没後50年  藤田嗣治展(1)  家族・パリ

藤田嗣治(1886~1968)は、明治19年(1886)に東京牛込区(現在新宿区)に生まれた。父藤田嗣章(つぐあき)は医師で、後に森鴎外の後を受けて陸軍中将軍医総監を勤めた人であり、国を担う見識と格調を備えた明治人であった。母藤田政は旧幕臣小栗信の次女であり、嗣治は次男として生まれた。西洋で言うならば格式を備えたブルジョアの家庭に育ったのである。画家への道を進みたという嗣治の希望が許可されたのは、彼が次男であったからだろう。藤田は1905年に東京美術学校西洋画科に入学した。これに関しては森鴎外の助言があったと伝えられる。美術学校においては、主任教授とも言うべき黒田清輝の「外光派」理論にはそりが合わなかったと自ら記している。藤田は1910年、23歳で美術学校を卒業、1912年、26歳の年に鴇田登美子(ときたとみこ)と結婚したが、これは恋愛結婚であったそうである。そして藤田は1913年にパリへ単身で渡仏した。藤田がパリに渡ったのは1913年であるが、当地の美術学校には入学していない。彼は、パリのモンパルナスの家に下宿するが、ここに住んでいたモデリィアーニとスーチンに合い意気投合した。彼らに連れられてピカソの家を訪れ、いきなりピカソの立体派、アンリ・ルソーの傑作を見せられたと言っている。アンリ・ルソーは「ピカソ君、われわれ二人は現代における最大の芸術家だ。君はエジプト風で、僕は現代風だけど」と、この偉大な日曜画家アンリ・ルソーがピカソに語ったとされる言葉と合せて、当時のパリ画壇の混乱状態を証言するものであろう。「印象やポスト印象派」の時代は去り、黒田の外光派は、今や時代遅れであった。1914年8月には第一時世界大戦が始まったが、日本大使館の避難勧告にもかかわらず藤田はパリに留まった。大戦によって日本からの送金が途絶えた。帰国を促す父に対し藤田は自立の決意を固めた。大戦中の藤田は立体的な絵を約3000枚を描き、デッサンを500枚描きためたが、殆ど暖を取るために燃やしてしまったと述べている。今回は、この展覧会を4回に別け、連載したいと思う。最初は「家族とパリ」で、日本に残された家族の絵と、渡仏初期のフランスでの絵画を紹介したい。

婦人像  油彩・カンヴァス    1909年   東京芸術大学

花瓶や壺の置かれた部屋で、ゆっくりとポーズを取る着物姿の若い女性像である。画面左上には「1909年5月」と記されており、東京美術学校在学中の作品と分かる。藤田が学んだ黒田の「外光派」風の教育の跡が濃い作品である。当時は、いわゆる「外光派」風の教育だった。日本では「紫派」とも呼ばれたように、影を黒色ではなく青みがかかった紫色で描くというのが大きな特徴である。モデルは不明であるが、最初の妻となる鴇田登美子(ときだとみこ)に面立ちが似ている。二人は1909年の夏頃に出会ったと言われている。この作品を長く所蔵されていた方によれば、描かれているこの女性は「藤田の初恋いの人で、親の反対を受けて、駆け落ちした相手」と伝わっているとのことである。藤田と登美子の場合、実際には駆け落ちはしなかったものの両家の反対は強かったそうである。従って、モデルは登美子ではなく「初恋の人」「駆け落ちの相手」と伝わってきたのは、二人が正式には入籍していなかった点かも知れない。出逢って間もない微妙な距離感や、すぐに彼女に夢中になっていたという藤田の高揚感も手伝っているように思える。

父の姿  油彩・カンヴァス   1909年   東京芸術大学

東京美術学校在学中に描いた父の肖像である。父・嗣章は、軍医として台湾や朝鮮などの衛生行政に尽力し、後に陸軍軍医の最高職である陸軍軍医総監となった。藤田は成人してからも、父との間には、ある一定の距離を感じていたというが、画家になる夢を認め、画家修行やパリ留学の資金を援助してくれた父に、生涯に渡り感謝の念と崇拝の念を抱いていた。

トランプ占いの女  水彩・紙   1914年    徳島県立近代美術館

当時パリに留学していた日本人画家の多くは、キュビズムには興味を示さず、印象派やポスト印象派に学ぼうとしていた。藤田がパリに到着した1913年、美術界の中心と言えばキュビズムであったが、そんな中、キュビズムに敏感に反応した藤田の姿勢は極めて先進的であった。きっかけはピカソとの出逢いだと言われる。当時の藤田の描いた絵は殆ど残っていない。この絵は、赤い服の女性がスカートの上にトランプを重ねていく姿で、頬杖をついた左手を下げ、右手へとトランプを渡し、さらに膝の上へとトランプを置いていく姿が、コマ送りのように描かれている。じっと考え込むような表情で頬杖をついたいた女性が、おもむろに手だけ動かしトランプを重ね始める、そんな占いの様子も想像される。未来派などキュビズムの手法を取り入れた画家たちが注目していた、「動き」の表現に藤田も関心を持ったのであろう。

巴里城門   油彩・カンヴァス   1914年   ポーラ美術館

1910年代末にえがかれる、パリ周辺の風景画の原型となった作品である。第一時世界大戦後の開発により大きく変貌を遂げる前の、城門跡のうら寂しい風景を忠実に捉えている。藤田が一度売却した後、1932年に旅先のアルゼンチンで発見して買い戻した経緯や「最初の快心の作」であったことが、カンバスの裏面に記されている。

モンルージュmパリ  油彩・カンヴァス    1918年 静岡県立美術館

この絵はヴァンプ門より1・5キロほど西のオルレアン門を出たあたりで、青空も高く心地よい景色である。木々の緑、道を行く女性の赤い上着など、色彩も画面に温かさを加えている。遠くに見える煙突や、柵、低い塀など、「パリ風景」と共通するモチーフも多い。穏やかな情景の中にも、城壁近くのうらぶれた寂しさを漂わせている。他の画家が目を向けなかった風景を描いたことに対し、後に本人は「自分も貧乏していたから、貧乏人の家ばかり描いた」「寂しい風景が自分の境遇そのものだった」などと語っている。

二人の女  油彩・カンヴァス  1918年  北海道立近代美術館

親密に寄り添い並ぶ二人の女性像。身体は縦に引き伸ばしたような表現やメランコリックな表情には、当時、藤田と親交のあったモデイリアーニの影響が窺える。描かれているのはモデイリアーニの画商ズボロフスキーの妻、ハンカ・ズボロフスカ(画面左)と、モディリアーニが重用したモデル、ルニア・チェフスカ(右)ではないかと考えられている。当時の、藤田の交友関係が反映されている。また、モデル達の首の長いのもモディリアーニの影響かも知れない。エコールド・パリの時代の絵画である。

私の部屋、目覚まし時計のある静物 油彩・カンヴァス 1921年 ポンピドー・センター

この作品は、1921年のサロン・ドートンヌに出品され好評を博した。藤田の代表作の一つである。この作品に対しては、評論家ジャン・セルツは「彼の芸術の最も完成された形を示している」と讃え、メルキュール・ド・フランス誌には次のように評された。「フジタは彼の技巧で絵の極限を示そうとしているように思われる。壁際の陶器の像はまさしく陶器そのものであり繊細な影が壁に巧みに投影されている」。乳白色の肌と精緻なデッサンの作品は、それまでの洋画にはない斬新で不思議な魅力でパリ画壇の人々を捉えていたことが分かる。藤田は故郷に錦を飾る思いで、パリから日本に帰る画家・和田栄作に作品を託した。ところが帝展審査員は藤田が日本ではまだ無名であることを理由に一般出品作品と同じ扱いで審査しようとしたのである。怒った父嗣章が帝展幹部に出品撤回の申し入れるという強硬な手段をとったことで解決し、出品されたものの、ほとんど注目されなかった。黒田清輝の外光派を熱狂的に受け入れた日本の美術界は藤田の作品に冷淡だった。美術評論家の森口多里は、帝展の反響を次のように記している。「この作品一点だけでは反響を呼ぶに至らなかった。人は唯、珍しい舶来品のように眺めた」パリでの成功の後、初めての日本美術界への「凱旋」は藤田の意に反して惨憺たる結果に終わった。私は、藤田の一代の傑作であると思う。

自画像  油彩・カンヴァス 1921年    ベルギー王立美術館

渡仏後、最初期の自画像である。モンパルナス、ヂランブル通りのガレージを転用したアトリエの白い壁を背に、虚ろな表情で座る藤田。後に描かれる自信に満ちた表情の自画像と異なり、物憂さをたたえたその様は、画家の内省的な一面を感じさせる。1921年のサロン・ドートンヌ出品の1点で、翌年ベルギー王立美術館に購入され、美術館収蔵作品第1号となった。

人形を抱く少女 油彩・カンヴァス  1923年  群馬県立美術館

 

1920年代の始めから乳白色の下地を生かした作品を立て続けにサロンに出品し、名声を得た藤田のもとには、次第に肖像画の注文が集まるようになっていた。本作もそうしたものの一つと考えられるが、比較的早い例である。画家として名を上げる以前に、子供、特に、少女をモデルにしたこの注文は腕のふるい甲斐のあるものだったろう。

ヴァイオリンを持つ子供  油彩・カンヴァス  1923年 群馬県立美術館

服飾デザイナー、マチュー=レヴィ夫人の息子ワグネルの肖像である。1920年代以降、藤田はパリの上流階級から肖像画の依頼を受けるようになった。夫人のアパートはインテリアルデザイナーのアイリーン・グレイによるモダーンな室内装飾で知られ、藤田とも交流の深かった日本人漆作家・菅原清造に教えを受けたと言う漆を使った壁が本作の背景のモチーフとなったと思われる。

 

藤田の画家としての出発点であった東京芸術大学に残された「婦人像」と「父の像」は思いがけない発見であった。パリ初期の「巴里城門」「モンルージュ、パリ」はいずれも暗い感じのする初期作品であるが、現在殆ど残っていないとされる中、貴重な作品例である。私は、「藤田嗣治展」を計4回見ている。最初は1988年「生誕120年 藤田嗣治展:パリを魅了した異邦人」、2013年「レオナール・フジタ展ーポーラ美術館コレクションを中心に」、2016年「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画」、2018年「没後50年 藤田嗣治展」の4回である。その中で一番充実していたのは、今回の「没後50年 藤田嗣治展」であった。今までにない貴重な作品126点を日本は元より、フランスの美術館等世界中から集めて、素晴らしい展覧会であった。また図録を見比べてみたが、今回の図録は、筆者には高橋秀爾氏、美術館長、美術史家2名、パリ近代美術館 統括監督官等実に多彩な人材を揃え、読了するだけでも丸1日掛るほどの力作であった。展示された作品の多さ、質の高さは言うまでも無く、図録の質の高さも群を抜いて素晴らしい出来栄えであった。近年、藤田嗣治氏に対する日本人の評価も高まり、戦争直後の「戦犯扱い」はさすがに無くなり、正確に藤田氏を評価する時代になった。換言すれば、亡くなってから50年も経って、やっと「故人」の評価が定まるという事実に驚くと同時に日本人の国際性の無さに驚く次第である。

 

(本稿は、図録「没後50年  藤田初嗣展  2018年」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」、図録「レオナール・フジターポーラ美術館コレクションを中心に  2013年」、近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯」、藤田嗣治「腕一本」、「巴里の横顔」を参照した)

特別展  縄文ー1万年の美の鼓動(2)

縄文時代は旧石器時代が終わったおよそ1万3千円前から、約1万年続いた時代を指す言葉である。縄文時代と呼ばれたのは、土器に施された縄文文様から来ている。縄文時代の始まりに少し遅れて、地球の氷河期が終わりを迎え、日本列島は温暖で湿潤な安定した気候に変わり、現在と同じ景観や四季が整った。当時の人々は、この多様な自然環境を巧みに利用し、狩猟や漁労、そして植物採集などを基本的な生業として竪穴住居に暮らし、定住性の高い生活を送った。この時代の造形物は「縄文時代の土器」など、「縄文」の名前が付けられる。第1部では国宝や、著名な文化財を取り上げたが、本稿では、もっと様々な生産品を取り上げ、縄文時代の「美」に迫りたい。

微隆起線文土器 青森県六ケ所村 表館(1)出土 青森県郷土美術館

表館遺跡は縄文時代草創期から後期の集落遺跡である。放射線炭素年代測定によって1万6千年前と測定された世界最古級の無文土器が出土した遺跡で、旧石器時代終末期から縄文時代草創期の遺跡が点在する。この土器は、文様が巧みに描き分けられ、稚拙さは微塵も無い。縄文土器の原点でありながら、すでに1万年に及ぶ縄文美の器の到達点がここにある。図録では「はじまりの美の器」と呼んでいる。

