名作誕生  つながる日本美術(2・巨匠のつながり)

名作は、ある日突然に天才作家が生み出すものではなく、作品や人のつながり、模倣や模作の繰り返しから生まれてきた。日本美術史上で人気の高い巨匠たちもまた、海外の作品や日本の古典から学び、継承と創造を重ねるなかで、個性的な名作を生み出したのである。この章では、雪舟等楊(せっしゆうとうよう)、俵谷宗達(たわらやそうたつ、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)という三人の「巨匠」に焦点を絞って、代表作が生まれたプロセスに迫る。まず、雪舟と中国の関係から眺めてみる。

国宝 天橋立図  雪舟等楊筆  一幅 室町時代(15世紀) 京都国立博物館

日本三景の一つで、古来有名な歌枕でもある天橋立とその周辺の景観を描く本図は、橋立の周囲に広がる社寺や名所を詳細に描写すると共に、内海・外海の広がりや、それらを取り巻く半島と山並みを、壮大な空間として顕した堂々たる作品である。本図は江戸時代から雪舟筆と伝えられ、落款印章はないものの、地名などの書き込みや、筆墨法からみて、雪舟の真筆とみなされている。写真のような単一の視点からとらえた風景ではないため、地理的に不合理な表現もされているものの、実際にその土地を訪ねれば描けないようなリアルな描写や書き込み文字を数多く含み、日本人画家が日本の実景を訪れて描いた本格的な作品として重要である。またそこに表された広大な空間表現は、単なる山水画としても十分に魅力的である。

国宝 破墨山水図 雪舟等楊筆自序他室町時代・明応4年(1495)東京国立博物館

雪舟に附き従い、絵を学んでいた鎌倉の円覚寺の禅僧画家、宗淵(そうえん)が雪舟のもとを去るに当たり、雪舟が終淵の求めに応じて明応4年に描き与えた山水画である。代表作の「山水長巻」た「秋冬山水図」のようなカチッとした夏珪スタイルの画法と異なり、おおざっぱな筆づかいによって、ぼんやりとした風景がさらっと描かれている。この画法は、図の上方に記された禅僧たち、月翁円鏡等の賛の中でも言及されているように、中国の南宋時代末期から元代初期にかけて活躍した僧侶画家、玉澗スタイルの作品はいくつかあり、得意のレパトリーであった。

重要文化財 山市晴嵐図 玉澗筆  南宋~元時代(13世紀) 出光美術館

玉澗(1180頃~1270頃)は、中国の王朝が南宋から元へと激動する時代に活躍した僧侶である。後世における画家・玉澗の名は、中国本土よりもむしろ日本において広く知れ渡り、現存する主要な作品は日本に集中している。その奔放な筆法による水墨山水は「玉澗様」と呼ばれ、室町時代以降の典範として絶大な影響を及ぼすこととなる。雪舟がこの玉澗の「山市晴嵐図」に即して描いたのが「破墨山水図」であると言われている。雪舟は明らかに、「破墨山水図」において自分自身を玉澗に重ね合せていると言えよう。

重要文化財 四季山水図(春) 雪舟等楊筆 室町時代(15世紀)ブリジストン美術館

四季を四幅に描き分けた作品で、福岡藩黒田家に伝来した。落款・印章はないが、古くから雪舟真筆と認められている。この作品には、後に浙派(せっぱ)と呼ばれている明時代の浙江省出身の画家達の画風が入り込んでいる。この画風は、室町時代に日本で流行った南宋風の整った画風に対し、パワフルでかつ荒さを持ち、ときに不思議な空間を画中に出現させる。雪舟は、自身の持ち味に良く合ったこの画法に感応し、取り入れつつ自己のものへ変化させた。

重要文化財 四季花鳥図屏風 雪舟等楊筆 室町時代(15世紀)京都国立美術館

雪舟の落款もないが、真筆と認められている唯一の花鳥図屏風で、縦が180センチメートル近い大きな画面が右から左へと四季が流れる。正直言って、まさかこれが、雪舟の作品とは信じられなかった。構図の基調は、右隻の松と左隻の雪を被った梅で、屈曲する幹と枝とが複雑な空間を作っている。そのなかで鶴と鷺(さぎ)がポイントとなり、赤や緑などの色のある右隻と、殆ど白一色の左隻との対照を作り出し、その中にさまざまな花や鶏が配される。

重要文化財 四季花鳥図  狩野源信筆 室町時代(16世紀) 京都・大仙院

狩野派の二代目狩野源信筆の名作である。源信は、狩野派を理論化し、狩野派の大御所である。大仙院は大徳寺の古岳宋亘(こがくそうこう)を開山として、大徳寺内の塔頭として創建された。襖絵は、相阿弥と狩野源信が担当し、この四季花鳥図は檀那の間を飾っている。「狩野元伸展」で、詳しく書いているので、そちらを参照願いたい。本展では右隻のみの展覧であるが、左隻も表示しておいた。雪舟から、どのように学んだかを見てもらいたい。

重要文化財 鳴鶴図(右幅)文正筆 中国・元~明時代(14世紀)京都・相国寺

落款、朱文印等から、文正という逸伝の画家が士廉なる人物のために制作したことは分かる。相国寺大六世、絶海中津が、この画幅を日本に請来したという寺伝がある。

波頭飛鶴図(右幅)狩野探幽筆 江戸時代・承応3年(1654)京都国立博物館

狩野探幽は、古画を鑑定・記録し、古画から学ぶことに熱心であった。これは承応3年(1654)3月、53歳の探幽が文正の鳴鶴図右幅を写して作ったものである。当然、左幅も模写したと思われるが、そちらは現存しない。

白鶴図(右幅) 伊藤若冲筆  江戸時代(18世紀) 個人蔵

文正の「鳴鶴図」の鶴を模写すると共に、背景に変更を加えて作り上げた対幅である。(但し、右幅のみ)右幅に「平安若冲居士藤汝鈞製」と記す。若冲は、相国寺の禅僧・大典から「鳴鶴図」を見せてもらい、模写したのであろう。大典からは、中国の絵画事情について詳しく聞いていたものと思われる。狩野探幽の「波頭飛鶴図」を見ているかどうかは分からない。

仙人群鶏図襖(さぼてんぐんけいずふすま)伊藤若冲筆 江戸時代(18世紀)大阪・西福寺

「米斗庵米斗翁行年75歳画く」と署名するので、若冲は改元ごとに1歳加えたという説があり、それに従えば、天明9年(1789)の正月の完成と見られる。この絵が、ここに登場する理由は、日本の金碧障屏画史の掉尾(ちょうび)を飾ると言っても良い傑作が生まれるためには、彼自身の水墨画が大きな役割を果たした。

鶏図押絵貼屏風 伊藤若冲作 六曲一双 江戸時代(18世紀)京都・細見美術館

右隻第一扇と左隻第六扇に「米斗翁82歳描く」という署名がある。「仙人掌群鶏襖」よりは後の作品であるが、若冲が押絵貼屏風の形式で描いた水墨の鶏図の例として示したものである。このような水墨画を仙人掌群鶏図以前にも描き続けていて、それがあの金碧障壁画にも干渉したというわけである。

 

日本美術史の中で人気の高い巨匠三人を選んで、海外の作品や日本の古典から学び、継承と創造を重ねて、個性的な名作を生み出したプロセスを明らかにする目的である。選ばれた巨匠は雪舟等楊、俵谷宗達、伊藤若冲の3名であった。俵谷宗達は、私が一番好きな画家であるが、展覧された作品がすべて「扇面張替屏風」で、写真が入手出来なかった為、残念ながら断念した。伊藤若冲の写真は豊富に保存していたので、これは出来るだけ豊富に写真を出した。雪舟が、日本絵画史上の最大の巨匠であることは当然であるが、伊藤若冲は、私の中では、いまだ「奇想の画家」の域を出ていないので、雪舟と並ぶ巨匠扱いには、いささか驚いた。しかし「仙人掌群鶴図襖」が、「日本の金碧障撫屏画史の掉尾を飾る作品」という図録の解説を読んで、納得した次第である。

 

(本稿は、図録「名作誕生  2018年」、図録「日本国宝展  2014年」、原色日本の美術「第1巻~第30巻」、日経大人のOFF 2018年1月号、朝品新聞記念号外「特別展 名作誕生 つながる日本美術」、図録「生誕300年記念  若冲 2016年」を参照した)

 

 

 

 

名作誕生 つながる日本美術 (1.祈りをつなぐ)

「美術は孤立のものにあらず。一時期をなすには必ずその前代と相伴うて形をなす。推古は天智に進化し、これを天平に完全するは天平の大家一人の力にあらず。前すでにこれが基礎を造れるものあり。」これは岡倉天心が古典美術の研究の一端を、東京美術学校において講じた「日本美術史」の筆記録である。岡倉天心は、東京美術学校(現東京芸大の前身)の初代校長として、それまでの自分が研究してきた「日本美術史」を、明治23年から25年にかけて開講した。その時の内容は「日本美術史」と題され、学生の筆記録として遺されている。そして最後に天心は「まとめ」として7点を挙げた。そのうちの一つが「系統を追って進化し、系統を離れて滅ぶ」である。これこそが天心美術史学の根幹をなす思想であると言われる。天心は日本美術の創造性の秘密を、系統進化ー換言すれば「継承」と「創造」に求めていたのである。この展覧会は、天心に導かれながら、日本美術における継承と創造の関係を、「美術品」を見ながら、「名作誕生」が、「つながる日本美術」であることを検証する展覧会である。天平期から近代芸術に至るまで、130点の名品を展示しながら、解説するのは本展覧会の目的である。果たして、日本美術史の素人の私に、どこまで出来るか不安であるが、ここは果敢に挑戦してみたいと思う。なお、多分4~5回の連作になると思うので、最後までお付き合い願いたい。なお、本展覧会は、東京国立博物館で5月27日まで展示される。但し、展示物は6回に別けて展示されるので、最低でも2回は拝観しないと、全体像は理解できないと思う。第1回目は「祈りをつなぐ」というテーマを追いたい。

重要文化財 十一面観音菩薩立像 木造 中国・唐時代(8世紀)山口・神福寺

頭上に十一面を戴く十一面観音菩薩像で、その頭上から台座の蓮肉、両手首や天衣、装身具までも白檀(びゃくだん)あるいは桜とみられる広葉樹の一材から彫り出している。白檀とは、東アジアから東南アジアに自生する希少な香木で、これを材料とする仏像は「壇像」(だんぞう)と呼ばれ、珍重される。壇像の最盛期は、中国・唐時代(8世紀中頃)に制作され、日本にもたらされている。天平勝宝5年(753)日本に戒律を伝えるため来日した唐僧鑑真(がんじん)は、「彫檀師」(白檀などの彫刻を行う工人)を伴ったと思われる。唐招提寺像は、その遺品と思われる。

重要文化財 伝薬師如来立像 木造 奈良時代(8世紀) 奈良・唐招題寺

唐招題寺の新宝蔵に安置される「旧講堂木造群」と総称される木彫仏群の一つである。頭部のみのものもあれば、トルソーのみの仏像もある。いずれも一木から仏像を彫り出す一木造りは、これ以降平安初期にかけて急速に広まり、日本に木彫仏の時代をもたらした。そのきっかけとも言うべき初期の木彫仏である。全身をカヤまたはヒノキ材と見られる針葉樹の一材から彫り出したものである。日本で本格的に仏像が造られるようになったのは6世紀初めのことであるが、それから約150年は木の仏像が造られたことは無かった。木の仏像が主流になるのは平安時代以降のことで、この薬師如来像はその端緒であった可能性がある。唐招提寺を創建した鑑真が伴ってきた中国伝来の仏像工人が制作した可能性が高い。初めて、「旧講堂仏像群」を拝観した時(私が18歳の大学1年生の時)に、「日本人でない顔」と思ったことが記憶に残っている。天平時代の仏像は塑像製が多い。それに比較すれば、木造仏は、造り易く、かつコスト的にも安かったと思う。振り返れば、一大発明であった。

重要文化財 伝衆宝王立像 木造 奈良時代(8世紀) 奈良・唐招提寺

胸に斜めに鹿皮(ろくひ)を着けることや、両肩下に各2手を取り付けた痕跡がのこること、額に一眼を刻むことなどからも、もと三目六臂(さんもくろっぴ)の不空羂索観音像(ふくうけんさくかんんおんぞう)として造立されたと考えられる。随所に濃厚な唐様式が見られることから、鑑真に同行した唐の工人の作と思われる。台座を含め、ヒノキの一木彫りである。

国宝 薬師如来立像 木造 奈良~平安後期(8~9世紀) 奈良・元願寺

肩幅の広い堂々とした体格が拝する者を圧倒する。螺髪と両手首を除き、頭部から台座まで一木で彫り出すが、乾燥による割れを防ぐため、背面から内刳りをほどこす。厚い体躯からは、丸太を思わせる迫力を感ずる。本像の正式な名称は、今では不明であるが、奈良時代から平安時代前期(8~9世紀)にかけて、この像のように五尺五寸の大きさの薬師如来立像が多数造立されてりるため、もともと薬師如来だったと見てよいであろう。カヤを用いて彫られていることが判明したが、希少な香木である白檀の代用として採用された可能性がある。表面には彩色の痕跡もあるが、本来は素地のままだったかも知れない。元願寺に入ったのは100年前位で、それ以前の歴史は不明である。

