東京ステーション・ギャラリー  夢 二 繚 乱

明治の末年から大正、昭和初期にかけて、日本中の若い男女の心に夢と憧れの哀切な美しさを教えた詩人画家・竹久夢二(1884~1934)は、岡山県の酒屋の息子に生まれ、神戸で中学を途中まで学んでから上京し、早稲田実業に入学した。この早稲田実業も中途で退学した。早くから絵の才能を示し、新聞のコマ絵や雑誌の挿絵画家として出発した。画風は、一方で鏑木清方の美人画の影響を受けながら、他方藤島武二にあやかって夢二と名乗ったことから明らかなように、江戸時代以来の伝統的な絵草子の世界と西欧の世紀末の耽美主義的雰囲気とともに受け継いで、ハイカラであると同時に郷愁を感じさせる甘美な叙情世界を作り上げた。詩人としても「宵待草」(よいまちくさ)をはじめ、世人に親しまれた多くの感傷的な抒情詩を歌い上げた。また、自伝小説「出帆」を昭和2年(1927)に都新聞に連載した。これは夢二の半生を綴った自伝小説である。挿絵には、彼の愛した女性達や彼女たちと訪れた場所の風景、あるいは抽象的な心理描写などが水墨で描かかれている。本来、この展覧会の企画は、「夢二と出版業界」とも言うべき企画であったが、私の興味で、「夢二の人生と絵画」について、重点的に触れることにする。大正3年(1914)10月、日本橋呉服町(現中央区八重洲一丁目)に「港屋絵草子店」(みなとやえぞうしてん)を開店した。夢二が正式に結婚した唯一の女性・「岸たまき」が主人を勤めた港屋は、夢二がデザインした千代紙、便箋や封筒、半襟などを販売するブランド・ショップであった。また恩地孝四郎や田中京吉ら若い芸術家が集い、作品を発表できるギャラリーでもあった。この時期に「夢二式美人」のスタイルが確立されただけでなく、絵葉書、雑誌の表紙や挿絵、本の装蹄など、多方面にわたって夢二は活動を展開させていった。竹久夢二は優れた画家であると同時に優れたデザイナーでもあった。デザイナーとしての仕事は、主要な仕事はグラフィックデザインと服飾デザインの二つに大別される。夢二が描く女たちが着ている着物は、夢二独自の意匠によるものであり、当時の着物を再現したものでは無いと言われている。つまり、夢二が絵の中で新しい着物の柄を造り出、それれを女性達が現実の着物として作り上げていったということになる。

白目連と乙女 竹久夢二作    大正8年(1919)頃

港屋の商品の一つである。夢二の代名詞とも言える「夢二式美人」は、妻のたまきをモデルとして生まれた瞳の大きな女性像のことである。視線を伏せがちで愁いを帯び、ポーズも何かに寄りかかっていたり、身をよじっていたり儚げな(はかなげな)魅力で目を惹き付ける。このようにして「夢二式」はスタイルとして確立されていった。この「白目連と乙女」は、モデルはお葉こと佐々木かよこと考えられている。お葉は藤島武二など多くの画家たちの創造力を刺激したモデルであった。

秋 竹久夢二作    大正9年(1920)頃

この作品は鏡台に向って髪を梳る(くしけずる)女性を描いている。夢二は女性らしさのイメージとして化粧や身支度をよく描いているが、この作品では儀式のような静かな雰囲気を演出している。夢二は身近な女性を題材に、生涯にわたって理想の女性像を追求した。

港屋絵草子店(みなとや版) 竹久夢二作   大正3年(1914)頃

大正3年(1914)10月1日に港屋絵草紙店を開店した。「いきな木版画、かわいい石飯画、カードや絵本、詩集や絵日傘人形、千代紙、反襟」などを扱う店として開業した。同棲生活を続けていたものの、離婚した最初の妻たまきが自活できるように、夢二がこの店を出したのだと言われる。この木版画は、東京のモダンな男女を描いた「みなと屋」の商品の一つである。

玉椿(みなとや版) 竹久夢二作   大正3~5年(1914~16)

夢二のデザイナーとしての作品の一つで、当時のみなと屋の商品であり、夢二のデザインの港屋のオリジナル商品である。江戸趣味と異国趣味が取り入れられ、独特の雰囲気を醸し出していた。港屋は東京名物の一つに数えられ、とくに若い女性の人気が高かった。店には夢二を慕う若い画学生も集い、ときには彼らの作品を扱う展覧会の会場ともなった。しかし、次第に夢二の興味も薄らいで品数も減っていき、大正5年(1916)に閉店した。

かるた会 新少女 竹久夢二作   口絵原画    大正4年(1915)頃

夢二は多くの雑誌や新聞、書籍などの挿絵を手掛けた。この「かるた会」は「新少女」大正5年(1916)1月号の挿絵の原画である。この時代は、多くの雑誌新聞に夢二は挿絵を描いていた。夢二の影響を受けた画家の一人である中原淳一は、夢二の挿絵は「小説の中の一場面や情景を説明する絵ではなく、その小説の中に出てくる、”女”の、また”人間”の、哀しさと宿命を、場面とは無関係に、一枚の絵として描いている」(昭和45年)と語っている。

「絵日傘」長田幹彦著一の巻 竹久夢二装蹄   大正8年(1919)

夢二は自著の装蹄のほか、他著の装蹄でも300冊近い書籍の装蹄を手掛けた。最も多く担当したのは長田幹彦の著作である。幹彦は夢二の装蹄について「よき援助者であり、伴走者であり、鞭撻者であった」と賛辞を贈っている。勿論、夢二の自著の装蹄も手がけ、全部で57冊に及ぶそうである。この装蹄は、本の表紙であり、本の横も見えることに注目してもらいたい。

舞姫  竹久夢二作  大正7年(1918)頃

夢二の絵は、書籍や雑誌など出版物によって全国に知られ、彼の肉筆画を見られる機会は限られていた。大正元年(1912)、京都府立図書館で開催された最初の個展である「第一回夢二作品展」は、その肉筆画が展示される機会とあって、同時期に催された文展に劣らぬ盛況ぶりであったという。「舞姫」は大正7年に開催された「竹久夢二抒情画展覧会」(京都府)への出品作である。夢二が何度も主題とした舞妓をほぼ投資大に描いた大作で、桜をあしらった装いが春の到来を感じさせる。

コーヒーと女  竹久夢二作  大正4年(1915)頃

唇に艶やかな紅を引いた女性がカフェで寛ぐという、まさに大正ロマン期らしいモダンな姿をさらさらと流れるような筆遣いで描いている。(個展の出展作である)

宵待草 楽譜の表紙 竹久夢二作  大正7年(1918)三版大正10年(1921)

楽譜の発行所、音楽社の「音楽界」編集部にいた妹尾幸次郎(1891~1961)は、大正4年(1915)にいくつかの作品の版権を譲り受けて、セノオ音楽出版社を創業した。大正期は凝った装幀の楽譜が登場したが、中でもセノオ楽譜はその代表格であり、西洋のオペラ、ロシア民謡、童謡、小唄など幅広い内容の楽譜が刊行された。夢二は大正5年から昭和2年(1927)にかけて270枚余りのセノオ楽譜の表紙を手掛けた。表紙は石販印刷で摺られ、内容は夢二らしい和装美人や洋装の少年少女像も数多く見られるが、装飾的なもの、木版画や影絵を思わせる簡略化されたもの等多岐にわたり、タイトル文字も夢二によってあわせて図案化された。セノオ楽譜での夢二の登場は表紙だけでなく、楽曲の作詞も20曲以上に及んだ。この「宵待草」は、代表作であり、良く歌われたそうである。私の自宅(愛知県)にも、セノオの楽譜が沢山残されており、非常に懐かしく思い出された。

五月  「婦人クラブ」大正15年5月号表紙   大正15年(1926)

明治末~大正期には、女子の進学率も上がり「小女界」「少女の友」「少女画報」といった少女雑誌が創刊され、その内容は少女たちにファッションも含めて大きな影響を与えた。夢二はこうした少女向けの雑誌を代表する流行挿絵画家であった。「婦人グラフ」は大正13年(1924)に創刊した婦人グラビア誌で、昭和3年(1928)11月号まで発刊された。表紙や挿絵には、彩色木版画を摺り込むという手間のかかった高級誌であった。この木版画は、職人によって彫られ、最新式の機械で摺ったもので発色がよい。木版画の下絵は、当時の代表的な挿絵画家が手掛けた。知名度の高い人気挿絵画家の夢二も、この雑誌に登場することになったのである。夢二の描く女性像は、洗練されたデザインで完成度が高く、ある種の「婦人クラブ」風ともいった統一感を放っている。この「五月」は、「婦人クラブ」大正15年(1926)5月号の表紙を飾った絵である。夢二らしい絵である。

「遠山に寄す」二曲一双屏風 竹久夢二作 昭和6年(1931)夢二郷土美術館

夢二の寂しげな様子をした自画像でもある。シルクハットをかぶり、コートを着てステッキをつく後姿の男性は、夢二の自画像である。「遠山に寄す」というタイトルは、大正8年(1919)に夢二が出版した「山へよする」を想起させるが、この歌集は夢二が愛した笠井彦乃を歌ったものであり、「山」とは彦乃のことである。交際に反対する彦乃の父親に知られないように二人は、彦乃が「山」、夢二が「川」という符合で手紙をやりとりしていた。夢二にとって「山」とは彦乃のことを指しており、この「遠山に寄す」の山も当然彦乃のことであろう。夢二の傍らに寄り添っていながら、それぞれ別の方向を見ている。その視線を辿ると、夢二が見ているのは遠くの「山」で、彦乃が見ているのは足元を流れる「川」である。ともに相手のことを想っていることが分かる。

 

竹久夢二は、大正ロマンの騎士であり、一度機会があれば、書いてみたいと、かねがね思っていたが、今回の東京ステーション・ギャラリーの企画は、その思いに応えてくれるものだった。しかし、展示されたものは「出版業界と夢二」とも題すべき内容であり、テーマの「夢二繚乱」とは、かなり違う内容であった。しかし、雑誌のグラビアや表紙、セノオの楽譜、挿絵など多分500点近い展示であり、数量的には、ゆっくり見られるものでは無かった。夢二の「人生遍歴」には殆ど触れていないが、絵画の解説に徹した。いずれ、「夢二美術館」等へ行く機会を作り、その時に、夢二の「女性遍歴」にじっくりと触れたい。

 

(本稿は、図録「夢二繚乱」、原色日本の美術「第27巻 近代の洋画」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)

伝岩佐又兵衛  重要文化財 浄瑠璃物語絵巻

岩佐又兵衛は辻惟雄氏の「奇想の系譜」の一人として紹介されて、いろんな所で又兵衛の作品を見る機会に恵まれた。この「美」でも昨年2月にMOA美術館で「山中常盤物語絵巻」で観覧し、その内容を「美」で紹介している。今年は「浄瑠璃物語絵巻」が展示され、その内容を、再び「美」で報告したいと思う。また彼が京都時代に描いた舟木本「洛中洛外図」が、昨年国宝に指定され、それも又昨年4月に「美」に収録している。又兵衛は、福井から江戸に出る時、「廻国之記」という道中記を書いている。それが又兵衛の経歴を知る上で、一番信用できる記録である。それによれば、岩佐又兵衛は天正6年(1578)摂津伊丹城主として織田信長の信認厚かった荒木村重の妾腹の子として生まれた。その年の10月、父村重は主君信長に反逆を企てる。信長は苦戦の末、翌年伊丹城を落したが、村重はその前に城を遁れていた。怒った信長は、城中に残された者全員の処刑を命じ、村重一族30余人は、京の六条加原に引き出され、幼児に至るまで首を刎ねられた。又兵衛は乳母の手で城から救出され、京都の本願寺教団のもとにかくまわれ、そこで成長したという。成人してのちは、信長の子信雄に仕えたとのことだが、お伽衆あるいは祐筆のような役を務めたらしい。姓も、母方の姓と言われる岩佐に改め、勝以(かつもち)と名乗った。武門の再興をあきらめ、関白二条昭実の邸で催された詩歌管弦の集いなどに顔を出し、村重の遺児としての出生のいきさつと、恵まれた画才に身を助けられて渡世する途を、彼は選んだ。慶長20年(1615)の夏、大阪夏の陣によって豊臣方の命運は尽き、年号も元和と改められる。この年、又兵衛は38歳。おそらく画名は相当聞こえていただろうが、彼は程なく京を離れ、越前北之庄へ赴いた。当時の北之庄城主は、菊池寛の「忠直郷行状記」で知られる松平忠直である。家康の孫に当たりながら、乱行ゆえに、元和9年、幕府の命によって豊後へ配流となったと言う。このまことに「かぶき大名」と又兵衛との興味深い出会いについては、「浮世又兵衛行状記」(篠田達明氏)に詳しい。忠直郷追放後の北之庄は甥の忠昌が継ぎ、名を福居(福井)と改めたが又兵衛は引き続きこの地に止まり、結局、寛永13年(1636)まで、足掛け20年を越前で過ごすことになった。彼の個性的な画風は各地へ広まり、寛永14年(1637)、彼は将軍家筋の用命を受け、福井に妻子を残して発ち、京都を経由して江戸へ向かった。当時既に60歳になっていた彼は「廻国道之記」という道中記を記している。今回、MOA美術館で「浄瑠璃物語絵巻」が公開されたので、それを見る為に熱海まで、出掛けた次第である。内容は「山中常盤物語絵巻」同様、牛若を主人公にした古浄瑠璃の正本(テキスト)を詞書(ことばがき)として、その内容を絵画化した12巻の絵巻である。全長、12、988cmの長巻である。豊頬長頤(ほうきょうちょうい)の特徴を持つ人物の姿形や、金泥、銀泥をふんだんに使った豪華絢爛な巻物である。重要文化財に指定されている。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第一巻 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