漆塗注口土器 北海道八雲町野田生1遺跡出土 縄文時代(後期) 八雲町教育委

注ぎ口をもつ器が登場するのは縄文時代草創期からと言われるが、この土器が縄文社会に定着し大きな役割を果たすのは後期以降になってからである。この土器には漆が塗られ、瓢型をなし、頭部には口を設け胴部に注ぎ口を付けている。器面全体に赤い漆が塗られ、下部の黒に映え、艶やかな光沢を放つ。注ぎ口土器は日常使いだけでなく儀礼や葬送の場でも用いられたと考えられている。本例は東北地方から北海道へ持ち運ばれたものとされ、注ぎ口土器が、ときに交易品としての役割を担ったことを示している。図録では「艶やかな朱漆で塗られた注ぎ口土器」とされている。

重文 木製編籠 縄文ポシェット 青森市三内円山遺跡出土 青森県教委

縄文時代の容器といえば土器が代表例であるが、そのほかにも木器、樹皮や植物の繊維を編んで作られた籠や袋などの編み物が用いられていた。本品は、教科書でもお馴染みの山内円山遺跡から出土した「縄文ポシエット」と呼ばれる縄文時代の編み物製品で、特に著名で、中にはクルミの殻が残されていた。縄文時代の編物製品は、素材の特性を活かし作られた道具そのものの美しさを備えている。

重文尖頭器長野県南箕輪村神子芝遺跡出土 旧石器時代末期~縄文草創期 伊奈市

黒く輝く石は長野県和田峠の黒曜石、乳白色や黄白色の石は新潟県以北の玉髄や頁岩、鈍く光る鼠色の石は岐阜県湯が峰の下呂石、色も産地も異なる多彩な石が、石器の原料として使われれている。石器は石を繰り返し打ち割ることにより作り上げるが、その内割り作業は時には数百回にも及ぶ。旧石器時代から縄文時代への幕開けを飾る石器は、1万年を経てなお色あせない輝きをはなつている。

重文 漆塗櫛 埼玉県岡川市後谷遺跡出土 縄文時代(後期) 桶川市教委

飾櫛としての櫛には、縦長の竪櫛と横長の横櫛がある。竪櫛は縄文時代に出現し、古墳時代まで確認することができる。一方で横櫛は、古墳時代から現代まで普及する。櫛はその形から活発な活動に適さず、結った髪に挿した装飾性の高い飾櫛であった。そのため当初は死者を飾るために造られていたが、縄文時代後期以降は櫛歯数を増やすことにより、動いても落ちにくいものへ変化し、死者から生活を飾る道具として考えられている。この後谷遺跡の櫛は木製であり、漆で固めたものである。女性が祈りの場などで身に付けたと考えられている。

重文 土星耳飾 調布市下布田遺跡出土 縄文時代(晩期) 江戸東京たてもの園

土星耳飾りは、耳たぶに穴を開けて嵌めこむものであり、縄文時代の後期以降に普及する。そのなかでも晩期の関東地方では、ほかの地域に較べかなり精巧な土製耳飾りが多い。このような耳御飾りは土偶にもよく表現されている。そのなかでも縄文時代の土製耳飾りでは最大級の大きさを誇り、精巧な透かし彫りを持つものに下布田遺跡から出土したものがある。この耳飾りは、滑車型耳飾りとも呼ばれ、その側面が滑車に似ていることから名づけられた。樹脂に混ぜた赤色顔料を塗り上げている。花弁にもたとえられる優雅な透かし彫りは美しく、縄文人による珠玉の名品である。

深鉢型土器 長野県富士見町藤内遺跡出土 縄文時代(中期) 井戸尻考古館

本例は縄文時代中期の勝板式の深鉢形土器で、「区画文筒型土器」とも呼ばれる。口縁部の一部を掻くが略完形であり、住居跡の床から押しつぶされるような状態で横たわって出土した。数ある類例の中でも白眉の土器として知られる。口縁部から底部に垂加する隆線によって器面全体を縦に五つに区画されており、筒型の形状と相まって縦長の意匠を凝らしている。この土器のような文様は「パネル文」と呼ばれているが、こうした文様には縄文があえて組み合わされない傾向にある。そうした傾向は次の曾利式土器へと受け継がれ、更に加飾性の強い土器が生み出される言動力となる。

深鉢形土器 市川市堀の内貝塚出土  縄文時代(後期)

縄文時代後期になると立体的な装飾性は影をひそめ、沈線によって構図を描く文様が重用される。この土器は大正から昭和初期に活躍した市井の考古学者上羽貞幸氏によって堀之内貝塚から採集された。器形は底部から口縁部まで反って立ち上がる朝顔形である。口縁部は波状をなし、その頂部に環状装飾をもつ突起を四単位付す。波頂部から刻み目を持つ隆帯を垂加することで、同部を四区分に分けている。区画の中央には沈線で描く渦巻文を縦につなぎ、この周囲を傾きの異なる並行斜線を組み合わせた綾杉文で満たす。器の素直な形に渦巻文と綾杉文が見事に調和した美しさを備えている。美術書にも収録される著名な縄文土器である。

両頭石棒  愛知県豊川市田町字大橋出土 縄文時代(後期)~弥生時代(前期)東京国立博物館

石棒は男性性器を象徴する儀礼用の代表例である。男性器を表現した石棒は、縄文時代前期に出現し、中期には数が増加して1mを超す巨大なものも造られた。それが後晩期に入ると、細くて小さなものに変化し、粘板岩のように緻密な石材が利用されるようになる。石棒は最終的には壊され、火に投じて廃棄されることが多く、元の形をとどめているものは少ない。

深鉢土器 長野県伊那市宮の前出土 縄文時代(中期) 東京国立博物館

岡本太郎(1911~96)が昭和27年(1592)、「みずゑ」誌において「縄文土器論 四次元との対話」を展開し、それが後の創作活動において縄文時代の造形から大きく影響を受けたことは一般によく知られた話である。ここで取り上げる土器は、その論文冒頭で岡本に「縄文土器の荒々しい不協和な形態、文様に心構えなしにふれると、誰もがドキッとする。なかんずく爛熟した中期の土器の凄まじさは言語を絶するのである」と評され、写真に掲載された縄文土器のうち東京国立博物館所蔵品である。いわば岡本が衝撃を受けつつも真正面に向き合い、自身に執り込もうとした「縄文式原始芸術」である。岡本は「縄文土器の最も大きな特徴である隆線文は、激しく、鈍く、縦横に奔放に躍動し展開する。その線を辿って行くと、もつれては解け混沌に沈み、忽然と現れ、あらゆるアクシデントをくぐり抜けて、無限に回帰し逃れて行く」と論ずる。

 

縄文時代の土器や装飾品や実用品を紹介したが、第1部の「国宝・重分類」に比較して、全く譲らない美を見せるから不思議である。「縄文ー1万年の美の鼓動」を楽しんで頂けたであろうか。最後の岡本太郎氏の「みずゑ」の論評が最後を締めくくる最良の言葉であろう。

 

(本稿は、図録「縄文ー1万年の美鼓動   2018年」、図録「土偶展 2009年」を参照した)

特別展  縄文ー1万年の美の鼓動(1)

私は、日本の歴史をかなり熱心に勉強した時期が2回ある。1回目は小学校5年生の時の国定教科書による「日本歴史」である。まず、神話「国産み」から始まり、天照大神の誕生、天岩戸(あまのいわと)へ隠れる、手力雄神(たじからおのみこと)が磐戸(いわと)を開ける、素盞鳴尊(すさのうのみこと)の追放、海幸、山幸の話等から天武天皇の東征伝までの天皇家の生い立ちを学ぶ、国学的世界であった。もう一度は、高校2年生の時、新制高校の「日本史」である。それは、恐るべき転換が行われていた。神話の部はすべて削除され、縄文・弥生土器から始まる日本の歴史であった。(当時、日本には旧石器時代は無いとされていた時代であった)この違和感は未だに私の「日本史」のアレルギーとなって残っている。何故、神話を教えないのか?どこの国でも神話から始まるのでは無いか?神話は神話として何故教えないのか?これらの疑問はいまでも、生き生きと私の中に生きている。「占領軍による歴史の捻じ曲げ」、「神話はその国の古い記憶であり、神話として引き継ぐべきである」こんなことを60年以上思い続けてきた。しかし、高校時代に学んだ縄文、弥生土器も、それぞれで懐かしい思い出であり、日本の歴史であることは間違いない。さて、今回、東京国立博物館で「縄文ー1万年の美の鼓動」は実に楽しく見学できた。約1万年前から3千年前の日本人の生み出した「縄文土器」の素晴らしさは、誰よりも強く意識している。今から30年ほど前に、新潟県十日町市を訪れ、市役所に火焔土器(役1万年前)が20個位、円形で二重に火焔土器が飾られていて、その美しさに思わず息を飲む思いがした。平成11年(1999)に、これらの火焔土器を含む深鉢型土器57点が一括して国宝に指定された。「殆ど誰も見る人がいなかった火焔土器が、国宝に指定された」ことは、私に取っては、正に思いがけないショックであった。自分の「美」に対する意識の高さが証明されたとように思った。このかけがいの無い記憶を甦らせ、今回の「縄文展」を見学した。思えば、「縄文の美」に芸術的価値を見出したのは、それほど古い話ではない。1950年代に岡本太郎氏らが芸術的価値を見出し、「縄文の美」を唱えたのが、その始まりではないだろうか。今回の展覧会の特徴は、日本の縄文土器を展示するのみでなく、それとほぼ同じ時期に成立した世界各地の土器を比較してみるコーナーが設けられたことである。そこで、縄文土器と比較してみると、縄文土器の際立った独創性、優れた造形美を、改めて感じ取ることが出来た。やはり、世界に誇る「縄文土器」と言えるであろう。ややお国自慢となったが、自国の文化に誇りが持てないことは悲しいことである。是非、縄文の美を満喫し、我が国の造形美の素晴らしさを実感して頂きたい。

国宝 火焔土器 新潟県十日町市 笹山遺跡出土 縄文時代(中期)十日町博物館

この作品は縄文中期の火焔型土器であり、平成11年(1999)に一括して57基の火焔土器王冠型土器57点が国宝に指定された。私がその20年前に十日町市役所で見た火焔土器であった。火焔土器は鶏頭冠突起をはじめ、火焔型土器に類似する文様を有する土器を指す。直立する四単位の鶏頭冠型突起は名前の由来でもあり、さながら燃え上がる炎を彷彿とさせる。器形全体が均整とく調和して、360度、どこから見ても隙の無い、正に火焔型土器の頂点とも言うべき優品である。篠山遺跡の出土品であり、国立博物館には1基しかないが、十日町市博物館へ行けば、国宝56点がぐるりと円形に展示され、素晴らしい縄文美の頂点である。

国宝 縄文のビーナス 長野県茅野市棚畑出土 前3000~2000年 茅野市

棚畑遺跡は、霧ケ峰南麓の台地上に立地する縄文時代中期の大規模な集落である。土偶とは、人形(ひとがた)をした素焼きの土製品で、縄文時代を通じて作られた祈りの道具とされる。当初は板状で素朴な造形であったが、中期になると顔の表現を持つ多彩な立像として作られ始め、北・東日本の各地に個性的な土偶が現れた。その一つが「縄文のビーナス」という愛称をもつ土偶で、その誕生は東日本における縄文社会が成熟期を迎えたことを暗示している。吊り上った目や突き出した鼻に加え小さな口をもつ顔は、ハート形の輪郭も相まって愛らしい印象を与える。頭部は飾り物を付けたような表現で、三角文や渦巻文基調とした文様を展開し、見る方向によってその表情を変える。体はなで肩にくびれた腰、臀部が丸く張り出す。胸には小ぶりの乳房がつき、腹部は垂れる様に丸く膨らむ。その力強くも柔らかな曲線美は、まさに「縄文のビーナス」の名に相応しい。土偶は安産の祈願や子孫繁栄を祈るために作られた、という考えをまるで表現したかのようである。

