東大寺   お堂(1)

東大寺には、今まで上げた南大門、大仏殿、法華堂、二月堂以外に多数のお堂が有り、中には国宝や重要文化財に指定されているお堂、仏像、彫刻も多い。ここでは御堂の名称で、出来る限り数多くの堂宇と、その中に収められた仏像、彫刻等を記録しておきたい。案外、専門書にも書かれない御堂がある。

重要文化財 四月堂(三昧堂) 寄棟造 本瓦葺  江戸時代(17世紀)

法華堂の西に、東面して建つ3間四方の堂である。現在の堂は延宝9年(1681)の建立であり、延宝再建時は宝形造りであったが、その後元禄16年(1703)に改造されて、現在のような寄棟造になった。「法華経」を読誦(どくじゅ)して犯した罪障を懺悔して、諸仏の前で赦しを乞う「法華三昧」という法会を行ったことから、三昧堂と呼ばれ、古くは普賢堂とも呼ばれたそうである。千手観音像を本尊とし、須弥壇の両脇に阿弥陀仏と薬師如来像を祀る。北側(裏側)に旧本尊の普賢菩薩像を安置している。

重要文化財  千手観音菩薩立像  木造  彩色       平安時代(9世紀)

正しくは十一面千手千眼観音と呼ぶ。この観音には千の手があり、しかも千手の一つ一つに目が付いていることによって一切の衆生の苦しみをその目で見、その手で救って下さるという。一番多いのは、千手を絞って四十二臂としたものである。この像も、四十二臂と四十二目と見られる。(現在、東大寺ミュージアムに安置されている)

重要文化財 普賢菩薩騎象像  木造  彩色     平安時代(9世紀)

四月堂(三昧堂)の旧本尊であり、現在は北側(裏側)に安置されている。普賢菩薩は、文殊の知恵に対し普賢の行願といい、法華の行者あれば常にこれを護念するといい、普賢菩薩はそれを表している。象に載り合掌する姿が多いが、この像は合掌していない。法華三昧の本尊として祀られることが多い。制作は平安時代と考える。

国宝  開山堂 宝形造 本瓦葺  慶長2年(1250)鎌倉時代(13世紀)

二月堂の西にある開山堂は、元来は重源の造営したお堂で、四方に回縁(まわりえん)を備えた1間の小堂であったが、移築し拡張したものである。開山良弁僧正坐像(秘仏)を安置することから良弁堂とも呼ばれる。開山堂は、重源没後の建長2年(1250)に現在地に移された際に外陣を付加して、方3間の堂となった。小堂ではあるが、純大仏様式の建築として、東大寺再建時の数少ない貴重な遺構である。

国宝  良弁僧正坐像  木造 像高92.4cm  平安時代

等身大の堂々とした檜の一木造りの坐像である。開山堂内陣の六角の厨子に祀られている。右手に生前愛用と伝える如意を構える。壮年期の良弁の風貌を写したと言われる。開山堂に安置され、秘仏であるが、12月16日の良弁忌に特別開扉される。なお同じ日に、法華堂の秘仏「執金剛神立像」も開扉されるので、覚えておくと2つの秘仏を拝める。

手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)入母屋造 本瓦 江戸時代(17世紀)

法華堂の南に建つ建物である。もとは東大寺鎮守八幡宮といい、宇佐神宮(大分県)の宇左八幡宮大上(おおかみ)を勧請(かんじょう)して建てられた。八幡宮は、東大寺大仏の建立について託宣を下したことで、天平勝宝元年(749)東大寺に勧請され、それとともに神仏習合によって八幡大菩薩となり、仏教寺院の鎮護神として広まった。興福寺が、神仏習合で、非難され、五重塔が焼かれるような運命に遭ったが、さすがに東大寺には、時代の荒波も押し寄せなかったようである。現在の本殿は、公慶上人により元禄4年(1692)に再建された。

重要文化財 大湯屋 正面入母屋造 背面切妻造 本瓦葺 室町時代(15世紀)

大仏殿の北に当たり、鐘楼のある岡の北の谷間に建つ。当初の建物は治承4年(1180)の兵火で焼け、重源により再建された。以後、幾度かの建て替えや修理を経て、昭和の解体により、15世紀初めの応永年間修理の時の姿に復元された。大仏様と禅宗様を混用し、東大寺の伝統と斬新なデザイン感覚を見せる建物で、中世の沐浴の様子を伝える貴重な遺構である。

 

東大寺には、正倉院とか転害門(てがいもん)とか、様々な御堂が建っている。今回は四月堂、開山堂、手向山八幡宮、大湯屋など法華堂に近いお堂を招介したが、次回以降は、お堂(2)や遺跡などについて稿を改めて紹介したい。

 

(本稿は、ビジュアル文庫「東大寺」、図録「東大寺大仏 天平の至宝 2010年」、原色日本の美術全30巻のうち「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」、「第9巻中世寺院と鎌倉彫刻」、探訪日本の古寺第12巻「奈良Ⅲ」を参照した)

東大寺   戒壇院

栄耀(えいよう)と普照(ふしょう)、二人の僧が、授戒の師を求めて入唐(にっとう)したのが、天平5年(733)である。その9年後、二人は慶州大明寺(だいみょうじ)に鑑真を訪ねて授戒師の渡航を懇願した。鑑真は日本への渡航を志して12年、5度にわたる挫折を経験して、天平勝宝5年(753)に日本の土を踏んだ。翌年(754)2月に平城京に入り、4月には大仏殿前に戒壇を築き、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに正式な綬戒を行った。後に建立された下野国薬師寺、筑紫国観世音寺の戒壇とともに「三戒壇」と呼ばれ、東大寺の戒壇院は、官僚の養成所として重きをなした。戒壇院の建立は東大寺要録によれば、天平勝宝7歳(755)である。この戒壇院は、東大寺境内の西方に建てられているが、大仏殿前に築いた戒壇との関係について不審に思っていたが、今回精査することにより、全く別途のものであることが判明した。大仏殿前には、灯籠があったので、多分、大仏殿前の右か左の広場(現在の回廊の中)であったと思う。戒壇院の創建は、天平勝宝7歳(755)であるが、兵火などにより3回も焼失した。現在の戒壇院は、江戸中期の享保17年(1732)に再建されたものである。

戒壇院の入口                    江戸時代(18世紀)

戒壇院には、東大寺要録によれば、講堂、三面僧坊などがあったことが知られているが、現在は千手堂が付属するのみである。現在の戒壇院は、やや丘のように盛り上がった地であり、階段を上がると四脚門がある。大仏殿には、年間数百万人の観光客が来るが、戒壇院まで来る人はその5%にも満たないそうである。確かに、私が戒壇院を訪れても、殆ど見物客を見ない。

戒壇院建物                   江戸時代(18世紀)

四脚門を入った戒壇院は本瓦葺きで、正面に広い光背が付いている。

戒壇院建物を取り囲む白い庭

戒壇院を取り囲む庭は、白く清められている。とても気分が爽快になり、改まった気持ちになる。

戒壇院内部

中央に多宝塔、2段目に四天王像を安置している。戒壇院内には、多宝塔を中心に、剣を握る持国天、戟を持つ増長天、右手で宝塔を捧げる多聞天、筆と巻子を両の手にした広目天が安置され、四周を守護している。この四天王像は、私は天平彫刻の最高傑作であると思う。全身に彩色紋の痕があって、造立当時の華麗さをしのばせる。創建当初の戒壇院には銅像の四天王像が祀られていたが、平家の戦火で焼かれ、現在の塑の像は、江戸時代の享保17年(1732)に戒壇院が再興された時、中門堂にあった四天王の古像をここへ移したものであるとされる。(私は、一番昔は法華堂内に安置されていたと考えている)

国宝  持国天像  塑像彩色  像高 163.6cm  奈良時代(8世紀)

東南に位置し、かれのみが兜をかむり、手には剣をとって、足はしっかりと邪鬼を踏む。また、目はしっかりとみひらき、口はぎゅっとへの字に結んで、像身全体に断固たる意志力がこめられている。

国宝  増長天像  塑像彩色  像高 163.6cm  奈良時代(8世紀)

西南隅に立ち、右手に矛をつき、左手を腰にあて、大喝しながら厳しく相手に迫ろうとする姿である。このように持国天と増長天には、ともに仏敵破㳃の積極的なはたらきが示されている。

国宝  広目天像  塑像彩色  像高 163.3cm  奈良時代(8世紀)

広目天は筆と経巻を持ち、よく儀軌に従っている。私は、高校2年生の時に、京都大学を出た若い英語の教師に、この写真を示され「どうです。いいでしょう。怒りが内にこもっているところが素晴らしいでしょう」と説明されたことがあった。ひょっとしたら、この先生の影響で、大学時代に大和古寺巡礼の旅を思い立ったかも知れない。17歳の高校生に与えた影響は実に大きいと思う。そのせいか、四天王像の中では、この広目天が一番好きである。

国宝  多聞天像  塑像彩色  像高 162.4cm  奈良時代(8世紀)

東北隅に立つ。宝塔を捧げるところは儀軌にしたがっている。この広目天、多聞天の二像の形状は非常に静的であり、顔の表情もほとんど怒りをおもてに表さず、細くあけられた目の奥で、視線はなにか永遠なものへ向かってじっと見据えられている。しかしその知的な瞳は、前に立ついかなる者の心中を鋭く見通してあやまりなく、もしも邪悪な心の者があれば、この像の喝破を受けておのずから悔いあらためざるをえないものであろう。広目・多門の二天に現されているものは、仏の静かな叡智がうちに秘める偉大な力である。

 

様々な思い出を持つ四天王像は、私に何時も大きな喜びを与えてくれる。これほど、激しくて、静かな四天王像は見たことがない。仏敵の降伏をちかう四天王の姿勢にも、内面的なものと外面的なものとの二態があることは、この戒壇院の像によく具現化されているわけである。この四天王の制作者は、これが群像表現の上に動と静のみごとな対称として芸術化したものである。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏ー天平の至宝  2010年」、ビジュアル文庫「東大寺」、探訪日本ンお古寺全15巻の内「奈良Ⅲ」、田中英道「日本美術史全史」、原色日本の美術全30巻の内「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」を参照した)

江戸と北京  18世紀の都市と暮らし

18世紀には江戸の人口は100万人を超え、都市として発達を遂げていたが、北京も清朝の首都として最も繁栄を極めた時代であった。日本と中国には文化交流の長い歴史があり、江戸時代の「鎖国下」においても中国貿易は公認され、長崎を窓口として、文物の交流は続いていた。この展覧会は、18世紀を中心にしたそれぞれの都市の成り立ちや人々の暮らしを比較展観する企画である。私の興味は、ベルリン国立博物館から出品された「熙代勝覧」(きだいしょうらん)を観ることである。この作品は、このブログで書いた「お江戸散歩」の中で、摸作品が三越日本橋店の地下1階の地下鉄沿いに展覧していることに発する。どうしても本物を見たい、しかし、今更この作品だけを見るためにドイツまで出かける体力が無い、時間はあるが経済力が乏しいと考えていたところ、江戸東京博物館で、この「熙代勝覧」と、併せて故宮博物院から乾隆帝80歳の式典を色鮮やかに描いた「乾隆八旬万寿経典図巻」が国外において初公開となり、北京の賑わいと華やかさを伝えると、同時に康熙帝60歳を祝う「万寿盛典」も同時公開されると聞いて何が何でも拝観したと思ったのである。従って、この3図については、出来る限り詳しく調べるが、他の項については、手抜きすることにして1回で書き終わるようにした。なお、日本の美術品は江戸東京博物館の、北京は首都博物館(在北京)の所蔵品であり、例外として故宮博物院とベルリン国立アジア美術館の所蔵品が各1点あるのみである。