国宝平家納経のうち観普賢経三十三巻のうち平安時代(12世紀)広島・厳島神社

平家納経は、平清盛(1118~81)が厳島神社に奉納した経巻で、「法華経」、「無量壽経」など全三十三巻である。全巻にわたって金銀箔がふんだんに蒔かれ、表紙や見返りには経意による平安貴族の姿などが現され、本紙の天地や経文の下絵としても葦手(あしで)や日輪の風景、蝶鳥草花などが色鮮やかに描かれている。軸首や題箋も繊細で細工がほどこされているうえに、平清盛の願文や能筆による経文の筆致まで、隅から隅まで配慮がなされた絢爛豪華な装飾経の代表的作品である。「観普賢経」の見返りには十二単衣姿の平安女性が描かれており、右手に剣、左手に水瓶を持っていることから十羅刹女(せつにょ)のうち第五黒歯(こくし)だと分かる。

国宝 普賢菩薩像  絹本着色 平安時代(12世紀) 東京国立博物館

普賢菩薩は文殊菩薩と共に釈迦如来の脇侍として三体一組で造像されることが多い。法華信仰の中では単独での造像が広く行われた。日本では平安時代に法華経を根本経典とする天台宗の成立によって法華信仰の基礎が整備され、法華経を通して真理に到達するための修行である法華三昧を行う堂(法華堂)の本尊として普賢菩薩の彫像を安置することが十世紀後半に行われ、画像は主に「法華経」を書写・供養する場で用いられた。特に「法華経」が女性成仏を説くことから平安時代後期には女性の発願による「法華経」供養も行われ、画像も女性貴族好みを反映したかのような繊細な作例が多く残されている。本画像は数多い普賢菩薩像の中でも最高傑作に位置づけられものであり、平安仏画の中でも屈指の名品である。

国宝 普賢菩薩騎象像  木造・彩色・載金 平安時代(12世紀) 大蔵集古館

法華教典は女性救済を説くことから貴族女性にも親しまれ、盛んに造像がなされた。本像は中でも優れた出来栄えと繊細な装飾で著名な、普賢菩薩の彫刻を代表する作品である。ヒノキを用いた寄木造で、華麗な彩色と金箔を細かく切って文様を表した載金が美しい。穏やかで洗練された表現から、平安時代後期(12世紀)に活躍した円派仏師の作とみられる。その姿は、院政期仏画の傑作とされる「普賢菩薩像」(前記)が画面から抜け出したようであり、ともに施主は高位の人物だろう。

重要文化財 普賢十羅刹女像 絹本着色 平安時代(12世紀) 京都・廬山寺

羅刹(らせつ)とは、もともと人を害する鬼だが、「法華経」「陀羅尼本」(だらにぼん)には普賢菩薩と同じく守護神として説かれる。日本で独自に考案されたとみられてきたが、普賢菩薩に天女形が従う図像は唐時代から北宋時代の作例で見られることから、これをもとに十羅刹女(じゅうらせつによ)へ変装した像が成立した可能性が考えられる。本像は現存する最古の絹絵で、羅刹女は羯摩衣(かつまえ)等を着ける唐装に現される。着衣にほどこされるのは主として銀の載金で、12世紀後半の作例に見られる新しい志向である。中央の普賢菩薩の両側に五体ずつ羅刹女が配置され、向って右端に赤子を抱いた鬼子母が立つ。法華経信仰を持った宮廷女性たちにとって、十羅刹女は自らを投影する存在だったであろう。

 

一木の祈りから、祈る普賢をまとめて「1 祈りをつなぐ「としてまとめた。明治23年(1887)10月に創刊された「国華」(こっか)は、今年で130年目を迎えることになる。「国華」」130年と、それを支援した朝日新聞社140周年を記念して、今回の「名作誕生 つなgる日本美術」展が、東京国立博物館で5月27日まで6期に分けて展示される。今年最大の「日本美術総合展覧会」であり、国宝、重要文化財など130点が展示される。「国華」は岡倉天心と高橋健三(太政官管報局長)の二人を中心に刊行が準備され、世界最古の美術雑誌は、今日に至るまで発刊されてきた。様々な美術情報を載せて130年間受け継がれ、読み続けられた。本展覧会では、作品同士の影響関係や社会的背景に着目して、古代の仏教美術から近代洋画まで、地域や時代を超えた数々の名作を、大きく4つに区分し、1.祈りをつなぐ、2.巨匠のつながり、3.古典文学につながる、4.つながるモチーフ・イメージの4章に大区分して、展示されている。6期に分けて展示されるため、せめて2~3回の見学が必要であるが、幾つかに分割して、この「美」で紹介したい。今年の日本美術最大の展覧会である。

 

(本稿は、図録「名作誕生  2018年」、図録「日本国宝展 2014年」、朝日新聞特別記念号「特別展  名作誕生ーつながる日本美術」、原色日本の美術「第1巻~第30巻」、日経大人のOFF  2018年1月号、を参照した)

 

横山大観展  生誕150年記念

 

横山大観(1868~1958)は明治の始まりから大正、そして戦後の昭和に至るまで活躍した日本画家である。日本画家として抜群の知名度を誇る大画家である。明治22年(1889)に開校した東京美術学校に、大観は第一期生として入学した。絵画について本格的学んだのは美術学校においてであった。校長の岡倉覚三(天心)や教綬の橋本雅邦に目を掛けられ、新しい日本画を作り出す気概を叩き込まれた。卒業制作では、最高点を取って卒業したと言われる。明治29年(1986)に、京都美術工芸学校での予備教諭の職を辞し、東京に戻り、東京美術学校図案化の助教綬に着任した。しかし、明治31年(1898)、学内での人間関係の問題から校長であった岡倉天心を中傷する怪文書が出回り、岡倉は校長を辞職し、それに伴い大観、橋本雅邦、下村観山、菱田春草らとともに辞職し、岡倉は、同年日本美術院を設立し、大観らはそれに参画した。茨城県五浦(いずら)の地に移り住み、新しい日本画の創造に向け制作に励んだ。この時期、大観が目指したものは、まず描こうとする人物の感情や主題の気分を画面全体で表現しようとした。続いて、いわゆる「朦朧体」(もうろうたい)と言われた画法である。東洋画で重視されてきた筆線を排除し、色をぼかし重ねたり金泥をはいたりして、大気や光の織り成す繊細な情趣を表現しようとした。そこから飛躍して色彩への取り組みを始め、色の表現力を型破りの手法で引き出したりした。「朦朧体」の評判は悪かったが、漸く世間に認められるようになったのは、文部省展覧会の始まる明治40年以降のことであった。(これ以降の記事の順次は、図録による)

村童観猿翁  横山大観筆 明治26年(1893) 東京芸術大学

東京美術学校の卒業制作。一期生の全生徒のなかで作品は最高点であったと大観は回想している。子供の顔もデッサンもゆがんで上手いとは言えない。しかし、先生の橋本雅邦と親友11人の猿回しのおじさんと村童に見立てた遊び心の有る発想や、群像をまとめ上げた構成力、新しい色感は、高く評価されたポイントとなった。

白衣観音 横山大観筆 絹本着色 一幅  明治41年(1908)

明治45(1912)に刊行された「大観画集」に掲載され、以来、所在不明であった。サリーの透ける白衣を身にまとう観音が岩場に腰かけている。明治36年(1903)インドを訪れた大観は、仏殿などを主題にインド風の人物や神像をいくつか描いたが、アジャンター壁画を紹介した画集などを参考にポーズを転用したこともしばしばだった。足を組んで座る姿勢はデッサンの不得手が露呈している。腰と腿の関係があいまいで、膝下のパースが狂っているのが大きな要因である。また岩や崖には筆の腹でかすれた筆触を重ねた皺法が用いられるが、岩場全体の立体感につながっていない。観音の黒目がちな顔立ちやアクセサリーや衣の縁模様なども大きな見どころとなっている。

秋色 横山大観筆 絹本着色彩色 六曲一双 大正6年(1917)

 

大正時代の大観の装飾的作品の代表格であり、また、大観の琳派への傾倒を示す作品として名高い。琳派を愛好する私にとって、一番馴染みやすい作品である。蔦や槇は琳派におなじみのモチーフであり、右隻に描かれた槇の幹は尾形光琳の「槇楓図屏風」と良く似ていることが指摘される。大観は明治38年(1905)にヨーロッパから戻ってすぐに菱田春草と共に発表した「絵画について」という論文で、光琳への関心記している。その後、金地の採用、たらしこみ技法の試みなどを経て、大正のこの時期に琳派を想起させる画風に取り組むようになった。(上が右隻、下が左隻、以下同じ)

夜桜 横山大観筆 絹本着色 六強一双 昭和4年(1929) 大倉集古館

昭和5年(1930)にローマで開催された日本美術展覧会に出品した作品である。大観は出品作家の選定にも関わり、総代としてローマでの展示や運営も任された。本作はローマ展のために描き下した新作である。ローマ展はそもそも日本画を世界へ打ち出すことが狙いだったから、大観が海外の観客のも理解されやすい主題と装飾画風を選んだのである。色の取り合わせからは室町時代のやまと絵などを意識したと思わせるが、勿論伝統的なやまと絵とは全く異なり、余白も無しにモチーフを過剰に詰め込み華やかさを演出した、大観ならではの作品となった。満開の桜の情趣を訴えた本作は、海外の観客のみならず、日本の人々も魅了した。会場では一番の集客をした作品であった。私も初めて見る作品であったが、大いに魅了された。

紅葉 横山大観筆 紙本彩色 六曲一双 昭和6年(1931)足立美術館

「夜桜」と並び、円熟期の大観の装飾画風を示す作品である。初めは墨と金泥で紅葉を描くつもりだつたところ、色の良い朱が手に入ったので彩色画に変更したという。本作は、大観の全作品の中でも絢爛豪華な作品となった。

 

 

 

野の花 横山大観筆 紙本彩色 二曲一双 昭和11年(1936) 永青文庫

第23回再興日本美術院展覧会に出品された作品である。「野の花」の中に一人の女性を配することによって、画面が明るくなっている。大観の完成期の佳作である。

波騒ぐ(海に因む十題のうち)横山大観筆 昭和15年(1940)霊友会妙コレクション

絵筆をもって国に報いる彩管報国を唱えた大観が、昭和15年に「海に因む十題」、「山に因む十題」を発表し、その売上げ50万円を陸海軍の献納したことは良く知られている。この時期、富士は国のシンボル、海も海洋国家日本のシンボルと見做された。この「波騒ぐ」は、「海に因む十題のうち」であった。こんなことでも「絵画と戦争」を考えずにはいられない。フジタ一人が戦犯扱いをされ、「絵画と戦争」の代表者にされているが、フジタが憐れであると私は思う。

或る日の太平洋 横山大観筆 昭和27年(1952) 東京国立近代美術館

「富士超え龍図」という伝統的な主題に基づき、富士に向かって龍が昇るさまが描かれている。(北斎の最後の作品が「富士超え龍図」である)「或る日の太平洋」と名付けられているが、主題は「富士超え龍図」なのである。確かに、富士に向かって龍が昇るさまが描かれているが、富士の高さにまで迫らんとする波濤の大きさを描こうとしたのではないか?そのように考えれば、「或る日の太平洋」という題名とも一致する。描かれた波濤をとらえて、美術史家の野間清六氏が「近ごろ流行のシュールに似ている」と評して、大観が喜んだというエピソードがある。

零峰飛鶴 横山大観筆 絹本着色 昭和28年(1953) 横山大観記念会館

大観は大正、昭和の各時代に、実に沢山の富士山の絵を描いている。戦中は富士は「神国日本」を代表として、あらゆる機会に描かれた。戦後に富士の持つ意味が変わったが、大観は相変わらず富士を描き続けた。それゆえ、現代でも「大観と言えば富士」と誰もが信じて疑わない。あえて沢山ある富士の中で、この一枚を選んだのは、展覧中の「富士」の最後の絵であったからである。確かに富士に飛ぶ鶴は似合っている。

風粛々分易水寒 横山大観筆 絹本墨画  昭和30年(1955)名都美術館

司馬遷の「史記」に登場する荊軻は、秦王(後の始皇帝)の暗殺に向うも、果たせずに討たれた。故国を発つとき、彼は生きて帰らぬ覚悟で「風粛々として易水寒し、荘子ひとたび去って復た還らず」と詠んだという。タイトルはこの詩句からとったもの。易水のほとりで肉付きのよい犬一匹が水の彼方を見つめている。犬は再び帰ることのない主人を見送っているのだろう。きわめて暗示的な画面づくりで離別の愁いを表した作品だが、去る側送る側、大観はどちらに感情を寄せただろうか。

 

日本画の巨匠「横山大観展  生誕150年記念」は、東京国立近代美術館で開催されている。選りすぐりの92点の作品を、明治、大正、昭和と3区分して並べられている。名作として名高い「生々流転」(重要文化財)も「小下絵画帳」と合せて「生々流転」の40メートルに及ぶ作品も並べられていた。ここに選択した10点は、本当のことを言えば、写真が入手できるもので、かつ私が好きな絵画を選んだ。流石に「大家」と呼ばれるだけあって、写真の選択には手間取ったが、「山種美術館」の大観展とは重ならないように、かつ出来るだけ色の付いた作品を選んだ。その意味では「秋色」、「夜桜」、「紅葉」の3作は無条件に選び、後は好きな絵を、時代がバラつくように選んだ。大観展は大変な人気で、5月12日の火曜日の午後であったが、年配者の観覧が多く、列をなす有様であった。京都近代美術館へも廻るそうだ。多分、京都でも大変な人出となるであろう。なお、展示期間が何回かに分かれているので、見たくても見れない作品も多々あった。4月13日より5月27日までなので、展示期間がやや短い気がする。富士の絵は、大正、昭和の時代に実に多数の富士が並んでいた。「大観と言えば富士」と言われる通りであった。

