お江戸散歩  小伝馬町より京橋まで

昔の勤務先(明治乳業)の管理職OBグループ有志で、毎年秋に行う「お江戸散歩」を10月24日に愉しんだ。参加者は約30人、1時間半をかけて約4キロの道程を歩いた。東京は世界の都市で3番目に魅力ある都市に数えられ、ロンドン、ニューヨークに続く都市だそうである。しかし、毎回の「お江戸散歩」に参加して、400年の歴史が残り、丁寧に道標等が残されて、地域住民に愛され、親しまれている様子を見るにつけ、むしろ東京が世界一の魅力を発揮する時代がすぐ目の前に近づいていると思った。

石町(こくちょう)時の鐘         日比谷線小伝馬町駅上十思公園内

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江戸ではじめて千代田城で太鼓をたたいて時刻を知らせていたが、のちに江戸の町内の各方面につぎつぎと鐘撞堂が建てられた。江戸には9ケ所の鐘があったと伝えられている。現在残っているのは4ケ所とされる。「石町(こくちょう)の時の鐘」は本石町(ほんこくちょう))(日本橋室町四丁目)に二代将軍秀忠のときに建てられた。「石町時の鐘」は、鐘撞きであった辻玄七の書上によると、寛永3年(1626)に本石町三丁目へ鐘撞堂を建てて鐘を撞いたことがしるされており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていたそうである。本石町に設置された時の鐘は、何度かの火災で破損したために修理や改鋳が行われた。現在の銅鐘には寛永8年(1711)に鋳造された銘文が刻まれている。「石町は江戸を寝せたり起したり」と川柳にも詠まれたが、この鐘は、明治を迎え廃止されたが、昭和5年(1930)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っている。

伝馬町牢屋敷跡             日比谷線小伝馬町駅上十思公園内

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十思(じっし)公園あたりは、伝馬町牢屋敷があったところである。牢屋敷は明治8年(1875)に市ヶ谷刑務所にうつされて廃止になり、ながい間荒れていたが、寺や小学校敷地に整備された。牢屋敷であるから、罪人を留置する場所であった。この牢屋敷跡を掘り出した所、このような石が多数発見された。牢屋敷を取り巻く、石塀の一部であった。幕末の安政大獄に連座した吉田松陰・梅田雲品ら多くの志士が収容され獄死した。ここには「松陰先生終焉の地」と辞世の句碑がある。句碑には「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置(とどめおか)まし大和魂」とある。小伝馬町、伝馬町とは荷物運送のお伝馬役人や馬が配置された所である。

椙の森神社        小伝馬町駅から水天宮に向かって徒歩5分の場所

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この椙森(すぎのもり)神社は、1千年の昔、まだ江戸が武蔵野の原と言われた時代の創建と伝える。江戸時代は江戸三森の一つであり、また、江戸商人の発祥の地としても栄えて来た。神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つに数えられる程多くの富籤が興業された事が記録に残されている。この富籤興業は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いが今に思い浮かべることができる。この冨塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されたが、関東大震災によって、倒壊した。その後、冨塚の話を知った氏子の人々は有志を募って、昭和28年11月に再建されたのがこの冨塚である。この冨塚は他に類を見ないと言われ、日本で唯一の物である。今日では、宝くじの元祖として多くの人々が、心中祈願をしている程である。なお、神社には「正月恵方詣 日本橋七福神 恵比寿神 椙森神社」というお目出度い札が下がっていた。

人形町通り       小伝馬町駅より水天宮に向かって約10分歩いた所

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地下鉄人形町駅の交差点近くには、芝居の切られ与三(よさ)「与話情(よはなさけ)浮名横櫛(うきなよこぐし)」の玄治店(げんやだな)がある。江戸初期の幕府はお抱えの名医岡本玄治が拝領した屋敷地で、一体の町家を後に玄治店と呼ぶようになった。甘酒横丁は水天宮の手前の下町情緒漂う場所である。この「人形町通り」の櫓も美しい。

谷崎潤一郎生誕の地         水天宮駅下車1分 甘酒横丁の入口

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人形町東南側(浪速町)一帯は元吉原跡地で、アシ・ヨシのおいしげる沼地二町四方をかこって郭町(くるわ)とし、明暦の大火のあと日本堤の新吉原に移るまで遊女町としてにぎわった。吉原の名は現在、芳町に残っており、芳町一丁目四に「谷崎潤一郎生誕地」の碑があるが、その作品では少年時代はさびしい場所だったと書かれている。細雪(ささめゆき)という羊羹を売っていたが、買うと遅れるので、見送った。残念であった。因みに、谷崎潤一郎は明治29年(1896)に生まれ、春琴抄、細雪、少将滋幹の母、等の作品を表し、昭和40年(1965)に没している。戦争中には「細雪」の執筆を軍部に止められ、戦後全巻を発表した芯のある作家として有名である。私は昭和26年、高校2年の時に学校の図書館で発見して、息もつかず3巻を読破した記憶がある。正に、昭和の王朝文学である。

