アーテイゾン美術館開館記念展 (4)

アーチゾン美術館は、西洋絵画と並んで、近代日本絵画も多数保有している。特に青木 繁の絵画は、日本で一番沢山保有している。その意味でも、アーチゾン美術館は、私が最も愛している美術館の一つである。今回は、ヨーロッパ人が描いた絵画6点、日本人画家が描いた絵画4点を選んだ。

女の顔 パブロ・ピカソ作  1923年 油彩・砂・カンヴァス

青の時代、バラ色の時代、キュビスムの時代など、ピカソは生涯を通じて次々と画題を展開していった。そして大一次大戦後、ピカソはそれまでの革新的なキュビズムとは一変して、古典的な作風に回帰した。この新古典主義の時代と呼ばれる様式への大胆な転換は、世間を驚かせた。しかし実際には、1920年代前半まで総合的キュビズムと呼ばれる用式が共存し、ポカソは主題やモチーフによって使い分けていた。この作品は、鮮やかな青を背景に古代風の衣装をまとった女性が描かれ、小品ながら明朗な力強さを持ち、新古典主義時代の特徴をよく表している。また、作品に用いられた絵具には砂が混ぜ込まれ、まるで古代の彫刻や浮彫のような質感と荘厳さを感じさせる。モデルについては諸説あり、妻のオルガノであるとも、当時親しく交流していた画家ジェラルド・マーフィーの妻のサラであるとも言われている。しかし、新古典主義の時代にあって、特定の人物の肖像画というよりも、むしろ普遍的な美しさを讃えた女性像としての要素が重視されていることは明らかであろう。この悪品は、美術評論家でコレクターの福島繁太郎氏が愛した作品で、戦前に日本にもたらされたものである。石橋正二郎が特に愛した作品で、1952年の開館記念展のポスターやカタログの表紙にもなった、いわば石橋コレクションの「顔」ともいえる作品である。

腕を組んですわるサルタンバンク パブロ・ピカソ作 1923年 油彩・カンヴァス

ピカソは、大一次大戦中に訪れたイタリアで古典古代の美術や文化に触れ、強いインスピレーションを受けた。結果として1918年に描かれる対象が、古代貯穀のような壮麗さを持つ新古典主義の時代に入った。この作品はこの時期の終わり頃に制作されたものであり、いわば集大成としての完成度を持つている。ここで描かれているのは「サルターレ・イン・バンク(椅子の上で飛び跳ねる人)を語源とし、古くからフランスで使われてきた言葉である。彼らは、縁日などを渡り歩いて即興の芸を見せていた。力強い黒い線、洗練されかつ迫力のある色彩コントラスト、安定した構図の巧みさ、清潔感に溢れたサルタンバンクの表情などは、ギリシャ・ローマ時代の古代彫刻に通じる造形美を持っている。ここでピカソは、芸人への憐憫の情を抱いて描いているようには見えない。むしろ芸人は、新しい時代を先導する英雄のごとき凛々しさを身にまとっている。そこには、伝統的な美を、自らが試行錯誤して洗練させた結果としての新しい手法で乗り越えようとする画家の意図が重ね合わされているようである。この作品は、かって20世紀を代表するピアニストで美術品の収集家としても知られているウラジミール・ホロヴィッツが所有しており、自宅の居間を飾っていたことが知られている。

画家とモデル パブロ・プイソ作 1963年 油彩・カンヴァス

道化師のテーマと同じように、画家とモデルのテーマにもピカソが若い頃から取り組んできた。1904年の水彩画(瞑想)には粗末なベッドに眠る少女を見つめる貧しい身なりの若者が描かれている。彼らは恋愛関係にあるようである、その後、この二人が画家とモデルの関係に移行するのに伴い、このテーマは芸術創造にまつわる謎に深く関わるようになった。さらにこの関係には、第三の要素が加わる。モデルから霊感を与えられた芸術家が創造した「作品」である。この「画家とモデル」では、赤い線で囲われたベッドの上に、緑色に塗られたモデルが横たわっている。そのモデルの前にして、画家がカンヴァスに作品を描いているのである。

バッカス祭 モーリス・ドニ作 1920年  油彩・カンヴァス

1920年にスイス、ジュネーヴの毛皮店「ティーグル・ロワイヤル(ベンガル虎)から注文を受け、大装飾画(バッカス祭)(完成作は分割。一部は新潟県近代美術館))を描いた。この作品はその準備のために描かれた下図でではあるが、かなり細かく描かれている。バッカス祭とは古代ギリシャからローマへ引き継がれた酒神バッカス(ディオニソス)を祀る密儀であるが、ルネサンス期以降好んで描かれた神話主題の一つである。中央に描かれている虎は注文主の意向であり、その他にも店で扱うのであろう動物が描かれている。

