クリムト展  ウイーンと日本1900

金色の画家として著名なグスタフ・クリムトの絵画が、クリムト歿後100年と日本ーオーストラリア友好150周年を記念して「クリムト展」が開催された。私は、かねてクリムトの描く金色の女性像に、あこがれに近い感情を持って眺めていたが、幸い120点に及ぶオーストラリア及びクリムトの絵画が日本にもたらされ、非常に興味深く拝見することが出来た。「クリムトと日本画」の深いつながりを理解し、非常に楽しい美術展であった。オーストラリアと言えば、神聖ローマ帝国の一部であり、中世には大きな力を持った国であった。日本国内で開催された展覧会の中では過去最多となるクリムトの油彩画25点以上を展示する貴重な機会に巡り合わせた。またオーストラリアと日本の絵画は、非常に深いつながりがあり、「ジャポニズム時代」とも呼ぶべき時代があったことも記憶されるべき事項であろう。

女友達(姉妹たち)油彩・カンヴァス 1907年  クリムト財団

クリムトは、幅の広い縦長の変則的な寸法で、毛皮のコートを着た二人の女性を表現しようとした。向かって前方に顔を向ける女性は、横顔を見せる女性の背後に立っている。前景の女性は、傾けた頭部からわかるように、わずかに体をひねっている。布の物質的な存在感を中心とする静的な構図に、女性たちの視線によって動きがもたらされている。本作品では大部分を占める色調が効果的な素材となり、装飾部分の形と色彩を際立たせている。それは画面下に見える、左側の女性が纏う衣装の一松模様と、画面右上部の端に見える、コートの高い襟の後ろに施された色彩豊かな装飾パターンである。こうした着想は、彼は浮世絵から得たものであろう。18世紀末に、例えば鳥居清長による芸者や遊女の浮世絵が人気を得たが、こうした縦長の版型の浮世絵もまた、本作品と同じような姿勢で描かれる。興味深いのは、およそ100年後のヨーロッパに見られる流行とよく似た市松模様と幾何学的な装飾パターンが好んで用いられている。

赤子(ゆりかご) 油彩・カンヴァス 1917年 ワシントン・ナショナルギャラリー(以下作者名のグスタム クリムトは省略する)

クリムトが子供を描いた一連の絵画の中でも、本作品は際立っている。多様な形と色からなる構図には、いあわゆる象徴的な効果も見出すことは出来ない。クリムトは異例の速さで本作品を仕上げた。作品が出来上がるまでの異例の速さは、これが画家にとってなじみの主題であったこと、また彼が意図した通りの構想を意欲的に描いたことを物語る。本作品では、実在しない空間の向こう側からこちらを見下ろしているように赤子が表されている。白い襞に包まれ、左頬が隠れた赤子の頭部は、緑と茶色からなる背景に、様々な布地で構成されるオイラミッドの頂点として配置されている。本作品の着想源が、19世紀前半の文政から天保年間(1818~44)に制作された日本の多色摺木版画(錦絵)にあるのもうなずける。歌川豊国をはじめとする歌川派は、簡素さが重んじられた前時代に比べて、より豊かに表現力を高めていった。19世紀に日本で生まれ、ヨーロッパの革新的な芸術家たちにとっては斬新なこのような作風は、彼らに新しい平面構成の在り方を示すことになった。

ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実) 油彩・カンヴァス 1899年 オーストリア演劇博物館

ウイーン分離派が結成される中、1989年頃にクリムトが着想した本作品は、ウイーン分離派の掲げる綱領に基づき制作された象徴的絵画に数えられるとともに、新たな芸術運動の理想に身を投じようとするクリムトの決意を示す作品の一つである。ペン画から絵画への発展への意図せずにこのペン画が描かれたことは、他の数点の素描から推察される。本作品の制作準備は、実際はにはスケッチブックの素描から行われたと考えられる。クリムトは、妥協せずに真実を指向し、大衆の批判に迎合しない芸術を支持する意思表示としてこの主題を選んだのである。クリムトはこの意図にふさわしいスローガンとしてフリードリヒ・シラーの言葉を引用し、女性の頭上に大文字を書き込んだ。「汝の行為と芸術をすべての人に好んでもらえないなら、それを少数者に対して行え。多数者に好んでもらうのは悪なり」。クリムトは当初、人間に向かって鏡をつきつける「真実」を表す裸婦とそれに向き合う群像を構想していたが、結局、一人の正面向きの裸体像だけが描かれることになった。「真実」の足元には、鑑賞者が見出すべき罪を象徴する蛇がうずくまる。完成した作品は1899年3月から5月まで開催された第4回ウイーン分離派展で初めて展示された。女性の裸体表現ときわめて現代的な様式は、激しい議論を巻き起こすことになった。

