「ふつうの系譜 (3)」

江戸中期、すなわち18世紀の京の絵画は、華やかである。伊藤若冲、曽我蕭白ら「奇想」もいれば、池大雅や与謝蕪村、丸山応挙らもいた。続く江戸後期、19世紀になると、誰もが知っている画家は少ない。そんな中にあって、華々しく活躍したのが、原在中、岸駒(がんく)である。二人とも、若冲や応挙らと重なる18世紀後半、既に実力も人気も得ているが、19世紀を迎えて、より目立つ存在になったと言えるだろう。岸駒(がんく)の出身は、越中または加賀と言われる。安永8年(1779)に京に上り、初めは「岸矩」(がんく)という名で、清の画家沈南頻風の花鳥画などを描いていた。例えば「厳上双鶴図」などを描いている。天明5年に「岸駒」(がんく)と名前を変えてからは、彼ならではの描き方を打ち出した。特に虎の絵に人気があった。、岸駒は、有栖川宮家に抱えられたのを出発点として、雅楽助の称を許され、ついには越前守に任じられた。当時の宮中を中心とする世界での地位を高めることによってもまた、自分の絵を優れたものとして浸透させたのである。そして、その子の岸岱、岸駒の養子となった岸連山、連山の弟子の竹堂へと、その流れは続いていった。

寒山十得図    岸駒作   江戸中期

実在したかどうかわからない唐時代の人物、寒山と拾得。物乞いのような姿、突然叫んだり、笑ったり、走りだしたりといった変わった行動の中に、真理や奥義があるとされ、禅の世界で崇拝を集めた人物である。そんなテーマだから、中国でも日本でも、薄気味悪い笑みを浮かべた、不可解な表情に描かれる。しかし、数々の寒山拾得の絵と比べても、岸駒の描写は、あまりにもその表情が鮮明で、しかも「いやな感じ」の演出が思い切りツボにはまっている。完全にこちらに向けた視線、二人の口の開き方の違いや眉の形の違い。しかし、見ていて飽きない、不思議に目を惹き付ける味のようなものがある。

竜虎図 岸 連山作  江戸後期

岸連山は、絵の技量を見込まれて岸駒(がんく)の養子になった人物である。かれが描いた「竜虎図」は、雨雲を起こす龍と風を起こす虎という画だとして定番の組み合わせで、天と地を表す両者を墨一色でダイナミックに表している。岸駒の画風を継承しつつも四条派的な温和な雰囲気も感じられる。墨の表情を自在に操つて対象の立体感や空間を描き出しており、水墨画の奥深さを示す作品である。

群鳥図  岸 竹堂作   江戸後期

この群鳥図には48羽の鳥たちが隠れている。アカゲラや雀、エナガ、ウソ、ノジコなど実に様々な鳥が描かれている。「隠し絵」的な遊び心のあるこの作品を描いたのは、幕末から明治にかけて活躍した岸竹堂である。竹堂は岸連山に弟子入りして、岸派を継いだ。画面全体は落ち着いた色調だが、まだ青みのあるドングリや、烈開した栗、赤く色づいた木の実などが、夏から秋への季節の移ろいをみせている。木の幹や枝葉に輪悪銭を用いないで絵がき上げているところである。(没骨法と呼ばれる技法)。鳥たちも、輪郭線は最低限にして殆どが彩色のみで描かれている。画面内にこれだけの数の鳥がいることは驚きだが、それぞれの色彩や配置などが調和していることによって、作品に窮屈な印象を与えていない。

船鉾図  幸野媒嶺作   明治時代

近代京都画壇の画家として思い浮かべる人物は誰であろうか。すぐ思いつくのは竹内栖鳳や上村松園あたりではないだろうかと思うが、彼らが指導した幸野媒嶺を知る人は、まだ少ないだろう。しかし幸野媒嶺なくして近代京都画壇の発展はありえないと言えるほど重要な人物である。(私は、この解説を読むまで、幸野媒嶺は知らなかった)媒嶺は、江戸から明治への時代の変革期において、伝統の丸山四条派の技術を新時代に引き継いだ伝承者でありながら、新たたな美術の道を次代に繋いだ。絵画教育の近代化に尽力し、指導者としての評価が高い一方で、優れた作品も多く残している。「船鉾図」は、その媒嶺が京都の祇園祭で巡行する船鉾を主題にに描いた作品である。前祭の船鉾(出陣船鉾)と後祭の船鉾(凱旋船鉾)との二基が存在したが、後者は元治元年(1864)の禁門の変で焼失し,近年まで休み鉾となっていた。平成26年に鉾の再建が完了し、祇園祭の山鉾巡行に本格復帰した。ここに描かれているのが、幕末に焼失した大船鉾で、当時の姿を伝える歴史資料としても貴重な作品である。雨粒を描くのではなく、人々がさす傘でその場の天候を匂わせるところが洒落ている。