国宝 縄文の女神 山形県船形町西の丸遺跡出土 前3000年~前2000年 山形県

西の前遺跡は小国川の河岸段丘上に立地する縄文時代中期の集落で、大形竪穴住居や数多くの土坑が発掘された。この土偶は「八等身美人」という言葉が冠につくことさえあるもので、その類まれなる造形美から「縄文の女神」と讃えられている。同じく中期を代表する土偶「縄文のビーナス」とともに、頭部や臀部の特徴から河童型土偶や出尻(でっちり)土偶とも呼ばれることがあるが、その美しさは対照的である。顔の表現はないものの、頭部は弧状で表裏に複数の穿孔を持つ。腕の表現を欠く板状の胴部は、腹部が前に、臀部が後ろにせり出して厚みを増し、角柱状の長い脚部へといたる。乳房はW字状に付きだし、その下に「正中線」を引くものの性表現には乏しい。下腹部の逆五角形の区画外には幾何学文、区画内には縄文を施し、脚部の前後に多条の直線文を施す。土偶は破片で見つかることが多い。理由として、病気や怪我を治すために土偶を打ち砕きその身代わりとしたという説や、土偶の破片を集落の各所で「送る」ことで命の再生や繁殖そして集落の繁栄を願ったという説がされている。

国宝 仮面の女神 長野県茅野市中ツ原遺跡出土 前3000年~前2000年 茅野市

中ツ原遺跡は八ヶ岳西麓の台地上に立地する縄文時代中期から後期へかけての大規模な集落である。顔の表現が仮面をつけたような土偶は一般に仮面土偶と呼ばれるが、その中でもひと際大きく優美な本作は「仮面の女神」と名付けられている。逆三角形の板を頭部に括り付けたかのような表現は、まさに仮面をつけたかのようである。薄く扁平な両腕を左右に広げ、大きく張り出した同部を太く丸い両足で支える。摺消(すりけし)縄文手法を用いた渦巻文を基調として文様が両腕から胴部にかけて描かれている。また乳房の表現を欠くものの臍や性器の表現はこの文様と見事に一体化している。一定のまとまりを持つ土光群から出土した「仮面の女神」は、集落内におけるすべての死者に対する鎮魂と再生を祈るものとして埋納されたものとも考えられよう。

国宝 中空土偶 北海道函館市 著保内野遺跡出土 前2000年~前1000年函館市

著保内野遺跡は海岸段丘上に立地し、縄文後期の環状配石遺構を伴う墓地である。本土偶は、現存する最大の土偶ということもあって「中空土偶」という名を持つ。本例は頭部の一部と両腕を欠損する。顔は眉から鼻、目、耳、口が粘土を貼り付けて表現されている。頭部は扁球状で頸は短く、肩は幅広く胴部が括れる。脚部は円筒状で足首から先は小さく丸い。この両脚の間に注ぎ口のような筒型装飾をもつ。このような中空で薄手に形作られた体や全身を飾る文様は、土器作りの技術を巧みに応用したものと言われている。この「中空土偶」と同様な顔面表現と頭部の形状を持つ土偶は、東北や関東地方に広く分布する。

国宝 合掌土偶 青森県八戸市 風張Ⅰ遺跡出土 前2000年~前1000年 八戸市

風張1遺跡は、新井田川下流域の河岸段丘上に立地する縄文時代後期の大規模な環状集落である。集落は中心部に二か所の墓域が設けられ、これを囲むように内側から順に、土坑や掘立柱建物そして竪穴住居が規則的に配置されていた。膝を立てて座り、胸の前で両手を合わせるその姿から「合掌土偶」と呼ばれている。「合掌土偶」の破片の割れ口には天然のアスファルトが付着していたことから、壊れたものを直し、復活や再生を祈る儀礼が行われていたと考えられる。

重文 ポーズ土偶 山梨県南アルプス市出土 縄文時代(中期) 南アルプス市

円錐形の中空の胴部を持つた本例のような土偶は、「円錐形土偶」と一般的に呼ばれる。胸に当てた左手の指は3本に表現されている。この3本指はこの時期の土偶や土器の人物表現に共通するものである。顔面は半円で象られ、眉・鼻・目・口は粘土紐を貼り付けて丁寧な整形で仕上げられている。両目の下には、管状の工具を押し付けた竹管文で入墨が表現されている。また肩と肘の関節部は粘土粒を貼り付けて強調されている。乳房とへそもまた粘土粒で表現され、目立つ「正中線」は縁取りが加えられ垂加している。そして下腹部にはこの時期には特徴的な三角形を組み合わせるシシンボリックな女性器文様が描かれている。このような土偶には「見る土偶」と「音を聞く土偶」の2タイプがあるが、この土偶には土玉が残っていない。

重文 ハート形土偶 群馬県東吾妻町郷原出土  縄文時代後期 個人蔵

顔面がハート形のものが多い事から「ハート形土偶」と呼ばれるタイプの代表例である。「ハート形土偶」は、東北地方南部から関東地方北部にかけて見られる「山形土偶」とともに、後期を代表する土偶形式である。本例でもハート形の大きな頭部が目を引く。立体的で鼻の穴まで表現した大きな鼻と、中心がくぼんだ丸い目が印象的である。体つきは肩を強く張り、胴は極端にくびれている。腰もまた極端にくびれている。腰もまた極端に広がり、どっしりとした大型の脚部を持つている。胸には小さいけれども乳房がはっきりと表現され、肩部と腰から足にかけて渦巻・沈線・刺突で密に飾られている。本例は大きく下面が平坦な脚部によって安定して立てることができるので、本来このように置いて使用したものと考えられる。

重文 遮光器土偶 青森県つるが市亀ケ岡遺跡出土縄文時代後期 東京国立博物館

本例は、土偶の中でも大型で、表面をよく研磨してから焼き上げ、中空に作られている。左足は失われており、右目の上半も補修している。太い腕に小さな手と太く短い足の表現から、この土偶が極度にデフォルメされた人体表現だと判る。極めつけは特徴的なデザインの頭部である。顔面の半分が目で占められており、小さな鼻と口と耳があり、頭頂部には冠状の飾が立ちあがっている。この大きな目は隆帯で縁どられて、まるで北方狩猟民族が用いる遮光器を着けているように見える。しかし、縄文時代の遮光器に類する遺物は発見されていない。従って、これは遮光器をつけた姿ではないというのが現在の定説である。

重文 みみずく土偶 埼玉県さいたま市真福寺貝塚出土 縄文時代後期 東京国立博物館

縄文時代後期後半から晩期前半の関東地方に特徴的に分布する「みみずく土偶」と呼ばれる土偶の中でも、とりわけ魅力的な優品である。隆帯でハート形に縁どられた顔面に、同じ大きさの円板を貼り付けて表現した目と口がある。頭でっかちなプロポーションと相まってユーモラスな印象を与える。この顔がみみずくに似ていることから、「みみずく土偶」と呼ばれている。耳には大きな円い耳飾りを着け、頭頂部のたくさんの突起は結った髪形や櫛をさした状態を表現している。くびれた胴部から強く張る越と直線的な足の造形は、曲線的な上半身とは対照的である。また、全身が赤く塗られている。

 

約1万年も続いた縄文時代には沢山の形が作られた。その中でも、私が一番好きなのは、国宝の火焔型土器と土偶である。国宝に指定されている縄文土器は6点である。(但し、十日町市の火焔土器群は57点で1点と計算されている)しかも初めて指定されたのが平成7年(1995)と歴史が浅く、近来になって縄文時代への社会的、文化的な関心や評価が高まってきたことを表している。最初の縄文時代の国宝は、「縄文のビーナス」の愛称を持つ土偶である。縄文時代の祈りの美、祈りの形と言われる代表が土偶である。土偶は人型の土製品で縄文時代の始まりとともに登場した。本章では6点の国宝、4点の重要文化財を紹介した。また、縄文土器の代表と言えば、新潟県十日町市の火焔土器である。これは57点の火焔土器と王冠型土器合せて57点が、平成11年(1999)に国宝に指定されている。また重要文化財に指定された土偶4点を合せて、合計10点を紹介した。「縄文の造形」「縄文の美」を、日本人の「物造りの源流」として捉える考え方もある。その意味で、同時代の世界各地の焼き物類が展示されているので、是非、自分の見方で検討をして頂きたい。

 

(本稿は、図録「特別展 縄文ー1万年の美の鼓動  2018年」、図録「日本国宝展  2014年」、図録「国宝  土偶展   2009年」を参照した)

山種美術館   水を描く

今年の夏は暑い。かって経験したことの無い暑さである。酷暑と呼んでも良い暑さである。日本人は、暑い時は、水打ちをしたり、水の絵を眺めて涼を得たものである。山種美術館ではこの夏、日本美術に描かれた水をテーマを得た展覧会を開催した。豊かな水源に恵まれた日本では、水は常に人々の生活と共にあり、美術品においてもさまざまに表現されてきた。雨が池や湖をつくり、川となり海へ注ぐように、水は刻々と姿を変化させる。躍動する波や、渦を巻く海や、光を反射する水面など、水は刻々と姿を変化させる。水を描いた画家は多い。この展覧会では近代、現代の画家及び浮世絵師を登場させ、この美術館の持つ展示品の幅の深さを見せてくれる。涼感あふれる「水を描く」は、お勧めできる展覧会である。

翠潤う  東山魁夷作  紙本・彩色  昭和51年(1976)

修学院離宮の庭園を描いた作品である。常緑樹と苔が映える庭園として有名である。修学院離宮は、中々拝観できない離宮と庭園の美しい景色である。ドイツ人のブルーノ・タウト氏が「日本美の再発見」(岩波新書)で絶賛したことで有名であるが、中々入園できない施設となり、申し込んでも当たらないことで有名になったが、私は、幸いあるメーカーの京都支店長の職にあった時に、2回拝観する機会に恵まれた。山種美術館の開館10周年記念に山崎種二氏(山種証券社長)から寄贈された作品である。この絵で改めて修学院離宮の美しさに、感じいった次第である。「東山ブルー」の美しさに惹かれた。

沖の灯(ともしび) 小野竹喬作 紙本・彩色   昭和52年(1977)

深い藍色をたたえた夕暮れ時の沖に漁火(いさりび)がちらつき、水平線の上に広がる雲は淡い桃色に縁取られて小波にその色を落している。光と影、色調の明暗は心地良く響き合っている。常日頃から作家は「絵には詩情とリズムがなければいけない」と考えていた竹喬らしく、静かな夕暮れ時の自然の光を、色彩のコントラストで詩情たっぷりに表現した最終作品の一つである。第9回開祖日展に発表された作品であるが、発表時には「老ゆることを知らない若々しい色感」「完成度においては現在の日展の最高水準」と高く評価された。

奥入瀬(秋)奥田元宋作 紙本・彩色 額(一面・三枚)昭和58年(1983)

古稀を過ぎた元宋は、大作作りに取り組むのは80歳までと考え、日展の出品とは別に1年に1点大作を制作しようと決意した。秋は渓流が左から右へ横切り、4年後の春は右から左へ逆向きの流れとしている。元宋は、四季折々の中でも「自然の霊気を最も強く感じる」として新緑と紅葉の季節を好んだそうである。濡れた岩肌や木漏れ日の表現に金箔を使用し、渓流の透明感や「元宋の赤」に彩られた紅葉を更に際立たせる効果を生んだ。この作品は182.0×546.0という大作であり、1枚の写真から写したこの画面では、原作の偉大さが、表現できないのが残念である。

鳴門  川端龍子作  絹本・彩色・屏風(六曲一双) 昭和4年(1929)

この作品は、龍子が院展を脱退後に立ち上げた清龍社の第一回展で発表された。この作品は、画家や批評家から高い評価を受けたが、龍子は「これからは私の新しい出発への好意のはなみけでもあると思い感激した」と述べている。しかし、掛値なしに大作であり、成功した作品である。菁龍社の創立という曲面に再し、最も動的な画面を求めた結果、荒荒しい海の象徴として鳴門を描くことにしたのであろう。六斤(約3.6キログラム)に及ぶ群青の岩絵具を多用して、胡粉の白・金・銀という鮮やかな色彩が際立つ、躍動感あふれる鳴門を表現した。大画面、斬新な構図、動的な画面構成は、作者が提唱した「剛健なる芸術」を象徴するものであり、龍子が新たな門出にかけた渾身の力作である。

鳴門  奥村土牛作  紙本・彩色  昭和34年(1959)