乾隆八旬万寿経典図巻(けんりゅうはちじゅんまんじゆきょうてんずかん)清時代故宮博物院

皇帝の誕生日を祝日にしたのは、唐代の玄宗皇帝が初めとされ、千秋節と呼ばれていた。清代では万寿節と称し、元旦、冬至と並ぶ宮廷の三大祝典と定められた。人生の節目とされる60歳、70歳、80歳の祝いはひときわ盛大で、中でも康熙52年(1713)の康熙帝60歳の祝賀は最も華やかであり、文献や絵巻に記録されている。康熙帝の孫である乾隆帝は、80歳を迎えた乾隆55年(1790)は祖父にならった豪華な式典を挙行した。その記録図が、この図巻である。園林の離宮から西直門を経て北京に入り、紫禁城正華門に至る行列を左から右に向けて展開させ、沿道に設けられた舞台や様々な飾り物、行列の見物に訪れた人々を鮮やかに描いている、上下両巻で計130メートル余りとなる。

万寿盛典(まんじゅせいてん)全120巻、康熙56年(1717年)刊清時代

「万寿盛典」は、康熙帝の60歳の誕生祝賀行事を記録した書物で、その巻41,42は図版である。掲載された148枚の図は、つなぎ合わせると一続きの絵になり、長さ50メートル余りにもなる。康熙帝が西郊の離宮・暢春園(ようしゅんえん)から内城にあたる紫禁城に戻るまでの行列と、沿道を彩る装飾や多種の演劇舞台など華やかな慶祝の様子が、忠実に描写され、見物に集まった人々も描かれている。この図面の場合は、左から、店舗、菓子屋、仏具店、香料店、八百屋、仕立屋、煉瓦屋、薬屋、が並んでいる。北京の繁栄の様が見える。この図の構成に注目が集まり、「熙代勝覧」の作成の下絵に参考とされた可能性が高い。

「熙代勝覧」(きだいしょうらん)作者不詳 江戸時代(18世紀)ベルリン国立アジア美術館

東海道の出発点である日本橋と、遥かに富士山を望む、浮世絵の世界である。

日本橋通りの三井越後屋の前である。江戸店(えどだな)でも随一の呉服商である。三井家の越後屋で立看板には「現銀無掛直」(げんきんかけねなし)とある。

神田今川橋から日本橋までの日本橋通りにおける、商家が続く街並みと人々で賑わう様子を詳細に描いている。回向院再建の勧進箱と記される文字から、文化2年(1805年)に描かれたと推察される。文化3年(1806年)の大火で当該地域は焼失しており、それ以前の18世紀後半における日本橋風景が想起される。なお「熙代勝覧」とは「輝ける御世の優れたる景観」の解釈がある。図の中には1700人近い人々や犬、猫などが登場している。この絵はⅠ3年振りの里帰りであり、絶好の機会に見ることができた。全長12メートルの長巻である。図録の末尾に江里口友子氏の”「熙代勝覧」と「万寿盛典」”と題する論文が掲載されており、興味深い見解が述べられているので、最後に紹介したい。

漢装婦嬰図(赤子を抱く漢族の女性)  清時代(18世紀)

北京では、子供が生まれて三日目に来客を迎えて宴席を開き、そして初めて産湯に浸からせる「洗三」(せんさん)や、最初の誕生日に書籍や筆、算盤など様々な品を子供の前に並べ、そこから何を手に取るかで子供の将来を占うという儀礼が行われる。漢族の服装をした女性が、頭頂部で髪を結んだ赤子を抱きかかえる所を描いた絵である。(育てる)

婦女一代鑑 喰初めの図  天保14年(1843) 歌川國定(初代)

子供が生まれて100~120日目には、生涯食べることに困らないようにという親の願いを込めて、小さな祝い膳を用意して食事の真似事をさせる「お喰い染め」が行われた。本資料はこの様子を描いたもので、右上には解説も付されている。なお、愛知・岐阜県では、この「お喰い染め」の習慣は、現在も残っている。(育てる)

過年新都(正月用吉祥画)   清時代(18世紀)     (歳時)

18世紀の北京では、満州族や漢族のほか蒙古、チベット、イスラム系民族など多くの民族が集住し、異文化の受容と融合が進み、より多彩で特徴的な風習が育った。この絵は、新年を祝うために、門口や屋内の壁に飾られる版画で、門神とともに年越しの必需品であった。明代以降、木版印刷によって大量生産されるようになり、鮮やかに彩色した木版年画も多く作られた。福寿や富貴を祈願する画、神話伝説・民間故事など見て楽しむ画、さらに子女を教育する画など幅広い題材を取り扱って、富裕層から庶民まで親しまれた。本資料には大晦日に家族団欒で、神や先祖を拝んだり、餃子を作ったりして愉しむ様子が描かれている。

「十二ケ月絵巻」正月の風景  英一峰作   江戸中期   (歳時)

十二ケ月の行事と風景を描いた絵巻のうち正月の場面である。画面左上の門には角松と正月飾りが備えられ、その横に裃を付けた男性が立つ。彼はおそらく年礼(年始の挨拶)に訪れたとみえ、お供の人物から年賀の品である年玉を手渡されている。左下には、正月の遊びに興じる子供達も描かれている。

天中五毒献瑞図(端午の節句に掛ける絵)  新時代(18世紀)  (歳時)

「天中」とは端午の節句のことで、五毒はその時期に活発になり、毒を持つとされるサソリ、蛇、ムカデ、ガマ、ヤモリの五種の生き物を指す。中心には五毒を避ける力がある虎が描かれており、端午の節句には厄除けのためにこうした絵を掛けた。また絵の中には五毒以外に、様々な旬の果物も描かれている。

五毒肚兜(端午の節句用腹掛け)  清時代         (歳時)

黒地に花、真中に虎、そしてその周りにサソリ、蛇、ムカデ、ガマ、ヤモリの五毒が刺繍された子供用の腹掛けである。5月になると活発になる五毒に対抗するため、子供にはこうした刺繍の施された腹掛けを着せた。

「江戸名所百景」水道橋駿河台  歌川広重作  安政4年(1857)

歌川広重は人気絶頂の浮世絵師であり、北斎を凌ぐ人気を博していた。五月五日の端午の節句は、男児の節句であるという考え方で、武家社会であった江戸時代には特に尊ばれた。この日は邪を払うとされる菖蒲や蓬を身に付けたり、屋根に掛けたりしたほか、酒に菖蒲をいれて菖蒲酒も飲まれた。現代では、菖蒲をお風呂に入れる習慣として残っている。鯉登りを庭先に立てて、子供の立身出世を願った。

 

いろんな歳時は、中国からわが国に輸入され、同じ歳時が、夫々独得に発達したのである。さて、「熙代勝覧」について、図録の巻末に江里口友子氏の”似てて、違って、おもしろい。「熙代勝覧」と「万寿盛典」”という優れた論文があるので、出来るだけ簡潔に触れたい。巻頭の題字「熙代勝覧」は書家・佐野東州の揮毫で、「熙(かがや)ける御代の優れたる景観」と解される。「万寿盛典」は、清朝の全盛期の基礎を築いた康熙帝(こうきてい)の60歳を祝し、帝の詩文や事績、祝賀行事などを詳細に記録した書籍で、康熙56年(1717年)に刊行された。全120巻のうち巻41,42は帝の行列と沿道の祝賀の様子を描いた版画であり、延べ50メートル余の絵巻になる。「熙代勝覧」には落款がなく、絵師は不明である。候補として、巻頭の題字を書いた佐野東州の娘婿が山東供山であったことなどから、その兄の戯作者で絵師でもあった山東京殿(さんとうきょうでん)の説、また絵の作風から勝川春英の説があるが、確定には至っていない。山東京伝は考証学者の一面も持ち、江戸の街頭風景を画文で表した「四季の交加(こうが)」を出版していることから企画者としても考えられている。特に「四季の交加」には「熙代勝覧」と類似する構図が幾つかあることが知られている。「万寿盛典」を参考にした場合、「熙代勝覧」の絵師が実見する機会はあったのであろうか。絵師ではないが、山東京伝の周辺で「万寿盛典」を実見した可能性が高い人物がいる。戯作者で狂歌師の太田南畝(おおたなんぽ)である。南畝は1794年、学問吟味でお目見得以下の主席になり、1801年1月に大阪銅座御用の命を受け、1801年3月11日から1802年3月21日までの約1年間、大阪南本町五丁目の宿舎に滞在していた。その際、「唐土名所図会」の企画者である木村兼葭堂(けんかどう)と頻繁に往来し、1801年6月から翌年1月の間に数回面会したことが「兼葭堂日記」に記されている。兼葭堂は書斎名で、大阪北堀江で酒造業を営んでいた。本草学・物産学を学び、絵画・詩文に長じて様々な器物や書籍類を収集し、出版も行う多芸多才な人物であった。彼のコレクションと知識の広さは、全国に知れ渡り、各地から情報取集や蔵書閲覧を求めて多くの者が集まった。(伊藤若冲も木村兼葭堂と旧知の間柄であった)2万巻に及ぶ蔵書は、1802年に没すると、蔵書の多くは幕府の命により、翌年、下賜金と引き換えに昌平坂学問所に収められた。大田南畝が兼葭堂から情報を得て「唐土名勝図会」編集に用いられていた「万寿盛典」を閲覧した可能性は高い。ところが、その頃、新たな「万寿盛典」の入荷があった。その情報は、南畝の記録に見られる。南畝は1804年から2年間、長崎奉行所の配下として長崎に勤務する。彼は長崎で見聞した唐船の書籍や海外からの新奇な情報、様々な書画などを自著の「瓊蒲又綴」(けいほゆうてつ)等に記録している。「瓊蒲雑綴 巻上」には、1805年1月24日から31日頃の間に清から長崎に入港した中国船の積荷書籍中に「万寿盛典初集」があったこと記されている。南畝が入手することは不可能であっただろう。南畝が連絡して入手させた可能性も想定できる。積み荷の到着した文化2年(1805)1月下旬からほどなく、「熙代勝覧」制作の関係者が「万寿盛典」を入手したと仮定した場合、絵巻の作業工程から判断して「熙代勝覧」の完成は早くても文化3年(1806)以降と推察される。「熙代勝覧」の駿河台町の場面には、回向院本堂再建勧進者の後に付き従っている男性の担ぐ木箱に「文化二年」の銘が記されている。文化3年(1806)3月4日の大火(丙寅大火)で焼失した江戸の街に対するオマージュを込めて、繁栄していた焼失前の姿であることを暗に示すために、この紀念銘は書き込まれたとも考えられる。この文化二年の書き込みから判断して、少なくとも下絵の準備は文化2年(1805)になされており、完成への実際の作画は多少遅れてたとの指摘もある。想像を逞しくすることが許されるならば、「熙代勝覧」の構想を結実させることが出来た大きな要素である「万寿盛典」を、発注者が入手した記念すべき年、あるいは構想が調った年を記したものとは考えられまいか。「熙代勝覧」には、徳川幕府の治世と江戸の繁栄を紀念し、かつ祈念する意も込められて、「熙代」の文字が用いられたに相違ない。このように、それぞれの都市の18世紀の繁栄を描きとどめた「熙代勝覧」と「万寿盛典」は、様々な情報を未来の私たちに伝え、その輝きは未だに精彩を放ち続けている。

