山種美術館  生誕150年記念・横山大観ー東京画壇の精鋭

近代日本画の第一人者と言われる、横山大観(1868~1958)の生誕150年と没後60年にあたる本年、山種美縦館の大観作品を一挙公開した。美術館の立地が良いせいか、思いがけない満員状態(2月12日の休日)驚いた。流石に大観人気であると思った・横山大観は常陸国(ひたちのくにー茨城県)に生まれ、1899年に東京美術学校に第1期生として入学し、下村観山、菱田春草とともに、岡倉天心の薫陶のもと、橋本雅邦らの指導を受けた。明治31年(1898)には天心に従って東京美術学校を離れ、日本美術院の創設に参加した。茨城県五浦(いづら)での研鑽時代を経て、天心没後の大正3年(1914)には日本美術院を再興した。天心の遺志を継いで、生涯にわたり新たな日本画の創造につとめ、国民的画家としての評価を確立した。大観は、山種美術館の創立者・山崎種二に最も親しく交流した画家の一人であった。今回は、山種美術館が蒐集した大観コレクション全40点を展示し、更に再興院で活躍した安田靫彦、前田青邨、東京美術学校で学び日展で活躍した山口逢春、東山魁夷など、大観と交流を持った画家たちの作品も併せて展覧した。

楚水の巻(一部・朝) 横山大観作    明治43年(1910)

横山大観が「楚水の巻」「燕山の巻」の水墨画を制作した事情をコレクターであった小津與衛門に宛てた書簡が残っており、これによりうかがい知ることができる。その書簡の大意は次の通りである。「今夏の中国旅行の紀念としてかねてより描いた燕山、楚水の二巻が出来上がりました。二巻のうち楚水の巻は揚子江付近の風景を理想化して描きました。特別な景色ではありませんが、この地方の北方に較べて、概ね湿潤で気候の変化も多いので、全巻を1日のうち、朝、昼、雨、夕の四場面に別けました。(中略)楚水の巻を先に描き、燕山を後に描いたのは、ただ旅行の順序に従ったからです。当画巻の材料は、紙は唐紙、墨は驪龍珠、筆は湖北湖南の羊毫よりできたものなどを使用しました。使ったものは全て中国に関係のある物であります。先ずは長巻が出来ましたので、上に書いたような次第を申し添えたくてしたためました」

燕山の巻(一部・天壇・北京城壁等) 横山大観作  明治43年(1910)

先の手紙の「燕山の巻」に関する部分を引用する。「燕山の巻は南に較べて乾燥しているため、一日の大気の変化を試してみませんでした。また、一日の様子を描くと表現が重複するため、それはこのまなかったので避けました。ただ、燕山の巻には、初めて天壇、北京上壁、景山宮、崇文門を示しました。」(最後略)

作衛門の家 紙本裏箔・彩色・1双 横山大観作  大正5年(1916)頃

右隻に家畜の牧草を刈って家路につく農夫、左隻には木々に囲まれた彼の家が描かれる。馬小屋では馬が主人の足音を聞きつけ、耳をピンと立てて待っているさまが描かれている。画面を覆うように植物が描かれて、その緑青の濃淡によって草深い山村の素朴な情景を際立たせている。明治後期、大観は輪郭線を用いない没線描写による作品を次々に発表し、朦朧体(もうろうたい)と酷評されたながらも日本画の近代化を推進していったが、大正期には伝統への回帰を見せ始める。本作品では、裏箔(絹地の裏から金箔を貼り付ける技法)を用いた木立の奥の仄明るさを表現することに成功している。樹木や笹の葉の自在なタッチに南画の雰囲気をたたえ、鮮やかな緑色にやまと絵風の華やかさが見られる。

喜撰山(きせんやま) 紙本・彩色・軸 横山大観作 大正8年(1919)

第6回再興院展に出品された二曲一双屏風風の「喜撰山」の試作と考えられる作品で、喜撰法師(きせんほうし)の歌「わが庵(いお)は、都のたつみ しかぞすむ よを うじ山と ひとはいふなり」で知られる宇治の喜撰山を描く。金箋紙(きんせんしー裏に金箔を押した鳥の子紙の表面を薄く剥いだもの)を用いた最初期の作品と見られる。地肌にひそんんだ金色を活かした独特の深みのある赤色は、画家が意識的に山肌の赤さを表現するために使用したことがうかがえる。この金箋紙の試みは、常に日本画の革新を目指した大観のあくなき探究の現れといえよう。

叭呵鳥(はっかちょう) 紙本・彩色・軸 横山大観作  昭和2年(1927)

この作品に描かれている破呵鳥とは中国産のムクドリ科の鳥のことである。叭々鳥(ははちょう)・八哥鳥(はっかちょう)とも書き、その名の由来は、飛翔するときに翼の白い斑点が、「八」の字に見える、八つの声で啼くなど、諸説がある。全身が黒く、嘴(くちばし)の元に冠羽(かんむりばね)があるのが特徴である。中国の瑞鳥として親しまれ、花鳥画の主題になっている。日本でも中世以来流派を問わず、花鳥画、あるいは吉祥の画題として描き継がれている。この作品では鋭い眼つきの叭呵鳥(はっかちょう)がイヌビワの木にうずくまる姿を描き、水墨と淡彩によって抑制の効いた画面に仕上げている。

富士山   絹本・彩色  横山大観作   昭和8年(1933)頃     霊峰富士  絹本・彩色  横山大観作   昭和12年(1937)     不二霊宝 紙本金地・彩色 横山大観作   昭和24年(1949)

横山大観は生涯に2000点余りの富士山を描いたと言われている。山種美術館も多数所蔵している。横山大観は富士山について、次のように書いている。(大観画壇等)「私は富士山をよく描く。今も時折描いています。恐らく、今後も描くことになるか、それは私にもわかりません。一生のうち富士山の画を何枚描くことになるか、それは私にもわかりません。自分から進んでいつも富士山ばかり描くというのではありません。富士山、富士山といつでも沢山持ち込んで来られるからです。こんなわけで、今までに沢山の富士山を描いていますが、まだ富士山に登ったことは一度もありません。それにしても富士山が好きです。あの山容がとても好きです・(中略)また富士山を眺める場所によっても異います。吉田口、御殿場、山中湖口から見た富士、みな各々特徴があって、どれをこうということは言えません。(後略)

心神(しんしん) 絹本・墨画淡彩  横山大観作   昭和27年(1952)

「心神」の名に相応しく、どっしりとした神々しい富士である。大観は富士について「古い本に富士を”心神”とよんでいる。心神とは魂のことであるが、私の不二観といったものも、つまりはこの言葉に言いつくされてている。」と述べている。(「私の富士観」)この作品は、山種美術館を設立する際に大観から「美術館を作るなら」という条件で購入を許されたものであるそうだ。

年暮る(としくるる) 紙本・彩色・額 東山魁夷作  昭和43年(1968)

沢山の大観を囲む画家の中で、私の好きな東山魁夷氏の作品を選んで最後の締めくくりにしたい。昭和30年代半ば「京都は今描いていただかないとなくなります。京都のあるうちに描いておいてください」という作家・川端康成氏の言葉が魁夷の心を動かし、「京洛四季」(けいたくしき)連作へと導き、昭和43年(1968)に銀座・松屋で開催された「京洛四季展」で18点の本画と36点の習作、スケッチが発表された。「年暮る」は「東山ブルー」と称される青(群青)が美しく、静寂の中にしんしんと降り積もる雪の音、おごそかに鳴り響く除夜の鐘の音まで聞こえそうな作品である。人物は描かれていないが、手前の民家の灯りが人のいとなみとぬくもりを感じさせる。私の好きな1点である。それにしても「京都は今描いていただかないと なくなります」という川端康成の発現は、「古都」の作家らしい意見であった。最近の京都を歩いて見ると、私が住んだ昭和50年代とは、すっかり変わっており、特に四条通りや烏丸の辺りの変わりようには、只驚くのみである。

 

 

今年は横山大観生誕150年に当り、東京国立近代美術館でも、「横山大観展」が開催される予定である。山種美術館の大観の蒐集作品はかねてより定評があり、幸い見学する機会に恵まれた。実に多くの人々が集まる様を見て、「大観は日本を代表する近代画家」であることをひしひしと感じた。大観等が東京美術学校を負われた岡倉天心と行動を共にした茨城県五浦(いずら)の地を訪ねたことがあり、彼らの日本画を近代化する努力を詳しく知ったので、「横山大観展」は是非拝観したいと願っていた。山種美術館は噂に違わず、大観の優品を40点も有し、そのすべてを展示してくれた。更に、天心と同時期に活躍した画家の絵画も沢山並んでいた。お勧め出来る美術展である。機会があれば、是非拝観をお勧めする。

 

(本稿は、図録「山種美術館の横山大観  2018年」、図録「山種美術館近代日本画名品100」、原色日本の美術「第26巻 近代の日本画」を参照した)

 仁和寺   宝 物

御室の「仁和寺」には、宝物も多い。現在は大正15年(1926)に建築された霊宝館内に安置され、春・秋の年2回公開される。その時期に訪れれば、仁和寺に伝わる宝物類を拝観することができる。平安時代のものが多いが、中には江戸時代の仁清の花生け等も含まれる。中には空海が唐から持参した宝物も含まれている。古美術の好きな人には見逃せない霊宝館である

霊宝館                     大正15年(1926)

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霊宝館は、大正15年に建築された仁和寺の保有する宝物類を保管・展示する機関である。春・秋2回の展示が行われるので、その時期を確認して訪れることをお勧めする。私は、空海関係の宝物が多いことに驚いた経験がある。真言宗仁和寺派総本山であるだけに、真言密教に関する宝物が多いのは当然である。

国宝  阿弥陀如来坐像  木造 乾漆         平安時代(9世紀)

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仁和4年(888)創建の仁和寺金堂の本尊である。常識的には、創建時もしくはその前に建造されたと思われるが、専門書(美術全集)は9世紀末ないしは10世紀の制作と解説する。頭躰部をヒノキの一材剥ぎとするもので、後頭部と、躰背面に、別々に長方形の穴をあけて内剥を行い、蓋板を嵌め、全身に漆箔(しっぱく)をおいている。童顔をおもわせる目鼻立ちの面相はふっくらと丸い。身体全体をまるく太った姿が特徴である。全体に醸し出される穏やかさは、西方浄土の仏ならではのものであろう。密教寺院でこのような阿弥陀を本尊とするのは、寺を発願した父の光孝天皇の追善菩提を願う宇多天皇の意思と、浄土教を胚躰させつつあった天台宗の思想が背景にあったとも考えられる。

