元興寺 仏像と宝物と文化財研究所

元興寺の宝物は、総合収蔵庫に収められている。元興寺の長い歴史に関わらず、古い仏像類は無い。飛鳥寺に残して来たのであろうか。反対に、新しく生み出した民衆信仰の保存物は多い。元興寺の由緒ある歴史の割には、古い仏像が少ない。しかし、文化財保護研究機関として驚くべき発展をしている。

国宝  五重小塔            奈良時代(8世紀)

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綜合収蔵庫に入るとまず目につくのが中央に立つ五重塔である。高さ5.5mあり、瓦や組物を精密に表現したもので、一見塔の模型のように見える。平安時代、鎌倉時代など6回の修理が行われ、特に最後の昭和42,43年(1967,8年)に際してほぼ当初の形に復元された。塔の内部には昭和40年(1965)にスリランカよりもたらされた舎利(仏舎利)が納められている。この小塔がなぜ造られたのかについては、かって有力であったのが五重塔のひな形説である。元興寺には江戸時代後期まで推定高50mを超える巨大な五重大塔が建っていた。奈良の名所にもなっていた美しい塔であったが、安政6年(1859)に火災に遭って失われてしまった。大塔を建てる時に造られた模型であると考えられていた。しかし、江戸時代の大塔修理に際して描かれたと思われる大塔の構造図が見つかった。そこに描かれた大塔はおおよそ小塔とは似つかないものであり、現在では大塔ひな型説は否定されている。元興寺には東に大塔があり、西には大塔がない。かわりに本来大塔のある位置に「小塔院」(しょうとういん)という建物が配置されている。元興寺小塔は、小塔院の本尊として祀られていた可能性が高い。(この小塔は昨年の国宝展にも出展されていたが、ここまでは説明されていなかった)

重要文化財  阿弥陀如来坐像   木造   平安時代(10世紀)

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元興寺に残る仏像の中でもっとも大きなものである。高さ157.3cmで、一般に反丈六(はんじょうろく)と呼ばれるサイズのものである。長らく本堂厨子内に納められていたが、古い記録によると、もともと元興寺の東方にあった禅定院多宝塔(ぜんじょういんたほうとう)の本尊であったが、文明15年(1483)に多宝塔が火災にあったことから、元興寺極楽坊に移されたものである。頭と体幹をケヤキの一木造り、膝から前の部分は別の材で作って接合している。肩が大きく張り気味で、大きな肉髻(にくけい)とあいまって、全体的にどっしりとした風格を醸し出している。右手を立て、左手を下げ、親指と人差し指を結ぶ手の形(印相)を「阿弥陀来迎印」(あみだらいごういん)と言い、仏が人々を極楽へ導くことを象徴している。

重要文化財  聖徳太子十六歳孝養像         鎌倉時代

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本像は角髪(みずら)を結い、靴を履いて柄香炉(えこうろ)を持つ立像である。父用明天皇の病気回復を薬師如来に祈る16歳の像である。解体して修理を行った際に、文永5年(1268)に眼清(がんせい)という僧侶がこの像を造る代表になったことを記した「眼清願文」、仏像を刻んだり版画の原画を描いた工房の人々の名前を記した「木仏所画所列名」(きぶつしょえところれつめい)、像を造るためにお金を出し合った人々の名前を記した「結縁人名帳」(けちえんじんめいちょう)、聖徳太子の姿を版画にした「聖徳太子刷物(しゅうぶつ)」、お金やお米を出した人に配られた「太子千杯供養札」(たいしせんぱいくようふだ)など多数の納入品が発見された。これらの資料からは、この像を造るにあたって、実に5,000名に及ぶ人々が力を合わせたことが知られる。鎌倉時代に「聖徳太子信仰」が盛り上がった様が窺える。

 