ユデイト1 油彩・カンヴァス 1901年ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館

クリムトの代表作のひとつとして知られる<ユディト1>は、彼の名を広めた特徴をすべて備えた作品である。装飾的な効果を伴なう様式化された構図、ふんだんに使われた様々な文様、高価な装身具を身に纏いながら、裸身をさらす主人公の女性のエロチシズム。そして何より、初めて本物の金箔が使われた絵画という点で、本作品はクリムトの「黄金様式」の時代の幕開けを飾る作品となった。本作品は、旧約聖書外典の一場面を主題とする。アッシリアのネブカトネザル王に仕える司令官ホロフェルネスは、遠征の途中でユダヤの町ベトゥリアを包囲する。ベトゥリアに暮らすうら若き未亡人ユディトは、包囲を解くために計画を練り、夜陰に乗じてアッシリア軍の陣地に向かう。ユディトはホロフェルネスを誘惑して酔いつぶし、その剣で隣に眠る彼の首を切り落とした。翌朝アッシリア兵は、司令官の首が城壁にさらされているのを目にする。指揮官を失った軍の混乱に乗じて、ユダヤの住民たちはアッシリア兵を全滅させた。ホロフェルネスの首を持つユデイトの姿は、ヨーロッパ絵画では非常によく見られる主題で、どんな手段も厭わないことを決意した女性の持つ強さと能力を誇示するものとして使われることが多い。この伝統においてユデイトの行為は道徳面で模範的なものと解され、ユデイト自身は貞淑な婦人として描かれる。しかし、同時に、この主題は女性の魅力に誘惑されることによって生じる危険を男性に警告するものとして使われる。クリムトがこの主題を選んだのも、後者の解釈によるものと思われる。事実、本作品のユデイトは、胸元をあらわにした蠱惑的な眼差しも誘惑者として描かれていても、本作品の歴史的な物語性が強調されている。クリムトが手本としたのはニネヴェの宮殿のレリーフだった。1856年から大英博物館に所蔵されるレリーフは、アッシリア司令官センナケリブによるパレスチナも町ラキシュの包囲が描かれている。類似する歴史上の出来事が表された考古学的遺物を用いることで、クリムトはほぼ架空のユディトの物語に歴史的な枠組を与えた。

アッター湖畔のカンマー城Ⅲ 油彩・カンヴァス 1909,10年 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館

世紀末、多くの芸術家が好んで夏を過ごしたのが、オーバーエスターライヒのザルツカンマーゲートにあるアッター湖畔である。具体的には、バロック様式のカンマー城で、クリムトがこの城を描いた有名な作品が複数ある。1908年から1912年に制作された4点の作品では、城のファサードが様々な角度から描かれている。この城は、湖に突き出した岬に建っているため、様々な視点から捉えることが可能であった。本作品は、望遠鏡を使って描いたという説が有力である。そうであれば、実際には離れていて、位置関係も異なる複数の建物が平面的に重なっていることも説明がつく4点のうち3番番目にあたる本作品には、城の中庭を囲む低い建物が側面から描かかれている。その背後には中心となる建物の赤い瓦屋根が見える。日本の風景描写との最大の違いは、輪郭の描き方である。日本美術では、輪郭で明確に区別される形態が重視されるのに対し、クリムトは幻想的な色彩構成によって対比を際立たせ、形態を浮かび上がらせた。

丘の見える庭の風景 油彩・カンヴァス 1916年頃 ツーク美術館

クリムトが本作品に取り掛かったのは、1914年から1916年にアッター湖畔のヴァイセンバッハで過ごした夏の間とされる。クリムトは1点の作品に数年をかけることが多かったため、本作品も未完成のまま、彼が亡くなるまでアトリエに残っていた可能性もある。クリムトは前景の花畑と後景の森に覆われた山の斜面からなる構成を選んでいる。この構図を用いることで、距離の異なる面を階層化することができた。花畑は昔から、多産と自然の中で咲き誇る命の象徴とされる。水平方向の層に対し、垂直の木々や灌木が配置されることで、水平と垂直の要素が調和した鴻巣が生み出されている。この時期の風景画には、おもにファン・ゴッホの影響が考えられる。ゴッホの作品に見られるようにクリムトはまず各部分の輪郭を筆でカンヴァスに描き、後から色彩で埋めていった。この極めてグラフィック的手法によって一つ一つの形態が区別され、対比がより強調される。クリムトは、ファン・ゴッホにとっても重要だった日本の水墨画の特徴を取り入れたと思われる。また、この構図には浮世絵の影響、とりわけ葛飾北斎と歌川広重の影響が感じられる。中でも広重の「木曽海道六十九次之内  三留野」とクリムトも作品には、構図においていくつかの共通点がある。クリムト後期の風景画では北斎、広重などの著名な浮世絵を思わせる色遣いが認められる。