国宝  阿弥陀三尊像のうち左右脇侍像  木造 漆箔  平安時代(9世紀)

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阿弥陀如来に沿う容貌、体躯を表現した菩薩立像である。観音と勢至菩薩であるが、頭上の化仏、水瓶を表す通常の形をとらないので、どちらが観音・勢至とするか不明である。阿弥陀如来像と同時期に制作されたとするのが常識であろう。従って9世紀後期と考える。

重要文化財  愛染明王坐像  木造彩色       平安時代

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愛染明王は、頭上に獅子冠を被り、憤怒相に三目六臂(さんもくろっぴ)で、六臂に金剛鈴などの持物を執る。怪異の中にもふっくらと穏やかな雰囲気を漂わせて、平安時代後期に遡る作例である。愛欲と煩悩を絶つ仏で、男女和合や子の誕生を願う敬愛(けいあい)法、増益(ぞうやく)法の本尊と信仰された。

国宝   孔雀明王像  絹本着色      北宋時代

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仁和寺では平安時代以来、旱魃や疫病・天変地異・天皇中宮の出産などがあると、歴代門跡が孔雀妙法という密教修法を修し、効験(こうげん)が極めて高いことが有名であった。この修法の本尊が孔雀明王で、空海の伝えた画像が用いられた。また中国から新たな画像が次々と舶載された。本像は北宋に遡る貴重な慰令である。三面六臂(さんめんろっぴ)の明王が、孔雀に乗って来臨した様を描く。素晴らしいい秀作である。

重要文化財  別尊雑記(全57巻の内) 紙本白描   平安~南北時代

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天台宗円城寺から出て真言宗に転じ、醍醐寺を経て高野山に住んだ心覚(1117~80)が、晩年の象安年間(1171~75)に撰述した密教図像集である。仁和寺本は、全57巻のうち46巻が平安時代後期の制作で、11巻が鎌倉から南北朝時代の補作になる。広く白描図とも言われる。「鳥獣戯画展」で、東京国立博物館の土屋貴裕研究員が、図録の論文で「鳥獣戯画の伝来」の稿で「鳥獣戯画は高山寺で描かれたものではなく、別の場所で描かれ、高山寺へもたらされたことは間違いあるまい。」「平安時代後期、絵画の制作と供受において、寺院と世俗が交錯するような場こそ、鳥獣戯画が生まれた環境に相応しい。」「それでは、具体的に鳥獣戯画はどこで描かれたのか。あくまで推測に過ぎないが、仁和寺を一つの可能性として提示したい。仁和寺の門跡は「天皇の子弟から選ばれ、世俗と寺院が交わるような場であった。さらに、高山寺と仁和寺が非常に密接な関係を結んでいたという点も重要である。」この提言は、私には「聞くべき意見」と考えられる。この場合、仁和寺にも、高山寺にも白描図が多数保管されていることも、また類推する材料になるであろう。

国宝 三十帖冊子   紙本墨書          平安時代

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弘法大師空海(774~835)が延暦23年(804)から大同元年(806)までの入唐中に、長安・清隆寺の恵果(けいか)阿闍梨から伝受相承した密教経典・儀軌を書写し持帰ったものである。空海の自筆以外に唐の写経生が書写し、同時に入唐した橘逸勢(たちばなのはやなり)筆と伝える部分も含む書道史上の至宝であり、最古の粘葉装冊子本としても知られる。東寺から一時高野山に出て、再び東寺の秘宝として護持された。文治2年(1186)守覚親王がこれを借覧し、以来仁和寺蔵経に納められることになった。これは、通常は経蔵に納められている。

国宝 宝相華華陵頻伽蒔絵冊子箱        平安時代img887

長方形の被蓋(かぶせふた)づくりの箱である。身・蓋の素地は、麻などの布を型に当てて成形し、漆を塗って固める(そく)、つまり乾漆の技法によるとされる。全面に黒漆を塗り、蓋表および身側面は金銀粉を撒いた平塵地(へいじんじ)とし、宝相華唐草・華陵頻伽(かりょうびんが)・鳥・蝶・瑞雲の文様を、金銀の蒔絵で表している。この箱は空海が入唐中に師の恵果から得た儀軌や法典などを書写し、30冊の冊子に仕立てた、「三十帖冊子」を納めるものである。延喜19年(919)11月、冊子を納入するため新造された箱一合が、内裏より東寺の権大僧正観覧のもとに送られた。冊子と箱は東寺に納められたが、文治2年(1186)仁和寺の守覚親王が借用して以後、仁和寺に伝来することになった。

重要文化財  色絵瓔珞文花生  仁清作       江戸時代(17世紀)

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仁和寺が再興されて間もない正保4年(1647)頃、寺の許可を得て門前に陶器窯、御室窯を開いたのが野々村仁清である。京焼の初期の名工で、特に色絵の手法を大成したことで知られる。この花生は、仏具の尊形花瓶に倣った形で、瑠璃・七宝を彷彿とさせる金・緑・青・黄の色絵で表した瓔珞文(ようらくもん)も仏器にふさわしい。仁清本人が開窯初期に仁和寺に寄進した作品である可能性が高く、御室焼きの最も由緒の確かな名品である。

 

大内山を背にして建ち並ぶ伽藍堂塔は見事である。京都には宮廷の雰囲気を持つ寺院が少なくないが、中でも天皇の御願による仁和寺は別格の存在である。寛永期(1624~44)の再興にあたり内裏より下賜された紫宸殿(金堂)や清涼殿(御影堂)なども王朝の風格に彩りを添えている。しかし、何と言っても霊宝館に安置される国宝類には、格段の風格を感ずる。阿弥陀如来三尊像が、密教寺院に相応しくないことは、かねて感じていたが、平安時代には既に叡山には、浄土教の思想が胚胎していたことを痛感した。また、仁和寺のお家芸であった孔雀修法で使用する宋代のきわめて貴重な孔雀明王像の存在も大きい。また、東寺の宝物であった「三十帖冊子」を借りたまま、返却しないで、寺宝にしてしまった仁和寺の「ずうずうしさ」も門跡寺院の風格であろうか?「別尊雑記」から「鳥獣戯画」の誕生を予想した研究員の思いも楽しい思い付きである。江戸初期に仁清という稀有の陶工に活躍の場を与えた御室は、華道御室流により仏への献花と生活芸術としての池花の精神的昇化を勧め、さらに京都きっての観桜の場を人々に提供してきた。仁和寺の蔵する多数の宝物が、すべて宮門跡としての歴代御室の長い営みの賜物であることを、強く感じた。

 

(本稿は、古寺巡礼京都「第22巻  仁和寺」、図録「空海と密教美術展 2011年」、原色日本の美術「第5巻 密教寺院と定観彫刻」を参照した)

 仁和寺   御 殿

二王門の前を通る通路は、周山(しゅうざん)街道と呼ばれる若狭への重要交通路の入り口にあたり、それは既に真言宗の山寺として開かれた高雄神護寺(たかおじんごじ)へと至る、清浄な宗教空間への入口、つまり聖地と俗地の境界であったのである。天皇が王城鎮護の意図を仁和寺建立に込めたとするならば、それを具現する密教修法の場として、この地はまことに相応しかったのである。仁和寺は、真言密教の寺院であると同時に、宇多天皇(867~931)が寛平9年(897)7月に31歳で、第一皇子である醍醐天皇に譲位し、昌泰2年(899)10月に出家し、法皇となり、仁和寺の一隅に住房を建て、移住し、法皇の住まいとする僧坊を御室(おむろ)と言い、それが現在の御殿の部分である。法皇のお住まいに当たる御殿は、仁和寺同様に何度も焼失したが、明治20年(1887)になると御殿の大部分が火災にあい焼失した。このとき寛永の再興時に、御所の常御殿(つねごてん)が移築された宸殿(しんでん)が焼失したのは、かえすがえすも残念なことであった。その後宸殿などは大正3年(1914)までには再建され、これが現在御殿と呼ばれている仁和寺本坊である。明治末から大正期にかけての御殿の復興にあたっては、当時の建築・絵画・作庭の粋を集めての造営が行われた。現在、二王門をくぐって参道の左方にある勅使門、宸殿、黒書院、白書院、霊明殿など御殿と称される建物がそれにあたる。また、仁和寺は、日本の文化との関係が深い。例えば、兼好法師は「徒然草」のなかで仁和寺の僧侶が鼎(かなえ)を倒さ(さかさ)に被って、人々に囲まれてよろめき出てきて、僧衣の胸もとに絶えず流れ出る鮮血に染められる様を描いている。この寺の南の双ヶ岡(ならびがおか)に隠棲していた兼好法師は、当時の寺にまつわる多くの噂話しを、そのよしなしごとの記録の中に書きとどめていたのである。兼好の趣味は一貫して王朝への憧れであった。だからこそ、平安の面影を伝えるこの寺の近くに隠宅を構えたのであるし、王朝的な好色を礼賛すると同時に、現実の女性たちには嫌悪の限りを尽くして悪口を列ねているのだ。

重要文化財  勅使門              大正2年(1913)

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二王門と中門の間の西側に建つ門である。本坊の正式な門で、前後を唐破風、左右を入母屋とした桧肌葺屋根の四脚門である。設計は宸殿と同じく亀岡末吉で、大正2年(1913)に竣工した。特に目を引くのが彫物装飾で、虹梁、蟇股、柱上から欄間に至るまで埋め尽くし、鳳凰の尾羽根や宝相華(ほうそうげ)・牡丹の唐草の流れる様は、19世紀末からヨーロッパで流行したアール・ヌーボーを彷彿とさせるものである。伝統的な和様に近代の汎世界的潮流を取り入れた作品である。

宸殿(しんでん)                大正3年(1914)