15歳の春、牛若は平家討伐を成すため、鞍馬の山を出立し奥州を目指す。牛若は金売吉次の一行として旅を急ぐ。吉次一行は三河の国・矢矧宿(やはぎしゅく)に着いた。宿に泊まった夜、宿を出た牛若は宿場で名高い長者の唐御門からもれる管弦にひかれ、門前でしばし耳を傾ける。管弦に笛がないので、牛若は肌身離さぬ名笛を出して唐御門の管弦に合せる。琴を奏でていた浄瑠璃姫は笛の音に気付き、管弦を止めて笛の音に聞き入る。名手ならではの音色に、浄瑠璃は女房十五夜に命じて、笛の主を確かめさせる。十五夜は牛若の凛々しい高貴な姿を見て、着物の紋から源氏の御曹司と見受けられたと報告した。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第三巻 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

浄瑠璃は、牛若と察し、女房たちを使いに立たせて牛若を招く。牛若は七度目の使いである桔梗の局に連れられて、邸内へと進む。牛若は室内に上がり、女房達と合奏した。その時一陣の風が、浄瑠璃の前の御簾を噴き上げ、見つめ合う二人に恋心が芽生える。

重文浄瑠璃物語絵巻 第四巻(1)伝岩佐又兵衛作江戸時代(17世紀)紙本着色

一旦宿に戻り装束を整えた牛若は、再び浄瑠璃の屋敷を訪れ、邸内が寝静まるのを待つ。十五夜に招き入れられた牛若は、女房達の部屋の前を通って浄瑠璃の寝所へと通される。

重文 浄瑠璃物語絵巻第四巻(2)伝岩佐又兵衛作江戸時代(17世紀)紙本着色

浄瑠璃の寝所に近づく牛若は、四方の障子には四季の絵が描かれ、その豪華さは都の御所に勝るとも劣らない。牛若が枕屏風の側からそっと中を覗くと、浄瑠璃は部屋で眠っている。

重文 浄瑠璃物語絵巻第四巻(3)伝岩佐又兵衛作江戸時代(17世紀)紙本着色

部屋に入った牛若は、思いを和歌にして助瑠璃を口説こうとする。なかなか靡かない浄瑠璃に、牛若は、さまざまな例を出しながら浄瑠璃を口説くために言葉を重ねる。浄瑠璃は、父の供養のため、読経念仏にいそしむ精進中の身であり、叶わぬ恋なので、あきらめてほしいと嘆願する。牛若は自らの素性を打ち明け、互いに精進中の身であるから差しさわりは無いと言う。浄瑠璃は、断りきれないと覚悟し、心を寄せる。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第五巻伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

浄瑠璃は十五夜に酒肴の準備をさせ、二人は仮の祝言を挙げる。いよいよ姫はなびく。一夜の契りを結ぶ牛若と浄瑠璃姫。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第八巻 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

蒲原の宿では、一行を歓迎して盛大な宴会が催される。牛若は、旅の疲れと浄瑠璃と別れた悲しさから病となり、床に伏してしまう。宿の女将は牛若に娘と結婚をせまるが、なびかない。夫の与一が箱根権現に行った留守中に、女将は近くの男たちを雇い、牛若を海に沈めるよう命じる。

重文浄瑠璃物語絵巻第九段(1)伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

源氏に伝わる宝物が大蛇、白鳩、鳥、子童に姿をかえて牛若を守る。牛若は、浄瑠璃への手紙を客僧に託す。牛若の手紙を読んだ浄瑠璃は病に伏す牛若を思い、矢も楯もたまらず、母にも告げず牛若の後を追う。箱根権現の化身である尼公から、牛若の命が尽きたことを聞かされ、浄瑠璃は嘆き悲しむ。浄瑠璃は牛若を砂から掘り出す。浄瑠璃の涙が不老不死の薬となり、牛若は息を吹き返す。

重文浄瑠璃物語絵巻 第十一巻 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

牛若は平家討伐の暁には浄瑠璃を北政所にすることを約し、大天狗・子天狗に矢矧の宿まで送り届けるよう頼む。

重文浄瑠璃物語絵巻第十二段(1)伝岩佐又兵衛作江戸時代(17世紀)紙本着色

牛若は大天狗、子天狗から受け取った浄瑠璃の文を読み、涙ながらに東国を目指す。軍勢を引き連れ都へ上がる牛若は、途中矢矧の宿に立寄る。長者から歓待を受けるが、浄瑠璃の姿が見当たらない。不審に思って牛若は、様子をさぐるように命じる。髪を剃った冷泉が現れ、浄瑠璃は母の長者から屋敷を追い出され、悲しい最後を遂げたと涙ながらに語る。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第十二段(2)伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

牛若は冷泉の安内で浄瑠璃の墓に参り、法華経を詠むと、墓より返歌が聞こえてくる。和歌のやり取りの後、五輪塔が輝いて砕け散り、一部は牛若の懐へ飛び込んだ。牛若は浄瑠璃の成仏を確信し、墓の上に寺を建て、冷泉寺と名付ける。

 

 

「浄瑠璃物語」の正本はそのまま用いた詞によって、牛若の衣装模様や女房たちの局の襖の画題、浄瑠璃姫の寝室の調度、二人が交わす大和言葉の逐一まで事細かに語られ、それらの場面が、金箔・金銀泥・緑青・群青・朱など各種の高価な顔料を使い、艶麗な色調で微細に描かれている。又兵衛作とされる絵巻物群中、最も色彩の華麗な絢爛豪華な作品である。本絵巻物は、伝岩佐又兵衛作とされるが、岩佐又兵衛の関与は極めて少なく、殆ど又兵衛工房の作と考えられる。むしろ「全く関与していない」と言っても良い作品であり、絢爛豪華な絵巻物は、越前藩主松平家からの注文によるものと推定される。越前藩主松平忠直の子光吉が転封(てんぽう)になった津山藩主松平家に伝わったものである。越前藩主であった松平忠直の署名がある稲富流鉄砲伝書「直矢倉之巻」に用いられている菊花流水押し文様が、「浄瑠璃物語絵巻」の銀箔地の軸付紙に空押しされていることからも、本絵巻制作における越前松平家の関与が想定される。制作時期は、寛永(1624~45)末年から正保(1645~48)・慶安(1648~51)頃と推定されるが、元和(1615~24)とする意見もある。又兵衛の年齢から考えて、私は、寛永末年から正保・慶安年間(1624~48)と見たい。「浄瑠璃物語絵巻」の人物の顔貌・姿態と金銀泥を多用した濃密な彩色は「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館)との共通点が多く、又兵衛工房と風俗画との関係を考えるうえでも重要な作品である。

 

(本稿は、図録「岩佐又兵衛作品集  2013年」、図録「岩佐又兵衛と源氏絵   2017年」、日本美絵画全集「第13巻  岩佐又兵衛」、辻 惟雄「岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎」、辻惟夫「奇想の系譜」を参照した)

東京国立近代美術館  MOMATコレクション展

東京国立近代美術館では、シーズンに合わせて、年間4回の所蔵名品展(MOMAT展)を開催する。これは4月12日に東京国立近代美術館のMOMAT展を見学した際の展示品の中で、特に優れているか、問題視されたことがある近代絵画(日本画含む)をピックアップして、簡単な解説を加える。なお、中には重要文化財が含まれているが、近代絵画の中で、重要文化財に指定されている絵画は20点に過ぎない。名品中の名品であると考えて間違いないと思う。なお、過去に同じものを取り上げたことがあるが、それについては、解説を新しくしている。

重要文化財 騎龍観音像 原田直次郎作  明治23年(1890)

明治になり、日本の画家たちは、西洋画に倣って遠近法や陰影描写を取り入れ始めた。本作はそうした受容の初期の重要な作例である。明治23年(1890)上野公演で開かれた第3回内国勧業博覧会の出品作である。当時は「サーカスの綱渡りのようだ」との酷評もあったが、それを擁護したのが親友の森鴎外であった。原田直次郎は、保守的なミュンヘンアカデミーで2年半、西洋の伝統的アカデミズムを学び、明治20年7月、鴎外より一足先に帰国した。この作品は、手に楊柳(やなぎ)の一枝をさげ、白衣観音が緑青色の背をした龍に乗って暗雲たちこめる火焔を渡るところを描いた宗教画であると思う。鴎外は、反論し、擁護した。夭折した原田直次郎に対し、画壇の重鎮、黒田清輝は次のような追討の言葉を贈っている。「画についてはいかにも思想の高い人で、又思想ということを技術よりも余程重く見ている人である。若し、この人が短命でなかったならば、この想と言い必ず面白い作品が沢山出来て、我が国に一種の理想画が発達したことであろう」(原田線先生記念帳)流石に、重要文化財に指定されるだけのことは有ると思った。

重要文化財 賢首菩薩  菱田春草作 絹本着色  明治40年(1907)

華厳宗の第三祖、中国唐時代の名僧である宝蔵大師は「賢首菩薩」と呼ばれた。側天武功の直問に答えるために、庭先にあった黄金の獅子をかりて華厳経の教えを諭した場面を描いている。それまでは、輪郭線を描かず絵具を空刷毛でぼかす朦朧体で描いていたが、初めての点描を試みた作品で、第一回文展で二等賞を受賞した。一等賞は該当なしであったため、首位の作品である。これに疑問の声もあったが、それを聞いて春草は「来年はもっと程度を下げて、審査員に解る絵を描いてやろう」と言ったという。菱田春草(1874~1911)は長野県に生まれ、結城正明に学び、東京美術学校へ入学する。日本美術院の創立時から横山大観と共に朦朧体等の実験を重ねる。日本美術院が五浦(いずら)へ移転し、そこでの研鑽の成果が本作品である。以後、写実と琳派の装飾性を兼ねた作品を発表した。

南風 和田三蔵作            明治40年(1907)

第一回文展で、最高賞に該当する二等賞を受賞した作品である。海上を帆走する船に、勇壮四人の漁師が描かれている。堂々とした体躯の中央に立つ男は、上着で暑い陽射しを避け、その上着は南風を受けてはためく。男が腰に巻いた赤い布と青々とした海の鮮烈な対比、帆影の描写によって、夏の陽射しや風の強さが伝わってくるようである。この作品は当時の浪漫主義外光派の代表作とされ、「人物の各自の表情も善く、兎に角第一等の作」で「強い覇気のある作品」として好評を博した。作家は兵庫県に生まれ(1883~1967)、上京して白馬会洋画研究所、東京美術学校西洋画科で学んだ。1905年の白馬会十周年記念展で白馬会賞を受賞。第一回文展でに出品したこの作品も二等賞を連続受賞し、1909年から15年まで文部省留学生として渡欧。帰国後は、工芸、図案の方面で活躍し、東京美術学校で図案化主任などを勤めた。

