東大寺  東塔(七重塔)の再建計画

東大寺の東塔の跡を遺跡として紹介したが、実は東大寺では、東塔(場合によっては西塔も)の再建の意図の下、発掘調査をしていたのである。東大寺第220世管長の北河原公慶師は、ビジュアル文庫「東大寺」の中で、次のように述べている。「私は別当就任(2010年5月)に際し、在任中に行うべきいくつかの計画を立てました。ひとつは、進行中の「東大寺総合文化センター」に関連することです。(これは東大寺ミュージアムで完成した)もうひとつが東大寺東塔の再建です。これは私が以前から考えていたことです。かって東大寺には、東西の七重塔が建っていました。ともに基壇跡は残っていますが、西塔の近くには民家が立ち並んでいますので、再建可能なのは東の塔です。これから地中探査などを行い、実際にどのような塔が建つていたのかなどをまず検討しなければなりません、七重塔という記録こそありますが、高さは何メートルなのか、伝えられているように、本当に100メートルもあったのか。搭の形も、中国の影響を受けた六角形、もしくは八角形かもしれません。分からないことばかりですので、私の在任中に完成することはないでしぉう。けれど、私の発案が再建の第一歩になればそれでいいのです。」

奈良時代の東大寺の復元された模型  1/50    東大寺蔵

奈良時代、聖務天皇によって創建された総国分寺の東大寺には、東塔と西塔という七重塔が並び立つていた。東大寺の記録によれば、東西両塔の高さは33丈(約100メートル)と23丈(約70メートル)とする2種類の記述が存在している。現在の大仏殿の高さは46.1mだから、そのほぼ2倍の高さの塔が、2基も建っていたことになる。この模型でも、東西両塔の高さが窺い知れる。

国宝  俊乗坊重源像               鎌倉時代(13世紀)

東塔院(搭の周りは四角形の壁で囲まれ、東塔院、西塔院と称されていた)は、天平宝字8歳(764)ごろに西塔院と併せて建設されたが、平重衡の南都焼打ちで大仏殿や南大門などと共に焼失した。時の朝廷には再興する力はなく、資金や材料の調達、造営事業の差配のほとんどが俊乗坊重源(1121~1206)上人に任された。重源は宋に三度渡ったといい、建築技術に詳しく、経営能力も優れていたようである。西日本各地に勧進の拠点を設け、広く寄付を募ると共に、鎌倉幕府を開いた源頼朝の支援を得た。大仏の鋳造には中国の工人陳那郷(ちんなけい)らの協力を仰ぎ、大仏殿、南大門には大仏様と呼ばれる新しい建築様式を採用するなど中国留学の経験えお生かした。大仏、大仏殿、南大門、東西両塔をはじめ多くの堂と仏像を復興した功績は驚異的である。文治元年(1185)には大仏の開眼供養に漕ぎ着けた。重源は大仏殿の再建に取り掛かり、源頼朝が最大の支援者となって再建が進められた。建久6年(1195)の落慶供養には、源頼朝と北条政子も臨席している。元久元年(1204)に最後に着手したのが東塔院だった。その2年後の建永元年(1206)、重源は86歳で入滅した。東塔院は、栄西(ようさい)、行勇(ぎょうゆう)という勧進職に引き渡され、重源の死後20年以上たった嘉禄3年(1227)頃に完成したと見られる。しかし、康安2年(1362)、落雷で再び焼失してしまった。東塔院には現在、土の基壇が残って、礎石は近年すべて持ち去られた。

東塔院の発掘調査(GRPの図面)

平成22年(2010)4月に、東塔の再建を打ち出した東大寺と、奈良文化財研究所と奈良県立橿原考古学研究所は東塔跡の探査を実施することになった。塔跡を含む東西97m、南北110mを対象に、最初の作業を実施した。この試みは地中レーダー(GRP)による探査であった。解析の結果、塔の基壇部分の地中の状況と、東塔院の位置や規模が明らかになった。GRP平面図によれば、東塔院には東西南北の4門があったことが明らかになった。

東大寺東塔院跡(平成27年度発掘による)

 

2015年(平成27年)の発掘調査では、調査地が三か所設定された。中央区は、東塔の中心から基壇及び周辺を含む北東部分で、塔の規模と構造、および基壇周辺施設の確認を目的としている。塔基壇の北側に延長した北区は、東塔院北門の位置や規模の確認を目的として設定された。南区は、推定された東塔院の東南隅部分にL字形に設定し、東塔院の南面回廊及び東面回廊の位置や規模を推定するためのものであった。

中央区での出土遺構図

中央区の調査は基壇全体ではなく基壇の北東部に偏っていたため、心柱を支えた基礎(心礎)とその周囲の柱穴9個を確認した。心礎や礎石は、近代になってからすべて抜き取られていた。その抜き取り穴の並び方の状況から、塔の配置は3間四方で、全体で4×4=16本の柱があったことが確認できた。柱間寸法は中央間20尺(約6m)、両脇間18尺(約5.4m)であったと想定できる。これらの柱の柱間寸法は、鎌倉時代に再建された東大寺南大門の柱間寸法と一致することが分かった。一般的に五重塔は3×3=9本の心柱が最高階まで貫いているが、七重塔は16本の心柱で支えたことが彰になった。

東大寺中寺外惣絵図並山林(部分)                江戸時代(17世紀)

東大寺蔵の江戸初期に描かれた「東大寺中寺惣絵図並山林図(部分)」という絵図がある。大仏殿は柱穴の位置だけ描かれ、大仏は野ざらしになっている。現存する大仏殿の再建が完成したのは元禄4年(1709)であるから、この絵図はそれ以前に作成されたものであろう。東大寺東塔と西塔も柱穴の位置だけが描かれるのみで、焼けた状態になっていたのであろうと推定される。東塔と西塔では柱の並び方が異なっている。この絵図には、失われた西塔の跡を柱間5間、東塔の跡を柱間3間で描いている。今回の調査で、創建時は5間だった両塔のうち、鎌倉時代に再建された東塔は柱間3間に変更され、より大規模になったことが、この絵図から理解できる。

 

東塔跡は、単なる遺跡ではなく、再建の意志の基に、発掘調査がなされていたのである。再建の予定は、平成33年(2021年)から基壇の整備に入るようである。また承平4年(934)に雷で失われた西塔の跡については、平成29年(2017年)に調査を始める予定だそうだ。もし、東西両塔が並び建つ時がくれば、奈良の魅力は一段と増すだろう。梅原猛氏は「塔」の最後のページに次のような言葉を残している。「東大寺の塔は、七重の塔であったという。それは、奈良に存在したいかなるい寺の塔よりも高い塔であった。それは、かの巨大な興福寺の塔よりもなお高い塔であった。そして塔が権力の象徴である限り、この塔は、今まで以上の権力の強さを象徴すべきであった。」七重の塔を権力の象徴と見る意見は珍しい。

(本稿は、図録「東大寺大仏殿  天平の至宝」、ビジュアル文庫「東大寺」、NHK歴史秘話ヒストリア2017年1月3日「古代ミステリー東大寺”七重塔”の謎」、HP「東大寺の再建東塔院発掘調査が明らかにした事実」を参照した)

東大寺   遺跡と池

東大寺の歴史や美術を書いた書籍は枚挙に暇ないほど多数ある。しかし、鎌倉時代や江戸時代の東大寺再建で、再建されなかった遺構も多い。今回は、他の図書があまり取り上げない東大寺遺跡(再建されなかった建物等)と、寺内の池について触れてみた。

東大寺境内の地図             ビジュアル文庫「東大寺」より引用

東大寺境内の全図である。写真は小さくて分かり難いと思うが、まず2つの池を確認して頂きたい。南大門と大仏殿との中程に、鏡池という池がある。また、左奥に大仏池がある。この池が、最初からあったのか、造立に際し掘った池かは不明である。その上で、まず一番手前の南大門を確認してもらいたい。それを真直ぐ進めば、大仏殿である。大仏殿の右側はやや高みになっており、法華堂、二月堂が確認できると思う。大仏殿と法華堂の間に、数多くある御堂が開山堂や、行基堂、鐘楼などである。大仏殿の後ろを見てもらいたい。ここの講堂跡は、平家の戦火で焼失以来、再建されたことは無い。その右の食堂(じきどう)跡も再建されたことが無い、講堂跡の後ろに僧坊跡があるが、これも再建された事が無い。大仏池の後ろに正倉院がある。一番奥の左隅に転害門(てがいもん)がある、大仏殿の左側に戒壇院、勧進所の建物が並ぶ。

鏡池

鏡池の名称については、その由来を知らない。どの本を読んでも、池の由来は語っていない。鏡池の手前をやや右側に進めば、法華堂、二月堂にたどり着く。鏡池に並んだ場所に、東塔跡が残る。

東大寺  東塔跡

東大寺に、東西両塔が聳えていたことは文献でも明らかである。平成22年(2010)に東大寺は東塔再建の意向を打ち出した。西塔は、住宅地になっているため、再建は不可能であり、東塔のみの再建案であった。東大寺と奈良県文化財研究所と共同で東塔跡の探査を実施することになった。文献によれば、塔の高さは23丈(70m)とも30丈(100m)とも伝えられ、わが国で最高の塔であったことになる。因みに、現存する塔の中で最高の高さは、京都の東寺の塔(江戸時代再建)で55mである。東大寺の東西両塔が33丈、もしくは23丈としても、文句なしの日本一の高さである。現在は23丈(70m)の高さということで、議論は進められている。平成22年(2010)の7,8月に、塔跡を含む東西97m、南北110mを対象に、最初の調査をした。その時の結果は、地中レーダー(GRP)による探索であった。その解析の結果、塔の基壇部分の地中の状況と、東塔院(搭の周りを囲む院であった)の位置や規模が明らかになった。(7年後の今日、更に詳しい内容が分かってきたが、やや詳細に亘るので、今回はここまでとする)

