ウイーン・モダーン クリムト・シーレ・世紀末への道

 

今年は日本とオーストラリアの外交樹立から丁度150年目に当たる記念すべき年であり、2019年はこの展覧会を開催するに最も相応しい年である。ただし、オーストリアと言っても、当時のオーストリアは、オーストリア・ハンガリー二重帝国であり、換言すればハプスブルグ帝国であった。ウイーンは「ハプスブルグ帝国の主都」であり、1740年から1790年までの半世紀の間に大きく改造されて、近代化を果たした。ウイーンは「自由な精神」を持つ啓蒙された知識人たちを魅了し、ヨーロッパ文化の中心地となり、更に知性の中枢となり、様々な国人たちが出会う場所となった。この展覧会の特徴は、展示作品が400点以上に上り、かつウイーンの町の改造を示す絵画や写真、座椅子等の家具類、銀の家庭用品、装身具、ポスター、グリーティングカード等様々な生活用品が展示されており、その一部に絵画と彫刻が混じっていることである。そのすべてを解説する知識が、私に無いため、絵画のみの解説にした。私に能力があれば、家具類、服飾類も解説したいと思った。また絵画も19世紀末頃の知名度の高い画家に限定した、これも私の能力不足が原因であることを、最初にお断りしておく。

愛 グスタフ・クリムト作  油彩・カンヴァス 1895年

この作品は、グスタフ・クリムトが1895年に描いた「愛」の寓意画である。これはウイーンの有名な出版社ゲルラハ&シエンク社が発行した絵画制作のためのアイディア集「アレゴリー:新連作」のために描かれた。この図案集には多くの素描が掲載されたが、一方で油彩は数点しかなく、本作品は、有名な「接吻」(1908~09年)の初期ヴァージョンに位置付けられる。背後に見える不気味な姿は、恐らく運命の擬人像達として解釈できるが、併せて過去と未来の光景としても読み解くことが出来るだろう。若いカップルの幸福に満ちた愛に対して、苦々しい警告か、裕津さを与えている。画面を三分割する手法は、クリムトの初期の作品のも現れるが、金箔表現の巧みな表現は、これほど早い段階で、すでにクリムトが日本美術に関心を寄せていたことが分る。ジャポニズムの浸透である。

バラス・アテナ グスタフ・クリムト作 油彩・カンヴァス 1898年

1898年、分離派会館の開館にあわせた展覧会で発表するために、グスタフ・クリムトは、戦闘態勢にあるポーズを取ったバラス・アテナの油彩画を制作した。アテナが身に着けいる金属製の胸当ては、見ている人をあざ笑い舌を出すメドゥーサの顔になっている。これは明らかに分離派を批判する人々に向けられた反論だろう。女神は右手に小さな女性像を握っている。もし伝統的なハラス・アテナの像ならば、この小さな像は翼を持った勝利の女神の女神ニケアと同定できるのだが、本作品に描かれている、この小像は、見る者に鏡を向ける裸のスータ・ヴェルタス、つまり「裸の真実」である。背後には、海の怪物トリトン(反動的な保守主義者)と戦っているヘラクレス(新しい芸術の象徴)がいる。つまりクリムトの「ハラス・アテナ」は、分離派の哲学的寓意を描いたものとして解釈できる。

黄色いドレスの女(画家の妻)マクシミリアン・クルツヴァイル作 1899年

ウイーン分離派の創設者の一人であるマクシミリアン・クルツヴィルは、1895年に結婚したフランス人妻を、伝統にとらわれない方法で描いた。歯ながらのソフアーの背面に腕を伸ばした彼女は、エレガントなイヴニングドレスを身にまとい、自身に満ち溢れ、そして少々扇情的なポーズを取っている。明るい肌と黄金のような黄色いドレスは、青や緑など補色の模様が散りばめられたソフアーの前で際立っており、彼女自身が光り輝いているような印象を与える。彼女は冷笑を浮かべて鑑賞者を挑発するようかのようであり、わずかに首をかしげ、画面が持つ厳密な左右対称性を崩してしまう。

朝食をとる母と子 油彩・カンヴァス カール・モル作 1903年

カール・モルはウイン分離派の創設メンバーの一人で、初代副会長を勤めた人物である。本作品の中でモデルは、自身のプライベートの様子を鑑賞者に垣間見せた。本作では、画家の妻アンアと娘マリーが一緒に朝食をとる様子が描かれており、これと似たような作品をモルは複数描いている。

エミーリェ・フレーゲの肖像 グスタム・クリムト作  油彩・カンヴァス    1902年

クリムトの「エミーリェ・フレーゲルの肖像」は、ウイーン・ミュージアムが所蔵する作品の中で最も有名貴重な絵画の一つである。ここにお描かれているのは、等身大のエミーリェ・フレーゲだ。彼女は恐らくクリムトの人生で一番重要な女性だったと言ってよい。そんな彼女が、まるで泥のようなぼんやりとした色を背景に、顔や手、そしてデコツテだけが浮かび上がるように描かれている。写実的に描かれた顔とは対照的に、体全体、そして頭や肩のまわりを、まるでオーラのように抽象的な装飾が覆っている。フレーゲが着ているドレスを、研究者たちはたいてい「改良服(リフォーム・ドレス)として解釈しているが、しかしこのドレスは異例である。ドレスがぴったりと体に張り付くので、臀部のかたちがはっきろちわかる。肖像画としては細すぎるフォーマットと、二つの落款のような四角い署名を見たならば、日本美術がクリムト作品に影響を及ぼしたことがよくわかるだろう。

