アーチゾン美術館開店記念展’(5)

藤島武二が黒田清輝=コラン系の外光派のアカデミズムの中で剛毅に自己の性格を展開した巨匠とすれば、青木繁は、同じように、白馬会、文展の外光派のアカデミズムの中で、同時代の浪漫主義的な詩人(雑誌「明星」の文学運動であり、いわゆる(薄田)泣菫、(蒲原)有明時代と共有する明治30年代の浪漫主義的心情のなかで、近代日本美術史の永遠の作品「海の幸」(明治37年、第九回白馬会)「わだつみのいろこの宮」(明治40年、東京府勧業博覧会)を描いた作家である。しかし、それ以後、漂泊の窮乏の末に、福岡市松浦施療病院で、明治44年、28歳の若さで肺結核のために死んだ不幸な作家であった。「海の幸」は、東京美術学校を明治37年(1904年)に卒業した直後に友人、坂本繁二郎、森田恒友、福田たねと千葉県布良(めら)に旅行した時に描かれている。すでに前年(明治36年ー1903年)、第八回白馬会に出品した「黄泉比良坂」(よもつひらさか)、その他で白馬賞を得た作家として、記紀の神話に託した浪漫主義的な抒情を独自の性格の中に描いた青木繁は、青春の自信と恋愛の満潮のような、創造のうねりの中で、碧い海、白く砕け、たかなる波濤、金地の空を背景として、生命の韻律を持つ構図のなかに、大鮫(おおさめ)をかついでいる群像を描いたものが「海の幸」であり、たかなるような青春の賛歌を歌っている。それと反対に「わだつみのいろこの宮」は青が主調となった静かな構図を持つ情緒深い作品となっている。いわゆる「ラファエル前派」のイギリスの画家ロセッティ(1828~82)と呼ぶ人もいるが、土方定一氏は、「青木はロセッティより上」と評価している。しかし、それ以降、生活の窮乏の中で、制作も少なく、敗残のなかで死んでいる。私は渡辺洋著「悲劇の洋画家ー青木繁伝」を読んで、青木繁の生涯を知り、浪漫主義的な画題を生み出した天才の不幸な一生(わずか29歳で死亡)を、思わずにはいられない。

自画像  青木繁作 1903年(明治36年) 油彩・カンヴァス

私が見た青木繁の自画像は、本作の前に描かれた東京美術大学が保有する、青木の卒業制作の自画像と、大原美術館が保有する自画像(1903年)、及び本作であり、いずれも1903年(明治36年)の作品である。私は、その中では、大原美術館の作品が一番良く描かれていると思う。青木繁は、これ以外に幾つもの印象的な自画像を書き残している。青木は作品ごとに描く方向性をまず考え抜いてから制作に掛かったところがあり、油彩や鉛筆による様々な自画像はどれも表現が異なり、大きな振幅を持っている。この自画像では,暗い背景に半身になって、こちらを鋭く見つめる自身を浮かび上がらせている。よく見ると背景には不定形な形が幾つも見えるが、これは当時の下宿の金唐草模様だったと伝えられている。魔物のような暗い情念を塗りこめたこの自画像は、青木の心の在処を私たちに教えてくれている。

重文 海の幸 1904年(明治37年) 油彩・カンヴァス

明治37年の夏、東京美術学校を卒業したばかりの青木繁は、友人の森田恒友、坂本繁二郎、それに愛人の福田たねと一緒に、房州布良(めら)海岸に写生にでかけた。同郷の友人であり詩人であった高島泉郷から、房州海岸の素晴らしさをいろいろ聞いたのが直接の動機であった。この時描かれて、同年9月の第九回白馬会に出品された。画題は「古事記」の神代巻にある海佐和から執って「海の幸」と名付けた。「海の幸」は、繁の自信にたがわず会場を訪れる人々を釘付けにした。同行した坂本繁二郎の話によると、この「魚師の一群がモリを持ち、大鮫をかついで引き上げてくる壮烈な情景を見たのは、実は坂本氏であり、青木は坂本の話を聞いただけであったそうだ。おそらく青木は、その話をパン種として、この鮮やかな群像図を展開さていったのであろう。背景は現在ではかなり金が剥げ落ちているが、最初は金色と深い青に輝いたはずである。青木に傾倒している詩人の神原有明は、この作品について、長い歌を歌っている。この「海の幸」で、青木繁は「白馬賞」を受けている。

