼ばれる前衛画家が大勢出てくるが、「至上の印象派展」には、馴染まない前衛画家は省略をして、まず新印象派(別名 点描派)の登場は、1886年に開催された最後の印象派展においてであった。新印象派の代表的な画家はスーラーやシニャックであった。彼らは、揺れる水面や陽光の移ろいを捉えた印象派の作品に影響を受けた。スーラーが新印象派の記念碑的な大作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を描いたのは1884年であった。またオランダ出身のフィンセント・ファン・ゴッホは、1888年のパリ滞在で、印象主義、新印象主義を知り視覚と技法を一新して強烈な色彩による感情表現への道を歩み始めた。ゴッホとアルルで共同生活に失敗したポール・ゴーギャンは印象主義の感覚主義的な現実描写に対して明快な反対を掲げ1888年にいわゆる総合主義の様式を確立した。従って、この3人を「ポスト印象主義」で一括りすることには無理があるが、あえて、「ポスト印象派」としてまとめてみた。

ジュデッカ運河 ヴェネツィア、朝 ポール・シニヤック作 油彩・カンヴァス 1905年

シニヤックは、1880年にパリで開催されたモネの展覧会を見て画家になることを決意した。間もなくモネやシスレーの影響を感じさせる風景や静物を描き始める。1884年無審査、無償を原則とする新しい展覧会サロン・デ・ザンデパンダンの創立会員となり、「アニエールの水浴」を出品したスーラーと出合う。この作品の点描技術に魅せられたシニャックは、スーラーと共にその理論の研究を更に深め、1886年までには科学的色彩理論に立脚した完全な点描によって作品を制作するようになった。この頃、美術批評をするフェリックス・フェネオンと出合い、彼はスーラーとシニヤックの試みを「新印象主義」と名付け、熱烈に擁護した。シニヤックは終生、新印象主義の理論に忠実で、晩年になるまで点描を続けた。絵画と並んでシニヤックが情熱を傾けたのは船旅であり、ヨットの操縦であった。ヴェネツィアの景勝地を描いた作品も、そういった旅の成果の一つである。画面中央に聖堂をどっしりと配し、手前の運河には何艘ものゴンドラやヨットを浮かべた風景は、大きな点描で埋め尽くされ、まるで空間全体が揺らいでいるように、あるいは靄に包まれているように見える。しかも白い色調で統一されているために奥行きや立体感も稀薄になり、画面が限りなく平面化に向かっている。

古い塔  フィンセント・ファン・ゴッホ作 油彩・板に貼られた紙カンヴァス 1884年

ファン・ゴッホ(1853~1890)の「古い塔」は、1883年12月に両親の住むニューネン(オランダ)に移り住み、以後2年間をこの地に住んだ。「古い塔」は、このニューネン滞在期に描かれた作品である。画家は1884年5月にニューネンの教会堂を管理していたヨハネス・シャフラーから部屋を借り、そこを制作の場としていた。自作の絵画や素描に加え、モデルに着せるための衣装などさまざまな物にあふれたアトリエからは、15世紀末ごろに建てられたとされる廃墟となった教会を目にすることができ、ファン・ゴッホはこの古びた塔を繰り返し画布に留めた。本作品では廃墟となった塔が中心的モチーフとなっている。画家は「古い教会の塔、ニューネン(農民の墓地)」では、この塔の屋根が崩れ落ちた状態を描いている。つまりファン・ゴッホが描きたかったのは、朽ちて行く教会、宗教と、永遠に続く生のいとなみの対比である。人間が作り上げた制度としての教会や宗教はいずれ朽ちていくが、神はなくならない、そして農民のいとなみもなくならない。

自画像 フィンセント・ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1887年

1885年3月、父のテオドルスが急死すると、周りの人々との関係も悪化し、ファン・ゴッホは、ベルギーのアントウェルペンに向かった。翌1886年1月、アントウェルペンの王立美術学校アカデミーに登録し、人物画及び石膏像の素描を学んだ。しかし、ベルギーでの生活も長続きせず、1886年2月末、ファン・ゴッホは弟テオのいるパリに移った。オランダ時代のファン・ゴッホは、バルビゾン派の画家達に大きな影響を受けていた。とりわけ、ジャン・フランソワ・ミレーに深い感銘を受け、ミレーと同じく、暗めのトーンを支配する画面の中に労働に謹み、慎ましやかな生活を営む農民の姿を数多く描いた。パリに出て直ぐに通い始めたフェルナン・コモンの画塾では満足した指導は受けられなかったものの、エミールベルナールやトュールズ=ロートレックら若き画家たちに出会い、芸術について議論し、刺激を受け合った。この時期、オランダ時代の暗い色調を放棄し、明るい色彩を取り入れるようなった。さらに、第8回印象派展を目にする機会にも恵まれた。この時期の印象派展にはルノワール、シスレーらは不参加で、代わりにジョルジュ・スーラーやポール・シニャックら新印象主義の画家が参加していた。新印象派の絵画から色彩対象の方法を深く理解するに至った。また、日本の浮世絵との出逢いも大きな影響を与えた。パリでの生活が2年目を迎えた頃に描かれた本作品では、ファン・ゴッホが色彩への新たなアプローチを試みたことが窺える。画家の背景は、緑、橙、水色の短い線で塗られ、互いの色彩が混ざり合うことなくその明度を保っている。ジャケットの襟の緑の縁には、ピンクの点を配し、茶色との対比でよりいっそう明るさを主張している。パリ滞在中、ファン・ゴッホは30点近くもの自画像を描いたとされる。