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宸殿は、御殿の主屋で紫宸殿と同じ入母屋造りの桧皮葺きの建物である。まるで貴族の邸宅をみるような穏やかで優美な風情をみせ、内部は三室にわかれ、右側上段の間には床、棚、付書院を構え、本格的な書院造りとなっている。この建物の設計は当時の京都府技師であった亀岡末吉なよるもので、また床棚や絵や二の間・三の間の襖絵などはすべて原在泉筆である。まるで「絵巻物などにみられる貴族邸宅」そのままであると言われる。そしてその白砂を敷き詰めた庭先には、内裏を模して左近の桜、右近の橘が植えられたのである。

宸殿庭園                   江戸時代

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五重塔を借景とし、池泉とその向かいの樹木の中に茶室・飛濤亭(ひとうてい)が配されて、完璧な景色である。寛永復興期の作庭で、元禄3年(1690)に大改造された。明治20年(1887)の火災で荒れた状態であったものを、明治末から大正期の本坊再興期に、小川冶兵衛の設計により再整備したものである。明治の造園とは思えない、王朝の雰囲気がある。

黒書院                   明治42年(1909)

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宸殿の西にあるが、旧安井門跡の寝殿を移築したものとされたものである。襖絵は堂本印象である。入母屋造・瓦葺の建物である。書院建築で黒書院は最も奥向きの居住空間という意味合いが強いが、仁和寺では門跡の公式対面所として用いられた。設計は安田時秀で、明治42年(1909)に竣工した。

霊明殿                   明治44年(1911)

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黒書院の北の渡り廊下と階段を行くと、宝形造、檜皮葺の霊明殿に行き当たる。薬師如来坐像を本尊に祀り、歴代門跡の位牌を安置する。中世仏堂の趣きを漂わせる建物である。この明治~大正の再建により、二王門から広い参道を進んで、中門からなかの堂搭が建つ伽藍の地域と、参道の左手の勅使門から中の御殿の部分という現在の仁和寺の景観が出来上がったのである。

重要文化財  茶室 飛濤亭(ひとうてい)     江戸時代(19世紀)

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宸殿から北側の庭を眺めると、五重塔とともに茂みの中に入母屋造の茅葺屋根が見える。飛濤亭は、天保年間(1830~44)の建物とみられる。茶室は四畳半で、貴人口の南に洞床(ほらどこ)という隅柱まで錆壁を塗り回した床があり、反対の西側には腰障子を立てる。

重要文化財  茶室  遼廓亭(りょうかくてい)   江戸時代(19世紀)

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霊明殿西側の庭に建つ。尾形光琳(おがたこうりん)の好んだ茶室とも伝え、天保年間(1830~44)頃まで仁和寺前竪町(たてまち)にあったものを移築しと伝える。東南の二畳半台目の茶室である。全体の意匠は織田有楽斎(おだうらくさい)好みの如庵(じょあん)に似ている。

 

仁和寺の前の通りは、周山(しゅうざん)街道へつづく道である。丹波国野々村(現在の南丹市美山町)出身の陶芸家野々村仁清(ののむらにんせい)は、御室で窯を構え、「仁清」銘の御室焼(おむろやき)を生み出した。仁清の「仁」の字は、仁和寺から取ったといわれる。この仁清に陶芸を学んだのが尾形光琳(おがたこうりん)の弟の乾山(けんざん)である。光琳と乾山の兄弟は、仁和寺の門前に暮らしたという。その住居は、後に仁和寺の境内奥に移築された。風雅な茶室、遼廓亭(りょうかくてい)が、それであると伝わる。江戸時代の初期、光琳や乾山、仁清や道八(どうはち)たちが集まって、ひとつの文芸復興運動であったのである。彼らが復興しようとしたものは、長い戦闘によって荒廃に帰した王朝の優雅の伝統美学であったのである。この寺の門前に、かって仁清は窯を開いた。御室焼(おむろやき)である。あの壺の美さに、私はこの寺の歴代の門跡によって伝えられて来た、宮廷美意識の反映を見ないではいられないのである。また光琳の弟の乾山の窯もこの寺の西北、つまり乾(いぬい)の方角にあった。かれは自らその地に因んで「乾山」と号していた。瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)は「京の茶室ー名僧と語る茶の心」の中で、次のように記している。「江戸時代、仁和寺前堅町にあった尾形光琳の住居を移したといわれる遼廓亭は、万事御所風の本坊を通り抜けていった目には、ふいにどこかの山家(やまが)に迷い込んだような、ほっとした気分に、しおり戸の前からなる。この建物は、光琳の弟乾山が住んでいたとともいわれ、兄の光琳の建てた家に、乾山がいたということだろうか。四畳半の座敷の二方は小縁がつき、庭に面していて明るく、床の間と違い棚が付いている。その南側につづいた四畳半の入口に腰高障子が引違についていて、ここが玄関になる。白い障子を見ると、茶室というより、やはりこの中で誰かが日常の生活をしているようななつかしさが感じられる。」話は変わるが、昭和20年(1945)、日本が敗戦を迎えた時に、近衛文麿(このえふみまろ)が、昭和天皇を仁和寺に迎えて出家することで、占領軍との間を収拾しようという計画があったというエピソードがある。その相談に、仁和寺を訪れた近衛文麿が、霊明殿の扁額を揮毫したとのことである。しかし、「昭和史」が何冊も発行されているが、この秘話を伝える記事は全く見当たらないので、やはり作り話だったのであろう。

 

(本稿は、パンフレット「仁和寺」、新版京都古寺巡礼「京都22  仁和寺」、探訪日本の古寺「第9巻 京都Ⅳ  洛西」を参照した)

 仁和寺  伽 藍

仁和寺は、王朝を想い起させ、宮廷的美意識を感じさせるお寺である。しかし、お寺の歴史を辿ると、それは焼失と再建の歴史である。仁和2年(886)に光孝天皇が大内山の南麓に建立しようと発願した寺院が、翌年8月の光孝天皇の死去により、天皇の第七皇子である宇多天皇(867~931)が引き継いで造営を完成し、仁和4年(888)8月には、その金堂で供養が行われた。寺号は、年号を取って仁和寺と名付けられた。宇多天皇の治世は菅原道真の登用などを行い、寛平(かんぴょう)の治とも称されるが、藤原氏との軋轢もあり、天皇は寛平9年(897)7月に31歳で、第一皇子である醍醐天皇に譲位し、昌泰2年(897)に出家し、法王となった。そして延喜4年(904)に、仁和寺の一廓に住房を建て、移住した。法皇の住まいとする僧坊を、御室(おむろ)と言い、それが地名となった。仁和寺歴代は、そのときの天皇の皇子が承継することが、鎌倉時代まで行われ、それ以降も明治初年に至るまで、ほとんど宮家出身の人達で、皇室とつながりが強い寺としての性格が継続された。平安時代後期にには、仁和寺を中心として、その周囲に子院が建立され70余を数えるほどとなった。仁和寺の伽藍も、元永2年(1119)4月の火災によって多くの堂舎を失った。保延元年(1135)になって、再建供養が行われ、仁和寺全体としては、平安時代から室町時代始めまで、おおむね隆盛が続いた。しかし、応仁の乱のさなかの応仁2年(1468)9月に、ほとんどの堂舎が焼亡した。一面荒野となった御室一帯が、再建の途についたのは江戸時代になってからである。徳川家光将軍は、金20万両を寄進し、再建は慶長年間(1596~1615)に建てられた内裏の建て替えを行い、その取り壊された旧殿舎の多くを仁和寺に移築しようとしたものである。正保3年(1646)10月に造営が完了し、翌4年(1647)2月に開眼供養が行われた。現在の金堂、五重搭など中門からうちの建物のほとんどと二王門は、この時期に造営されたものである。真言宗御室派の総本山である。

重要文化財  二王門   江戸時代(官営14年~正保元年~1644)

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境内正面に建つ巨大な二王門である。(通常仁王門と書くものであるが、仁和寺では二王門と書く。理由は知らない)柱間5間のうち中3間を戸口とし、左右各1間に仁王を安置する。禅宗風ではなく、和様にまとめられ、平安時代の面影を残すとされる。法親王による法灯をともし続けた門跡寺院らしさを意図したものであろう。正面に立つと、堂々たる威容であるが、威圧的ではない。それは禅寺とは違って、屋根の反りにも、瓦の配列にも、いかにも平安町風の優美さが流れているからである。なかに入ると、広場のように広がっている参道がゆっくりと続く。

重要文化財  中門             江戸時代

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二王門の奥にあり、その中に金堂・五重搭・観音堂等が建つ伽藍中心部の入口に当たる門である。柱間3間の八脚門で、中央戸口を通して金堂の偉観が拝される。二王門と同じく和様の構成である。

重要文化財  五重搭     江戸時代・寛永14年(1637)再建

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伽藍中心の東に建つ塔で、塔身の高さは32.7メートルで、寛永14年(1637)の建立とされる。しかし、昭和の屋根瓦葺き替えで、寛永21年(1644)の墨書のある土井瓦が発見され、この頃に完成したようである。東寺五重塔と同様、上層と下層の幅の差があまりない江戸時代の姿である。古代の和様スタイルを踏襲する塔である。初層西側には大日如来を象徴する種子(しゅじ、梵字)の額を懸ける。

国宝  金堂        江戸時代・寛永19~21年(1642~44)

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仁和寺の中心の堂宇である。慶長年間(1596~1615)造営の内裏紫宸殿を賜り、寛永19年から21年(1642~44)にかけて移築したものである。屋根を瓦葺きして西庇を取り除いた以外、紫宸殿の外観を残した結果、門跡寺院らしい佇まいを残している。仁和寺の伽藍の中で、唯一、平安時代を思わせる建物であり、国宝に指定されている理由が納得できる。江戸時代の建物であるが、桃山時代を感ずる建物で、如何にも御所らしい。密教寺院でありながら、本尊として阿弥陀三尊を祀るのは、仁和寺創建時の金堂本尊に倣うものだそうである。(内部は拝観できない)