雪中清水寺 幸野媒嶺作  明治時代

清水寺と言えば京都観光では欠かせない定番のスポットである。覚悟を決めて物事を実行する時に使う「清水の舞台から飛び降りる」ということわざがあるが、その由来である断崖に建つ本堂から張り出した舞台の高さは約13メートルあり、この高層建築が清水寺なのかと思ってしまうくらいに人影がなく静かである。本堂の「懸け造り」と呼ばれる格子状に組まれた柱は、建築的に整合性を持って描かれているが、雪の音羽山が薄闇に包まれる中、薄墨によってぼんやりと浮かび上がった清水寺はまるで別世界のようだ。

朝陽蟻群金銀搬入図 鈴木松年作  江戸後期

明治初期、「今蕭白」とも称され、自らも蕭白は勿論岸駒も敬愛したという鈴木松年が描いた作品である。見る人をギョツとさせる迫力がある。金銀をせっせと巣穴へ運び込む八十匹を超えるアリ。たらし込みによって描かれた土手や笹とは対照的に、アリは肢の節一つ一つまで強調するかのように丁寧に描き込まれている。勤勉さの象徴であるアリを、あたかも画家と共に地面に這いつくばって眺めているような構図が面白い。

花籠図  土佐光起作  江戸後期

江戸時代に土佐派を再興させた土佐光起の「花籠図」は、まさに「精密さ」そのものである。狂いの無い正確な輪郭線と、その中を彩る精緻な色使いに惚れ惚れしてしまう。その丁寧な筆運びはまさに職人技である。光起は伝統的なやまと絵を継承しながらも、中国絵画の手法を勉強し取り入れた。中国には宋代に隆盛した緻密で写生的な院体花鳥画があり、本作はそこからの影響もうかがえる。本図の花入れは唐物瓢手付籠花入れと呼ばれる形である。それに白菊を中心にススキ・女郎花・紅葉・朝顔といった季節の草花を挿して秋を表している。

岩上鷹・柳枝鷹図  曽我二直庵作  江戸初期

曽我派の曽我二直庵は鷹画を得意としたが、二直庵も同様に優れた鷹画を残している。「巌上鷹・柳枝鷹図」は、二羽の鷹を配置している。右福は柳の木の枝に留まって下を見つめる鷹である。画面に対して後ろを向いた状態で脚を広げ、その間から顔を覗かせている。数ある鷹画の中でもこの様なポーズは珍しく、ユニークである。左幅は岩の上で今まさしく飛ぼうとしている体制の鷹を描いている。両方とも何かに狙いを定めているかのような鷹の表情が勇ましい。鷹画は、その勇猛な姿から戦国武将や徳川将軍家に好まれた。また、どちらからも枝葉の流れや鷹の姿勢が画面上で円を描く様な形になっており、構図の妙が効いている。

十界曼荼羅図  浮田一薫作   江戸時代中期

仏画は色の宝庫である。古来、中国の仏画や厳密な教義に従って、様々な仏を色で表現してきた歴史がある。平安時代後期には、宮廷や貴族の世界で、信じられないくらい繊細で美しい仏画の数々が制作されているが、そこには、美しいものを求める気持ちと、その美しさがすなわち仏の力だという考えがあった。この「十界曼荼羅」は、日蓮宗の本尊として拝される曼荼羅。全ての境地が釈迦如来と法華経の救いに包まれていることを表したものである、「南無妙保蓮華経」の題目を掲げて、右に釈迦如来、左に多宝塔如来が描かれ、題目の下には、獅子に乗る文殊菩薩。ほかにも様々な仏や高僧が見えるが、一番下の真ん中は日蓮である。十界曼荼羅図は鎌倉時代から描かれてきたが、古いそれを模写したのかも知れない。

三国志武将図屏風  中島来章作   江戸中期

丸山派の画家、中島来章。清々しい色調の鯉の絵や花鳥画を多く描いたが、この屏風は、来章としても、丸山派としても、更に江戸時代の絵画としても異色である。テーマは「三国志」。江戸時代にはその小説版である「三国志演義」の翻訳本も出て、幅広い人気があった。登場人物をシリーズ化した歌川国芳の浮世絵は大ヒットして、彼の出世作になったほどである。現代と同じように、江戸時代の人たちも登場人物に入れ込んで、熱くストーリーを語りあっていたのかもしれない。上の図は関羽。馬に乗って振り返る姿は、中国から伝わった定番のポーズである。下の図は劉備。許都の攻撃に失敗して、劉表のところに身を寄せていたが、自分を暗殺する計画を知り、馬に飛び乗って逃げた。追手が迫る中,行く手を阻む激流を飛び越えたという「馬跳壇渓」のシーンである。見事なジャンプを見せる馬と劉備。力を振り絞ってピンチを脱した、その姿である。

 

江戸時代の中期、後期、明治時代の絵画を紹介したが、いずれも日本人が好んだ絵画である。何時の時代でも、流行があり、それぞれの趣向を表している。