 

(本稿は、生誕150年記念 横山大観  2018年」、図録「山種美術館  近代日本画名品選  2016年」、原色日本の美術「第26巻 近代日本画」日本経済新聞 2018年4月13日号「生誕150年 横山大観展」を参照した)

光琳と乾山  芸術家兄弟 響き合う美意識(2)

光琳の「カキツバタ図屏風」を展示する時は、根津美術館では必ず、自館の保有する乾山の焼物を展示するのは常である。今年は乾山にも力が入っており、自館保有の焼物だけでは無く、各美術館の「乾山焼物」と、乾山の「絵画」も展覧した。乾山の絵画を見たのは初めてであり、その面でも、今年の根津美術館の展示には力が入っていた。乾山の略歴は、次のようなものである。江戸時代の中期の陶工・尾形乾山(深省、1663~1743)は、京の高級呉服商・雁金屋(かりかねや)の三男に生まれた、絵師の光琳は5歳違いの次兄。25歳(数え年)にして隠居し、文人墨客と過ごす風雅な生活に身を置く。37歳、元禄12年(1699)に京の北西(乾の方向)鳴滝(なるたき)に窯を築き、焼物造りにいそしむ。乾山焼きの誕生であり、名品を多数生み出す。50歳、正徳2年(1712)には、この釜を閉じ、市中の二条丁小町(ちょうじちょう)に移り、やきもの造りは東山山麓の借り釜で続け、晩年は江戸に下向した。兄・光琳が絵を描き、弟・乾山が焼物を焼くと言う形のやきものが多い。「陶工・乾山」と言うが、尾形乾山が作陶のすべてを担当したのか、あるいは作陶の一工程を担当したのか。実際のところ、これほど有名な「陶芸家」でありながら、この疑問に対する解答はいまだにはっきりしないと思われる。竹内順一氏(永清文庫館長)は「乾山の役割は、鳴滝時代と二条丁子屋時代を通じて、釜の経営や新しい製品を開発する企画者のような役割を果たしていたのではないかと」との意見もある。また乾山はやきものだけでは無く、絵画の制作もしたとして、この展覧会では「乾山の絵画」も多数展示された。一例のみ取り上げておく。

銹絵山水四方火入 尾形乾山作 光琳画 江戸時代(18世紀) 大和文華館

全体の白化粧地の上に銹絵の楼閣山水図が四面連続して描かれた火入。タタラ成形による器胎は角皿同様の平面で構成され、画巻のような連続した画面を提供している。銹絵で乾山銘が大きく記されている。画面の最後に「青々光琳」の落款が記された光琳と乾山の合作である。光琳は宝永年間に江戸に滞在し、雪舟の模写などをしていたことが知られるが、本作の画風にはそのような雪舟学習の跡がうかがえる。

銹絵蘭図角皿 尾形乾山作・渡辺始興賛 江戸時代(18世紀) 根津美術館

銹絵の蘭図が描かれた角皿である。この皿の裏に乾山の書で「私が疲れている時に、渡辺素心という画師に書いてもらった」という意味の文書が付けられている。この「書いてもらった」のが、賛なのか絵なのか不明である。渡辺始興(1683~1735)という光琳の弟子がいたとされるが、それが素心と同一人物か、書いてもらったのが絵か賛なのか、これだけでは不明である。乾山、光琳以外の第三者が、乾山焼きに関係したのかが問われる作品である。結論は不明である。(なお渡辺始興の屏風は、畠山記念館の記事に取り上げたことがあるので、興味のある方は、そちらの原稿にも当たってもらいたい)図録では始興賛としているので、根津美術館としては賛として結論づけたのであろう。

色絵菊流水図角皿 尾形乾山作 江戸時代(18世紀) イセ文化財団

色絵角皿では最大級の大きさを誇る作品である。絵付けのモチーフは、薄が交わる菊の叢と流水である。色絵の草花図角皿では、銹絵角皿と異なり内側面まで見込の図様が及ぶが、本作品ではさらに外側面にまで図様が展開している。表現としては、見込に対角線に配された意匠性に富んだ流水模様が注目される。これは光琳の「紅白梅図屏風」などに描かれる「光琳水」そのものである。絵は乾山が描いたものと思う。傑作である。

色絵桔梗文盃台 尾形乾山作  江戸時代(18世紀) MIHO MUSEUM

盃台とは引盃(ひきさかづき)を載せる台のことで、円筒形の高台に鍔(つば)がつく。このタイプの盃台は「渡盞」(とさん)と呼ばれ、酒盃を受けるだけでなく、中央筒内に余った余滴を捨てることができるようになっている。斬新で大胆な乾山の感性をいかんなく発揮された逸品である。一方でこのような意匠を実現するには成形・焼成ともに非常に高い技術を要する。乾山の着想を支えた専門陶工たちの姿も垣間見えることだろう。

色絵菊文盃台 尾形乾山作  江戸時代(18世紀) サントリー美術館

上記と同じ様式の盃台である。この2つの他に「色絵雲錦文盃台」の計3点が知られている。乾山作の傑作である。

色絵竜田川文透彫反鉢  尾形乾山作  江戸時代(18世紀) 出光美術館

ロクロ水挽きで成形された、口縁部が少し反った鉢。口縁がジグザグや丸みを帯びた形で切り取られ、内外側面の上方に白化粧を施してから、丸い方の縁の形を生かしつつ、また透彫は波頭の形に対応させながら、銹絵で渦巻く流水を描いて本焼した後に、赤と緑、黄の三色によって、流水に流され、あるいは飲まれる楓を、やはり口縁のジグザグも生かして上絵付けし、さらに楓の輪郭や葉脈に金彩が施されている。底面には二条丁子屋町時代の商標とも言うべき、白化粧地で短冊形の枠に乾山の銹絵銘が描かれる。

重要文化財 白泥染付金彩芒文蓋物 尾形乾山作 江戸時代(18世紀)サントリー美術館

隅の丸い、ゆるやかな方形の蓋物で、蓋は身の上に覆い被せる構造を持つ。独特の器形は籠や本阿弥光悦の硯箱などが参考とされたようである。鳴滝時代の作と見られている。蓋表と身側面の全体に白泥と染付・金彩で薄を描き、武蔵野を想起させる意匠に仕上がっている。この蓋物は開けるという一連の動作には、外からうかがい知れないこの世ならざる世界の扉を開けるといったイメージが込められているのだろう。

重要文化財 銹絵染付金銀白彩松波文蓋物 尾形乾山作 江戸時代(18世紀) 出光美術館

隅の丸い、ゆるやかな方形の蓋物で、端正な成形を見せている。大きさも近く、洗い陶土のざらつきのある肌触りが活かされた焼締陶である。外側には光悦謡本の「うとふ」に見られるような松樹を白彩・染付・金銀彩で描くが、乾山焼で銀彩が使用されるのは珍しく、特別な機会に制作されたものであることを窺わせる。土と肌の丸さが松の生える土埞を想起させ、内外の水の描写と合せて、いかにも清浄な州浜のイメージを呼び起こす。乾山の蓋物はこうした清浄性や聖性といった現代では失われてしまった日本人の感性に訴えかけるものとなっていたのだろう。

重要文化財 八橋図 尾形乾山筆  江戸時代(18世紀) 文化庁

乾山は陶芸家と思っていたが、今回は乾山の絵が何点も展示された。記憶に残った1点のみを取り上げたい。画面の中程に大胆な筆致で墨を引いて表した橋の上下に、柔らかな筆使いで燕子花の青い花と緑の葉を描き込む。さらにその余白を埋め尽くすように墨書された文章と和歌から、伊勢物語の第九段「東下り」そのうち「八橋」の場面に取材することが明らかになる。乾山の書画作品が、日本美術における絵画と和歌、絵画と書の親和性を継承するものであることがうかがえる。自身の東下り、すなわち江戸下向との時期と合致するかも知れない。

 

乾山が鳴滝窯を引き払い、洛中の二条丁子屋町へと作陶の舞台を変えたのは正徳2年(1712)、乾山50歳の時であった。その表向きの理由は、恐らく販売体制の見直しが原因であったものと思われる。鳴滝に集まるサロンのメンバーを支持基盤とする高級器専門窯(ある意味で一点物)では、成り立たない時代になっており、広く不特定多数の一般需要層を対象にした、量産を前提とするシステムに切り替えていかねばならなかったと推定される。そこで切り札となるのは、やはり兄・光琳による光琳模様や琳派意匠であったと思われる。特に華麗な琳派意匠による色絵の製品は、一般大衆や勃興してきた町衆に熱狂的に支持されたと思う。このように量産化を目指した新生乾山窯は、経緯的に成功を収めたようで、正徳3年(1508)刊の「和漢三才図会」では山城国土産に乾山窯が採り上げられ、同5年に大阪で初演された近松門左衛門の「生玉心中」にも乾山焼の名が現れるなど、世間での評判が高まった。しかし、鳴滝時代に乾山が目指した、気韻生動する造詣のうつわが、徐々に薄らいでいった。鳴滝工房には、乾山の物づくりへの情熱、そして乾山の要求に応えた光琳の描線とセンス、さらには有能な工房のスタッフ達の高い技量、それが総合された贅沢な創作空間が存在したのであろう。

 

(本稿は、図録「光琳と乾山  2018年」、図録「乾山見参 2015年」、図録「燕子花と紅梅図 2015年」、図録「KORIN展  2012年」図録「琳派コレクション 2013年」、図録「大琳派展 2008年」を参照した)

光琳と乾山  芸術家兄弟 響き合う美意識(1)

今年もまた、根津美術館で尾形光琳の「カキツバタ図屏風」を見学する季節となった。毎年、欠かさず拝観しているが、今年のテーマは「光琳と宗達 芸術家兄弟 響き合う美意識」であり、かなり力の入った展覧会であった。相当数の陳列であったので、今年は2回に別けて連載することにした。尾形光琳(1658~1716)は、京都の上層町衆で、慶長期より栄えた呉服商雁金屋(かりがねや)の次男として万治元年(1658)に生を受け、富裕な都市生活、しかも元禄という江戸時代では最も経済的に恵まれた時期に画家として大成した。家業の関係から禁裏や公家などの知遇を得、豊かな趣味を培う機会が多く、能に習熟し、ことに二条家にはたびたび伺候して能舞いの相手を勤めていた様子がある。通常の職業画家としての教育よりも、むしろ幼少から慣れ親しんだ衣装文様などから強い影響を受け、その芸術活動も、絵画では屏風、掛幅、巻物、扇面、香包など実用品の装飾が多い。また弟で陶芸家の乾山のやきもの絵付けや、衣装、漆絵、数寄屋造りのデザインなども行った。日本絵画史上稀有の画家である。光琳は元禄14年(1701)四十四歳のときに法橋(ほっきょう)という位に叙せられ、以後の作品にはほとんどといってよいほど「法橋光琳」の落款を用いた。この法橋叙任間もない頃の作が「燕子花図屏風」であるとされる。本作品が、光琳前半期の集大成的性格を持つとされるゆえんである。その後、宝永元年(1704)光琳は江戸に下る。新天地にあって、当地の大名家や豪商に出入りしながら絵の制作を続けたのである。京都、江戸間の往復を五年間に三度した後、宝永6年に京都二条に新居を構え、その後、享保元年(1716)に五十七歳で他界するまで京都で過ごした。いまに伝わる光琳作品のほとんどがこの七年間の制作にかかり、特に「紅梅図屏風」や「孔雀立葵図屏風」など屏風の傑作が海だされた時期として、光琳画風の大成期とみなさている。(尾形乾山については(2)で説明する)

秋草図屏風 伝尾形光琳作四曲一双屏風 江戸時代(18世紀)サントリー美術館

秋草は古くから日本の美術を彩ってきたモチーフだが、秋草のみならず四季折々の多種類の草花のみからなる装飾性の高い屏風を生み出したのは、俵谷宗達の工房である。宗達晩年から、没後も長く制作されたこれら草花図屏風は、「伊年」の印が捺されていることから「伊年印草花図」と称されている。この作品には、そうした宗達工房の第三世代である喜多川相説の作品からの影響が著しいと言われる。一方で、本作品において相説画に比しては草花の形態が意匠的に整理される点は「燕子図屏風」につながる要素である。筆写に伝が付けられているが、光琳初期の草花図のおもかげを伝える作品である可能性も高い。

国宝 燕子花図屏風 尾形光琳作 特曲一双屏風 江戸時代18世紀)根津美術館

総金地に濃淡の群青と緑青にみによって鮮烈に描きだされた燕子花の群生。その情景には「伊勢物語」に語られた燕子花の名所、三河八橋が潜んでいる。右隻と左隻の構図の対照と均衡を十二分に計算しつつ、リズミカルに配置された燕子花は、一部に型が反復して利用されるなど意匠性が際立つ。むしろ衣装の装飾のために造られたのではないかと思う。光琳が法橋の位を授かった元禄14年(1701)の頃の作品では無いかと思う。光琳が早くも到達した最初の芸術的頂点であろう。

草花図屏風 尾形光琳作 二曲一双 江戸時代(18世紀) 根津美術館

光琳が私淑した宗達と同様、光琳も二曲屏風を多く制作し、そこでもさまざまな構図形式に挑んだ。なかでも本作品は、晩春から夏にかけての草花を一双を通じて対角線的に拝する点で「八橋図屏風」と問題を共有するとともに、その単純化に成功している。また左隻下辺には燕子花も配されているが、やや花弁のボリュームが在り過ぎる「燕子花図屏風」に較べて花の構造をより明瞭にあらわそうとする傾向が見て取れ、それは「八橋図屏風」の態度にちかい。光琳草花図屏風の優品のひとつに数えられる。