さて、私は「お江戸散歩」で思いがけない絵巻「熙代勝覧」に出会い、何とか「本物」を拝見したいと考え続け、思い続けたが、今回、予想外に「熙代勝覧」と「万寿盛典」に接することができ、この半年間思い続けた夢が適った。ただし、「江戸と北京」という展覧会の紹介はかなり省略したことになったが、何分にも「熙代勝覧」を詳しく知りたいとの思いが、すべてを決し、最後には江里口友子さんの論文の要領をまるきり写した感じのまとめとなったが、お許しを戴きたい。

 

(本稿は、図録「江戸と北京 18世紀の都市と暮らし 2017年」、伊藤康広「伊籐若冲」、日本橋保存会「熙代勝覧  パンフレット」を参照しした)

 

 

 

春日大社  千年の至宝(2)

本殿が創建されてしばらくののち、長岡京、平安京と都が遷り、大和の地は古都(南都)として認識されるようになった。しかし、春日大社は藤原氏の氏神としてこの一門の崇敬を受け、ますます発展を遂げた。当時は数日かけてのお参りで、こうした春日への社参は「春日詣」(かすがもうで)と呼ばれ、他の社寺への参詣と一線を画す特別な機会とされてきた。春日を氏神として祀る藤原氏の春日詣は数知れず、有名な事例としては、藤原道長の「御堂関白記」(みどうかんぱくき)に見られるように、藤原氏の氏の長者たる摂関家の当主は生涯において何度も春日詣をしたが、これは自らの地位を内外に知らしめる重要な機会であった。春日詣は藤原氏のみならず天皇や上皇によっても行われた。春日大社は藤原氏の氏神から、国を守護する神として改めて認知されていくのである。

春日宮曼荼羅 二条師忠作(一説)鎌倉時代(13世紀)奈良・南市町自治会

春日曼荼羅のなかには、神と仏が一体であるとする本地垂迹思想に基づき、本社、若宮の本地仏を描く作例が多く見られる。その対応関係は第一殿・釈迦如来、第二殿・薬師如来、第三殿・地蔵菩薩、第四殿・十一面観音、若宮・文殊菩薩である。本図は大幅の一枚絹に描かれた、春日曼荼羅中最大規模をほこる作例である。一の鳥居を起点として金色の参道が通り、左手に東西両塔を見て、参詣の道筋が良く描かれている。画面上部には三蓋山、春日山、若草山が配列さえれている。この山並みに本地仏が、五体配列されているが、これは珍しい特徴である。慶長19年(1614)には、南市の春日講本尊であったことが確認されるが、制作者は二条師忠との説がある。

春日浄土曼荼羅  鎌倉時代(13世紀)  奈良・能満院

画面下部に二乃鳥居以東の春日社殿を、上部に本地仏とその浄土を截金(きりかね)を使用して壮麗に描き出した優品である。春日の神域が仏国土であることを直接的に視覚化したもので、中央に第一殿本地釈迦如来の霊山浄土等を表したものである。

重要文化財 四方殿舎利厨子  室町時代(15世紀) 奈良・能満院

木製、基壇・軸部・屋蓋から成る宮殿(くでん)形厨子である。総体を黒漆塗りし要所に朱漆と彩色を施す。軸部四方の扉奥には、春日神鹿御正体・三面火焔宝珠・大般若経宝幢・五輪塔形の金堂金具を装着し、仏舎利や木彫仏を納めた板をはめている。各種の舎利信仰の意匠を凝らし、精緻な技術を用いた、集大成ともいうべき作品である。この厨子に関して、興福寺大乗院第27代門主である尋尊(じんそん)の記録「大乗院侍者雑事記」に見える。各部分の作者も明らかである。

鹿座仏舎利  慶安5年(1652) 江戸時代(17世紀) 春日大社

白雲に坐した鹿の鞍の上には榊が立ち、その葉叢には円相の舎利容器を安置している。鹿が見にまとっているのは通常は馬につける鞍の皆具(かいぐ)であり、これを装具した鹿に榊という組み合わせは、一連の鹿曼荼羅と共通するものである。他にも鹿の足元の白雲、榊にからむ藤、その枝先に垂れる御幣(ごへい)、榊の根元に巻き付けられた布、外容器に描かれた日輪のさし昇る春日山など、通常鹿曼荼羅図に描き込まれる要素のほとんどが、集められている。外函の添状により、慶安5年(1652)に興福寺の僧侶から、金剛経とともに若宮へ奉納されたことがわかる。

春日権現記絵(春日一巻本) 伝冷泉為恭筆 絹本着色 江戸時代(19世紀)春日大社

春日信仰の一つの集大成が、鎌倉時代後期に成立した「春日権現記」(かすがごんげんき)である。春日の神々への信仰は、多くの美術を生み出してきたのである。この絵は、春日権現記の一部であり、二乃鳥居を経て南門に至る社頭の風景である。小浜藩主酒井忠義(さかいただあき)が冷泉為恭(れいぜいためちか)に春日権現記の一部を写させ、「寄贈」されたものだという。

競馬衝立(部分) 文久3年(1683) 江戸時代(17世紀)春日大社

春日社の式年造替に際して新調される衝立で、文久3年(1683)の式年造替時に調進され、若宮社に置かれたものと考えられる。神事としての競馬が、表裏両面に描かれる。故実にならい、騎手の衣装の色を赤と青に分けて戦う。片面には視線を交わし出走の間合いをはかる騎手たちの図である。相撲で言えば立ち合いの場面である。古くより宮中行事として行われていた競馬を描く衝立である。

獅子・狛犬(第一殿) 木造・彩色  鎌倉時代(13世紀) 春日大社

   

神社や寺院の入口の左右に置かれ、普通には狛犬と呼ばれるが、頭頂に角があるのが狛犬、無いのが獅子である。奈良時代までは獅子一対であったが、平安時代以降は獅子と狛犬の一対であることが多い。春日大社の第一殿の前に置かれていた。外気に触れる環境に長年置かれていたため破損も多く、第60回次造替時に本殿を離れて保存されるようになった。この2躯が、最も優れ、制作時期が古いと考えられる。ずんぐりとして、筋肉の起伏をみせる体つきは鎌倉時代の特徴である。

春日大社にまつわる宝物は多々あるが、ここで選んだ宝物は、特に私が好んだ物である。なお、武具、鎧など是非紹介したい物も多いが、2016年11月に、私は春日大社に参詣し、併せて「新宝物館」も拝観しているので、後日、そこで拝観した武具、鎧等を招介したい。

(本稿は、図録「春日大社 千年の至宝」、図録「平安の正倉院 春日大社の神々の秘宝 2012年」、現色日本の美術「第16巻 神社と霊廟」を参照した)

春日大社   千年の至宝(1)

春日大社は藤原氏の氏神として、神護景雲2年(768)に社殿が建てられて以来、千二百年余りにわたって続く神社である。約20年毎に神社御殿を造り替えを行い、これを式年造替(しきねんぞうたい)と呼び、昨年(2016年)に第六十次式年造替を行った。春日大社は国宝352点、重要文化財971点と国宝4棟、重要文化財27棟の建造物を所有し、神社の中でも屈指の文化財を保有している。春日大社は、南都焼打ち(1180)や松永久秀と三好三人衆との戦い(1567)等の影響を受けることも無く、神域の森に守られ、本殿や宝庫が焼けることも無かった。平安時代最高の工芸品は春日大社にのみ残っているものが多数あり、春日大社は「平安の正倉院」とも呼ばれている。今回の展覧会では、春日大社の宝物を集め、全国に散在する春日信仰の宝物も出品されて、約1300年の春日信仰を拝観できる機会となった。今回の展覧会では、展示品は250点に及び、展覧会の入場者も極めて多く、若い人も多数参観するという珍しい展覧会であった。春日大社は五殿から成り立っている。最初に四殿が出来、平安時代の末頃(1135)に若宮殿が創建された。元来、藤原氏の氏神であったが、天皇の母君である皇后の氏神であり関白の氏神であるため、春日大社は国家鎮護の神社になり、皇室、関白等の参詣が相次ぎ、都が長岡、平安京へと遷り、数日かけてのお詣りとなり、「春日詣」(かすがもうで)と呼ばれるようになった。今回の展覧会では、「小右記」、「御堂関白日記」、「栄花物語」、「台記」等、第一級の歴史的書物が展示され、それを見るだけでも価値がある展覧会である。(東京国立博物館3月12日まで)

鹿島立神陰図  二条英印作   永徳3年(1383) 南北朝時代 春日大社

奈良時代の初め、春日社第一殿の祭神であるタケミカズチノミコトは常陸国(ひたちのくに)鹿島(かしま)から御蓋山(みかさやま)の山頂に降臨したとされる。鹿島からの道行き、命(みこと)は鹿の背に乗り、春日の「杜」(もり)へと降り立ったという。このことから春日大社では鹿は神の使い、すなわち「神鹿」(しんろく)として神聖視され、今も奈良公園に遊ぶ鹿たちは、「命」を乗せた「神鹿」の子孫とされる。霞で隔てた画面上上段の御蓋山、春日山と月輪、鹿に乗る「命」とそれに従う老壮と壮年の二人、金色の円相、藤原氏を象徴する藤がからむ榊と枝先で揺らぐ五筋の紙垂(しで)など、ほぼ同じような画面構成である。画中に描かれる情報を絞り込むことで、礼拝画的な要素を強く押し出した画像である。礼拝の対称となった神鹿の姿は、日常的に春日に社参できない都の人々の礼拝画として作られたものが多い。

国宝 本宮御料古神宝類 黒漆平文根古志形鏡台 平安時代(12世紀)春日大社

木を掘(こ)じた(堀り起した)ような形からその名がある。「古事記」には天照大御神が天石屋戸に籠ったときに、諸神が天香久山に生える榊を根こじに掘って、上枝に勾玉の玉飾りを付け、中枝にヤタノカガミを懸け、下枝には和幣(こぎて)を垂らしたという記事がある。このような習俗が根古志形鏡台の形式に及んだものと思われる。本宮御料とは、昭和5年(1930)の造替に際して「轍下」(てっか)されたもので、これを契機として昭和10年(1935)に建てられた宝物館に収められたもので、今につながる春日大社の宝物護持の考え方につながる。

国宝 本宮御料古神宝類 紫檀螺鈿飾剣     平安時代(11世紀)春日大社

この刀剣は装飾を略した儀仗太刀(ぎじようたち)の数少ない古代の作例である。飾剣が朝議に参列する際に用いられたのに対し、これは「飾剣代」(かざりけんだい)として通常の行事で廃用された刀剣である。本作品では、平安時代後期における高度に発達した装飾表現と、上古より刀装・刀剣の伝統の結実をうかがうことができる。

