仁和寺   御 殿

二王門の前を通る通路は、周山(しゅうざん)街道と呼ばれる若狭への重要交通路の入り口にあたり、それは既に真言宗の山寺として開かれた高雄神護寺(たかおじんごじ)へと至る、清浄な宗教空間への入口、つまり聖地と俗地の境界であったのである。天皇が王城鎮護の意図を仁和寺建立に込めたとするならば、それを具現する密教修法の場として、この地はまことに相応しかったのである。仁和寺は、真言密教の寺院であると同時に、宇多天皇(867~931)が寛平9年(897)7月に31歳で、第一皇子である醍醐天皇に譲位し、昌泰2年(899)10月に出家し、法皇となり、仁和寺の一隅に住房を建て、移住し、法皇の住まいとする僧坊を御室(おむろ)と言い、それが現在の御殿の部分である。法皇のお住まいに当たる御殿は、仁和寺同様に何度も焼失したが、明治20年(1887)になると御殿の大部分が火災にあい焼失した。このとき寛永の再興時に、御所の常御殿(つねごてん)が移築された宸殿(しんでん)が焼失したのは、かえすがえすも残念なことであった。その後宸殿などは大正3年(1914)までには再建され、これが現在御殿と呼ばれている仁和寺本坊である。明治末から大正期にかけての御殿の復興にあたっては、当時の建築・絵画・作庭の粋を集めての造営が行われた。現在、二王門をくぐって参道の左方にある勅使門、宸殿、黒書院、白書院、霊明殿など御殿と称される建物がそれにあたる。また、仁和寺は、日本の文化との関係が深い。例えば、兼好法師は「徒然草」のなかで仁和寺の僧侶が鼎(かなえ)を倒さ(さかさ)に被って、人々に囲まれてよろめき出てきて、僧衣の胸もとに絶えず流れ出る鮮血に染められる様を描いている。この寺の南の双ヶ岡(ならびがおか)に隠棲していた兼好法師は、当時の寺にまつわる多くの噂話しを、そのよしなしごとの記録の中に書きとどめていたのである。兼好の趣味は一貫して王朝への憧れであった。だからこそ、平安の面影を伝えるこの寺の近くに隠宅を構えたのであるし、王朝的な好色を礼賛すると同時に、現実の女性たちには嫌悪の限りを尽くして悪口を列ねているのだ。

重要文化財  勅使門              大正2年(1913)

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二王門と中門の間の西側に建つ門である。本坊の正式な門で、前後を唐破風、左右を入母屋とした桧肌葺屋根の四脚門である。設計は宸殿と同じく亀岡末吉で、大正2年(1913)に竣工した。特に目を引くのが彫物装飾で、虹梁、蟇股、柱上から欄間に至るまで埋め尽くし、鳳凰の尾羽根や宝相華(ほうそうげ)・牡丹の唐草の流れる様は、19世紀末からヨーロッパで流行したアール・ヌーボーを彷彿とさせるものである。伝統的な和様に近代の汎世界的潮流を取り入れた作品である。

宸殿(しんでん)                大正3年(1914)

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宸殿は、御殿の主屋で紫宸殿と同じ入母屋造りの桧皮葺きの建物である。まるで貴族の邸宅をみるような穏やかで優美な風情をみせ、内部は三室にわかれ、右側上段の間には床、棚、付書院を構え、本格的な書院造りとなっている。この建物の設計は当時の京都府技師であった亀岡末吉なよるもので、また床棚や絵や二の間・三の間の襖絵などはすべて原在泉筆である。まるで「絵巻物などにみられる貴族邸宅」そのままであると言われる。そしてその白砂を敷き詰めた庭先には、内裏を模して左近の桜、右近の橘が植えられたのである。

宸殿庭園                   江戸時代

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五重塔を借景とし、池泉とその向かいの樹木の中に茶室・飛濤亭(ひとうてい)が配されて、完璧な景色である。寛永復興期の作庭で、元禄3年(1690)に大改造された。明治20年(1887)の火災で荒れた状態であったものを、明治末から大正期の本坊再興期に、小川冶兵衛の設計により再整備したものである。明治の造園とは思えない、王朝の雰囲気がある。

黒書院                   明治42年(1909)