アニエールのセーヌ川にかかる橋 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1887年

1886年にパリに出ると、ファン・ゴッホは印象派の絵画を目にする機会に恵まれた。他の印象派作家と同じように、戸外での制作に取り組むようになった。1887年の夏には、19世紀産業革命によって労働者が増加し、余暇を過ごす場所もできた。パリ光背のアニエールに足を運び、日の光を浴びる風景を描いた。この「アニエールのセーヌ川にかかる橋」に描かれた鉄橋や紅い蒸気船は、近代を象徴するモチーフである。画面奥に描かれた橋の更に奥には、煙を出す工場の煙突が描かれており、郊外の工業化を示す印でもある。アニエールでの制作は、色彩の表現を研究していたファン・ゴッホにとって満足の行く成果を上げていたようだ。ピンクのドレスを身に付けた女性の持つパラソルの赤と川面を彩る青と黄色など、印象派の絵画とは一線を画すファン・ゴッホ独自の色彩表現が綿密な構図の中に発揮されている。

日没を背に種まく人 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1888年

1888年11月21日に弟テオの宛てた手紙の中で「太陽のような、巨大なレモン色の円盤がある。黄みどりの空にはピンク色の雲がある。地面は菫色だ。種まく人と木はプルシャン・ブルーで大きさは30号だ」と画家が記した作品こそ、ミレーの「種まく人」に想を得て制作された本作品のことである。また、画家は本作品と類似する「種まく人」(ファン・ゴッホ美術館蔵)も制作している。それはサイズを小さく、より激しい色使いと筆触の粗さを特徴とする。(昨年の「ゴッホ展~巡りゆく日本の夢」に出品されていた)本作品には長年のミレーへの敬愛が明確に表れている一方で、アルル時代の画家の関心が認められる。前景には濃紺で描かれた人物が、背景には黄緑色の空にに黄色い夕日が大きく描かれ、色彩の対比は各モチーフの存在をよりいっそう際立たせている。太いリンゴの木は、画面を分断しているが、この構図は日本の浮世絵から借用したものであろう。

二人の農婦 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァスに貼られた紙 1890年

1888年12月23日、ゴーギャンとの関係が悪化し、精神障害の激しい発作を起こしたファン・ゴッホは自らの耳を切り落す事件を起こす。アルル精神病院での療養で肉体的には回復したものの、この頃からゴッホは、激しい発作に見舞わらるようになり、自身でも精神の崩壊を危惧し始めた。事件の翌月の1月には退院して制作を開始するが、発作を繰り返し、自ら申し出てアルル北東のサン・レミにあった精神病院に入院している。修道院の経営する病院であったが、精神医学の未発達であった当時、この種の病院の実態はむしろ監獄に近かったのでは無いだろうか。本作品は1890年の春に制作された。画面には雪の残る畑で農作業に勤しむ二人の農婦が描かれている。病院の個室の窓から外の景色を眺める日々を送る中で、弟テオから送られたミレーの複製画をもとに故郷のオランダで目にした勤勉な労働者の姿を描くようになった。本作品はそのうちの一つで、ミレーが1857年に描いた「落穂拾い」(オルセー美術館蔵)に想を得て制作された。本作品では、雪の間から緑の葉をつけた作物を掘り起こそうとする農婦が描かれている。厳しい自然の中で、懸命に労働に向き合う農婦の姿を描くことで、ファン・ゴッホは画面に故郷へのノスタルジックな想いを込めたのである。このサン・レミのタッチの渦巻く空の雲は、正にサン・レミのゴッホのオリジナルな渦巻く雲である。

花咲くマロニエの枝 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1890年

サン・レミとオーヴェル=シュル=オワーズで過ごした最晩年の時期、ファン・ゴッホは、草花や昆虫、樹の枝などの自然のモチーフを描くことが多かった。セーヌ川の支流のオワーズ川沿いの小さな村で、ファン・ゴッホは命を絶つ寸前まで制作に意欲を燃やし、わずか2ケ月に70点もの作品を制作した。この「花咲くマロニエの枝」は、オーベル=シュル=オワーズで制作されたファン・ゴッホの最晩年の作品の一つである。この作品は、ファン・ゴッホがこの段階に至ってもなお、新印象主義のスタイルを独自に発展させていたことを示している。画家の死後、弟のテオは本作品をポール・ガシェ医師に寄贈した。ガシェ医師はファン・ゴッホがオーヴェールに移住してからすぐに親しくなった素人画家で、絵のモデルも務めた。また、同時代の画家の作品を蒐集したことで知られており、ファン・ゴッホの作品も多数所蔵していた。ビューレル・コレクションには7点ありファン・ゴッホの作品の中で唯一の花の絵画である。

肘掛け椅子の上のひまわり ポール・ゴーギャン作 油彩・カンヴァス1901年

ひまわりは、ファン・ゴッホとゴーギャンを結びつける重要なモチーフであった。彼らがパリで出合った時に、ゴーギャンはファン・ゴッホが描いたひまわりのある静物画を称賛し、その小品2点と自身の作品と交換する。またゴーギャンがアルルにやって来ることになった時、ファン・ゴッホは共同生活を送る「黄色い家」を絵画で飾ることを企てて「ひまわり」の連作を制作し始め、ゴーギャンを迎える準備を整えた。さらに、ひまわりが置かれた肘掛け椅子もまた、ゴーギャンにとってダン・ゴッホとの思い出に欠かせないものであった。ファン・ゴッホはゴーギャンと共同生活を送るために、「黄色い家」のために、用意した豪華な肘掛け椅子の方をゴーギャンに差し出し、自らは簡素な藁座面の椅子を使用した。本作には当然ながらこうした経緯が含まれており、ゴーギャンは椅子に自分のサインを入れて自身の分身のように扱い、まるで肘掛け椅子(ゴーギャン)がひまわり(ファン・ゴッホ)を抱くようなかたちで描いている。これらのひまわりのある静物画が完成したのは、ゴーギャンが亡くなる2年前のことである。かれは晩年に懐かしい記憶の糸をほどきながら、すでに亡き友人に思いを馳せて、これらの作品を描いたのであろう。