国宝 若宮御料古神宝類 金鶴及び銀樹枝   平安時代(12世紀) 春日大社

春日大社若宮殿には金銀製の鶴や樹枝の造物(つくりもの)が伝わる。鶴は金の板を打ち出して作った背部と腹部を合わせて別製の足を指し込む構造である。樹枝は銀板を丸めて作っている。州浜台などに立てたらしく、亀なども付属していたと推察できる。恐らくは蓬莱山をかたどった造物であったと考えられる。なお、若宮御料とは若宮神社から「轍下」された宝物の意味である。

重要文化財  秋草蒔絵手箱      平安時代(12世紀)   春日大社

長方形合口造(あいぐちつくり)の手箱で内部に懸子が付き鏡・蒔絵鏡箱・蒔絵白粉箱・白磁合子などが納められている。表面の意匠は、厚い平目地に薄肉金高蒔絵を駆使して、萩・菊・桔梗・薄・女郎花などの秋草が風に靡く様子が表されている。本手箱は内用品が伴っている点が貴重である。

国宝 本宮御料古神宝類 蒔絵琴  平安時代(12世紀) 春日大社

甲面を研出(とぎだし)蒔絵で装飾した13弦の箏で、金、銀に加え銅粉を蒔くのが珍しく、内蒔や蒔暈(まきぼかし)などの技法も用いた平安蒔絵の再興傑作として知られる。周囲に飾られた宝相華文の螺鈿は多くが剥落しているが、花芯に琥珀を飾り、優美で力強く毛彫を加えた高度なもので、当初の華麗な姿を偲ばせる。

 

(1)では、神鹿及び古神宝類をまとめた。神宝とは祭神の御料、つまり神々の使用される物として奉納された宝物をいう。式年造替の場合、神宝類はその都度新調され、その際に役目を終えた旧神宝を社家などに下す「撤下」(てっか)という習わしがあり、この撤下された神宝を「古神宝」と呼んでいる。春日大社に伝わる古神宝は、本社に奉納された「本宮御料古神宝」と若宮(わかみや)に奉納された「若宮御料古神宝」の二つに大別される。古神宝は、平安時代における工芸技術の水準の高さを示している。「平安の正倉院」とも呼ばれる所以である。

 

(本稿は、図録「春日大社  千年の至宝  2017」、図録「春日大社の神々の秘宝 2012年」、原色日本の美術全30巻のうち「第16巻 神社と霊廟」を参照した)

東大寺  二月堂 お水取り

東大寺境内の東側ーかって上院と呼ばれた地区にあり、若草山の麓に経つ国宝二月堂の創建は天平時代までさかのぼる。現存の建物は寛文2年(1669)の再建であり、西正面からは大仏殿の鴟尾(しび)や奈良市街が見下ろせる。本尊は2体の十一面観音菩薩像であるが、秘仏のため、私は拝観したことが無い。二月堂では天平勝宝4年(752)以来1250年以上にわたり守り継がれたきた「修二会」(しゅにえ)の行(ぎょう)が旧暦2月に行われる。お水取り行事は、毎年テレビで放映され、観光書にも書かれて、一般に良く知られている。しかし、お水取りというのは、3月1日(新暦)から14日にかけて行われる修二会(しゅにえ)の一部で、必ずしも東大寺にかぎるわけではない。例えば、笠置の正月堂でも、奈良の秋篠寺でも、その他多くの神社仏閣で、古代からおこなわれてきていた「霊水を汲む」神事なのである。人間にとって、水は欠くことのできない生命の源である。ことに農耕を営む民族には、田畑を耕す水ほど大切なものはない。そこに仏教が渡来するよりはるか以前のことで、縄文・弥生の遺跡を見ても、泉が生活の中心をなしていることがわかる。太陰暦の正月、二月は早春の時期であり、草も木も人間も溌剌とした生命感にあふれる季節である。太古から民衆の間で行われた春の祭りに、仏教が結びついてできたのが、正月に行う修正会(しゅしぉうえ)であり、二月に行う修二会(しゅにえ)である。

国宝  二月堂  寄棟造 本瓦           江戸時代(17世紀)

正面7間、側面10間の寄棟造り(よせむねつくり)で、山の斜面に建ち、寺内では最も高い所にある。舞台造り(懸崖造り)とも言われる建築様式である。修二会の会期中は、独特の大きな円い提灯が飾られる。

国宝  二月堂  上段の様子           江戸時代(17世紀

二月堂の上に上がると、通常、人は少ない。大仏殿を見て帰る観光客が多いせいだろう。しかし、折角東大寺まで来たら、是非、法華堂、二月堂くらいは見学してほしい。この二月堂からの奈良市街の眺めは素晴らしい。東大寺大仏殿の鴟尾(しび)が金色に輝く。修二会を始めたのは東大寺の開山、良弁(ろうべん)僧正の高弟であった実忠(じつちゅう)和尚である、彼はインドから渡来した僧だったとも言われ、東大寺建立にあたっては、さまざまな功績があった人である。

良弁杉   二月堂の舞台造りの下に生える杉の樹

東大寺の開山良弁(689~773)は「良弁さん」の名で親しまれ、文楽や歌舞伎の「二月堂良弁杉由来」の題材となった良弁杉の故事は良く知られている。観音に祈願してやっと子を授かった母は、ある日、愛児を大鷲にさらわれる。母は、その行方を追って30年余り諸国流浪の旅に出る。一方、子はたまたま春日神社に参詣に来た義淵(法相宗を広めた高僧)によって杉の木にぶらさがっているところを助けられ、長じて名僧良弁となった。母は見つからぬ子をあきらめて帰る舟の中で、良弁の話を聞く。「東大寺の良弁法師は、かって鷲に弄ばれているところを助けられた」と。母は早速、東大寺に良弁を訪ねる。名僧の誉れ高い良弁には会えず、寺僧の教えるままに大杉に張り紙をして待った。これが良弁の目にとまって母と子は対面した。良弁は仏の加護に感謝し老母を東大寺に迎え、終生孝養を尽くしたのだった。この故事を伝えて、いまも二月堂の舞台造りの下に「良弁杉」の樹が残る。もとの良弁杉が昭和36年(1961)の台風で倒れ、その枝木を挿し木したものという。なお、私は昭和28年3月13日のお水取りに参列したことがあるが、古い良弁杉が茂っていた。

重要文化財  閼伽井屋(あかいや)若狭井戸  お水取りの井戸

お水取りの井戸を「若狭井」(わさい)と呼ぶ。実忠和尚が修二会をはじめた時、毎日初夜(7時~8時)の終わりに「神明帳」(しんみょうちょう)を読むならわしであった。行法を守護するために、諸国の神々を勧請(かんじょう)した。ところが若狭の遠敷(おにゅう)明神は、釣りがすきだったので、時間に間に合わず、お詫びのしるしに、本尊にささげる閼伽水(あかみず)を献じることを誓った。その時、黒白二羽の鵜が、盤石をうがった地中から飛び立ち、その跡から香水(こうずい)が勢いよく湧出した、よって「若狭井」と名付け、その水を本尊へささげる風習が起こったというのである。今でも若狭では、奈良のお水取りがはじまる前日の3月2日には遠敷川で「お水送り」という祭りを行っており、神主が「これから奈良へ水を送ります」という意味の願文を読み、それを川へ流す儀式がある。12日の夜半過ぎに、この香水を汲んで観音様にお供えするようになった。したがって本来修二会の付加儀礼だが、いまやお水取りは修二会全体を表すまでになっている。

お水取りの階段

3月12日夜半過ぎ、この香水を汲んで修二会全体を表すまでになっている。奏楽の中、一行は二月堂南側の石段を降り、若狭井へ向かう。閼伽井へ入るのは3人だけ。深夜の秘儀で誰も見ることはできない。本来おお水取りのために造られた階段であるが、参詣者は、お水取りの儀式以外の日は、昇降に使っている。

燃えさかる籠松明と過去帳

3月12日、この日は一段と大きな籠松明が焚かれるため、参列者がひときわ多くなる。19時半ごろ、いつものように松明を先導に連行衆(れんぎょうしゅう)が上堂する。そのたびに籠松明は舞台から付き出され、参拝者の間から感嘆の声が大浪のように湧き上がる。修二会には、まるで演劇を見るような行がいくつもある。その一つが走りの行と五体投地(ごたいとうち)である。走りの行は、天界の1日が人間界の400年に当たることに由来する。連行衆は、その大きな時の差を埋めるために、内陣の須弥壇の周りを沓音高く走りながら行を進める。これを「走りの行法」とも呼ぶ。修二会は罪を洗い清める悔過の法会であることを改めて強く印象づける。また5日と12日には、過去帳を読み上げる。聖務天皇以下、光明皇后、良弁僧正など東大寺のゆかりの人々の名を標した過去帳を読み上げる。中々音楽的で、聞いていても面白い。鎌倉時代の中ほどで、「青衣の女人」と、陰にこもった節をつけて読む。承元の頃(1207~11)、東大寺に集慶という僧がいた。この人が「過去帳」を読んだ時、夢と現(うつつ)ともなく、青い衣を着た女人が現れて、「何故私の名を飛んで下さらぬのか」と恨めしそうに呟いたので、驚いた集慶は、思わず「青衣(しょうえ)の女人(にょにん)」と叫んでしまった。以後、名も知れぬ女の幽霊が、「過去帳」に加えられるようになったというわけである。井上靖の初期の短編小説に、同名の本がある。

達陀(だったん) 不思議な火の行法

修二会の最後の3日間、「達陀」(だったん)という不思議な行がある。「だったん」の語源はよくわからないが、タタラを踏む言葉から出た様で(白洲正子氏の説)、燃えさかる松明を持った火天と麗水器をささげた水天が、これまたおそろしい勢いで堂内を駆け巡る。伴奏には、法螺貝と鈴と錫杖でさわがしい音を立て、静かな修二会の道場は、一瞬華やかな祭の場に変わる。「だったん」とか「走りの行法」は、仏教の行法としてみごとに演出されているが、元を正せば地下に眠っている魂を呼び覚ますための、春の祭典であろう。原始的神事が、仏教の中に生かされているのであろう。興奮さめやらぬなか、達陀の行は終わり、萬行へと向かう。連行衆の萬行下堂は14日目の早朝4時30分ころ、二月堂は閉扉され、次の修二会を迎えるまで再び静寂に包まれる。

お水取りお松明   1980年頃             入江泰吉氏撮影

戦後、半世紀近くの間、奈良・大和路を撮り続けた入江泰吉氏(1905~92)の住まいは、東大寺の戒壇院の望まれる場所だった。戦後、アメリカが戦争の代償として日本の古美術を持ち帰るという噂を耳にして、せめて写真に残そうと思い立った。3月に入ると、夜更けにはお水取り(修二会)の行法の鐘の音がかすかに入江邸にも流れてくる。入江氏は鐘の響きに誘われるように昭和21年(1946)から毎年カメラを持って参籠を続けた。1ケ月にもわたるお水取りの行事。お水取りは練行衆と呼ばれる11人の僧によって行われるが、入江氏は「12人目の練行衆」と呼ばれるようになった。入江氏のライフワークの全作品が、「入江泰吉記念奈良写真美術館」に納められている。