海 青木繁作 1904年(明治37年) 油彩・カンヴァス

1904(明治37)年初夏、青木繁は坂本繁二郎らと千葉県館山市布良海岸に滞在し、「海の幸」を制作したが、あわせてこの海岸の波打ち際を何点も描いている。熱い日差しに輝く岩が、太平洋の激しい波を受け留めている。荒々しく鮮やかな点描表現は、1880年代のクロード・モネの作品を思い起こさせる。青木は何らかの手段によりモネの作品を知っていたに違いない。彼自身は何も語っていないが、この作品は青木と親しく交流した象徴派詩人神原有明の所蔵となり、第二次大戦後に一時、川端康成コレクションに加わった。

重文わだつみのいろこの宮 青木繁作 1907(明治40)年 油彩・カンバス

明治40年(1907)の東京府勧業博覧会に出品された青木繁の代表作の一つである。この作品は、日本の古代神話にテーマを求めて、海の底に降りた山幸彦を画面上部中央に、画面の下の方に豊玉姫と白衣の侍女を配し、画面全体を濃い青で染め上げた華麗なげ幻想画で、青木の優れた構想力が遺憾なく発揮されている名作である。夏目漱石は、明治42年刊行の「それから」のなかでこの作品に触れている。「いつかの展覧会に青木という人が海の底に立っている昔の高い女を描いた。大助は多くの出品のうちで、あれが良い気持ちに出来ていると思った。つまり自分もああ云う落ち着いた情緒に折りたかったからである。」と書いた。      その作品には、青木の好んだラフェロ前派の影響が濃厚であるから、あるいは漱石の共感を得る要素が強かったかもしれない。青木自身も、この作品にはかなり自信を持っていたが、審査の結果は、三等賞末席で、青木にしては期待はずれであった。そのため、彼は、雑誌「方寸」に激しい攻撃文を書いたほどである。しかし現在では名実ともに青木の最高傑作に数えられ、重要文化財に指定されている。

天平時代 1904年(明治37) 油彩・カンヴァス

明治36年(1903)の末から翌年の春にかけて、青木繁の作品には「享楽」「春」そしてこの「天平時代」など、遠く万葉の時代への初々しい憧れを艶麗な色彩で華やかに歌い上げたものが次々にと登場する。それは藤島武二の「天平の面影」や薄田泣菫の詩「ああ大和にしあらましかば」などと相通ずる時代の精神風土でもあったが、同時に、青木繁の生来の豊かな幻想性によく適したものでもあったq。当時の繁は、ロセッティやバーン・ジョーンズのようなイギリスのラファエロ前派に強く惹かれており、また、モローやシャーヴェンヌなどいわゆる世紀末の画家たちに強い共感を寄せていた。白馬会の主流であった自然描写とは対照的に、曲線のアラベスクと多彩な色調を駆使したこの優雅な幻想の世界の上代世界は、繁の鋭敏な感受性と西欧への特異な反応の仕方とを良く示すものと言える。

自画像 中村 彜作 1909~10年(明治42~43年)油彩・カンヴァス

旧水戸藩士の三男として生まれた中村彜(つね)は、幼い頃に両親と姉、ついに兄を亡くした。自身も肺結核のため身体が弱く、療養をかねて各地で水彩のスケッチを描き、画家を志すようになる。白馬会研究所や太平洋画会研究所で修業を積み、新宿の中村屋裏のアトリエにお住んで、家主の相馬愛蔵、黒光夫妻を慕って集う若い芸術家たちと交流した。この作品は、彜が22歳の頃に描いた自画像である。画面に対してやや斜めに構え、画家の頭上から光が強く照らし出すという構図は、レンプラントの自画像からの強い影響を示している。この作品は1910年の第4回文展に出品され、三等賞を受賞した印象派風の「海辺の村(白壁の家)(1910年」とともに入選を果たした。中村彜の最高傑作は「エロシェンコ氏の像」であることは有名である。