贈りもの ポール・ゴーギャン作 油彩・カンヴァス  1902年

1891年4月、ゴーギャンは文明化された社会から逃れるために、フランスを離れ、タヒチに向かった。その2ケ月後、首都のパペテーに到着するが、そこには植民地化された町並みであり、失望感を覚えた。その後、ゴーギャンはパペーテから80キロほど離れたマタイエアに移り住み、現地で出合う人々やその暮らしの様子を鮮やかな色彩によって想像を交えて描き、幻想性あふれる作品を数多く生み出していった。その後、1893年9月に再びタヒチに戻った。1901年9月16日、さらなる野生の残る地を求めて、マルキーズ諸島のヒヴァ・オア島に移り住み、最晩年の時を過ごした。この「贈りもの」は、このマルキーズ諸島在住中に描かれた作品である。本作品には、ヒヴァ・オア島で出合った二人の女性が描かれている。彼女たちが佇む小屋の窓からは、別の小屋の屋根が見える。つまり、ここでゴーギャンが描いているのは2階建ての小屋の2階に当たる場所で、画家自らが「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の家)」と呼んだ建物の一室である。画面左の女性が花を手に持ち、隣の赤子を抱いた女性に差し出そうとする儀式的な場面、物静かで穏やかな物腰、生まれたばかりの乳児が母親の腕の中に身を委ねる姿勢からは、1901年に制作された「黄金色の女たちの肉体」(オルセー美術館蔵)に通じるような楽園の雰囲気が醸し出されている。新しい生命の誕生を祝うこの光景には、キリスト教美術の図像は描かれていない。しかし、キリスト教絵画の聖母子像の伝統に連なっていることは明らかである。マルキーズ諸島には、生命の誕生を祝うために人々は花を贈る伝統があり、本作品での姿に西洋の祈りのポーズが重ねられている。本作品ではとりわけ女性の肌の表現に画家の関心があることが窺える。

 

今日、ファン・ゴッホとゴーギャンを印象派の画家と呼ぶことは全くない。ポスト印象派と呼ばれることが多い。実際にゴーギャンは、第4回印象派展から5回に亘り印象派のグループ展に参加し、批評家からも印象派と見られた時期がある。それに対し、ゴッホは、最後となる第8回の印象派展を観たとき「不完全で、見苦しく、ひどい描き方」と酷評したが、その後いくつかの展覧会で目にするうちに、次第に称賛へと変わり、印象派の画家は「眼に触れるすべてのものを、画壇で名を馳せている多くの大家より見事に描ける」と評するほどになった。一方、1870年代からパリに暮らしたゴーギャンは、絵筆を執り始めた頃から印象派の作品に親しんだ。株式仲買人として成功した時期には、自らも同時代の作品を取集した。かつゴーギャンは技術や表現だけでなく、印象派の画家を巡る社会的評価にも注目していた。一方、ファン・ゴッホは、印象派を二つのカテゴリーに分けていた。既に評価を得て、大通りに位置する画廊で作品を展示及び販売できる画家とみなした。エドガー・ドガ、モネ、ルノワール、シスレー、ピサロなどを彼は「大通りの印象派」と呼んだ。一方、まだそれほど売れていないスーラー、ポール・シニヤック、ゴーギャン、ロートレック、エミール・ベルナールたちを、彼自身を含め「裏通りの印象派」とした。1888年4月3日頃の弟テオに宛てた手紙で、「ぼくはまさに”裏通りの印象派”で、今後もそのままありたいと思っている」と述べている。一方、ゴーギャンは、かれが疑いなく印象派から多く学んだうえで、新しい表現を獲得していく様に端的に示している。「大通りの印象派」の画家とその作品は彼にとって憧れ、学ぶ対象であると同時に、ファン・ゴッホが「裏通りの印象派」であり続けたいと述べたように,彼ら自身の表現を展開していく足掛かりとなるものであった。

 

(本稿は、図録「至上の印象派展 ビューレル・コレクション 2018年」、図 録「ゴッホとゴーギャン展  2017年」、図録「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢 2017年」西岡文彦「謎解きゴッホ」、国府寺 司「ゴッホ 日本の夢に掛けた芸術家」を参照した)