二月堂裏参道

二月堂裏参道とは、大仏殿の北方、食堂跡と大湯屋を経て、緩やかな石畳の坂道を指す。瓦屋根を載せて古い古瓦を埋め込んだ、しっとりとした土塀に見入りながら、二月堂の舞台が見えてくる所まで近づいてゆくと、期待感に胸がはずむ。

 

 

お水取りの行事には、何回も訪れているが一番記憶に残るのは最初に訪ねた昭和28年3月12日の記憶である。高校の同級生であったK君(故人)と最初に大和古寺巡礼を始めた時である。まだ食料事情が悪かった時期で、斉藤旅館に米2合を持参して泊まった。お水取りの記憶は鮮明で、「走りの行法」、「だったん」、「五体投地」、「お水取り」最後に「過去帳」で深夜の「青衣の女人」を聞いて満足して宿へ帰った記憶が闡明である。その後、何回かお水取りの行事を拝観したが、最初の記憶が鮮明であり、観客もまだ少ない観光化されない時期であったので、なおさら記憶に残るのであろう。青春の記憶として、未だに懐かしく思い出す。翌日は「西の京」へ行き、「唐招提寺」、「薬師寺」を廻った。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏 天平の至宝 2010年」、ビジュアル文庫「東大寺」、探訪日本の古寺全15巻のうち「第12巻 奈良Ⅲ」、田中英道「日本美術史全史」を参照した)

東大寺  法華堂(2)

法華堂の仏像配置は、不空羂索観音の両脇に日光・月光菩薩が立つという配置が、私が見慣れた法華堂の景色であった。平成8年(1996)から平成11年度(1999)にかけての法華堂諸像の剥落修理の際、仏像を移動、調査して意外な事実が明らかにしたのは、文化庁の主任文化財調査官、奥健夫氏であった。2009年9月の「仏教美術」に寄せた「東大寺法華堂八角二重基壇小考」と題する論文である。この論文は、「小考」どころか、学会に大きな反響を巻き起こした。

八角二重基壇の写真         日経新聞2012年3月4日記事より引用

真中の一番小さい八角形は本尊の台座跡である。その左右が修理前の日光、月光菩薩の立ち位置である。その下の、下段の上に残る、円に近いぼんやりとした痕跡が、かっての日光、月光と四天王像(戒壇院)の置かれていた跡だというのである。奥論文は「ここで注意されるのは、これらの八角台座の痕跡が日光月光像並びに現戒壇院四天王像の台座底辺輪郭と一致することである」と記している。「これらの台座は一辺長さが34cmほど、向かい合う二辺の距離がおよそ82~84cm前後で、須弥壇下段の床面には内外にそれぞれ3~5cmを残して納まる」という。「6体の保存状態の良好さは、安置されていた堂が火災に遭ったり倒れたりした場合にあり得ず、それが安置される堂宇とともに相当長い間伝えられてきたことによると見るのが自然である。東大寺で奈良時代の建立になる唯一の仏堂である法華堂の八角二重基壇の下段に、大きさと形が一致する台座痕跡がある以上、塑像6体はかってここに安置されていた可能性を積極的に考えてよいのではないか」と述べている。台座の痕跡という「事実」が、1200年余ぶりに「史実」に一撃を与えたのである。

台座上の配列図

これはある新聞の記事から引用したものであるが、創建時の仏像の配列と、2010年の配列を示したものである。この配列記事は奥論文を基にして作成したものであろうが、私は、現在やや異論を持っている。2010年の「東大寺大仏 天平の至宝」という展覧会の図録で、(当時慶応大学教授の)金子啓明氏が「東大寺大仏と天平彫刻」と題する論文を寄せている。その中で、金子氏は「創建時の仏像」として、「七体の塑像群は九体の脱活乾漆像とは制作工房が異なり、作風と文様が脱活乾漆像群より塑像群が先行するとする説を肯定し、本尊を執金剛神とする考えである。造像の発願者はもちろん良弁」である。上段に設けられた宝殿部に執金剛神が安置されたと考えれば、像高が170cmの等身像であっても違和感はない。八角二重基壇の大きさに較べれば執金剛神はやや小ぶりであることは確かだが、むしろゆったりとした空間に、本尊としての違和感は際立つ筈である。伝日光、月光菩薩像は像高が2mをやや超えて本尊より高いが、当初は八角二重基壇の下段か、そこから外れた須弥壇上に安置されたと見れば、像の高さの相違は特に問題ない。」このように法華堂の最初期の本尊は執金剛神であったことを積極的に肯定している。私は、現時点では、金子説が一番あり得る配置であると考えている。

国宝 執金剛神立像  塑像 彩色 像高 170.4cm 奈良時代(8世紀)

 

現在は法華堂本尊の不空羂索観音像の背後の厨子内に北面して立つ。「日本霊異記」(822年頃成立)に記述があり、既に北向きであったと言う。慶応大学の金子教授の意見によれば、最初は、法華堂の本尊であり、現在不空羂索観音立像の立つ位置に立っていたことになる。後に不空羂索観音菩薩像が法華堂に本尊として新たに安置されることになるが、執金剛神像は、厨子に入って八角基壇下段に移されたことになるだろう。執金剛神の名は手にした金剛杵から付けられた。長く秘仏とされたため、彩色が良く残る。平将門の乱(939)に際し、この像の髪の元結紐の端が蜂となり、平将門を刺殺したという説話が残るように、古来、霊像として良く知られていた。開扉は毎年12月16日で、良弁僧正像と同日である。

国宝 日光菩薩立像 塑像、彩色、載金、像高206.3cm奈良時代(8世紀)日光菩薩立像          月光菩薩立像

 

法華堂本尊の左右に立っていた。須弥壇中央の八角二重基壇の上段に安置されていた。当初は極彩色だったという。日光、月光菩薩の呼び方は江戸以前の文献には出て来ず、仏教の守護神として採り入れられたインドの梵天・帝釈天の像ではないかとされる。後世に他の堂から法華堂に移された「客仏」と考えられてきたが、最近の調査では、もともと不空羂索観音の眷属として立っていた可能性が強まった。しかし、東大寺では、この説を取らず、現在は新設された「東大寺ミュージアム」に常時展示されている。この研究によって日光・月光両菩薩像に投げかけられてきた「客仏」というレッテルが、理由の無いものになった。(「客仏」とは後世になって、他の堂から持ち込まれた仏像のことである)日本美術史家のみならず、「「古寺巡礼」の和辻哲郎も、日光・月光菩薩像など法華堂の塑像をさして、「しかしこれらは本来この堂に属じたものではあるまい」と記している。町田甲一は、日光・月光は「客仏」と前置きをして、「この像は、もともと本尊に随侍する脇物だと主張したもいるが、多くの人はこの考えに否定的で、材も本尊の乾漆とは異なる塑であり、像高もはるかに小さい。それよりも作風が全く異なり、表出する感情が完全に異質である。後世、同じ東大寺の他の堂より伊座されたものであろう」(大和古寺巡礼)と言い切っている。

国宝 四天王像 増長天像 塑像彩色 像高163.6cm 奈良時代(8世紀)

西南隅の増長天は、右手に鉾をつき、左手を腰にあて、大喝しながら激しく相手に迫ろうととする姿で、このように侍国天と増長天には、仏敵破摧(ぶってきはさい)の積極的なはたらきが示されている。

重要文化財  法華堂経蔵              鎌倉時代(?)

重要文化財であることは確かであるが、何時建設されたものかを示すものは、私の持っている図書では明確にできなかった。法華堂の正面から、手向山八幡宮に寄った所に建つ経蔵である。良弁時代の経蔵は、平氏の戦火で焼けたのであろうか。重源によって再建された鎌倉時代ではないかと思う。HPで確認のため「法華堂 経蔵」で羂索したところ、次のような文章が見つかった。「もとは東大寺油倉の上司倉でした。東大寺食堂跡の北東に位置する油倉の地に並んで建っていました。正徳4年(1714)現在地に移したと伝えられ、天平時代の創建と見られます。」かつ、この経蔵は「手向山神社宝庫」としている。また一方、東大寺法華堂経蔵とも書いている。ネットの記事なので、あまり信用できないが、一つの意見としてお知らせする。

 

2010年に開催された「東大寺大仏  天平の至宝 2010年」展の図録で、慶応大学教授の金子啓明氏が「東大寺大仏と天平彫刻」という論文を発表している。それによれば、初期の法華堂の本尊は、執金剛神であり、その下段を6体の塑像が取り巻いていたとしている。金子論文は、次のように締めくくっている。「今、法華堂、三月堂と呼ばれる羂索堂は等初は不空羂索観音像の堂ではなく、堂の名称も異なっていた。それ以前のこの堂では、良弁が大切にしていた執金剛神を当初の本尊とし、伝日光、月光菩薩像と現戒壇院の四天王像の7体の塑像による群像構成であった可能性のあることを指摘しておきたい。」東大寺は、これらの指摘とは反対の意見のようで、新設した東大寺ミュージアムに伝日光、月光菩薩像を常に安置している。どちらが史実かは、いずれ歴史が証明するであろう。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏 天平の至宝  2010年」、ビジュアル文庫「第5巻 東大寺」、田中英道「日本美術全史」、原色日本の美術「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」、日経新聞2012年2月26日、3月4日、3月11日「美の美」「東大寺法華堂の秘密」を参照した)

東大寺  法華堂(1)

和銅3年(710)に藤原京から遷された都・平城京は聖務天皇が即位した神亀元年(724)ころには、「青丹よし寧楽の京師は咲く花の勲ふがごとく今盛りなり」(小野老 萬葉集巻三 三一八)と詠まれたように、大陸より遣唐使によってもたらされたさまざまな文物を取り入れた若々しい息吹が感じられる国際的な都市となっていた。そのような社会状況の中、神亀5年(728)、前年に誕生した聖務天皇待望の皇太子・基親王が夭折した。聖務天皇は親王の菩提を弔うために平城宮の東の山中に山房を建て、9名の僧を住ませた。その中に、後に東大寺の初代別当になる良弁(ろうべん)が含まれていたとされる。この山房が後に金鐘寺(きんしょうじ)と呼ばれるようになった。東大寺にはこの山房(寺院)にその源流を求めているのである。山房が建てられた場所は、大仏殿の東側の一段と高くなった二月堂や法華堂がある上院と呼ばれる地区内のさまざまな場所が研究者の推定されてきたが、最近、二月堂北側の山中にある人工的に造られた平坦地から創建時の東大寺で多数使用されている型式より先行する興福寺型の瓦片など遺物が多数発見され(丸山遺跡)、金鐘寺の堂宇がこの場所にあった蓋然性が大きくなった。ところで、上院地区にはもう一つの寺院があったとされる。光明皇后と関係の深い福寿寺と呼ばれる寺院である。福寿寺はその後、天平13年(741)頃までには寺観も整えられていたようである。また平安時代に成立した東大寺の寺誌「東大寺要録」には東大寺に先行する寺院として天地院の名も見られる。和銅元年(708)大仏建立の際に勧進の役を担った行基によって造営されたものとされる。さて、この頃の政治社会情勢は天然痘が各地で流行し、政治の中枢にいた光明皇后の兄弟である藤原四兄弟が相次いで病死、九州・大宰府では藤原広嗣が反乱を起こすなど、華やかで色鮮やかな情景を謳った萬葉集とは違い、政治的社会的に不安定な状態が続いていた。聖務天皇はこの状況を打破するために平城京を出て、伊賀、伊勢、美濃、近江の国々を次々と廻り、山城国恭仁(京都府木津川市)に都を遷すことにした。天平13年(741)、新都・恭仁京(くにきょう)において国家の災害、困難などを消去することを説く「金光明最勝王経」を具現化した国分寺の建立の詔を発した。各国に国分寺が建てられることになり、大和国では金鐘寺を中心とした上院に存在していた寺々が一つの寺院として統合されて国分寺となり、金光明寺となった。