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宸殿の西にあるが、旧安井門跡の寝殿を移築したものとされたものである。襖絵は堂本印象である。入母屋造・瓦葺の建物である。書院建築で黒書院は最も奥向きの居住空間という意味合いが強いが、仁和寺では門跡の公式対面所として用いられた。設計は安田時秀で、明治42年(1909)に竣工した。

霊明殿                   明治44年(1911)

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黒書院の北の渡り廊下と階段を行くと、宝形造、檜皮葺の霊明殿に行き当たる。薬師如来坐像を本尊に祀り、歴代門跡の位牌を安置する。中世仏堂の趣きを漂わせる建物である。この明治~大正の再建により、二王門から広い参道を進んで、中門からなかの堂搭が建つ伽藍の地域と、参道の左手の勅使門から中の御殿の部分という現在の仁和寺の景観が出来上がったのである。

重要文化財  茶室 飛濤亭(ひとうてい)     江戸時代(19世紀)

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宸殿から北側の庭を眺めると、五重塔とともに茂みの中に入母屋造の茅葺屋根が見える。飛濤亭は、天保年間(1830~44)の建物とみられる。茶室は四畳半で、貴人口の南に洞床(ほらどこ)という隅柱まで錆壁を塗り回した床があり、反対の西側には腰障子を立てる。

重要文化財  茶室  遼廓亭(りょうかくてい)   江戸時代(19世紀)

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霊明殿西側の庭に建つ。尾形光琳(おがたこうりん)の好んだ茶室とも伝え、天保年間(1830~44)頃まで仁和寺前竪町(たてまち)にあったものを移築しと伝える。東南の二畳半台目の茶室である。全体の意匠は織田有楽斎(おだうらくさい)好みの如庵(じょあん)に似ている。

 

仁和寺の前の通りは、周山(しゅうざん)街道へつづく道である。丹波国野々村(現在の南丹市美山町)出身の陶芸家野々村仁清(ののむらにんせい)は、御室で窯を構え、「仁清」銘の御室焼(おむろやき)を生み出した。仁清の「仁」の字は、仁和寺から取ったといわれる。この仁清に陶芸を学んだのが尾形光琳(おがたこうりん)の弟の乾山(けんざん)である。光琳と乾山の兄弟は、仁和寺の門前に暮らしたという。その住居は、後に仁和寺の境内奥に移築された。風雅な茶室、遼廓亭(りょうかくてい)が、それであると伝わる。江戸時代の初期、光琳や乾山、仁清や道八(どうはち)たちが集まって、ひとつの文芸復興運動であったのである。彼らが復興しようとしたものは、長い戦闘によって荒廃に帰した王朝の優雅の伝統美学であったのである。この寺の門前に、かって仁清は窯を開いた。御室焼(おむろやき)である。あの壺の美さに、私はこの寺の歴代の門跡によって伝えられて来た、宮廷美意識の反映を見ないではいられないのである。また光琳の弟の乾山の窯もこの寺の西北、つまり乾(いぬい)の方角にあった。かれは自らその地に因んで「乾山」と号していた。瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)は「京の茶室ー名僧と語る茶の心」の中で、次のように記している。「江戸時代、仁和寺前堅町にあった尾形光琳の住居を移したといわれる遼廓亭は、万事御所風の本坊を通り抜けていった目には、ふいにどこかの山家(やまが)に迷い込んだような、ほっとした気分に、しおり戸の前からなる。この建物は、光琳の弟乾山が住んでいたとともいわれ、兄の光琳の建てた家に、乾山がいたということだろうか。四畳半の座敷の二方は小縁がつき、庭に面していて明るく、床の間と違い棚が付いている。その南側につづいた四畳半の入口に腰高障子が引違についていて、ここが玄関になる。白い障子を見ると、茶室というより、やはりこの中で誰かが日常の生活をしているようななつかしさが感じられる。」話は変わるが、昭和20年(1945)、日本が敗戦を迎えた時に、近衛文麿(このえふみまろ)が、昭和天皇を仁和寺に迎えて出家することで、占領軍との間を収拾しようという計画があったというエピソードがある。その相談に、仁和寺を訪れた近衛文麿が、霊明殿の扁額を揮毫したとのことである。しかし、「昭和史」が何冊も発行されているが、この秘話を伝える記事は全く見当たらないので、やはり作り話だったのであろう。

 

(本稿は、パンフレット「仁和寺」、新版京都古寺巡礼「京都22  仁和寺」、探訪日本の古寺「第9巻 京都Ⅳ  洛西」を参照した)