重要文化財  観音堂   江戸時代・寛永年間(1624~44)再建

金堂の手前、西寄りに建つ。仁和寺創建の40年後、延長6年(928)の建立とされ、今の建物は寛永年間(1624~44)の諸堂再興時に再建された。正面を全て板扉とするのは、三十三間堂など平安時代後期の形を取り入れたものであろう。千手観音菩薩立像を本尊とし、後三世明王立像、不動明王立像を両脇侍とし、風神・雷神立像を配し、更に二十八部衆立像を配するものである。平成27年には、解体修理が行われ、その展覧会が初めての観音堂の公開であった。「仁和寺と御室派のみほとけ展」では、この観音堂の内部の全ての尊像が配置され、大勢の観客の眼を引いた。まるで江戸時代(17世紀)の世界に迷い込んだような錯覚に襲われた。

重要文化財  御影堂   江戸時代・寛永年間(1624~44)再建

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境内の北西側に建つ檜皮葺き、宝形造(ほうぎょうづくり)の堂宇で、弘法大師空海の像を祀る。今の建物は、慶長年間(1596~1615)造営の内裏清涼殿の部材を賜り、寛永年間に再建されたものである。昭和の屋根葺き替えで垂木に「せいりやうでん」と墨書のあるのが発見された。金堂の外観は、大師のお住まいという意を込めて、軽やかで瀟洒な姿に変えている。例の菅原道真が九州大宰府に左遷されることになった時、彼は保護者であった宇多法王に訴えるべく、この仁和寺に駆け付けたのであったが、丁度、折悪しく法王はこの御影堂で修法中であったので、空しく待ち尽くしたという言い伝えがある。その時、道真が詠んだのが「流れ行くわれは水屑(みくず)となりはてぬ きみ柵(しがらみ)となりてとどめよ」の歌である。法皇はそれを読んで、直ちに参内したのだが、さまたげられて帝に面会できず、道真の運動は効を奏さないまま終わった。

重要文化財  経蔵       江戸時代

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金堂東側に建つ3間四面の宝形造、瓦葺の建物で、寛永年間に堂宇再興を取りしきった顕証上人が、経典、密教儀軌(ぎき)など膨大な数の聖教(しょうぎょう)類や古記録を整理・保管するために造営を計画した。内部には回転式の八角輪蔵(りんぞう)が設けられ、収納の効率化が図られている。外観は花頭窓(かとうまど)を設け、円柱に大きく膨らむ粽(ちまき)を設けるなど、禅宗様で統一される。

重要文化財  九所明神本殿       江戸時代

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五重塔の北東に3棟の社殿が並び建つ。仁和寺の初代別当、幽仙が勧請した伽藍鎮守で、今の建物は寛永の伽藍再興に伴い建立された。3神社には9座の神々を祀っている。この並び方は鎌倉時代まで遡るそうである。各殿の正面には、寛永21年(1644)建立の石燈籠が建つ。

 

全部の建物が、江戸時代の再建であるが、流石に内裏紫宸殿を賜っただけあり、まるで平安時代の様相を呈している。井上靖は、京都大学の学生時代に、等持院の近くに下宿していた。青春時代のとめどない物想う時間を、仁和寺の石段で過ごしていたそうである。井上靖の「日本古寺巡礼」には「仁和寺」の項に次のような文が残っている。「印象が最も深いのは、月明かりの夜の仁和寺楼門付近だ。私は学生時代の4年間と、勤めをはじめてからの数年を京都で過ごしたが、この仁和寺を今も忘れることができない。とりわけ、秋の月が素晴らしい。私はしばしば仁和寺を訪れ、短編の素材としたことがある。」「真野川端署長は”花見頃の夜明けの風景が良い。ほんとうに春の朝という感じがする”という。背丈がせいぜい2,3メートルという御室桜は八重の桜。大正13年に名勝に指定されたものだが、ツツジのように根元から枝が張っている。だれもいないとき、ほのぼのと白む朝明けに、静かに露を含んだ桜の風情はまた格別だろう。それにも増して、月明かりの夜は美しい。白い壁と、緑に映える草と、灰色の通り。山門の、年齢を刻んだ木組の力強い交叉。裏側に回れば土塀にはめこまれた瓦が、規則正しく影を落としている。西国八十八カ所を模して、通称御室に作られた八十八カ所はアベックのハイキングコースでもある。お寺が”庶民とともに”歩みはじめたころ、人々は別の楽しみを見つけ、別の思い出を秘めて、仁和寺を訪れるのである。」なお、仁和寺は世界遺産に指定されている。

 

(本稿は、パンフレット「仁和寺」、新版京都古寺巡礼「京都22 仁和寺」、探訪日本の古寺「第9巻 京都洛西」、図録「仁和寺と御室派のみほとけ」を参照した)

妙心寺  塔頭  退 蔵 院

妙心寺には塔頭が四十六ケ寺あり、塔頭の多さでは京都の禅寺では一番を誇る。2017年の秋の紅葉の見ごろの季節に洛西を訪れ、妙心寺の塔頭では退蔵院が公開していた。ここは、日本最古の水墨画と言われる国宝 瓢鮎図(ひょうねんづ)で有名であるが、拝観して美しい庭園が、数多くあり、かつ紅葉の名所であることを知った次第である。退蔵院は今から600年以上前の応永11年(1404)の建立された山内屈指の古刹(こさつ)である。方丈(本堂)は妙心寺第三世であり、かつ退蔵院開祖である無因宗禅師を祀っている。退蔵院の境内にはこの方丈を取り囲むように作庭された枯山水庭園「元信の庭」、方丈南方の850坪に及ぶ池泉回遊式庭園「余香苑」(よこうえん)と、異なる趣きの庭園が広がっている。今回は、庭園と紅葉を中心に写真を楽しんで頂きたい。

山門   薬医門              桃山時代(16世紀)

退蔵院の山門であり、薬医門である。枯山水庭園公開中であった。紅葉が美しく、園内は満員の状態であった。なお、今回の京都巡礼の中で、初めての満員状態であった。

陽の庭(左)  陰の庭(右の庭)   枯山水          昭和時代

昭和の作庭である。敷砂の色が裳となる2つの庭は、物事や人心の二面性を伝えている。陽の庭(左)には7つ、陰の庭には8つ、合計15の石が配されている。敷砂の対比と石使いの調和が見事である。

紅しだれ桜

11月ともなれば、桜の葉も落葉している。4月に公開してくれれば、見事な桜が拝見できたであろう。

重要文化財  方丈      慶長4年(1597) 桃山時代(16世紀)

応仁の乱後、慶長4年(1597)に再建された方丈である。江戸末期に宮本武蔵が、ここに居住して精神修養の場として修行したとされている。この堂内には国宝瓢鮎図(ひょうねんづ)を所蔵している。

国宝  瓢鮎図(ひょうねんづ) 大巧如拙筆  室町時代(15世紀)

本図は、右上隅の大岳周崇による序に書かれているように、「丸くすべすべした瓢箪(ひょうたん)で、ねばねばした鯰(なまず)をおさえ捕ることができるか」という「新様」(新しいテーマ)を、将軍足利義持が「僧如拙」に命じて新様(新しい画風)で描かせ、また五山の諸僧をして一詩を詠ましめたものであり、当時の五山の名僧三十一名による賛がある。禅宗の絵としては。最も有名である。(なお、写真は、2016年の「禅(心をかたちに)」の展覧会で入手したものである)

「源信の庭」

狩野源信(狩野派2代目)が作庭した庭として著名である。勿論、原案を源信が描き、作庭は阿弥衆が行ったものである。この庭は、枯山水の分類上、典型的な枯池式枯山水に属する。吉河氏によれば、方丈を慶長年間に再建した時に、かなり方丈の建物が庭園に食い込み、その地割も枯池の東部が変化したと見られるそうである。

あずまや

まわりの紅葉が美しい。

余香苑(よこうえん)            昭和時代

池泉回遊式の昭和の名庭である。なだらかな勾配の「余香苑」は造園嘉の中根金作氏によって設計され、昭和40年に完成し、昭和の名庭と謳われるまでに成長した。桜、蓮、楓など一年を通して華やぐ庭園の中心には瓢鮎図にちなみ「ひょうたん池」が配置され、池のせせらぎや鹿威しの音色が楽しめる。背景に「あずまや」が見える。

 

寺院の名称である「退蔵」という言葉には、「価値あるものをしまっておく」という意味があるように陰徳(人に知られないようにして良い行いをする)を積み重ね、それを前面に打ち出すのではなく、内に秘めながら布教していくという意味がある。600年の歴史を有する塔頭であるが、庭園は新しく昭和に出来たもので、明るい印象に包まれたお寺であった。紅葉の季節であった為、人の波に包まれたことは止むを得ないことである。

(本稿は、古寺巡礼京都「第31巻 妙心寺」、探訪日本の古寺「第9巻 洛西」、吉河功「京の庭」、退蔵院パンンフレットを参照した)

清浄な伽藍  妙 心 寺

妙心寺の地名は花園であるが、これは花園天皇(1297~1348)が若い頃から崇仏の念厚く、立派な学者でもあった。天皇の深く心を寄せられたのは宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)、すなわち大燈国師(だいとうこくし)であったという。天皇は建武2年(1235)39歳の時に髪を下ろして法王となられた。大塔国師は、2年後に病気になり、法王は大いに驚き、後はどうしたら良いかとお尋ねになったところ、国師は「私の弟子の開山慧玄(かいざんえげん)こそ、その人であります」と答えられた。国師が示寂してから、開山の行方を捜し、漸く美濃の山里に草庵を結んでいる関山を見つけ、法王の離宮の改めて禅刹(ぜんさつ)とされた。これが正法山妙心寺の起こりである。時に、歴応5年(1242)開山が65歳の時であった。五世拙堂宋朴(せつどうそうぼく)の時に、室町幕府は、妙心寺を弾圧し、応永6年(1399)、応永の乱を機に足利義満は、山隣派の妙心寺を没収し、菁連院の所管とした。応永の乱で拙堂宋朴が大内義弘(おおうちよしひろ)に組したというのが、その言い掛かり的理由であった。妙心寺の名前は龍雲寺と改められたが、34年後に変換してきた。様々な事件の後、応仁元年(1467)応仁の乱が起こり、時の妙心寺の住持であつた雪江宋心(せっこうそうしん)が六世であった。妙心寺は焼け、文明9年(1477)、後土御門天皇から妙心寺再興の綸旨を得た。妙心寺の再興と発展の基礎造りに尽力した雪江宋心は文明18年(1486)6月に、79歳をもって寂した。現在、妙心寺は境内13萬坪、塔頭47、緒堂伽藍の揃った大寺院である。臨済宗妙心寺派大本山となり、全国に3500余の関係寺院を擁する、禅宗としては最大の規模を誇るまでになった。