国宝  法華堂  寄棟造(正堂)、入母屋造(礼堂)   奈良時代、鎌倉時代

平安後期に編纂された「東大寺要録」には、東大寺の前身である金鐘寺(金鐘山房)は天平5年(733)に聖務天皇が良弁のために羂索院(法華堂)を創建したとある。しかし、これまでは、この「東大寺要録」の記述は疑問視されてきた。しかし、平成8年(1996)から11年度(1999)にかけての法華堂諸像の剥落止め修理の際、年輪年代法を用いて八角二重基壇の構成部材を測定したところ、西暦729年と言う値を得た。神亀6年(天平元年)で基親王の亡くなった翌年である。さらに法華堂須弥壇上方の用材から731年、須弥壇後方の用材から730年、あるいは731年の伐採年を得た。天平3年に当たり、「東大寺要録」の記述に近く、その信憑性がにわかに高まったのである。これまでは法華堂は、屋根瓦の文様や本尊光背に関するとされる天平19年(747)正月付の文書が存在することから、天平18,19年頃の創建とする見方が強かった。年輪年代法という科学的な手法が20年近く年代を遡らせたことは、大きな衝撃であった。「東大寺要録」に法華堂建立年次として見える天平5年(733)は、かなり近い年次であることを示すと思われる。法華堂が始めから不空羂索観音菩薩像を本尊として安置することを目的として建立されたものではないらしい。観音像が法華堂(羂索堂と呼ばれたこともある)の本尊となるのは建物完成後しばらく間をおいての時期と考えられ、天平14年(742)より後と考えるのが自然であろう。法華堂は、向って左側が天平時代の建物(正室)、右側が鎌倉時代の建物(礼堂)である。旨くマッチしている。

国宝  法華堂内の仏像群             奈良時代(8世紀)

法華堂の仏像群は、2013年の修理により、展示仏ががらりと変わった。脱乾漆像の巨像のみが残り、美しい塑像類の展示が無くなった。昔を知る私に取っては、非常に寂しい展示であるが、東大寺としては法華堂の建設当初の仏像に統一した積りであろう。仏像展示は、ある意味ですっきりとし、何も知らなければ、これが法華堂建立時の姿と思うだろう。確かに、ここは、天平彫刻の宝庫である。しかし、和辻哲郎「古寺巡礼」や亀井勝一郎「大和古寺風物詩」を読んで、大和古寺巡りを始めた人には、違和感が大きいだろう。日本で最も美しい日光、月光像が無い法華堂には魅力を感じないのではないだろうか。そんな風に考えると、堂内の人数が減ったようにも思う。

国宝 不空羂索観音立像 脱活乾漆造 像高362.0cm 奈良時代(8世紀)

法華堂の本尊として、須弥壇中央に安置されている。額には縦に三眼(天眼)があり、合掌した手以外に6本の太い腕を持つ。中心の合掌する両手に注目すると、その掌の間に小さな水晶玉がみえる。水晶玉は如意宝珠を意味する。如意宝珠とは、すべてを意の如く自由に成し遂げる魔法の玉である。その神呪を唱えると一切の災いや諸悪は忽ち消え去るという。不空羂索観音菩薩像の表現には、この観音の呪的な救済力が現動することが意図されている。羂索は、古代インドの狩猟具でひもを縒(よ)って索(網)にしたもので、これで獲物を捕るように、衆生の悩みを救済するという意である。

国宝 不空羂索観音立像の宝冠 銀製鍍金 総高88.2cm奈良時代(8世紀)

中心に銀製鍍金の阿弥陀如来の化仏を配し、翡翠(ひすい)・琥珀(こはく)・真珠・瑠璃(るり)などの珠玉をちりばめ、周囲を銀製透かし彫りの宝相華で飾って荘厳する。天平時代の工芸技術の最高峰を示す作品である。

国宝 梵天・帝釈天立像 脱活乾漆造          奈良時代(8世紀)

梵天・帝釈天は、もともと古代インド神話中の代表的な神格で、梵天は創造神とされるプラフマー、帝釈天はインドラという最強の武勇神であった。仏教に早く取り入れられ、仏法を守護する神として一対で表されるようになった。両像は、いずれも4Mを超える堂内最大の尊像で、本尊不空羂索観音の左右に侍立する。衣の下に甲(よろい)を着けた武装形の方(向って右)は梵天としている。ゆったりと唐風の衣をまとい、すっくと立つ姿は、内省的なその表情とと相まって威厳が感じられる。手の指は長くしなやかに造形されている。

国宝 金剛力士立像 阿形脱活乾漆造 総高326.0cm 奈良時代(8世紀)

法華堂の須弥壇前面左右に安置され、梵天・帝釈天・四天王像とともに一具をなし、ほぼ同時期に同じ工房で制作されたものと推定されている。通例の金剛力士(仁王)像と違って、向って左に阿形(あぎょう)、右に吽形(うんぎょう)を安置している。また、一般的には上半身を裸形とするのに対し、これは甲冑姿に表されているのが特徴である。像の表面には、金箔地に朱・緑青・群青などの彩色が施され、甲(よろい)の縁に乾漆を盛り上げて菱に十字繋ぎ文や花文を配するなど、華やかに装飾されている。阿形は、髪を逆立て、表情も怒りをきわめて露わに表現している。

国宝  四天王立像 自国天立像 脱活乾漆造     奈良時代(8世紀)

四天王はもともと古代インド神話中の神々で、仏教に取り入れられ、仏法を守護する尊格として四方を守る。法華堂でも、高さ約3Mの脱活乾漆の大きな像が須弥壇の四隅に安置されている。怒りの直截(ちょくさい)な表現は抑え、ゆったりとした相貌に造られている。侍国天・増長天・広目天・多聞天のそれぞれの肉親を、白緑(びゃくろく)・朱・肉色・白群(びやくぐん)の4色に塗り、各々文様も変化をつけて描かれている。東南にある自国天像は、眉を吊り上げ、両目を大きく見開き、腰をわずかにひねっている。甲兜の背面には宝相華と鳳凰文がえがかれている。

 

東大寺は、この法華堂を中心として作られたお寺である。古くは金鐘寺(きんしょうじ)と呼ばれ、また光明皇后と関係の深い福寿寺とも関係があった。聖務天皇が天平14年(742)8月に紫香楽宮で大仏建立の詔を発し、「自ら念を有し、廬遮那仏を造るべし」、「人有て一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんと情(こころ)に願はば、恣に(ほしいままに)聴せ(ゆるせ)」と述べ、皆のための大仏として、造立に広く民衆の協力を求めたのである。聖務天皇は天平13年(741)に、新都・恭仁宮(くにきょう)において国分寺建立の詔を発して、各国に国分寺が建てられることとなり、大和国では金鐘寺を中心として上院に存在していた寺々が一つの寺院として統合されて国分寺となり、金光明寺(金光明四天王護国之寺)となったのである。現在の法華堂こそ、東大寺の始まりであった。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏  天平の至宝  2010年」、ビジュアル文庫「東大寺」、探訪日本の古寺 第12巻「奈良Ⅲ」、和辻哲郎「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、日経新聞2012年2月22日、3月4日、3月11日「東大寺法華堂の秘密」を参照した)

入江一子  100歳記念展ーシルクロードに魅せられて

上野の森美術館の前を通ったところ、この表題の展覧会を開催していた。不勉強ばがら、入江一子という女流画家については全く知らず、普通ならそのまま見過ごす処だが、100歳記念展という珍しい長寿と、シルクロードの魅力に惹かれて、思いがけず入館し、思いがけない感動を得ることができた。近来稀にみる、感動であった。そこで、この感想を「美」で取り上げてみたい。入江和子先生は、大正5年(1916)5月に、韓国天邱(テグ)で生まれた。入江家は毛利藩士の家系で父は貿易商を営んでいたが、早く亡くなった。しかし、十分な資産があり生活に困ることはなく、母親フミノは芸術的天文の豊かな人で、特に手芸に堪能だった。この血を受け継ぎ、入江先生は幼少から異様なまでに描くことが好きだった。1929年、大邱公立高等女学校に進学し5年生のとき、第12回朝鮮美術展に2点入作した。昭和9年(1934)、女子美術専門学校師範西洋画部に入学した。当寺は、ここ以外に女子が学べる美術学校は無かったそうである。上京して、美校に学んだが、「日本の風景が箱庭のようで驚きました。本当に美しい国だと思いました」と語っている。しかし、彼女の色彩は、不器用なまでに大陸的であったと言う。私が、この全く知らない画家の100歳展を見て、思わず引き込まれてのが、色彩の異常なまでの美しさであった。女子美を卒業後一旦朝鮮に帰国し、丸善のソウル支店に勤務し、ショーウインドーを担当し、生涯の師となる林武氏を知った。昭和16年(1941)8月に入江先生は一人で汽車に乗ってハルピンやチチハルに出かけ、ホテルの会場で自分の描いた絵を売りさばいていた。そこで、彼女は次のような言葉を述べている。「満州の空は、抜けるような青色です。ノンコウという川に行ってみると、川面は血を流したように夕日で真っ赤に染まり、そこにジャンクのような舟が一隻浮かんでいます。その風景は生涯、忘れることができないほど、たいへん感動的なものでした」。この原始的な青と赤。これが入江一子と色の出会い、色彩の発見であり、これが後に画家をシルクロードへ駆り立てる原動力となったのである。(本江邦夫氏筆)私が、シルクロードを描かれた入江一子氏の絵を見て感激したのは、まさに本江先生のご指摘通り、シルクロードを描く、色彩の素晴らしさに強く惹かれたのである。入江先生のシルクロード巡りは50歳代になってからであるが、力作は、その絵を100号、200号というとてつもない大きさで描いたことである。まず、シルクロードの絵を招介したい。

イスタンブールの朝焼け  1975年  100号F 第29回女流画家協会展

作者の言葉より、引用して説明に替えたい。(以下このスタイルによる)「中国の西安をシルクロードの起点とするならば、トルコのイスタンブールは、東方のシルクロードの終点ともいえるところです。6本のミレット(祈りの塔)のあるブルーモスクやアヤソフィア、ハギヤソフィアとトプカプ宮殿などがあります。人々の服装もかなりヨーロッパ的な感じになってきて、東洋と西洋を結ぶシルクロードの接点としてエキゾチックな魅力にあふれた街です。長年、チチハルのノンコウに血潮を流したような景色がずっと目に焼き付いていたのですが、この時、ノンコウの面影とボスボラス湾の朝焼けを重ね合せることができたのです。ボスボラス湾の刻々と変わりゆく自然の美しさを作品にしょうと、スケッチブックに色を重ねていきました。この絵を描くことで、シルクロードへの憧れをより深くすることができると思ったのです。そこには、いつも心の中に焼き付いていたノンコウの美しさと同じ色彩がありました。ノンコウは夕陽でしたが、この朝焼けの真っ赤な色彩に運命的に出会ったことで、この作品を描くことができました。思えば私にとってシルクロードの旅は、このノンコウの色彩を追い求めることから始まったともいえるのです。」(色彩自在ーシルクロードを描きつづけてーより)