至上の印象派展  ビューレル・コレクション  印象派編

ビューレル・コレクションは、スイスの実業家エミール・ゲオルク・ビューレル氏(1890~1956)によって収集されたもので、印象派絵画を中心とした、約600点の西洋美術からなるプライベート・コレクションである。彼の興味はフランス印象派にあったが、印象派のルーツを探るために、16世紀から18世紀のオランダ絵画やヴェネツイア派の絵画などを積極的に購入するだけでなく、印象派の理解を深めるために、ナビ派、フォーヴィスム、キュビスムなど、1900年以降のフランス前衛絵画を買い求め、世界でも稀にみるコレクションを形作っていった。2008年に盗難事件にあい、美術館が閉館されたため、以降このコレクションの全貌を確認できる機会は失われた。2020年にこのコレクションは一括してチューリッヒ美術館に移管されることになった。従って、ビューレル・コレクションを楽しむ機会は、日本のこの展覧会が最後となるであろう。今回の展示作品は、64点で、16世紀から18世紀のオランダ派やヴェネツィア派、印象派、ポスト印象派、更にナビ派、フォーヴィズム、キュビスムなど、1900年以降の傑作も多数含まれているが、「至上の印象派展」の名前に惹かれて拝観した美術展であるので、印象派、ポスト印象派に絞って紹介することにした。結論として「至上の印象派展」になったことは、非常に嬉しく、かつ心の癒しとなった。是非、拝観されることをお勧めする。

ベルヴェの庭の隅 エドュアール・マネ作 油彩・カンヴァス  1880年

明るく光に満ちた画面を特徴とする本作品は、晩年のマネが印象派の画家達に影響を与えたことを示している。1874年8月、マネはアルジャントュイでモネとルノワールと一緒に絵画制作に励んだ。この時、マネは戸外での制作を決定的に受け入れるようになった。細かいタッチを重ねて、明るい画面を作り出すモネの影響を受ける一方で、マネは風景を描くよりも人物を研究することに関心を向けたのだった。そして、モデルや友人を自然の中に配して、中心となる人物が周辺の風景と一体化する場面を作り上げることを目指したのである。本作品でも、マネは読書に没頭する紺色のジャケットを着たマルグリットを、鑑賞者のまなざしが向くように画面中心に据える一方で、彼女が周囲の花や草木と調和するように細かいタッチを巧みに用いている。光と鮮やかな色彩にあふれた本作品は、若き画家たちとの交流を示している。通常、マネは「印象派の父」と呼ばれているが、ただの一度も「印象派展」に出品したことは無かった。マネの本心は印象派に無かったのではないだろうかと私は思う。マネの「印象」は、現代人の心に潜む闇を描きだそうとしたのではないだろうか?

ヴェトュイユ近郊のヒナゲシ畑クロード・モネ作油彩・カンヴァス 1879年頃

マネに対し、モネこそ心底からの「印象派主義者」であったと思う。1870年代後半、モネはさまざまな困難に見舞われていた。1877年には最愛の妻カミューユの健康状態が悪化し、1878年にはパリから約60キロ離れたヴェトュイユに移住した。それから1年後に、カミーユは32歳の若さで亡くなった。ヴェトュイユの生活は1881年まで続いた。モネはヒナゲシ畑のその奥に広がる街の光景が見渡せる場所にイーゼルを立て、細かいタッチによってヒナゲシの花を生き生きと描き出している。その繊細な筆の動きは、奥に見える街の風景と明らかに異なっている。モネは燃えるようなヒナゲシ畑の広がるヴェトュイユの風景を描きだした。自然の光景の中に女性や子どもを描くのは印象派絵画の典型例であり、ここでもモネは人物(大人1人、子供3人)を描いている。ヒナゲシの花束を抱える白いドレスを着た女性は、臨終間際のカミューユと見做すことは出来ず、女性の右側に描かれた二人の男児に関しては、その年齢から考えるとモネの二人の息子(ジャンとミシェル)が描かれたと考えるのは不自然で、むしろ描かれた女性はアリスで、少年たちはアリスの息子で、この頃6歳と2歳の子供の可能性が高い。

ジヴェルニーのモネの庭 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス  1895年

1880年6月にラ・ヴィ・モデルヌ画廊で開いた個展が好評を博し、その後作品が売れるようになった。経済的な余裕を得たモネは、夫と離別したばかりのアリス・オシュデとその子供たちと暮らすことを考え、1883年4月にジヴィエルニー移って9,600平方の広さを誇る敷地を借りた。そして7年後の1890年11月、モネはジヴェルニーに家と土地を購入し、その庭を自らが思うように手を入れることに専心するようになっていった。モネは絵の知識を生かし、光と影が差す場所を計算しながら広大な土地に色とりどりの花々が咲き誇るように庭を造成した。1892年、その前年に未亡人となったアリスと正式に結婚した。本作品はジヴェルニーの家の前にある「クロ・ノルマン(ノルマンディーの囲いの庭)」の光景が描かれている。アリスの息子ジェルメールの記憶によれば、青いブラウスに赤い上着を重ね、麦藁帽子を被る赤毛の女性は、アリスの連れ子の中でも特にお気に入りのモデルであったシュザンヌである。光りを浴びてアイリス、シャクヤク、ゼニアオイ、バラ、フジによって彩られた「クロ・ノルマン」を描くにあたって、画家は抑揚のある筆致を重ねている。ダリアに手を触れるシュザンヌはその存在を主張することなく、万華鏡のように輝きながらさまざまな色彩に埋め尽くされる風景の中にみごとに溶け込んでいる。