重要文化財 太公望図屏風 弐曲一双 尾形光琳作 江戸時代(18世紀)京都国立博物館

太公とは、紀元前11世紀末、殷時代末期から周時代にかけて活躍した軍師・呂尚のことである。隠遁して渭水(いすい)のほとりで釣りをしている呂尚のもとを、周王朝の祖である文王が占いに従って訪れ、呂尚を補佐役として迎える。文王の祖父である太公が待ち望んでいた人物という意味で、太公望と呼ばれた。太公望の働きもあり、やがて周は殷の国を破る。一人釣りをする人物に太公望のイメージを重ねることも古来、行われたが、本作品の太公望は陰逸の軍師としてはいかにも呑気な感じがする。膝に肘をおいて頬杖をつくるポーズがその印象を強めている。本作品の柔らかな中黒の衣装線が宗達の水墨画に由来するものとすれば、引用方法も含めて、宗達から学んだのかもしれない。いくつもの曲線が画面に渦巻くのは、光琳ならではの構図法と言える。署名の書風から宝永元年(1704)に江戸に下向する前の作と考えられている。

白楽天図屏風 六曲一双 尾形光琳作 江戸時代(18世紀) 根津美術館

日本にやってきた唐の詩人・白楽天が、航海と和歌を守護する住吉明神、その化身である年老いた漁師に、和歌の偉大さを思い知らされたうえ、神風で中国に追い返されるという内容の謡曲「白楽天」にもとずく。ことのほか能を好んだ光琳に相応しい作品である。光琳は、もとの舟を多く反り返らせて、画面に円環的な構図と動きを生み出している。

重要美術品 鵜舟図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀)静嘉堂文庫美術館

狩衣のような衣をつける烏帽子を被った鵜匠が小舟に乗り、舳先にしつらえた篝火のもと、紐につないだ二羽の鵜を操って鵜飼いをしている。一羽はまさに魚を捕えたところ、一羽は水中の獲物を狙って水面を滑る様子の鵜は、生家に伝わった宗達作品に学んだと考えられるたらしこみを用いながら簡潔的確に描かれている。筆勢を残した没骨で表された子舟は縦長の画面を半分に前半分を斜めに差し入れ、その周囲を、細い墨線で何本も重ねてから波頭の部分を白く塗り残すようにして藍と淡墨を施しながら柔らかくもボリューム感ある波が包み込む。すべてのモチーフが動きをはらみ、かつそれらが有機的に繋がって画面に奥行きを生んでいる。署名が「法橋光琳」の書風が、「燕子花図屏風」と近似しており、二つの作品はともに元禄14年(1701)の法橋叙任後間もない時期の作と考えられる。

重要美術品 李白観瀑図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀)ブリジストン美術館

光琳は最初、狩野派について基本的な画技を身に付けたと思われる。唐時代の詩人・李白が滝を眺める情景を描いた本作品は、そうした初期の狩野派学習をベースに、宗達風に宮廷の美意識をも反映させた「鵜舟図」における独自の水墨表現を加味し、さらに宝永元年(1704)から6年間の江戸滞在期における漢画体験を踏まえた、画風高揚期における颯爽たる水墨淡彩画と評することができる。

兼好法師図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀) MOA美術館

小さな文机に左肘をついて灯火のもと読書をする人物、これは「徒然草」第十三段に「ひとり灯の下にて文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、このようななぐさむわざなる」と書いて読書の楽しみを説いた兼好法師の像としてよいだろう。

黒梅図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀) 個人蔵

新出作品である。画面右上、やや変わった位置に太い幹の一部が見える。その幹との関係もいささか不合理ながら、そのすこし上から枝が勢いよく下方に向かって伸び、画面下端でまた不思議な動きを見せてから、さらに細かい枝が何本も派生して、その先に白い梅の花が開く。下に伸びる枝の途中にも小さな枝分れがあって、やはり花をつける。梅の白さを際立たせるために、背後に淡墨が塗られる。「青々」落款の作品であるが、やはり帰洛後の作品である。

黒菊図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀)  個人蔵

ほんのりした輝きをはらんだ無背景の絹地に、白菊の咲く秋の野の一角が玄出する。本作品の絹は、不定形のいくつかの断片がつなぎあわされ、通常では考えにくい様子を示している。観察すると、大方は小袖の後右見頃から右袖にかけての部分に該当しそうに思われる。そうであればトリミングされた一番下の菊の下に、まだ絹が数十センチ続いていたことにもなる。絹の小袖の鍼合わせかも知れない。今後の研究がまたれる。署名は「青々」である。

わが家の菖蒲の花       2018年4月30日撮影

10年程前に、横須賀衣笠(きぬがさ)菖蒲園で1株の菖蒲を買って植えたことをすっかり忘れていたところ、昨年1輪だけ咲いた。今年は10輪以上咲き、美しく庭を飾ってくれた。毎年、根津美術館のカキツバタの写真を載せる所だが、今年は庭の菖蒲を掲載した。花の咲く時期はほぼ同じ頃なので、来年以降は、この菖蒲の花が咲いたら、根津美術館の光琳の「燕子花図屏風」を見に行こうと思う。

 

根津美術館の4,5月頃は「カキツバタ図屏風」が毎年公開されて楽しみである。美術館が力を入れる年と、入れない年がある。今年は、かなり気合の入った年であった。テーマは「光琳と乾山」で代わり映えしないが、展示された作品には力が籠っていた。例年なら、1回で済ますところ、新しい展示品が並んだため、「光琳」と「乾山」を別の項目で取り扱うようにした。光琳に関して言えば、今年は根津美術館以外の美術館、個人蔵などが目立った。また、光琳が法橋の地位を得た元禄14年(1701)以降の作品が多く、光琳の画業に磨きがかかった時代に焦点を合わせる展示会であったと思う。裕福な呉服商の次男とは言え、法橋の地位は簡単には得られるものでは無かったであろう。公家や貴族、裕福な町人衆の引き立てがあればこそ、40代の若さで法橋への昇格が出来たのであろう。法橋という地位を得て、光琳が画業に励み、一層磨きがかかった時代の作品が多いのが、今年の最大の特徴では無いだろうか。また、新規に2点の光琳作品が発掘されたことも大きな事件である。特に「黒菊図」には驚いた。小袖を、切り抜いて、軸装に仕立てたものではないかと思われる。新機軸かも知れない。是非解明を進めてもらいたい。

 

(本稿は、図録「光琳と乾山  2018年」、図録「燕子花と紅梅図 2015年」、図録「KORINN展  2012年」、図録「琳派コレクション 2013年」を参照した)

 元興寺 仏像と宝物と文化財研究所

元興寺の宝物は、総合収蔵庫に収められている。元興寺の長い歴史に関わらず、古い仏像類は無い。飛鳥寺に残して来たのであろうか。反対に、新しく生み出した民衆信仰の保存物は多い。元興寺の由緒ある歴史の割には、古い仏像が少ない。しかし、文化財保護研究機関として驚くべき発展をしている。

国宝  五重小塔            奈良時代(8世紀)

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綜合収蔵庫に入るとまず目につくのが中央に立つ五重塔である。高さ5.5mあり、瓦や組物を精密に表現したもので、一見塔の模型のように見える。平安時代、鎌倉時代など6回の修理が行われ、特に最後の昭和42,43年(1967,8年)に際してほぼ当初の形に復元された。塔の内部には昭和40年(1965)にスリランカよりもたらされた舎利(仏舎利)が納められている。この小塔がなぜ造られたのかについては、かって有力であったのが五重塔のひな形説である。元興寺には江戸時代後期まで推定高50mを超える巨大な五重大塔が建っていた。奈良の名所にもなっていた美しい塔であったが、安政6年(1859)に火災に遭って失われてしまった。大塔を建てる時に造られた模型であると考えられていた。しかし、江戸時代の大塔修理に際して描かれたと思われる大塔の構造図が見つかった。そこに描かれた大塔はおおよそ小塔とは似つかないものであり、現在では大塔ひな型説は否定されている。元興寺には東に大塔があり、西には大塔がない。かわりに本来大塔のある位置に「小塔院」(しょうとういん)という建物が配置されている。元興寺小塔は、小塔院の本尊として祀られていた可能性が高い。(この小塔は昨年の国宝展にも出展されていたが、ここまでは説明されていなかった)

重要文化財  阿弥陀如来坐像   木造   平安時代(10世紀)

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元興寺に残る仏像の中でもっとも大きなものである。高さ157.3cmで、一般に反丈六(はんじょうろく)と呼ばれるサイズのものである。長らく本堂厨子内に納められていたが、古い記録によると、もともと元興寺の東方にあった禅定院多宝塔(ぜんじょういんたほうとう)の本尊であったが、文明15年(1483)に多宝塔が火災にあったことから、元興寺極楽坊に移されたものである。頭と体幹をケヤキの一木造り、膝から前の部分は別の材で作って接合している。肩が大きく張り気味で、大きな肉髻(にくけい)とあいまって、全体的にどっしりとした風格を醸し出している。右手を立て、左手を下げ、親指と人差し指を結ぶ手の形(印相)を「阿弥陀来迎印」(あみだらいごういん)と言い、仏が人々を極楽へ導くことを象徴している。

重要文化財  聖徳太子十六歳孝養像         鎌倉時代

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本像は角髪(みずら)を結い、靴を履いて柄香炉(えこうろ)を持つ立像である。父用明天皇の病気回復を薬師如来に祈る16歳の像である。解体して修理を行った際に、文永5年(1268)に眼清(がんせい)という僧侶がこの像を造る代表になったことを記した「眼清願文」、仏像を刻んだり版画の原画を描いた工房の人々の名前を記した「木仏所画所列名」(きぶつしょえところれつめい)、像を造るためにお金を出し合った人々の名前を記した「結縁人名帳」(けちえんじんめいちょう)、聖徳太子の姿を版画にした「聖徳太子刷物(しゅうぶつ)」、お金やお米を出した人に配られた「太子千杯供養札」(たいしせんぱいくようふだ)など多数の納入品が発見された。これらの資料からは、この像を造るにあたって、実に5,000名に及ぶ人々が力を合わせたことが知られる。鎌倉時代に「聖徳太子信仰」が盛り上がった様が窺える。

 

南無太子像   木造     鎌倉時代

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平安時代の初期の「聖徳太子伝暦」には、聖徳太子が2歳の時に東に向かって手を合わせ「南無仏」と唱えたと記されている。中世のころにはさらに話が広がり、手のひらの間から舎利宝珠(しゃりほうじゆ)がこぼれ落ちたという伝説も語られるようになる。本像はこの伝説の聖徳太子二歳像のなかでも特に優れた像とされている。

如意輪観音菩薩坐像   木造    室町時代

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優しげな面持ちと、水晶をはめ込む「玉眼」(ぎょくがん)と呼ばれる方法で造られた切れ長の目がひときわ美しい像である。奈良時代から聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである、という信仰が広まっており、本像は元興寺に浸透していた聖徳太子信仰をもとに鎌倉時代末ごろ造られたものと考えられる。如意輪観音は中世以降、女性を救済する変化観音(へんげかんのん)として信仰されるようになった。元興寺には「夫婦離別祭文」のような女性の立場から書かれた祭文ものこされており、如意輪観音信仰の背景には女性の信仰も垣間見える。

重要文化財  弘法大師坐像   木造    鎌倉時代

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寄木造の坐像で、像内に五色の舎利や愛染明王(あいぜんみょうおう)印仏、正中2年(1345)の年号を持つ「結縁交名状」(けちえんきょうみょうじょう)などが納められていた。大師450年遠忌にあたる弘安7年(1284)ごろに造られたと考えられ、納入品は後に修理の際に入れられた可能性がある。元興寺禅室にあたる「春日影向の間」に毎日春日明神が鹿に乗って現れ、智光曼荼羅と舎利を護ったので、弘法大師空海がこれを勧請(かんじょう)して春日曼荼羅を描き、併せて自らの像を作ったと記されている。春日信仰を介して弘法大師信仰が元興寺に息づいていたことがわかる。

 

昭和18年(1943)から36年(1961)まで行われた元興寺禅室・極楽堂などの解体修理と防災工事に伴う発掘調査で約10万点に及ぶ中世の庶民信仰資料が発見された。その性格解明と資料を後世に長く伝えるための保存処理を目的として、昭和36年(1961)に研究所の前身となる中世庶民信仰資料調査室を立ち上げた。その後、関連資料の調査研究を進めながら、「出土品の保存処理と文化財に関わる様々な研究」を行う民間機関として、昭和42年(1967)に文化財保護委員会から「財団法人 元興寺仏教民族資料研究所」として認可を受けた。さらに、発掘調査の増加に伴って全国各地から発見された埋蔵文化財や民俗文化財の保存処理を受託できる機関として整備され、昭和50年(1975)に生駒市大乗寺境内に保存科学センターを新設した。昭和53年(1978)には文化財全般の保存処理や調査・研究に対応するため、法人名を「財団法人 元興寺文化財研究所」と改名し、さらに平成25年(2013)公益財団法人として認定され、より公益性の高い事業展開を進めている。なお、奈良市南肘塚に平成28年10月に「総合文化センター」として移転した。(なお、大乗寺にも、文化センターは残っている。)元興寺は、本来わが国の最古の仏寺であり、蘇我氏の氏寺として建設されたお寺であり、その由緒は古く、日本書記にも出てくるお寺である。それが奈良遷都とともに元興寺(もとおこるてら)としう失礼な名前を付けられて、1400年の後まで受け継がれているのである。その名誉ある元興寺が、中世の庶民信仰資料の保存を目的として「中世庶民信仰資料調査室」を立上げ、現在は「公益法人 元興寺文化財研究所」として生駒市に現存する。長い歴史の中で、貴族信仰ではなく、庶民信仰資料調査を初期の目的として、更に「文化財研究所」として、生き残っている。蘇我氏の実に長い1400年以上に亘る長寿の有様である。日本というもの持ちの良い国の歴史を垣間見る思いがする。そういう意味でも、奈良見物の際には、是非元興寺にお参り頂きたい。