敦煌飛天 1979年  200号F    第47回独立展

「私は320窟(くつ)の飛天の魅力にすっかり魅せられて、なんとしても画き留めたいと思いました。ここは撮影が許可されていないので、男性の通訳が外で見張りをしています。しかも中は真っ暗で、本来は、外国人には、模写はさせてもらえないのですが、懐中電灯を明かりとして、2時間かけて飛天を模写させてもらいました。3階もある莫高窟(ばっこうくつ)の壊れかけた木の階段をリュツクサックに画材やカメラ、テープレコーダー、懐中電灯などを持って、大変な思いをして登った私の熱心さに感激してくれたのか、女性の通訳の好意により特別に模写することができました。そうした死闘の結果、200号の「敦煌飛天」が出来上がったのです。」(色彩自在ースルクロードを描きつづけてーより)敦煌320窟は、「阿弥陀浄土変相図」と呼ばれる窟で、一番上の飛天が美しいことで有名な窟です。私も感激して観た記憶があります。(黒川)

トルファン祭りの日  1981年  200号F

「ウルムチやトルファンはシルクロードとともに歴史を刻んだ場所です。葡萄棚の下のウイグルの人々の踊りを、どうしても絵にしたいと思っていましたので、訪ねるならば葡萄の実が成る時と決めていました。その機会に恵まれて、1980(昭和55)年8月7日に訪れることができたのです。スケッチは翌日ほとんど完成しました。そうして個展に出品する作品に仕上げるために、日本に帰ってからもアトリエで200号のキャンパスに描きつづけました。」(色彩自在ーシルクロードを描きつづけてーより)

パミール高原  1990年  150号F   第58回独立展

この高原は天山、カラコルム、ヒンズークッシュの3つの大山脈が集まって形成された巨大な高原地帯です。高原と言っても平均海抜5000メートルにも達する場所で、6000,7000メートル級の山々がそり立っています。パミールは珍しく快晴で、砂ぼこりがおさまり、これらの白い山々を遠望できました。古代中国の人は、これを「惣嶺」(そうれい)と呼んでいますが、この場所から、ブルンクリンまで訪ねました。高原で絵を描いていると、集落の家々から人がたくさん出てきました。ウイグル、タジク、その他多くの少数民族の人々で、モチーフとしては格好の題材でした。(「色彩自在ーシルクロードを描き続けて」ーより)

四姑娘(しーくーにゃん)山の青いケシ 1992年 200号P 第60回記念独立展

中国の成都よりチベットに向かう四姑娘(シークーニヤン)山麓に青いケシの花が咲いているという話を、ずっと以前から聞いていました。青いケシを見たい一心で、遂に行く決心をしました。ガイド役に植物にくわしい先生がつき、現地では、もし落ちそうだったら添乗員が私を馬に乗せていってあげるというので、その言葉を頼りにしての決心でした。1992年7月、まずは中国大陸に渡り、上海からの出発です。上海からは空路で成都へ向かいました。成都に行くのは、山岳地帯に向かっているわけですから、かなり気候は涼しくなってきています。翌朝、専用車で臥龍(がりゅう)まで向かい、臥龍の招待所で泊まる予定です。その予定で出発したのですが、7月は雨が多い季節で長雨のために土砂崩れでバスが通れません。仕方なくバスを捨てて耕運機に乗って1時間ほど進むことになりました。臥龍に近づいていくと、今度は橋が落ちていて、耕運機も通行できない状態です。もう歩くよりひかに方法がなくなり、泥んこ道を1時間ほど歩きつづけました。みんな山登りの人たちですから装備は完璧です。山崩れで道が悪くても、臥龍まで歩く予定でしたが、途中、臥龍からバスが出迎えに来てくれました。今度はバスで日隆(リーロン)に向かうことになりました。途中は、やはり多くの花が咲いていました。この辺は中国といっても、完全にチベット文化圏に入っている地域です。招待所はひどい状態でした。翌日は、いよいよ山登りの旅であり、四姑娘山麓のお花畑に向かっていきました。日隆の標高は3600メートル。これからベースキャンプに行って、テント生活をします。途中の山の斜面には、ヤギや羊の群れがみえて、村の子どもが世話をしています。民族衣装を着たチベット娘たちが、花が一面に咲いている高原で「四姑娘の娘」を歌いながら、籠の中に草を採って歩いています。翌朝はタークーニャン4300メートルまで、いよいよ青いケシの花を訪ねて山登りになります。雨が降って霧が流れているのでUターンして帰ろうとすると、突然、青いケシの花が一面に咲いているのがみえはじめました。はるばる訪ねてきた甲斐があったと、みんな大感激でした。息苦しい4000メートルの高地に、ようやく美しいケシの群生をみることができたのです。感激を心の中にとどめながら、私は雨の降るなかを、ベースキャンプに向かって下りて行きました。(「色彩自在ーシルクロードを描きつづけて「-より)この絵は、私が見た入江さんの絵の中で一番美しい絵でした。(黒川)

敦煌飛天  2005年  150号F    第73回独立展

前に見た1979年の「敦煌飛天」と同じ320窟の「敦煌飛天」の色を変えた絵ですが、私の好みから言えば、前作の色の方が、敦煌の壁の色に似ていると思います。しかし、色を変えた、この新しい「敦煌飛天」も魅力的です。なお、「敦煌飛天」は同じスケッチを基にして描かれた作品と思いますが、ここまで変わり得るものかと思いました。(黒川)

雲南ジンボー族まつりの日  2015年  200号P  第83回独立展

残念ながら、この絵について、入江さんの説明はない。多分、雲南地区の少数民族(ジンボー族)の祭りの様子を描いたものです。ややキュビズム的な感じがしますが、色の美しさ、衣装の美しさを鑑賞してください。民族ののぼり旗が3本たち、沢山の旗がきらめいています。多分、チベット仏教のお経を書いた旗では無いかと思います。祭りの儀礼だろうと思います。99歳の老人の描く絵かと思います。勢いを感じます。(黒川)

ホータンのまちかど  1986~2015年  200号P 第84回独立展

「この作品は、ロシヤとの境にある、並木の美しい、土塀のつづく小さなモスクのある中国の町です。外人は入れないのですが、特別に入らせて頂きました。10号のスケッチブックを開いて20号にしてがんばりました。カセットテープで録音をとり、当時の臨場感をだして、がんばりました。中々思い通りに進まない時、今でも大切に保存している林武先生のはげましの言葉を思い出します。「君が中途で止めておく手腕があれば、君が近々絵を描ける様になったと思います」。当時はあまり分からなかったのですが、現在では苦労の末に分かる様になりました。今年も「シルバーカー」を押しながら、200号をがんばります。」2016年と言えば、正に100歳の時です。こんな素晴らしい絵を描き続ける入江先生の「がんばり」に驚き、感激しました。(黒川)

あだし野  1970年  100号F   第38回独立展

「最近、石仏に興味をもち、京都・深草の五百羅漢、奈良の浄瑠璃寺周辺の磨崖仏、兵庫県北条の五百羅漢、或いは九州の装飾古墳、などをテーマに描いております。私の石仏は、宗教につながるものではなく、石の肌合い、表情の面白さにひかれているのです。」残念ながら出典はあきらかではありませんが、入江先生の文章です。私が思うに、これは京都・化野の念仏像と思います。1970年と言えば54歳の一番力の籠った時期と思いますが、面白いことに100歳の絵(「ホータンのまちかど」)の方に、力を感じます。それがシルクロードの絵のせいでしょうか。(黒川)

 

 

入江先生の絵は、若い時ほど色彩が暗く、いかにも専門の画家が描いた絵という感じがします。お年をめす程、色彩が明るくなり、素晴らしい「シルクロード」の案内となりました。特に「敦煌飛天」は2図ありますが、最初の(1979年)方が、はるかに現実に近く、私が見た第320窟の思い出に近い色になっていますが、後年(2005年ー入江先生89歳)の方は、思い切って明るく、写実を離れて、色合いも変えて、自由自在に描かれた絵のように思います。全く偶然に「シルクロードの魅力」の言葉に惹かれて拝見し、思いがけない美しさに酔いました。大村智先生(ノーベル生理学賞受賞者、女子美大理事長、韮崎大村美術館館長)は、図録の招介で「入江一子先生の生き方」と題して、次のような文章を寄せられています。「女流画家の大御所の一人である、入江一子先生が、2016年5月に100歳を迎えられました。私は女流画家協会展のオープニングパーティーに毎年招かれて行きます。女子美術大学は、2013年11月に、最初の”女子美栄誉賞”を入江先生に授与させていただきました。(途中略)入江先生の精力的な制作発表はまだまだ続きます。この度の上野の森美術館で開催される”百彩自在”と題した展覧会会場にて、またその美しい色彩が織りなす大作を拝見するのを楽しみにしたいと思います。」

 

(本稿は、図録「入江一子100歳記念展ーシルクロードに魅せられて」をほぼ原文のまま引用させて頂きました。なお、入江一子作の「色彩自在」を改めて読んでみたいとおもいます。もし、先生の展覧会を観る機会がありましたら、今度は自分の言葉で、感想を述べます。また「砂漠の美術館ー永遠なる敦煌  1996」は第320窟を確認するために参照しました)

岩佐又兵衛と源氏絵ー古典への挑戦

岩佐又兵衛(1578~1650)の生い立ちは数奇である。父荒木村重(1535~1586)は摂津国伊丹(現兵庫県)の有岡城主であった。父村重は、織田信長の配下に属して信認あつい戦国武将である。しかし、村重は毛利輝元、石山本願寺の連合に組し信長に反旗をひるがえす。又兵衛が生まれた天正6年の10月のことである。11月、信長は自ら有岡城を攻めを決断し、1年がかりでやっとこれを落とした。だが落城の直前、村重は意外なことに、わずか5,6人を連れて、かれの子・村次がたてこもる尼崎城、次いで花隈城に逃げ込んだ。信長は、村重への残酷な見せしめを行う。天正17年(1587)12月、まず郎党の男女500人あまりが尼崎近くで四つの家に閉じ込められて焼き殺された。ついで荒木一族の者三十余人が、京都へ護送され、六条河原で処刑された。又兵衛はわずか2歳(以下数え)で乳母の手で城から救い出され、京都の本願寺のもとにかくまわれたと後世の「岩佐家譜」は伝える。又兵衛がどのように育ったかは不明であるが、姓も荒木から母方の姓と言われる岩佐に改め、自らの絵の才能を世渡りの術として生きようとした。彼は絵画だけでなく和漢の幅広い教養を身に付けていた。さまざまな絵画の技法を身に付け、和漢のあらゆる主題に貪欲に取り組んだ又兵衛の画域は、実に広い範囲に及んでいる。又兵衛は、京都から北の庄(福井)に移り、約20年間にわたる絵筆を振るい、その後活動の拠点を江戸に移している。今年(2017年)は、又兵衛が江戸へ拠点を移してから380年の記念の年に当たる。今回は、出光美術館で、又兵衛の源氏絵を中心に、広く又兵衛の画業を招介する企画である。(出光美術館 2月5日まで)