小網神社                 甘酒横丁を抜けて1分             img_3343

稲荷大神を主祭とし、約550年前に鎮座した強運厄除けの古社である。総檜造りの重厚な彫刻が施された社殿と神楽殿を備える。都内の神社で、総檜の社殿は珍しい。中央区指定文化財になっている。福禄寿は福徳長寿の神、弁財天は商売繁盛、学芸成就の神で、庶民の篤い信仰を得ている。

鎧の渡し跡    小網神社から歩いて1分  日本橋川の渡し場(現在は橋)

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鎧の渡しは、日本橋川に通されていた小網町と茅場町との間の船渡しである。古くは延宝7年(1679)の絵図にその名が見られ、その後の地誌にも多く記載されている。伝説によると、かってこの付近には大河があり、平安時代の永承年間(1046~53)に源義家が奥州平定の途中、ここで暴風・激浪にあい、その船が沈まんとしたため鎧一領を海中に投じて竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだと言われている。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられている。この渡しは、明治5年(1872)に鎧橋が架けられたことにより無くなったが、江戸時代に通されていた渡しの風景は「江戸名所図絵」などにも描かれており、また俳句や狂歌などにも詠まれている。縁日に 買うてぞ帰る おもだかも 逆さにうつる 鎧のわたし 話朝亭国盛

銀行発祥の地                 日本橋川に架かる江戸橋南詰め

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昭和通りが日本橋川に掛る前に「銀行発祥の地」がある。ここは明治6年(1873)に三井組・小野組が創立したわが国最初の第一国立銀行があった「銀行発祥の地」である。初代総監役(後の頭取)は渋沢栄一である。この銀行は第一国立銀行ー第一銀行ー第一勧業銀行ーみずほ銀行の歴史となる。現在は「みずほ銀行」の支店として営業している。

「熙代勝覧(きだいしょうらん)絵巻」 日本橋三越本店の地下街(三越前駅) 日本橋の眺め(富士山が大きい)  日本橋北詰の様子(日本橋魚河岸)

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今から200年前、文化2年(1805)の江戸の、日本橋から神田今側橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰描写した作品である。肉筆の錦絵と思ってもらえば、判り易い。世界に一つしかない絵画である。現在はベルリン国立美術館に所蔵されている。絵師は不明であるが、温かみを感じさせる作品である。作品には88軒の問屋や店、1671人の身分も職もさまざまな人々や、犬20匹、牛4頭、猿1匹、鷹2羽など生き生きと描かれている。絵巻のタイトル「熙代勝覧」は「熙(かがや)ける御代の勝れたる大江戸の景観」という意味であろう。江戸東京博物館の全体監修のもと約17メートルの複製絵巻を制作・設置したものである。絵巻の絵画部分は原画を約1.4倍に拡大してあり、非常に見易い。これは、三越の地下1階の外側(地下鉄三越前)にあるので、何時でも拝観できる。

日本橋と国道元標                 日本橋南詰

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日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長3年(1603)と伝えられている。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交叉する点として江戸経済の中心となっている。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名である。幕末の様子は安藤広重の錦絵で描かれている。現在の日本橋は東京市により石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成した。道路原票は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを機に、昭和47年に柱からプレートに変更された。平成11年に、橋は国の重要文化財に指定された。

ヤン・ヨーステン記念碑        八重洲通りのグリーンベルト内

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東京駅八重洲口が、現在は丸の内をしのぐ表口となっている。この地名はオランダ人ヤン・ヨーステンに由来する。ヤン・ヨーステンは、オランダ東印度商会所属のリーフデ号の航海士であった。ヤン・ヨーステンは家康に用いられ、日本に永住した。ヤン・ヨーステンの記念碑である。VOCはオランダ東印度商会の商標である。

 

東京の旧跡を歩くと、実に整備され、名所には詳しい解説が施されている。大半が江戸時代以降のものであるが、それ以前のものもあり、日本人の「物持ちの良さ」を再発見した。特に「熙代勝覧絵巻」は、全く知らないものであったので、非常に勉強になった。この「お江戸散歩」に参加して、企画を立てた方の事前の綿密な調査と、豊富な資料には感心した。今回が5回目の「お江戸散歩」であり、今後も続くと思うが、来年も是非参加したいと思う。

 

(本稿は、「中央区ふれあい街歩きマップ 4,1」、東京都歴史教育研究会「東京都の歴史散歩・上」、図録「熙代勝覧絵巻」、各名所の案内板を参照した)