陽を浴びるウオータール橋、ロンドン クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1899年

普仏戦争が勃発した1ケ月後の1870年8月、モネは徴兵を逃れるためにパリを離れ、ロンドンに向かった。ロンドンではシャルル=フランソワ・ドビーニから画商デュラン=リュエルを紹介され、それ以降ドュラン=リュエルはモネをさまざまな形で支援していく。ロンドン滞在でポサロとともにジョゼフ・マロード・ウイリアム・ターナーやジョン・コンスタンブルの作品を積極的に見て回った。1871年1月普仏戦争の休戦協定が結ばれ、同年秋にモネはフランスに戻った。モネは、その後ロンドンを数回訪れている。とりわけ1899年、1900年、1901年の3回の滞在では、国会議事堂、ウォータール橋、チヤーリング橋という大きな建造物を主要なモチーフとする連作を制作した。ロンドン連作は円熟期を迎えたモネの代表作であり、1904年にデュラン=リュエル画廊で37点が公開された。この「陽を浴びるウォータール橋、ロンドン」は正に一連のロンドン連作に属する作品である。モネはテムズ河畔のサヴォイ・ホテルの部屋から見える光景を画布に留めた。画面の中心となるのは1871年に開通したウォールタール橋で、画面右手前には帆船が描かれている。モネはロンドンの近代化を象徴する建造物をモチーフとしながらも、橋の堅牢な構造を感じさせることなく、光が反射する水面と霞(かすみ)が織り成す幻想的な世界を軽やかな筆触によって描き出している。

控室の踊り子たち エドガー・ドガ作 油彩・カンヴァス 1889年頃

ドガの関心は、競馬と踊り子であった。オペラ座の定期会員であったドガは、その舞台裏にも足しげく通い、稽古場の控室の様子を積極的に描いた。また、ドガは踊り子たちが置かれた社会的状況をも示していた。「エトワール」(オルセー美術館蔵)では、舞台上で可憐に舞う踊り子を舞台袖から見つめる黒いタキシードの男性を描き、若い踊り子が娼婦と変わらず、性的な対照として欲望される存在であったことを示している。ドガが踊り子を主題に作品に取り組むようになったのは、1872年頃からである。1870年代後半から横長の画面の中に稽古場の踊り子を描くことを試みる。ドガは、人物の左右のいずれかに集めて描くようになり、時には画面に深い奥行き感を作り上げていた。本作品では舞台の控室で準備をする踊り子たちの様子が描かれている。横長のカンヴァスが使用されているが、画面のトーンが全体的に暗く、群像が画面の大半を占めているため、ここでは奥行の表現は曖昧にされている。絵具は素早く粗いタッチで塗られている。この筆の運びにより人物の顔はぼかされていて、その表情をうかがい知ることは出来ない。

可愛いイレーヌ ピエール=オーギュスト・ルノワール作 油彩・カンヴァス 1880年

1870年代後半から80年代にかけて、ルノワールは洗練された裕福な人々の知遇を得るようになり、その多くは肖像画制作の依頼を受けた。ルノワールとカーン・ダンベール家の出会いも、この時期に当たる。裕福なユダヤ人銀行家のルイ・カーン・ダンベール伯爵とその妻ルイーズは、美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」の編集長であり、銀行家、美術史家、美術蒐集家としても活動し、印象派の画家たちの支援者であったシャルル・エフリュシを通してルノワールと出合った。ルノワールには、カーン・ダンヴェール夫妻の5人の子供のうち3人の娘たちと、伯爵の弟アルベール・カーン・ダンヴェールの肖像画の注文が寄せられた。本作品はカーン・ダンベール夫妻の長女、イレーヌを描いたものである。イレーヌを描いた本作品は、ルノワールによる子どもの肖像画を代表する傑作の一つとして知られている。本作品は1881年のサロンの好評を得たため「ガゼット・デ・ボザール」誌(1881年7月号)にルノワール自身によって制作されたデッサンが掲載された。

夏の帽子  ピエール=オーギュスト・ルノワール作 油彩・カンヴァス 1893年

1881年のイタリア旅行でポンペイの壁画やルネサンス期の巨匠ラファエロによるフレスコ画等に感銘を受けたルノワールは、印象派から離脱してゆく。その後、固い輪郭線を用い、モチーフの質感と量感の表現を追求する古典芸術に魅了され、自身の作品でも実践し、印象派から離れた。このようないわゆる「アングル様式」と称されるスタイルによって多くの作品を生み出したルノワールだが、1880年代後半になると徐々にこの古典様式から離れ「真珠色の時代」に移行する。リボン装飾が付いたレースの帽子をかぶった褐色の髪の少女が、もう一人の金髪の少女が見に付けている麦わら帽子に赤いひなげしなどの草花を飾っている姿を描いた本作品は、この「真珠色の時代」におけるルノワール作品の特徴を示す好例である。

赤いチョッキの少年 ポール・セザンヌ作 油彩・カンヴァス 1880年

「赤いチョッキの少年」は、セザンヌの画業を語る際に必ず言及される高名な作品である。描かれているのは、イタリア出身のプロのモデル、ミケランジェロ・ディ・ローザと伝えられてきたが、詳細は不明である。1886年に亡くなった父の遺産を手にしたセザンヌは、プロのモデルを雇う余裕もあったのであろう。彼にはさまざまなポーズを取らせて、本作品を含む4点の油絵と2点の水彩画を仕上げた。本作品に採用された伝統的なメランコリーなポーズは、セザンヌの1870年代から80年代の作品にはほとんど見られないが、90年代にはしばしば取り上げられている。この作品で特筆すべきは、その鮮やかな色彩のハーモニー、そして長く引き伸ばされた腕に見て取れる、造形的な自立性であろう。少年の頃、長く伸びた腕を覆うシャツ、右端のソフアの上に載る四角い紙は光を反射して白く輝き、その周囲に配された、ヴォリュームのあるカーテン、少年の膝をつく椅子の濃い色調と、鮮やかな対比を見せている。そして、まさに本作の主役とも言えるチョッキが、その内部に置かれることで、色彩のリズムが完成している。もう、印象派というより抽象絵画に近づいているように私は思う。セザンヌは一時期、印象派に近づいたが、本格的な印象派の画家では無かったと思う。