重要美術品 四季耕作図屏風 岩佐又兵衛作 紙本墨画淡彩 江戸時代(17世紀)出光美術館

山あいに展開されるのは、移ろう四季に応じた農作業の風景である。右隻の「浸種」にはじまり、「耕」や「灌漑」等をへて、左隻に移る。このひと続きの行程は、室町時代に輸入され、南宋の画家・梁楷(りょうかい)の作と信じられてきた「農耕図巻」の内容を踏襲して描かれている。この屏風絵全体を見ると、当時の又兵衛が操ることができる狩野派の技法と図様のすべてを動員することで出来上がっている。又兵衛晩年の作と考えられている。

重要美術品 職人尽図巻 一巻 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代(17世紀)出光美術館

この図巻に収録される場面は、巻頭が童子と戯れる布袋、酒杯を持っている大国、大原女、医師、仏師などさまざまな職人を描いている。背景は殆ど無い。29の場面があるが、それぞれに有機的なつながりがあるわけではない。それぞれに独立した図採集の趣が強い。職人尽の図は広く描かれている。非常に淡白な仕上がりである。この絵の制作は晩年期であると推測される。

重要美術品 在原業平図 一幅 岩佐又兵衛作 紙本淡彩 江戸時代(17世紀)出光美術館

上部に記された「古今和歌集」に収録される在原業平の和歌は「伊勢物語」第八十八段に採用されていることで知られる。左手に弓を握り、緌(おいかけ)と細桜(さいえい)のついた冠に狩衣(かりぎぬ)をまとって立つ業平の図である。本図も歌仙図であるが、いかにも斬新である。この絵は、元和年間(1615~23)から寛永年間(1624~43)のはじめにかけて制作されたと推察されている。福井時代の画業の円熟期を迎えた又兵衛の、秀抜な技量を示す一図である。同時期の作品の中でも秀逸である。

伊勢物語 くたかけ図 一幅 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代(17世紀)出光美術館

伊勢物語第14段「くたかけ」の図と見られる。名残惜しそうに女を振り返る男の様子がやや気になるところであるが、女の風采がいあかにも鄙びた様子で捉えられることも物語本文の内容に忠実な描写と言えよう。辻惟雄氏は第53段「遭ひがたき女」の情景を描いたものと説き、「むかし、おとこ、遭ひがたき女にあひて、物がたりするなどするほどに、鶏の鳴きければ{いかでか鶏の鳴覧人知れず思ふ心はまだ夜深きに}の内容を察知」したとする。かって「樽屋屏風」と呼ばれる押絵貼屏風の大六扇目に貼られていた一図である。池田家を離れ屏風装を解かれたあと、大正8年(1919)に日本画家・下村関山が落札したのち、「観山会」で分譲されたものである。

三十六歌仙図 柿本人麻呂 一幅 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代(17世紀)出光美術館

大正時代末期には28名の歌仙の姿をおさめた巻子装であったらしい。その後、分断され掛軸に改装された。現在、国内外で20幅ほどが確認されている。各図には歌仙の名とともにそれぞれの代表的な和歌が一首ずつ記されており、書きぶりが一手であると思われる。寛永7年(1640)に仙波東照宮に奉納された扁額と同一の姿を示す。扁額に残された和歌もまた、本図と同じ青連院尊純の揮毫と伝わる。寛永17年(1640)からそれほど隔たらない時期の制作と考えられる。

和漢古事説話図 浮舟岩佐又兵衛作 紙本墨色 江戸時代(17世紀)出光美術館

旧岡山藩主の池田公爵家に伝来した時点では、全十二図からなる巻子装であったが、現在は1図ずつ掛軸に改装されている。12枚の主題のうち、「源氏物語」に取材するものが3図である。須磨巻(第十二帖)、夕霧巻(第三十九帖)、浮舟巻(第五十一帖)の情景をとらえている。浮舟巻においても「これなむ橘の小島」と告げて舟をとめる船頭や、付き従う女房の侍従などの姿をとらえず、説明的な描写を避けながら主役の二人に焦点を絞るあたりに、又兵衛の独自の解釈が光る。

重要美術品 源氏物語 野々宮図 岩佐又兵衛作 紙本墨彩淡彩 江戸時代(17世紀)出光美術館

福井の商家・金屋家に伝わった押絵貼屏風(通称、金谷屏風)には、あらゆる画題をとらえて絵画が納められていたが、明治42年(1909)に展示されたのち、屏風から掛軸に姿を変えて、それぞれの所有者に渡った。中国と日本の主題が無秩序に混在した配列であったらしい。源冶物語は、この野々宮図と官女観菊図(山種美術館)の2図である。源氏物語の賢木(さかき)巻(第十帖)の一場面を、水墨を主体にして描いたものである。源氏絵を細い線のみで描くことは、古くは鎌倉時代にさかのぼるが、その多くは「小絵」である。これほど大きな画面へと転換させたのは、日本絵画史上で又兵衛がはじめてである。周囲に秋草が繁茂する黒木の鳥居の下、たたずんで前方に視線を送る光源氏。晩秋のころ、伊勢下向をひかえたかっての恋人・六条御息所を嵯峨野・野宮に訪ね、これから榊のように変わらない恋募の情を伝えようとするところである。時期を少し前にずらしながら、源氏のみを近接してとらえるという劇的な手法は、まるで見るものがこの場面に立ち会っているかのような、鮮烈な臨場感を生み出している。この絵画の特徴を一言で言えば、漢画すなわち水墨画の画題をそのなかに自在にはさんで、和漢混交の画面を展開させていることである。又兵衛の特徴である「豊頬長顎」(ほうきょうちぉゆい)が、はっきり認められる絵である。又兵衛の北の庄(福井)時代を代表する名作である。

重要文化財 官女観菊図 紙本墨画淡彩 岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)山種美術館

この絵は、今回の展覧会に出展されていない。図録に参考作品として写真が写っているのみである。しかし、山種美術館で私が見ているので、あえて取り上げてみた。これは福井時代を代表する金谷屏風の一部であり、上掲の野々宮図とともに、金谷屏風に貼られていたものである。牛車から、侍女に御簾を上げさせて菊を観る二人の宮廷女性が描かれている。描線を主体にした緻密なモノクロの画面にふっくらとした頬と頤(おとがい)の「豊頬長頤」(ほうきょうちょうい)と呼ばれる、又兵衛作品に典型的な顔の3人である。もと「金谷屏風」と呼ばれた六曲一双の押絵貼屏風のなかの一つである。福井藩主・結城秀康の二男直正が生まれた時に、豪商・金屋家が「御養育方仰せ被」り、大切に養育したので成長後、金屋家感謝の意を込め、屏風が贈られたという。本作品の箱の中に納められている「勝以画口述伝来書」という書付けが含まれていた。

源氏物語 桐壷・貨狄造船図屏風 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)出光美術館

中国と日本の古事が、左右の画面に描き別けられる。左隻にとらえられるものは、紀貫之にまつわる伝説とされたが、現在は「源氏物語桐壷巻」が絵画化されたものであるとの解釈されている。階下に立つ束帯姿の男性は貫之ではなく、12歳となった光源氏の元服に際して、加冠の役を務めた左大臣と解される。画面の左側から引き立てられる馬は、かたわらの鷹などとともに桐壷帝から下賜された禄である。この絵を描いたのは、おそらく又兵衛工房絵師が主体となり、寛永年間頃に制作したものだろう。

源氏物語 伝岩佐又兵衛作 紙本金地着色 江戸時代(17世紀)泉屋博古館

金雲によって各画面を六つずつの空間に区切り、「源氏物語」の十二の情景を展開させる。左隻には桐壷(第一帖)、若菜(第五帖)、空蝉(第三帖)、紅葉賀(第七帖)、帚木(第二帖)、末摘花(第六帖)を描いている。物語の叙述に沿うように場面が配置されているわけではないものの、右隻に元服以降の源氏の青年期を描こうとする意識は強い。又兵衛工房の源氏絵の図様に熟知した画家が筆をとったことは疑いない。

 

岩佐又兵衛は、辻惟雄氏の「奇想の系譜」(1970年初版出版)の一番先に紹介された江戸時代の画家である。岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳の6名の画家が「奇想の系譜」の中で紹介された。初版出版以来約半世紀が経つが、伊藤若冲や曽我蕭白は、今や江戸絵画師のスターの座に上り詰めているが、岩佐又兵衛の知名度は高くない。何故、岩佐又兵衛の評判が高く無いのだろうか?私は、又兵衛の個人展覧会が、東京や京都で開催されないことが大きな原因では無いかと思っている。2016年の夏、福井県立美術館で開催された「岩佐又兵衛展」は、福井藩移住400年に合せて開催されたもので、又兵衛の代表作が的確に選ばれ、記念の年に相応しい展覧会であったそうである。(私は、福井ということもあり、見ていない)新しく国宝に指定された「舟木本・洛中洛外図」や「豊国祭礼図屏風」、「山中常盤物語絵巻」、「上瑠璃物語絵巻」など多彩に渡ったそうである。是非、そうした絵画を揃え、東京か京都で「大岩佐又兵衛展」を開催してもらいたい。恐らく、伊藤若冲に劣らない人気を博する筈である。しかし、今回出光美術館で「岩佐又兵衛と源氏絵ー古典への挑戦」が開催されたことは、大きな出来事であり、岩佐又兵衛の知名度を上げることに大いに貢献するものと思う。「舟木本・洛中洛外図」は、2013年の「京都 洛中洛外図と障壁画の美」で見ているので、「舟木本・洛中洛外図」については、近い内にこのブログで書いてみたいと思う。肝心の「山中常盤物語巻」と「上瑠璃物語絵巻」は熱海のMOA美術館の所蔵品であり、現在MOA美術館は大修理中のため、拝観はかなわないが、今年の2月には開館する予定であるので、展覧次第見学して、御招介したいと思う。また、又兵衛は、かねて「浮世絵又兵衛」とも呼ばれ、浮世絵の元祖とする説もある。例えば「大浮世絵展  2014」の図録の冒頭の「浮世絵前夜」で、次のように記されている。「こうした近世初期風俗画の世界で、豊頬長顎(ほうきょうちょうい)の面貌を反らした容姿の人物像を描いた絵師・岩佐又兵衛の存在を忘れてはならないだろう。近世初期風俗画に登場するモチーフ、最新流行のファッション、新しい演劇の歌舞伎、現世にある楽土の遊里などの描写に「浮世」の思想がうかがえ、浮世絵成立への先駆をなしたと考えられる」。これだけ話題豊富な岩佐又兵衛に美術愛好家の眼が届かない訳がない。是非、大々的な「岩佐又兵衛展」を、東京で実行して頂きたい。

 

(本稿は、図録「岩佐又兵衛と源氏絵  2017年をサンシxy王」、辻惟雄「奇想の系譜」、辻惟雄「岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎」、図録「大浮世絵展 2014年」を参照した)