講堂跡の遺石

東大寺の講堂は、大仏殿(金堂)の裏に当たり、東西に七重の塔を擁する日本最大の国分寺であったことが判る。講堂跡には遺石が建てられ、1200年前を偲ぶことが出来る。残念ながら、当日その遺跡を見学していたのは、私一人で、通りすがる人もいなかった。恐らく大仏殿を訪れる人の0.1%も。この講堂遺跡を見ないであろう。

講堂跡の礎石                                                           奈良時代(8世紀)

講堂跡の礎石は、まさしく大和国国分寺の礎石であり、整然と並んだ礎石は、全国に広がる元国分寺跡と同じであるが、規模は圧倒的に大きい。私は、機会があれば、全国各地の国分寺跡地を廻っているが、東大寺に勝る講堂跡地は見たことが無い。

東大寺僧坊跡晩秋          入江太吉氏撮影  奈良時代(8世紀)

食堂(じきどう)とは、文字通り僧侶の食堂(しょくどう)の跡である。一段高くなった場所があり、入江泰吉氏が撮影された写真である。講堂跡の右横に当たる。写真は入江泰吉奈良市写真美術館で購入したものである。正に晩秋を表す、素晴らしい一枚である。

大仏池より大仏殿を望む

大仏殿の左奥に、大仏池がある。ここから眺める大仏殿の甍は素晴らしい。大仏殿は正面より観るより、遠く離れた場所や、近く仰ぎ見る方が素晴らしい。

 

東大寺の各寺院を招介したので、順番として遺跡と池を巡ってみたが、やはり正倉院や東塔の開発の最新情報も必要であり、稿を改めることにしたい。

 

(本項は、図録「東大寺大仏 天平の至宝2010年」、ビジュアル文庫「東大寺」、探訪日本の古寺「第12巻 奈良Ⅲ」、入江泰吉「写真 大和路」、青山茂他「大和古寺巡礼」を参照した)

 

岩佐又兵衛  故事人物画・物語絵

岩佐又兵衛は、寛永14年(1637)、還暦を迎えた年に、妻子を福井に残し江戸に向かった。必ずしも、希望して江戸へ下った訳ではなさそうであった。「岩佐家譜」によれば、尾張徳川家の光友に輿入れする将軍家の娘・千代姫の婚礼調度の図案作成が又兵衛に命じられたそうである。このような将軍家筋の用命は、普通ならば御用絵師である狩野派が請け負う筈だが、又兵衛の独特の画風が江戸で評価され、各地にその名声が喧伝されていたことがあったであろうし、姻戚者が大奥に身を置いていた関係も考えられる。因みに、この婚礼用具は、名古屋徳川美術館が保有しており、源氏物語に因んだ絵画が蒔絵で描かれたものだそうである。江戸では、寛永15年(1638)に焼失した仙波東照宮の再建拝殿に奉納する「三十六歌仙扁額」を描いている。幕府の御用絵師である狩野派に属さない又兵衛が担当したことは異例であり、狩野派との衝突もあったことであろう。又兵衛の江戸での生活は多忙を極めたようであり、扁額制作の際、再建東照宮の御大工頭を勤めた木原木工允(もくのじょう)から、歌仙の仕事を早くするようにと督促する手紙が残っている。こうした種類の仕事を受注したことが又兵衛の出府の契機となったのであろう。このあと、慶安3年(1650)に世を去るまでの十余念間、江戸の地が又兵衛の活動の拠点となり、将軍家のみならず、諸国の大名たちの画事などを請け負ったと推察される。MOA美術館では「山中常盤物語絵巻」の展示に合せ、故事人物画・物語絵を展示しているので、この場で紹介したい。

重要文化財 柿本人麻呂図・紀貫之図 岩佐又兵衛勝以作 江戸時代(17世紀)柿本人麻呂図    紀貫之図

 

歌仙絵という大和絵の主題を水墨画の技法によって描いたもので、人麻呂像は奔放自在な描線による減筆体(げんぴつたい)風の手法で、貫之像は濃墨と淡墨を巧みに用いた没骨法(もっこつほう)風の筆づかいで対称的に表している。人麻呂は裸足で歩む好々爺に、貫之は優しい表情の親しみのある人物像に描くなど、又兵衛以前の歌仙絵には見受けられない独創的で自由な解釈が示されている。歌賛、落款、画すべて同じ筆で描かれ、印も斜めに捺されていることなどから即興的に制作されたものと考えられる。署名は、人麻呂が「勝以画之」、貫之図が「勝以図印」で、印はともに「碧勝宮図」白文印を捺す。又兵衛画の中では数少ない落款のある作品で、上部の賛と共に又兵衛の筆跡の基準となるものである。制作は、又兵衛の福井時代の早い頃と推定される。なお,MOA美術館では、勝以の落款の無い図は、すべて伝岩佐又兵衛としている。

寂光院(じゃつこういん)図 岩佐又兵衛勝以作  江戸時代(17世紀)

又兵衛は平家物語に題材をとり何点かの作品を残している。この図もその一つで、京都大原の寂光院に隠棲(いんせい)した建礼門院(けんれいもんいん)平徳子(たいらとくこ)が念仏と読経三昧の生活を送るさまを描いたものとされる。元は八曲一双の押絵貼屏風で、旧岡山藩主池田公爵家に伝来した。「樽谷屏風」とも呼ばれるが理由は未詳である。大正8年(1919)、池田家より売立に出され、現在のような掛幅装となった。「道」朱文印と「勝以」朱文二重印を捺す。珍しく「勝以」印を持つ画である。

重要美術品伊勢物語(鹿と貴人図 部分)岩佐又兵衛勝以作江戸時代(17世紀)

本図は、「伊勢物語」の「東下り」の段に含まれる宇津の山路を描いたものと考えられている。又兵衛得意の銀泥と墨を使った霞引きによって、遠くの山路と、木蔭で休む業平一行という近景が、くっきりと隔てられている。刀を持ち振り返る従者の姿形は、舟木本・洛中洛外図屏風の六条三筋町で抱き合う武士と遊女を振り返る人物と同形であることが指摘されており、又兵衛における図様共有を窺い知ることが出来る。印章は、「道」朱文印と「勝以」朱文二重印で、又兵衛の作品であることは確実である。

重要美術品 官女(かんじょ)図 岩佐又兵衛勝以作  江戸時代(17世紀)

無背景に小袿(こうちぎ)をまとう立ち姿の官女が描かれている。本図は又兵衛が数多く描いた歌仙絵のうちの一つとも考えられている。小野小町を主題とするとの説もあるが断定することは難しい。描線は伸びやかで、衣装の文様や彩色も美しく、官女の舞姿のごとき動きのある表現は見事である。衣や朱の袴は強い印象を与え、画面全体を艶やかに感じさせる。画面の形状から、六歌仙あるいは三十六歌仙を描く屏風絵の一扇であったとも考えられる。「道」朱文印と「勝以」朱文二重印を捺す。又兵衛作品であることは間違いない。

重要文化財  自画像  岩佐又兵衛勝以作  江戸時代(17世紀)

賛も署名もない肖像画である。岩佐又兵衛勝以の遺族の家系に伝わった。晩年の自画像と言われるものである。発見当時はかなりボロボロだったようであるが、幸い目鼻立ちはそのままである。無精ひげをはやし、病にやつれた、風采の上がらない容貌で、さいずち頭も不恰好である。藤椅子に腰かけた小柄な老人は、右手に杖を持ち、左手に数珠を下げ、鹿の子絞りの着物の上に黒い羽織をまとっている。左後ろに長刀を立て掛け、右の机に香炉と書物を置く。こうした賛や画家の落款のない肖像画の像主や筆者を、誰かと判定することは難しい。私は、又兵衛の最後の自画像と認めたい。それは勝以自身の添状があるからである。命日にこれを掛けて供養してほしいと、又兵衛は福井に残した妻子に頼んだと思う。福井の岩佐家に伝来した作品であると言われる。「岩佐家譜」は、又兵衛の没後80年余り後の享保16年(1731)につくられたものだが、これには「新タニ前人未ダ図セザルトコロノ体ヲ模写シ、世態風流別ニ一家ヲをナス。世之ヲ称シテ浮世又兵衛トイフ」とある。又兵衛浮世絵元祖説の始まりである。なお、本図には「岩佐家譜」と勝以自筆状が添えられている。

 

岩佐又兵衛勝以の自筆の作品6点(含む自画像)が,MOA美術館で展示された。いずれも岩佐又兵衛の真筆と信じて良いと思う。又兵衛が果たして、浮世絵の元祖と言えるどうかは別途検証したい。何分にも、作品が多く、いろんな所に分散しているため、又兵衛を、素人の私が追うことは、かなり困難であるが、MOA美術館に多数の保管があり、特に絵巻物については、まだ二巻見ていないので、それを見た上で、再度検証したいと思う。なお「舟木本・洛中洛外図」は既に展覧会で見ているので、時期を見て発表したい。又兵衛工房(京都)の作品であることは間違い無い。

 

(本稿は、図録「岩佐又兵衛作品集」、図録「岩佐又兵衛と源氏絵 2017年」、図録「洛中洛外図と障壁画の美  2013年」、辻惟雄「岩佐又兵衛ー浮世絵を作った男の謎」、篠田達明「浮世絵又兵衛行状記」を参照した)