土牛は妻の郷里・徳島からの帰途、一緒に鳴門に立寄った。小さな汽船の上から見た渦潮について「偉大でまた神秘である渦巻を見ていると、描きたいという意欲が抑え難く湧き上がってきた」と土牛は語っている。妻に帯を掴まれる不安定な姿勢のまま、まるで符牒のような写生を何十枚も描いた。渦巻を実見したのは僅か数分間の一度きりであるが、その写生と「自らの頭脳の中から印象を掘り出す」作業により、本作品を完成させたいという。「ああいう景観を見ますと抽象的な表現が一番いいように思われたが」決心がつかず本作品を仕上げ、「渦だけで抽象的にしたら良かった」とも述懐しているそうである。1950~60年代、欧米の抽象表現が日本に入り、日本画壇においても影響を受けた作品が描かれた。土牛もその風潮のもと本作品に臨んだと見られる。土牛の代表作の一つと言う評価をする人もいるそうである。日本画に抽象表現の影響があったと説く図録には驚いた。

阿波鳴門乃風景  歌川広重(初代)作 大判3枚続   安政4年(1857)

この展覧会の面白い所は、近代、現代絵画と並んで、浮世絵の傑作を展示することである。他の美術館では、考えられない展示であるが、山種美術館であれば、それが普通の展示となる。(例えば「琳派展」に近代絵画を並べた)今回も様々な浮世絵が展示されているが、特に広重の「阿波鳴門乃風景」を取り上げてみた。このリアリティーあふれる景観から、広重が実際に鳴門を訪れたと思っていたが、実際は寛政12年(1800)刊の渕上旭江の風景画「山水奇観」にある「阿波鳴門」をもとに描いたものだそうである。(図録)しかし、巧みな透視図法を用いて水平線に向かって遠ざかる淡路島の島影を描き、しかも近景の緑色から遠景に向かって次第に色が薄れ、最後は淡菁色になるという空気遠近法も駆使して、実景観に近い絵に仕上げている。大判錦絵3枚続の豪華な浮世絵である。

那智  奥村土牛作  紙本・彩色     昭和33年(1958)

那智の滝を描いた雄大な絵である。那智の滝は、古来信仰の対象とされ、根津美術館には、信仰の対象としての「那智の滝」の絵図がある。本作は、信仰というよりも、堂々とした水の流れを、巧みに描き、まるでしぶきが懸るような錯覚を覚えるほど迫真力がある。流石に土牛の作品であると感じた。

波濤(はとう) 加山又造作  紙本・墨色   昭和54年(1979)

私の好きな加山又造の「波濤」と名付けた名画である。昭和50年代半ば以降、加山が水墨画へと没入していくまさにその時期に描かれた名品で、浪が岩に当たって砕ける様子を描く。加山は日本の水墨画の伝統を語る際、雪舟、長谷川等伯、俵谷宗達の名を挙げているが、初期に手がけた龍、松林、波濤、鶴は、等伯を最も意識していたようである。本作に関しても、等伯の波濤図からインスピレーションを受けた可能性が考えられる。先輩画家から学ぶ日本画の良さが出ている。

山潤雨趣  奥田元宋作   絹本・着色    昭和50年(1975)

広大な森林の中の遠景に、滝が落ちる風景が見える。この絵は名作であり、森の深さ、滝の波の遠さ等が、この絵を通して良くみられ、思わず引き込まれる傑作である。展覧会の最後に飾られた絵であったが、最も「水を描く」という、展覧会のテーマに沿った絵画であると思う。

ウオーターフォール  千住 博作  紙本・彩色   平成7年(1995)

現代の人気作家、千住博の作品である。この千住の作品について、私は2019年9月12日の「黒川孝雄の美」の「大徳寺の塔頭 聚光院」の最後に千住画伯による、新築された「書院」に「瀧」、「惷夏崖図」、「秋冬崖図」のうち、「瀧」が初公開され、その記事と写真を掲載している。それによれば、「この滝図は構想から完成まで16年間を費やした大作で、鮮やかな群青から真っ白な瀧が浮かぶ上がる姿は壮観である」と記している。この「ウォーターフォール」と同じ系列に属する絵画である。私はまだ見ていないが、この「瀧」と同系列に属する絵画が、「高野山」にも納められているそうである。

 

「水を描く」というテーマで、山種美術館が所有する近・現代の作家の作品に合せ、浮世絵まで動員して、「水」というテーマを追求した面白い企画展であった。山種美術館の所蔵する日本の近代・現代の作家の豊富さ、更に浮世絵の展示という企画には脱帽である。兎に角、思いがけない企画展であり、今年の暑い夏に相応しい展覧会であった。

 

(本稿は、図録「山種美術館 近代日本画名品選100  2016年」、図録「山種コレクション 浮世絵 江戸絵画   2010年」を参照した)

徳川美術館(3)  朝鮮通信使

豊臣秀吉の始めた朝鮮侵略戦争は、日本では「文禄・慶長の役」と呼ばれているが、韓国や朝鮮では「壬申倭乱」「壬申戦争」と呼ばれている。この戦争が悲惨を極めたのは、非戦闘員である無数の民衆を巻き込んだことである。私は、昭和20年の広島、長崎への原爆投下と同じくらい、無残で、非人道的な野蛮行為であったと思う。朝鮮側では、在地の貴族である両班(やんぱん)に鼓舞されて各地で決起した「民衆の義兵」が戦闘に加わったことににもかかわって、略奪、放火、民衆の略奪と拉致連行、そして鼻切りなどの残虐な行為が日本軍によって行われたのである。対馬藩の独自の動きもあったが、朝鮮側は自主的判断として、対馬を通じて徳川政権の真意と日本情勢の探索をなす目的で対馬に使者を派遣した。家康は、朝鮮側の意向も組み、慶長10年(1605)2月に伏見城で、松雲大師(朝鮮側代表)で会見した。松雲大師は被慮人の送還を強く要望し、幕府も誠意を尽くすことを約束し、1390人前後の被慮人が故国の土地を踏むことができた。これを契機として慶長12年(1607)3月、第一回兼刷還使が日本の土を踏むことになった。一行の総人数は504名と言われ、これ以降の通信使も500名近い人数となった。船団は4隻であった。第一回のみならず、第二、第三回の使節団の名称は「回答兼刷使」であり、第4回目以降「朝鮮通信使」という名称に変わった。第一回の回答兼刷使が日本に来た時は、江戸で第二代将軍徳川秀忠が面説した。その年の6月に江戸で立派な飾箱に収められた秀忠から朝鮮国王への返書が渡された。それを見ると、「源秀忠」とのみあって「日本国王」の印章もなかった。また年号は当年の干支を印し、明(みん)年号を用いていない。これは朝鮮側には大きな問題であったが、朝鮮使は「今、新将軍を見ると、隣国使節の接待の態度は誠意に満ちている。これは国内の人々の幸いである」と述べ、日本側の本田正信も「日本もまた幸いである。将軍もまた感悦極まりない」と答えた。慶長12年(1607)に始まり、文化8年(1811)が最終回となった江戸時代の朝鮮通信使の来聘(らいへい)は合計11回となり、この朝鮮通信使(第4回目からの正式名称)は、両国の政治、経済、文化(儒教、人文科学、医学等)に多大な影響を与えた。さて、今回の朝鮮通信使の催しは、徳川美術館というより、蓬左文庫(ほうさぶんこ)の催しであるが、廊下で繋がっているため、どちらの主催かは、入場者には分からない。しかし、文庫類は蓬左文庫の保管であることから、私は蓬左文庫の主催と考えている。

朝鮮人来朝道通り絵図  江戸時代(18世紀)   蓬左文庫

朝鮮通信使が通行する釜山から江戸に至るまでの道のりを示した絵図である。宝暦14年(1764)の通信使来日の際に作成されたと思われる。通信使一行は、大阪まで海路を進み、そこから陸路で京都・名古屋等を経て江戸まで進んだ。この地図は、上関から大阪まで海路を進み、京都、名古屋等を経て江戸まで進んだ行路を地図にしたものである。

朝鮮人来朝通り絵図    江戸時代(18世紀)  蓬左文庫

上の図の尾張藩の部を拡大した図面である。正徳元年(1711)の通信使以降、尾張では起宿(おこししゅく)、名古屋城下、鳴海宿(なるみしゅく)の三ケ所で休泊するのが通例となった。行列の通交する街並みの美化が進められ、近辺の村を中心に馬や人足の負担が割り当てられた。(いわゆる、助郷制度)

朝鮮人饗応七五三膳部之図  江戸時代(19世紀)蓬左文庫 ユネスコ世界記憶遺産

文化8年(1811)の通信使を迎えるに当たり、日本側正使である小笠原忠固(ただかた)の家臣、猪飼氏が饗応のために七五三膳の見本を作らせ描き写したものである。七五三膳とは本膳に七菜、二の膳に五菜、三の膳に三菜を盛り込んだもので、三使をもてなす際に用いられたものである。本膳は儀礼的なもので、一通り酒を酌み交わすと引き下げられ、改めて本格的な食事を供するものである。

朝鮮人物旗丈轎與(じょうよ)之図 1巻  江戸時代 蓬左文庫 ユネスコ文化遺産

文化8年(1811)、十一代将軍家斉(いえなり)襲職を祝賀し来日した通信使の意匠、旗、輿(こし)などを描き、解説を加えた記録である。日本側正使を勤めた小倉藩主・小笠原忠固(ただかた)の家臣、猪飼氏が描いたものの写しである。この年の通信使は対馬までしか訪れず、この年の津信使は対馬までしか訪れず、以後通信使の来日は途絶えた。この絵巻には楽人や軍官、小童などのほか、行列の先頭を切って道を清める「清道旗(せいどうき)」、雲龍を描いた「形名旗(けいめいき)」、国書や別幅(贈答品)を載せる「龍亭(りゅうてい)」なども描かれている。

朝鮮通信使行列図屏風六曲一双 江戸時代(18ー19世紀)崇覚寺(名古屋市)

右隻

左隻

名古屋市中区の崇覚寺に伝わる朝鮮通信使行列を描いた屏風。平成8年(1996)に発見された。絵巻を切り貼りして屏風に改装している。改装の際に切断したため順序に混乱が生じており、一部に後年の塗り足しと思われる箇所も見られるが、個々の描写は通信使の行列をほぼ正確に描いている。崇覚寺は本図を成瀬氏(犬山城主)から拝領したとの言い伝えもあるが、正確な経緯は不明である。

名陽旧覧図誌  四 江戸時代(1820) 東洋文庫蔵

尾張藩士の高力信種(こうりきのぶたね)(1766~1831)が、名古屋城下の街並みや風俗・流行をまとめた絵本である。宝暦14年(1764)に来日した朝鮮津信使が名古屋を通行した時の様子を描いた絵入りの記録としては唯一のものである。

津八幡神社祭礼画巻  1巻  江戸時代(19世紀)  石水博物館蔵

江戸時代に行われた津八幡宮の祭礼行列を描いた絵巻。伊勢国・津の大店・河喜多太夫家の伝来品である。津八幡宮は津城主の藤堂家二代高次(1602~1676)が初代高虎(1556~1630)を祀って以後毎年盛大な祭礼が行われた。祭礼行列には津城下の各町から練り物が出され、分部町から唐人練り物が出された。分部町の唐人は最初南蛮風の衣装であったが、やがて朝鮮通信使の要素を取り入れたものに変化した。19世紀中ごろの作とされるこの画巻には、形名旗、清道旗・楽隊・輿に乗った正使などを模した姿が描かかれ、通信使の影響がはっきりと見て取れる。

 

朝鮮通信使とは江戸時代に11回に亘り、朝鮮国王より徳川家の代替りの御祝いに来た使節団を言う。しかし、第1回から第3回までは「回答兼刷環使」と呼ばれ、第四回より「朝鮮通信使」と呼ばれるようになった。江戸時代は、鎖国のイメージが強いが、朝鮮、明、琉球、オランダの四国とは通称交渉があり、特に朝鮮通信使は11回に及び、徳川家の代代わりに使節団を派遣し、朝鮮と日本は友好関係を維持していた。これにより、日本の政治、文化(儒学、本草学、薬学、医学等)に多大な好影響があったことは資料により、正確に指摘されている。

 

(本稿は、図録「豊かなる朝鮮王朝の文化  交流の遺産  2015年」仲尾宏「朝鮮通信使」を参照した)

徳川美術館(2)  大名の室礼と書院飾り

徳川美術館は、徳川家伝来の宝物を展示すると同時に、名古屋城の二の丸御殿にあった「広間・上段の間」を展示する施設でもある。名古屋城の内部(二の丸御殿)を再現して見物させる仕組みでもある。名古屋城の内部(二の丸御殿)を再現して見物させる仕組みである。この稿では大名の室礼(しつれい)や書院飾り(しょいんかざり)を、美術館内部に再現したものである。

広間・上段の間                   平成16年(2004)