小雨降る吉野(左隻)二曲一双 菊池訪文作      大正3年(1914)

吉野山に題を得たこの作品で、作家は、桜の名手といわれた名人芸を発揮すると同時に、その高度な芸をも感傷的に眺めるような観照の世界を、無理のない画面の構成のうちに展開させる。名手の技巧を示す左隻の満開の桜に目を向け、その美しさからおのずと遠い桜に目を転ずる観照の世界へといざなう。古くから吉野の桜が開く観照のコチーフとなっており、法文はこのモチーフを小雨に煙る吉野山に着想した。風景の観照には、「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と詠われた悲劇の舞台への歴史的感傷が漂う様である。法文にとって吉野山の風景は、その桜ゆえに、華麗な花鳥画の舞台となる一方、その歴史ゆえに、しめやかな観照の舞台でもあったのだろう。静かな歴史的観照のうちに漂い出る消えゆくものの美しさに、四条派の最後を飾ると言われた訪文らしさがうかがえる。

重要文化財 行く春 六曲一双屏風 川合玉堂作     大正5年(1916)

京都と東京で日本画を学んだ玉堂は、水墨技法を色彩表現と融合させた、独自の温和な風景描写を確立した。彼の作品では、四季折々の日本の風景とそこに暮らす人々の日常を、何の衒いもなく平明に描くのを特徴とするが、そうした平明さを実現させるために、玉堂は西洋的な遠近法の表現を積極的に取り入れた。本作は、埼玉県の長瀞(ながとろ)の光景を描いたものである。六曲一双の大画面である。そこで働く人の姿を描く。多くの日本人が「風景」の中に見出す情緒を、玉堂は近代的な視覚から見ても不自然さの無い広がりの中に描き表した。近代の日本画における新機軸を示した、この作品は1971年に重要文化財に指定された。

麗子像(五歳の像) 岸田劉生作     大正7年(1918)

娘麗子を描いた最初の油絵である。画面上部のアーチの下には「千九百十八年十月八日擱筆」「画家之娘麗子・五歳・娘の父写す」と記されている。5歳というのは数え年で、このとき麗子は4歳6ケ月であった。右手に赤まんまの花を持つポーズや克明な描写は、この頃心酔していたデューラーからの影響を思わせるが、この作品で手ごたえを感じた劉生は、次第に独自の「内なる美」の探究へと向かっていく。

京の家・奈良の家  速水御舟作      昭和2年(1927)

右に京都の町家、左に奈良で良く見られた大和棟の家屋が描かれる。「京の家」の黄色い家を見ると、下の方では遠近の法則から離れて、横方向の線がことごとく平行に引かれている。正確な建物の描写や奥行きを表現するよりも、平面上の造形要素を整理することが優先されているのである。「奈良の家」では整理した結果、特に中庭に空間の歪が顕著となっている。「構成」が絵画の主要な関心事となった時代に、御舟の知的な反応をうかがわせる代表作の一点である。

シンガポール最後の日 藤田嗣治作     昭和17年(1942)

この頃は、日本軍は破竹の勢いであった。小学校2年生であったわたしにも、日本軍の強さが頼もしい存在であった。戦後、画家仲間から「藤田は戦犯である」とされ、フランスへの渡航は出来ないとされたが、占領軍に問い合わせた処、「戦犯では無い」とのお墨付きを得て、藤田が非常に喜んだことが日記に記されている。しかし、何故かフランスでは無く、昭和24年にまずアメリカへ一人で渡航し、そこで1年ほど過ごしてから、昭和25年(1950)にフランスに移り、奥さんも呼び寄せた。最後は、フランス国籍を得て、カトリックに改宗し、1955年(69歳)にカトリックの洗礼を受け、洗礼名の「レオナール」をとって、「レオナール・フジタ」と名乗った。同年、フランス政府よりレジョン・ドヌール勲章を受章した。1966年(昭和43)、静養先のスイス、チューリッヒで死去した。享年81歳。日本政府は勲一等瑞宝章を贈った。戦犯として日本画壇から追放同様の仕打ちを受けた藤田の死に際し、日本政府は最高の勲章で報いた。日本画壇では、何の反応も無かったように思う。最近、藤田の展覧会が多いが、今改めて藤田の業績が、一般社会から、高く評価されているのであろう。

 

東京国立近代美術館には、流石に名品が揃っていると思う。ここに取り上げた、明治、大正、昭和の名品8点のうち、重要文化財が3点も含まれている。この時代には、絵画の世界に作家が口をはさみ、その影響力が結構大きいことを異常に思う。しかし、当時としては、桜谷の「寒月」に、漱石がもの言いを付け、「写真屋の風景画として張れば良い」とか、原田直次郎の「騎龍観音像」に対する世間の批判に対し、鴎外が応援を送るなど、今では考えられない判断が、画壇を支配する傾向があり、世人も、この判断に頷き、納得する傾向があったようである。これら作家は、帝大を出て、イギリス、ドイツに留学し、世上最高のエリートとして認められ、何事にも口を出し、それを良しとする傾向が、日本にあったのであろう。日本人の美術・芸術に対する判断力が、いまだに生長していなかったのであろう。

 

(本稿は、図録「東京国立近代美術館  名品選」、図録「近代日本の美術 東京国立近代美術館名品選」、図録「日展100年 2007年」、現色日本の美術「第26巻 近代の日本画」、原色日本の美術「第27巻 近代の洋画」を参照した)

山種美術館  琳派ー俵谷宗達から田中一光まで

17世紀の初め、王朝文化復興の気運が高まる京都で活躍したのが俵谷宗達と本阿弥光悦である。光悦は上層町衆の出身で、書、焼物など様々な造形芸術において才能を発揮した。また扇屋を営んでいたとされる宗達は、平安時代以来の料紙装飾ややまと絵の伝統を取り込みながら、大胆なアレンジを施し、斬新でおおらかな作風を確立した。光悦・宗達を琳派の第一世代とするなら、第二世代にあたるのが、京都の高級呉服商の家に生まれ、17世紀末から18世紀初めにかけて活躍した尾形光琳である。光琳は、宗達の作風をもとに、平面性と装飾性を際立たせ、デザイン性に富んだ画風を確立した、さらに第三世代の酒井抱一は、姫路藩主酒井家に生まれ、19世紀の江戸で、光琳の画風に洗練と洒脱を加え、新たなスタイルへと発展させた。それを継承した弟子の鈴木其一は、師の没後、鮮烈な色彩と厳密な描写による個性を開花させた。其一は安政5年(1858)、明治維新もあと少しというところで亡くなった。琳派の系譜は、その後も田中芳二等と続き、更には現代作家である速水御舟、加山又造等に引き継がれ、本展では田中一光というグラフィックデザイナー(ポスター)まで拡張している。琳派とは血縁ではなく私淑の歴史であり、時空を超えて飛び火する現象であった。その意味で、20世紀において加山又造、田中一光らが、一番強く琳派に私淑し、飛び火によってその表現が大きく燃え上がったのである。今回の展示会の最大の特徴は、19世紀の江戸琳派に終わらせず、20世紀の速水御舟、福田平八郎、加山又造等の作品も”琳派”として展示したことであり、山種美術館(山下祐二顧問)の美意識を展開したことであると思う。

新古今集鹿下絵和歌巻断簡俵谷宗達(絵)本阿弥光悦(書)江戸時代(17世紀)

金銀泥で鹿の群れが描かれた、全長20Mに及ぶ巻物の断簡である。益田鈍翁が所蔵していた画巻が、戦後、増田家を離れ、断簡として複数の所蔵家のもとに散らばったうちの一つである。宗達が下絵を描き、その周囲に光悦がバランスよく配している。巻物はしなやかに首をひねっている鹿から始まったと伝えられている。この物憂い風情の牡鹿に、西行法師の「こころなき身にも哀れはしられけり、鴫たつ澤の秋の夕暮」(新古今和歌集)という和歌が添えられている。

槇楓(まきかえで)図 伝俵谷宗達作         江戸時代(17世紀)

画面全体に緑の槇と朱の楓が奔放に張り、下部には女郎花、桔梗などの秋草が添えられている。まっすぐに伸びる奇妙に曲がりくねった幹を持つ槇、斜めに突き出る楓が画面にリズムを与えている。左下に「対青軒」という工房の印が捺されている。この図柄は、尾形光琳の「槇楓図」(重要文化財・東京芸術大学美術館蔵)にも影響を与えていると思われる。

月梅図 酒井抱一作 絹本墨画淡彩 軸一幅  江戸時代(19世紀)

光琳に私淑した抱一は、光琳の「紅梅図屏風」(MOA美術館蔵)や「光琳百景」に掲載されている梅の図様から、抱一自身のインスピレーsィヨンを受けていると思われる。本作品の紅梅梅の老木の枝振りや梅花の五つの花弁がひとつづきになる光琳独特の描き方にもその片鱗がうかがえる。

重要美術品秋草鶉図酒井抱一作紙本金地彩色二曲一双屏風 江戸時代(19世紀)

山下祐二氏によれば、二曲屏風という形式自体が林班の特殊なフォーマットであり、専売特許みたいなものであるそうだ。確かに日本の屏風は六曲一双が圧倒的に多く、まれに四曲一双がある程度で、二曲は琳派の独特の形式であるそうだ。この作品は、極めてクオリティの高い作品であり、酒井抱一の作品の中でも特にクオリティが高いものだそうである。二曲一双の屏風に穂の出た薄の半月、五羽の鶉の群れは、そこに女郎花、露草、そして紅葉した楓葉を散らして描き、深まり行く武蔵野ヲイメージしている。大変緻密な描写で、光琳の華やかな雅趣を想いおこさせる。画面左下に書かれた落款「抱一画鶯邨書屋」により、浅草千束から鶯谷の新居に移り住んだ時期、49歳以降の作品である。

菊小禽図 酒井抱一作 絹本着色 軸一幅 文政6~11年(1823~28)

抱一が60歳に手がけた特徴的な作品群として十二ケ月揃いの花鳥図シリーズがある。この「菊小禽図」は、もとは十二ケ月花鳥図の押絵貼屏風であったと思われる。赤、黄、白の発色の美しいもので、本図は9月の景である。

牡丹図 鈴木其一作 絹本着色 軸一幅  嘉永4年(1851)

抱一の弟子である鈴木其一の名は、近年ますます評価が高まっている画家である。其一は師である抱一の作風を忠実に学び、時には抱一の代作も手がけていたと推測される。師の没後は堰を切ったように、自分ならではの表現に邁進した。(夏秋渓流図屏風、朝顔図屏風)に代表されるように「奇想の画家」と言っても良いような、ややエキセントリックな作風を示している。この牡丹図は、最近、山種美術館の所蔵となったが、中国絵画の「牡丹図」(宮内庁三の丸尚蔵館)と図様はほぼ一致しているとされる。其一の中国絵画学習の実態を論じた学芸員の論考(塙萌衣氏)があるそうだ。また伊藤若冲との関係を論ずる学者もあり、若冲ー其一ー御舟という、何か見えない糸が繋がってきたようなところがあると論ずる意見もあり、今後私も研究したい。

四季花鳥図 鈴木其一作 紙本金地彩色 二曲一双屏風 江戸時代(19世紀)

二曲一双という琳派的なフォーマットによる、非常に装飾的な画面で、抱一系列の作品であるが、其一ならではの一種の鋭さがある。其一は師以上に若冲を意識していたと考えられる。例えば、この屏風で主役のように大きく表されている向日葵は、17世紀の中頃に日本に入ってきたらしく、当時としては新規な画題であったのである。若冲は既に「動稙綵絵」の「向日葵雄鶏図」で大きく取り上げている。また畠山記念館には「向日葵図」という単体の絵がある。(参考「美」)恐らく其一は若冲の特異な画風に親近感を覚えていて、それが師のスタイルから一歩踏み出すための起爆剤になったのではないか。(山下祐二氏説)

翠苔緑芝(部分)速水御舟作 紙本金地・彩色 四曲一双屏風 昭和3年(1928)

これほど平面的で、装飾的な画面は他に見られない。正しく、琳派の特徴を備えた、昭和の名作である。山下氏は、左隻の兎の脚などは、宗達が描いた養源院の杉戸絵を意識した描き方として注目している。

濤と鶴(小下絵) 加山又造作 紙本彩色  昭和52年(1977)