山幸彦 小杉放菴作 1917年(大正6年) 油彩・カンヴァス

小杉放菴は画家五百木文哉に学び、1899(明治32)年不同舎へ入門した。放菴は、1913年ヨーロッパを巡遊、翌年、日本美術院の再興に参加した。再興第4回院展へ出品されたこの作品には神話の一場面が描かれている。平坦な人物表現に奥行きの排除された背景、象徴主義の先駆けとなるフランスの画家ピュヴィス・ド・シャパンヌを想起させる装飾的な画面は、小杉の渡欧を支援した銀行家渡辺六郎の依頼で壁画として制作された。この大きさのカンヴァスを用意するのは容易ではなかったと画家自身が述べている。

放牧三馬 坂本繁二郎作 1932(昭和7)年 油彩・カンヴァス

生涯にわたって牛や馬、能面などの題材を多く描いた坂本繁二郎は、小学校の代用教員時代に石橋正二郎に美術を教えた。青木繁とは小学校が同級であり、その関係もあってか、後にブッリジストン美術館の絵画収集に当たり、石橋正二郎氏にアドヴァイスをしたと地耐えられている。特に青木繁の作品収集を勧めた人物である。1921(大正10)年39歳の時にパリへ留学し、それまでの筆あとを強調した印象派風の描き方から、対象がやや単純化される表現へ変わった。1924年に帰国し、そのまま家族の待つ郷里久留米市へ戻り、さらに1931年、茶の生産地として有名な八女市へ転居、パリの下宿と同じような天上まで窓のあるアトリエを自宅から少し離れた場所に建てた。その新しいアトリエで描かれたのがこの作品である。坂本は没するまで数多くの馬を描いた。九州の豊かな自然の中で躍動する馬の姿に魅せられ、気に入る馬を求めて放牧場や馬市を訪ね回ったと云われる。この作品は、坂本が創立会員でもある二科展の第19回展へ出品さえれた直後、正二郎氏によって購入されたものである。そして石橋美術館(久留米市美術館)へ訪れた坂本自身の手によって2度加筆されている。同級生の青木繁とは、正反対の物静かな生涯であった。

 

青木繁は、明治40年(1907)以来、貧困のゆえに故郷の九州へ帰り、酒と女におぼれ,小遣い銭稼ぎに絵を描きながら、九州を放浪し、結核を病み、最後は施療病院に収容され、敗残の中で死去した。1911年(明治44年)の3月に28歳の若さで亡くなった。家族に宛てて、次の手紙が残されている。        「小生も是まで如何に志望のためとは云いながら皆々へ心配をかけ苦労をかけて未だに志成らず業現れずしてここに定命尽きる事、如何ばかりか悔しく残念に候なれど、諦めれば是も前生よりの因縁にても之あるべく、小生が苦しみ抜きたる十数年の生涯も技能も光輝もなく水の泡と消え候も。是不幸なる小生が宿世の為劫にて候べき。さればこれ等の事に就いては最早言ふべき事も候わず。唯残るは死骸にて、是は御身達にて引き取りくれずば、致し方ななく、小生は死に逝く身故跡のことは知らず候。よろしく頼み上げ候。火葬料位は必ず枕の下に入れ置き候に付き、それにて当地にて焼き残りたる骨灰は、高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めて下されたし。小生は彼の山のさみしき頂より思い出多き筑紫平野を眺めて、此の世の怨恨と憤懣と呪詛とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就くべく候。」

 

本稿は、図録「石橋財団コレクション  2020」、図録「ブリジストン美術館名作選  2015年」、渡辺 洋「悲劇の洋画家 青木繁 伝」、土方定一作「日本の近代美術 岩波文庫」 原色日本の美術全集第27巻「近代の洋画」を参照した。