お江戸散歩  大名庭園から庶民信仰まで

昔の勤務先のOBグループ有志で、毎年行う秋の「お江戸散歩」を10月24日に愉しんだ。最初の計画では、23日の予定であったが、台風上陸のため、1日延期したものである。この日は例年快晴に恵まれるが、今年は台風のためか曇りで写真の出来栄えが悪い。一行は20名余で、90歳代から65歳までの定年組のグループである。今回は、大名庭園で有名な六義園(りくぎえん)から、巣鴨駅近くの「とげ抜き地蔵」まで約2キロの道を2時間かけてゆっくり廻るコースである。江戸の名残りと、庶民の町「巣鴨通り」まで、東京の、古き、良き街並みを楽しんだ。

六義園の正門としだれ桜

六義園は、徳川六代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保(よしやす)が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。元禄8年(1695)に加賀藩の下屋敷跡を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観を持っ回遊式築山泉水庭園を造り上げた。柳沢は、将軍のお側用人で、綱吉の寵愛を受けた人であったので、このような大庭園が造れたのであろう。(艶吉との関係は藤澤周平の「市塵」に詳しい。なお「市塵」は優れた本である)園内には、幾つも見所があるが、「しだれ桜」が一番有名だろう。現在は、こんな容姿である。なお、しだれ桜は、染井吉野の満開から5日程度遅れて満開となることが多い。その時は、庭園は一番賑わい、多分写真は、他人様の頭越に撮ることになるだろう。

六義園の地図

拝観料を払うと、「特別名勝 六義園」というパンフレットをくれる。その中に園内の地図があるので、ここに紹介した。

内庭大門

建物と庭園の入口に内庭大門が立つ。大門と呼ぶほど大きな門では無いと思ったが、建物は、なかなかしっかりした建物で、多分お寺の門に匹敵するほど、しっかりした門である。

大名屋敷跡

内庭大門を入ったすぐ左側に「六義館跡」(りくぎのやかたあと)の縦看板がある。目立たない場所であるので、大部分の人はこの碑におは気遣かないと思うが、私には極めて重要なモニュメントである。地図の上では、「宣春亭」と「心泉亭」の辺りである。ここからの眺めが大切である。吉保(よしやす)はどのような庭園を見ていたのか、大名の立場で庭園を眺めることが出来る。

妹山・瀬山(いものやま・せのやま)

お屋敷の座敷(通常は、屋敷の一番奥にあるー現在の通路の一番池に近い場所)から、庭園を眺めれば、目の前に島があり、妹山・瀬山という二つの高みが写真左湍に見える。

肉筆浮世絵 美人鑑賞図 寛政2~4年(1790~92)歌川春章作出光美術館

出光美術館で「勝川春章と肉筆美人画」という展覧会を見た時、ひときわ大きい肉筆浮世絵が目立った。解説によれば、この美人達がたむろするお屋敷は、六義園ーすなわち柳沢家の座敷だろうとのことであった。確かに、浮世絵では屋敷内の座敷にたむろする美人が11人いる。これに見える庭園は、正に池の中の妹山・瀬山と思われる二つの山が、ややオーバーに描かれている。浮世絵は江戸庶民の楽しみであると思い込んでいたが、この肉筆浮世絵は1点もので、かつ絹本着色で69.4cm×123.4cmと極めて大きい浮世絵である。図録の中で出光美術館の渡海信彦氏が「俗中の雅」という小論文を寄せている。それによれば、この肉筆浮世絵は二代大和郡山藩主・柳沢信熈(のぶときー1724~92)が注文制作したとしている。浮世絵は庶民だけでなく大名まで愛した絵画であることを知った。1点もので、かなり高額な謝礼であっただろう。美人画としては破格に大きい画面であり、極めて上質な絵具を惜しげもなく使って仕上げられた「美人鑑賞図」は、特定の注文主の意向に沿ったカスタム・メイドと考えるのが妥当との見解であり、邸宅主の柳沢氏を注文主と想定するのは当然であろう。この肉筆浮世絵を見て、是非、この判定の可否を判断したいと思ってこの散歩に参加したが、渡海学芸員の論文に全面的に賛成することにした。さて、柳沢氏の屋敷であるが、江戸末期まで、火災に遭うこともなく明治を迎えたそうである。明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園を整備し、この時周囲を赤煉瓦の塀で囲ったそうで、関東大震災による被害も殆ど受けず昭和13年(1938)に東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった。東京大空襲の被害を受けることもなく、造園時の面影を残したまま今日まで生き延びた。東京都内では、宮城と同じ位、稀有の存在である。三菱財閥にお礼を言いたい。

大和郷(やまとむら)