重要文化財  南総門        慶長15年(1610)  桃山時代

切妻造、本瓦葺の薬院門(やくいんもん)で、慶長15年(1610)につくられた。伽藍の南北軸線をややずらして東寄りに建てられいる。妙心寺の表門として威厳を備え、かつ人々の通用門となっている。

重要文化財  三  門(さんもん)   慶長4年(1599)桃山時代

二重二層の入母屋造で、木部に朱塗の彩色を施し、左右に山廊(さんろう)がつき、ここから二層上階にあがる。京都の禅宗寺院の東福寺三門、大徳寺三門に続いて古い三門建築である。毎年6月18日には二層上階で観音繊法会(かんのんせんぽうえ)、7月15日には三門施餓鬼が行われる。

重要文化財  仏殿     文政10年(1827) 江戸後期(19世紀)

三門の後方に南面して建つ。入母屋造、本瓦葺の典型的な禅宗仏殿である。内部には須弥壇があり、後方左左右に脇仏壇が設けられている(重文)。現仏殿以前の仏殿が大破したため、文政10年(1827)に再興された。

重要文化財  法堂(はっとう)   明暦3年(1657) 江戸時代初期

仏殿の後方に建つ。一重裳階(もこし)付、明暦3年(1657)江戸時代初期の建築である。山内で最大の堂宇である。開山300年を記念して承応4年(1655)から明暦3年(1657)にかけて建造したものである。妙心寺は諸堂揃った大寺院と称するが、諸堂伽藍とは、仏殿、法堂(はっとう)、庫裏、僧堂、三門、浴室、東司(とうす)の7棟である。

法堂天井  雲龍図  狩野探幽作   明暦2年(1656)江戸時代初期

法堂の内陣には、狩野探幽(1602~74)の筆による蟠龍(ばんりゅう)が描かれている。普通、天井に貼るが、ここのは直接板に描かれている。「探幽法眼筆」と署名されている。この妙心寺の雲龍図は「八方睨みの龍」と言われ、法堂のどの位置から眺めても、見る者を睨んでいる。探幽が生きた龍を活写したのだから、ぎょろっとした眼が動くのも納得できる。この法堂の落慶供養は、万治元年(1658)に愚堂禅師によって営まれている。

国宝  梵鐘          天武2年(698) 白鳳時代(7世紀)

法堂内部に安置されている梵鐘は、日本最古の紀年銘を持つ梵鐘である、「徒然草」の中で、兼好が「およそ鐘の音は黄鐘調(おうじきちょう)なるべし・・浄金剛院の鐘の声また黄鐘調なり」と述べている。もとは浄金剛院(廃寺)にあったものである。近年まで除夜のにはテレビでその音を全国に響かせていたが、現在は現役を引退である。なお、九州大宰府の観世音寺の鐘も日本最古をうたうが紀年銘がなく、お寺では妙心寺の鐘と兄弟鐘としていて、日本最古を謳っている。こちらは現役で、今でも鐘は撞かれている。

重要文化財  浴室      明暦2年(1656)江戸時代初期

三門の東に西面し、正面5間、中央入口は桟唐戸の上に蟇股(かえるまた)と唐破風をつけている。通称「明智風呂」と呼ばれ、明智光秀(1528~82)の叔父で塔頭大嶺院の開基である密宗和尚が光秀の菩提を弔って、天正15年(1587)に創建したと伝える。現在の建物は明暦2年(1656)の建築である。

重要文化財  浴室内部「明智風呂」    明暦2年(1656)江戸時代初期

内部には唐破風を正面に向けた蒸し風呂形態の浴場と洗い場がある。現在でも使用できるほど守備整って貴重な遺構である。これだけ完全に、浴室設備が残っている寺院は無いと説明された。妙心寺参拝者に人気の建造物である。

重要文化財  大方丈       承応3年(1654)江戸時代初期

法堂と寝殿をつなぐ廊下の東に南面する。承応3年(1654)に上棟された、一重、入母屋造、杮葺である。仏殿、法堂などの仏殿形式と対照的に、中世以来の住宅形式の伝統を守りながら、規模は雄大で木割りは太い。北・東・西には広縁、正面には大広縁がめぐり、室内には仏間と南面の室中を中心とする。

重要文化財  北総門           慶長15年(1610)桃山時代

境内の北、一条通りに北面して建ち、切妻造、本瓦葺の薬師門(やくしもん)である。南総門とほぼ同じ形であるが、ひとまわり大きく、更に簡素である。

清浄な伽藍 妙心寺

妙心寺の諸堂と、内部の石畳の通路で、住民には南北通路として、良く利用されている。しかし、観光客には閉鎖的で、一番拝観したい障壁画は見せてくれない冷たい妙心寺である。

 

境内13万坪、塔頭47、諸堂伽藍の揃った、日本屈指の大寺院である。堂内には相阿弥、狩野源信、長谷川等伯、海北友松(かいほゆうしょう)、狩野山楽等の名画(襖絵等)が多数ある。残念ながら、お寺は解放せず、偶に春秋に公開することがるらしいが、私は残念ながら、一度も拝観したことが無い。提案がある。どこか紀念の年、例えば三門420年紀念祭に、1年間を通して公開し、後は十年に一度位の公開にしてはどうか。是非、名画の数々を、この眼で確かめておきたい。妙心寺は、南門から北門に到る通路(石畳)は、常に公開され、南北の通り道として利用者の多いお寺である。にも拘わらず、有名な障壁画は、全く公開しない、極めて不親切なお寺である。大衆的であるが、非公開の冷たさが目立つお寺である。是非、美術愛好家のために、秘蔵の障壁画を1年間通しで公開する企画を立てて頂きたい。そうすれば、更に好きなお寺として記憶に残るのだが、残念である。

 

(本稿は、古寺巡礼 京都「第31巻  妙心寺」、探訪日本の古寺「第9巻 京都 洛西」を参照した)

嵯峨   大  覚  寺

都の西北に位置する嵯峨野の大覚寺は、嵯峨天皇によってこの地に営まれた嵯峨離宮に端を発する。嵯峨天皇は平安京の北西部に広がる嵯峨野をこよなく愛され、大同4年(809)に即位されたとき、妃の壇林皇后との新居として造営された宮廷苑池であった。ときに平安遷都から間もない頃で、世の中は安定せず、大同5年(810)には、平城京への複都をはかる薬子の乱(くすこのらん)が起こった。大同元年(806)に唐から帰朝し、九州大宰府に留まっていた弘法大師は、嵯峨天皇の即位間もない大同4年夏に、京都の高雄山(現在の神護寺)に入った。薬子の乱に際しては、弘法大師は、高尾山において国家安泰を祈願する仁王経大法会(にんのうきょうだいほうえ)を執り行った。これもご縁となり、嵯峨天皇と弘法大師の親交が深まり、造営間もない離宮へ大師もしばしば足を運び、中国の事情や文化・芸術について嵯峨天皇と親しく会話されたことが伝えられている。注目すべきは、弘仁2年(811)に嵯峨天皇が、離宮の中に五大明王をまつる五覚院を造立されたことである。ここに弘法大師が刻まれた五大明王が安置された。鎮護国家と衆生救済を五大明王に祈願することは、弘法大師が嵯峨天皇に奨めたためと見られる。嵯峨天皇の離宮・嵯峨院が大覚寺として再出発したのは貞観(じょうがん)18年(876)2月のことで、離宮を寺に改めたのは、嵯峨天皇の皇女で、淳和天皇の皇后であった正子内親王であった。これを受けて、清和天皇は大覚寺を勅許された。嵯峨院は、承和元年(876)2月に嵯峨太政天皇の御所となり、同年10月には寝殿が落慶した。従って、大覚寺の起源は、承和元年(876)である。大覚寺は何度も兵火によって焼け、今日の宸殿、西寝殿が皇居から移築されたのは、元和から寛永年間(1615~44)にかけてであって、江戸時代初期の建物である。真言宗大覚寺派を名乗ったが、大正13年(1924)に、高野山・仁和寺と合同して古義真言宗となった。京都盆地の中で、いまも王朝の景観を止めている嵯峨野の大覚寺では、毎年中秋の明月に龍頭鷁首(りゅうとうげきす)船を大沢池に浮かべて観月の会が催され、秋の風物詩となっている。

式台玄関 木造入母屋造瓦葺(もくぞういりもやつくりかわらぶき)江戸時代(17世紀)

正面に銅板葺の唐破風を備える。妻飾りは木連格子懸漁(きつれんこうしかけぎょ)付で、その様式や軒まわりの構法などは、宸殿に近いものがある。宸殿の移築とともに付随して移されたものと目される。

重文  宸殿  入母屋造、桧肌葺、        江戸時代(17世紀)

式台玄関の東にある御殿風の大建築である。妻飾り、破風などに装飾をこらされている。建築史の研究によれば、後水尾(ごむずのお)天皇に入内して東福門院の、元和5年(1619)に女御御所の宸殿が、寛永度の造営中、明正天皇(後水尾天皇と東福門院の子)の仮皇居として用いられた、内裏竣工後、不要になったので、大覚寺に下賜されたものと見られている。御所の建物らしい風格がある。

宸殿内部                 江戸時代(17世紀)

 

内部には主室が4つあり、中央の最大の室は牡丹の間で33畳、その東の柳松の間が18条。天井も、前者が折上下組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)、後者は格天井と、豪華な仕上げである。襖絵は狩野山楽の作(文化財保護のため複製に入れ替え)であり、原作は極めて豪華である。

村雨の廊下                江戸時代(17世紀)

緒殿舎をつなぐ回廊も、大覚寺の特徴の一つである。両側には、手摺(高爛)があり、ときに真直ぐ、ときには曲がって、歩むごとに目に入る景色は変化していく。嵯峨御所と呼ばれる大覚寺、その雅やかさをいっそう感じさせる。

重文 正寝殿 お冠の間          桃山時代(17世紀)

