養源院  俵谷宗達の襖絵

養源院は京都・三十三間堂の左隣りにある江戸時代初期の寺院である。本来、豊臣秀吉の側室淀殿が、父浅井長政の菩提を弔うため、文禄3年(1594)に建立した寺である。しかし健築後程なく火災にあい焼室した。元和7年(1621)に、二代将軍徳川秀忠の夫人崇源院殿(長政の三女・お江の方)の願いにより伏見城の遺構を用いて再建したのが現在の養源院の本堂である。以来、徳川家の菩提所となり、歴代将軍の位牌を祀っている。養源院本堂の大きな空間を占める襖絵「松図」の作者は俵谷宗達(生没年不詳)として知られている。宗達は桃山時代から江戸時代初期にかけた活躍した絵師で、当時「俵谷」と呼ばれた扇制作工房の主人であると思われる。宗達は、扇絵や色紙の下絵などに桃山の大胆な時代精神と斬新なデザイン性を表現し名声を高めていた。本阿弥光悦と組んで、俵谷宗達下絵、本阿弥光悦書の国宝が多数残されている。その他交友には千少庵(千利休の次男)など、富裕な町衆との交際で知られ、富裕な町衆として、この時代の清新な文化を担った一人である。宗達の経歴は不詳な点が多いが、この頃(1600年から1645年頃)装飾画の制作にたずさわり、次第に絵師としての地歩を固めるに至った。宮廷より「法橋」という絵師として最高の地位を与えられたことは、ある意味で新しい社会の動向を示していると言えよう。狩野派という権力に結びついた流派ではなく、このような町絵師が社会的地位を得たことは、その力量によるもので、この点では「近代」社会の傾向を示したと言って良いであろう。俵谷とは、元来京都の唐織屋の屋号であり、宗達は、この俵谷の当主でありった。活躍時期は1602年から42年にかけてであり、約40年間の活躍が確認されている。本阿弥光悦(1558~1637)と俵谷宗達(生没年不詳、1602~42年活躍)の二人は、琳派の創始者であると考えている。私は、桃山時代を日本の「ルネサンス」時代と呼んでいるが、正にこの二人がルネサンスの最初の担い手であったと思う。

養源院入口                   江戸時代初期(17世紀)img_3102

大きな寺では無いが、ここには宗達の杉戸絵や襖絵松図等の景品が揃っている。琳派を研究するには、必見のお寺である。楓の紅葉が美しい時期に訪れた。

門から寺までの紅葉

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楓の紅葉の美しさは、京都一と評しても良い。門から本堂までの間に素晴らしい紅葉が見られる。養源院を訪ねる時期は、11月~12月上旬がお勧めである。

養源院の本堂                江戸時代初期(17世紀)

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桃山城の旧材で再建された養源院の本堂である。本堂の屋根の尖りが激しい。信長に滅ぼされた浅井長政の無念を強く感じた。本堂の左右と正面三方の廊下の血天井は、関ケ原役直前、徳川方の鳥居元忠(とりいもとただ)ら384人の将士が石田三成の攻めにあって自刃した怨念の血痕と言われる。

重要文化財   白象(2枚) 俵谷宗達筆 杉戸 江戸時代初期(17世紀)

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現代感覚に通じるモダンな筆致と溢れんばかりの量感に満ちたこの作品は、通路の杉戸いっぱいに描かれ今にも飛び出してきそうである。若い宗達の才能が踊る作品である。本堂の前の通路の戸襖であり、これだけの名画を惜しげもなく拝観させてくれる。

重要文化財 唐獅子(2枚)俵谷宗達筆 杉戸絵 江戸時代初期(17世紀)

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空中から舞い降り、また天空へ駆け上がる唐獅子2枚である。次の見開きと共に躍動感に溢れた作品である。三方正面八方にらみ図となっており、どこから見ても獅子と眼が合うことで有名である。

波と麒麟図(2枚)  俵谷宗達筆  杉戸絵  江戸時代初期(17世紀)

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麒麟(もしくは水犀)を描いたものと思われるが、一般的には麒麟図と呼ばれる。杉戸絵は、紙が貴重品であったため、人の出入りの激しい箇所は戸襖を使用したものである。

重要文化財  松図(2面) 俵谷宗達筆 襖絵  江戸時代初期(17世紀)

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本堂襖絵12面のうち、東側の2面である。本来20面であったが、北側8面が亡失している。「松図」は松と岩という単一主題を反復することで独特のリズムを作り出し、襖からはみ出るような大胆な構図で、松と岩の量感を表現している。これこそ琳派の作品である。装飾的な松と岩を鑑賞して頂きたい。

養源院池庭     小堀遠州作         江戸時代初期(17世紀)

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「都林泉名勝図会」に書かれているように、多くの珍しい岩石を配している。小堀遠州作庭の幽遠な池泉庭園である。

 

この時代は織田信長や豊臣秀吉らが天下を取り、大きな変化と活気に満ちた時代であった。美術の世界でもそれまでの常識をうち破り、金箔や金泥・銀泥を大胆に使い襖いっぱいに大きく描く豪華絢爛な様式が花開いた時代である。これらの作品は以前の大和絵や水墨画の様式を超え、力強く華麗な色彩や構図で見る人を圧倒した。正に、日本のルネサンスとも呼ばれる桃山美術の開花である。当時、徳川家の御用絵師は狩野派であったが、狩野永徳(聚光院の室中の花鳥図を描いた)の急死による混乱のため、十分な対応が出来なくなり、そのことに危機感を持った養源院の開山・成伯は、浅井家ゆかりの尾形光琳の父や桃山時代の大文化人であった本阿弥光悦を動かし、絵師として評価の高まってきた俵谷宗達に残りの障壁画を依頼したものと思われる。それまで大きな障壁画を制作したことのなかった宗達とその工房の人々は、狩野派とは異なる大胆な試みをし、「松図」や「白象図」「唐獅子図」「波と麒麟図」などを完成させた。これらの作品以降、宗達は俵谷工房の主としての立場から独立し、絵師・俵屋宗達として高い評価を受け、多くの労作を描いた。また「法橋」という絵師として最高の地位を得て、宮中や江戸幕府の後ろ盾を得ることになった。その意味でも養源院障壁画は、宗達の絵師としての人生に画期となる重要な仕事であった。養源院には、狩野山楽、松花堂昭乗等の名品も残っている。これだけの桃山、江戸初期の名品を有する寺院であるが、訪れる人は少ない。琳派愛好者の必見の寺院である。京都博物館、三十三間堂に最も近い寺院であるので、機会があれば、是非拝観して頂きたい。

 

(本稿は図録「養源院と障壁画」、図録「大琳派展  2008年」、探訪日本の古寺「第7巻 京都Ⅱ」、田中英道「日本美術全史」を参照した)