 

(本稿は、図録「わかる!元興寺」、梅原猛「隠された十字架」、探訪日本の古寺「第12巻 奈良三」、野間青六「日本美術辞典」を参照した)

元興寺(がんごうじ)  極楽堂・禅室と境内

日本書紀・朱峻天皇元年(588)に、飛鳥の地に巨大な寺院が建立された模様が、次のように書かれている。「蘇我大臣亦(ま)た本願(ねがひ)の依に(ままに)飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)を起つ(たつ)。」即ち、崇峻天皇元年に法興寺を起工したのであり、日本書紀では、法興寺、飛鳥寺、元興寺の3つの名称を持つ寺である。この日本で最初に建てられた法興寺は、1基の塔に3つの金堂を備え、金銅でできた釈迦如来像(現在の飛鳥大仏)、石でできた弥勒菩薩像、刺繍の仏画をそれぞれ本堂の本尊とした本格的な寺院である。やがて都は飛鳥から藤原京へと遷る。「続日本紀」によれば養老2年(718)に飛鳥の地にあった法興寺を平城京へ遷したという記録が見られる。この移築に関しては、元興寺極楽坊本堂の建築材を年輪年代法で測定したところ、法興寺創建に近い588年頃に切られた木材であることが判明したので、寺の移転は間違い無い事実である。しかし、飛鳥の地には、その後も飛鳥大仏を祀る飛鳥寺が存在しているので、移建に際しては金堂以外の僧坊などの周辺建物を解体移築したものであろう。なお、元興寺は、平成10年(1998)にユネスコの世界文化遺産の一つに登録されている。

重要文化財  東門  木造建築物   室町時代初期(14世紀)

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元興寺の正門である。一間一戸の四脚門という構造形式で、屋根は本瓦葺き、もとは東大寺西南院(さいなんいん)にあったものを応永年間(1394~1428)に移築した建物で、応永18年(1411)と箆書きされた瓦が使われていることから、室町時代初期まで遡る建築と考えられている。

国宝  極楽堂(本堂) 木造建築物  奈良時代(8世紀)

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養老2年(718)に飛鳥から平城京に移築された元興寺は、現在、本来僧侶の居住施設であった僧坊である。極楽堂(坊)も、この僧坊の一部が「極楽坊」として発展したものである。元興寺の僧坊には「智光曼荼羅」と呼ばれる極楽浄土を描いた絵(曼荼羅)が置かれている。平安時代以降、阿弥陀仏のおられる浄土への信仰が高まり、浄土の姿を見ることが出来るこの曼荼羅(まんだら)に対する信仰が盛り上がり、多くの人々がここへ訪れるようになった。その結果、元興寺の堂舎が次々と衰退していくなかで僧坊の一部のみが「極楽坊」として発展していったのである。

国宝 極楽堂(本堂)  木造建築物   奈良時代(8世紀)

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極楽堂を南側(庭園側)から眺めた写真である。屋根に黄色い瓦が見えるが、行基葺き(ぎょくきぶき)伝わる瓦であり、飛鳥時代の瓦と伝えられている。

国宝  極楽堂(本堂)内陣  木造建築物  奈良時代(8世紀)

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曼荼羅堂(まんだらどう)とも呼ぶ。東を正面とし、桁行(けたゆき)・梁間(はりま)ともに六間で、正面に一間の通り庇(ひさし)が付く本瓦葺きの建物である。「寄棟造(よせむねつくり)」で、妻入り(つないり)」という珍しい建物であり寛元2年(1244)に東室南階大房(ひがしろなんかいだいぼう)(僧坊)の東半分を切り離して改築し、今の姿になった。この建物の最も重要なところは、堂内中央に僧坊時代の一房がそのまま取り込まれていることである。まさにこの一房が、極楽坊と呼ばれた智光法師(ちこうほうし)がおられたと伝えられる房そのものであろう。改築後は、中央一間を方形に囲って内陣とし、その中央やや西寄りに須弥壇(しゅみだん)と厨子(ずし)を置く。さらに周囲を拾い外陣(げじん)が取り巻き、「念仏講(ねんぶつこう)」など多くの人々が集うことを可能とした。この改築を契機として納骨の場へと発展し、極楽往生を願う多くの人々が集い、祈る場へと変化したのである。

重要文化財  智光曼荼羅厨子  絹本着色   室町時代(15世紀)

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通常、寺院の本尊は仏像であるが、元興寺極楽堂(本堂)には智光曼荼羅(ちこうまんだら)が本尊である。智光曼荼羅とは、奈良時代、元興寺で学んだ僧侶・智光法師が夢で見た極楽浄土の様子を描かせた図のことであり、青海曼荼羅、当麻曼荼羅とともに日本三大曼荼羅と呼ばれている。そのため、それが安置された堂に極楽坊・極楽堂の名が付けられた。平安時代末期より極楽往生を願う浄土教信仰(じょうどきょうしんこう)が広がり、それによって智光曼荼羅が脚光を浴びるようになり、「七大寺日記」などの貴族の日記や「覚禅抄」(かくぜんしょう)などの仏教書にしばしば登場する。これらに智光曼荼羅が、約一尺(約30cm)四方のものであったと書かれている。このように智光曼荼羅の正本は奈良時代から、元興寺極楽坊で大切に守られてきた。しかし、宝徳3年(1451)土一揆により起きた火災で元興寺周辺が罹災した際、難を避けるため禅定院(ぜんじょういん)に移された智光曼荼羅は、建物もろとも焼亡してしまった。しかし、元興寺には様々な智光曼荼羅写しが存在していた。この厨子入本は、約50cm四方の大きさで絹の布に描いた絹本着色板貼りのもので、春日厨子に納められている。明応7年(1498)頃の成立とされる。これ以外に板絵本(重要文化財)、軸装本、尊覚開版本等が残っている。

国宝  禅室(僧坊)  木造建築物   鎌倉時代

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元興寺僧坊の姿を伝える建物である。旧僧坊の平面を生かし鎌倉時代に改築したものだが、細部に当時の埼信様式であった「大仏様」(だいぶつよう)を巧みに使用している。桁行4間、梁間4間で平屋の切妻造、本瓦葺き。屋根の一部に飛鳥時代の瓦を使って、行基葺き(ぎょうきぶき)を復元している。室内は南、中央、北と三室に区分されていたと考えられている。現在は、東側3房分を大きな部屋にしているが、西側の一室は僧坊時代の様子を復元している。

講堂の礎石(うち1組)  3個在り    鎌倉時代

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綜合収蔵庫の北側に並ぶ三基の礎石は、平成10年(1998)に奈良市教育委員会が中屋敷町で発掘調査を行った際に発見したものである。礎石は江戸時代始めに穴を掘って埋められていたものと考えられる。いずれも上面に直経80~90cmほどの柱座を持つ。礎石の上には柱座と同規模の太さ80~90cmもの柱が立てられていたと想定でき、講堂がいかに立派なものであったかを想像できる。

浮図田(ふとでん)   鎌倉時代~戦国時代

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元興寺を訪ねると、まず目に付くのは境内に整然と並べられた石塔である。これらは近年まで禅室の北西部石舞台に積み上げられていたものであるが、昭和63年(1988)現在の形に並べ直され、浮図田(ふとでん)と呼ばれている。因みに浮図とは仏陀のことであり、文字通り仏像、石塔が稲田のごとく並ぶ場所という意味である。これらの石塔には様々な形態のものが存在する。もっとも目に付くのは5つの部品を組み合わせて造る「五輪塔」(ごりんとう)である。五輪塔は密教の教義をもとに作り出された塔で、地・水・火・風・空という宇宙を構成する五大要素を体現し、大日如来(だいにちにょらい)と阿弥陀如来を塔の形で表したものである。

舟形五輪塔    戦国時代~江戸時代前期

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この「五輪塔」と、数は少ないが「豊筐印塔」(ほうきょういんとう)の二つの塔の形を舟形の碑に浮彫や線刻したものを舟形五輪塔板碑(ふながたごりんとういたひ)と呼ぶ。この板碑は戦国時代から江戸時代前期に多い。興福寺大乗院の菩提寺墓所の一つとなっていたので、僧侶の石塔が多い。

その他の石塔

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このほかに箱型の枠内に阿弥陀や地蔵を浮彫した地蔵石龕仏(じぞうせきがんぶつ)、自然石に文字を刻んだ自然石碑など様々な種類の石造物が、浮図田以外にも境内に置かれている。江戸時代以降の法柱状のいわゆる「墓石」がほとんどないが、これは江戸時代前期に元興寺が徳川家のための祈祷を行う寺(御朱印寺ーごしゅいんじ)として指定されたことで、通常の町民の墓寺として機能しなくなったことによるものである。

国宝 薬師如来立像 木造 素地 平安時代(9世紀) 奈良国立博物館寄託

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平安初期の木彫りの代表作である。羅髪や両手首先を除き、足元はもとより台座の蓮肉部まで含めてカヤの木の一材から彫成する。肩幅の広いゆったりとした体型、渦文(かもん)や翻波式衣文(ほんぱしきえもん)を駆使した、深く自在に刻まれた衣のひだ、腹部や大腿部の充実した肉取りなど、存在感あふれる造形である。伝来は不明であるが、江戸時代には元興寺の五重塔に安置されていた。

重要文化財 十一面観音菩薩立像 木造 漆箔 鎌倉時代(13世紀)奈良国立博物館寄託

 

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左手に華瓶(けびよう)を握り、下げた右手に錫杖(亡失)を執る長谷寺式の十一面観音立像。左耳上の頭上面は奈良時代末~平安時代初期制作の乾漆造。左胸の条帛に表された渦文(かもん)や、深めに刻まれた徑部の衣文、膝付近をわたる天衣の装飾的な表現など、やはり奈良~平安初期の像に通ずる要素が認められ、古像の復興像としての性格をもつもの。本像の作風は、鎌倉時代前・中期に南都を中心に活動の知られる仏師善円の作風にきわめて近い。国宝、重要文化財が なぜ総合収蔵庫に納められていないのか、不思議である。

 

日本最古のお寺の歴史を引き継ぐ元興寺は、現在では小さな寺域になっているが、かっては「ならまち」の下に埋もれ、その確かな文物は残り少なくなったが、三ケ所の史跡(極楽坊境内・塔跡・小塔院跡)と、関連する重要文化財や町名などに往時を偲ばせるものがある。平安時代末期より極楽往生を願う浄土信仰が広がり、智光曼荼羅が脚光を浴びるようになり、平安貴族や庶民から篤く信仰されるお寺として栄えた。しかし、寺院としては戦国時代の終わりに近い時代に、元興寺中枢部が町になり始め、江戸時代に入ると急速に都市開発が進むようになった。その背景は、織田・豊臣政権が奈良に進駐することを契機に、それまでの元興寺を支えてきた古い権威が奪われてゆき、江戸幕府の成立でこれが決定的になったというところではないだろうか。東大寺、興福寺を訪れる人は多いが、この元興寺こそ、日本一古い歴史を持つ寺であり、中世には庶民信仰の拠点でもあった。興福寺の下、猿沢池の南にある元興寺を、是非奈良見物の際に加えて頂きたい。元興寺の名称は、「仏法元興之場 聖教最初之地」に由来し、法興寺(飛鳥寺)を前身とする、わが国仏法興隆を願った歴史、基礎仏教の初傳を誇った寺名を有しているのである。

(本稿は,図録「わかる!元興寺 2014年」、、図録「なら仏蔵館 名品図録 2010年」、図録「なら仏蔵館 名品図録 2016年」を三照した)

RE 又造    加山又造展

加山又造は、私が最も好きな日本画家の一人である。今回奇妙なRE 又造という展覧会が恵比寿のEBIS303イベントホールで開催された。一応主催者はテレビ東京、グッドスピード、企業家俱楽部、有限会社加山が名前を連ねている。日経新聞のガイドワイド爛(2018年4月6日号)で「RE 又造」(4月11日~5月5日)、恵比寿・EBIS・303イベントホール。戦後の日本画界をリードした加山又造の華麗な屏風絵や版画を中心にした展覧会。現代作家による最新技術を使った映像演出も見どころ。入場料2000円)という記事を見付けて、僅かな時間を割いて、見学に行ってきた。主催者が誰か、絵葉書はあるか、図録はあるか等基本的知識も無しに見学に行った。私見としては、面白い「加山又造展」であり、記録に残す価値があると判断し、「美」に採録した次第である。加山氏の代表作は一応網羅していると思うが、絵画そのものではなく、映像を中心に構成した美術展であった。加山又造は、京都市生まれ。父は西陣織の衣装図案を業としていた。京都美術学校工芸科を経て、1949年に東京美術学校を卒業し、山本岳人に師事した。各種展覧会に出展し、新人賞等を多数獲得している。何時の間にか、日本画の大家となり、1966~72年には多摩美術大学教綬をつとめる。1973年日本芸術大賞を受賞した。1974年に創画会が結成され、同時に彼も会員となる。私は、加山又造は現代の琳派と位置付けている。1927年生まれ、2004年死去。享年76歳。2003年に文化勲章を受章している。なお、作品の順序は「出品目録」の番号に従って、年代順ではない。