岩佐又兵衛作 重要文化財 山中常盤物語絵巻

熱海のMOA美術館が、長時間をかけて改修工事を行っていたが、工事は全部終了し、新しく生まれ変わった。今回は、岩佐又兵衛作の重要文化財・山中常盤物語絵巻・全12巻がすべて公開された。(4月25日まで)私は、この公開を待ちに待って、初日の3月17日(金)に、わざわざ熱海まで出かけて、ゆったりと拝観をしてきた。特に、部屋の中央に壁を設け、光線の入り混じりを防ぎ、非常に見学し易い環境になった。併せて、レストラン、カフェ、ショップも一新され、非常に気持ちの良い環境になった。さて、岩佐又兵衛には、重要文化財・山中常盤物語絵巻、重要文化財・浄瑠璃物語絵巻、堀江物語絵巻、おぐり(小栗)判官絵巻という4巻の膨大な絵巻物がある。その内、前3巻は,MOA美術館が保有している。最後の小栗判官物語絵巻は宮内庁所蔵である。その内、特に見たかった山中常盤物語絵巻の全巻が、3月17日より4月25日まで公開されることになった。言って見れば、今年の最大の見物が公開されたのである。「山中常盤物語絵巻」は、義経伝説に基づく御伽草紙系の物語で、奥州へ下った牛若を訪ねて、都を発った母の常盤御前が、山中の宿で盗賊に殺されて、牛若がその仇を討つという筋書きである。慶長、元和、寛永(1596~1645)にかけて操浄瑠璃の一つの演目として盛んに上演され、本絵巻はその正本(テキスト)に基づいて制作されたものであろう。(当然、史実とは異なる)全12巻から成り、全長は150メートルを超える長大な作品である。本作品は又兵衛が描いたと言われる絵巻群の中で、最も生気あふれる力強い作風で、又兵衛自身の関与が最も高いと考えられる。(福井の又兵衛工房の関与は、当然考えられる)特に巻四の常盤主従が盗賊に襲われる場面や、巻九の牛若が八面六臂の活躍によって盗賊たちに仇討ちする場面など、凄惨な場面の描写は、日本の美術品には珍しいもので、本作品の大きな特徴である。絵巻の表紙は、唐獅子模様を織りだした豪華な金襴で、見返しは金箔である。本絵巻の制作に関しては、越前松平家が関与していることが想定される。(「浮世絵又兵衛行状記」によれば、越前藩主松平忠直公の指示によるものとされている。小説であるが、面白い論考である)この作品は、越前藩主松平忠直公の子・光吉が転封(てんぽう)となった先の(岡山県)津山藩松平家に伝来したもので、大正14年(1925)5月の東京美術俱楽部による松平子爵家所蔵品売立てによって世に出た。昭和3年(1928)、ドイツへ売られるところを引きとめた第一書房社主・長谷川巳之吉によって広く紹介され、昭和の又兵衛論争を起すきっかけとなったそうである。(詳しくは辻惟雄「岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎」を参照)江戸時代初期の異色の絵巻として、また岩佐又兵衛の画業を考える上でも、極めて重要な作品である。なお、絵の解説は、詞(ことば)を現代語に訳し、更に分かり易く説明した。

重文 山中常盤 第一巻 佐藤(藤原秀衡の意)の館に着いた牛若

おごる平家を討つために、源氏の御曹司牛若は十五歳の春、東国(とうごく)へ下る。頼むは奥州の藤原秀衡(ひでひら)。秀衡(文章の上では佐藤)の館へ着いた牛若は丁重に迎えられ、幸せな毎日を送る。

重文山中常盤 第一巻 常盤は牛若が奥州に居る聞き、直ぐにも遭いに行くと言う

都にいる母の常盤(ときわ)は行方知れぬ牛若を案じ、清水寺に参ったり、八幡山へ百詣でをして、牛若の無事と再会を祈る。その年の秋、奥州の牛若の文が届く。常盤は喜んで、直ちに奥州の秀衡の館を訪ねると言う。

重文 山中常盤 第二巻  常盤は侍従を促す

乳母の侍従は、冬に向かう奥州は無理と押しとどめる。春も半ばとなり、常盤は侍従を従え東国へ下る。

重文 山中常盤 第三巻 牛若を思い、涙ながらに瀬田の唐橋を渡る

奥州は遠国(おんごく)、徒歩(かち)の旅はつらい。やっとの思いで瀬田の唐橋(滋賀県の琵琶湖の流れ)を渡る。二人が(美濃の)山中宿にたどり着くと、常盤は旅の難儀と、牛若恋しさも手伝い、見も心も就かれ果てる。

重文 山中常盤 第四巻 邸の中まで乱れ入り、常盤と侍従の小袖を奪い逃げ去る

山中の宿(しゅく)に住む六人の盗賊は、常盤と侍従を、東(あずま)下りの上臈(じょうろう)と見て、美しい小袖を盗もうと諮る。夜半に押し入った盗賊たちは、常盤と侍従の来ている小袖まで剥ぎ取り、門外に逃げ去ろうとする。

重文 山中常盤  第四巻 常盤は、小袖を返すか、さもなくば命を奪えと言う

夜半に押し入った盗賊たちは、常盤と侍従に着ている小袖まで剥ぎ取ったので、常盤は、肌をかくす小袖を残すがなさけ、さもなくば命もとってゆけと叫ぶ。

重文 山中常盤  第四巻 侍従は常盤を抱き、さめざめと泣く

盗賊たちは常盤を刺し、常盤にすがる侍従も殺して逃げる。

重文 山中常盤  第五巻 宿の主人に問わ、常盤は自らの身分や名を明かす

騒ぎに馳せつける宿の主人は、瀕死の常盤を抱き上げ、都の上臈が若等も連れぬ旅のわけを尋ねる。常盤は自らの出生と事の次第を打ち明けて、牛若に会えずに、盗人の手にかかって果てるは口惜しい。せめて道端に土葬にして、高札を立ててほしい、いとしい牛若が都へ上る折に、道端から守ってやりたい、と主人に頼み、持物を形見にと預けて息絶える。時に常盤は43歳。宿の主人は遺言通りに、土葬にして高札を立てる。

重文 山中常盤  第八巻  牛若は霧の印を結んで目をくらませる

秀衡の館の牛若は、母の常盤が夢にうつつに現れるのが気にかかり、館を忍び出て京へ上る。途中、美濃国赤坂の宿に泊まるが、山中の宿まではわずか三里、一夜の違いで母の常盤に合えないアワレサ。山中の宿で常盤と侍従が殺されたのはその夜のことであった。翌日赤坂の宿を発つた牛若は山中の宿はずれで真新しい塚を見て懇ろに法華教を誦(しょう)し回向する。牛若は何か去りがたく終日をそこで過ごし、その夜は山中の宿に泊まる。その夜、牛若は夢枕に立つた母親の姿や言葉を不審に思い、宿の主人に尋ねると、主人は涙ながらに前夜の出来事を一部始終話し、形見の品々を見せる。牛若は見覚えのある品々を抱きしめて嘆き悲しむ。牛若は心を取り直し、盗賊をおびき寄せて討ち取る為に宿を明日まで借りたいと主人に頼む。女房が、助力しようと、力づける。牛若は座敷一杯に派手な小袖や黄金の太刀を掛け並べてもらい、変相して、この宿に大名が宿を取ったと宿場中に触れ回る。牛若の計略どうり、盗賊はその夜、宿を襲う。待ち構えていた牛若は、霧の印を結び、小鷹の法をつかって六人に向かう。

重文 山中常盤 第九巻 六郎が切られたのを見て、残る五人が一度に切りかかる

牛若は六人を切り殺す。驚く宿の主人に命じ、その夜の中に死骸を淵に沈めさせる。牛若は主人と女房に助力を感謝し、後の褒美を約して秀衡の館へもどる。

重文 山中常盤 第十一巻 牛若は十万余騎をひきいて都へ上る

三年三日の後、牛若は大軍を率いて都へ上る。

重文 山中常盤 第十二巻 常盤の墓前で盛大に回向する

牛若は十万余騎を率いて都へ上る途中、山中の宿で常盤の墓前で手厚く回向した。

重文 山中常盤 第十二巻  宿の主人に山中の土地三百町と、所領安堵を伝える

宿の主人と女房に山中の三百町の土地を与え、所領安堵を伝え、その恩に報いた。

 