この黄金色に輝く広間は、名古屋城二の丸御殿にあった「広間・上段の間」の再現である。ここは大名が公務を行う場であり、室内には押板(床の間の前身)・違棚・書院床という飾り付けの空間が設けられ、そこには武家の故実にそって、書画や香道具・文房具などが飾られた。床の間、違い棚と言っても、マンション住まいの人が多くなり、なかなか理解を得にくい言葉であるが、写真で見て頂きたい。正面の一番広い所が「床の間」であり、通常掛軸で飾るものである。ここは流石大名家だけあって三幅対の掛軸が掛けられている。これだけ広い床の間は珍しく、一般家庭では、掛軸は一本である。大名家の素晴らしい三幅対の掛軸を堪能して頂きたい。また、床の間の前に青磁三具足(せいじみつぐそく)が並んでいるので、これは別途解説したい。

押板飾り(おしいたかざり)

書院・広間と呼ばれる将軍や大名の接見場の中心となる押板壁(おしいたかべ)と呼ばれる壁面(一般家庭では「床の間」と呼ぶ)には、三幅対の掛軸をかけ、その前には花瓶・香炉・燭台からなる「三具足(みつぐそく)」を飾った中央卓(ちゅおうじょう)と呼ばれる机を据え、その両脇に立花(りっか)による一対の花瓶が飾られている。

青磁三具足(香炉・燭台・花生)

青磁三具足(せいじみつぐそく)(香炉・燭台・花生)・香合(こうごう)・火道具・木製の机を除き、すべて中国の元時代、明時代(16~17世紀)の名品である。

違棚飾り(ちがいだなかざり)

床の間の右側が違棚飾り(ちがいだなかざり)である。銀閣寺の書斎・同仁斎に設けられた違棚(ちがいだな)が、我が国初の違棚である。違棚の上段には、唐物の香炉(こうろ)や香箱(沈箱)などの香道具が乗り、下段には盆石(ぼんせき)や本来食物を収納する容器であった食籠(じきろう)などが飾られた。

書院飾り(しょいんかざり)

書院床は中世の禅宗寺院で僧侶たちが勉強するための出窓(でまど)が起源と言われている。中国の文人たちが心を清らかにしたり楽しんだりするために室内に文具類を飾った例にちなみ、硯や、筆やペーパーナイフを立て掛けておくための筆架(ひっか)・墨・文鎮・水注などを入れておく印籠(いんろう)などが飾られた。

中国明代の墨コレクション(唐墨)        明時代(16世紀)

徳川美術館には、中国や朝鮮、日本で生産された五百挺(ちょう)を超える墨が保存されている・そのうちおよそ八割が中国・明時代の墨で占められている。世界的にも極めて質の高いコレクションとして知られる。この墨は、方芋魯製百子駿(ほううろせいひゃくししゅん)と呼ばれる。

鎖(くさり)の間

名古屋城二の丸御殿にあった、茶室と書院の中間に位置付けられる座敷である。北向きに火灯窓(かとうまど)を設けた付書院(つけしょいん)のある三畳からなる御上段と、七畳の下段(げだん)(復元は3畳分)から成っている。これに続く中の間には、壁貼付け(かべはりつけ)の床が構えられ、炉が切られている。将軍家の使いである上使(じょうし)が訪れた際には、この部屋で茶が出された。

台子飾り(だいすかざり)

茶の道具一式が乗っている台である。明代・江戸時代のものが多い。

 

徳川美術館に再現された、名古屋城二の丸御殿の様子を、常設展として再現したものが、この稿の内容である。最も大名美術館らしい展示である。そこに展示された宝物は、いずれも一級品であり、中国の宋・明代、朝鮮王朝時代、江戸時代の一級工芸品ばかりである。一々、名指しで紹介することはしないが、一級品揃いであることは間違いない。しかし、個々のお宝の紹介よりも、大名屋敷、もしくは名古屋城の室礼を紹介することが目的であり、一度機会があれば、是非拝観して頂きたい。

 

(本稿は、図録「徳川美術館ガイドブック  2017年」、図録「毛利家の至宝 2012年」、図録「二条城展  2012年」を参照した)

徳川美術館(1)  大名の数寄

徳川美術館は、江戸時代の御三家の筆頭である尾張徳川家に伝えられた、大名道具を展示公開している美術館である。尾張徳川家は家康の九男義直(よしなお)を初代とし、今から400年以上前の慶長12年(1607)に、この尾張の地の大名となった。この居城は言うまでも無く名古屋城で、石高は61万1500石で、尾張一国・美濃国の一部・三河国の一部、さらに信濃国の木曽山などを領地としていた。ここまで書くと、島崎藤村の「夜明け前」が思い出される。木曽山は、尾張藩の所領であり、「夜明け前」にもしばしば木曽山の記述が出てくる。徳川美術館の建っている場所は、「大曽根屋敷」と呼ばれた尾張徳川家二代光友の隠居所の跡地である。当初は総面積13万坪に及ぶ広大な敷地で、光友没後は、家老の長瀬・石河・渡辺の三家の別邸となっていたが、明治22年(1889)に、この屋敷跡の一部が尾張徳川家の所有となり、翌年に名古屋藩邸(戦災で消失)が建てられた。玄関正面に建つ門(黒門)は、その当時の遺構である。徳川美術館は、尾張徳川家19代公爵義親(よしちか)の寄付によって、昭和6年(1931)に創設された財団法人・徳川黎明会が運営する私立の美術館で、昭和10年(1935)に開館した。この古い徳川美術館は、私の大学時代の、唯一の常設展をする名古屋の美術館であり、私は毎月のように見学したものである。それが、私の美術鑑賞の基本知識になっていることは間違いない。収蔵品は「駿府御分物」と呼ばれる、徳川家康の遺品を中核として歴代藩主や夫人たちの取集品、婚礼の際の持参品などで、その数1万数千件に及ぶ。これらの中には、室町幕府の足利将軍をはじめ織田信長・豊臣秀吉ゆかりの名品も多く含まれている。明治維新、第二次世界大戦を通じ各大名家の道具がほとんど散逸してしまった今日、徳川美術館の収蔵品は大名家の宝庫・コレクションで唯一まとまった存在であり、「大名道具とは何か?」「近世大名とは何か?」という問いかけに答えられるわが国唯一の美術館である。私が見た徳川美術館は昭和6年に建てられた古い美術館であったが、昭和62年(1987)秋に、地元の自治体や経済界・一般市民からの寄付によって、常設展示室を初めとする施設が充実し、更に平成16年(2004)秋に、尾張徳川家に伝来した貴重な書物を伝える蓬左文庫(ほうさぶんこ)や、池泉回遊式の大名庭園がよみがえった徳川園など、徳川美術館周辺が整備され、総合的に江戸時代の大名文化を体感できる施設となった。料理店、喫茶店も多数あり、半日程度を過ごすことの出来る楽しい美術館となった。残念なことは、特別展示を行う場合に、図録が発行されないことがある。名古屋文化では、図録の印刷も出来ないのであろうか。幸い、美術館では、現在は、ほぼ常設展示のみに特化して、常設展示図録は販売されている。やっと願いがかなった思いである。本稿ではまず、大名の数寄(茶の湯)を取り上げたい。

黒門  木造建築物           明治22年(1937)頃建設

明治22年(1889)に、ここに尾張徳川家・名古屋藩邸が建てられたが、昭和19~20年のアメリカ軍の大空襲により本邸は焼失した。幸いこの門(通称「黒門」)のみが残り、現在は徳川美術館の入口となっている。

徳川美術館の建物  鉄筋コンクリート製    昭和62年(1987)建設

蓬左文庫の建物    鉄筋コンクリート製    平成16年(2004)建設

蓬左文庫の裏側に当たり、正面の門は、道路に面して建つ。蓬左文庫は、尾張徳川家の旧蔵書を中心に、和漢の優れた古典籍を所蔵・公開している。様々な書籍は約11万点に及ぶそうである。昭和10年(1935)、徳川美術館が名古屋の地で開館すると同時に、蓬左文庫は財団法人尾張徳川黎明会所属の文庫として東京目白にある尾張徳川邸脇に開館した。第二次大戦を経て、昭和25年(1950)に名古屋市に譲渡され、徳川美術館に隣接する現在地で蔵書の管理と公開が行われた。平成16年(2004)秋の徳川園やその周囲の整備により、徳川美術館と蓬左文庫とが渡り廊下でつながり、大名道具を収蔵している徳川美術館と、蔵書類を収蔵している文庫が一体となって展示を行うようになった。

猿面茶室 数寄道具置き合わせ   木造建築物  平成16年(2004)建設

猿面茶屋は、もとは清州城にあり、慶長15年(1610)の名古屋城建築の際に移築された。「猿面」の名は床柱の上部の面取り部分に一対ある節が猿の顔に似ているところから名づけられたとする説がある。この茶室は、京都山崎・妙熹庵の「待庵(たいあん)」、京都建仁寺の「如庵(じょあん)」(現愛知県犬山市に移築)とともに日本の三名席の一つに数えられ、戦前は国宝に指定されていた。明治維新後は名古屋城を離れ、最終的には名古屋市内の鶴舞公園内に移築されたが、昭和20年(1945)の戦災によって焼失した。この展示室に造られた茶室は、残された図面をもとに忠実に再現したものである。写真は、その茶室の一部(数寄道具置き合わせ)を、写したものである。二代将軍徳川秀忠が、元和9年(1613)2月23日に、初めて尾張徳川家江戸屋敷にお成りした際に使用された道具立てを再現したものである。

窯変天目茶碗(油滴天目)大名物  中国・金時代(12~13世紀)駿府御分物

碗の内外に無数の星のような油滴があり、光にかざすと虹色に輝く天目である。室町時代かた名碗として珍重されていた。中国からもたらされた茶の湯の文化は、抹茶を飲む習慣に加え、このような茶碗や諸道具を日本に定着させた。

重要文化財 白天目  大名物          室町時代(15~16世紀)

白天目と言われる茶碗は、釉の色が薄い白青色である天目茶碗である。日本では油滴・窯変などに遅れて、室町時代末期頃から好まれたようである。産地については不明のものが多い。この茶椀の伝来は、武野紹鷗・新野新左エ門・徳川義直(尾張初代)である。この所有者によって、茶碗の価格が大きく変わるので、果たして美術品に入れて良いかどうか迷うものである。大名物は大名茶人・松平不昧が評価したものである。不昧は宝物、大名物、中興名物、名物並、上、下の6段階で評価している。しかし、上の部で国宝に指定されているものがあり、現在の評価とはやや違うようである。

井戸茶碗  銘  大高麗  大名物      朝鮮王朝時代(16世紀)

高麗茶椀の一種で、井戸、刷毛目、三島といった種類があった。大高麗の銘を持つこの茶椀は、井戸茶碗の代表的茶碗であろう。畠山記念館に重要文化財に指定された井戸茶碗がで銘を細川という茶碗を「美」に紹介した記憶がある。この大高麗も、細川と比較して見劣りしない優品である。徳川家が所有し、家康没後の「駿府御分物」の一つであり、天下の名碗であろう。

重要文化財 織部筒茶碗  銘 冬枯    桃山時代(16世紀)岡谷家寄贈

織部茶碗は、私は好きであるが、古田織部の作陶した茶椀が、徳川家に伝来することが不可解であった。織部は千利休没後、慶長年間のはじめに「茶の湯名人」となり、寂びた茶を極めて師の利休とは対照的に、新しく大胆な奇抜な造形性を見せ、斬新な美の世界を創造した。歪んだ器形や抽象的文様を描き、数寄屋御成に対応した新たな武家茶の規範を創ったとされた。しかし元和元年(1615)大阪夏の陣に際し、家臣木村宗喜の反乱が露見したことを契機に、伏見の屋敷に幽閉され、6月11日、伏見自邸で子の重弘とともに自刃(72歳)した。誠に不思議な事件であり、デッチアゲと私は見ている。利休に続いて、織部まで2代の家元が自刃したことは不可思議な事件である。徳川家に背いた茶匠の茶碗が尾張徳川家の家宝として伝来したことに不審を抱いたが、その理由が直ぐ分った。この茶碗は、岡谷家寄贈品であり、徳川家伝来の品ではなかった。私は、織部焼のこの冬枯が好きである。筒型の茶碗は、お茶を立てる時に立てやすい点が特徴である。

南蛮水指  銘 芋頭  大名物    中国  明時代(16世紀)

東南アジア方面で焼かれた陶器であり、茶人たちはその素朴な味わいを愛好した。武野紹鷗の遺品である。豊臣秀吉が所持した由緒があり、「天下一」の水指とされた。伝来は次の通りである。武野紹鷗・豊臣秀吉・徳川家康所用(駿府御分物)