正寝殿の中心になる最高位の室で8畳。後方4畳が上段で一段高く、玉座を設け、奥に張台構(ちょうだいかまえ)、向って右に平書院と言う具合に、京都御所常御殿の上段と同じような設えとなっている。正寝殿は、12の部屋を持つ書院造りである。

名所  大沢の池

弘仁5年(814)頃、嵯峨天皇が離宮としてつくられた嵯峨院庭園の池で、日本最古の人工の林泉(林や泉水のある庭園)とされる。中国の洞庭湖になぞらえ、庭湖とも呼ばれる。池には天神島、菊の島と庭湖石がある。この写真は、紅葉に染まる夜の「大沢の池」の写真である。

重文 不動明王像   明円作 安元2~3年(1176~77) 平安時代後期

平安時代初期、大覚寺創建時の尊像は弘法大師作と伝えられているが、現存しない。その復興期と見られる平安時代後期の像である。金剛夜叉・軍陀利(ぐんだり)の各明王像の台座に安元2年(1176)と同3年の墨書銘があり、前者には、七条殿弘御所(こごしょ・後白河上皇の御所)で仏師明円(みょうえん)が造立し自ら寄進した旨記されている。明円は12世紀後半の有力仏師で、その唯一の現存作例である。不動明王以外の4像は、当時講堂像を忠実に模写したものである。

重文 大威徳明王像(左)   明円作    平安時代後期         重文 軍荼利明王像(右)   明円作    平安時代後期

平安時代後期の作で、明円仏師の作である。東寺講堂の忠実な模写であり、出来栄えは良い。

十一面観音立像                     平安時代後期

頭の上に頂上仏と、十の頭上面をあわせて十一面。観音菩薩の慈悲があらゆる方向に向かうことを象徴している。腰をわずかに左にひねり、左足を踏み出す姿は、この菩薩が世間を練り歩いて衆生を救う存在であることを示すものである。定朝様式を引き継ぐ平安時代後期のあでやかな作風を示す。少年のように愛らしい表現から円派の製作と想定されている。

愛染明王坐像               嘉暦3年(1328) 鎌倉時代

愛染明王(あいぜんみょうおう)は、愛欲貪欲(どんよく)を菩提心で浄菩提心に変えると言われる。儀軌どうり、三目六臂(目が三つ、腕が6本)、怒りをあらわにした憤怒相で、獅子冠を戴き、日輪型の光背を背に、宝瓶から生じる蓮華上に坐す。保存状態が良く、後補が少ないうえ台座底面に「嘉暦三年戊辰正月一日」という墨書銘があって、嘉暦3年(1328)鎌倉末期作と判明する規準作である。台座部分に、舎利と抹香入りの裂袋が納入されていた。

 

平安京が1000年を超える都と定まったのは嵯峨天皇の時であるとする認識が歴史家の間では定説である。これは鴨長明が方丈記の中で「おほかた、此の京のはじめ開ける事は嵯峨天皇の御時、都と定まりけるより後、すでに四百年を経たり」と述べている。ことに嵯峨天皇は唐の文物に人一倍関心をもったことから、いわゆる唐風文化が花開いたのである。遣唐使によってもたらされた知識にもとづき、宮中の殿舎や京中の条坊に唐風の名が付けられたのも嵯峨朝であり、また漢詩文が好まれ、神泉苑その他でしばしば詩賦の会がもたれる一方、「凌雲集」(りょうんしゅう)以下の漢詩集がはじめて勅撰され、新渡の塔風俗である喫茶がたちまち宮廷貴紳の間に広まっていった。今日の京文化の基礎を作ったのかも知れない。溢れるほどの外国人観光客を見て、改めて京都文化の奥深さ、その基礎を築いた人に、思いを馳せた次第である。

 

(本稿は、古都巡礼 京都「第28巻 大覚寺」、探訪日本の古寺「第9巻     京都 四)を参照した)

嵯峨  清 凉 寺

日本人にとって、京都は心のふる里である。その京のみやこは洛西に嵯峨、名勝の嵯峨嵐山の渡月橋をわたって北へ、一本道を歩む続けると、山陰線が道を横切っている。それを超えてさらに歩き続けること、5,6分で、その道の突き当りに釈迦堂の山門が聳え立つ。見上げるような山門は、嵯峨野のシンボルである釈迦堂である。正しくは五台山清凉寺という。釈迦堂の名前で親しまれているのは、東大寺の僧奝然(ちょうねん)が、今から千年以上も前、中国の宋に渡り、五台山清凉寺に留学し、帰国する際に請来した栴檀釈迦頭瑞像(せんだんしゃかずいぞう)を本尊として、落西の愛宕山を五台山になぞらえて、中国の五台山清凉寺を移したてようと発願(ほつがん)したことによる。この栴檀頭像(せんだんずぞう)は、「三国伝来生身(しょうしん)の釈迦如来」として、ひろく信仰されていることによって、釈迦堂としてながく民衆の信仰を得て今日にいたっている。仏教では、釈迦没後500年間は「正法(しょうぼう)」、その時期を過ぎると次の500年は「像法(ぞうほう)」の時代とされ、それ以降は「末法(まっぼう)の時代とされた。平安時代の日本では、その「像法」がつきて「末法」に入る最初の年が永承(えいしょう)7年(1052)と考えられていた。この頃の歴史の年表を見ると京の都は何度も大火があるし、大地震や洪水、飢饉や疫病の流行など恐ろしいことが続いている、五濁悪世(ごじょくあくせ)そのもののこの世であった。この末法突入の時期に、日本では阿弥陀如来像が、この世を救うと信じられていた。この「三国伝来の釈迦如来」も、末法の時代の「救いの仏」と信じられたに違いない。事実、寛和2年(986)、奝然(ちょうねん)が中国(宋)から将来し、いま清凉寺の本尊として祀られるのが釈迦如来像である。間もなく来る末法の時代に恐れ慄いていた貴族や庶民が、この珍しい生身の釈迦如来像に、深い信仰心を抱いたことは当然と思う。また、この地は、「源氏物語」の主人公・光源氏(ひかるげんじ)の山荘とお堂であったと伝わる。

山門(仁王門) 入母屋造 本瓦葺         江戸時代(18世紀)

「嵯峨釈迦堂」の名前で親しまれている五台山清凉寺の正面に聳えるのがこの仁王門である。一見して、上層が大きいのに気づくが、これはこの門が江戸末期、安永6年(1776)の再建であり、その頃の様式手法をよく示しているためである。和様の色彩を残しながらも前体的に禅宗様式が強く出ているもので、江戸時代中・末期の仏堂や門などに一般的に広く行われたもので、折衷様の一種である。なお、上層部内部には十六羅漢像が安置されているそうだ。

本堂  一重、入母屋造、本瓦葺、           江戸時代(18世紀)

仁王門の後方、少し左寄りに建つ大建築である。この本堂は清凉寺式釈迦如来像を安置されていることでも有名である。昔は(昭和30年代までは)十大弟子も安置されていたが、現在は、それは霊宝館に移されている。現在のお堂は江戸初期、元禄14年(1701)に再建されたものである。この宮殿は五代将軍徳川綱吉と生母桂昌院の寄進と伝える禅宗様式の壮大華麗な建物である。

阿弥陀堂  入母屋造、本瓦葺、文久3年(1863)江戸時代末期(19世紀)

清凉寺の前身である棲霞寺(せいかじ)の名残の堂といい、本堂に向かって右にある。健築としては新しく、文久3年(1863)の再建である。内部は前方外陣、その後方内陣には、国宝「阿弥陀三尊像」が、かって安置されていた。(今は霊宝館に安置されている)この阿弥陀堂の前身である棲霞寺とは、ここの源融(みなもとのとおる)の山荘であったとされる。嵯峨天皇の皇子で左大臣でもあった源融は、「源氏物語」の光源氏(ひかるげんじ)のモデルと言われている。平安の昔から、嵯峨は貴族の別荘であったので、「源融」が、ここの山荘を構えていてもうなづけるのである。皇子で臣下に降りた貴公子は、また時代一の風流人でもあったのであろう。紫式部は「源氏物語」の舞台に、嵯峨を度々取り上げている。光源氏の嵯峨の別荘という位置は、清凉寺の地域をあてているように思われる。現在の阿弥陀堂は融時代の山荘の名残りである。融(とおる)の山荘は棲霞寺(せいかじ)となり、融の薨ずる間際に出来上がった丈六の阿弥陀仏を本尊としている。観音・勢至の脇侍を従えた三尊そろった威容は、平安初期の浄土教の名残を見せ、素晴らしいものである。嵯峨光仏という名で呼ばれた千年の歳月、信仰を集め続けてきた。

多宝塔 下層方形、上層円形 元禄16年(1703)江戸時代初期(18世紀)

仁王門を入って左手に多宝塔がつつましやかに立っている。方三間、二重、下層方形、上層円形平面の形通りの多宝塔である。寺伝では、元禄13年(1700)に江戸音羽・護国寺で出開帳があり、その時に一般大衆の寄進を受け、3年後の同16年(1703)の建立したものである。型通りの多宝塔であるが、全景も美しく、江戸時代多宝塔の一典型である。初層内部には多宝如来がお祀りしてある。

国宝 釈迦如来立像        中国製  平安時代(10世紀)

寛和2年(986)7月、奝然(ちょうねん)が中国(宋)から渡来し、いま清凉寺の本尊としてまつられる釈迦如来立像である。像の制作者は台州の仏師張延皓(ちょうえんこう)と張延襲(ちょうえんしゅう)兄弟で、二人の名は像の背面に刻まれている。太宗皇帝が宮中に秘蔵しており、奝然(ちょうねん)が拝して感激した「優填王(うえんおう)の釈迦像」は、インド僧の鳩摩羅什(くまらじゅう)が中央アジアの亀慈国(きじこく)から中国へ伝えたと言われる。優天王とは、4,5世紀の仏教伝説に登場するインド・カウシャンビー国のウダヤナ王のことで、説話では、たまたま釈迦が天に昇って生母摩耶夫人(まやぶにん)のために法をといた時、王は地上から釈迦の姿が消えたのを悲しみ、栴檀(せんだん)をもって釈迦の姿を彫らせ、釈迦に対すると同じように礼拝した。これがインドにおける仏像の初例となったと言う。しかし、釈迦を人の姿で表すこ仏像がはじめてつくられたのは、紀元後の1世紀ごろ、インドの西北ガンダーラ地方であり、釈迦在世中(紀元前5~4世紀)から、あったものではない。したがって優填王の説話は後世の制作であるが、この説話が成立したころ(4,5世紀)のインドでは、釈迦の生身(しょうしん)をうつしたと信じられた仏像があり、これが「優天王の釈迦像」として広く信仰をあつめられたものと考えられる。この釈迦像の形姿は、4,5世紀ごろインドから中央アジア一帯にかけて流行した仏像の形式であり、平安以前の日本彫刻には前例がない。清凉寺様式の摸刻は、文化財指定のものに限っても20点、未指定品をふくめると80余点となる。また昭和28年(1953)に、この像内から内蔵品が多数発見され、すべて国宝に指定されている。