岩佐又兵衛(1578~1650)は、京都で絵師としての道を進み、大和絵的な源氏物語図会や国宝・「舟木本・洛中洛外図」、「豊国祭礼図屏風」など、傑作を残しながら、何故福井へ移住したのであろうか。又兵衛の福井移住は元和元年(1615)頃と推察される。時は折しも、豊臣家滅亡を前後するころに重なっている。理由は分からないが、劇的な時世の変化が背景にあったと思われる。又兵衛にとっては不本意な移転であっただろう。「廻国之記」において、又兵衛は「詩歌管弦の歌舞」に親しみ過ごしたみやこ暮らしの華やかさを述廻し、その対比によって「鄙(ひな)の住ゐ」に甘んじ、「いやしの賎(しず)に交」った福井の生活を語る所など、当時の又兵衛の心境を推測させるものはある。福井に移り住んだのは、直接的には越前北庄(きたのしぉう)の本願寺派の興宗寺の僧、心願の誘いによるとするが、背後には藩主松平忠直公の京都からの文化人招聘の意向があったと思われる。忠直は、徳川家康の次男結城秀康の長男で六十八万石を有する越前北庄藩二代藩主である。名門出身の忠直と荒木村重の血を引く又兵衛との交流の様が推測できる。忠直は乱交や将軍家に対する不遜な行動が重なり、元和九年(1623)改易となり、弟の忠昌(ただまさ)がこれを継いだ。又兵衛はそのまま福井に止まり、寛永14年(1637)、江戸に出るまでおよそ二十年を福井で過ごした。福井在住時代に多くの作品を残したが、一連の絵巻物は、すべて福井時代の制作である。又兵衛は、福井では工房を持ち、自身が制作する同時に、工房の弟子たちに背景や建造物などを描かせていたと思われる。だから、MOA美術館では、中山常盤物語絵巻は伝岩佐又兵衛と、慎重な態度を取っている。(辻氏は「巻一から巻四までは、又兵衛の真筆であると断言している)私の目から見ても、工房の弟子に任せた部分が、想定できる。山中常盤絵巻の特徴は、まず彩色にある。人物や建物などぬは、群青、緑青、臙脂、丹、黄土等の原色によるけばけばしい配色を施し、金銀泥でこまやかな文様を加えられて、派手な装飾効果が強調されている。中でもショッキングなのは、巻四の常盤殺しの場面である。六人の盗賊が、常盤の宿に乱入し、主従の衣を剥ぎ取って逃げようとする。常盤が、小袖を返すか、さもなくば刺せと迫ると、戻って常盤を刺し、更に侍従も刺し殺す。この過程を、画家は、執拗に反復する。日本の国宝、重要文化財で血を流す様子を描いたものは珍しい。私は、雪舟の「慧可断碑図」と、又兵衛の絵巻物以外に見たことが無い。常盤と侍従が夜盗に遭って、裸にされ、刺殺される場面を延々と4場面も描く作者の精神にはリアリズムを通り越し、嗜虐的情熱を感じるのである。巻八以降の仇討の場面もスゴイ。牛若が、片端から首を刎ね、胴切り、真向唐竹割りで、あっさり六人を退治してしまう。これも見事な場面である。兎に角、岩佐又兵衛を議論するためには、欠かせない絵巻物であり、私は、想像以上の感激を受けて帰ったのである。まだ見ない二本の絵巻物も逐次公開されるだろうから、すべてを拝観した上で、「岩佐又兵衛論」を書いてみたい。辻惟雄氏の「奇想の系譜」が世に出て50年近い歳月がたったが、伊藤若冲、曽我蕭白、歌川国芳などは世間の評判が高いが、まだ岩佐又兵衛の評価は高く無い。しかし、「舟木本・洛中洛外図」は、国宝に指定され、専門家の間では着々と評価が上がっている。いずれ、若冲を抜き、著名な作家と認識される時代は、さほど遠くないだろう。

 

(本稿は、図録「岩佐又兵衛作品集」、辻惟雄「奇想の系譜」、辻惟雄「岩佐又兵衛ー浮世絵をつくった男の謎」、篠田達明「浮世又兵衛行状記」、菊地寛「忠直郷行状記」、を参照した)

東大寺   お堂(2)

東大寺の境内には、多数のお堂が存在する。特に、東大寺の創建や、再建に功績のあった名僧たちを祀るお堂が多いが、それ以外に鐘楼や転害門(てがいもん)などもある。いずれも歴史があり、東大寺を語るには欠かせない重要なお堂や尊像等である。御堂(2)として、(1)以外のお堂について述べたい。

行基堂  木造  1間四方

聖務天皇は、天平15年(743)10月15日に紫香楽宮(しがらきぐう)で、「廬遮那仏建立の詔」を発せられた。造立の詔の中で聖務天皇は「自ら念を存し、廬遮那仏を造るべし」、「人有りて一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんこと情(こころ)に願はば聴(ゆる)せ」と述べ、皆のための大仏として、造立に広く民衆に自主的な協力を求めたのである。大仏建立は詔が発せられた紫香楽宮で始められた。当時、すでに民衆からの厚い信頼を得ていた行基が聖務天皇の思いに賛同し、勧進の役を担った。すぐに行基は弟子たちを伴って諸国の勧進に出発した。天平17年(745)5月に平城京に遷都すると8月には大仏建立が大和国金光明寺の地域で再開されることになった。天平17年(745)、勧進の功により行基は大僧正に任じられ、天平21年(749)には聖務上皇らに菩薩戒を授け、行基は大菩薩号を贈られた。大仏の建立が近づいた天平勝宝元年(749)2月、残念ながら勧進の大役を担った行基は大仏の完成をみることなく、82歳の生涯を菅原寺で亡くなった。行基堂は、その行基を祀るために創建された建物である。鐘楼と同じ岡の地区に建ち、質素な方1間の小堂である。如何にも行基らしい粗末なお堂である。

重要文化財 行基画  (四聖御影より 部分)   南北朝時代

行基は、大仏建立の功により、聖務天皇などと共に、「東大寺四聖」の一人に数えられている。聖務天皇、菩提僊那、良弁、行基を「四聖」と呼んで、この「四聖」を描いた「四聖御影」(ししょうみえ)永和本(えいわほん)が伝わっている。その一部である。行基は文殊菩薩の化身とされている。

俊乗堂  入母屋造 本瓦葺           江戸時代(18世紀)

俊乗堂は、鐘楼のある広部に南面して建つ方3間の建物である。江戸中期、公慶上人が重源上人を安置する御影堂として、宝永元年(1704)に建立し、この時、重源像の厨子や位牌なども造られた。落慶御、重源のために法華八幡講が営まれ、現在も続けられている。

国宝  重源商人坐像  木造 像高82.5cm   鎌倉時代

等身大の檜の寄木造りである。俊乗堂に安置されている。やや前かがみに背を丸め、両手で数珠をつまぐる写実的な像である。重源が自寂した直後に造られたものである。作者は、重源を信仰の師として仰いだ快慶とする説もあるが、作風から運慶説もある。毎年7月5日に特別公開される。

国宝 鐘楼  入母屋造り  本瓦葺き        鎌倉時代(13世紀)

大仏殿東方の台地上に建つ。古代伽藍の一般的な鐘楼の位置とは異なるが、梵鐘にも焼損の跡がなく、当初からここに建てられたと考えられる。この鐘楼は、重源に次いで第2代東大寺勧進となった栄西(えいさい)によって、承元年間(13世紀初め)に再建された。基壇上に方1間、四方を吹き放して入母屋造りの屋根を載せている。日本禅宗の祖、栄西が宗で学んだ禅宗様と大仏様の様式が加わった、豪快な建物である。

国宝  梵鐘  銅造  総高 385.5cm  奈良時代(8世紀)

東大寺創建当初に鋳造されたものである。大法要前に集会(しゅうえ)をうながす際や、毎夜8時に撞かれた。大晦日には,NHKの「行くとし、来るとし」で、全国に除夜の鐘として流されたこともある。

勧進所入口(阿弥陀堂、八幡堂、公慶堂など)    江戸時代(17世紀)

勧進所は、大仏殿の西方、戒壇院と大仏殿の間の地にある区域をさす。貞享3年(1686)公慶上人は露座のままだった大仏の修理と、大仏殿の再建のため勧進所(龍松院)を創建し、ここを復興の本拠地として、京都・江戸など全国へ行脚し、勧進に勤めた。勧進所(非公開)には五劫思惟阿弥陀像(ごこうしゆいあみだぞう)を安置する阿弥陀堂や、僧形八幡神を祀る八幡殿、公慶上人を祀る公慶堂なども建っている。

国宝  僧形八幡神坐像  木造 像高87.1cm  鎌倉時代(13世紀)

建仁元年(1201)に快慶により造作された像で、勧進所八幡宮の御神体として制作された。東大寺の鎮守八幡宮の御神体として制作された。京都の神護寺から鳥羽天皇に献上され、鳥羽勝光明宝蔵に収められていた弘法大師由来と伝える八幡神画像に基づき造立されたものである。重源が快慶に写させて制作したという。檜の寄木造り、彫眼、彩色の像で、右手に錫杖、左手に数珠を持つ。秘仏のため、美しい色彩がそのまま残されている。毎年10月5日に転害会(てがいえ)の折に開扉され、拝観できる。重源上人像と同じ日であるので、覚えておくと同日に2つの秘仏に拝することが出来る。勧進所内の八幡殿に祀るが、明治以前は手向山八幡宮に安置されていた。

重要文化財 五劫思惟阿弥陀如来坐像  木造 像高106.ocm 中国宋時代

阿弥陀如来は、西方に極楽浄土を構える以前、五劫の間、思惟(しゆい)されたという。それに因んで作られたもので、頭髪は手入れせず山姥のようになっている、手の印は定印と合掌の二つがあるが、本像は月松印である。東大寺に伝わるこの像は、重源上人が、宋より将来された新様式である。珍しい様式である。私は奈良、京都で5仏を知っているが、数は多くないと思う。勧進所の阿弥陀堂に安置され、10月5日の転害会(てがいえ)の日のみ拝観できる。私は、「東大寺大仏展 2010年」で拝観している。

重要文化財 公慶上人坐像  木造 像高69.7cm  江戸時代(18世紀)