竹茶杓  銘  泪(なみだ)  千利休作  名物  桃山時代(16世紀)

天正9年(1591)2月23日、豊臣秀吉に切腹を命じられた利休は、淀から舟に乗って堺へ謹慎のため、一人旅たった。多くの茶の弟子がいたが、この船着き場に来た者は細川忠興と古田織部の2名のみであった。他の大勢の弟子たちが、秀吉への配慮から別れの場には顔をださなかった。この二人に対し、利休は自ら竹を削った茶杓を形見に分け与えた。忠興に渡った茶杓は「いのち(命)」と命名され、織部は「なみだ(泪)」と命名した。「いのち」は行方不明であるが、「なみだ(泪)」は、古田織部が茶杓の箱に長方形の窓をあけてた筒を作り、その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられる。これを見るのが、徳川美術館を見学した真意であった。伝来・千李休作・古田織部・徳川家康・駿府御分物。

 

徳川美術館は20年ほど前に、新しくなった美術館を拝観した。それは年紀によれば昭和62年(1987)に地元自治体や経済界の寄付によって、展示施設が一新した時であった。今回は、それから10数年を経過し、年紀によれば平成16年(2004)秋の蓬左文庫や池泉回遊式の大名庭園がよみがえり徳川園として整備された後になる。大学時代に毎月通っていた徳川美術館は、すっかり変わり、大名美術館としては、全国に誇れる素晴らしい美術館、徳川園に生まれ変わり、実に見甲斐のある常設展示であった。なお、大名美術園としては私が知っている範囲では毛利美術館が山口県にある。それは美術館としては古くなり、常設展示品も、長州が薩摩と組んで徳川幕府を倒そうとした、極く近代の展示物が大半を占めて、到底大名美術館と呼べるものではない。但し、秋には雪舟作の「四季長図」(山水長巻)が1ケ月間展示される。これが展示される期間こそ大名美術館と呼べる美術館である。しかし、徳川美術館には国宝「源氏物語絵巻」(12世紀)、(現存最古の源氏物語絵巻)がある。本来、武家の美術館であれば、「武具」の展示が有る訳であり、徳川美術館でも、まず「武家のシンボル」として「武具、刀剣、甲兜」が展示されている。しかし、私は武具、中でも刀剣を美術品とは思っていないので、全く触れないことにした。これは、私個人の好みの問題であり、刀剣に興味のある方には、それはそれで多分満足して頂けるものだろうと思う。

 

(本稿は、図録「徳川美術館ガイドブック」、図録「毛利家の至宝  大名文化の精粋・国宝・雪舟筆「山水長巻」特別公開  2012年」、山本兼一「利休にたずねよ」、図録「没後400年  古田織部展  2014年」を参照した)

府中市美術館  長谷川利行展(下)

昭和11、12年(1936,37)には、驚異的な個展記録が記されている。その昭和11年(1936)、新宿の中村屋の裏辺りに、高崎正男の経営する天城画廊がオープンし、6月から12月までの半年で、5回の長谷川利行個展を開催した。昭和12年(1937)には、9月までに8回の個展。更に昭和12年(1937)12月、14回目の個展を開いたが、これが最後の個展になり、個展を終えて、翌年天城画廊も閉館した。兎に角、すざましい個展ラッシュである。昭和12年の6月に、利行は新宿に移転してきて、そこの木賃宿へ入った。矢野に言わせると、利行は「絵具とカンバスを買い与えられ、酒をおごられ宿賃を保証され、その代わりに何百枚かの油絵やデッサンを天城に渡した」そうだった。そうしてこの9月に、二科展に大作の出品をしたが、それが最後の二科展であった。天城画廊閉鎖の後、利行は、また新宿を去った。胃癌の痛みに苦しんでいた。二科展最後の作品は「白い背景の人物」であった。昭和10年(1935)以降に描いた、小さい作品は多数残っている。高崎が管理し、商売し、その以前に、良質の画材を提供し、制作をうながして、それだからこそ、これだけ多数の作品が残ったのであろう。どんづまって、窮乏生活も極まった。身体は恐ろしく衰えた。戦争は拡大し、浮浪・非国民は、どこを向いても行き場が無くなった。そんな中で、ついに路上で倒れ、東京市養育院で誰に看取られることなく49歳の生涯を閉じた。

二人の活弁の男 油彩・カンヴァス  昭和7年(1932) 信越放送株式会社

活弁とは「活動写真弁士」の略称で、無声映画の時代にスクリーンのそばで物語の筋や状況を解説し、登場人物の台詞を代弁する役割を担う職業である。当時唯一の映像であった映画を楽しめるか否かはこの弁士の力量に左右され、腕の良い弁士は大変な人気となった。利行がこの絵を描いた頃は、徐々にトーキーの上映が増え、弁士の需要に陰りが見えてきた時期ではあったが、彼の交友関係には弁士の名も現れ、絵の「弟子」となった者もいた。利行特有の素早い筆による背景の中に表された二人の姿からは、それぞれの人物の内面まで伝わってくるように感じられる。

矢野文夫氏肖像  油彩・カンヴァス  昭和8年(1933)  個人蔵

矢野氏は、利行の最大の理解者として多くの時間をともに過ごし、彼の死後はその芸術の顕彰につとめた詩人・矢野文夫氏である。利行も「仲の悪い兄弟のよう」と矢野宛ての書簡に綴っている。白い顔で少し俯くように画かれた青い服を着た矢野の体は、奔放な朱や白い線に覆われ、背景に溶け込んでいくようである。

大和家かほる  油彩・カンヴァス  昭和10年(1935) 個人蔵

「どじょうすくい」で知られる出雲地方の民俗芸能・安来節は、大正期の全国巡業を機に全国的な流行を見せる。浅草で初めて安来節公演は大正11年(1922)、出雲出身の姉妹、春子、八千代、清子による「大和家三姉妹一座」によるものと言われ、一座はその後も永く公演を続け人気となった。和装の女性の横顔を描いた本作には「大和家かほる」の名が書かれており、おそらくこの一座の座員であるだろう。静かで落ち着いた雰囲気の肖像画となっている。

安来節の女 油彩・カンヴァス  昭和10年(1935) 個人蔵

画家仲間の熊谷登久平は「当時、隆盛であった安来節の小屋で、絵を描いたものである。酒気を帯びた彼は、安来節のはやしがとても愉快であったらしく、三味や太鼓に合わせて、歌いながら絵を描いていた」と回想している。舞台の芸人を描いた本作は、まさにそのような状況で描かれたものであろう。

上野広小路  油彩・カンヴァス  昭和11年(1936) 宇都宮美術館

道路には、少ない車が走っており、路面電車の軌道もみることができる。道路脇には、人影のようなものが見えるが、はっきりと描かれていないため、その存在は街の中に溶解していくようだ。視線を上に向けると、高くそびえる電信柱とそれを結ぶ架線が画面を分断している。窮屈な印象を受ける。外神田方面から上野公園の方向を眺めた広小路である。

四宮潤一郎氏像  油彩・カンヴァス 昭和11年(1936)  個人蔵

四宮潤一は美術評論家で、アヴァン・ガルド芸術家クラブに所属し、自由美術協会顧問を務めた人物である。矢野文夫氏によると、四宮は日本画家・松林桂月の弟子であり、利行と矢野が水墨画を始めるにあたり手ほどきをしたという。しかし、彼らが水墨画を始めるのは、体調悪化により利行が油絵を描く気力をなくした昭和14年(1939)頃のことである。モデルは知的ですました表情がよく捉えられている。

新宿風景 油彩・カンヴァス  昭和12年(1937)頃 東京国立近代美術館

原色日本の美術「第27巻 近代の洋画」では、この絵について、次のように紹介している。「奔放な生活を続ける利行の表現主義的な激しい画風がよくうかがわれる。特に白を基調とした色彩配合が美しい」まさか、長谷川利行が、日本美術全集に乗っている訳はないだろと確認の意味で探してみたら、思いがけなく、この記事を発見した。なお、記事の続きとして、次のような言葉でまとめている。「奔放な筆使いによる原色の輝きの強い独自の画風を作り上げた。文章家でもあり、独学の人で、しかも激しい原色調を好んだところは、初期のヴラマンクに似ているが、ヴラマンクよりいっそう幻想的であり、荒涼とした詩境を感じさせる。昭和2年、二科展で樗牛賞を受け、その2年後に「1930年協会」展で同協会賞を受賞、その後もずっと二科展には出品を続けたが、その放浪の生活とあまりに汚れた風態のために、ついに会員には推されなかったという。つまり彼は、最後まで画家としての純粋な魂を持ち続けた生活破産者だったのである」ほぼ、結論めいたものとなった。

ノアノアの少女 油彩・カンバヴァス 昭和12年(1937) 愛知県美術館

ノアノアもまた、当時新宿にあったカフェのこと。利行はそこで個展を開いたこともあった。この作品は、そこで働く女性をモデルに描いたものの一点である。この作品のほかに、顔だちも服装も異なる作品が数点残っている。パーマをかけた髪、丸いバックルの付いたベルトという当時流行のファッションに包まれたこの女性は、誰よりも首が長く、そしてチャーミングに描かれている。

白い背景の人物 油彩・カンヴァス  昭和12年(1937) 個人蔵

白く塗り込めた背景のなか、今まさに描かれたばかりのように瑞々しく輝く画面を切り裂くような強い鋭い線描が光る。そこにぼんやりと居並ぶ5人の人物の顔が浮かび上がり、その間に見える緑の線は植物のように見える。この展覧会の直前に発見された50号の大作である。利行は昭和12年(1937)、第24回二科展に「夏の女」と「ハルレキン」を出品している。「ハルレキン」は、上野精養軒のビヤガーデンの藤棚で女が数人立っている様子を、白ペンキなどを使ってわずか30分程度で描き上げ、そのまま二科展に搬入したものであったと、現場に立ち会った海老原省象や岩崎把人が証言している。なお「ハレルキン」とはドイツ語で道化師の意味である。本作が二科展に出品された「ハレルキン」に該当する可能性が高い。

荒川の風景  油彩・カンヴァス  昭和14年(1939) 府中市美術館

昭和13年(1938)、利行は天城俊彦と袂を分かち新宿を離れ馴染み深い浅草付近の簡易旅館や友人宅を転々とする生活に戻った。病により衰弱し、歩き回る体力も絵を描く気力もない利行だが、ただ寝て過ごす場所も金もなく、日々荒川付近を放浪した。本作は夕暮れ時だろうか、荒川の川面もわずかに赤みを帯びている。電信柱を描く線は細くかすれ、対岸の「お化け煙突」の影もどこか頼りなげに揺れる。寂寞として荒涼感が漂っている。

 

私の尊敬する土方定一先生は「日本の近代美術」の中で次のように述べている。「関東大震災と前後して、20世紀の前半に次々と現れた近代美術のさまざまなイズムが、フォーヴィスム、キュービスム、シュールレアリスムが紹介された。これらの作家は、二科展に出品すると同時に、1930年協会を設立して、昭和元年に第1回展を開催した、(中略) 出品者の中にはファン・ゴッホ風の筆触と色彩で「瓦斯会社」などの工場風景を描き続け、二科第14回に樗牛賞をうけた長谷川利行(1891~1940)らがいた。長谷川利行は昭和15年に施療病院で貧困とアルコール中毒のなかでくもらされなかった魂の宝石のような小品を描きつづけて死んだ。」この言葉を、長谷川利行の霊魂に捧げたい。

 

(本稿は、図録「長谷川利行展   2018年」、図録「名品選  東京国立近代美術館」、図録「東京⇄沖縄  池袋モンパルナスとニシカムイ美術村2018年」を参照した)

府中市美術館  長谷川俊行展(上)

戦前・戦中の日本を破天荒に生きた画家・長谷川俊行(1891~1940)が亡くなって、80年近い歳月が流れた。これを機会に、全国五つの美術館で「長谷川利行展」が開催されることになった。私は、近くの府中市美術館で観覧できる機会に恵まれた。実は、先に「美」に書いた「東京⇄沖縄、池袋モンパルナスとニシムイ美術村」で、俊行の絵画2点を紹介している。また、東京国立近代美術館の「MOMANT展」でも、1枚紹介している。最近、行方不明と伝えられた絵画が2点発見され、その都度話題を集めた。今回は、油彩、水彩、素描、ガラス絵等約140点を集めて、改めてその画業の全貌を展望し、利行の芸術について深く考える機会が提供された。多分、2度と見ることの出来ない展覧会であると思う。長谷川利行は京都に生まれ、若い時期には文学に傾倒し、自ら詩集も出版している。30歳頃に上京し、本格的に絵画を志して作画活動に没頭し、遅まきながら36歳で第14回二科展樗牛賞、翌年には1930年協会展で奨励賞を受賞する等、一挙に画家としての天賦の才能を開花させた。しかし、生活の面では、いつしか定居を持たず日銭暮らしを送るようになり、ついに東京市養育院で49歳の生涯を閉じた。彼の描く絵画は、フォーヴィズムとも呼ばれたが、私は、戦前・戦中の東京の下町を生き生きと描いた生命感あふれる画家であったと思う。掲載は1回で済まそうと思ったが、その魅力に引きずられ、2回の連載にすることにした。絵画は、原作を見ないと理解できないもので、もしご希望ならば府中市美術館まで足を運ぶことをお勧めする。開催は7月8日までである。