自画像 エゴン・シーレ作 油彩・板          1911年

エゴン・シーレ(1890~1818)はグスタム・クリムトを称賛してやまなkったが、彼自身は、すでにクリムトら先駆者たちとは全く違ったスタイルや要素を操る、新しい世代の芸術家であった。この表現主義的な自画像は、1911年、ボヘミアのクルマウを去り、新たな住居を構えたニーダーーエスターライヒ州のノイレンバッハで、シーレが描いたものである。若い画家は恐らく自己肯定感を得るために田舎に引っ越したのであろう。この自画像では自身の姿を横長画面の左側に描いている。シーレは自分の頭を右肩の方へわずかに傾け、左手の指を暗色で覆われた上半身の前で広げている。彼の背後にあるのは、枯れ木を描いた絵画や、クルマウの町を描いた作品など、おそらく彼自身の手による作品であろう。シーレは1907年、ウイーンのミートケア画廊で開催されたゴーギャンの作品を見て、インスピレーションを得たのであろう。いずれにしても、象徴主義の伝統からも影響を受けていると解釈できる。こうした手法により、彼自身が思い抱く自分に対する考えを、あるいは同時代の社会に対する考えを反映させながら、双面神ヤヌスの顔として自分自身を描いたのだ。

ノイレングバッハ画家の部屋 油彩・板  エゴン・シーレ作  1911年

1911年秋、シーレは小さな家にある自分の部屋を描いた。シーレはボヘミアのクルマウから戻ったあと、ノイレングバッハの郊外にあるこの家を借りていたのである。この小さなフォーマットの作品が、フィンセント・ファン・ゴュホの「アルルの寝室」と較べられることが多いというのは驚くことでは無いだろう。シーレ自身、ゴッホに対して親近感を抱いており、ゴッホが死んだ年に自分が生まれたのだと、繰り返し語っていた。1909年に開催された国際美術展クンストシャウ、シーレは、カール・ライニングハウス・コレクションの小さな展示室にあった「アルルの寝室」(1889年・シカゴ美術館)を見ることが出来た。シーレの本作品の特徴の一つは、サインが三回繰り返されている点である。この絵が完成するやいなや、アルトゥーレ・レスラーは」すぐさま本作品を入手した。このほか多くのシーレの作品とともに、レスラーの遺産の一つとしてウイーン・ミュージアムの所蔵となったのである。

ひまわり  油彩・カンヴァス エゴン・シーレ作  1909~10年

1909~10年に描かれたこの「ひまわり」を見ると、若い頃のシーレがどのように自然に対してアプローチしていたか、その姿勢がよくわかる。萎れた葉が茎から垂れ下がる様子は、まるで疲れた手足のようだ。乾ききった花はわずかに傾き、疲れてうなだれるた様子を思い起させるだろう。特徴的な画面形式は、当時の流行を反映させたものだと考えられる。縦長のフォーマットは、世紀末ウイーンのブック・アートに見られる欄外装飾のようであり、あわせて当時人気を博していた日本美術のイミテーションを思い出させる。ひまわりというモチーフは恐らく画家フィンセント・ファン・ゴッホからインスピレーションを受けたのであろう。シーレはゴッホの作品をウイーン国際美術展クンストショウで間違いなく見ていたはずだ。また同時に、ほまわりは1900年頃のウイーン芸術界で人気のモチーフだった。

美術評論家アルトゥール・レスラーの肖像 エゴン・シーレ作 油彩・カンヴァス1910年

この肖像画は、若き芸術家シーレとそのパトロンの長年に亘る親密な関係性を記録した点で、重要な作品である。目を閉じたレスラーの顔は左を向いているが、上半身は鑑賞者の方を向いているが、両手の指は広げられ、それぞれ反対方向に向けられている。右足は画面の左端まで広げられている。こうした対照的な動きによって、鑑賞者の視線は、白い淡いピンク色の背景から浮かび上がる人物像の上にジグザグをたどってゆくのである。右肩のすぐ近くに書き込まれた「s。10」という文字が目を引くが、これは画家のイニシアルと年紀である。この作品は世紀末ウイーンの装飾性豊かなデザインをはっきりと拒否した、革新的な性格を持つ。描かれている人物の心の状態に光を当てた本作品は、心理学的解釈を示した最初期の例の一つであり、あわせて、シーレがオーストリア表現主義に手を染めた最初の作品である。

イーダ・レスラーの肖像 エゴン・シーレ作  油彩・板  1912年

この絵の描かれた1912年には、エゴン・シーレは未成年者誘拐と公然猥褻の容疑で逮捕・勾留されている。世紀末の大画家として紹介しようとしたところ、飛んでもない疑惑で逮捕された。「イーダー・レスラーの肖像」は、肖像画の構想段階に当たる作品で、完成作ではない。

 

ウイーン万博は1873年に開催されている。明治政府は、初めて国をあ揚げて参加し、この展示品は観客たちを魅了したと伝えられている。その前から、ジャポニズムが西洋世界に大きな影響を与えていた。一番影響を受けたのはゴッホかも知れない。世紀末ウイーンの画家達(グスタム・クリムト、エゴン・シーレ等)にも多大な影響を与えたことが、この展覧会の作品を通しても理解できる。

 

(本稿は、図録「ウイーン・モダーンクリムト・シーレの世紀末への2019年」、図録「クリムト展 ウイーンと日本展   1919年を参照した)