江戸時代前期の東大寺の僧・公慶(1648~1705)は、大仏殿の再興者である。宮津の人で、13歳で東大寺の大喜院に入り、英慶を師として出家し、主に三論を、学んだ。また、修二会にも練行衆として18回余り参籠している。当時大仏殿は三好三人衆と松永久秀の合戦で消亡し、大仏も露座のままであった。公慶は復興の志を固め、貞享元年(1684)大仏再建の勧進を始めた。公慶は、幕府より勧進の許可を得ると、鎌倉時代の勧進聖で東大寺再興の立役者・重源がかって住んだ地に勧進所(龍松院)を設けて、勧進活動を本格的に始めた。全国各地を巡ったが、その誠と熱意の姿に感動して,多数の人々が、多くの布施を施した。元禄5年(1692)には、大仏の補修を完成、開眼供養を行った。さらに元禄7年(1694)江戸に行き、幕府から諸国勧進の便宜を与えられ、諸大名の寄進などもあって宝永2年(1705)に大仏殿の上棟式を挙げたが、落慶を見ることなく、同年江戸で没した。公慶はまさに「俊乗坊重源の再来」と言える人である。この坐像は、勧進所内の公慶堂に安置されている。私は、2010年の「東大寺大仏展」で、拝観している。

国宝  転害門(てがいもん) 切妻造 本瓦葺 八脚門 奈良時代(8世紀)

東大寺西面大垣の北端に位置し、一条大路(通称 佐保通り)に向かって開かれた堂々たる門である。天平宝宇6年(762)頃の造営と考えられる。創建当初の伽藍建築を想像できる唯一の建物である。東大寺の鎮守・手向山八幡宮での転害会(てがいえ)がここを御旅所としたことから、その名がある。昭和20年代は、ここは外部と閉鎖されて、佐保通りへ出られなかったが、現在は通用門が出来て、外部と往来できるようになった。

 

 

御堂は、総じて言えば、東大寺創建、再建に功労のあった人々を顕彰するようなお堂が多いが、鐘楼、転害門等、創建時、再建時の建物もあり、古い時代の東大寺を偲ぶこともできる。大仏殿だけが、東大寺ではない。様々な御堂、建造物もしっかり見てもらいたい。

 

(本稿は、ビジュアル文庫「東大寺」、図録「東大寺大仏 天平の至宝 2010年」、原色日本の美術「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」、「第9巻 中世寺院と鎌倉彫刻」、探訪日本の古寺「第12巻 奈良Ⅲ」を参照した)

東大寺   お堂(1)

東大寺には、今まで上げた南大門、大仏殿、法華堂、二月堂以外に多数のお堂が有り、中には国宝や重要文化財に指定されているお堂、仏像、彫刻も多い。ここでは御堂の名称で、出来る限り数多くの堂宇と、その中に収められた仏像、彫刻等を記録しておきたい。案外、専門書にも書かれない御堂がある。

重要文化財 四月堂(三昧堂) 寄棟造 本瓦葺  江戸時代(17世紀)

法華堂の西に、東面して建つ3間四方の堂である。現在の堂は延宝9年(1681)の建立であり、延宝再建時は宝形造りであったが、その後元禄16年(1703)に改造されて、現在のような寄棟造になった。「法華経」を読誦(どくじゅ)して犯した罪障を懺悔して、諸仏の前で赦しを乞う「法華三昧」という法会を行ったことから、三昧堂と呼ばれ、古くは普賢堂とも呼ばれたそうである。千手観音像を本尊とし、須弥壇の両脇に阿弥陀仏と薬師如来像を祀る。北側(裏側)に旧本尊の普賢菩薩像を安置している。

重要文化財  千手観音菩薩立像  木造  彩色       平安時代(9世紀)

正しくは十一面千手千眼観音と呼ぶ。この観音には千の手があり、しかも千手の一つ一つに目が付いていることによって一切の衆生の苦しみをその目で見、その手で救って下さるという。一番多いのは、千手を絞って四十二臂としたものである。この像も、四十二臂と四十二目と見られる。(現在、東大寺ミュージアムに安置されている)

重要文化財 普賢菩薩騎象像  木造  彩色     平安時代(9世紀)

四月堂(三昧堂)の旧本尊であり、現在は北側(裏側)に安置されている。普賢菩薩は、文殊の知恵に対し普賢の行願といい、法華の行者あれば常にこれを護念するといい、普賢菩薩はそれを表している。象に載り合掌する姿が多いが、この像は合掌していない。法華三昧の本尊として祀られることが多い。制作は平安時代と考える。

国宝  開山堂 宝形造 本瓦葺  慶長2年(1250)鎌倉時代(13世紀)

二月堂の西にある開山堂は、元来は重源の造営したお堂で、四方に回縁(まわりえん)を備えた1間の小堂であったが、移築し拡張したものである。開山良弁僧正坐像(秘仏)を安置することから良弁堂とも呼ばれる。開山堂は、重源没後の建長2年(1250)に現在地に移された際に外陣を付加して、方3間の堂となった。小堂ではあるが、純大仏様式の建築として、東大寺再建時の数少ない貴重な遺構である。

国宝  良弁僧正坐像  木造 像高92.4cm  平安時代

等身大の堂々とした檜の一木造りの坐像である。開山堂内陣の六角の厨子に祀られている。右手に生前愛用と伝える如意を構える。壮年期の良弁の風貌を写したと言われる。開山堂に安置され、秘仏であるが、12月16日の良弁忌に特別開扉される。なお同じ日に、法華堂の秘仏「執金剛神立像」も開扉されるので、覚えておくと2つの秘仏を拝める。

手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)入母屋造 本瓦 江戸時代(17世紀)

法華堂の南に建つ建物である。もとは東大寺鎮守八幡宮といい、宇佐神宮(大分県)の宇左八幡宮大上(おおかみ)を勧請(かんじょう)して建てられた。八幡宮は、東大寺大仏の建立について託宣を下したことで、天平勝宝元年(749)東大寺に勧請され、それとともに神仏習合によって八幡大菩薩となり、仏教寺院の鎮護神として広まった。興福寺が、神仏習合で、非難され、五重塔が焼かれるような運命に遭ったが、さすがに東大寺には、時代の荒波も押し寄せなかったようである。現在の本殿は、公慶上人により元禄4年(1692)に再建された。

重要文化財 大湯屋 正面入母屋造 背面切妻造 本瓦葺 室町時代(15世紀)

大仏殿の北に当たり、鐘楼のある岡の北の谷間に建つ。当初の建物は治承4年(1180)の兵火で焼け、重源により再建された。以後、幾度かの建て替えや修理を経て、昭和の解体により、15世紀初めの応永年間修理の時の姿に復元された。大仏様と禅宗様を混用し、東大寺の伝統と斬新なデザイン感覚を見せる建物で、中世の沐浴の様子を伝える貴重な遺構である。

 

東大寺には、正倉院とか転害門(てがいもん)とか、様々な御堂が建っている。今回は四月堂、開山堂、手向山八幡宮、大湯屋など法華堂に近いお堂を招介したが、次回以降は、お堂(2)や遺跡などについて稿を改めて紹介したい。

 

(本稿は、ビジュアル文庫「東大寺」、図録「東大寺大仏 天平の至宝 2010年」、原色日本の美術全30巻のうち「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」、「第9巻中世寺院と鎌倉彫刻」、探訪日本の古寺第12巻「奈良Ⅲ」を参照した)

東大寺   戒壇院

栄耀(えいよう)と普照(ふしょう)、二人の僧が、授戒の師を求めて入唐(にっとう)したのが、天平5年(733)である。その9年後、二人は慶州大明寺(だいみょうじ)に鑑真を訪ねて授戒師の渡航を懇願した。鑑真は日本への渡航を志して12年、5度にわたる挫折を経験して、天平勝宝5年(753)に日本の土を踏んだ。翌年(754)2月に平城京に入り、4月には大仏殿前に戒壇を築き、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに正式な綬戒を行った。後に建立された下野国薬師寺、筑紫国観世音寺の戒壇とともに「三戒壇」と呼ばれ、東大寺の戒壇院は、官僚の養成所として重きをなした。戒壇院の建立は東大寺要録によれば、天平勝宝7歳(755)である。この戒壇院は、東大寺境内の西方に建てられているが、大仏殿前に築いた戒壇との関係について不審に思っていたが、今回精査することにより、全く別途のものであることが判明した。大仏殿前には、灯籠があったので、多分、大仏殿前の右か左の広場(現在の回廊の中)であったと思う。戒壇院の創建は、天平勝宝7歳(755)であるが、兵火などにより3回も焼失した。現在の戒壇院は、江戸中期の享保17年(1732)に再建されたものである。

戒壇院の入口                    江戸時代(18世紀)

戒壇院には、東大寺要録によれば、講堂、三面僧坊などがあったことが知られているが、現在は千手堂が付属するのみである。現在の戒壇院は、やや丘のように盛り上がった地であり、階段を上がると四脚門がある。大仏殿には、年間数百万人の観光客が来るが、戒壇院まで来る人はその5%にも満たないそうである。確かに、私が戒壇院を訪れても、殆ど見物客を見ない。

戒壇院建物                   江戸時代(18世紀)

四脚門を入った戒壇院は本瓦葺きで、正面に広い光背が付いている。

戒壇院建物を取り囲む白い庭

戒壇院を取り囲む庭は、白く清められている。とても気分が爽快になり、改まった気持ちになる。

戒壇院内部

中央に多宝塔、2段目に四天王像を安置している。戒壇院内には、多宝塔を中心に、剣を握る持国天、戟を持つ増長天、右手で宝塔を捧げる多聞天、筆と巻子を両の手にした広目天が安置され、四周を守護している。この四天王像は、私は天平彫刻の最高傑作であると思う。全身に彩色紋の痕があって、造立当時の華麗さをしのばせる。創建当初の戒壇院には銅像の四天王像が祀られていたが、平家の戦火で焼かれ、現在の塑の像は、江戸時代の享保17年(1732)に戒壇院が再興された時、中門堂にあった四天王の古像をここへ移したものであるとされる。(私は、一番昔は法華堂内に安置されていたと考えている)

