仁和寺   宝 物

御室の「仁和寺」には、宝物も多い。現在は大正15年(1926)に建築された霊宝館内に安置され、春・秋の年2回公開される。その時期に訪れれば、仁和寺に伝わる宝物類を拝観することができる。平安時代のものが多いが、中には江戸時代の仁清の花生け等も含まれる。中には空海が唐から持参した宝物も含まれている。古美術の好きな人には見逃せない霊宝館である

霊宝館                     大正15年(1926)

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霊宝館は、大正15年に建築された仁和寺の保有する宝物類を保管・展示する機関である。春・秋2回の展示が行われるので、その時期を確認して訪れることをお勧めする。私は、空海関係の宝物が多いことに驚いた経験がある。真言宗仁和寺派総本山であるだけに、真言密教に関する宝物が多いのは当然である。

国宝  阿弥陀如来坐像  木造 乾漆         平安時代(9世紀)

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仁和4年(888)創建の仁和寺金堂の本尊である。常識的には、創建時もしくはその前に建造されたと思われるが、専門書(美術全集)は9世紀末ないしは10世紀の制作と解説する。頭躰部をヒノキの一材剥ぎとするもので、後頭部と、躰背面に、別々に長方形の穴をあけて内剥を行い、蓋板を嵌め、全身に漆箔(しっぱく)をおいている。童顔をおもわせる目鼻立ちの面相はふっくらと丸い。身体全体をまるく太った姿が特徴である。全体に醸し出される穏やかさは、西方浄土の仏ならではのものであろう。密教寺院でこのような阿弥陀を本尊とするのは、寺を発願した父の光孝天皇の追善菩提を願う宇多天皇の意思と、浄土教を胚躰させつつあった天台宗の思想が背景にあったとも考えられる。

国宝  阿弥陀三尊像のうち左右脇侍像  木造 漆箔  平安時代(9世紀)

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阿弥陀如来に沿う容貌、体躯を表現した菩薩立像である。観音と勢至菩薩であるが、頭上の化仏、水瓶を表す通常の形をとらないので、どちらが観音・勢至とするか不明である。阿弥陀如来像と同時期に制作されたとするのが常識であろう。従って9世紀後期と考える。

重要文化財  愛染明王坐像  木造彩色       平安時代

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愛染明王は、頭上に獅子冠を被り、憤怒相に三目六臂(さんもくろっぴ)で、六臂に金剛鈴などの持物を執る。怪異の中にもふっくらと穏やかな雰囲気を漂わせて、平安時代後期に遡る作例である。愛欲と煩悩を絶つ仏で、男女和合や子の誕生を願う敬愛(けいあい)法、増益(ぞうやく)法の本尊と信仰された。

国宝   孔雀明王像  絹本着色      北宋時代

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仁和寺では平安時代以来、旱魃や疫病・天変地異・天皇中宮の出産などがあると、歴代門跡が孔雀妙法という密教修法を修し、効験(こうげん)が極めて高いことが有名であった。この修法の本尊が孔雀明王で、空海の伝えた画像が用いられた。また中国から新たな画像が次々と舶載された。本像は北宋に遡る貴重な慰令である。三面六臂(さんめんろっぴ)の明王が、孔雀に乗って来臨した様を描く。素晴らしいい秀作である。

重要文化財  別尊雑記(全57巻の内) 紙本白描   平安~南北時代

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天台宗円城寺から出て真言宗に転じ、醍醐寺を経て高野山に住んだ心覚(1117~80)が、晩年の象安年間(1171~75)に撰述した密教図像集である。仁和寺本は、全57巻のうち46巻が平安時代後期の制作で、11巻が鎌倉から南北朝時代の補作になる。広く白描図とも言われる。「鳥獣戯画展」で、東京国立博物館の土屋貴裕研究員が、図録の論文で「鳥獣戯画の伝来」の稿で「鳥獣戯画は高山寺で描かれたものではなく、別の場所で描かれ、高山寺へもたらされたことは間違いあるまい。」「平安時代後期、絵画の制作と供受において、寺院と世俗が交錯するような場こそ、鳥獣戯画が生まれた環境に相応しい。」「それでは、具体的に鳥獣戯画はどこで描かれたのか。あくまで推測に過ぎないが、仁和寺を一つの可能性として提示したい。仁和寺の門跡は「天皇の子弟から選ばれ、世俗と寺院が交わるような場であった。さらに、高山寺と仁和寺が非常に密接な関係を結んでいたという点も重要である。」この提言は、私には「聞くべき意見」と考えられる。この場合、仁和寺にも、高山寺にも白描図が多数保管されていることも、また類推する材料になるであろう。

