「ふつうの系譜」(1)

この題名を京王電車の中の広告で知った時、私の頭は「電撃」が走った。確かに、日本の美術界では「奇想の系譜」がかりが喧伝され、古くからの日本画が軽んじられている事に、一途の「不安」を感じていた私には、晴天の霹靂であった。今更言うまでもなく辻惟雄しが1970年(昭和45)に美術出版社から出版された「奇想の系譜」は」、当時新進気鋭の美術研究家であった著者の30歳代の著作であるった。私が、本書に出逢ったのは2004年にちくま学芸文庫から出版された「奇想の系譜」の文庫版であり、恐らく現在は30版近い売れ行きを示す、日本美術界のベストセラーになっているであろう。私は、この本に魅入られ、まづ最初に見たのは、平成天皇御即位20周年記念に展示された伊藤若冲の「動植採柄」全29巻の全巻展示であった。その素晴らしさに惹かれ、その後、京都の相国寺(若冲の墓がある)や石峰寺(晩年をこの近くで過ごし、お寺の裏山には若冲が設計した石造群が残る)を訪ね、伊藤若冲の展覧会のある時には、すべて見てきた。また岩佐又兵衛についてはMOA美術館に保管される「山中常盤」全八巻の絵巻物や、各美術館が保存する若冲の銘品を見て回ったものである。昨年の春の「山下裕二氏」監修になる「奇想の系譜ー江戸絵画のミラクルワールド」は、その初日の朝に並んで拝観した。延30万人が拝観したという「奇想の系譜展」は、日本美術界の話題をさらった。私は、今でも「奇想の系譜」は面白いと思う。しかし「ふつうの系譜」が無ければ、「奇想の系譜」は成り立たない。「ふつうがあるからこそ奇想が人を呼ぶである」ことを改めて、感じた次第である。この「ふつうの系譜」という思いがけない題名を思いついたのは、図録によれば「府中市美術館の学芸員」の方々が、展覧会のタイトルについて悩みに悩んでいたある時、スタッフから飛び出した言葉が「ふつうの系譜」であったそうだ。これこそが敦賀コレクションが今の時代に投げかける無二の意味と輝きを表せる言葉だと思った・・・と図録の最初に載せられた「本展の趣旨と構成」に書かれている。その文章の作成者の署名が無いところを見ると、美術館のスタッフの皆さんを代表して、どなたかが執筆されたものであろうと思う。通常、図録の最初の言葉は、主催者の代表(例えば館長)の言葉が、載るものであるが、この図録は、出だしから異様である。署名なしの文書が、巻頭を飾る図録は見たことがない。異様づくめであるが、これぞ「ふつうの系譜」を生んだ、府中市美術館のスタッフの皆さんの「想い」であると考える。       江戸時代の日本画の歴史は、土佐派ややまと絵が定石である。なお、作品の大半が敦賀市美術館の作品であるため、一々美術館名は出さない。

仙洞御所修学寺御幸図 土佐光孚作 安永9年(1780)-嘉衛5年(1852)

土佐光孚の「仙洞御所修学寺御幸図」は、橋を渡る烏帽子集団の長い行列が見える。天皇に位を譲って上皇となった前天皇のことを仙洞御所と称するそうだが、その上皇が修学寺へ行幸する様子を描いている。修学寺とは、現在の修学院離宮のことを指しているのだろう、橋の途切れる中州に位置する輿には上皇が乗っていると思われる。やまと絵の魅力は筆の繊細さとまろやかさではないだろうか。

菊鶉図 土佐光起作 元和3年(1738)~文化3年(1806)

この絵は、満開の白菊の傍らに番の鶉が描かれている。整った線で緻密に描かれた鶉図は、中国宋代の院体画からの影響をうかがわせる。お腹の部分は黄色の下地に胡粉の白で一枚一枚描いている。背中側は、茶や墨を用いて絵具の濃淡だけでなく線の太さも使い分けて綺麗に描き上げている。特に、顔の部分は針に糸を通すような、いたそれ以上と言えるほど繊細な点と線で正確に模様を描いている。白菊の葉、ススキからは深まる秋の風情が感じられる。

業平東下図 板谷広長作 宝暦10年(1760)~文化11年(1814)

作者の板谷広長は、やまと絵系の流派で幕府御用絵師である住吉派から独立し、板谷派を築いた板谷広当の息子である。幕府お抱え絵師として御用を務め、伝統的なやまと絵を継承した。「伊勢物語」の「東下り」を題材にした作品である。「伊勢物語」のモデルとされる在原業平が、京を離れて東国へと向かう途中で、駿河の国にて富士山の山頂にかかる雪を眺めて「時知らぬ山は富士の嶺いつとてか、鹿の子、まだらに雪の降るらむ」と歌を詠んでいる。初めて目にする富士の山に、季節外れの雪が積もっている。その様子を眺めて、都から遠く離れて見知らぬ土地へやって来たことを侘しく思う場面である。業平と従者たちの華やかな衣装が画面を彩っている。右福の背景には冠雪の富士山が描かれており、左右を並べると業平らが富士山を見上げる構図になっている。