国宝  持国天像  塑像彩色  像高 163.6cm  奈良時代(8世紀)

東南に位置し、かれのみが兜をかむり、手には剣をとって、足はしっかりと邪鬼を踏む。また、目はしっかりとみひらき、口はぎゅっとへの字に結んで、像身全体に断固たる意志力がこめられている。

国宝  増長天像  塑像彩色  像高 163.6cm  奈良時代(8世紀)

西南隅に立ち、右手に矛をつき、左手を腰にあて、大喝しながら厳しく相手に迫ろうとする姿である。このように持国天と増長天には、ともに仏敵破㳃の積極的なはたらきが示されている。

国宝  広目天像  塑像彩色  像高 163.3cm  奈良時代(8世紀)

広目天は筆と経巻を持ち、よく儀軌に従っている。私は、高校2年生の時に、京都大学を出た若い英語の教師に、この写真を示され「どうです。いいでしょう。怒りが内にこもっているところが素晴らしいでしょう」と説明されたことがあった。ひょっとしたら、この先生の影響で、大学時代に大和古寺巡礼の旅を思い立ったかも知れない。17歳の高校生に与えた影響は実に大きいと思う。そのせいか、四天王像の中では、この広目天が一番好きである。

国宝  多聞天像  塑像彩色  像高 162.4cm  奈良時代(8世紀)

東北隅に立つ。宝塔を捧げるところは儀軌にしたがっている。この広目天、多聞天の二像の形状は非常に静的であり、顔の表情もほとんど怒りをおもてに表さず、細くあけられた目の奥で、視線はなにか永遠なものへ向かってじっと見据えられている。しかしその知的な瞳は、前に立ついかなる者の心中を鋭く見通してあやまりなく、もしも邪悪な心の者があれば、この像の喝破を受けておのずから悔いあらためざるをえないものであろう。広目・多門の二天に現されているものは、仏の静かな叡智がうちに秘める偉大な力である。

 

様々な思い出を持つ四天王像は、私に何時も大きな喜びを与えてくれる。これほど、激しくて、静かな四天王像は見たことがない。仏敵の降伏をちかう四天王の姿勢にも、内面的なものと外面的なものとの二態があることは、この戒壇院の像によく具現化されているわけである。この四天王の制作者は、これが群像表現の上に動と静のみごとな対称として芸術化したものである。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏ー天平の至宝  2010年」、ビジュアル文庫「東大寺」、探訪日本ンお古寺全15巻の内「奈良Ⅲ」、田中英道「日本美術史全史」、原色日本の美術全30巻の内「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」を参照した)

江戸と北京  18世紀の都市と暮らし

18世紀には江戸の人口は100万人を超え、都市として発達を遂げていたが、北京も清朝の首都として最も繁栄を極めた時代であった。日本と中国には文化交流の長い歴史があり、江戸時代の「鎖国下」においても中国貿易は公認され、長崎を窓口として、文物の交流は続いていた。この展覧会は、18世紀を中心にしたそれぞれの都市の成り立ちや人々の暮らしを比較展観する企画である。私の興味は、ベルリン国立博物館から出品された「熙代勝覧」(きだいしょうらん)を観ることである。この作品は、このブログで書いた「お江戸散歩」の中で、摸作品が三越日本橋店の地下1階の地下鉄沿いに展覧していることに発する。どうしても本物を見たい、しかし、今更この作品だけを見るためにドイツまで出かける体力が無い、時間はあるが経済力が乏しいと考えていたところ、江戸東京博物館で、この「熙代勝覧」と、併せて故宮博物院から乾隆帝80歳の式典を色鮮やかに描いた「乾隆八旬万寿経典図巻」が国外において初公開となり、北京の賑わいと華やかさを伝えると、同時に康熙帝60歳を祝う「万寿盛典」も同時公開されると聞いて何が何でも拝観したと思ったのである。従って、この3図については、出来る限り詳しく調べるが、他の項については、手抜きすることにして1回で書き終わるようにした。なお、日本の美術品は江戸東京博物館の、北京は首都博物館(在北京)の所蔵品であり、例外として故宮博物院とベルリン国立アジア美術館の所蔵品が各1点あるのみである。

乾隆八旬万寿経典図巻(けんりゅうはちじゅんまんじゆきょうてんずかん)清時代故宮博物院

皇帝の誕生日を祝日にしたのは、唐代の玄宗皇帝が初めとされ、千秋節と呼ばれていた。清代では万寿節と称し、元旦、冬至と並ぶ宮廷の三大祝典と定められた。人生の節目とされる60歳、70歳、80歳の祝いはひときわ盛大で、中でも康熙52年(1713)の康熙帝60歳の祝賀は最も華やかであり、文献や絵巻に記録されている。康熙帝の孫である乾隆帝は、80歳を迎えた乾隆55年(1790)は祖父にならった豪華な式典を挙行した。その記録図が、この図巻である。園林の離宮から西直門を経て北京に入り、紫禁城正華門に至る行列を左から右に向けて展開させ、沿道に設けられた舞台や様々な飾り物、行列の見物に訪れた人々を鮮やかに描いている、上下両巻で計130メートル余りとなる。

万寿盛典(まんじゅせいてん)全120巻、康熙56年(1717年)刊清時代

「万寿盛典」は、康熙帝の60歳の誕生祝賀行事を記録した書物で、その巻41,42は図版である。掲載された148枚の図は、つなぎ合わせると一続きの絵になり、長さ50メートル余りにもなる。康熙帝が西郊の離宮・暢春園(ようしゅんえん)から内城にあたる紫禁城に戻るまでの行列と、沿道を彩る装飾や多種の演劇舞台など華やかな慶祝の様子が、忠実に描写され、見物に集まった人々も描かれている。この図面の場合は、左から、店舗、菓子屋、仏具店、香料店、八百屋、仕立屋、煉瓦屋、薬屋、が並んでいる。北京の繁栄の様が見える。この図の構成に注目が集まり、「熙代勝覧」の作成の下絵に参考とされた可能性が高い。

「熙代勝覧」(きだいしょうらん)作者不詳 江戸時代(18世紀)ベルリン国立アジア美術館

東海道の出発点である日本橋と、遥かに富士山を望む、浮世絵の世界である。

日本橋通りの三井越後屋の前である。江戸店(えどだな)でも随一の呉服商である。三井家の越後屋で立看板には「現銀無掛直」(げんきんかけねなし)とある。

神田今川橋から日本橋までの日本橋通りにおける、商家が続く街並みと人々で賑わう様子を詳細に描いている。回向院再建の勧進箱と記される文字から、文化2年(1805年)に描かれたと推察される。文化3年(1806年)の大火で当該地域は焼失しており、それ以前の18世紀後半における日本橋風景が想起される。なお「熙代勝覧」とは「輝ける御世の優れたる景観」の解釈がある。図の中には1700人近い人々や犬、猫などが登場している。この絵はⅠ3年振りの里帰りであり、絶好の機会に見ることができた。全長12メートルの長巻である。図録の末尾に江里口友子氏の”「熙代勝覧」と「万寿盛典」”と題する論文が掲載されており、興味深い見解が述べられているので、最後に紹介したい。

漢装婦嬰図(赤子を抱く漢族の女性)  清時代(18世紀)

北京では、子供が生まれて三日目に来客を迎えて宴席を開き、そして初めて産湯に浸からせる「洗三」(せんさん)や、最初の誕生日に書籍や筆、算盤など様々な品を子供の前に並べ、そこから何を手に取るかで子供の将来を占うという儀礼が行われる。漢族の服装をした女性が、頭頂部で髪を結んだ赤子を抱きかかえる所を描いた絵である。(育てる)

婦女一代鑑 喰初めの図  天保14年(1843) 歌川國定(初代)

子供が生まれて100~120日目には、生涯食べることに困らないようにという親の願いを込めて、小さな祝い膳を用意して食事の真似事をさせる「お喰い染め」が行われた。本資料はこの様子を描いたもので、右上には解説も付されている。なお、愛知・岐阜県では、この「お喰い染め」の習慣は、現在も残っている。(育てる)

過年新都(正月用吉祥画)   清時代(18世紀)     (歳時)

18世紀の北京では、満州族や漢族のほか蒙古、チベット、イスラム系民族など多くの民族が集住し、異文化の受容と融合が進み、より多彩で特徴的な風習が育った。この絵は、新年を祝うために、門口や屋内の壁に飾られる版画で、門神とともに年越しの必需品であった。明代以降、木版印刷によって大量生産されるようになり、鮮やかに彩色した木版年画も多く作られた。福寿や富貴を祈願する画、神話伝説・民間故事など見て楽しむ画、さらに子女を教育する画など幅広い題材を取り扱って、富裕層から庶民まで親しまれた。本資料には大晦日に家族団欒で、神や先祖を拝んだり、餃子を作ったりして愉しむ様子が描かれている。

「十二ケ月絵巻」正月の風景  英一峰作   江戸中期   (歳時)

十二ケ月の行事と風景を描いた絵巻のうち正月の場面である。画面左上の門には角松と正月飾りが備えられ、その横に裃を付けた男性が立つ。彼はおそらく年礼(年始の挨拶)に訪れたとみえ、お供の人物から年賀の品である年玉を手渡されている。左下には、正月の遊びに興じる子供達も描かれている。

天中五毒献瑞図(端午の節句に掛ける絵)  新時代(18世紀)  (歳時)