国宝  阿弥陀如来像   木造(中央)      平安時代(9~10世紀)国宝  勢至菩薩像    木造(向って右)    平安時代(9~10世紀)国宝  観音菩薩像    木造(向って左)    平安時代(9~10世紀)

清凉寺の一隅に阿弥陀堂としてのこる棲霞寺(せいかじ)の本尊、阿弥陀三尊像である。棲霞寺は右大臣源融(みなもととおる)(源氏物語のヒロイン光源氏)が山荘をいちなんでいた棲霞観(せいかかん)を、融の死後、二人の遺児が父にかわって施入し創建した寺である。平安前期(9世紀)の終わり頃になると、それまで圧倒的な信仰を集めていた薬師仏への信仰にかわり、来世の幸福を司る阿弥陀仏とその西方浄土に対する信仰が貴族たちのこころをとらえはじめた。先に指摘した、正に末法(まっぼう)の時代の到来である。阿弥陀如来を本尊とするお寺が建てられるようになった。棲霞寺(せいかじ)の本尊も阿弥陀三尊像である。現在では、清凉寺の一堂に名を留めるのみであるが、かってはこのお堂が、この寺の主流であったのである。阿弥陀三尊像は一木造、漆箔、彫眼の像で、中尊は弥陀の定印、左右脇仏は他に例のない密教風の印相を結び、これまた類例の少ないにぎやかな臂釧(ひせん、腕かざり)をつけている。中尊の肩は広く量感に富み、ふかく刻んだ着衣の襞(ひだ)も動感にあふれ、相好も切れ長の眼、張った頬に重厚な雰囲気を見せている。脇侍仏も同様で、広い肩、ふかい衣文、肉づきのよい重厚な表情と、中尊と共通する特色を見せるているが、ほそい胴はひろい肩に較べてやや調和を欠くようである。

重要文化財  文殊菩薩騎獅像           平安時代(9~10世紀)

普賢菩薩とともに本尊釈迦如来像の脇侍となる文殊菩薩像である。独尊像でつくられることもあったが、普賢菩薩と一対で釈迦の脇侍としてまつられることも多い。形姿は獅子に乗り、右手に剣、左手に経巻を持つのが通例である。しかし、頭髪は菩薩に通例の高い宝珠を結っている。しかも両手はいずれも肘から先が後世の補作であり、持物の剣と経巻も新しいことから、この像が初めから文殊菩薩としてつくられたかどうか問題となる。恐らく、当初は観音菩薩であったものを、ある時期、文殊菩薩につくり変え、釈迦像の脇侍としたのではないかと思われる。

重要文化財  普賢菩薩騎象像          平安時代(9~10世紀)

普賢菩薩は本来、成仏のもとである菩提心を象徴し、行願(ぎょうがん、実行と意志)をつかさどるといわれるが。法華経は女性が成仏できることを説く数少ない経典であるので、平安時代後期になると、女性の信仰と深くむすびついて普賢菩薩の画像や彫刻が多数つくられた。そのため、普賢菩薩は普通、女性的で、優雅な姿で表現されている。独尊像としてあらわされることも多かったが、文殊菩薩と一対で釈迦の脇侍となることも少なくない。しかし、この普賢菩薩像は、形は通例と違い、半跏の姿勢で白象に坐し、持物をとる形は、東寺講堂の帝釈天像と全く同一である。顕教では普通、立像でよろいの上から衣をまとう姿で表されるが、密教では東寺講堂の帝釈天に代表されるように、衣の形式もちがうし、座法も水牛の上に半跏の姿で座っている。この普賢菩薩像は、間違いなく密教の帝釈天像の形姿である。いま普賢菩薩と呼ばれるこの像は、はじめ帝釈天としてつくられたのを、ある時期、普賢菩薩に転用し、文殊菩薩と併せて一組にしたと考えた方が、良いようである。

重要文化財  兜跋毘沙門天像          平安時代(10世紀)

東西南北の四方位を守護する仏教の尊像を四天王といい、そのうち北方天が多聞天と呼ばれる。多聞天は普通、他の三天とともに四軀一具として安置されるが、多聞天のみは独尊像としてつくられることも多く、その場合は特に毘沙門天の名で呼ばれる。兜跋毘沙門天の独特の形姿に起源は西域」のキジール、もしくはコータン地方の武人の服装から発していると考えられる。清凉寺像は、東寺像を原像として多くの摸刻像が造られたことになるのであろうか?

重要文化財  十大弟子立像(冨楼那像)     平安時代(10~11世紀)

釈迦に多くの弟子がいたが、そのうちとくにすぐれた十人の高弟を選んだのが十大弟子である。冨楼那(ふるな)は最年長者で、弁論を得意とし、説法第一と称された。「冨楼那の弁」という言葉もある。十大弟子像は、いわばこの世に実在した高僧の肖像彫刻である。いずれも遠い過去の人々であるため、表現はおのずと空想化や理想化が加わって非個性的な描写になることが多い。

 

清涼寺と言うと、三国伝来の釈迦如来像が話題になることが多いが、実は、ここは「源氏物語」のモデル「源融(みなもととおる)」の山荘であった「棲霞寺」(せいかんじ)の後に出来たものが清凉寺であり、むしろ平安時代の貴族の山荘が先に話題になるべきである。しかし三国伝来(インドー中国ー日本)の釈迦如来像に話題に集まり、何時の間にか平安時代の山荘の話が欠けてしまった。それだけに、一隅に存在する阿弥陀堂や、かって堂内にあった国宝阿弥陀如来三尊像が霊宝館に安置されていることを知る人も少なくなった。私が訪れた11月の下旬は、京都は紅葉を求める人で一杯であったが、この清凉寺に参拝する人は少なく、それもせいぜい釈迦堂までで、霊宝館は私1人の参拝であった。この素晴らしい、国宝・重要文化財の数々を紹介するため、長い文章になってしまった。是非、拝観の機会がある方は、平安時代の貴族の山荘の跡地であり、素晴らしい仏像群が霊宝館に祀られていることを思い出して頂きたい。

 

(本稿は、古寺巡礼 京都「第21巻  清凉寺」、探訪日本の古寺「第9巻 洛西」を参照した)

京都   広 隆 寺

京都・太秦(うずまさ)の地に広隆寺がある。私は、学生時代から京都へ来れば、必ず広隆寺を拝んでいた。理由は、この寺の本尊である弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)を拝観するためである。この弥勒菩薩像は、奈良・斑鳩(いかるが)の里にある中宮寺の弥勒菩薩像にそっくりであると言われる程の美人仏であり、学生時代から愛して止まない仏様である。京福(けいふく)電鉄の太秦駅(うずまさえき)から歩いて3分程の場所に、京都最古のお寺である名刹・広隆寺の南大門(仁王門)が現れる。何度も火災にあうたびに僧侶が仏様を運びだしのであろう。傷も殆どつかない仏像群が霊宝館に祀られれている。国宝17体、重要文化財31体、その殆どを秘仏にすることなく、拝観できるのは、このお寺の大らかさを示すものであろう。私は、仏像博物館とでも呼べる例宝殿を拝するために、何十回と足を運んだのである。仏殿をしっかり拝観したのは、多分、今回(2017年11月)が初めてであるかも知れない。広隆寺にほど近い場所に「蛇塚」と呼ばれる巨大な横穴式石室がある。蛇塚と呼ばれるのは、かって蛇が群棲していたからだと言われ、古墳を盗掘から守るために毒蛇を放ったと言われるが、定かではない。この石室こそが、広隆寺を建立した秦氏(はたし)一族の首長を葬ったものとされている。この石室一つとっても、秦氏の勝れた技術力と強大な力の跡を偲ぶことができる。秦氏一族は、朝鮮半島の新羅(しらぎ)からの渡来人であり、大陸から土木灌漑、養蚕、機械、酒造り、そして自然暦を日本に伝えたのである。その家系を調べると、広隆寺を建立した河勝(かわかつ)の二代前に河公(かわのきみ)という人物がおり、川に関係のある名をともに持つことがわかる。秦昭王(はたあききみ)が桂川に堰(せき)(ダム)を設けて治水を行い、そこから水を引いて広大な水田を開いたと言われている。この堰(せき)が造られたので、渡月橋から下流を大堰川(おおいがわ)と呼んだと言われている。この昭王は河公と同一人物であると言われ、「太子伝」によれば、聖徳太子が大堰(おおい)を訪れ、近くに仮宮を設けたという。この仮宮が川勝寺(せんしょうじ)となり、平安遷都で北に移ったのが広隆寺であるという。川勝寺の名称は、河勝(かわかつ)から命名されたものだろう。広隆寺には桂宮院(けいぐういん)(太子堂)と呼ばれる鎌倉時代の八角円堂があり、中に聖徳太子16歳孝養像が安置され、秦氏と太子の交流を今に伝えている。広隆寺の建立は、推古11年(603)とされ、山城最古の寺院であり、法隆寺とともに聖徳太子建立の日本七大寺の一つとされる。しかし、平安遷都後の弘仁9年(818)に火災に遭ったが、秦氏出身の僧道昌によって再興され、更に久安6年(1150)にも再び焼失、現在の建物はすべて江戸時代に再建されたものである。しかし、仏像だけは二度の火災に遭いながらも、奇跡的に難を逃れた。かくして広隆寺は、仏像博物観と呼んで良いほど数多くの傑作を今日に伝えている。