パレットを持つ自画像 ポール・セザンヌ作 油彩・カンヴァス 1890年頃

本作品は、パレットと絵筆を手にしてカンヴァスに向かうセザンヌ自らの姿を捉えた自画像である。その堂々とした体躯は、簡素で無骨な仕事着に包まれている。セザンヌは生涯に、およそ25点の自画像を制作したが、初期の表現主義的な自画像を除いては、画家としての職業や設え(しつらえ)もそこに加えることはなかった。画家の姿だけを簡素に素直に描きだした自画像は、社会から超絶し、孤独に制作に励んだセザンヌの生き方そのものを反映しているように思う。そういう意味で、セザンヌの自画像の中で最大を誇るこの作品は、画家としての姿を明確にしているという点で例外的な自画像と言える。

睡蓮の池、緑の反映 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1920~26年

1883年に、ジヴェルニーに移り住んだモネは庭造りに熱中し、自宅の前に多種多様な花の咲く「花の庭」を造った。その後さらに拡張し、池を造成して睡蓮を浮かべた「水の庭」を造った。1890年代後半から、この池がモネの絵の主要なテーマとなった。最初の池の連作では、日本風の太鼓橋を中心に、池とその周囲が大きく捕えられていた。その後、1903年から描き始められた連作では、睡蓮の浮かぶ水面の広がりだけで画面が構成するようになった。この「水の池」を舞台にモネは、実に200点以上もの睡蓮の池を描いている。その後、妻のアリスと長男のジャンの死や、白内障による視力の悪化からしばらく制作は滞るが、1914年、地下室に放置されていた睡蓮の花を見付けたモネは、親友の政治家、ジョルジュ・クレンマンソーの励ましもあり、再び装飾画への情熱を取り戻した。翌1915年には、睡蓮の大装飾画のためのアトリエを建てて制作に没頭し、1920年には国家への力作の寄贈も決まったが、最晩年には体力の低下により制作ははかどらず、最終的にオランジュリー美術館に渾身の22点が納められたのは、モネ没後の1927年のことだった。モネ亡き後のジヴェルニーのアトリエには、寄贈されなかった同サイズの装飾画が残されていた。ビューレルは1951年にこのアトリエを訪れ、そのうちの2点(睡蓮の池、アイリス)と「睡蓮の池、夕暮れ)を購入した。これらは、その後すぐにチューリヒ美術館に寄贈された。この(睡蓮の池、緑の反映)は、ビューレルが1952年に新たに購入した作品である。200×425cmという大作の睡蓮の池を見るにのは私にとって初めての体験であり、多分今後も無いだろう。さて、私は、生涯を貫いて印象派であったのは、モネ一人であると思う。改めて、モネ論の一文をものしたいと思う。

 

クロード・モネは批評家から「印象派」における中心的な風景画家と認識されるようになるが、それは特に彼の作品が多面的だったからである。長い時間をかけて探した末に、1883年にモネはセーヌ川沿いにあるジヴェルニーに一軒の家を見つけ、そこを終の棲家(ついのすみか)として手を入れ続けた。「ジヴェルニーのモネの庭」は、後にモネが池のある広々とした風景に拡張していったが、その庭の最初の部分を見せる作品である。そこから出発して、遂にモネは国家から懇望されて、「睡蓮の庭」の大作を寄贈するまでになった。終生変わらぬ印象主義を貫いたモネについては、更に研究を深めて、オリジナルな「モネ論」をいつか展開したい。ここまで書いたら、日経新聞の2月27日(火)の記事に次のような記事があった。「国立西洋美術館は26日、戦後、所在が不明になり、2016年にパリのルーブル美術館で見つかった印象派の画家モネによる油絵「睡蓮ー柳の反映」の寄贈を受けたと発表した。」記事によれば、横4メートル、縦2メートル弱というから、正しくこの「緑の反映」と同じサイズの作品である。修復の上、19年6月に公開するとのことであるので、改めて報告したい。

 

(本稿は、図録「至上の印象派展  ビューレル・コレクション 2018年」図録「モネ展 マルモッタン美術館所蔵 2015年」、吉川節子「印象派の誕生」、中野京子「印象派で近代を詠む」、図録「オルセー美術館 印象派の誕生  2014年」を参照した)

仁和寺と御室派のみほとけ   御室派編

仁和寺御室派は、第二次大戦後に成立した真言宗の宗派の一つであり、全国に約790寺で形成されたものである。実は近世以前から仁和寺の末寺であった寺院を戦後に集めて形成されたもので、歴史的に仁和寺とその末寺の姿をよく受け継いでいる。本展には、全国から選りすぐりの優品が集められており、御室派の実力を見せつけられた感じがする。中には、既に優品として拝観した仏像(例えば葛井寺ーふじいでらーの千手観音菩薩坐像)等もあるが、大半の仏像、宝物は初見であり、かつ秘仏が多い。良くぞ、これだけの名品を集めたものだと、感心し、実に楽しく拝観させて頂いた。前期。後期にの2回にわたり、それぞれの優品を見せて頂いた。今年の大きな収穫であった。この展覧会を主宰された関係者各位に厚く御礼申しあげたい。御室派編では、特に関心の高かった仏像に特化した解説となった。

国宝  千手観音菩薩坐像 奈良時代(8世紀)  大阪・葛井寺(ふじいでら)