自画像  油彩・カンヴァス  大正14年(1925)頃 個人蔵

関東大震災後、俊行(としゆきー私は「りこーさん」と呼んでいる)は東京から京都に戻っている。帰郷しても父とは別居し、伏見稲荷近くのアパートに一人住み、絵を描いていたらしい。本作はこの頃に画かれたものである。関東大震災は利行に大きな衝撃を与えたと思われる。この作品からは、強い意志の持主であることが感じられる。何か深く思いつめている表情である。画家には自画像が多いものであるが、利行には、この1点しか、自画像は確認されていないそうである。

田端変電所  油彩・カンヴァス 大正12年(1923) 広島県立美術館

新光洋画会第4回に初入選した作品である。本作により長谷川利行は画壇へのデビューを果たした。早く入選して画家として身を立てたいという焦りがあってか、二科や春陽会に落選を続けていた。漸く入選したのが本作である。当時、鉄道は漸く電化されつつあった。変電所は目新しい建造物であった。東京のモダンな姿を捜し歩いていた利行にとって、変電所は格好の画題となったのであろう。柵の強い縦の黒い線、屋根と支柱の赤い斜めの線は、対比をなし、この絵にリズムを与えている。冒頭論文を寄せられた美術史家・原田光氏は、結論として「利行は、やはり、線の画家だと思う」と述べられている。正に、その通り、黒い線、赤い線が、この絵の見所であろう。

酒売場(PUB) 油彩・カンヴァス 昭和2年(1927) 愛知県美術館

第14回二科展で樗牛賞を受賞した代表作である。行き付けの浅草神谷バーの店内を描いたものである。恐らく店内にカンヴァスを持ち込み、速写したものであろう。昭和30年代の神谷バーと殆ど変っていない。店内の騒めき、食器やグラスの響きが聞こえてきそうである。それは赤や緑といった色彩の交響によって引き起こされた効果である。この絵では、文字通り、音色が色に置き換えられいるのである。速写のスピードが店内の光と音を一つのものにしている。

浅草停車場 油彩・カンヴァス  昭和3年(1928) 泰明画廊

浅草停車場は、現在の東武伊勢崎線とうきょうスカイツリー駅に当たる。明治35年(1902)の開通時は吾妻駅と言った。明治43年(1910)、浅草停車場として整備され、貨物や旅客の起点となった。大正期には東京市電も延び、交通の要として発展した。この作品においては、駅を生き交う群衆を見事に捉えている。個々の人物の表情や姿は、簡略化され、大きな一つの塊として表現されている。そこにこの絵の新しさがある。

機関車庫  油彩・カンヴァス  昭和3年(1928)頃 鉄道博物館

第14回二科展樗牛賞の大作(100号)であり、意欲に満ちている。赤煉瓦の車庫の中に黒い機関車が生き物のようにうごめいている。いきなり100号の大作であり、見ていても驚く。第4回1930年出展作である。「鉄道博物館」の所蔵であり、誠に所を得た「作品」である。

夏の遊園地 油彩・カンヴァス  昭和3年(1928) 個人蔵

描かれたのは、大正11年(1922)開園の荒川遊園地である。近くになじみの銭湯があって、利行は初期の描き方で、対象の骨格を素早くカンヴァスに刻むように筆を運んでいる。色と形は溶け合っていない。夏の夕暮れのなか、人気(ひとけ)はなく、暑気をはらんだ空気が漂っている。原色を多用しながら、水彩画的な淡い彩やかすれによって、広場の孤独をたくみに描き出している。第15回二科展で出品され好評を得た。100号の大作である。

カフェ・パウリスタ油彩・カンヴァス 昭和3年(1928)東京国立近代美術館

本作は1911年に東京の銀座に開店したカフェである。大正期には各地に支店があった。下町を中心に徘徊していた利行がこの作品を描いたのは、浅草か神田あたりの店であったと思われる。素早いタッチによる黒、赤、青、緑、白といった色たちが絵具の存在感を主張する一方で、カフェには女給以外の人は見当たらない。多分、開店直後の客のいない時間帯に絵が描かれたのであろう。この作品は第3回1930年協会展に出品されたが、当時の下宿先に宿代代わりに預けられて以降、近年まで所在不明となり忘れられていたが、テレビ番組がきっけとなり再び世に出てきた。額もなく、かなり汚れた情愛だったそうであるが、2009年度に国立近代美術館の収蔵となり、修復を経て当時の色彩を甦らせた。私は、MOMANT展で何度も視ているし、この「美」でも取り上げたことがある。長谷川利行の代表作である。

靉光像  油彩・カンヴァス  昭和3年(1928) 個人蔵

靉光(あいみつ)は若くして夭折したため、作品の数は少ない。しかし、彼に対するファンは実に多い。作品数も少なく、中々お目に懸れない。そんなこともあって靉光のファンは、満たされない思いが何時も強い。靉光は利行の画友である。利行と靉光ともに1930年協会展に出品しているが、1927年(昭和2年)、靉光は1930年協会展に出品しているが、1927年(昭和2年)、靉光は1930年協会奨励賞を受賞しており、この頃に出合ったと思われる。なお、同賞は翌年利行も受賞している。彼と靉光は16歳離れており、一時期、靉光は利行の影響を随分受けていたという。昭和3年(1928)、利行は靉光のポートレートを描いた(本作)。靉光は作品を見て喜んだことだろう。利行は靉光をはじめ若い画友たちに親愛の情を抱き、彼らも利行を慕っていた。

岸田国士像 油彩・カンヴァス 昭和5年(1930) 東京国立近代美術館

岸田国士は劇作家として著名な人物である。矢野文夫を介して、利行は強引にモデルを依頼した。胸に白いハンカチを入れ、黒い礼服姿の岸田を利行は勢いよく描いた。岸田の表情には、明らかに戸惑い、困惑していることを窺わせる。「肖像画の押し売り」にあい、さらに金をたかられるのではないか?その不安は的中した。岸田は肖像画の完成後も利行の襲撃を受けたらしい。1931年(昭和6)の第18回二科展出品作であり、好意的に受け取られたようである。

水泳場  油彩・カンヴァス  昭和7年(1932) 板橋区立美術館

「女」、「ガスタンクの昼」とともに昭和7年(1932)の第19回二科展に出品された作品である。50号の大きさで、利行の作品としては、大作の中に入る。関東大震災からの復興の一環として、東京市が墨田区公園内に造った水泳場(プール)を描いたものである。二科展での評価は賛否相半ばしたようだが、白い雲の湧き上がる夏の青空の下で、水泳場に集い、水泳を楽しむ大勢の人々の姿を素早いタッチで描かれ、画面全体に散らばる鮮やかな原色とも相まって、賑やかで明るいざわめきが伝わってくる。この作品は、長い間、行方不明であったが、10年ほど前に再発見され話題となり、板橋区立美術館に保管されている。

 

美術史家の原田光氏の「利行の幸福」という冒頭論文によれば、長谷川利行は二科展への出品が制作の背骨となっていたそうである。氏の論文によれば、次のような年賦が付けられている。                          大正12年(1923)と大正14年(1925)は落選           大正15年(1926)  第13回二科展  「田端変電所」、初入選    昭和2年(1927)   第14回二科展  「酒売場」樗牛賞受賞     昭和3年(1928)   第15回二科展  「夏の遊園地」他       昭和4年(1929)   第16回二科展   「子供」他         昭和5年(1930)   第17回二科展  「タンク海道」他       昭和6年(1931)   第18回二科展  「岸田国士像」他       昭和7年(1932)   第19回二科展  「水泳場」他         昭和8年(1933)   第20回二科展  「風景」他          昭和9年(1934)   第21回二科展  「割烹着」          昭和10年(1935)  第22回二科展  「鋼鉄場」他          昭和11年(1936)  第23回二科展  「裸女」他          昭和12年(1937)  第24回二科展   「夏の女」、「ハレルキン」

合計25点、この内、今も見ることができる作品は12点か13点、他の作品は行方不明か消失であろう。ほぼ半分の作品が残っている。よくぞ残ってくれたものだ。二科の効果があったのではないかと、原田氏は推測している。原田氏は、最後の出品作の「夏の女」、「ハレルキン」の内、どちらかが「白い背景の人物」(下で講評する)ではないかとも推定している。それは「下」で掲載し、論表したい。長谷川利行が描いた場所は、荒川より南、駅名で言えば、尾久、田端、日暮里、上野、御徒町辺りが多い。新宿、渋谷にも出没した形跡がある。活躍したのは大正末期から昭和15年頃までであり、私が生まれた頃に該等する。

 

 

(本稿は、図録「長谷川利行展  2018年」、図録「名品選 東京国立近代美術館」、図録「東京⇄沖縄展 池袋モンパルナスとニシイ美術村  2018年」を参照した。)

プーシキン美術館展ー旅するフランス風景画

プーシキン美術館は、帝政ロシア時代の実業家セルゲイ・シチューキンとイワン・モロゾフという伝説的な二人を中心とするコレクター達が収集した秀逸な西洋絵画コレクションとしてその名が知られている。プーシキン美術館の歴史をたどれば、1912年に「モスクワ大学付属アレクサンドル三世美術館」として開館した。1917年にロシア革命が勃発し、社会主義体制が敷かれて個人コレクションは国有化され、多くのコレクターは海外へ亡命した。シチューキンとモロゾフのコレクションは邸宅ごと接収され、西洋近代美術館(旧モロゾフ邸)に統合された。レニングラードのエルミタージュ美術館から多くの美術品がモスクワに移され、これを統合して「国立モスクワ美術館」に改組された。1937年に詩人プーシキンの没後100年を記念して「国立プーシキン美術館」に改名されて、今日に至っている。旧友Y君と二人で、この「プーシキン美術館展」を見学に出かけのは5月18日であった。当日は、思いがけない「65歳以上無料」の日に当たり、高齢者集団の混雑する中の1名として、無料で参観出来ることとなった。この美術展が日本で開催されたのは、今年が「ロシアにおける日本年」「日本におけるロシア年」に当たり、国立プーシキン美術館の所蔵品による「プーシキン美術館展ー旅するフランス絵画展」を開催することとなったのである。この展覧会は、風景画に焦点を当てたものであった。この企画は17世紀から20世紀のフランス絵画における風景画を紹介することが目的であつた。西洋画において、風景画の地位は極めて低いものであり、宗教美術を頂点とする絵画の序列の中では最下位に近い位置付けであった。しかし、フランスにおいてバルビゾン派の台頭や、19世紀の新しい絵画の道、印象派やポスト印象派の誕生・隆盛により、風景画の地位は高まった。65作の秀作が展示されたが、私は19世紀から20世紀にかけて、馴染みの深い作家中心に解説を試みたい。なお「プーシキン美術館展」を是非観たいという要望は、旧友Y君からの声で、「ロシアを訪ねた際にプーシキン美術館を見たから」という理由であったが、私は、中でもモネの「草上の昼飯」を視たいという願望で見学したようなものである。

山の小屋 ギュスターブ・クールベ作 油彩・カンヴァス  1874年

1871年3月、普仏戦争敗北後のパリに、労働者階級を中心とした、いわゆるパリ・コンミューンが樹立された。4月にクールベはその議員に選ばれ、革命側に立って活動した。しかし、間もなくコミューンがヴェルサイユ政府軍により鎮圧されてからは、クールベは、ヴァンドーム広場のナポレオン記念円柱を破壊した責任を問われ、サント=ベラジー監獄に抑留されてしまった。1873年には円柱再建の賠償金として財産が差し押さえられ、身の危険を感じたクールベはスイスへの亡命を余儀なくされた。雪で覆われたアルプス山脈が遠く背景にそびえる、慎ましやかな山小屋の風景である。亡命先で手掛けられた本作品は、クールベ晩年を代表する1点である。軒先に干された洗濯物、煙突から上がる煙は、そこでクールベが営んだ日常生活を偲ばせるものであろう。1877年、故郷オルナンに思いを馳せつつ、失意のうちに58歳の生涯を閉じることとなった。