国宝 三十帖冊子   紙本墨書          平安時代

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弘法大師空海(774~835)が延暦23年(804)から大同元年(806)までの入唐中に、長安・清隆寺の恵果(けいか)阿闍梨から伝受相承した密教経典・儀軌を書写し持帰ったものである。空海の自筆以外に唐の写経生が書写し、同時に入唐した橘逸勢(たちばなのはやなり)筆と伝える部分も含む書道史上の至宝であり、最古の粘葉装冊子本としても知られる。東寺から一時高野山に出て、再び東寺の秘宝として護持された。文治2年(1186)守覚親王がこれを借覧し、以来仁和寺蔵経に納められることになった。これは、通常は経蔵に納められている。

国宝 宝相華華陵頻伽蒔絵冊子箱        平安時代img887

長方形の被蓋(かぶせふた)づくりの箱である。身・蓋の素地は、麻などの布を型に当てて成形し、漆を塗って固める(そく)、つまり乾漆の技法によるとされる。全面に黒漆を塗り、蓋表および身側面は金銀粉を撒いた平塵地(へいじんじ)とし、宝相華唐草・華陵頻伽(かりょうびんが)・鳥・蝶・瑞雲の文様を、金銀の蒔絵で表している。この箱は空海が入唐中に師の恵果から得た儀軌や法典などを書写し、30冊の冊子に仕立てた、「三十帖冊子」を納めるものである。延喜19年(919)11月、冊子を納入するため新造された箱一合が、内裏より東寺の権大僧正観覧のもとに送られた。冊子と箱は東寺に納められたが、文治2年(1186)仁和寺の守覚親王が借用して以後、仁和寺に伝来することになった。

重要文化財  色絵瓔珞文花生  仁清作       江戸時代(17世紀)

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仁和寺が再興されて間もない正保4年(1647)頃、寺の許可を得て門前に陶器窯、御室窯を開いたのが野々村仁清である。京焼の初期の名工で、特に色絵の手法を大成したことで知られる。この花生は、仏具の尊形花瓶に倣った形で、瑠璃・七宝を彷彿とさせる金・緑・青・黄の色絵で表した瓔珞文(ようらくもん)も仏器にふさわしい。仁清本人が開窯初期に仁和寺に寄進した作品である可能性が高く、御室焼きの最も由緒の確かな名品である。

 

大内山を背にして建ち並ぶ伽藍堂塔は見事である。京都には宮廷の雰囲気を持つ寺院が少なくないが、中でも天皇の御願による仁和寺は別格の存在である。寛永期(1624~44)の再興にあたり内裏より下賜された紫宸殿(金堂)や清涼殿(御影堂)なども王朝の風格に彩りを添えている。しかし、何と言っても霊宝館に安置される国宝類には、格段の風格を感ずる。阿弥陀如来三尊像が、密教寺院に相応しくないことは、かねて感じていたが、平安時代には既に叡山には、浄土教の思想が胚胎していたことを痛感した。また、仁和寺のお家芸であった孔雀修法で使用する宋代のきわめて貴重な孔雀明王像の存在も大きい。また、東寺の宝物であった「三十帖冊子」を借りたまま、返却しないで、寺宝にしてしまった仁和寺の「ずうずうしさ」も門跡寺院の風格であろうか?「別尊雑記」から「鳥獣戯画」の誕生を予想した研究員の思いも楽しい思い付きである。江戸初期に仁清という稀有の陶工に活躍の場を与えた御室は、華道御室流により仏への献花と生活芸術としての池花の精神的昇化を勧め、さらに京都きっての観桜の場を人々に提供してきた。仁和寺の蔵する多数の宝物が、すべて宮門跡としての歴代御室の長い営みの賜物であることを、強く感じた。

 

(本稿は、古寺巡礼京都「第22巻  仁和寺」、図録「空海と密教美術展 2011年」、原色日本の美術「第5巻 密教寺院と定観彫刻」を参照した)