本展覧会の最大の呼び物である。(後期展示)私は、奈良国立博物館で一度拝観し、日本の仏像彫刻の中の最優秀作品と評価している。葛井寺は、大阪市の南部を流れる大和川と支流の石川の合流地点付近に位置する。畿内でも早くから開けたこの土地では、渡来系氏族が集まり、5世紀に巨大な古墳が築かれた。その後は古墳に代わって、有力氏族の寺院が多数建立された最先端の地域である。この千手観音菩薩坐像は、頭上に十一面をいただき、胸前で合掌する手と像をまわりに半円形に広がる脇手と像をまわりに半円形に広がる脇手とをあわせて1041本の手を持ち、各手の掌には眼が描かれる、十一面千手観音菩薩坐像である。インド初期密教が生み出した変化観音の一つである。本像の作風は天平年間(729~749)後半の作と考えられてきたが、奈良・東大寺の法華堂諸像と共通することが指摘されている。私も、法華堂に安置されていた日光・月光菩薩像と良く似ている面があると思う。近年の研究成果により、法華堂の建立は天平年間の前半まで遡る可能性が高い。この像の制作年代は天平年間の前半頃と見るべきであろう。この像の大きな特徴は、千本の手が認められることである。正しくは1039本の手で台座の蓮華を象った部分が丸く円を描く構図で、脇手が美しさを演出している。奈良・唐招提寺の千手観音菩薩立像(国宝)は、本来千本あったはずであるが、今は953本の手が残るのみである。従って、日本にある天平時代の千手観音菩薩像で千本を超える手を持つ観音像は、本像のみである。葛井寺像の頭上には、正面に化仏(けぶつ)立像があるほか、中央の一番高い位置に仏面、その周囲に十個の面がある。これは十一面観音菩薩像と同じで、観音の目はすべての方向に向いていることを示している。この仏像の美しさは他に類例を見ない。是非、一度拝観されることをお勧めする。この仏像は秘仏であり、葛井寺を拝観しても拝めないことが多いので、是非会期中に拝観をお勧めする。

国宝  十一面観音菩薩立像   平安時代(8~9世紀)  大阪・道明寺

道明寺は、葛井寺(ふじいでら)から約2キロ東に位置する寺である。応神天皇など巨大古墳が点在するこの地域は、古くから栄えた土地であった。道明寺は、平安時代には「土師寺」(はじでら)と呼ばれており、この地域を本拠としていた豪族で、菅原道真の祖先に当たる土師氏(はじし)の氏寺として7世紀に創建された寺である。現在、本寺の本尊として本堂に安置されている。本像の作風は、京都・長岡市に所在する宝菩提院(ほうぼだいいん)の菩薩半跏像に通じており、宝菩提院像が造られたと推定される長岡京時代(784~793)に近いと考えられる。

重要文化財 釈迦如来坐像 鎌倉時代(13世紀)  宮城・龍宝寺

京都・清凉寺に安置された釈迦如来像を摸刻したもので、各地に百体を超える清凉寺摸刻像があるが、その出来栄えはさまざまで、この龍宝寺像は中でも中実に原像を写した鎌倉時代までさかのぼる優品である。龍宝寺は伊達家(だてけ)の祈願寺として知られ、御室派では最も東に位置する寺院である。

重要文化財降三世明王立像像高252.4cm平安時代(11世紀)福井・明通寺

明通寺(みょうつうじ)は、福井県小浜市門前に位置し、前谷と後谷がせまる谷間の地に開かれた古刹である。本寺に伝わる縁起などには、平安時代の征夷大将軍である坂上田村麻呂(さかのうえたむろまろ)の宿願によって、大同年間(806~810)に開創されたと伝えられ、また「国内で無双の伽藍」とたたえられたという。降三世明王(ごうざんせみょうおう)、深沙大将(じんじやだいおう)の2メートルを超える巨像は、本尊である半丈六(丈六の半分、像高は約145センチ)の薬師如来像の両脇侍として、鎌倉時代の和様建築で、国宝の本堂に安置されている。降三世明王は、五代明王の一つで東方に安置される尊覚である。髪を逆立て、顔は左右と背面に一面ずつ合計四面あり、本面は三つの眼を怒らせて牙をあらわにし怒りの表情を見せている。降三世明王が開口するのは珍しい。八本の腕を持ち、足下にヒンドュー教の神である大自在天(だいじざいてん=シヴァ神)とその妃の烏摩(うま)を踏み付けると言う奇怪な姿をしている。

重要文化財 深沙大将立像像高256.6cm平安時代(11世紀)福井・明通寺

降三世明王と両脇侍となる深沙大将(じんじゃたいしょう)はインドへ求法の旅に出た高僧・玄奘三蔵(げんじょうさんぞう=三蔵法師)を、砂漠で救ったという守護神である。日本においては、彫刻として独尊か、執金剛神と一対に造られる例が一般的であるが、降三世明王とともに安置されるのは他に類例をみない。この類例のない組み合わせの三尊像は、いずれもヒノキの一材から頭部と体部の主要部分を彫り出し、後頭部や背面から内刳りをする、当時としては古式な一木造りの技法で造られており、また両者の様式も共通している。