山種美術館の入口に掲げられた加山又造作の「千羽鶴」に下絵で、これが彫金で制作され(番浦史郎作)で、現在も山種美術館の入口に飾り付けられている。千羽鶴と波の下絵である。

華扇屏風 加山又造作  六曲一双 絹本彩色 昭和41年(1966)

全く、宗達のこの形式のよく出来た屏風(扇面貼交屏風)を見るといつもどこかで一瞬、眩惑(めまい)に似た感覚を味わわされる。それはどこかで絵の何かの部分が急に裏返しになってしまったといったような複雑な美のためか、とにかく一つの画面でこのように多くの世界とゆったりとしたちながりを持ち得、そのどれへも大胆にさりげなく人をひきずり込む方法を明確に表出した高度の絵画は他に無いのではないかと、思う(加山又造文)(名作誕生に伝俵谷宗達筆「扇面貼交屏風」が六曲一双の屏風が出品されていた。金地である点が異なっている。)

 

俵谷宗達、尾形光琳、酒井抱一、鈴木其一と続く、琳派に対して、私は一番好きなタイプの画風である。そこには意匠、スタイル、デザイン等という言葉でしか表現できない世界である。今回の展覧会は、所謂、琳派の大御所の作品を紹介すると共に、明治以降から現在に至るまでの、琳派風作家を同列に並べた企画が光る展覧会であった。また、山種美術館の顧問をされている山下祐二氏(明治学院大学教授)の「私淑の系譜ー宗達・光琳・抱一から田中一光へ」という図録の冒頭論文が光り輝く論文である。琳派を評して、これだけインパクトのある文章に接し、大変収穫が多く、簡単に消化仕切れない思いである。特に抱一、其一が伊藤若冲の研究をして、若冲から取り入れていたという指摘は、大いに参考になり、今後、その点も含めて、更に琳派全体を研究したいと思った。

 

(本稿は、図録「特別展 琳派ー俵谷宗達から田中一光へ  2018年」、図録「山種コレクション 浮世絵 江戸絵画  2010年」、図録「大琳派展 2008年」を参照した)

宋滋  神秘のやきもの

出光美術館において「宋滋  神秘のやきもの」展が開催されている。長い歴史を有する中国陶磁の中で、宋代(960~1279)にはその美しさが頂点に達したとも言われる。その宋滋の特徴は、青磁・白磁・黒釉滋などの単色の釉薬をまとい、非常にシンプルかつ研ぎ澄まされた造形性が美しい格調高い雰囲気を放っていることにある。その圧倒的な美と存在感に多くの人々が神秘性を感じ、魅了されてきたのである。宋滋の格調高い清雅な雰囲気は、士太夫層の頂点には皇帝と宮廷、朝廷が君臨していた。宮廷では大量に陶磁器が必要とされ、また消費された。それらの需要を満たすために、宋代以前には各地方の名産品として陶磁器を献上・献納した「貢滋」、あるいは宮廷で使用する陶磁器を民間へ委託・注文して生産し納品させる仕組みが存在していた。宋代になると官窯が存在したことが文献の記載にあり、南宋官窯に関しては、実際に窯跡の比定もされている。唐時代(618~907)の陶磁生産は「何青北白」と称され、南方地域では青磁、北方地域では白磁が主に焼造されていたと言われる。宋時代(960~1279)には、中国全域で様々な陶磁器が盛んに作られ、皇帝・宮廷用のうつわを焼造する官窯を頂点に、北方地域では定窯(ていよう)、滋州窯(じしゅうよう)、鈞窯(きんよう)、南方地域では景徳鎮窯(けいとくちんよう)、越州窯(えつしゅうよう)、龍泉窯(りゅうせんよう)等に代表されるような、青磁、白磁、黒釉のうつわなど、それぞれの窯で独特の様式が展開された。また中国の中原地域の宋王朝と対峙した北方の遼王朝は、中原の陶磁器文化の影響を受けながらも、独自の陶器文化を生み出している。

白磁刻花牡丹文甁(へい) 北宋時代  定窯 高32.0cm 東洋陶器美術館

定窯は、宋代五名窯の一つに数えられ、晩唐時代から白磁を生産している。最盛期の定窯の製品は、碗、皿、深鉢などが多い。この甁は最盛期にかかる以前、北宋初期と考えられる珍しい作例で、強い調子で彫られた胴下部の連弁文などにもそれがうかがえる。口は欠失しているが、おそらく盤口甁の形であったと想像される。格調高い名品である。

重要文化財 白磁銹花(しゅうか)牡丹唐草文甁 定窯北宋時代 東洋陶磁美術館

口が小さく、肩が張り、そのまま胴裾に向かってすぼまる梅甁を、途中で胴切りにしたような形で、俗に吐嚕瓶(とろびん)、あるいは泰白尊(たいはくそん)と呼ぶ。この甁は表面に鉄絵具を塗りつめ、文様の部分を浮出すように掻落(かきおとし)している。滋州窯で良く見かける手法であるが、滋州窯のように白化粧されておらず、白く見える部分は、白磁の素地である。定窯の技法としては珍しく、また文様、器形ともに北宋時代の格調の高さを示すものである。

白磁刻花牡丹唐草文鉢 北宋時代 定窯 口径 26.5cm 出光美術館

北宋時代の定窯で造られた深鉢である。底部から腰にかけてゆっくり湾曲し、口縁部がやや端反り状を呈し、金属製の覆輪を嵌める。薄い器壁は叩くと金属的な響きがするが、光を通すほど薄く作られている。内面にはゆったりと流れる様に連花文が片切彫りで表され、外面は無文である。定窯の特有の色調として知られるアイボリーホワイトを呈する。

白地黒掻落牡丹文甁 北宋時代 滋州窯 高31.7cm 京都国立博物館

細長い胴部に小さな盤形の口がつく甁で、いわゆる梅瓶と称される。粗い灰色の素地に白化粧を行い、その上に鉄釉をかけ、鉄釉部分に刃物を用いて文様を彫っている。文様でない部分は掻き落し、牡丹唐草文、さらに肩と胴下部には簡略化した連弁を流れるように一周めぐらし、最後に透明釉をかけ、焼き上げている。温和な乳白色の地に漆黒の牡丹唐草文が浮かびあがる。大胆な構図とリズミカルな文様の動きが白と黒の対比によって生み出される滋州窯の典型的な作例である。

緑釉白地描落牡丹唐草文甁 北宋時代 滋州窯 高54.5cm 出光美術館

緑色の世界の下に透けて見える牡丹唐草の文様と地の部分が浮出している錯覚を覚える。北宋時代の滋州窯の甁である。滋州窯では白と黒のコントラストを生かした意匠のみならず、本作品のように色釉を用いた装飾技法も発達した。緑釉は胴を呈色剤とした500度前後の低火力の鉛釉であるが、中国では漢時代にまでその歴史を遡る。伝統的な技法を継承しながら新しい作品を生み出されていることを知ることが出来る作例とも言える。宋・金時代の磁州窯製品は、日本では出土例は少ない。

緑釉白地鉄絵牡丹文甁 金時代 滋州窯 高26.7cm 出光美術館

胴部は算盤玉のように膨らんでいる。胎は黄灰色を呈し、白化粧をかけて胴の前後に鉄絵具で牡丹折枝文を描き、牡丹の花弁や葉の一部を掻き落して、文様を整えている。その後、透明釉をかけて高火度焼成し、さらに全体に緑釉をかけ低火度焼成している。高台の裾から畳付は釉が掛からず露胎で、高台内に朱書が見られる。牡丹文が美しい。

白地緑釉花文甁 遼時代 乾瓦窯 高37.3cm 出光美術館

遼(りょうー916~1125)は契丹人により中国の東北地域に建国され、その地で生産された陶磁器である遼滋は、遼の美術、文化を良く表すものとして知られる。遼滋は遊牧民族である契丹人の生活習慣から生まれた造形や、独自の色彩感覚や意匠、様式美を展開している。白地を背景に、線刻により飾り気なく表された草花文の上に緑釉が掛けられた遼三彩とも称される鉛釉陶器に属する長首瓶である。地味ながらも力強く伸びていく草花の意匠は宋時代の中原の陶磁器には見られない遼滋の特徴とも言える。日本ではこの草花文を「葱坊主」と呼んで、鑑賞を楽しんだそうである。

白滋皮嚢壺 遼時代 定窯 高23.7cm   出光美術館

皮袋形の壺で短い注ぎ口と、太い把手が付く白磁の壺である。紐を意識したと思われる突帯が付く。白い素地の上から透明釉が施され、やや黄味を帯びた釉色を呈する。遊牧民族らしい作品である。定窯作とされているが、実は明らかではない。遼の領域に接する地域で遼の宮廷向けに注文生産された作品ではないかと思う。

重要文化財 青磁下蕪甁(しもかぶへい) 南宋官窯 南宋時代 高23.1cm出光美術館

いわゆる「下鏑形」を呈する南宋官窯の甁である。青銅器にその祖形があることがわかる。釉は厚く重ね塗りされて、落ち着いた天青色を呈する釉色である。実に美しい。宋代の代表作の一つである。

青磁輪花鉢 南宋時代 南宋官窯 口径26.1cm 東京国立博物館

明るく深い水色が印象的な、口が大きく開いた六輪花形の鉢である。口径に対して高台経はかなり小さく、形に緊張感を与えている。うつわの内外面には縦横さらに重想的に貫入が見られ、その大きさも大小様々であるが、釉薬がやや薄くなっている口縁部付近は内底と比べると小さく細かい。薄作りの胎に釉薬を重ねかけし厚くなったいわゆる「厚釉薄胎」の作例である。口には覆輪を嵌めている。南宋官窯の優品である。見事な出来であると思う。

 

今から35年前の1983年(昭和58年)に、私は東京国立博物館で「新安海底引揚げ文物展」を見た。その後、韓国へ行った時に韓国国立博物館で、その「私安海底引揚げ文物」を視る機会に恵まれた。その時、朝鮮で引き上げられた物は大半が陶磁器であり、南宋様式青磁が大半であった。引揚げ品の中には、日本人の履く下駄や、日本の将棋の駒の桂馬と書かれた駒が1個あり、また「東福寺」という寺名を表した木札もあった。これらのことから、船員に日本人が含まれていたこと、目的地は日本で、青磁の陶器を沢山積んでいたことが明らかになった。新安引揚げ品の総数は18,000点に達すると報告されている。当時の日本の対中国貿易における主要品は陶磁と銅銭であり、輸出品は砂金と銅地金であったことは明らかである。いかに日本人が中国の陶磁器に憧れていたかが分かる。そういう意味で今回の「宋滋 神秘のやきもの」の展覧会は楽しかった。大阪の東洋陶磁美術館が有名であるが、出光美術館の所有する「宋滋」も見事な物が多い。私個人の思い出が強く、この記事を読まれた方には、面白くない内容かも知れないが、是非写真だけでもご覧戴きたい。青磁、白磁の素晴らしさは、先人のみならず現代の我々にも、その素晴らしさを感じることが出来るだろう。

 

(本稿は、図録「宋滋  神秘の焼物  2018年」、図録「東洋陶磁の展開 1990年」、図録「新安海底引揚げ文物展  1983年」を参照した)

名作誕生  つながる日本美術(3.つながるモチーフ・イメージ)

身近な自然や人々の内面を主題として制作され、今に伝わる名作たちは、規範となる名作の型や優れた技法を継承しつつ、新しい解釈や斬新な手法によって誕生した。ここでは、絵画を大きく「山水」「人物」のテーマに別け、中世から近世へと受け継がれてきたさまざまなモチーフやイメージ、型を見て頂き、人と美術のつながりを楽しんでいただきたい。なお、私自身が課題としている、近世における「憂き世」から「浮き世」への転換について主観的な感想を展開したいと思っている。是非、ご覧頂きたい。