六義園の西側本駒込6丁目の白山通りまでの間一体を大和郷(やまとむら)と呼ぶ。江戸時代は加賀前田家の中屋敷であつたところであり、明治維新後、六義園とともども三菱財閥の岩崎弥太郎の所有となった。大正時代に入り木造家屋が密集した東京の劣悪な住環境が社会問題となり、華族が所有していた広大な土地を市民に開放しようとする運動が起こり、松濤(渋谷区)や西方(文京区)などが代表的な例である。正に大正デモクラシー運動の成果であろう。岩崎家も六義園西側の土地を市民に開放することとし、当時の建築界の重鎮・東大教授の佐野利器に設計を委ねて、大正11年(1922)から分譲を開始したゆとりある土地区画を整然とした道路の街並みは高級住宅街として「大和郷」とネーミングされた。現在はマンション街となっているが、この写真の部分は、まだ高級住宅街の面影が残っている。

徳川慶喜公の梅屋敷跡

大成奉還を行った15代将軍・徳川慶喜公は、静岡で長い謹慎生活を送っていたが、61歳の時(明治30年ー1897年11月)に巣鴨に移り住んだ。こ屋敷は中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥には故郷の水戸に因んだ梅林があったことから、町の人々から「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ、親しまれた。しかし、巣鴨邸の横に鉄道(現在の山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌って、明治34年(1901)に小日向第六天町に移転し、明治35年(1924)に公爵に叙され、貴族院議員にも就いて、実に35年振りに政治に携わることとなった。大正2年(1913)その地で感冒により死去。享年77歳。徳川将軍の中では最長であったそうだ。

真性寺

「江戸六地蔵尊」の一つとして知られるこのお寺は、真言宗豊山派醫王院真性寺と言う。起立年代は不詳である。元和元年(1615)境内には松尾芭蕉の句碑があった。大きな傘を被り、杖を持つお地蔵様であり、庶民信仰の寺である。江戸の六海道の出入口に置かれ、旅の安全を見守ってくれる。(巣鴨は中山道の出入り口である)関八州江戸古地図、江戸図ほか多くの文献から真性寺界隈は交通の要衝として賑わっていたことが伝わっている。現在も巣鴨商店街の近くであり、賑わっている。真性寺の地蔵尊は江戸深川に住んでいた地蔵坊正元という人が願主となり、宝永3年(1706)造立の願を発してから14年間の間に、おおよそ同型の地蔵菩薩像6体を造立された中の1体で、4番目に造られた銅製の坐像で、この像の完成は正徳4年(1714)9月である。毎年6月24日に行われる百万編大念仏大念珠供養では、全長16m、541個の桜材の珠からなる大念珠を500~600名で廻し江戸六地蔵の供養を行う。10月24日にも、大勢の方が参詣に参られている。江戸の庶民信仰は、現在まで生き残っている。

とげ抜き地蔵尊  高山寺

「とげぬき地蔵尊」の名で親しまれるこのお寺は、正式には曹洞宗萬頂山高山寺と言う。慶長元年(1596)に江戸湯島に開かれ約60年後に下谷屏風坂に移り、巣鴨へは明治24年(1891)に移転してきた。ご本尊は「とげぬき地蔵」として延命地蔵菩薩であるが、秘仏として拝観は出来ない。高山寺本堂に安置されている。江戸時代最大の火事であった「明暦の大火」(1675)で、当時の檀徒の一人「屋根屋喜平治」は妻を亡くし、その供養のため「聖観音菩薩像」を、この寺に寄進した。この聖観音菩薩像に水を掛け、自分の悪い所を洗うと治るという信仰がいつしか生まれた。これが「水洗い観音」の起源である。その後、永年に亘ってタワシで洗っていた聖観音菩薩の顔などもタワシで洗っていたため、次第にすり減ってきたので、平成4年(1992)11月に、新しい聖観音菩薩の開眼式を行い、同時にタワシを廃し布で洗うことになった。散歩当日の「水洗い観音」は、行列をなして、私も水を掛け、布でふいてきた。江戸の庶民信仰は、21世紀の今日まで生き続けていることを感じた。

 

今回の「お江戸散歩」も内容が充実し、わずか二時間の散歩であるが、江戸=東京の底知れぬ魅力を再発見する散歩となった。特に六義園は、肉筆浮世絵を見て以来、是非現地を見て、座敷からの景色を確認したいという思いが強かったが、正しく、「美人鑑賞図」は「柳沢邸」に間違いなく、浮世絵が江戸庶民のみならず、大名にまで愛好がおよんでいたことが確認でき、永年の謎を解くことができた。また、江戸の庶民信仰が、今に息づいており、大勢の善良な市民が日常的に参詣している姿に感銘した。日本人は無信仰であり、本人も無信仰と言ってはばからない姿に接するが、結構、形を変えて信仰心は生きているのでは無いだろうか?

 

(本稿は、パンフレット「特別名勝 六義園」、図録「勝川春章と肉筆浮世絵 2016年」、「東京都の歴史散歩 上」、ウィキペディア「真性寺・高岩寺」を参照した)