倣北宋寒林雪山 紙本墨画  六曲一双  1992年   個人蔵

古今東西のさまざまな画業をあさりつくした加山が、晩年になって最も心を傾けたのは、古代中国の水墨山水画であった。傾倒はまず、南宋から元にかけての書家から始まったが、究極的には、北宋時代(960~1127)の画家、李成(りせい)、范寛(はんかん)、郭熙(かくき)などの作品であり、語り出すと止まらなくなる程であった。この「倣北宋水墨山水雪景」は、北宋水墨山水に倣った2作目のの作品である。タイトルの倣は「ならう」の意味である。古名画の真意をくみとり、咀嚼しようとする積極的な試みをいう。単なる模倣ではない。「その絵画性は神仙思想を帯びて怪異だが、高い精神、境地の表現となっており、実に素晴らしいというほかない」と加山は語っている。「倣北宋水墨雪景」では、画面中央奥に屹立する屏風のような堂々たる山塊を大きく配し、見る者との間に巨大な空間を設定している。中国の画論にいう、高々と見上げる「高遠形式」の画法山水画で、范寛の特色とされた。この作品について加山は、「北宋水墨山水の実験的倣作は、前年に引き続きこれが二度目である。この作では発想をより自由に延ばして雪景にしてみた。しかし、苦心を重ねながら、考えていたほどのスケールを得るに至らないたらなかった。再び試みて、苦い経験を乗り越えねばならないと思っている」と述べている。常に自信満々に見えた加山が、多少の苦渋の念をここに吐露したことは珍しい。

おぼろ 紙本彩色  四曲一双  1986年   個人蔵

「おぼろ」では染職工芸の「ろうけつ染め」の手法を使っている。加山は、この頃から自分の生まれ育った京都の文化、その優雅さや凄み、自分のルーツというものを意識し始めたような気がする。円山公園のしだれ桜を月夜に描いたものである。月に雲がかかっているのはリアルである。

狐 紙本彩色  額装   1942年    広島県立瀬戸田高等学校蔵

御子息の話によれば、加山は動物が好きで京都にいた時も動物園に通って写生をされたそうである。東京美術学校在学中は上野動物園に通いつめて動物の写生を繰り返していたそうである。しかし、この狐は、動物園に飼われた狐ではない。野性味あふれる狐で、こんな孤高の狐は見たことがない。極めて攻撃的で、誰にも馴染まない、個性あふれた孤高の狐である。これだけ魅する狐は少ない。

黒い鳥  紙本彩色  額装    1959年       個人蔵

ご家族によれば、「特にカラスは山ほど描いていました。興味をそそられた存在だったようです。カラスに対して父はシンパシーを感じていたように思います。あるいは自画像の積りで描いていたのかも知れません。父は生来、体が小さくて左利き、子供のころは喘息持ちでみんなにいじめられていたそうです。人には明かさなかったのですが、かなり強いコンプレックスを持っていました。それを払拭させたのが日本画家の横山操先生でした。それまでは内面に向かうような絵を描いていた父が、自分の想いを画面にぶっつけるようになりました」しかし、この「黒い鳥」は、私から見ると、決して内向的な絵では無い。むしろ攻撃的な激しい鳥の性格が現れているように思う。素晴らしい絵では無いだろうか。闘争心を感ずる。

冬  紙本彩色   1957年         東京国立近代美術館

辻惟雄氏は、この「冬」はブリューゲルの影響が見て取れると言われる。枯れた樹木を厳しい感じで描いているそうである。確かに、冬枯れの野原に狼が吠え、鳥が舞っている姿は厳しい冬を感じさせる。洞窟壁画やシュールレアリズムの影響を受けていると先生は言われるが、私は、そんな昔の話ではなく、現代の厳しい孤高を感じずにはいられない気がする・

火の島  絹本着色  六曲一双    1961年   今治大三島美術館

(この絵は最大の絵で各(167.6×261.0)で、3つに分割して写真を入れてみたが、どうしても2枚しか入らないので、止むを得ず、一番左の長い裾野の部分をカットして2枚に収めたので、全体像を表していないことをお断りする。)この「火の島」は、噴煙の桜島を描いたものである。海上には雄大に突き出た火山が、地球の遙か奥底から高温の溶岩と高圧のガスを天空に吹上げ、轟音を響かせている様は、非常に美しいと加山は語っている。以来加山は、火山にひかれ、数えきれないほど登り火山を描いた。ひとつことに凝ると、とことんまで突き詰めないと済まない人だった。この絵は、初めの金屏風への制作だった。画商は「しっかりしたつくりの金屏風を見つけたから、思い切って描いてみたら」と置いていってくれたものという。絹本に純金のやき箔が落ち着いた光沢を放っていた。それは凄絶な豪華さで、それを最大限に生かすには火山でなければならず、装飾様式のものでなければならないと画家は腹をかためた。折しもこの頃、加山は横浜・鶴見の自宅にアトリエを新築した。六曲一双の高さ1.6メートル、一双で幅7メートルの大画面をゆったりと広げることができるようになったのである。得意を胸に、「ともかく強引にねじ伏せるように画面を作った」と意気込みのほどを述べている。用いる色も金、赤、プラチナに限り、「どこまで轟くものの強烈さを出したかった」という。心の高ぶりが伝わってくる。加山は「私は私の絵の中にいつも生命があるようにと念じながら毎日を送っている」と述べている。彼の作品には強烈な生命感がみなぎっている。その「絵の中の生命感」とは中国の言葉を使えば「気韻生動する画面」のことではないかと思う。

月光波涛 紙本墨画  四曲一双  1979年     イセ文化基金

加山は、父の内懐(うちぶところ)に、カンガルーの子供のように鎮座して、目の前の紙を眺めて育ったといわれる。父親の懐を離れた加山は、父の仕事部屋で、図案志望のお弟子さんたちに遊んでもらいながら、一日を過ごしたという。虚弱体質に生まれた加山は、中学生になるまでは、体のどこかが痛かったと述懐している。「子供心に、このやっかいな肉体と折り合って生きていくいためにはどうしたらいいかと真剣に考えた。そして、何かをあきらめるしかないと悟った。まわりの人が望んで可能なことでも、私には無理なことがある。だから努力をしても、人なみの事は望まないことだと、そう私は開き直ったのだ」と書いている。加山はそうしたコンプレックスをバネにして、終生、不屈の闘志で生き抜いたのだと思う。この「月光波濤」について、98年の図録で次のように記している。「和紙に胡粉の上澄みを数度引き、エアガン、バイブレーター噴霧器、染色的手法、数種類の銘墨の併用、と、現在自由に出来るあらゆる手段をぶち込んでみた。私は、音にならぬ音、停止した動感、深い、しずけさを表現してみたいとおもった、」この浪のしぶきの表現は、北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」をしのぐ快挙だと思った。画面中空にふわりと浮かぶ月は、単なる点景の域を超えて、さながらスパームーンの威風堂々の姿をしのばせる見事な存在感である。

春秋波濤  絹本着色  六曲一双   1966年   東京国立近代美術館

この絵画は、国立近代美術館で何度か拝観したことがある。今回は、別に4重のガラス板で紅葉の山、満開の桜、黄色い波の山、の3種の山を4枚のガラス絵に表現して、立体的に見せる工夫をした部屋があった。こんな企画も、今回の展覧会の面白さであった。六曲一双屏風のひとつの画面の中に、満開の桜の山と紅葉の山、つまり春と秋の情景が一緒に描かれている。現実にはありえないこの表現は、大阪・金剛寺の「日月山水図屏風」(室町時代)が四季を屏風一双に現しているのに触発されたものだろう。本作では、技法的にも載金(きりがね)など伝統的な技法を駆使されている。二つの山の間でうねる波は様式化されているが、その表現には逆遠近法が駆使されている。加山は、1960年代に入ると、やまと絵や琳派の伝統に基づきつつ、それを現代的に捉え直し、自然を装飾的に再構成する方向へと進んだ。晩年には水墨の世界に取り組んだ。

身延山久遠寺天井画 墨龍  紙本墨色    1984年  身延山久遠寺

法華宗の本山、久遠寺には、天井画の墨龍と、襖絵がある。10年ほど前に私は、家内と久遠寺を訪れたことがある。残念ながら、加山又造の作品があるとは知らず、展望のみを楽しんできた。今回初めて天井画の墨龍を拝観することができた。日本画家として、最後には山水画にたどり着き、お寺の天井龍と襖絵を描いたのであろう。縦9M、横9Mの大きさは、天龍寺に比較すると、やや小さめである。日本画家は大成すると、不思議にお寺に作品を遺すものである。色はやや黄身がかかっているのが特徴かも知れない。

天龍寺 法堂天井画 雲龍図  白土墨画  1997年  臨済宗総本山天龍寺

加山は、次のように述べている。「水墨画。それは中国五千年の歴史に輝く、全人類的意味で最高の絵画表現である」(加山又造全集第4巻)この言葉通り、晩年になって「倣北宋水墨山水風景画」等を描いている。最晩年の作が、この天龍寺 法堂(はっとう)の雲龍図である。畢生の大作である。天井は縦10.6M、横12.6M、厚さ3センチのヒノキの板159枚を張り合わせ、全面に黒の漆を施し、白土を塗った上に龍を描いた。この絵の制作のため、加山は、神奈川県藤沢市鵠沼に、小ぶりの体育館ほどもあるアトリエを提供してもらった。加山は「私の履歴書」(日経紙)の中で、次のように述べている。「私は生まれつき体の小さいせいもあって、大きな絵を描くことにかぎりないあこがれを抱いてきた。大きな絵を描いてみたい。それは幼い頃からの素朴なねがいであり、生きがいのようなものだった」と述べている。最晩年になり天龍寺の雲龍図を描いたことは、加山の画家としての最後を飾るに相応しい絵であった。天龍寺は渡月橋から近いのため、非常に行きやすいお寺であり、雲龍図は公開しているので、京都へ行く機会がある方には拝観をお勧めする。

黒い薔薇の裸婦 紙本彩色  四曲一双   1976年  東京国立近代美術館

加山の子息の加山哲也氏(画家)は、次のように回想している。「黒い薔薇の裸婦」という裸体像では、シルクスクリーンを使用したのですが、そのことも大論争を巻き起こしました。しかし、父は(これほど使いやすい技法が光琳や宗達の時代にあったら必ず使っていたはずだ。現在に生きる私たちだからこそ使える技法なのだから、大いに使うべきだ)と言っていた。そういう父でしたが、筆遣いの名手でありました。私が父に最初に言われたのは、(日本画は線一本であらゆるものを表現できる。細くて強い線、細くて柔らかい線、太くて弱い線など、様々な線を使い分けられるように練習をしなさい。祈りのこもった線を画けるようにならないと絵描きにはだめだ。たとえ一本の線でも祈りを込めて描けば、観者はそれが地平線なのか水平線なのか、たちどころに理解する)と言われました。線に関する一家言を持った画家でした。」

 

加山又造は、私が最も好きな日本画家の一人である。しかし、残念ながら、今日まで「加山又造展」を見たことが無かった。今回「RE又造」と題する変わった加山又造展を見学した。図録は写真のみで解説はない。展覧会場でも、各々の絵画にはコメントは一切無い。光線を使って加山の世界を再現することは珍しく長けている絵画展であり、「RE又造」という名称も変わっている。何か前衛芸術の世界に招かれた感覚であった。しかし、永年望んだ加山又造展には違いない。展示された作品には満足した。出来れば、国立近代美術館等が開催する「加山又造展」を見てみたい。

 

(本稿は、図録「RE 又造展   2018年」、「ONBEAT 2018年12月号」、日本経済新聞社2018年2月4日、2月11日「美の粋」、「名品選」東京国立近代美術館、を参照した)

プラド美術館  ベラスケスと絵画の栄光

私は、プラド美術館よりもベラスケス(1599~1660)の絵画見たさに、この展覧会を見学した。ベラスケスは、私の記憶する一番最初の西洋画家であり、スペイン王家の宮廷画家として記憶に残っている。それは、父が買い求めた「西洋美術全集」のなかの、スペイン王家を飾る一番素晴らしい絵画がベラスケスであり、王家の一家の中の可愛い王女を描かれた「ラス・メニーナス」(1656)を是非拝観したいという小学校時代の思い出の名画を見る為に、出かけたのである。70点近い絵画を見た最後に、私の希望した絵画が無いため、学芸員に説明を求めたところ、その絵(「ラス・メニーナス」)や、他の王家一同の絵画は、プラド美術館の至宝であり、外部に貸し出したことは一度もないとのことであった。希望が叶わずがっかりしたが、それでもベラスケスの絵画7点も見られたので、一応満足して美術館を出ることが出来た。さてプラド美術館は、スパイン王室によって収集されたスペイン、イタリア、フランドル絵画を中心に、1819年に王立の美術館として開設されたものである。この展覧会は、日本とスペインの外交関係樹立150周年を記念して、プラド美術館の収集作品のうち、ベラスケスの作品7点を軸に、17世紀絵画の名作61点を合せて、約70点を紹介するものである。プラド美術館は現存する約120点のベラスケス作品のうち約4割を所蔵しているが、その重要性のゆえに館外への貸し出しを厳しく制限している、そうした中で日本において7点もの傑作が一堂に展示されるのは、特筆すべきことである。(この部分は、図録の「ごあいさつ」より引用した。これさえ知っていれば、「ラス・メニーナス」が展示される訳がないことが、事前に理解できた。)これに較べると、日本は、フランスへ「鑑真和上像」を貸し出したことがある。これはフランスが日本に「モナ・リザ」を貸し出してくれたお礼であると聞いたことがある。17世紀のスペインはベラスケスを始めリベーラ、スルバランやムリュリョなどの大画家を排出した。彼の芸術を育んだ重要な一因は、歴代スペイン国王がみな絵画を愛好し取集したことがあげられる。国王フェリペ4世の庇護を受け、王室コレクションのティチアーノやルーベンスの傑作群から触発を受けて大成した宮廷画家ベラスケスはスペインにおいて絵画芸術が到達しえた究極の栄光を具現化した存在であった。本展はフェリペ4世の宮廷を中心に17世紀スペインの国際的なアートシーンを再現したものである。