国宝 松林図屏風 長谷川等伯筆 安土桃山時代(16世紀) 東京国立博物館

まるで松林を覆い尽くすかのように垂れ籠る霧。しかもその霧はある種の湿り気すらかんじさせるほどリアルである、わが国で描かれた水墨画の中で、おそらく本図ほど濃密な大気を表した作品はないだろう。等伯のこうした大気表現への関心が牧谿(もっけい)画体験に深く根ざしていることは、夙に指摘されているところである。等伯は、牧谿筆の作品群を模写し、自身の作品に反映させた。たぶん等伯はそうした作品の制作を通じて、たとえ狩野永徳ばりの大画方式をとらなくても点在する樹木だけで大画面が構成可能なこと、また墨の濃淡の使い分けによって、そこに湿潤な大気を伴う深奥なる空間を表現できることを学んだのであろう。だが、こうした牧谿画学習は、本図が生み出される要因のあくまでも一つに過ぎない。というのは、松林と言う景物が大和絵の伝統的な作例に頻繁にあらわされることから、本図成立の背景として大和絵からの影響を想定せざるを得ない。ともあれ、等伯芸術の頂点をなす「松林図屏風」は、彼による和漢双方の学習成果が高次元で融合し、創造されたものであることは間違いない。

富士三保清見寺図 伝雪舟等楊筆 一幅 室町時代(16世紀) 東京・永青文庫

画面し左寄りに雪を頂く富士、左下に清見寺、右から三保松原が顔をのぞかせている。誰もが知る霊峰と、羽衣伝説で知られる神の天下る松、そして足利将軍の庇護を受け、東海道を旅する僧が立ち寄った名刹という、神仏の霊場で、かつ、良く知られた名所をセットにして描きだしたものである。実際の土地を描くという点では「天橋立図」と同じだが、スケッチ風なところはなく、きっちりとした山水画に仕上げている。この魅力的な図様は、富士・清見寺・三保松原を描く基本形となり、数多くの画家によって描き継がれた。

重要文化財 紫式部日記絵巻     鎌倉時代(13世紀)

「紫式部日記絵巻」の主題は「紫式部日記」が記す王朝の日々であり、描かれ方も一見、十二世紀中頃の「源氏物語絵巻」と同じだが顔の描き方が引目鍵鼻ではなく、上瞼と下瞼を描き分け、瞳もはっきりと描く技法が貴族にも用いられる。また、建物の奥行きを表す二方向の斜めの線がぶつかるような空間の造り方をよくする。平安時代の絵巻とは違うシャープな造形感覚が認められ、制作時期は13世紀前半と推定される。詞書二十三段、絵二十四段が現存し、3つの美術館に分蔵される。これは日野原本と通称される一巻で、四国松山藩主松平家に伝来した。詞書六段、絵六段から成り、掲出の場面は第三段。道長が式部の部屋の戸をたたく。

重要文化財 梓弓図  岩佐又兵衛作 一幅 江戸時代(17世紀)文化庁

もとは屏風に貼られた一図であり、その六曲一双は、福井の豪商金屋家に伝わったところから「金屋屏風」の通称がある。岩佐又兵衛(1578~1650)が元和元年(1615)頃に、福井に移ってすぐの時期に描かれたものと推定されている。男の頭上にからまる蔦が緑色を見せているのは、彼女に対する思いが以前と変わらないことを物語っているのだろう。物語は男が武官として宮仕えをしていたとは記されていないのに、男は弓矢を見に着け、大きく鋭利な刃物に見える弓を袖の中に隠し持っているかのようだ。梓弓という語を詠みこんだ歌をきっけに女が死にいたる結末を知る鑑賞者は、武器そのものである弓を禍々しさを見ないわけにはいかない。物語の一瞬を切り取ったこの場面に、物語の後ろの方に起こる悲劇を予告する、そんな仕掛けがこの弓なのだ。

伊勢物語絵巻第二 (絵)住吉如慶筆(詞書)愛宕通複筆 江戸時代(17世紀)東京国立博物館

「伊勢物語」の全125段の詞と、六十三段77番の絵を配した六巻から成る絵巻。各巻末に「住吉法橋如慶筆」巻六の尾紙に「左中条通幅書之」の落款があり、絵を江戸幕府の御用絵師としてやまと絵の制作を行った住吉如慶、詞を中院家庶流の能書である愛宕通幅が担当したことが知られる。掲出の部分は第二十三段の「河内超」の場面である。縁近くで遠くを眺めて夫の身を案じる妻を、秋草の咲く前栽(ぜんざい)の影から覗く男を描き、妻が男の身を案じて詠んだ歌に詠まれた、男が夜に超えて行く龍田山を添えて、詞書に忠実に物語の場面を描いている。

縁先美人図 一幅 江戸時代(17席) 東京国立博物館

一人立ち美人図として鑑賞される作品である。これだけだと単に美人を描いたものと見えるが、背景の設定が一部のぞいていることから、より大きな画面を切り取ったものと想像される。御簾を上げた部屋から縁先に歩み出て柱の前に佇む設定、左手を袖に入れ、右手で当世風の打掛の褄(つま)をとるポーズまで近似している。小袖の風車模様や白波模様は「伊勢物語」「河内超」で妻が夫の身を案じ詠んだ歌「風吹けば沖つ白波たつた山、夜半にや君がひとり超ゆらむ」を暗示している。縁先の美人は、「伊勢物語」第23段の井筒に届かなかった女の幼馴染の男の妻となり、「河内超」で夫の身を案じる姿だと見ることができる。しかし、女性の姿は、舞台の上で演じられた魅力ある所作を写したものかも知れない。

国宝 洛中洛外図(舟木本)岩佐又兵衛筆 六曲一双 江戸時代(17席)東京国立博物館

「洛中洛外図屏風」は、京都の市街地(洛中)を画面の下に郊外(洛外)を遠景として上部に配し、六曲一双の右隻に東方面、左隻に西方面の名所を鳥瞰的に描いた風俗図で、描かれた時代状況を映し出している。16世紀初め頃に成立したと考えられる。この「舟木本屏風」は、戦後間もない昭和20年代の初め、長浜の医師、舟木栄氏が彦根の古美術商から手に入れた。昭和24年に美術史家・源豊宗氏が同家に立ち寄り、部屋に立ててあった屏風に目を止めた。股兵衛作だと氏は直感されたそうだ。これが「舟木本・洛中洛外図」が広く知られるきっけとなった。私は、現在100本以上の洛中洛外図があるが、この舟木本が一番楽しく、生き生きと時代を描いていると思った。昨年、国宝に指定され、岩佐又兵衛の京都時代の唯一の現存作品である。右隻に描かれた大きな建物は豊臣家を象徴する方広寺大仏殿であり、左隻の大きな城は徳川家を象徴する二条城である。歌舞伎小屋や遊女町など大きく取り上げて、猥雑なテーマや人々の間で交わされる視線を通して人間の内面に切り込んだ表現が見られる。大阪の陣の直前(1600年前後)の京都とその時代に生きた人々の生き様を描き出している。岩佐又兵衛(1578~1650)の作である。

士庶花下遊楽図屏風 伝岩佐又兵衛筆 江戸時代(17世紀)富山・百河豚美術館

舟を浮かべた大きな池の周りに、桜咲く春の一日をさまざまに楽しむ人々の姿を描き込んだ野外遊楽図である。桜の下での乱舞、道行く女性の一行に声をかけて遊びに誘ういわゆるナンパの場面、扇を手のして舞う若衆を囲んで下がり藤の文のある幔幕の内で繰り広げられる野外での宴、座敷では将棋や囲碁、三味線に興じる人びとを、建具を取り払った建物に配した邸内遊楽の場面も加えられ、江戸時代初期の風俗画によく描かれたテーマである。この絵は伝岩佐又兵衛となっているが、又兵衛工房と又兵衛の共作ではないかと解説では説明している。さて、又兵衛を浮世絵又兵衛(うきよえまたべい)と呼ばれることが多いので、その原因をこの図から説明できないかという意味で取り上げたのである。(写真が無かったため、図録から採用したが2Pにわたる画面を取り入れたため、暗くなり視難い絵となった)ウキヨ、それは平安時代から今にいたるまで使われている言葉である。これには最初から「浮世」、「憂世」の両字が当てられていたが、意味するところは同じ、ままならぬ、憂きことの多いこの世、であった。仏教的な厭世観がその裏にあり、浮世という文字を使う時でも、根なし草のようにはかないこの世、という同じニュアンスがそこにあった。こうしした現世否定的ななウキヨ観は、戦国時代を境に一種の逆転現象を起した。「夢の夢の夢の世を、うつ顔して、何せうぞ、くすんで、一期(いちご)は夢よ、ただ狂え」というのは、当時の流行歌を集めた「閑吟集」(永承15年ー1518年成立)の一句で、「夢のようはかないこの世だ。くすんだ顔をしていても仕方がない。思い切って、何もかも忘れて遊び狂おう」という刹那的な歓楽に身を委ねる発想である。こうした発想は、次の桃山時代から江戸初期にかけてさらに広まり、寛永年間(1624~44)に至って、時代の先端を行く流行思想にまでなった。又兵衛らの活躍した元和から寛永・寛文年間にかけてすさまじいばかりの流行をみた風俗画では、この「浮世の思想」をまさに絵に描いた。男女遊楽の情景が最も好まれて取り上げられている。これを後に、江戸の菱川師宣を元祖として誕生した浮世絵の先駆とみなすことはごく自然であろう。憂世を浮き世に転換した刹那である。私は、この伝岩佐又兵衛の作品に、この展観を視る思いを強くする。

重要文化財  湯女図(ゆなず)一幅 江戸時代(17世紀)静岡・MOA美術館

本図の二人目の女の小袖に「沐」の字が付されているがことから、風呂で働いた私娼(ししょう)の湯女を描いたことを暗示しているとされ、「湯女図」と題されている。現在は掛幅であるが、本来はほぼ倍の大きさの屏風であったことが想像される。失われた右側には「士庶花下遊楽図屏風」と似た絵がかれいたとする説がある。いずれにしても「浮き世」を描いた風俗画である。

国宝 風俗図屏風(彦根屏風) 六曲一双 江戸時代(17世紀)滋賀・彦根城博物館

金箔を張り詰め、15人の男女とわずかな器物を配しただけで環境描写を極限まで絞り込んだ屏風である。右から左へとストーリーが進むように、部屋の奥へと見る者の視線が導かれていく。最近の光学的調査により、色の指定書が多数ある事や、細部表現の違いが指摘され、複数の絵師により分担制作が行われたと推測されている。京都六条柳町遊里を描いたものと考えられており、文人の嗜みとされた琴棋書画・双六・文・屏風で当世風を描き出し、ここが文化的サロンであることを示している。彦根藩井伊家に伝来したことから「彦根屏風」と通称されるが、井伊家の所有となったのは、12代井伊直亮(1794~1850)が出入りの楽器商から購入したことによる。

重要文化財 見返り美人図一幅 菱川師宣筆江戸時代(17世紀)東京国立博物館

菱川師宣(1618~94)は、肉筆画及び絵入版本の組物を制作し、江戸の浮世絵派の祖と位置付けられている人である。本図は左方向かいへの歩みを止め、右後ろを振り返る姿を描く場合、左に歩んでいるのであれば、左後ろに振り返り、顔や上半身の正面を見せる姿に描くのが普通であるが、本図はその常識を破る。そのため、顔を真横から描く形になったので、戯作者、山東京田によって文化7年(1810)に書かれた箱書きには、「平面美人図」と題されている。ただそうした異例のポーズによって、玉結びと呼ばれるゆったりとした髪形、上・中・下と3段に表された菊と桜の花模様、吉弥結びのお洒落な帯が際立ち、悠揚とした顔を演出するのに成功している。膝から下の微妙な動きをとらえ、膝から下の微妙な動きをとらえた着衣の線も見逃せない。私は、この絵が、「浮世絵」の出発点だと見ている。

 

舟木本洛中洛外図、士庶花下遊楽図屏風、湯女図、見返り美人図は、いずれも風俗画と呼ばれる絵で、私はいずれも江戸時代の浮世絵につながる絵画と思っている。「憂き世」と「浮き世」については、既に解説した。岩佐又兵衛は「浮世又兵衛」と呼ばれることがある。又兵衛は浮世絵の元祖では無いが、「憂き世」を「浮き世」に転換させたという意味で、浮世絵の創業者と言えるであろう。菱川師宣は、それを版画という、より量産に適した形式に移し、更に幅広い町人階層の生活の場で愛好されるものに改めて、浮世絵の元祖となったのである。2014年の「大浮世絵展」(国際浮世絵学会・創立50周年記念)でも、「浮世絵前夜」の章で、岩佐又兵衛の作品を並べていた。また師宣(もろのぶ)の「見返り美人図」は、第2章の「浮世絵のあけぼの」の部に登場していた。近世浮世絵の生まれを探るためには、思いがけない風俗画が多数出品された。

