「ふつうの系譜」(2)

江戸時代に入った頃の「絵画の世界」には、大きく見ると二つの流派があった。平安時代から続くやまと絵の土佐派と、中世に中国から来た水墨画の流れから生まれた漢画の流れから生まれた漢画の狩野派である。京ではまず、裕福な町人の世界から、豪華でダイナミックなものを描いた俵屋宗達が登場した。そのスタイルは尾形光琳に受け継がれ、更に江戸後期には酒井抱一、鈴木其一等が加わり、独特の感覚を加えている。今日、琳派と呼ばれる画家たちである。また江戸では町人文化として浮世絵がもてはやされた。江戸中期には、文人画も描かれるようになった。日本でも京の池大雅や与謝蕪村ら、文人画を描く人たちが現れた。このほか、清から来た沈南簸のリアルで色の綺麗な花鳥画の描き方が流行した。日本独自の絵を描いた丸山応挙、原在中、岩駒らと、後に生まれた丸山四条派、原派、岸派などがある。この江戸期の絵画の流れを頭に入れて、「ふつうの系譜」2を描き進めたい。なお画家の紹介は江戸初期、江戸中期、江戸後期など大まかな時代区分で紹介したい。

藤下遊猿図   森 祖仙作   森派   江戸中期

藤下猿遊図では、より長いストロークで全身の毛を描き、少しごわごわした毛の質感を再現している。また青を陰影として効果的に使用することで、毛の下にある硬く締まった筋肉の感じを再現している。一連の猿の図は、見事である。右下の落款から、こ図は60台で「狙仙」と代えた以降の60台で号を「祖仙」に代えて以降の晩年の作品と知られる。

雪中鴛鴦図  長澤芦雪作 丸山派   江戸中期

江戸中期、18世紀後半の画家、長澤芦雪と言えば、今では、奇想の画家として知られる。芦雪は非常に優れた門人の一人であり、天明6年(1786)に無量寺に赴いたのも、忙しい応挙の代理としてだった。芦雪と言えば、和歌山県串本の無量寺の「虎図襖」が有名である。一頭の虎を、襖六面にわたって墨で描いた豪快な作品が有名である。今回は「ふつうの画家」として腕を振るってもらった。「雪中鴛鴦図」は、簡潔ながら、手際良く本物らしさを出す手法を使って描いた一作である。鴛鴦や真っ赤な椿の花だけは細かく描き込み、要所要所で作品をぎゅっと締めている。

合歓花小禽図  村松景文作  江戸末期

村松啓文の「合歓花小禽図」に描かれるネムノキに憩う小鳥はヒガラだろうが、ネムノキは六月から七月にかけて花をつける。名前の由来は、暗くなると葉を閉じる様子が眠っているように見えることからきているという。画面に対角線上に伸びる枝や飛び立つヒガラのリズム感、瑞々しい緑の葉に可憐なピンクの花、これらを軽やかに描き、爽やかな夏の情景を見事に表している。

二見富士図  原  在中作  江戸中期

実際にある見事な景色の様子が描かれたのは、江戸中期のことである。室松時代に雪舟が天橋立を描いた作品は有名なので、意外に思わっるかもしれないが、本物の景色を題材にしたリアルな絵を多くの画家たちが描くようになったのは、18世紀の終わりから19世紀にかけての頃だった。原 在中もその一人であるが、ただ実景を写実的に描いた画家の一人と見るだけでは物足りないように思われる。細かいところが写実的すぎるほど写実的であること、定規で描いたような雰囲気が張り詰めていること。実景を描いたというだけではなく、そんな当たり前のを通り超してしまったような奇妙さに、もっと目を向けても良いのではないだろうか。「二見浦富士山図」は、天保元年(1830)、81歳の時の作品である。実際に伊勢の二見ガ浦からは富士山が見えるが、その光景を描いた作品である。太陽からの一筋の光が海上に映し出されている描写は、いかにも「光」を説明して感じで、少々ストレートすぎて面白いほどである。

養老滝真景図  原 在中作  江戸中期

「養老滝真景図」は、岐阜県にある有名な養老の滝を描いている。落差30メートル、幅約4メートルあるこの滝は、古くから名所として親しまれてきた。養老の滝にまつわる逸話は、親孝行の源丞内が泉から湧き出る酒を見つけ、老父を養い喜ばせた伝説がある。画面の噂を聞いた元正天皇によって「養老」と根付けられたという。画面の上から下まで伸びる白い帯状の滝が印象的だが、白の絵具で作者の迫真性が表れている。本作は、箱書きから孝明天皇の御遺物であったことが知られ、夏の宮中を涼やかに彩っていたのであろう。