ファン・マルテネス・モンターニスに肖像 ベラスケス作 油彩・カンヴァス1635年頃

この作品は、画家が制作中の彫刻家の肖像を描くという、珍しい作品である。描かれているのは、16世紀末から17世紀前半、セビーリヤで最も重要な彫刻家の一人であったモンタニュースとされている。ベラスケスが修行時代を送っていたときには、すでに名を知られた彫刻家であり、ベラスケスの師であるフランシス・パチェーコとも親交があった。彫刻家は、繻子のようなつやのある黒い宮廷服に身を包み、右手に箆を持ち左手で粘土像支え、胸を張り姿勢を正した半身像で描かれている。彫刻家が制作しているのは国王フェリペ4世の頭部の粘土像である。この像は、ブロンズによるフェリペ4世騎馬像を制作する際の参考として、フィレンツェの彫刻家ピエトロ・タッカのもとに送られたものと考えられる。国王と一面識もない、イタリア彫刻家に送るための胸像制作が、モンタニエースに委託されたのである。ようやく無事に完成したタッカの彫刻は、現在マドリード王宮前のオリネンテ広場の中央に堂々としたその姿を見せている。

聖ベルナドゥスと聖母 アロンソ・カーノ作 油彩・カンヴァス1657~60年

簡素な礼拝堂の中で、祭壇の前に白衣の修道士が跪き、祀られた幼子イエスを抱いた聖母マリアの彫刻が乳房から彼の口をめがけて母乳を注いでいる。手前には、聖人に向かって手を合わせて祈りを捧げる目撃者が描かれている。この一風変わった場面に、私は驚いた。この場面は、12世紀にシトー会修道院長を務めた神学者クレルヴォーの聖バルナンドスの生涯にまつわる、神秘の授乳の物語を表している。それは幾つかのヴァージョンが伝わるが、本作が依拠しているのは1119年にフランスのシャチヨン=シュル=セーヌという町のサン・ヴォルル聖堂で起こったものとするものだろう。マリア信仰のあついことで知られたベルナルドゥスが彼女の前に祈りを捧げ、いつもより熱意を込めて「あなたは母たることをお示しください」と口にすると、彫像が生を得て動き、3滴の乳をペルナンドスの唇に垂らせた、というものである。この幻視の逸話は13世紀末のスペインで創案されたとみられ、その後17世紀末の同国において、マリア信仰の高まりとともに頻繁に表されるようになった。本絵画は、当時のスペイン彫刻が単なる美術作品ではなく、どのような力を持つと見られていたかについて、端的に教えてくれている。

メニッポス ベラスケス作 油彩・カンヴァス  1638年頃

髭を生やした老人が外套を羽織りこちらに背を向けて立ち、今にもその場から去らんとするかのようである。肩越しに我われの方を振り返っている。彼の立つ空間は室内であることだけが漠然と理解され、彼の足元には広げられた本や壺などが雑然と並んでいる。この男は、18世紀初頭の財産目録の記述、および画面左上に記された銘文(ベラスケスの手によるものではない)から、古代ギリシャの犬儒学者派の哲学者メニッポスであることがわかる。かれはかって奴隷で、その後金貸しとして財をなすもののそれを失い、自ら命を絶ったと伝えられる。本作はマドリード近郊にあった狩猟休憩場の装飾として、寓話作家として名高いイソップと対をなすべく、ベラスケスによって描かれた。トーンの装飾全体にいかなるプログラムがあったかのか、そしてそれをどのようにしてベラスケスが制作に関与したのか、詳しい経緯はわかっていない。

マルス ベラスケス作 油彩・カンヴァス   1638年頃

本作は、エル・バルドの森にあった狩猟休憩場のために制作された。国王フェリペス4世は狩猟を好み、1636年にはこの狩猟休憩場の内部装飾のためにルーベンスとその工房にオウイディウスの「変身物語」、古代の哲人、狩猟や動物を主題とした作品など100点を超える作品を依頼している。この塔の装飾のため、ベラスケスはメニッポス、やイソップに次ぐ古代世界3人目の人物として、軍神マルスを描いた。「マルス」という主題は、王家の狩猟のための休憩室にはふさわしい主題と言える。狩猟は、平和の時代にあって「戦い」の疑似体験でもあった。フェリペ4世をはじめ、ハプスブルグ王家の人々が狩りを好むようになったのは、そのような伝統があったからである。本作で画家は軍神マルスをあくまでも現実の戦士と捉え、その疲れ切った姿を描いている。戦いから戻り、鎧を脱ぎ武器を置いた戦士の姿である。このマルスの姿をフェリペ4世と結びつけ、メランコリックなポーズは、疲弊するスペインの姿であるとの解説もある。1640年代、スペインは幾度かの戦いによってその軍事力は弱体化する一方であった。

音楽にくつろぐヴィーナス ティツィアーノ・ヴェチェリッオ作 油彩・カンヴァス 1550年頃

寝台に横たわる裸婦は、クッションにもたれ体を起し、左手で仔犬をあやしている。女性の首元や腕には豪華な装飾品が光る。足元に座る若いオルガン奏者は、左手を鍵盤にのせ、体を大きくひねり、女性と仔犬に視線を向けている。手摺の向うには、ポプラ並木の連なる風景が広がり、サテュロス像の立つ噴水やクシャク、タカジカのつがい、肩を寄せ合って歩く恋人たちがいる。並木道の先には街が見える。本作は、ティツィアーノが繰り返し手がけたヴィーナスとオルガン奏者を主体とする絵画の一つである。裸婦を眺めるオルガン奏者の存在は、観者が自身を奏者に重ね合せ、裸婦を眺めることを促す新たな仕掛けであろう。知的なユーモアと官能性を兼ね備えた本作品は、注文主の期待に巧みに応え、ヨーロッパに広くパトロンを得たティツィアーノならではの創意に満ちた絵画と言えよう。

狩猟姿のフェリペ4世 ベラスケス作  油彩・カンヴァス 1632~34年

マドリード近郊のエル・バルドの森にある狩猟休憩室のために描かれた、狩猟服姿の国王の肖像画である。離宮もあるエリ・バルドの森は、王家の人々が毎年秋になると狩猟を楽しむために必ず訪れた場所であるが、その狩猟の合間の休憩時などに王家の人々が私的に利用する施設が狩猟休憩場であった。17世紀前半に増改築工事が行われ、それに伴なって、無味乾燥な内部の壁を華やかにするための絵画作品が、内外の画家に対して発注された。スペイン人画家としてベラスケスも「イソップ」、「メニッポス」、「マルス」など、10点余りの作品を描いた。本作に描かれた国王フェルペ4世は、制作年代を考えれば、年齢が20歳代後半から30歳頃であり、いまだ体力、気力を失わず、狩猟の腕前も確かであり、政治手腕を発揮して王国スペインを統治した時代で、有能なる為政者としての姿がここにはある。狩猟用の衣装をまとった国王は右手に長い銃を持ち、その銃の横には猟犬を従えている。力強さに溢れた国王の姿である。

バリューカスの少年  ベラスケス作 油彩・カンヴァス 1635~45年

矮人(わいじん)の肖像画である。ビスカヤ地方の出身でその名をフランシスコ・レスカノーといい、1634年に宮廷に上がり、王太子バルタサール・カルロスに仕えたとされている。その出身地から「ビスカイーノ(ビスカヤ人)」とも呼ばれていた。王太子の死から3年後の1649年に25歳で没している。本作はモデルが12,3歳頃だとすれば、1636年頃に描かれたと考えられる。「バリエーカスの少年」という呼称は、1794年に王宮の財産目録作成に際して付されたものである。画面右奥にはマドリード近郊の王家の狩猟場、グアダラマの山系が眺望されるが、この景色はベラスケス作の「狩猟服姿の王太子バルタサール・カルロス」の景色とも重なる。レスカーノは道化や矮人(エナーノ)たちが宮廷で着用していた濃い緑の衣服を着ており、彼が王家の随員であることが明示されている。このように矮人たちは、主人たちの私的な用向きが仕事であった。

王太子バルタサール・カルロス騎馬像ベラスケス作油彩・カンヴァス1653年頃

王位継承者の王太子バッタサール・カルロスの凛々しい公式騎馬像である。王太子は王族の期待と希望を担って1629年10月17日、父国王フェリペ4世とフランス・ブルボン王家から嫁いだ王妃イサベルとの間に誕生した。当時、ベラスケスはイタリア遊学中のために不在で、国王は、幼い王太子の肖像を寵愛の「予の宮廷画家」のみに描かせるよう早急な帰国を心待ちしていたという。王都マドリードの郊外に離宮ブエン・レテイーロの造営が始まった頃である。本作はそれから数年後の1635年頃、ほぼ竣工した休息と娯楽のための離宮レティーロ内でその中核をなす唯一の政治的な空間、「諸王国の間(サロン)」を飾るために制作された。ここは諸外国の大使や要人が必ず訪ねる公的な場所であった。王太子の装いや持物、馬のポーズや彼らを取り巻く清澄な風景を理解するためには、この絵が掲げられる場(トポス)と他の絵画装飾、その機能をひもとくことから始めなければならない。王太子の顔から緑の丘陵に至るまで、自由闊達で簡略化したベラスケス一流の近代的描法が全面的に息づき、賦彩も「絶対色感」のような揺るぎなく、ベラスケスはもう成熟の域に到達している。パノラミックな山岳風景はアルカサル山系の写実であり(季節は3月頃か)、遠ざかるに従いブルーの色調が深まる流麗な空気遠近法が駆使されている。この展覧会の白眉の作品である。

東方三博士の礼拝 ベラスケス作 油彩・カンヴァス 1619年

ベラスケスがマドリードの宮廷に王付き画家として迎えられるのは1623年の秋であるが、その4年前の1619年に故郷のセビーリヤで描いた宗教画が本作である。1920年頃に行われた修復で聖母の足元の石の側面に年紀が発見され、当初は最後の数字の判読に議論があったが、現在では、最後の数字は9と読むことで意見の一致を見ている。描かれた主題は、マタイによる福音書第2章の「東方の三博士(マギ)の礼拝」であり、誕生したばかりの幼子イエスに敬意を表するために、3人の博士が東方から贈り物を携えてやってくるという場面である。伝統的にこの主題を扱う絵画では、幼子イエスを抱く聖母の足元に、3人の中でも最年長のカスパールが跪き、黄金の贈り物を捧げる様子が描かれてきた。しかし、ベラスケスはこの作品で、聖母の目の前の、我々鑑賞者に一番近い位置に跪くのは、年老いた王ではなく若い王であり、この主題の伝統的図像との相違が見られる。余計なモチーフを排除した画面の中で、その一番手前側、右上から左下へ対角線上に配置された聖母、幼子イエス、若い王はとりわけ目立っているが、なかでも画面左上からの光を受けて明るく輝く、白いおくるみを巻かれた幼子イエスは、見る者の注目を強くひきつける。十字架上での磔という未来がまっているのであり、画面右下の隅に描かれたアザミは、その受難を控えめながらもはっきりと示しているのである。

 

プラド美術館の絵画を、ベラスケスを中心に見て来たが、やはりベラスケスは、表面的な写実主義だけでなく、絵画を超越したリアリズムに到達した西洋美術史における最高峰の画家の一人と評価することが出来るだろう。宮廷画家という枠は外せないが、17世紀のスペインを代表する画家の第一人者であったと思う。

 

(本稿は、図録「プラド美術館  ベラスケスと絵画の栄光  2018年」、高橋秀爾「西洋美術史」、木村泰司「西洋美術史」を参照した)

寛永の美  江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽

寛永年間(1624~44)は、参代将軍徳川家光と大御所秀忠によって、幕藩体制の基礎が固められた時代として記憶されているが、文化的にも新たな潮流が生まれた時代として、歴史家の注目を集めてきた。歴史家・林家辰三郎氏は、昭和28年に「寛永文化論ー日本的伝伝統の起源をたずねて」という論文を発表している。簡単にまとめれば、寛永期こそ、中世の文化と近世の文化の結節点であったと主張された。寛永文化論は、暴走華麗な桃山文化の後、いきなり元禄文化が花開いたわけではなく、朝廷、幕府、町衆など各層のサロン的結びつきの中から大きな文化興隆期があったとする見方である。この展覧会では、その造形的な特徴と美意識に特に注目し、「きれい」という言葉に代表される瀟洒で洗練された美をクローズアップしている。まずは、新時代への胎動から見て行きたい。