 

(本稿は、図録「名作誕生 つながる日本美術  2018年」、図録「日本国宝展 2014年」、図録大浮世絵展  2014年」、現色日本の美術「全30巻」、辻惟雄「岩佐又兵衛 浮世絵をつくつた男の謎」を参照した)

 

 

名作誕生  つながる日本美術(2・巨匠のつながり)

名作は、ある日突然に天才作家が生み出すものではなく、作品や人のつながり、模倣や模作の繰り返しから生まれてきた。日本美術史上で人気の高い巨匠たちもまた、海外の作品や日本の古典から学び、継承と創造を重ねるなかで、個性的な名作を生み出したのである。この章では、雪舟等楊(せっしゆうとうよう)、俵谷宗達(たわらやそうたつ、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)という三人の「巨匠」に焦点を絞って、代表作が生まれたプロセスに迫る。まず、雪舟と中国の関係から眺めてみる。

国宝 天橋立図  雪舟等楊筆  一幅 室町時代(15世紀) 京都国立博物館

日本三景の一つで、古来有名な歌枕でもある天橋立とその周辺の景観を描く本図は、橋立の周囲に広がる社寺や名所を詳細に描写すると共に、内海・外海の広がりや、それらを取り巻く半島と山並みを、壮大な空間として顕した堂々たる作品である。本図は江戸時代から雪舟筆と伝えられ、落款印章はないものの、地名などの書き込みや、筆墨法からみて、雪舟の真筆とみなされている。写真のような単一の視点からとらえた風景ではないため、地理的に不合理な表現もされているものの、実際にその土地を訪ねれば描けないようなリアルな描写や書き込み文字を数多く含み、日本人画家が日本の実景を訪れて描いた本格的な作品として重要である。またそこに表された広大な空間表現は、単なる山水画としても十分に魅力的である。

国宝 破墨山水図 雪舟等楊筆自序他室町時代・明応4年(1495)東京国立博物館

雪舟に附き従い、絵を学んでいた鎌倉の円覚寺の禅僧画家、宗淵(そうえん)が雪舟のもとを去るに当たり、雪舟が終淵の求めに応じて明応4年に描き与えた山水画である。代表作の「山水長巻」た「秋冬山水図」のようなカチッとした夏珪スタイルの画法と異なり、おおざっぱな筆づかいによって、ぼんやりとした風景がさらっと描かれている。この画法は、図の上方に記された禅僧たち、月翁円鏡等の賛の中でも言及されているように、中国の南宋時代末期から元代初期にかけて活躍した僧侶画家、玉澗スタイルの作品はいくつかあり、得意のレパトリーであった。

重要文化財 山市晴嵐図 玉澗筆  南宋~元時代(13世紀) 出光美術館

玉澗(1180頃~1270頃)は、中国の王朝が南宋から元へと激動する時代に活躍した僧侶である。後世における画家・玉澗の名は、中国本土よりもむしろ日本において広く知れ渡り、現存する主要な作品は日本に集中している。その奔放な筆法による水墨山水は「玉澗様」と呼ばれ、室町時代以降の典範として絶大な影響を及ぼすこととなる。雪舟がこの玉澗の「山市晴嵐図」に即して描いたのが「破墨山水図」であると言われている。雪舟は明らかに、「破墨山水図」において自分自身を玉澗に重ね合せていると言えよう。

重要文化財 四季山水図(春) 雪舟等楊筆 室町時代(15世紀)ブリジストン美術館

四季を四幅に描き分けた作品で、福岡藩黒田家に伝来した。落款・印章はないが、古くから雪舟真筆と認められている。この作品には、後に浙派(せっぱ)と呼ばれている明時代の浙江省出身の画家達の画風が入り込んでいる。この画風は、室町時代に日本で流行った南宋風の整った画風に対し、パワフルでかつ荒さを持ち、ときに不思議な空間を画中に出現させる。雪舟は、自身の持ち味に良く合ったこの画法に感応し、取り入れつつ自己のものへ変化させた。

重要文化財 四季花鳥図屏風 雪舟等楊筆 室町時代(15世紀)京都国立美術館

雪舟の落款もないが、真筆と認められている唯一の花鳥図屏風で、縦が180センチメートル近い大きな画面が右から左へと四季が流れる。正直言って、まさかこれが、雪舟の作品とは信じられなかった。構図の基調は、右隻の松と左隻の雪を被った梅で、屈曲する幹と枝とが複雑な空間を作っている。そのなかで鶴と鷺(さぎ)がポイントとなり、赤や緑などの色のある右隻と、殆ど白一色の左隻との対照を作り出し、その中にさまざまな花や鶏が配される。

重要文化財 四季花鳥図  狩野源信筆 室町時代(16世紀) 京都・大仙院

狩野派の二代目狩野源信筆の名作である。源信は、狩野派を理論化し、狩野派の大御所である。大仙院は大徳寺の古岳宋亘(こがくそうこう)を開山として、大徳寺内の塔頭として創建された。襖絵は、相阿弥と狩野源信が担当し、この四季花鳥図は檀那の間を飾っている。「狩野元伸展」で、詳しく書いているので、そちらを参照願いたい。本展では右隻のみの展覧であるが、左隻も表示しておいた。雪舟から、どのように学んだかを見てもらいたい。

重要文化財 鳴鶴図(右幅)文正筆 中国・元~明時代(14世紀)京都・相国寺

落款、朱文印等から、文正という逸伝の画家が士廉なる人物のために制作したことは分かる。相国寺大六世、絶海中津が、この画幅を日本に請来したという寺伝がある。

波頭飛鶴図(右幅)狩野探幽筆 江戸時代・承応3年(1654)京都国立博物館

狩野探幽は、古画を鑑定・記録し、古画から学ぶことに熱心であった。これは承応3年(1654)3月、53歳の探幽が文正の鳴鶴図右幅を写して作ったものである。当然、左幅も模写したと思われるが、そちらは現存しない。

白鶴図(右幅) 伊藤若冲筆  江戸時代(18世紀) 個人蔵

文正の「鳴鶴図」の鶴を模写すると共に、背景に変更を加えて作り上げた対幅である。(但し、右幅のみ)右幅に「平安若冲居士藤汝鈞製」と記す。若冲は、相国寺の禅僧・大典から「鳴鶴図」を見せてもらい、模写したのであろう。大典からは、中国の絵画事情について詳しく聞いていたものと思われる。狩野探幽の「波頭飛鶴図」を見ているかどうかは分からない。

仙人群鶏図襖(さぼてんぐんけいずふすま)伊藤若冲筆 江戸時代(18世紀)大阪・西福寺

「米斗庵米斗翁行年75歳画く」と署名するので、若冲は改元ごとに1歳加えたという説があり、それに従えば、天明9年(1789)の正月の完成と見られる。この絵が、ここに登場する理由は、日本の金碧障屏画史の掉尾(ちょうび)を飾ると言っても良い傑作が生まれるためには、彼自身の水墨画が大きな役割を果たした。

鶏図押絵貼屏風 伊藤若冲作 六曲一双 江戸時代(18世紀)京都・細見美術館

右隻第一扇と左隻第六扇に「米斗翁82歳描く」という署名がある。「仙人掌群鶏襖」よりは後の作品であるが、若冲が押絵貼屏風の形式で描いた水墨の鶏図の例として示したものである。このような水墨画を仙人掌群鶏図以前にも描き続けていて、それがあの金碧障壁画にも干渉したというわけである。

 

日本美術史の中で人気の高い巨匠三人を選んで、海外の作品や日本の古典から学び、継承と創造を重ねて、個性的な名作を生み出したプロセスを明らかにする目的である。選ばれた巨匠は雪舟等楊、俵谷宗達、伊藤若冲の3名であった。俵谷宗達は、私が一番好きな画家であるが、展覧された作品がすべて「扇面張替屏風」で、写真が入手出来なかった為、残念ながら断念した。伊藤若冲の写真は豊富に保存していたので、これは出来るだけ豊富に写真を出した。雪舟が、日本絵画史上の最大の巨匠であることは当然であるが、伊藤若冲は、私の中では、いまだ「奇想の画家」の域を出ていないので、雪舟と並ぶ巨匠扱いには、いささか驚いた。しかし「仙人掌群鶴図襖」が、「日本の金碧障撫屏画史の掉尾を飾る作品」という図録の解説を読んで、納得した次第である。

 

(本稿は、図録「名作誕生  2018年」、図録「日本国宝展  2014年」、原色日本の美術「第1巻~第30巻」、日経大人のOFF 2018年1月号、朝品新聞記念号外「特別展 名作誕生 つながる日本美術」、図録「生誕300年記念  若冲 2016年」を参照した)

 

 

 

 

名作誕生 つながる日本美術 (1.祈りをつなぐ)

「美術は孤立のものにあらず。一時期をなすには必ずその前代と相伴うて形をなす。推古は天智に進化し、これを天平に完全するは天平の大家一人の力にあらず。前すでにこれが基礎を造れるものあり。」これは岡倉天心が古典美術の研究の一端を、東京美術学校において講じた「日本美術史」の筆記録である。岡倉天心は、東京美術学校(現東京芸大の前身)の初代校長として、それまでの自分が研究してきた「日本美術史」を、明治23年から25年にかけて開講した。その時の内容は「日本美術史」と題され、学生の筆記録として遺されている。そして最後に天心は「まとめ」として7点を挙げた。そのうちの一つが「系統を追って進化し、系統を離れて滅ぶ」である。これこそが天心美術史学の根幹をなす思想であると言われる。天心は日本美術の創造性の秘密を、系統進化ー換言すれば「継承」と「創造」に求めていたのである。この展覧会は、天心に導かれながら、日本美術における継承と創造の関係を、「美術品」を見ながら、「名作誕生」が、「つながる日本美術」であることを検証する展覧会である。天平期から近代芸術に至るまで、130点の名品を展示しながら、解説するのは本展覧会の目的である。果たして、日本美術史の素人の私に、どこまで出来るか不安であるが、ここは果敢に挑戦してみたいと思う。なお、多分4~5回の連作になると思うので、最後までお付き合い願いたい。なお、本展覧会は、東京国立博物館で5月27日まで展示される。但し、展示物は6回に別けて展示されるので、最低でも2回は拝観しないと、全体像は理解できないと思う。第1回目は「祈りをつなぐ」というテーマを追いたい。

重要文化財 十一面観音菩薩立像 木造 中国・唐時代(8世紀)山口・神福寺

頭上に十一面を戴く十一面観音菩薩像で、その頭上から台座の蓮肉、両手首や天衣、装身具までも白檀(びゃくだん)あるいは桜とみられる広葉樹の一材から彫り出している。白檀とは、東アジアから東南アジアに自生する希少な香木で、これを材料とする仏像は「壇像」(だんぞう)と呼ばれ、珍重される。壇像の最盛期は、中国・唐時代(8世紀中頃)に制作され、日本にもたらされている。天平勝宝5年(753)日本に戒律を伝えるため来日した唐僧鑑真(がんじん)は、「彫檀師」(白檀などの彫刻を行う工人)を伴ったと思われる。唐招提寺像は、その遺品と思われる。

重要文化財 伝薬師如来立像 木造 奈良時代(8世紀) 奈良・唐招題寺

唐招題寺の新宝蔵に安置される「旧講堂木造群」と総称される木彫仏群の一つである。頭部のみのものもあれば、トルソーのみの仏像もある。いずれも一木から仏像を彫り出す一木造りは、これ以降平安初期にかけて急速に広まり、日本に木彫仏の時代をもたらした。そのきっかけとも言うべき初期の木彫仏である。全身をカヤまたはヒノキ材と見られる針葉樹の一材から彫り出したものである。日本で本格的に仏像が造られるようになったのは6世紀初めのことであるが、それから約150年は木の仏像が造られたことは無かった。木の仏像が主流になるのは平安時代以降のことで、この薬師如来像はその端緒であった可能性がある。唐招提寺を創建した鑑真が伴ってきた中国伝来の仏像工人が制作した可能性が高い。初めて、「旧講堂仏像群」を拝観した時(私が18歳の大学1年生の時)に、「日本人でない顔」と思ったことが記憶に残っている。天平時代の仏像は塑像製が多い。それに比較すれば、木造仏は、造り易く、かつコスト的にも安かったと思う。振り返れば、一大発明であった。