「天中」とは端午の節句のことで、五毒はその時期に活発になり、毒を持つとされるサソリ、蛇、ムカデ、ガマ、ヤモリの五種の生き物を指す。中心には五毒を避ける力がある虎が描かれており、端午の節句には厄除けのためにこうした絵を掛けた。また絵の中には五毒以外に、様々な旬の果物も描かれている。

五毒肚兜(端午の節句用腹掛け)  清時代         (歳時)

黒地に花、真中に虎、そしてその周りにサソリ、蛇、ムカデ、ガマ、ヤモリの五毒が刺繍された子供用の腹掛けである。5月になると活発になる五毒に対抗するため、子供にはこうした刺繍の施された腹掛けを着せた。

「江戸名所百景」水道橋駿河台  歌川広重作  安政4年(1857)

歌川広重は人気絶頂の浮世絵師であり、北斎を凌ぐ人気を博していた。五月五日の端午の節句は、男児の節句であるという考え方で、武家社会であった江戸時代には特に尊ばれた。この日は邪を払うとされる菖蒲や蓬を身に付けたり、屋根に掛けたりしたほか、酒に菖蒲をいれて菖蒲酒も飲まれた。現代では、菖蒲をお風呂に入れる習慣として残っている。鯉登りを庭先に立てて、子供の立身出世を願った。

 

いろんな歳時は、中国からわが国に輸入され、同じ歳時が、夫々独得に発達したのである。さて、「熙代勝覧」について、図録の巻末に江里口友子氏の”似てて、違って、おもしろい。「熙代勝覧」と「万寿盛典」”という優れた論文があるので、出来るだけ簡潔に触れたい。巻頭の題字「熙代勝覧」は書家・佐野東州の揮毫で、「熙(かがや)ける御代の優れたる景観」と解される。「万寿盛典」は、清朝の全盛期の基礎を築いた康熙帝(こうきてい)の60歳を祝し、帝の詩文や事績、祝賀行事などを詳細に記録した書籍で、康熙56年(1717年)に刊行された。全120巻のうち巻41,42は帝の行列と沿道の祝賀の様子を描いた版画であり、延べ50メートル余の絵巻になる。「熙代勝覧」には落款がなく、絵師は不明である。候補として、巻頭の題字を書いた佐野東州の娘婿が山東供山であったことなどから、その兄の戯作者で絵師でもあった山東京殿(さんとうきょうでん)の説、また絵の作風から勝川春英の説があるが、確定には至っていない。山東京伝は考証学者の一面も持ち、江戸の街頭風景を画文で表した「四季の交加(こうが)」を出版していることから企画者としても考えられている。特に「四季の交加」には「熙代勝覧」と類似する構図が幾つかあることが知られている。「万寿盛典」を参考にした場合、「熙代勝覧」の絵師が実見する機会はあったのであろうか。絵師ではないが、山東京伝の周辺で「万寿盛典」を実見した可能性が高い人物がいる。戯作者で狂歌師の太田南畝(おおたなんぽ)である。南畝は1794年、学問吟味でお目見得以下の主席になり、1801年1月に大阪銅座御用の命を受け、1801年3月11日から1802年3月21日までの約1年間、大阪南本町五丁目の宿舎に滞在していた。その際、「唐土名所図会」の企画者である木村兼葭堂(けんかどう)と頻繁に往来し、1801年6月から翌年1月の間に数回面会したことが「兼葭堂日記」に記されている。兼葭堂は書斎名で、大阪北堀江で酒造業を営んでいた。本草学・物産学を学び、絵画・詩文に長じて様々な器物や書籍類を収集し、出版も行う多芸多才な人物であった。彼のコレクションと知識の広さは、全国に知れ渡り、各地から情報取集や蔵書閲覧を求めて多くの者が集まった。(伊藤若冲も木村兼葭堂と旧知の間柄であった)2万巻に及ぶ蔵書は、1802年に没すると、蔵書の多くは幕府の命により、翌年、下賜金と引き換えに昌平坂学問所に収められた。大田南畝が兼葭堂から情報を得て「唐土名勝図会」編集に用いられていた「万寿盛典」を閲覧した可能性は高い。ところが、その頃、新たな「万寿盛典」の入荷があった。その情報は、南畝の記録に見られる。南畝は1804年から2年間、長崎奉行所の配下として長崎に勤務する。彼は長崎で見聞した唐船の書籍や海外からの新奇な情報、様々な書画などを自著の「瓊蒲又綴」(けいほゆうてつ)等に記録している。「瓊蒲雑綴 巻上」には、1805年1月24日から31日頃の間に清から長崎に入港した中国船の積荷書籍中に「万寿盛典初集」があったこと記されている。南畝が入手することは不可能であっただろう。南畝が連絡して入手させた可能性も想定できる。積み荷の到着した文化2年(1805)1月下旬からほどなく、「熙代勝覧」制作の関係者が「万寿盛典」を入手したと仮定した場合、絵巻の作業工程から判断して「熙代勝覧」の完成は早くても文化3年(1806)以降と推察される。「熙代勝覧」の駿河台町の場面には、回向院本堂再建勧進者の後に付き従っている男性の担ぐ木箱に「文化二年」の銘が記されている。文化3年(1806)3月4日の大火(丙寅大火)で焼失した江戸の街に対するオマージュを込めて、繁栄していた焼失前の姿であることを暗に示すために、この紀念銘は書き込まれたとも考えられる。この文化二年の書き込みから判断して、少なくとも下絵の準備は文化2年(1805)になされており、完成への実際の作画は多少遅れてたとの指摘もある。想像を逞しくすることが許されるならば、「熙代勝覧」の構想を結実させることが出来た大きな要素である「万寿盛典」を、発注者が入手した記念すべき年、あるいは構想が調った年を記したものとは考えられまいか。「熙代勝覧」には、徳川幕府の治世と江戸の繁栄を紀念し、かつ祈念する意も込められて、「熙代」の文字が用いられたに相違ない。このように、それぞれの都市の18世紀の繁栄を描きとどめた「熙代勝覧」と「万寿盛典」は、様々な情報を未来の私たちに伝え、その輝きは未だに精彩を放ち続けている。

さて、私は「お江戸散歩」で思いがけない絵巻「熙代勝覧」に出会い、何とか「本物」を拝見したいと考え続け、思い続けたが、今回、予想外に「熙代勝覧」と「万寿盛典」に接することができ、この半年間思い続けた夢が適った。ただし、「江戸と北京」という展覧会の紹介はかなり省略したことになったが、何分にも「熙代勝覧」を詳しく知りたいとの思いが、すべてを決し、最後には江里口友子さんの論文の要領をまるきり写した感じのまとめとなったが、お許しを戴きたい。

 

(本稿は、図録「江戸と北京 18世紀の都市と暮らし 2017年」、伊藤康広「伊籐若冲」、日本橋保存会「熙代勝覧  パンフレット」を参照しした)

 

 

 

春日大社  千年の至宝(2)

本殿が創建されてしばらくののち、長岡京、平安京と都が遷り、大和の地は古都(南都)として認識されるようになった。しかし、春日大社は藤原氏の氏神としてこの一門の崇敬を受け、ますます発展を遂げた。当時は数日かけてのお参りで、こうした春日への社参は「春日詣」(かすがもうで)と呼ばれ、他の社寺への参詣と一線を画す特別な機会とされてきた。春日を氏神として祀る藤原氏の春日詣は数知れず、有名な事例としては、藤原道長の「御堂関白記」(みどうかんぱくき)に見られるように、藤原氏の氏の長者たる摂関家の当主は生涯において何度も春日詣をしたが、これは自らの地位を内外に知らしめる重要な機会であった。春日詣は藤原氏のみならず天皇や上皇によっても行われた。春日大社は藤原氏の氏神から、国を守護する神として改めて認知されていくのである。

春日宮曼荼羅 二条師忠作(一説)鎌倉時代(13世紀)奈良・南市町自治会

春日曼荼羅のなかには、神と仏が一体であるとする本地垂迹思想に基づき、本社、若宮の本地仏を描く作例が多く見られる。その対応関係は第一殿・釈迦如来、第二殿・薬師如来、第三殿・地蔵菩薩、第四殿・十一面観音、若宮・文殊菩薩である。本図は大幅の一枚絹に描かれた、春日曼荼羅中最大規模をほこる作例である。一の鳥居を起点として金色の参道が通り、左手に東西両塔を見て、参詣の道筋が良く描かれている。画面上部には三蓋山、春日山、若草山が配列さえれている。この山並みに本地仏が、五体配列されているが、これは珍しい特徴である。慶長19年(1614)には、南市の春日講本尊であったことが確認されるが、制作者は二条師忠との説がある。

春日浄土曼荼羅  鎌倉時代(13世紀)  奈良・能満院

画面下部に二乃鳥居以東の春日社殿を、上部に本地仏とその浄土を截金(きりかね)を使用して壮麗に描き出した優品である。春日の神域が仏国土であることを直接的に視覚化したもので、中央に第一殿本地釈迦如来の霊山浄土等を表したものである。

重要文化財 四方殿舎利厨子  室町時代(15世紀) 奈良・能満院

木製、基壇・軸部・屋蓋から成る宮殿(くでん)形厨子である。総体を黒漆塗りし要所に朱漆と彩色を施す。軸部四方の扉奥には、春日神鹿御正体・三面火焔宝珠・大般若経宝幢・五輪塔形の金堂金具を装着し、仏舎利や木彫仏を納めた板をはめている。各種の舎利信仰の意匠を凝らし、精緻な技術を用いた、集大成ともいうべき作品である。この厨子に関して、興福寺大乗院第27代門主である尋尊(じんそん)の記録「大乗院侍者雑事記」に見える。各部分の作者も明らかである。