忠孝図 冷泉為恭作 文政6年(1823)~元治元年(1864)

この絵は、歴史の物語の一場面を描いた作品である。右は「平家物語」の話である。後白河法皇周辺に平家討伐の動きを知った平清盛は、朝敵の汚名を着せられる前に、法皇を自分の屋敷に連れてくるか、鳥羽の離宮に幽閉しようと考え、一同は戦いの準備をする。そこへ息子の重盛が、雅な平服で現れる。青い衣の人物が重盛で、清盛は、既に鎧を着けていた自分が恥ずかしく思い、衣で隠そうとしている。この後、重盛は涙ながらに父に進言する。法皇を守りますが、そうなれば大恩ある父上に背くことになります。どうすれば良いか判りませんから、私の首を取って下さい、と。そして一同は、重盛の勇気ある進言に涙するのである。

五位鷺図 冷泉為恭作 文政6年(1823)~元治元年(1864)

「五位鷺図」は「平家物語」にある、五位鷺という鳥の名の由来である。醍醐天皇が神泉苑の池の汀に鷺がいるのを見て、六位の蔵人に「捉えて参れ」と命じる。六位の蔵人は、どうやって捕らまえようかと思いながら鷺の方へ近寄り「天皇の命だぞ」と言う。すると鷺は飛び去らず、捕らえることが出来た。天皇は「命令に従って参ったのは殊勝である。すぐに五位になせ」と言って、鷺を五位に叙した、という話である。この絵の魅力は、六位の蔵人と鷺が、会話をしているような、目と目を合わせるような両者の視線同士の結びつきに尽きるだろう。

楼閣山水図 狩野永岳作 寛政2年(1790)~慶応3年(1867)

京で興った狩野派は、探幽の時代に江戸へと拠点を移したが、狩野山楽は京に残り、京狩野として代々継承されていった。「楼閣山水図」は、水辺に切り立つ山々の広大な景色が精緻に描かれている。伝統医的な狩野派の画法を基本に、より硬く鋭角的な描線で山の表土が捉えられている。輪郭線に金泥を引き、彩色には緑青や群青を施して美しく豪華な仕上がりのイメージだが、建物や木々の彩色は柔らかく、清雅な印象も併せ持つ。永岳は狩野派の技法を遵守するだけでなく、丸山四条派や南画にも傾倒しており、本図の点苔法や樹木の描き方、加えて隠遁する文人たちの理想郷的な世界観には南画の影響が感じられる。

伊勢大輔図  源琦作  延亨4年(1747)~寛政9年(1797)

「伊勢大輔図」は、百人一首でお馴染みの平安時代の歌人、伊勢大輔を描いた作品である。彩色がとても濃厚である。完全に不透明な塗り方、かつ一切グラデーションを使わない絵具の用い方は、やまと絵の持つ美しさを取り入れたものだろう。

 

この展覧会に採用された絵画のほぼ全ては敦賀博物館の保有する絵画である。府中市美術館とは、強いつながりのある博物館で、しばしば、敦賀博物館の保有する絵画を」、府中市美術館が、お借りして、いろいろな展示会を開催する仲のようである。私が感心したのは、今回の図録の制作である。会場に来るまでは、いろんな美術館の共催の一環と思った所、この展覧会は府中市美術館の単独開催であり、図録作成には敦賀市立博物館の皆さんの協力を得ているということのゆである。失礼であるが、府中市美術館の単独開催で、この図録が売り切れる訳が無いと思った。厚さはあるが、何分にも小さい図書で、2800円という価格では、中々売れないだろうと推察した。最近、どこの美術館でも、学芸員に聞いてみると、「図録が売れない」の一言である。図録を買わずに、果たして十分観ることが出来るだろうか。私は、必ず図録を求め、精読する癖がある。そうしないと美術館へ行っても、何時までも覚えていないからである。折角時間を割いて美術展を見るのだから、せめてふりかえりを試みないと、私の年(86歳)では、見た片端から忘れてしまう。これだけの図録を何冊売れるのだるか、私は不安を覚えて府中市美術館を後にした。この企画、この発想は素晴らしい。今年一番の「美術展」と評価したい。「奇想の系譜」を相手にして「ふつうの系譜」がどこまで戦えるか、楽しみにしている。府中市美術館の学芸員の皆さんの努力には、毎度敬服する。成功をお祈りいたします。後期も、是非拝観したいと思います、皆さん、頑張って下さい。エールを送ります。

(本稿は、図禄「ふつうの系譜ー「奇想」があるなら「ふつう」もありますー(1)」、山中栄道「日本美術全史」、辻信雄「奇想の系譜」を参照した)