仁和寺  伽 藍

仁和寺は、王朝を想い起させ、宮廷的美意識を感じさせるお寺である。しかし、お寺の歴史を辿ると、それは焼失と再建の歴史である。仁和2年(886)に光孝天皇が大内山の南麓に建立しようと発願した寺院が、翌年8月の光孝天皇の死去により、天皇の第七皇子である宇多天皇(867~931)が引き継いで造営を完成し、仁和4年(888)8月には、その金堂で供養が行われた。寺号は、年号を取って仁和寺と名付けられた。宇多天皇の治世は菅原道真の登用などを行い、寛平(かんぴょう)の治とも称されるが、藤原氏との軋轢もあり、天皇は寛平9年(897)7月に31歳で、第一皇子である醍醐天皇に譲位し、昌泰2年(897)に出家し、法王となった。そして延喜4年(904)に、仁和寺の一廓に住房を建て、移住した。法皇の住まいとする僧坊を、御室(おむろ)と言い、それが地名となった。仁和寺歴代は、そのときの天皇の皇子が承継することが、鎌倉時代まで行われ、それ以降も明治初年に至るまで、ほとんど宮家出身の人達で、皇室とつながりが強い寺としての性格が継続された。平安時代後期にには、仁和寺を中心として、その周囲に子院が建立され70余を数えるほどとなった。仁和寺の伽藍も、元永2年(1119)4月の火災によって多くの堂舎を失った。保延元年(1135)になって、再建供養が行われ、仁和寺全体としては、平安時代から室町時代始めまで、おおむね隆盛が続いた。しかし、応仁の乱のさなかの応仁2年(1468)9月に、ほとんどの堂舎が焼亡した。一面荒野となった御室一帯が、再建の途についたのは江戸時代になってからである。徳川家光将軍は、金20万両を寄進し、再建は慶長年間(1596~1615)に建てられた内裏の建て替えを行い、その取り壊された旧殿舎の多くを仁和寺に移築しようとしたものである。正保3年(1646)10月に造営が完了し、翌4年(1647)2月に開眼供養が行われた。現在の金堂、五重搭など中門からうちの建物のほとんどと二王門は、この時期に造営されたものである。真言宗御室派の総本山である。

重要文化財  二王門   江戸時代(官営14年~正保元年~1644)

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境内正面に建つ巨大な二王門である。(通常仁王門と書くものであるが、仁和寺では二王門と書く。理由は知らない)柱間5間のうち中3間を戸口とし、左右各1間に仁王を安置する。禅宗風ではなく、和様にまとめられ、平安時代の面影を残すとされる。法親王による法灯をともし続けた門跡寺院らしさを意図したものであろう。正面に立つと、堂々たる威容であるが、威圧的ではない。それは禅寺とは違って、屋根の反りにも、瓦の配列にも、いかにも平安町風の優美さが流れているからである。なかに入ると、広場のように広がっている参道がゆっくりと続く。

重要文化財  中門             江戸時代

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二王門の奥にあり、その中に金堂・五重搭・観音堂等が建つ伽藍中心部の入口に当たる門である。柱間3間の八脚門で、中央戸口を通して金堂の偉観が拝される。二王門と同じく和様の構成である。

重要文化財  五重搭     江戸時代・寛永14年(1637)再建

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伽藍中心の東に建つ塔で、塔身の高さは32.7メートルで、寛永14年(1637)の建立とされる。しかし、昭和の屋根瓦葺き替えで、寛永21年(1644)の墨書のある土井瓦が発見され、この頃に完成したようである。東寺五重塔と同様、上層と下層の幅の差があまりない江戸時代の姿である。古代の和様スタイルを踏襲する塔である。初層西側には大日如来を象徴する種子(しゅじ、梵字)の額を懸ける。

国宝  金堂        江戸時代・寛永19~21年(1642~44)

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仁和寺の中心の堂宇である。慶長年間(1596~1615)造営の内裏紫宸殿を賜り、寛永19年から21年(1642~44)にかけて移築したものである。屋根を瓦葺きして西庇を取り除いた以外、紫宸殿の外観を残した結果、門跡寺院らしい佇まいを残している。仁和寺の伽藍の中で、唯一、平安時代を思わせる建物であり、国宝に指定されている理由が納得できる。江戸時代の建物であるが、桃山時代を感ずる建物で、如何にも御所らしい。密教寺院でありながら、本尊として阿弥陀三尊を祀るのは、仁和寺創建時の金堂本尊に倣うものだそうである。(内部は拝観できない)