南無太子像   木造     鎌倉時代

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平安時代の初期の「聖徳太子伝暦」には、聖徳太子が2歳の時に東に向かって手を合わせ「南無仏」と唱えたと記されている。中世のころにはさらに話が広がり、手のひらの間から舎利宝珠(しゃりほうじゆ)がこぼれ落ちたという伝説も語られるようになる。本像はこの伝説の聖徳太子二歳像のなかでも特に優れた像とされている。

如意輪観音菩薩坐像   木造    室町時代

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優しげな面持ちと、水晶をはめ込む「玉眼」(ぎょくがん)と呼ばれる方法で造られた切れ長の目がひときわ美しい像である。奈良時代から聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである、という信仰が広まっており、本像は元興寺に浸透していた聖徳太子信仰をもとに鎌倉時代末ごろ造られたものと考えられる。如意輪観音は中世以降、女性を救済する変化観音(へんげかんのん)として信仰されるようになった。元興寺には「夫婦離別祭文」のような女性の立場から書かれた祭文ものこされており、如意輪観音信仰の背景には女性の信仰も垣間見える。

重要文化財  弘法大師坐像   木造    鎌倉時代

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寄木造の坐像で、像内に五色の舎利や愛染明王(あいぜんみょうおう)印仏、正中2年(1345)の年号を持つ「結縁交名状」(けちえんきょうみょうじょう)などが納められていた。大師450年遠忌にあたる弘安7年(1284)ごろに造られたと考えられ、納入品は後に修理の際に入れられた可能性がある。元興寺禅室にあたる「春日影向の間」に毎日春日明神が鹿に乗って現れ、智光曼荼羅と舎利を護ったので、弘法大師空海がこれを勧請(かんじょう)して春日曼荼羅を描き、併せて自らの像を作ったと記されている。春日信仰を介して弘法大師信仰が元興寺に息づいていたことがわかる。

 

昭和18年(1943)から36年(1961)まで行われた元興寺禅室・極楽堂などの解体修理と防災工事に伴う発掘調査で約10万点に及ぶ中世の庶民信仰資料が発見された。その性格解明と資料を後世に長く伝えるための保存処理を目的として、昭和36年(1961)に研究所の前身となる中世庶民信仰資料調査室を立ち上げた。その後、関連資料の調査研究を進めながら、「出土品の保存処理と文化財に関わる様々な研究」を行う民間機関として、昭和42年(1967)に文化財保護委員会から「財団法人 元興寺仏教民族資料研究所」として認可を受けた。さらに、発掘調査の増加に伴って全国各地から発見された埋蔵文化財や民俗文化財の保存処理を受託できる機関として整備され、昭和50年(1975)に生駒市大乗寺境内に保存科学センターを新設した。昭和53年(1978)には文化財全般の保存処理や調査・研究に対応するため、法人名を「財団法人 元興寺文化財研究所」と改名し、さらに平成25年(2013)公益財団法人として認定され、より公益性の高い事業展開を進めている。なお、奈良市南肘塚に平成28年10月に「総合文化センター」として移転した。(なお、大乗寺にも、文化センターは残っている。)元興寺は、本来わが国の最古の仏寺であり、蘇我氏の氏寺として建設されたお寺であり、その由緒は古く、日本書記にも出てくるお寺である。それが奈良遷都とともに元興寺(もとおこるてら)としう失礼な名前を付けられて、1400年の後まで受け継がれているのである。その名誉ある元興寺が、中世の庶民信仰資料の保存を目的として「中世庶民信仰資料調査室」を立上げ、現在は「公益法人 元興寺文化財研究所」として生駒市に現存する。長い歴史の中で、貴族信仰ではなく、庶民信仰資料調査を初期の目的として、更に「文化財研究所」として、生き残っている。蘇我氏の実に長い1400年以上に亘る長寿の有様である。日本というもの持ちの良い国の歴史を垣間見る思いがする。そういう意味でも、奈良見物の際には、是非元興寺にお参り頂きたい。

 

(本稿は、図録「わかる!元興寺」、梅原猛「隠された十字架」、探訪日本の古寺「第12巻 奈良三」、野間青六「日本美術辞典」を参照した)