マリー・ヘンネベルクの肖像 油彩・カンヴァス 1901~2年頃 ザクセン=アンハルト財団

マリー・ヘンネベルクを描いた本作品は、女性を堂々とした姿で捉えながら、その個人的な特徴を描き出すというクリムトの才能を示す好例である。彼女はクリムトの親しい友人であった。ヘンネベルク夫妻は、1899年にクリムトと一緒にヴェネツィア旅行をした仲間で、ホーエ・ヴァルテの芸術家コロニーでカール・モル、コロマン・モーザー、ヨーゼフ・ホフマンの隣に住んでいた。マリーの夫のフーゴ・ヘンネベルクは裕福な自然科学者で、アマチュアとして芸術写真とグラフィックを手掛けていた。フーゴは、ピクトリアリズム写真の第一人者として、またグループ「ヴィーン・トリフォリュム」のメンバーとして、同時代の最も有名な写真家の一人であった。長年に及ぶ親しい関係が、この作品のある種の親密さに影響を与えているかもしれない。とりわけうす暗い照明と、それによって生じる部屋と一人掛けソフアの境界の曖昧さが親密な雰囲気を高めている一方で、マリーの思慮深い、眼差しは、鑑賞者との間に距離を作り出す。まるで舞台上の室内劇を描写したようなこの作品の印象は、クリムトが意図的に作り出したものと思われる。印象派風の筆のタッチは、揺れ動く雰囲気とともに、周囲の不穏な空気を生み出している。作品の中心は、フレーゲ姉妹のサロンで改良された服を纏うマリーに据えられている。彼女の眼差しは示唆に富み、顎に当てた特徴的な手の仕草は、クリムトが何度も通った劇場で研究した女優の技を思わせる。描法においても、本作品は注目に値する。本作品は、ほぼ二つの基本色から成り立っているように見える。すなわち、下塗りとしての明るい茶色と青色である。短い筆のタッチで施された青色が室内の光の雰囲気と肘掛け椅子を描き、さらに青と白と様々に混ぜて表されたドレスが茶色に対して際立ってあらわれる。クリムトがこうした技術にせいつうしていたことは、エミーリエ・フィレーゲを描いた初期の作品からもわかる。

オイゲニア・プリマフェージの肖像 油彩・カンヴァス 1913-14年 豊田市美術館オ

オットーとオイゲニアのプリマフェージ夫妻は、クリムトの最も重要な支援者に数えられる。オイゲニアは1874年にウイーン近郊の庶民的な家庭に生まれ、女優になり、オイルミッツの工場主で銀行家のオットー・プリマフージと出会い、1895年に結婚する。クリムトは1912年ごろから一家の親しい友人となり、娘メーダの肖像画を依頼された。彼がオイゲニアの肖像画を描いたのはその翌年である。本作品はオイゲニアへのクリスマスプレゼントだったため、春に何度も実際にポーズを取ってもらうところから始まり、おそらくクリスマス直前に依頼主に届けられたものと思われる。12月19日付の手紙で、クリムトは納期に間に合うように仕上げることの難しさを嘆いている。本作品は地塗りがみえたままの部分が残り、未完成に思われる個所がいくつかあることも頷ける。本作品は、クリムトの後期の肖像画のなかでも最も重要なものに数えられる。女性たちはたいてい色彩豊かな絨毯が広げらた床の上に立ち、東洋の美術品に由来する様々な形をしたモチーフで彩られた壁を背にしている。本作品でクリムトは色とりどりの花を用いながら、右上の隅に、陶器、もしくは七宝の置物から着想を得たと思われる。幸運と長寿を象徴する鳳凰を描き込んでいる。クリムトは後期の作品のほとんどに、補色による対比を取り入れた。とりわけ肖像画では分光城の一色、もしくは組み合わせが顕著である。本作品では、背景の黄色が支配的である。その黄色と、オイゲニアのドレスの色と背景にある花の装飾の色が対比的に表されている。ここでクリムトは黄色、オレンジ、緑、紫、赤、ターコイズと青、つまり分光色のすべてを使っている。このような組み合わせによる色彩の豊かさは、特に東洋の作品に多い。クリムトは中国、日本の工芸品に特徴的な色の組み合わせをそのまま、自分の作品に取り入れていたようである。