鹿下絵古今和歌集断簡 本阿弥光悦筆 俵谷宗達画 江戸時代(17世紀)サントリー美術館

もとは「新古今和歌集」巻四、秋歌上の和歌二十八首が散らし書きされた全長20メートルに及ぶ長巻だったが、昭和10年(1935)に裁断されて上下二巻となり、さらに上巻が分割されたものの一つが本作である。巻物形式特有の時間的な展開によって秋の野における鹿の群れの生態を描く。上巻の参場面に当たる本作では、座り込んだ一群の鹿が右上から左下へと斜めに列をなし、光悦の書はそれに呼応するするように描き込まれ、書画一体の趣をなす。現在米国シアトル美術館に蔵される下巻の末に「徳有才光悦」の落款と「伊年」の朱文印があることから光悦書、俵谷宗達下絵の作品と分かる。

蔦下古今集和歌色紙 本阿弥光悦筆 俵谷宗達画 慶長11年 サントリー美術館

金泥のみで蔦の下絵を描き、その上に「新古今和歌集」巻四・秋歌上に所収される前大僧正慈円の和歌を散らし書きした色紙。生い茂る蔦には、顔料や墨の滲みを利用した宗達の特徴的技法「たらし込み」が用いられ、葉の質感が見事に表現されている。その下絵に対して、光悦は蔦の葉の重なりや蔦が垂れる様子に呼応して字の配置や書体を工夫しており、最後の句の「秋」を大きく描いて季節を強調している。文字と絵画が調和した優品である。「慶長十一年十一日」の年紀と光悦の落款印章をともなう一連の作品である。

柳下絵古今和歌集色紙 本阿弥光悦書 俵谷宗達画 江戸時代(17世紀)サントリー美術館

宗達による金銀泥の柳図の上に、光悦が「古今和歌集」巻第五・秋歌下に所収されるよみ人知らずの和歌を記している。柳の葉は水気の少ない金泥で描かれ、鋭利な線で表現された葉先が画面に緊迫感を与えている。一方、大きく描かれた葉などには、水気を含んだ筆が使用され、繊細な滲みやぼかしの表現が見られる。線の肥瘦を見事に使い分けた光悦の筆は上から下へと流れる柳の葉に寄り添うように書かれている。

伊勢物語図色紙「水鏡」近衛尚嗣筆(殿俵谷宗達画)江戸時代(17世紀)サントリー美術館

百二十五段本「伊勢物語」の第二十七段「水鏡(盥のかげ)」を描いた作品である。一夜限りで来なくなった男を恨み悲しむ女が、盥の水に自分の姿が映るのを見て、自分のほかにもう一人物思う人がいた、と歌を詠むところを男が立ち聞きするという場面である。本作は益田鈍翁旧蔵の一連の色紙のうちの一枚で、個々の色紙の作風に異動が認められることから、制作は宗達と工房の絵師による共同作業と見るのが妥当であろう。本作の裏書には「近衛大将様」とあり、これは近衛尚嗣を示すものと考えられている。本作は寛永年間における宗達の画業と、さまざまな文化人たちの身分を超えた交流」を示す点で、寛永文化の様相を良く伝える作品である。

源氏物語画帳 園基副詞 住吉如慶画 江戸時代(17世紀)サントリー美術館

後水尾院(1596~1680)は、その長い生涯の中で朝廷と幕府の関係に配慮しつつ、宮廷文化の再興に力を注ぎ、寛永文化の中心人物として活動した。後水野尾院は率先して和歌を中心とする古典文化の研究を進め、宮廷周辺では古典復興の気運が高まった。ここに示す源氏物語の五十四帖それぞれの一場面は約17センチ四方の小画面に描き、それに呼応した詞書の色紙とともに画帳にまとめたもの。色彩は淡く、透明感があり、優美、精緻な筆で丹念に描き混まれている。各人物の可憐な表情や樹幹の形態、葉の表現など、如慶の源氏絵の典型作例に位置付けられる。「土佐広通」の印からは、制作年代が寛文三年(1863)の住吉派の再興以前であることが分かり、詞書の園基幅の筆跡などと合せて、承応(1652~55)のころの制作と推測される。本作の色彩などから、狩野探幽をじはじめとする江戸狩野派様式と親近感が指摘される。また描かれる殿舎や調度にかんしても、古典からの引用によって復古的な様相を描く場面もあるが、几帳や襖障子の意匠は繊細で装飾的となり、屏風などの画中画も淡彩となるものが多く、寛永期の「きれい」の趣向が混入しているとする見解がある。

小袖屏風 小袖 二曲一双  江戸時代(17世紀) 国立歴史民俗博物館

鬱金色(うこんいろ)の絖地(ぬめじ)大柄な菊花型と帯状の文様を藍で塗り染め分け、菊花型には複数の菊唐草、帯状にはさらに目の細かい鹿子絞を配置している。鬱金の地には単弁の菊花と鹿子絞を配置している。空間をゆったりととり、一つの大柄な文様を中心に据えるところは典型的な寛永小袖の特色である。この小袖については野村正次郎の著した「時代小袖雛型風」目録によると、「後水野尾天皇第三皇女昭子内親王ご着用」と記した在銘の裏裂が存在することが示されており、近衛尚嗣へ嫁いだ後水野尾院と東福文院の次女・昭子内親王所用とみられている。

冠形大耳付水指 修学院焼 江戸時代(17世紀)    滴翆美術館

万治二年(1659)ごろ落成したとみられる後水野尾院の別荘、修学院離宮には寛文年間に窯が築かれた。ここで焼かれた焼物を修学院焼と呼ぶ。この修学院はたびたび皇族や公家に下賜されたことが記録に残っている。「冠型大耳付水指」は、修学院焼を代表する作品として知られるもので、円筒の袴をつけた形が逆さにした公家の冠に似ていることから、このように呼ばれている。左右均整のとれた瀟洒な趣の中に、独特の作為を見せる大きな耳の曲線が美しい。修学院離宮は、公開されているが、1日10人程度と限定されており、中々籤が当たらないことで有名である。私は昭和46年秋に、妻と申し込んで2名とも当選し、修学院全体を見学する幸運に恵まれた。深秋の修学院の山の印象は、忘れることの出来ない美しさであった。一生に一度の幸運であった。

小井戸茶碗  銘 六地蔵  朝鮮   朝鮮時代    泉屋博古館

小堀遠州(1579~1647)は寛永文化を代表する茶人であるとともに、伏見奉行を長く勤め、多くの建築造作も指揮した江戸幕府の有能な官僚であった。そうした演習は、幕府によってもたらされた大平の世にふさわしい、武家の教養としての「大名茶」を目指すべく、さまざまな新機軸を打ち出した。小堀遠州が愛玩した小井戸茶碗の代表作として知られているもので、遠州が京都の六地蔵で入手したことからこの名がついたという。遠州の茶会に井戸茶碗が見られるようになるのは寛永20年(1643)以降のことである。侘茶(わびちゃ)を代表する茶碗が晩年になって登場することには注目される。

共筒茶杓  銘 玉川  小堀遠州作  江戸時代(17世紀) 五島美術館

平安後期の歌人、源利頼の和歌「明日もこむのちの玉川萩こえて色なりなみに月やどりけり」(千載和歌集)より銘を付けた遠州作の茶杓である。遠州は典拠となったこの和歌を筒に定家様式で記し、栓と口にかけて「玉川」の二字を大きく書いている。和歌の連想による見立てや和歌を記す書、そして素材となる竹の選別など、いずれも細心の注意が向けられており、遠州の美意識が凝縮された名品と言えよう。

錆絵富士文茶碗  野々村仁清作  江戸時代(17世紀)  出光美術館

色絵の技法を大成し、京都随一の名工として名高い野々村仁清(生没年不詳)は、正保四年(1647)頃御室仁和寺の門前に窯を開き、御室窯の活動を開始した。そして、この開窯にあたって指導的な位置にあったのが、遠州と同じく寛永期に活躍した茶人・金森宗和(1584~1658)である。宗和は武家や町人、さらには公家とも交流を持ち、彼らに自身のプロデュースした御室焼を斡旋していた。その「宗和好み」が、意外なことに落ち着いた色調と独創的かつ洗練された造形を持つ作品群に行きつく。それらはまさに「きれい雅」のような寛永の美意識を継承・発展させたものと言っていいであろう。本作のような蒔絵白釉茶碗の一群は、金森宗和の指導のもとに作られた御室焼の比較的初期から作られていたものとなっている。それの銹絵白釉茶碗の一群は、金森宗和の指導のもとに作られた御室焼の比較的初期から作られていたものとなっている。それらの銹絵白釉茶椀の描写は、絵画としても風格を備えるものが多く、本作に描かれる富士山図も、三峰形であることや、外隈で描きだされた山容や余白の重視などの点が、当時流行していた狩野探幽の富士図との共通性が指摘される。大変優れた作行きを示すものである。

色絵花輪違文茶碗  野々村仁清作  江戸時代(17世紀) サントリー美術館

全体を碗形に轆轤引きし、腰下に面を取って姿を引き締めている。長石の多い独特の白釉を地軸とし、内外に黒釉を塗る。口縁の外側に銀彩の帯を巡らせ、同部の中幅に赤・青・緑の八個の花輪違文を描き、胴下部には八個の花入り連弁文を並べる。この花違文と連弁文は白釉地に色絵で表さされている。そしてすべても文様において、色と色が接触しないように輪郭を丁寧に縁取っている。本作は宗和好みを継承しつつ、さらに華やかさがくわえられていったものではないかと考えられる。

白釉円孔透鉢  野々村仁清  江戸時代(17世紀) MIHO MUSEUM

白濁釉が薄く掛けられた白一色の器形の側面全体に大小の円孔が無数に開けられた鉢。この穴は専用の工具で開けられたらしく所々に工具を押し付けてみたものの、貫通させなかった跡が残っている。この口縁の処理の違いでバリエーションがあり、真円、木瓜形の作例が確認されている。仁清は実に瀟洒で洗練された姿に再生させている。仁清は明らかに高取焼を意識した造形を追い求めていたことが、本作はその成果が結実したものである。シンプルかつシャープな造形で現代の工芸作品にも引けを取らない斬新さを見せるこの鉢は、色絵と違った面での仁清の真骨頂に位置付けられる作品である。

桐鳳凰図屏風 狩野探幽作 六曲一双 江戸時代(17世紀)

狩野探幽(1602~74)は、狩野派の絵師である狩野孝信の長男として京都に生まれた。幼くしてその画力を徳川家康・秀忠に認められ、本拠地を江戸へ移して幕府の御用絵師として活躍した。徳川政権による新たな時代にふさわしい美を探究したその生涯は、まさに寛永文化の展開に重なるものである。今日、探幽が巨匠とされる理由の一つは、豪壮な桃山時代にかわって、大きな余白と淡彩を主体とする独自の様式を確立し、狩野派の画風を一遍させたことにある。その優美で平明な画趣は、探幽と交流のあった小堀遠州の「きれい寂び」に通じるものがあったと言えるであろう。すなわち、探幽の新様式は、武家や公家と言った枠組みを超えて共有されていた、最先端の「時代の美」であった。本作は数少ない探幽の金地濃彩屏風で、六曲一双の大画面にそれぞれ見つめ合うつがいの鳳凰二組と桐樹、草、流水などを描く。これらのモチーフを水平方向に分散して配置し、緑・紫・赤・茶などの絵具を使って彩色されるが、濃彩は全体にわたるものではなく、淡い色味が多く用いられている。金地、金運で埋められ、金砂子で飾られた余白の中、緩やかに水流が蛇行し、鳳凰がゆったりと舞う。聖人が世を治める時に現れるという鳳凰にふさわしく、落ち着いた晴れやかな画面となっている。この特徴は「本朝画史」に「一変狩野氏」と評価された探幽の新しい構成原理が端的に現れたものであり、完成された探幽様式を示している。

重用美術品 歌仙源氏類人形図鑑 狩野探幽作 一巻 江戸時代(17世紀)京都国立博物館

本作は「時代不同歌合」「源氏物語」「紫式部日記」「枕草紙絵詞」を写した縮図が納められた一巻である。時代不同合は百人の絵歌仙とその上方に各歌仙三首づつの和歌を納めた長大な縮図で、上下二段に貼り付けて歌仙絵は墨画を本体とし、所々に朱や淡彩を加えている。寛文2年(1662)10月9日に制作した縮図で、「中程の土佐筆」と鑑定されている。枕草紙絵詞は旧浅野家の歌本を模写した縮図で、寛文12年(1672)正月11日に制作された。この枕草紙絵詞はほかの縮図とことなり、一段に張付けされている。

 

宗達も屏風も専好の和歌書巻も桂離宮も修学院も、仁清も狩野探幽も、きれいで美しいという美意識の中にあったと言えるであろう。きれいという意識は、桃山の豪放、慶長のかぶきとも異なり、また元禄の展合やさびとも異なる寛永の独自の美の領域を示すものである。慶長20年(元和元年(1615)をもって古田織部に象徴されるかぶきの時代は終わった。このあたりから寛永文化が姿を明確にしてきたといえよう。華やかな寛永期を過ぎて、万治3年(1660)ごろ修学院離宮が完成を見た。その間もなく桂離宮も現在の姿となった。そして延宝8年(1680)に後水野尾院は没した。ほぼその頃には、次に来る元禄文化の足音が時代の相の中に混じってきたのである。

 

(本稿は、図録「寛永の美 江戸宮廷文化と遠州・仁清・探幽  2018年」、図録「生誕400年記念 小堀遠州展  1978年」、陶器講座「仁清」、陶磁体系「第23巻 仁清」を参照した)