ヴェルノン付近の風景 ピエール・ボナール作 1929年 油彩・カンヴァス

ボナールは、ゴーガンと象徴主義の影響下に結成されたナビ派(ヘブライ語で「預言者」)の一員として画業を開始した後、1900年代以降は日常生活の中に題材を求め、色彩の効果を追求する独自の画境を切り開いた。この作品の舞台であるセーヌ川沿いの街ヴェルノン近郊には「マ・ルロット(私の馬車)」と自ら名付けた、この時期のボナールの家があった。草木の緑が正方形の画面を縁取るように配され一方で、明度の異なる多様な色彩が隅々まで注意深く組織された画面には、活気と緊張がみなぎっている。

吟遊詩人 ジョルジョ・デ・キリコ作 1948年 油彩・カンヴァス

デ・キリコは、奇妙なものの組み合わせや、現実と非現実の狭間のような空間を描き、のちのシュルレアリスムの芸術家たちに影響を与えた。機械仕掛けのような顔のないマネキンが無人の広場にたたずむこの作品は、どこか不穏で謎めいている。「謎以外の何を愛せよう」というニーチェの言葉は、画家の座右の銘であった。エックス線調査によりこの絵の下には肖像画が確認されているが、詳しいことはわかっておらず、さらなる謎を呼ぶ。広場や柱廊といった建築物は度々彼の絵に登場する画題で、イタリアの都市にイメージの源泉を得ている。

プレハの女 黒田清輝作  1891年 油彩・カンヴァス

1891年9月、黒田清輝は友人の画家・久米桂一朗と、パリを発ってブルターニュ半島のサン=ロマ湾に浮かぶプレハ島に遊んだ。この島の変化に富み風光明媚な景色やケルト系住民の風俗を喜び、同じように訪れた画家たちとの交流もP楽しんだ黒田は、約1ケ月滞在した。その間に海岸風景に加え、現地の子供をモデルにして人物画を描いた。少女の燃え立つような赤毛、狂気をはらんだ眼差し、手に持つ布切れの黄色、左右で大きさの異なる靴、大きく欠けた帵。画面を覆う筆遣いも荒々しく、穏健な画風を示す黒田には珍しく、激ししい表現が散りばめられた作品である。旅先での自由な空気が、彼の内面の情熱を引き出したのであろう。確かに日本画壇に聳え立った黒田らしくない、珍しい絵である。いまだかって見たことが無い絵であった。

重文 天平の面影 藤島武二作  1902年(明治35年) 油彩・カンヴァス

藤島武治は、明治30年代から昭和10年代まで日本のの洋画壇を牽引し、また東京美術学校の指導者として後進を育てた画家である。日本人による油彩画の在り方を突き詰めて追及し、その技法と材料の特性を生かし切った画面をつくり出した。30台半ばに描かれたこの作品は、明治浪漫主義と呼ばれ、時間や空間を超えた彼方へ感情を表そうとした時代の典型作である。前年の奈良旅行で心に留めた8世紀の仏像、仏画、正倉院宝物をもとにして、藤島はモチーフを組み合わせた。花咲く桐の下に立つ女性には、奈良時代の衣装を身に着け、箜篌(くご)という古代楽器を手にしている。その健康的な体躯は右脚に体重を載せ、自由の利く左肘をすこし前に出すことによって、頭頂に至るまで緩やかに体の軸線がS字を描いている。古代ギリシャで生み出されたコントラポストと呼ばれるポーズである。東洋と西洋の二つの古代への憧憬を、藤島は具体的に女性像を重ね合わせた。シルクロードを通じて西洋文化が流入し、日本の古代古典とも言うべき文化が栄えた奈良時代への憧れ。画家の感情を見る者に共感させる力をこの作品は持っている。白馬会に発表されると、ただちに象徴派詩人神原有明が反応し、この作品を美麗な言葉でうたい上げた。

屋島よりの展望 藤島武二作 1932(明治7)年 油彩・カンヴァス

藤島竹二は国立公園協会の委嘱を受けて、瀬戸内海の景勝地屋島に、取材のために夏の1カ月滞在した。屋島は、香川県高松市の北西に位置し、瀬戸内海に向かって真北へ突き出した台地条の小さな半島である。その頂上に近い宿に泊まった藤島は、夜明けには真東に向かい、古戦場の入り江を挟んでそびえ立つ五剣山の稜線から昇る朝日を描いた。朝食、昼食をとって休んだ後、午後に西側の志度湾や女木島を描いた。この作品は午後に描かれた1点で、不要な他の島影を省いて画面を整理し、次第に夕陽が空と女木島の色を変化させていく様子を演出している。

パブロ・ピカソやキリコと並んで、日本の格調高い藤島武二の作品を並べたのは、やや違和感があったが、全部で6回にまとめるには、西洋と日本人画家が混在する章が、どうしても出てくる。ご勘弁頂きたい。次は、私の一番好きな青木繁の全作品(当日展示された作品の限定)を、格調高い詩歌をつけて、ご披露するので、我慢して読んでもらいたい。

(本稿は、「石橋財団コレクション  2020年」、「ブリジストン美術館名品選  2015年」、高橋秀爾「近代絵画 下」を参照した)