鹿座仏舎利  慶安5年(1652) 江戸時代(17世紀) 春日大社

白雲に坐した鹿の鞍の上には榊が立ち、その葉叢には円相の舎利容器を安置している。鹿が見にまとっているのは通常は馬につける鞍の皆具(かいぐ)であり、これを装具した鹿に榊という組み合わせは、一連の鹿曼荼羅と共通するものである。他にも鹿の足元の白雲、榊にからむ藤、その枝先に垂れる御幣(ごへい)、榊の根元に巻き付けられた布、外容器に描かれた日輪のさし昇る春日山など、通常鹿曼荼羅図に描き込まれる要素のほとんどが、集められている。外函の添状により、慶安5年(1652)に興福寺の僧侶から、金剛経とともに若宮へ奉納されたことがわかる。

春日権現記絵(春日一巻本) 伝冷泉為恭筆 絹本着色 江戸時代(19世紀)春日大社

春日信仰の一つの集大成が、鎌倉時代後期に成立した「春日権現記」(かすがごんげんき)である。春日の神々への信仰は、多くの美術を生み出してきたのである。この絵は、春日権現記の一部であり、二乃鳥居を経て南門に至る社頭の風景である。小浜藩主酒井忠義(さかいただあき)が冷泉為恭(れいぜいためちか)に春日権現記の一部を写させ、「寄贈」されたものだという。

競馬衝立(部分) 文久3年(1683) 江戸時代(17世紀)春日大社

春日社の式年造替に際して新調される衝立で、文久3年(1683)の式年造替時に調進され、若宮社に置かれたものと考えられる。神事としての競馬が、表裏両面に描かれる。故実にならい、騎手の衣装の色を赤と青に分けて戦う。片面には視線を交わし出走の間合いをはかる騎手たちの図である。相撲で言えば立ち合いの場面である。古くより宮中行事として行われていた競馬を描く衝立である。

獅子・狛犬(第一殿) 木造・彩色  鎌倉時代(13世紀) 春日大社

   

神社や寺院の入口の左右に置かれ、普通には狛犬と呼ばれるが、頭頂に角があるのが狛犬、無いのが獅子である。奈良時代までは獅子一対であったが、平安時代以降は獅子と狛犬の一対であることが多い。春日大社の第一殿の前に置かれていた。外気に触れる環境に長年置かれていたため破損も多く、第60回次造替時に本殿を離れて保存されるようになった。この2躯が、最も優れ、制作時期が古いと考えられる。ずんぐりとして、筋肉の起伏をみせる体つきは鎌倉時代の特徴である。

春日大社にまつわる宝物は多々あるが、ここで選んだ宝物は、特に私が好んだ物である。なお、武具、鎧など是非紹介したい物も多いが、2016年11月に、私は春日大社に参詣し、併せて「新宝物館」も拝観しているので、後日、そこで拝観した武具、鎧等を招介したい。

(本稿は、図録「春日大社 千年の至宝」、図録「平安の正倉院 春日大社の神々の秘宝 2012年」、現色日本の美術「第16巻 神社と霊廟」を参照した)

春日大社   千年の至宝(1)

春日大社は藤原氏の氏神として、神護景雲2年(768)に社殿が建てられて以来、千二百年余りにわたって続く神社である。約20年毎に神社御殿を造り替えを行い、これを式年造替(しきねんぞうたい)と呼び、昨年(2016年)に第六十次式年造替を行った。春日大社は国宝352点、重要文化財971点と国宝4棟、重要文化財27棟の建造物を所有し、神社の中でも屈指の文化財を保有している。春日大社は、南都焼打ち(1180)や松永久秀と三好三人衆との戦い(1567)等の影響を受けることも無く、神域の森に守られ、本殿や宝庫が焼けることも無かった。平安時代最高の工芸品は春日大社にのみ残っているものが多数あり、春日大社は「平安の正倉院」とも呼ばれている。今回の展覧会では、春日大社の宝物を集め、全国に散在する春日信仰の宝物も出品されて、約1300年の春日信仰を拝観できる機会となった。今回の展覧会では、展示品は250点に及び、展覧会の入場者も極めて多く、若い人も多数参観するという珍しい展覧会であった。春日大社は五殿から成り立っている。最初に四殿が出来、平安時代の末頃(1135)に若宮殿が創建された。元来、藤原氏の氏神であったが、天皇の母君である皇后の氏神であり関白の氏神であるため、春日大社は国家鎮護の神社になり、皇室、関白等の参詣が相次ぎ、都が長岡、平安京へと遷り、数日かけてのお詣りとなり、「春日詣」(かすがもうで)と呼ばれるようになった。今回の展覧会では、「小右記」、「御堂関白日記」、「栄花物語」、「台記」等、第一級の歴史的書物が展示され、それを見るだけでも価値がある展覧会である。(東京国立博物館3月12日まで)

鹿島立神陰図  二条英印作   永徳3年(1383) 南北朝時代 春日大社

奈良時代の初め、春日社第一殿の祭神であるタケミカズチノミコトは常陸国(ひたちのくに)鹿島(かしま)から御蓋山(みかさやま)の山頂に降臨したとされる。鹿島からの道行き、命(みこと)は鹿の背に乗り、春日の「杜」(もり)へと降り立ったという。このことから春日大社では鹿は神の使い、すなわち「神鹿」(しんろく)として神聖視され、今も奈良公園に遊ぶ鹿たちは、「命」を乗せた「神鹿」の子孫とされる。霞で隔てた画面上上段の御蓋山、春日山と月輪、鹿に乗る「命」とそれに従う老壮と壮年の二人、金色の円相、藤原氏を象徴する藤がからむ榊と枝先で揺らぐ五筋の紙垂(しで)など、ほぼ同じような画面構成である。画中に描かれる情報を絞り込むことで、礼拝画的な要素を強く押し出した画像である。礼拝の対称となった神鹿の姿は、日常的に春日に社参できない都の人々の礼拝画として作られたものが多い。

国宝 本宮御料古神宝類 黒漆平文根古志形鏡台 平安時代(12世紀)春日大社

木を掘(こ)じた(堀り起した)ような形からその名がある。「古事記」には天照大御神が天石屋戸に籠ったときに、諸神が天香久山に生える榊を根こじに掘って、上枝に勾玉の玉飾りを付け、中枝にヤタノカガミを懸け、下枝には和幣(こぎて)を垂らしたという記事がある。このような習俗が根古志形鏡台の形式に及んだものと思われる。本宮御料とは、昭和5年(1930)の造替に際して「轍下」(てっか)されたもので、これを契機として昭和10年(1935)に建てられた宝物館に収められたもので、今につながる春日大社の宝物護持の考え方につながる。

国宝 本宮御料古神宝類 紫檀螺鈿飾剣     平安時代(11世紀)春日大社

この刀剣は装飾を略した儀仗太刀(ぎじようたち)の数少ない古代の作例である。飾剣が朝議に参列する際に用いられたのに対し、これは「飾剣代」(かざりけんだい)として通常の行事で廃用された刀剣である。本作品では、平安時代後期における高度に発達した装飾表現と、上古より刀装・刀剣の伝統の結実をうかがうことができる。

国宝 若宮御料古神宝類 金鶴及び銀樹枝   平安時代(12世紀) 春日大社

春日大社若宮殿には金銀製の鶴や樹枝の造物(つくりもの)が伝わる。鶴は金の板を打ち出して作った背部と腹部を合わせて別製の足を指し込む構造である。樹枝は銀板を丸めて作っている。州浜台などに立てたらしく、亀なども付属していたと推察できる。恐らくは蓬莱山をかたどった造物であったと考えられる。なお、若宮御料とは若宮神社から「轍下」された宝物の意味である。

重要文化財  秋草蒔絵手箱      平安時代(12世紀)   春日大社

長方形合口造(あいぐちつくり)の手箱で内部に懸子が付き鏡・蒔絵鏡箱・蒔絵白粉箱・白磁合子などが納められている。表面の意匠は、厚い平目地に薄肉金高蒔絵を駆使して、萩・菊・桔梗・薄・女郎花などの秋草が風に靡く様子が表されている。本手箱は内用品が伴っている点が貴重である。

国宝 本宮御料古神宝類 蒔絵琴  平安時代(12世紀) 春日大社

甲面を研出(とぎだし)蒔絵で装飾した13弦の箏で、金、銀に加え銅粉を蒔くのが珍しく、内蒔や蒔暈(まきぼかし)などの技法も用いた平安蒔絵の再興傑作として知られる。周囲に飾られた宝相華文の螺鈿は多くが剥落しているが、花芯に琥珀を飾り、優美で力強く毛彫を加えた高度なもので、当初の華麗な姿を偲ばせる。

 

(1)では、神鹿及び古神宝類をまとめた。神宝とは祭神の御料、つまり神々の使用される物として奉納された宝物をいう。式年造替の場合、神宝類はその都度新調され、その際に役目を終えた旧神宝を社家などに下す「撤下」(てっか)という習わしがあり、この撤下された神宝を「古神宝」と呼んでいる。春日大社に伝わる古神宝は、本社に奉納された「本宮御料古神宝」と若宮(わかみや)に奉納された「若宮御料古神宝」の二つに大別される。古神宝は、平安時代における工芸技術の水準の高さを示している。「平安の正倉院」とも呼ばれる所以である。

 

(本稿は、図録「春日大社  千年の至宝  2017」、図録「春日大社の神々の秘宝 2012年」、原色日本の美術全30巻のうち「第16巻 神社と霊廟」を参照した)