リア・ムンク1 油彩・カンヴァス  1012年  個人蔵

死の床にある人物は、中世に遡るヨーロッパの絵画の伝統的主題である。こうした絵画は、おもに貴族や著名人を遺し、最後の姿の証として後世に伝えることを目的に制作された。この伝統は20世紀初頭まで続き、著名な芸術家もそれに倣った。死の床につくリア・ムンクの肖像は、クリムトが描いた死者の作品としては6作目にあたる。リア(マリア)の悲劇は、1911年から1912年にかけてウイーンの社交界を騒がせた。1911年12月28日、裕福な材木商の娘だったマリアは、恋の悩みから24歳でピストル自殺した。その直前、彼女は、婚約者の作家ハンス・ハインツ・アヴァースに別れを告げていた。この肖像画を依頼したのは、リアの母アランカ・ムンクでクリムトの支援者で教え子でもあったゼレーナ・レーデラーと従妹だった。本作品は、死者の顔を囲む色彩豊かな花(おそらくバラの花ビラと思われる)によって、ジョン・エヴァレット・ミレイの有名な「オフィーリア」を思わせる。ハムレットの恋の苦悩から死を選ぶオフィーリアという、ウイリアム・シェクスピアが生み出した人物像を考えると、クリムトが意図的にミレイの名作を連想させる作品を制作したことは十分考えられる。おそらくクリムトは、素描や写真をもとに描いたものではなく、実際に亡くなった人を前にカンヴァスに描いたのであろう。

女の三世代 油彩・カンヴァス  1905年  ローマ国立近代美術館

本作品は<人生は戦いなり「黄金の騎士」>と<接吻(恋人たち)>と並ぶ、クリムトの「黄金様式」の傑作の一つである。本作品は<医学>や<哲学>と同じく、「生命の円環」をテーマとする。いずれの作品も裸体で表現された年齢や性別の異なる人間が、誕生から死に至るまでのあらゆる段階を示している。人生の三段階という主題は、中世依頼、頻繁に取り上げられてきた。これまでクリムトの着想源としては、とくにウイーン美術史美術館所蔵のハンス・バルドゥイング・グリーンによる16世紀の作品が挙げられている。クリムトは本作品において伝統的な比喩に明快に表現したとき、すでに成熟した芸術家だった。作品の意図は、人物の身体的特徴によってのみ伝わる。そのため、同種の作品に描き込まれる死が、本作品には含まれていない。近づいてくる死は、すでに老女の姿に見て取ることができる。彼女たちの背後を彩る装飾は、それぞれの人物の象徴性をほのめかす。若い女性の背後には、三角、円、渦巻などの色とりどりの文様があしらわれている。彼女にはヴェールと、様式化された蔦が絡まり、髪には小さな花ビラが見える。黄色、茶色、赤の色調で描かれた老女のシルエットと、生命と成長の象徴を対比をなす。クリムトは本作品に用いた箔については、視覚的に判断すると、背景に銀箔を使ったことは間違いないだろう。一部が酸化して黒ずんでいることからもそう考えられる。クリムトは金箔に加え、人物の背景装飾の一部に本物の金泥も使ったとうである。本作品は、1905年にベルリンで初公開されたが、1911年にローマで開催された国際芸術展で紹介されたときに、イタリア政府に買い上げられた。完成から売却までの6年間の間に、クリムトが作品の一部を修正したこともわかっている。

 

グスタフ・クリムトは見事な装飾による比喩的な表現を得意とする画家として、また魅力的なウイーン社交界の女性を描く肖像画家として名高い。ウイーン分離派の設立以降のクリムトはもっぱら風景画、肖像画、そして象徴的な女性像を描いた。象徴的な絵画には、さらに4つの異なる主題に分けられる、一つ目は、画家によるメッセージが込められた綱領的な絵画である。二ツ目の主題は、クリムトが女性の神秘を追及した絵画である。とりわけ「ユディト1」等である。三つ目の主題は個人的、かつ己の芸術的な理念の実現を目指す芸術家である。四つめの主題は、生殖から死までの生命の円環に取り組んだ作品である。「女の三世代」が、その代表作品である。クリムトはこれだけ多数の魅力的な女性を描きながら、結婚したことは無い。しかし非嫡出子は、多数いたようである。モデルの子供が多;

(本国は図クリムト展ーウイーンと日本 1900      2019年」福島繁太郎「近代絵画」、高橋修爾「近代絵画史(偈)」
美術出版社「西洋美術史」を参照した)