刈り入れする人 レオン=オーギュスタン・レルミット作 油彩・カンヴァス1892年以前

レルミットはミレーからの影響を受けて、もっぱら農村部の日常生活を絵に描いていった。油彩に限らず、木炭やパステルを積極的に取り入れた点で、新しいタイプの農民画家であったと言えるであろう。黄金に輝く麦畑で刈り入れ作業にいそしむ二人の女性を描いたものである。農作業にともなう苦労はあまり強調されず、むしろ自然と共に生きる、農婦たちのたくましさに焦点が当てられている。クールベ的な写実主義を見る観がある。レルミットの作品は、同時代の画家たちからも注目を集めていたそうである。とりわけフィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)は熱心な受容者の一人であり、ゴッホは、画商であった弟テオに、その複製画を送るようにしばしば依頼したことが図録に記されている。(ゴッホの手紙「岩波文庫中巻、下巻」では見当たらない)

庭にて ムーラン・ド・ラ・ギャレットの木陰 ピエール=オーギュスト・ルノワ-ル作 油彩・カンヴァス 1876年

パリの街の北端にあるモンマルトルの丘は、パを見下ろす絶好の地である。19世紀後半には、パティニヨール地区を含むこのあたりがパリ市に編入されるまでは、畑や風車のある郊外の田舎の村であった。産業革命の影響で風力より蒸気機関が動力源として有力になると製粉業を営んでいたドブレー親子は、風車だけを残して、製粉小屋を田舎風の舞踏場に改装した。城壁で囲まれていた古いパリ市との境界線上にある地域には、舞踏場や安い居酒屋などが軒を連ね、庶民の憩いの地になった。モンマルトルの丘の中腹にあるムーラン・ド・ラ・ギヤレットの舞踏場は特に有名であった。1876年にルノワールの名作「ムーアン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」を描き、2017年に初来日した。(2016年8月9日「黒川孝雄の美」参照)この「庭にて」は、「舞踏場」を描く準備段階で描かれたものと思われる。「舞踏場」の前景に座る女性のドレスは、本作品に描かれる青いストライプのドレスとよく似ていいる。ルノワールは親しい友人たちにしばしばモデルを依頼し、近代生活を楽しむパリの人々を描いていた。この集まりに指し込む陽光や人物たちの重なり合うような配置は、彼らの親密さを強調しているようである。印象派の特徴の一つに戸外制作が挙げられるが、「舞踏会」と同様に、戸外制作ののち、適切な光のもとでアトリエで手直しがなされたと思われる。

草上の昼飯 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 130×181cm 1866年

私は、オルセー美術館展(2014年)で、この絵の巨大な作品を見て、「黒川孝雄の美」(2014年8月11日)に記している。「モネは1865~66年に大きな「草上の昼飯」に取り組んだ。モネはまず準備習作に取り組み、次いで秋にはパリのアトリエで大きな絵画(縦4M、横6M以上)を制作した。この作品にはエドュアール・マネに対しての挑戦でもあった。1866年のサロンに出品されるはずであった。しかし、モネは絵を完成させることなく、アルジャントュイュの債権者へ預けた。そしてモネが1884年に買い戻したときには、湿気の多い地下室に保管していたことで傷んでしまったことが分かったので、二つの断片に切り分けたのである。しかしながら、左と中央の部分の二つの断片が残されていて、これは幸いにオルセー美術館のコレクションに入り、今日では隣り合っている。」今回のプーシキン美術展では、この完制作が見られるということが最大の話題であり、私自身も大いに楽しみにしていた。また、主催者も、この絵が最大の話題になることを期待しているように、案内書の写真は、モネの「草上の昼飯」であった。この作品は、上記の「創作準備に取り組み」とある、準備作品(下書き)を完全に仕上げて、ロシアのコレクターに売ったものであろうと思う。(諸説あり)完全に完制作として創られていた。モネの作品を見ていて、一番左に位置する画家はモネ、その隣はモネの妻カミーユと思う。不思議なのは右端の白樺に書かれたPと言う文字と、ハートのマークに矢印が突き刺さっていることである。何かを象徴するものだろうが、私には不明である。もうひとつ、白樺の右下に一人の紳士が潜んでいる。誰か?目的は?いずれも不明である。パリからピクニックに来た若者たちの楽しむ風景は美しいが、不明な点も多い絵である。縦130、横180cmの意欲作であり、当日の一番人気の作品であった。

ジヴェルニーの積みわら クロード・モネ作油彩・カンヴァス 1884~89年

1883年4月、モネはパリの北西65キロほど離れたジヴェルニーに家を借りた。この地は余程気にいったのであろう。モネは7年後にその家と土地を買い取り、1926年に86歳で亡くなるまで、この地で過ごした。さて、この「積みわら」の絵は、丘とポプラ並木を背景に、陽の当たる場所に丘とポプラ並木を配し、日陰には大きく干し草の山が描かれている。日陰の大きな積みわらに灰色がかった縁取りが施されており、モチーフの周りで揺れ動く光や大気に対するモネの関心の高さが読み取れる。同じような角度から、同じポプラと積みわらを描いた2点の作品が残されているそうである。この連作という行為は、ジャポニズムの大きな影響だろうと思う。北斎の富嶽三十六景等に触発されて、この時期、連作がいろんな作家が描いている。典型的なのは、同じ時期に制作された「エッフェル塔三十六景」という作品等であろう。(「北斎とジャポニズムー2017年」)

白い睡蓮 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス  1899年

ジヴェルニーに移り住んで10年を経た1893年、モネは自宅に隣接した土地を購入した。そこに水を引き、睡蓮を育てて、太鼓橋をかけ、自邸の庭に自らの理想の風景を造り上げていった。1897年、モネは敷地内に第二のアトリエを建設し、睡蓮をはじめとする庭のモチーフに精力的に取り組んで行く。最晩年までに200点以上もの作品に睡蓮を描くが、この作品はその初期に当たるものである。この太鼓橋を描いた図は、ポーラ美術館でも見た。1899年から1900年にかけて、モネは睡蓮の浮かぶ池に太鼓橋が架かる風景を18点てがけているそうである。ポーラ美術館の作品は18点の内の1点であろう。所で、印象派作家と呼ばれる作家は多いが、最後まで印象派を貫いたのはモネ1人だと私は思う。例えば、ルノワールはイタリア旅行を契機に、印象派から離れて、人物等を多く描くようになった。モネは印象派の指導者と目されるが、ただの1回も印象派展に出品したことは無く、常に官展を狙っていたのである。モネが印象派の指導者であることは間違いないが、決して徹底した印象派作家ではなかったと言うのが、私の持論である。

ブーローニュの森 アンリ・マチス作 油彩・カンヴァス 1902年

19世紀後半、パリを起点に鉄道網が発達した。大都市パリに住む人々は、気軽に郊外でレジャーを楽しむようになり、自然に触れながらつかの間の休息を楽しみ、画家たちはこぞって郊外に滞在、あるいは移り住み、緑あふれる光景を作品にしていった。マチスは大胆な筆使いで差し込む陽光を表現した。木々は固有の色を保ちながらも、形態はやや単純化され、陽光は幅の広い筆触で大胆に小道に指し込んでいる。一定の広がりをもった濃淡のある色彩の塊が、風景を形作っている。本作品に見られるこうした力強い色彩の採用は、1905年のフォービズム誕生を予感させるものである。

サント=ヴィクトワル山、レ・ローブからの眺め ポール・セザンヌ作 1905~6年

(サン=ヴィクトワール山、レ・ロープからの眺め)(1882-85年)から20年ほど経て制作された、最晩年の作品の一つである。2点の作品を較べると、色彩や筆触、山の様子と距離などが大きく異なり、画家の風景に対するまなざしと表現の変化がよくわかる。1902年に63歳のセザンヌが念願のアトリエを構えたレ・ロープの丘は、高い位置からサント=ヴィクトワール山をのぞむ未払台に近かった。丘から眺めるサント=ヴィクトワール山は、10点ほどの油彩画と17点ほどの水彩画に描かれるほか、数枚の数枚の絵がカンヴァスに残されている。前景の木々やふもとの家には具象的な形態を表す線を認めることができるが、抽象的といえる画面が構築されている。こうした最晩年のセザンヌの表現は、キビュズムの画家たちに高く評価されていった。

マタモエ、孔雀のいる風景 ポール・ゴーガン作 油彩・カンヴァス 1892年

1891年4月、ゴーガンはタヒチ島へと出航した。出発前にその動機を、「文明の影響から解放されて、心静かに暮らすために行く。私は単純な、ごく単純な芸術しかつくりたくない。そのためには、汚れない自然の中で自分を鍛え直し、野生の人にしか会わず、彼らと同じように生きる」必要があると述べていたが、タヒチ島にはすでに近代社会の影響が及び、ゴーガンが考えていた以上に西洋式の暮らしが広まっていた。しかし鮮やかな色彩や見慣れない素朴なモチーフの数々に魅せられてゴーガンは、ときに豊かな想像力を駆使しながら、美しい風景を描いていく。本作品は、最初のタヒチ滞在の早い時期に制作されたと考えられる。山や地面には不定型の鮮やかなな色の面が広がり、幻想的な熱帯の風景が生み出されている。装飾的な画面には、パンダナの葉で覆われる小屋、高く優雅に伸びるココナッツの木、孔雀など異国的なモチーフが配されている。

馬を襲うジャガー アンリ・ルソー作 油彩・カンヴァス 1910年

私の先生である福島繁太郎氏は「近代絵画」の中で、次のようにルソーを表している。「穏やかな、純真な、そして誰もが親しみやすい美しい詩は、老いたる天使と言われた無教育の聖者アンリ・ルソーの単純な心に安住の住居を見出している。」と解説している。そして、「ルソーの主題は、自分が身近に感じたものに限られている」と述べたあとに、次の文章を書き足している。「ルソーは青年時代、マキシミリアン応援の仏軍に軍楽手として加わりメキシコに渡ったが、温帯のフランスばかりで生活し、又知識も狭い彼にとって、熱帯の激しい雰囲気は偉大な脅威であるばかりでなく、恐怖でさえあった。この脅威の追憶が熱帯の空想画となって現れたのである。」この教科書通りの絵画が、プーシキン美術館にあったことには驚いた。ルソーは1890年初めに描いたジャングルを舞台とした風景を、1905年頃から再び手掛けるようになったのである。中央に動物を配し、熱帯の植物がそれを囲む構図は、彼の多くの作品に繰り返され、「馬を襲うジャガー」も同様の構図が採用されている。アンリ・ルソーの絵が、プーシキン美術館の展示会の終わり頃に登場して、懐かしさと、意外感に襲われた。

 

プーシキン美術館の「旅するフランス風景画」展は、非常に幅広い風景画を含んでいた。17世紀から20世紀にかけての風景画であったが、取り上げたのは、殆ど印象派とポスト印象派と呼ばれる画家であった。やはり、印象派は懐かしい、書き易い作品が多いからである。65点を見終わって、感じたことは保管状態が極めて良く、新しい印象が強かった。一番関心が高かったのは、当然、モネの「草上の昼飯」である。オルセー美術館の二枚に別れた、巨大な作品(4M×6M)を見てきた私にとって、鑑賞した作品はは小さいという印象であった。しかし丁寧に見てみると、思いがけない発見を幾つかした。右端の白樺に書かれたPという文字(誰かのイニシャルか)、ハートマークに突き刺さった矢印はどんな意味か、更に白樺の木陰に隠れた紳士は誰か?など謎は多い。しかし、オルセー美術館で視た、無残な絵が、小さいと言え、完制作が見られたことは幸せであった。更に、アンリ・ルソーの「馬を襲うジャガー」には驚いた。アンリー・ルソーは、もっと前の時代の人といおう印象であったので、最後の、フォーブの時代の作品の中に1点、見事なルソーの作品は意外感で一杯であった。私が、今まで見たルソーの絵は、20年ほど前の19世紀終わり頃の作品が多く、まさか20世紀の作品が出てくるとは思わなかったのである。

 

(本稿は、図録「プーシキン美術館ー旅するフランス絵画  2018年」、図録「オルセー美術館ー印象派の誕生ー描くことの自由  2014年」、福島繁太郎「近代絵画」、吉河節子「印象派の誕生」、中野京子「印象派で近代を詠む」、日経大人のOFF2018年一月号、朝日新聞・記念号「プーシキン美術館ー旅するフランス風景画」を参照した。