南大門(総門)  三間一戸の楼門        元禄15年(1702)

再建さえた楼門で、南面し、入母屋造桟瓦葺である。上層の軒は二重で、腰の周囲に廻縁を廻らし、手法は和様であるが、僅かに唐様を加味している。正面左右の金剛柵内に仁王像を安置しているが、製作年代は恐らく室町時代と考えられる。現在では、この門が総門となっている。

重要文化財  講堂            平安時代(永万元年ー1165)

楼門を入るとすぐ見える本瓦葺四柱造の建物で、五間四面、斗栱は和様出組、内部は化粧屋根裏となっている。京都最古の建物で、俗に赤堂と呼ばれる。

国宝 阿弥陀如来像            平安時代(12世紀)

この像は弘仁時代と伝えられ、木造漆箔である。顔は豊満な輪郭を示し、体躯も肩幅広く、両肘を張り堂々とした落ち着きを見せ、重厚な感じを与える。光背は簡素であるが、像との調和が良い。

上宮王院太子伝(本堂)          享保15年(1730)

入母屋造のこの堂は、本尊に聖徳太子像を安置している。非公開であるが、毎年11月22日に開扉される。

霊宝殿                  昭和時代

広隆寺は各時代の仏像、仏画、古文書等を数多く所蔵している京都随一の古名刹である。従来は、この霊宝殿の中に、ガラスケースを設け、その中に多数の仏像を安置していたが、ガラス戸を空け、あまりにも美しい半跏思惟像に惹かれ、京都大学学生が、キスをしようとして抱きつき、指を折ってしまった。以後、ガラス戸を止め、オープン式にして、半跏思惟像は、本尊として、やや奥まった場所に安置し、簡単に近づけないように変わった。壁面に沿って、数十体の古仏が整然と並ぶ様は、素晴らしい。日本一、拝観し易い霊宝殿である。

国宝  弥勒菩薩半跏思惟像     国宝一号  飛鳥時代(7世紀)

釈迦仏に代わって、この世のすべての悩み、苦しみを御救い下さる慈悲の仏である。用材は赤松であり、製作年代は飛鳥時代である。私は、朝鮮渡来の仏像であると思う。秦氏が朝鮮からもたらしたものであろう。わが国の国宝第一号であり、奈良・中宮寺の弥勒菩薩像と比較されることが多い。私は、中宮寺の半跏思惟弥勒菩薩像に惹かれる。この広隆寺弥勒菩薩像には、学生が、ガラス戸を開けて中に入り、キスをしようとして仏様の指が折れたという話は、あまりにも有名な事件である。事後、お寺では、仏像の陳列様式を変え、壁に沿って一列に並べる見易い方式になったが、この弥勒菩薩像は、本尊のように真中に据え、なかなか近づけないように工夫しているが、開架式を維持し、仏像を拝観する上で、最高の状態にしている。お寺の見識に感服した。

国宝  弥勒菩薩半跏思惟像      朝鮮製  飛鳥時代(7世紀)

「日本書記」によれば、聖徳太子没後1年の推古31年(623)、新羅から遣使があり、太子供養のために仏像1体、舎利、幡一具、小幡十二条を貢納したとある。この仏像が、この弥勒菩薩半跏思惟像である。本像は眼が大きく切れが長く伏目で口元を引き締めていることから「泣き弥勒」とも呼ばれる。堂々とした飛鳥仏(朝鮮製)である。金色が色濃く残っているのは、永年秘仏扱いされてきたからであろう。

国宝  不空羂寂観音像              天平時代(8世紀)

天平時代の作で、八臂の立像であり、全身はすらりと伸び、均整のとれた端麗な姿である。お顔は、高雅で、肉付きは引き締まっていながら弾力性を感じる。贅肉を一切作らぬ巧妙な造り方である。また衣文の彫り方も強い隆起を示す渦文を表し、柔軟流麗である。光背は円形光背のまわりに五つの火焔をつけた板光背である。

国宝  十一面千手観音立像           平安時代(9世紀)

弘仁時代(810~823)の作で千手観音の彫刻像の儀軌通りに十一面四十二臂像に作ってあり、各臂の持物も儀軌の規定に従っている。漆箔像であり、頭部から足までと、合掌する二臂と鉄鉢を持つ二臂は一木彫成であって、他の部分は繋ぎ合わせて作っている。堂々たる威厳のある相好を示している。

国宝  十二神将像(摩尼羅像)          平安時代(9~10世紀)

定朝の弟子である仏師長勢の作と伝えられている。薬師の守護神であるかた十二軀ともそれぞれ顔は怒りを表し、身には甲冑を付け、手には剣、鉾、弓等の武器を持ち、岩座上に立っている。躍動する姿が巧みに作られ、一々変化そ示している。藤原時代の作で、わが国最古の木彫りの神将像である。

国宝  桂宮院               慶長3年(1251)鎌倉時代

境内の西北部に桂宮院(けいきゅういん)、別名八角円堂がある。慶長2年(1251)に、中観上人により再建された鎌倉建築で、単層屋根桧皮葺八柱造であり、頂上に八角形の露盤を置き、その上に法珠を載せている。中央に聖徳太子像、右側に阿弥陀如来像、左に如意輪観音像を安置する。(公開は4,5,10,11月の日曜、祝日のみ)

広隆寺を訪ねたのは久しぶりである。霊宝殿の仏像の並べ方がすっかり変わっているのに驚いた。あれほど、世間を騒がせた学生事件を受けても、公開姿勢を堅持する広隆寺の逞しさに感服した。とにかく、国宝、重要文化財の仏像類が多い事では京都随一であり、一見の価値はある。私が訪れたのは2017年11月下旬の紅葉の季節のせいか、霊宝殿は、私一人であった。紅葉だけが京都ではない。これだけの仏像が並ぶお寺を拝まない人は不幸だと思った。是非、京都へ立ち寄る場合は、広隆寺を拝観して頂きたい。なお、紅葉の季節に京都の西部(洛西)を訪れる場合は、山陰線を利用することをお勧めする。バスで1時間以上要するところを、20分位で到着する。私には、新しい発見であった。

 

(本稿は、探訪日本の古寺「第9巻 京都洛西」、宮本健次「京都 特別な寺」、パンフレット「広隆寺」を参照した)

紅葉に包まれた北野天満宮

2017年11月下旬に京都・北野天満宮を参拝した。天満宮は言うまでも無く、菅原道真公をお祀りする神社である。現在は、むしろ合格祈願の神様として篤い信仰を受けている。歴史を遡れば、延喜3年(903)、菅原道真が無実の罪で配流された九州大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次ぎ、これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊(みたま)信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目に、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を戻し、正二位を贈った。天暦元年(947)、現在の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔(時平の甥)が、自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に造り直されたと言われる。永延元年(987)に初めて直祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。西暦4年(993)に正一位・右大臣・太政大臣の称が贈られた。如何に、天変地異に慄き、天満宮に頼ったかかが判る。幕末の神仏分離令まで三院家の社僧が、代々神官を務めた。天正15年(1587)10月、境内において豊臣秀吉による北野大茶会が開催された。この大茶会の場所として北野が選ばれたことは、聚楽第からもほど近く、秀吉が朝駆けに参詣することも多く、なじみ深い場所であったからだろう。あるいはそれ以上に、北野社が中世以来、詩文の神として一般の深い信仰を集める、庶民群集の場ともなって、京都では祇園とともに東西の遊楽の場でもあったことが原因であろう。江戸時代の頃には道真の温霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。明治4年(1871)に官幣中社に列するとともに、「北野神社」と改名された。旧称の北野天満宮に復活したのは、戦後の神道国家管理を脱したあとである。

北野天満宮の大鳥居

楼門

北野天満宮の楼門で、大鳥居から一列に並んでいる。

重要文化財  中門(三光門)           桃山時代

北野天満宮の中門である。この門から拝殿を包む西回廊も重要文化財に指定されている。

国宝  拝殿            慶長12年(1607) 桃山時代

慶長12年(1607)に建立された建物である。入母屋造の本殿と、同じく入母屋造の拝殿の間を「石の間」で接続して1棟とする。権現造社殿である。唐神社の場合は拝殿の左右に「楽の間」が接続して複雑な屋根構成となる。屋根はすべて桧肌葺き。本殿、石の間、拝殿、楽の間を合せて1棟としており、国宝に指定されている。

国宝  拝殿(お土居からみた)       慶長12年(1607)桃山時代

お土居の上から拝んだ拝殿の横顔である。

御土居(おどい)            天正19年(1591)桃山時代

秀吉が農村にせまった間地と刀狩の意欲は、京都にも迫った。それは聚楽第を構想したとき、既に京都という王城の地に根本的な変化を迫るものであった。それは聚楽第を中心とした城下町化の方向である。まず天正18年(1590)平安京の規模に基ずく町割りを整理し、寺町ー高倉間、堀川以西・押小路以南の地域には、半町ごとに南北の道路をつけた短冊形の新地割を断行した。そしてそのうえで翌天正19年(1591)閏正月、秀吉は禁裏西片の六丁町を大名屋敷とすることとし、従前より居住の廷臣らに替屋敷を与えているのである。つぎに市中散在の寺院を東の京極および安吾院付近にあつめ、前者を寺町、後者を寺の内と称した。最後に、同じ年(天正19年ー1591)、総延長五里二十六町におよぶ御土井(おどい)を建設した。東は加茂川、北は鷹ケ峯、西は紙屋川、南は九条という新しい京都の境域を示したのである。いわば聚楽第を中心とした京都の城塞化であった。秀吉はその竣工を、その年の5月に親しく視察した。現在、御土井が残っている場所は少なくなったが、京都市内に何カ所も残る。特に北野天満宮の御土井は紅葉で有名である。

御土井の紅葉

御土井の紅葉を3枚示した。今や、紅葉の観光地として、天満宮御土井の紅葉は、京都では最も有名な観光場所となっている。

 

11月から12月にかけて京都は、紅葉を求める観光客で、満員であり、ホテルもなかなか取れない程である。北野天満宮に事寄せて、是非、今回は京都の紅葉を楽しんで頂きたい。

 

(本稿は、「日本の歴史{第12巻  天下統一」、「ウイキペディア」、「楽々京都」を参照した)