重要文化財 伝衆宝王立像 木造 奈良時代(8世紀) 奈良・唐招提寺

胸に斜めに鹿皮(ろくひ)を着けることや、両肩下に各2手を取り付けた痕跡がのこること、額に一眼を刻むことなどからも、もと三目六臂(さんもくろっぴ)の不空羂索観音像(ふくうけんさくかんんおんぞう)として造立されたと考えられる。随所に濃厚な唐様式が見られることから、鑑真に同行した唐の工人の作と思われる。台座を含め、ヒノキの一木彫りである。

国宝 薬師如来立像 木造 奈良~平安後期(8~9世紀) 奈良・元願寺

肩幅の広い堂々とした体格が拝する者を圧倒する。螺髪と両手首を除き、頭部から台座まで一木で彫り出すが、乾燥による割れを防ぐため、背面から内刳りをほどこす。厚い体躯からは、丸太を思わせる迫力を感ずる。本像の正式な名称は、今では不明であるが、奈良時代から平安時代前期(8~9世紀)にかけて、この像のように五尺五寸の大きさの薬師如来立像が多数造立されてりるため、もともと薬師如来だったと見てよいであろう。カヤを用いて彫られていることが判明したが、希少な香木である白檀の代用として採用された可能性がある。表面には彩色の痕跡もあるが、本来は素地のままだったかも知れない。元願寺に入ったのは100年前位で、それ以前の歴史は不明である。

国宝平家納経のうち観普賢経三十三巻のうち平安時代(12世紀)広島・厳島神社

平家納経は、平清盛(1118~81)が厳島神社に奉納した経巻で、「法華経」、「無量壽経」など全三十三巻である。全巻にわたって金銀箔がふんだんに蒔かれ、表紙や見返りには経意による平安貴族の姿などが現され、本紙の天地や経文の下絵としても葦手(あしで)や日輪の風景、蝶鳥草花などが色鮮やかに描かれている。軸首や題箋も繊細で細工がほどこされているうえに、平清盛の願文や能筆による経文の筆致まで、隅から隅まで配慮がなされた絢爛豪華な装飾経の代表的作品である。「観普賢経」の見返りには十二単衣姿の平安女性が描かれており、右手に剣、左手に水瓶を持っていることから十羅刹女(せつにょ)のうち第五黒歯(こくし)だと分かる。

国宝 普賢菩薩像  絹本着色 平安時代(12世紀) 東京国立博物館

普賢菩薩は文殊菩薩と共に釈迦如来の脇侍として三体一組で造像されることが多い。法華信仰の中では単独での造像が広く行われた。日本では平安時代に法華経を根本経典とする天台宗の成立によって法華信仰の基礎が整備され、法華経を通して真理に到達するための修行である法華三昧を行う堂(法華堂)の本尊として普賢菩薩の彫像を安置することが十世紀後半に行われ、画像は主に「法華経」を書写・供養する場で用いられた。特に「法華経」が女性成仏を説くことから平安時代後期には女性の発願による「法華経」供養も行われ、画像も女性貴族好みを反映したかのような繊細な作例が多く残されている。本画像は数多い普賢菩薩像の中でも最高傑作に位置づけられものであり、平安仏画の中でも屈指の名品である。

国宝 普賢菩薩騎象像  木造・彩色・載金 平安時代(12世紀) 大蔵集古館

法華教典は女性救済を説くことから貴族女性にも親しまれ、盛んに造像がなされた。本像は中でも優れた出来栄えと繊細な装飾で著名な、普賢菩薩の彫刻を代表する作品である。ヒノキを用いた寄木造で、華麗な彩色と金箔を細かく切って文様を表した載金が美しい。穏やかで洗練された表現から、平安時代後期(12世紀)に活躍した円派仏師の作とみられる。その姿は、院政期仏画の傑作とされる「普賢菩薩像」(前記)が画面から抜け出したようであり、ともに施主は高位の人物だろう。

重要文化財 普賢十羅刹女像 絹本着色 平安時代(12世紀) 京都・廬山寺

羅刹(らせつ)とは、もともと人を害する鬼だが、「法華経」「陀羅尼本」(だらにぼん)には普賢菩薩と同じく守護神として説かれる。日本で独自に考案されたとみられてきたが、普賢菩薩に天女形が従う図像は唐時代から北宋時代の作例で見られることから、これをもとに十羅刹女(じゅうらせつによ)へ変装した像が成立した可能性が考えられる。本像は現存する最古の絹絵で、羅刹女は羯摩衣(かつまえ)等を着ける唐装に現される。着衣にほどこされるのは主として銀の載金で、12世紀後半の作例に見られる新しい志向である。中央の普賢菩薩の両側に五体ずつ羅刹女が配置され、向って右端に赤子を抱いた鬼子母が立つ。法華経信仰を持った宮廷女性たちにとって、十羅刹女は自らを投影する存在だったであろう。

 

一木の祈りから、祈る普賢をまとめて「1 祈りをつなぐ「としてまとめた。明治23年(1887)10月に創刊された「国華」(こっか)は、今年で130年目を迎えることになる。「国華」」130年と、それを支援した朝日新聞社140周年を記念して、今回の「名作誕生 つなgる日本美術」展が、東京国立博物館で5月27日まで6期に分けて展示される。今年最大の「日本美術総合展覧会」であり、国宝、重要文化財など130点が展示される。「国華」は岡倉天心と高橋健三(太政官管報局長)の二人を中心に刊行が準備され、世界最古の美術雑誌は、今日に至るまで発刊されてきた。様々な美術情報を載せて130年間受け継がれ、読み続けられた。本展覧会では、作品同士の影響関係や社会的背景に着目して、古代の仏教美術から近代洋画まで、地域や時代を超えた数々の名作を、大きく4つに区分し、1.祈りをつなぐ、2.巨匠のつながり、3.古典文学につながる、4.つながるモチーフ・イメージの4章に大区分して、展示されている。6期に分けて展示されるため、せめて2~3回の見学が必要であるが、幾つかに分割して、この「美」で紹介したい。今年の日本美術最大の展覧会である。

 

(本稿は、図録「名作誕生  2018年」、図録「日本国宝展 2014年」、朝日新聞特別記念号「特別展  名作誕生ーつながる日本美術」、原色日本の美術「第1巻~第30巻」、日経大人のOFF  2018年1月号、を参照した)

 

横山大観展  生誕150年記念

 

横山大観(1868~1958)は明治の始まりから大正、そして戦後の昭和に至るまで活躍した日本画家である。日本画家として抜群の知名度を誇る大画家である。明治22年(1889)に開校した東京美術学校に、大観は第一期生として入学した。絵画について本格的学んだのは美術学校においてであった。校長の岡倉覚三(天心)や教綬の橋本雅邦に目を掛けられ、新しい日本画を作り出す気概を叩き込まれた。卒業制作では、最高点を取って卒業したと言われる。明治29年(1986)に、京都美術工芸学校での予備教諭の職を辞し、東京に戻り、東京美術学校図案化の助教綬に着任した。しかし、明治31年(1898)、学内での人間関係の問題から校長であった岡倉天心を中傷する怪文書が出回り、岡倉は校長を辞職し、それに伴い大観、橋本雅邦、下村観山、菱田春草らとともに辞職し、岡倉は、同年日本美術院を設立し、大観らはそれに参画した。茨城県五浦(いずら)の地に移り住み、新しい日本画の創造に向け制作に励んだ。この時期、大観が目指したものは、まず描こうとする人物の感情や主題の気分を画面全体で表現しようとした。続いて、いわゆる「朦朧体」(もうろうたい)と言われた画法である。東洋画で重視されてきた筆線を排除し、色をぼかし重ねたり金泥をはいたりして、大気や光の織り成す繊細な情趣を表現しようとした。そこから飛躍して色彩への取り組みを始め、色の表現力を型破りの手法で引き出したりした。「朦朧体」の評判は悪かったが、漸く世間に認められるようになったのは、文部省展覧会の始まる明治40年以降のことであった。(これ以降の記事の順次は、図録による)

村童観猿翁  横山大観筆 明治26年(1893) 東京芸術大学

東京美術学校の卒業制作。一期生の全生徒のなかで作品は最高点であったと大観は回想している。子供の顔もデッサンもゆがんで上手いとは言えない。しかし、先生の橋本雅邦と親友11人の猿回しのおじさんと村童に見立てた遊び心の有る発想や、群像をまとめ上げた構成力、新しい色感は、高く評価されたポイントとなった。

白衣観音 横山大観筆 絹本着色 一幅  明治41年(1908)

明治45(1912)に刊行された「大観画集」に掲載され、以来、所在不明であった。サリーの透ける白衣を身にまとう観音が岩場に腰かけている。明治36年(1903)インドを訪れた大観は、仏殿などを主題にインド風の人物や神像をいくつか描いたが、アジャンター壁画を紹介した画集などを参考にポーズを転用したこともしばしばだった。足を組んで座る姿勢はデッサンの不得手が露呈している。腰と腿の関係があいまいで、膝下のパースが狂っているのが大きな要因である。また岩や崖には筆の腹でかすれた筆触を重ねた皺法が用いられるが、岩場全体の立体感につながっていない。観音の黒目がちな顔立ちやアクセサリーや衣の縁模様なども大きな見どころとなっている。

秋色 横山大観筆 絹本着色彩色 六曲一双 大正6年(1917)

 

大正時代の大観の装飾的作品の代表格であり、また、大観の琳派への傾倒を示す作品として名高い。琳派を愛好する私にとって、一番馴染みやすい作品である。蔦や槇は琳派におなじみのモチーフであり、右隻に描かれた槇の幹は尾形光琳の「槇楓図屏風」と良く似ていることが指摘される。大観は明治38年(1905)にヨーロッパから戻ってすぐに菱田春草と共に発表した「絵画について」という論文で、光琳への関心記している。その後、金地の採用、たらしこみ技法の試みなどを経て、大正のこの時期に琳派を想起させる画風に取り組むようになった。(上が右隻、下が左隻、以下同じ)

夜桜 横山大観筆 絹本着色 六強一双 昭和4年(1929) 大倉集古館

昭和5年(1930)にローマで開催された日本美術展覧会に出品した作品である。大観は出品作家の選定にも関わり、総代としてローマでの展示や運営も任された。本作はローマ展のために描き下した新作である。ローマ展はそもそも日本画を世界へ打ち出すことが狙いだったから、大観が海外の観客のも理解されやすい主題と装飾画風を選んだのである。色の取り合わせからは室町時代のやまと絵などを意識したと思わせるが、勿論伝統的なやまと絵とは全く異なり、余白も無しにモチーフを過剰に詰め込み華やかさを演出した、大観ならではの作品となった。満開の桜の情趣を訴えた本作は、海外の観客のみならず、日本の人々も魅了した。会場では一番の集客をした作品であった。私も初めて見る作品であったが、大いに魅了された。

紅葉 横山大観筆 紙本彩色 六曲一双 昭和6年(1931)足立美術館

「夜桜」と並び、円熟期の大観の装飾画風を示す作品である。初めは墨と金泥で紅葉を描くつもりだつたところ、色の良い朱が手に入ったので彩色画に変更したという。本作は、大観の全作品の中でも絢爛豪華な作品となった。

 

 

 

野の花 横山大観筆 紙本彩色 二曲一双 昭和11年(1936) 永青文庫

第23回再興日本美術院展覧会に出品された作品である。「野の花」の中に一人の女性を配することによって、画面が明るくなっている。大観の完成期の佳作である。

波騒ぐ(海に因む十題のうち)横山大観筆 昭和15年(1940)霊友会妙コレクション

絵筆をもって国に報いる彩管報国を唱えた大観が、昭和15年に「海に因む十題」、「山に因む十題」を発表し、その売上げ50万円を陸海軍の献納したことは良く知られている。この時期、富士は国のシンボル、海も海洋国家日本のシンボルと見做された。この「波騒ぐ」は、「海に因む十題のうち」であった。こんなことでも「絵画と戦争」を考えずにはいられない。フジタ一人が戦犯扱いをされ、「絵画と戦争」の代表者にされているが、フジタが憐れであると私は思う。