嵐山図  原  在中作  江戸中期

丸山応挙の絵を思わせる透明感のある淡い色調ではなく、濃い色が使われている。不透明な緑青の絵具がそのまま使われた木々の美しさは、土佐派のやまと絵のようでもある。この横長の掛け軸、そしてもう一つの屏風である。描かれた場所は嵐山、今では京都の観光地の中でもとびきり賑やかで、景色の良さをじっくりと味わうのは難しいほどであるが、少し静かになると、さすがに古くからの名所だと唸らされる。

氷室山水図 原 在明作  江戸中期

「氷室山水図」は、珍しい光景を描いた作品である。夏まで氷を貯蔵しておいて氷室から、氷を取り出して京の御所まで運ぶ、その様子である。人々の描写はとにかく小さい。白い装束の二人が氷を入れる櫃を担いでいるが、夏の山中の細い道を延々と歩いて、天皇のもとへ氷を届ける心境とは、一体どんなものだったのだろうか。点描のような手法で、山の起伏を表している。狩野派の山水画のような筆遣いの妙で見せるのではなく、土佐派のように絵具そのものの美しさで見せるわけでもない。きっちりと、細かい起伏にまでこだわって描いた「精密な風景」。ここにも、父の在世中の、いわばごまかしのない、曖昧さを嫌うような絵づくりが生きている。

巌上双鶴図  岸駒作  江戸中期

岩駒(がんく)は、江戸中期から後期にかけての京では、非常に有名な画家であった。「平安人物史」に掲載されている有名画家であった。若冲や応挙よりずっと若いとは言え、その前半生を彼らと同じ時代の京の画家として生きていたわけである。そして、天保9年(1838)に83歳または90歳で亡くなるまで、絵の実力でも評判でも、第一線を守り続けた。「岸駒と言えば虎」と言われるくらい、独自の手法で描いた虎の絵は知られていたが、今日の目で色色な作品を見渡してみると、虎の絵以外で画家としての特徴をつかむのは、なかなか難しい。「岩上双鶴図」は、沈南頻風の絵を描いた時期の作品である。どちらにも「岩駒」と改める前の「岸矩」の署名がある。突き出した岩の上にいる鶴を描いた「巌上双鶴図」の鶴は、狩野派でも南頻派の絵でも丸山派でも定番の題材だが、岩の起伏をたくさんの線で表しているところや、岩に添えられた菊の描き方などは、南頻風である。しかし全体としては南頻風のこってりとした描き込みは見られず、応挙風のさっぱりとした心地よさが感じられる。応挙風の空間表現から感化された、リアルで広がりのある空間を持った作品である。

白蓮翡翠図  岸駒作   江戸中期

蓮は古くから水墨画などに描かれてきた題材である。秋になって敗れた葉もまた、敗荷と呼ばれ、はかない風情が愛されてきた。しかし、この岩駒の作品は、枯れ方も破れ方もあからさますぎる。蓮池の蓮というものは確かに密集して林立しているが、その光景の一部をそのまま切り取ったように、わさわさしている。そして葉の輪郭を表すがくがくした岸駒独自の描線。奇想かふつうか。あえてそんな見方をしている本展であるが、私は奇想の蓮葉と見たい。これは、「ふつうの系譜」に反する見方だろうか。

富士山図 岩駒作   江戸中期

この絵もまた、がkがくとした線を使って描いている。なぜ、富士山までこんな描き方をするのであろうか。ただ、改めて考えれば、本物の光景に忠実に描くことが日本の絵画の世界に登場する以前は、例えば狩野派の富士山の絵にしても「筆使いの美しさ」が作品の魅力を形作る大きな役目を担っていた。岸駒は、狩野派の描き方とは違う「専売特許のような自分だけの筆づかい」を探求して、がくがくした線にたどり着き、虎や色々な題材を描いたのかも知れない。横が130センチを超える、大きな絵である。空気感、雲の感じ、富士山の見え方など、本物らしさにもこだわっている。

岸駒の「虎図」は後期の展示のため、図禄にはあるが、私自身は本物は見ていない。しばらく猶予を頂きたい。後期展を見て、岸駒の「虎図」を紹介するので、今回は、これでご勘弁願いたい。

(本稿は、図録「ふつうの系譜」、辻惟雄「奇想の系譜」、田中栄道「日本美術全史」を参照した。