重要文化財  観音堂   江戸時代・寛永年間(1624~44)再建

金堂の手前、西寄りに建つ。仁和寺創建の40年後、延長6年(928)の建立とされ、今の建物は寛永年間(1624~44)の諸堂再興時に再建された。正面を全て板扉とするのは、三十三間堂など平安時代後期の形を取り入れたものであろう。千手観音菩薩立像を本尊とし、後三世明王立像、不動明王立像を両脇侍とし、風神・雷神立像を配し、更に二十八部衆立像を配するものである。平成27年には、解体修理が行われ、その展覧会が初めての観音堂の公開であった。「仁和寺と御室派のみほとけ展」では、この観音堂の内部の全ての尊像が配置され、大勢の観客の眼を引いた。まるで江戸時代(17世紀)の世界に迷い込んだような錯覚に襲われた。

重要文化財  御影堂   江戸時代・寛永年間(1624~44)再建

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境内の北西側に建つ檜皮葺き、宝形造(ほうぎょうづくり)の堂宇で、弘法大師空海の像を祀る。今の建物は、慶長年間(1596~1615)造営の内裏清涼殿の部材を賜り、寛永年間に再建されたものである。昭和の屋根葺き替えで垂木に「せいりやうでん」と墨書のあるのが発見された。金堂の外観は、大師のお住まいという意を込めて、軽やかで瀟洒な姿に変えている。例の菅原道真が九州大宰府に左遷されることになった時、彼は保護者であった宇多法王に訴えるべく、この仁和寺に駆け付けたのであったが、丁度、折悪しく法王はこの御影堂で修法中であったので、空しく待ち尽くしたという言い伝えがある。その時、道真が詠んだのが「流れ行くわれは水屑(みくず)となりはてぬ きみ柵(しがらみ)となりてとどめよ」の歌である。法皇はそれを読んで、直ちに参内したのだが、さまたげられて帝に面会できず、道真の運動は効を奏さないまま終わった。

重要文化財  経蔵       江戸時代

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金堂東側に建つ3間四面の宝形造、瓦葺の建物で、寛永年間に堂宇再興を取りしきった顕証上人が、経典、密教儀軌(ぎき)など膨大な数の聖教(しょうぎょう)類や古記録を整理・保管するために造営を計画した。内部には回転式の八角輪蔵(りんぞう)が設けられ、収納の効率化が図られている。外観は花頭窓(かとうまど)を設け、円柱に大きく膨らむ粽(ちまき)を設けるなど、禅宗様で統一される。

重要文化財  九所明神本殿       江戸時代

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五重塔の北東に3棟の社殿が並び建つ。仁和寺の初代別当、幽仙が勧請した伽藍鎮守で、今の建物は寛永の伽藍再興に伴い建立された。3神社には9座の神々を祀っている。この並び方は鎌倉時代まで遡るそうである。各殿の正面には、寛永21年(1644)建立の石燈籠が建つ。

 

全部の建物が、江戸時代の再建であるが、流石に内裏紫宸殿を賜っただけあり、まるで平安時代の様相を呈している。井上靖は、京都大学の学生時代に、等持院の近くに下宿していた。青春時代のとめどない物想う時間を、仁和寺の石段で過ごしていたそうである。井上靖の「日本古寺巡礼」には「仁和寺」の項に次のような文が残っている。「印象が最も深いのは、月明かりの夜の仁和寺楼門付近だ。私は学生時代の4年間と、勤めをはじめてからの数年を京都で過ごしたが、この仁和寺を今も忘れることができない。とりわけ、秋の月が素晴らしい。私はしばしば仁和寺を訪れ、短編の素材としたことがある。」「真野川端署長は”花見頃の夜明けの風景が良い。ほんとうに春の朝という感じがする”という。背丈がせいぜい2,3メートルという御室桜は八重の桜。大正13年に名勝に指定されたものだが、ツツジのように根元から枝が張っている。だれもいないとき、ほのぼのと白む朝明けに、静かに露を含んだ桜の風情はまた格別だろう。それにも増して、月明かりの夜は美しい。白い壁と、緑に映える草と、灰色の通り。山門の、年齢を刻んだ木組の力強い交叉。裏側に回れば土塀にはめこまれた瓦が、規則正しく影を落としている。西国八十八カ所を模して、通称御室に作られた八十八カ所はアベックのハイキングコースでもある。お寺が”庶民とともに”歩みはじめたころ、人々は別の楽しみを見つけ、別の思い出を秘めて、仁和寺を訪れるのである。」なお、仁和寺は世界遺産に指定されている。

 

(本稿は、パンフレット「仁和寺」、新版京都古寺巡礼「京都22 仁和寺」、探訪日本の古寺「第9巻 京都洛西」、図録「仁和寺と御室派のみほとけ」を参照した)