或る日の太平洋 横山大観筆 昭和27年(1952) 東京国立近代美術館

「富士超え龍図」という伝統的な主題に基づき、富士に向かって龍が昇るさまが描かれている。(北斎の最後の作品が「富士超え龍図」である)「或る日の太平洋」と名付けられているが、主題は「富士超え龍図」なのである。確かに、富士に向かって龍が昇るさまが描かれているが、富士の高さにまで迫らんとする波濤の大きさを描こうとしたのではないか?そのように考えれば、「或る日の太平洋」という題名とも一致する。描かれた波濤をとらえて、美術史家の野間清六氏が「近ごろ流行のシュールに似ている」と評して、大観が喜んだというエピソードがある。

零峰飛鶴 横山大観筆 絹本着色 昭和28年(1953) 横山大観記念会館

大観は大正、昭和の各時代に、実に沢山の富士山の絵を描いている。戦中は富士は「神国日本」を代表として、あらゆる機会に描かれた。戦後に富士の持つ意味が変わったが、大観は相変わらず富士を描き続けた。それゆえ、現代でも「大観と言えば富士」と誰もが信じて疑わない。あえて沢山ある富士の中で、この一枚を選んだのは、展覧中の「富士」の最後の絵であったからである。確かに富士に飛ぶ鶴は似合っている。

風粛々分易水寒 横山大観筆 絹本墨画  昭和30年(1955)名都美術館

司馬遷の「史記」に登場する荊軻は、秦王(後の始皇帝)の暗殺に向うも、果たせずに討たれた。故国を発つとき、彼は生きて帰らぬ覚悟で「風粛々として易水寒し、荘子ひとたび去って復た還らず」と詠んだという。タイトルはこの詩句からとったもの。易水のほとりで肉付きのよい犬一匹が水の彼方を見つめている。犬は再び帰ることのない主人を見送っているのだろう。きわめて暗示的な画面づくりで離別の愁いを表した作品だが、去る側送る側、大観はどちらに感情を寄せただろうか。

 

日本画の巨匠「横山大観展  生誕150年記念」は、東京国立近代美術館で開催されている。選りすぐりの92点の作品を、明治、大正、昭和と3区分して並べられている。名作として名高い「生々流転」(重要文化財)も「小下絵画帳」と合せて「生々流転」の40メートルに及ぶ作品も並べられていた。ここに選択した10点は、本当のことを言えば、写真が入手できるもので、かつ私が好きな絵画を選んだ。流石に「大家」と呼ばれるだけあって、写真の選択には手間取ったが、「山種美術館」の大観展とは重ならないように、かつ出来るだけ色の付いた作品を選んだ。その意味では「秋色」、「夜桜」、「紅葉」の3作は無条件に選び、後は好きな絵を、時代がバラつくように選んだ。大観展は大変な人気で、5月12日の火曜日の午後であったが、年配者の観覧が多く、列をなす有様であった。京都近代美術館へも廻るそうだ。多分、京都でも大変な人出となるであろう。なお、展示期間が何回かに分かれているので、見たくても見れない作品も多々あった。4月13日より5月27日までなので、展示期間がやや短い気がする。富士の絵は、大正、昭和の時代に実に多数の富士が並んでいた。「大観と言えば富士」と言われる通りであった。

 

(本稿は、生誕150年記念 横山大観  2018年」、図録「山種美術館  近代日本画名品選  2016年」、原色日本の美術「第26巻 近代日本画」日本経済新聞 2018年4月13日号「生誕150年 横山大観展」を参照した)

光琳と乾山  芸術家兄弟 響き合う美意識(2)

光琳の「カキツバタ図屏風」を展示する時は、根津美術館では必ず、自館の保有する乾山の焼物を展示するのは常である。今年は乾山にも力が入っており、自館保有の焼物だけでは無く、各美術館の「乾山焼物」と、乾山の「絵画」も展覧した。乾山の絵画を見たのは初めてであり、その面でも、今年の根津美術館の展示には力が入っていた。乾山の略歴は、次のようなものである。江戸時代の中期の陶工・尾形乾山(深省、1663~1743)は、京の高級呉服商・雁金屋(かりかねや)の三男に生まれた、絵師の光琳は5歳違いの次兄。25歳(数え年)にして隠居し、文人墨客と過ごす風雅な生活に身を置く。37歳、元禄12年(1699)に京の北西(乾の方向)鳴滝(なるたき)に窯を築き、焼物造りにいそしむ。乾山焼きの誕生であり、名品を多数生み出す。50歳、正徳2年(1712)には、この釜を閉じ、市中の二条丁小町(ちょうじちょう)に移り、やきもの造りは東山山麓の借り釜で続け、晩年は江戸に下向した。兄・光琳が絵を描き、弟・乾山が焼物を焼くと言う形のやきものが多い。「陶工・乾山」と言うが、尾形乾山が作陶のすべてを担当したのか、あるいは作陶の一工程を担当したのか。実際のところ、これほど有名な「陶芸家」でありながら、この疑問に対する解答はいまだにはっきりしないと思われる。竹内順一氏(永清文庫館長)は「乾山の役割は、鳴滝時代と二条丁子屋時代を通じて、釜の経営や新しい製品を開発する企画者のような役割を果たしていたのではないかと」との意見もある。また乾山はやきものだけでは無く、絵画の制作もしたとして、この展覧会では「乾山の絵画」も多数展示された。一例のみ取り上げておく。

銹絵山水四方火入 尾形乾山作 光琳画 江戸時代(18世紀) 大和文華館

全体の白化粧地の上に銹絵の楼閣山水図が四面連続して描かれた火入。タタラ成形による器胎は角皿同様の平面で構成され、画巻のような連続した画面を提供している。銹絵で乾山銘が大きく記されている。画面の最後に「青々光琳」の落款が記された光琳と乾山の合作である。光琳は宝永年間に江戸に滞在し、雪舟の模写などをしていたことが知られるが、本作の画風にはそのような雪舟学習の跡がうかがえる。

銹絵蘭図角皿 尾形乾山作・渡辺始興賛 江戸時代(18世紀) 根津美術館

銹絵の蘭図が描かれた角皿である。この皿の裏に乾山の書で「私が疲れている時に、渡辺素心という画師に書いてもらった」という意味の文書が付けられている。この「書いてもらった」のが、賛なのか絵なのか不明である。渡辺始興(1683~1735)という光琳の弟子がいたとされるが、それが素心と同一人物か、書いてもらったのが絵か賛なのか、これだけでは不明である。乾山、光琳以外の第三者が、乾山焼きに関係したのかが問われる作品である。結論は不明である。(なお渡辺始興の屏風は、畠山記念館の記事に取り上げたことがあるので、興味のある方は、そちらの原稿にも当たってもらいたい)図録では始興賛としているので、根津美術館としては賛として結論づけたのであろう。

色絵菊流水図角皿 尾形乾山作 江戸時代(18世紀) イセ文化財団

色絵角皿では最大級の大きさを誇る作品である。絵付けのモチーフは、薄が交わる菊の叢と流水である。色絵の草花図角皿では、銹絵角皿と異なり内側面まで見込の図様が及ぶが、本作品ではさらに外側面にまで図様が展開している。表現としては、見込に対角線に配された意匠性に富んだ流水模様が注目される。これは光琳の「紅白梅図屏風」などに描かれる「光琳水」そのものである。絵は乾山が描いたものと思う。傑作である。

色絵桔梗文盃台 尾形乾山作  江戸時代(18世紀) MIHO MUSEUM

盃台とは引盃(ひきさかづき)を載せる台のことで、円筒形の高台に鍔(つば)がつく。このタイプの盃台は「渡盞」(とさん)と呼ばれ、酒盃を受けるだけでなく、中央筒内に余った余滴を捨てることができるようになっている。斬新で大胆な乾山の感性をいかんなく発揮された逸品である。一方でこのような意匠を実現するには成形・焼成ともに非常に高い技術を要する。乾山の着想を支えた専門陶工たちの姿も垣間見えることだろう。

色絵菊文盃台 尾形乾山作  江戸時代(18世紀) サントリー美術館

上記と同じ様式の盃台である。この2つの他に「色絵雲錦文盃台」の計3点が知られている。乾山作の傑作である。

色絵竜田川文透彫反鉢  尾形乾山作  江戸時代(18世紀) 出光美術館

ロクロ水挽きで成形された、口縁部が少し反った鉢。口縁がジグザグや丸みを帯びた形で切り取られ、内外側面の上方に白化粧を施してから、丸い方の縁の形を生かしつつ、また透彫は波頭の形に対応させながら、銹絵で渦巻く流水を描いて本焼した後に、赤と緑、黄の三色によって、流水に流され、あるいは飲まれる楓を、やはり口縁のジグザグも生かして上絵付けし、さらに楓の輪郭や葉脈に金彩が施されている。底面には二条丁子屋町時代の商標とも言うべき、白化粧地で短冊形の枠に乾山の銹絵銘が描かれる。

重要文化財 白泥染付金彩芒文蓋物 尾形乾山作 江戸時代(18世紀)サントリー美術館

隅の丸い、ゆるやかな方形の蓋物で、蓋は身の上に覆い被せる構造を持つ。独特の器形は籠や本阿弥光悦の硯箱などが参考とされたようである。鳴滝時代の作と見られている。蓋表と身側面の全体に白泥と染付・金彩で薄を描き、武蔵野を想起させる意匠に仕上がっている。この蓋物は開けるという一連の動作には、外からうかがい知れないこの世ならざる世界の扉を開けるといったイメージが込められているのだろう。

重要文化財 銹絵染付金銀白彩松波文蓋物 尾形乾山作 江戸時代(18世紀) 出光美術館

隅の丸い、ゆるやかな方形の蓋物で、端正な成形を見せている。大きさも近く、洗い陶土のざらつきのある肌触りが活かされた焼締陶である。外側には光悦謡本の「うとふ」に見られるような松樹を白彩・染付・金銀彩で描くが、乾山焼で銀彩が使用されるのは珍しく、特別な機会に制作されたものであることを窺わせる。土と肌の丸さが松の生える土埞を想起させ、内外の水の描写と合せて、いかにも清浄な州浜のイメージを呼び起こす。乾山の蓋物はこうした清浄性や聖性といった現代では失われてしまった日本人の感性に訴えかけるものとなっていたのだろう。

重要文化財 八橋図 尾形乾山筆  江戸時代(18世紀) 文化庁

乾山は陶芸家と思っていたが、今回は乾山の絵が何点も展示された。記憶に残った1点のみを取り上げたい。画面の中程に大胆な筆致で墨を引いて表した橋の上下に、柔らかな筆使いで燕子花の青い花と緑の葉を描き込む。さらにその余白を埋め尽くすように墨書された文章と和歌から、伊勢物語の第九段「東下り」そのうち「八橋」の場面に取材することが明らかになる。乾山の書画作品が、日本美術における絵画と和歌、絵画と書の親和性を継承するものであることがうかがえる。自身の東下り、すなわち江戸下向との時期と合致するかも知れない。

 

乾山が鳴滝窯を引き払い、洛中の二条丁子屋町へと作陶の舞台を変えたのは正徳2年(1712)、乾山50歳の時であった。その表向きの理由は、恐らく販売体制の見直しが原因であったものと思われる。鳴滝に集まるサロンのメンバーを支持基盤とする高級器専門窯(ある意味で一点物)では、成り立たない時代になっており、広く不特定多数の一般需要層を対象にした、量産を前提とするシステムに切り替えていかねばならなかったと推定される。そこで切り札となるのは、やはり兄・光琳による光琳模様や琳派意匠であったと思われる。特に華麗な琳派意匠による色絵の製品は、一般大衆や勃興してきた町衆に熱狂的に支持されたと思う。このように量産化を目指した新生乾山窯は、経緯的に成功を収めたようで、正徳3年(1508)刊の「和漢三才図会」では山城国土産に乾山窯が採り上げられ、同5年に大阪で初演された近松門左衛門の「生玉心中」にも乾山焼の名が現れるなど、世間での評判が高まった。しかし、鳴滝時代に乾山が目指した、気韻生動する造詣のうつわが、徐々に薄らいでいった。鳴滝工房には、乾山の物づくりへの情熱、そして乾山の要求に応えた光琳の描線とセンス、さらには有能な工房のスタッフ達の高い技量、それが総合された贅沢な創作空間が存在したのであろう。

 

(本稿は、図録「光琳と乾山  2018年」、図録「乾山見参 2015年」、図録「燕子花と紅梅図 2015年」、図録「KORIN展  2012年」図録「琳派コレクション 2013年」、図録「大琳派展 2008年」を参照した)