重要文化財 馬頭観音菩薩坐像  鎌倉時代(13世紀) 福井。中山寺

中山寺は、「若狭富士」と称される福井県小浜町の青葉山の西側、若狭湾を一望する中幅腹に所在する。本堂は、天文2年(1543)に建立された建物で、その本堂に安置され、厳重な秘仏として守り伝えられてきた。脇侍としては鎌倉時代後期の毘沙門天立像と不動明王立像が安置されている。本像は三面八臂で、胸前にかまえた二本の手で根本馬口印を結ぶ、三面(本面のみ三眼)ともに憤怒の表情をした坐像である。秘仏のためか、非常に色彩が鮮やかに残って、美しい馬頭観音坐像である。運慶次世代の慶派の作風に通じるものがある。いずれにしても13世紀後半には下らない頃の非常に優れた彫刻である。若狭周辺には、仏像の優品が多い。

重要文化財 不動明王坐像  木造・彩色 平安時代(10世紀) 広島・大聖院

大聖院(だいせいいん)は、厳島神社のある宮島に所在し、明治時代初年までは同社に付属する別当寺(べっとうじ)であった。本像は、大正9年(1920)に本寺である仁和寺の新乗院から移され、近年までは、島内最高峰である弥山(みせん)の山上にまつられていた。明王は、7世紀のインドで成立した新しい密教の尊格であり、怒りと恫喝(どうかつ)によって生じた衆生(しゅじょう)を正しい方向に導く使命を持つ。不動明王は、密教の中心的な教主である大日如来の化身とされ、日本には9世紀初頭に空海によってもたらされた。京都の東寺講堂の不動明王坐像と同じ図像で、いわゆる大師様(だいしよう)と称される。美しい色が残るのは、秘仏扱いを受けたものだろうか?

重要文化財 如意輪観音菩薩坐像木造・彩色 平安時代(10世紀)兵庫・神呪寺

神呪寺(かんのうじ)は、兵庫県西宮市の北部にある標高310メートルの甲山(かぶとやま)の麓に所在する名刹である。私事になるが、昭和40年代前半に、私はこの甲山の近くの夙川(しゅくがわ)付近に住んだことがある。その頃に家族一同で甲山に登り、炊飯を楽しんだ場所であり、大変神呪寺を懐かしく思い出した。神呪寺から見降ろす景色は、西宮市、芦屋市を一望できる絶景の場所であった。さて、本尊の六本の腕(六臂)を持つ如意輪観音像は、平安時代初期に空海が中国より請来した両界曼荼羅(りょうかいまんだら)に描かれており、それ以降、真言密教の尊格として造像の事例が増えている。本像はヒノキの一木造りの像である。左脚部は後補である。秘仏として扱われていたように記憶する。

重要文化財 千手観音菩薩坐像(中央)  平安時代(12世紀)徳島・雲辺寺 重要文化財 毘沙門天立像(右) 平安時代・寿永3年(1184)徳島・雲辺寺重要文化財 不動明王立像(左) 平安時代(12世紀) 徳島・雲辺寺

弘法大師にゆかりのある四国八十八幡霊場の第六十札所に当たる雲辺寺(うんぺんじ)には、それにふさわしい古像が伝来する。本尊(中央)の千手観音菩薩坐像は、その像内に墨書銘を持つことで古くから知られている。また手は千手と言いながら、実は42本である。これは1本の手で25の願いをかなえるとして、40本の腕で千手を示し、これに本来の腕である2本を足して42本とすることが、平安時代以降慣習化された。あわせて、毘沙門天立像ならびに不動明王立像は、少し遅れて追加で造立されたものとみられ、かって千手観音三尊像を構成していた。現在毘沙門天立像は本尊とともに収蔵庫に安置されている。不動明王像は護摩堂(ごまどう)に安置されている。像内に制作年と作者名を記す毘沙門天像は注目を集めてきたが、近年、修理をほどこされた不動明王立像からも銘文が発見され、作者が同じであることが明らかになり、一揃いとして造立された可能性が推測されている。毘沙門天像の像内には、腰辺りに「寿永3年(1184)六月二十二日」という年紀と共に、雲辺寺僧願西が施主となり、「亜州」つまり徳山在住であった仏師慶尊(けいそん)に造らせたことが判明した。おそらく、本尊の千手観音に対し、遅れて二像を加えたものであろう。御室派の古刹にこうした三尊構成が見られることは重要で、徳島と高知、香川を結ぶ交通の要衝であったこの地の特性も伝えている。

 

仁和寺は、今から1100年あまり前の平安時代に開創されたお寺であるが、以後の長い歴史のなかで、今日の御室派(おむろは)諸寺院とさまざまな縁(えにし)が取り結ばれてきた。現在、御室派寺院は約790寺を数える。そこには、両者の歴史がしっかり刻み込まれている。この「御室派編」では、普段は公開されない秘仏を含めて、全国各地の御室派寺院の貴重な仏像を通して、御室派の広がりと、その信仰が作り上げた美を一堂に集めて展覧したものである。私自身、葛井寺の千手観音菩薩坐像(国宝)以外、拝観したことのないみほとけ達であった。大変貴重な秘仏の数々を拝観することが出来て、有り難く楽しい展覧会であった。(最近の情報によれば、東京国立博物館の入場には1時間以上の待ち時間が必要となり、葛井寺(ふじいでら)の千手観音菩薩像(国宝)の拝観が大人気のようである。江戸時代の出開帳以来初めて東京への出品であり、今後も東京出品は、数百年後になるだろうとの思惑からであろう。是非、この機会に拝観されることをお勧めする)

(本稿は、図録「仁和寺と御室派のみほとけ  2018年」、京都古寺巡礼「第22巻 仁和寺」、探訪日本の古寺「第9巻 京都Ⅳ 洛西」を参照した)