コートールド美術館展ー魅惑の印象派(2)

コーートールド展の第2章は「時代から読み解く」がテーマである。産業が近代化し急速に進んだ19世紀フランスでは、中産階級が台頭し都市生活や余暇を謳歌する人々が増えた。また、パリを起点として鉄道網が整備されると、都市の人々は緑豊かな郊外やノルマンディーの海辺へと、気軽に足を運ぶようになった。また、パリは19世紀半ばから「パリ大改造」が行われ、街は大きく変化した。劇場やミュージック・ホール、カフェが次々と開店したほか、街灯や人口照明の普及によつて、人々は昼夜を問わずさまざまな娯楽を楽しむようになった。画家たちは、そこに集う人々の姿を、その光景を描写するに相応しい表現を用いて、多くの絵画を描いていった。

アルジャントゥイュの河岸 エドゥアール・マネ作 1874年 油彩・カンヴァス

19世紀後半、余暇を楽しむ時間を得たパリの中産階級の人々は、休みになると大都市を離れ、まだ自然の多く残る郊外の町へと繰り出したていった。アルジャントュイユもそうした町の一つで、セーヌ川の船遊びや岸辺の散策を楽しみに訪れるパリの人々でにぎわった。本作品の前景には、レジャー用のヨットと散策を楽しむ親子が描かれている。モデルは、マネの最初の妻カミーユとその息子ジャンであろう。1874年の夏、マネはモネー一家の住むアルジャントゥイュに滞在した。この年の4月から5月にかけて、いわゆる第1回印象派展が開催されている。マネは、印象派展に参加せずサロン(官展)への出品を選んだが、彼らとの交流は続いていた。部分的に屋外で制作されたと考えられる本作品は、マネが熱心に印象派の表現を試みた作例の一つである。モネからの影響を受けた、明るい色彩と粗い筆触の並置を用いて、夏らしい日差しやセーヌ川のきらめきが捉えられている。一方で、船やカミーユの帽子のリボンには、印象派が避けた黒が餅られている。

秋の効果 アルジャントュイユ  クロード・モネ作 1873年 油彩・カンヴァス

画面の下半分を占めるのはセーヌ川の支流である。画面中央には青い筋で表されたセーヌ川の本流と、その向こうには、その頃モネ一家が暮らしたアルジャントゥイユの町が見える。1851年に鉄道がと通ると、豊かな緑とセーヌ川を楽しむために、パリの人々がこぞって訪れるようになった。パリからは15分ほどであったという。1870年代になると、化学工場、製鉄所などが次々と建ち、アルジャントゥイュは工業都市へと変貌してゆく。しかし、本作品は変化する街並みよりも、秋の印象、移ろいゆく光や色彩、大気を捉えることに主眼が置かれている。中央の白い塔は、工場の煙突と指摘されたこともあったが、アルジャントゥイユ教会の尖塔であり、穏やかな風景に似つかわしいモチーフが採択されている。

春、シャトー オーギュスト・ルノワール作 1873年頃 油彩・カンヴァス

シャトゥーは、パリの中心部から西へ14キロメートルほどの町で、週末にはパリから訪れる人々で賑わう郊外の町の一つであった。アルジャントゥイュから少し下流のセーヌ川沿いに位置するが、シャトゥー吹き付近ではセーヌ川が中州にあり、二つに分かれて川幅は狭くなる。sルジャントゥイユがヨット遊びで知られたのに対し、シャトゥーはボート遊びを楽しむ人々が多く訪れていた。穏やかなこの地の様子を気に入ったルノワールは、1870年代の中ごろから足しげく通い、郊外の自然とそれを楽しむ人々を描いていった。代表作の一つ「船遊びの昼飯」も、この地の川沿いのレストランで描かれたものである。

ポン=タヴェンの郊外 オーギスト・ルノワール作 1888-90年油彩・カンヴァス

1880年代後半から90年代初頭にかけて、ルノワールはポン=タヴェンをいくどか訪ねている。ブルターニュ地方の芸術家の集う村で、ゴーガンが繰り返し滞在し、制作を行ったことがよく知られている。ルノワールは、1892年に、この地でのちにセザンヌの手紙を公開するベルナールともで会っている。晩年のルノワールは、1883年頃に印象派の表現に限界を感じ、行き詰まったと述懐している。ルノワールが得意とした人物画では、比較的明確な筆触に分割していく印象派の技法は、人物の形態を表すのに適しているとは言えなかった。1880年代の作品には、その試行錯誤の跡と画風の展開に顕著に認められる。イタリア旅行で目にしたラファエロ・サンツィオの作品やポンペイの壁画などに刺激を受け、1880年代前半からルノワールは、色調を抑え、明確な輪郭線を用い、古典主義に回帰する。しかし1880年代末になると、その揺り戻しのように、豊かな色彩と優しくやわらかい雰囲気をまとう表現が、画面に再び姿を見せるようになる。本作品は、こうした過渡期のなかで描かれたものである。

アンブロワーズ・ヴォラールの肖像 オーギュスト・ルノワール作 1908年 油彩・カンヴァス

アンブロワーズ・ヴォラールは、20世紀初頭に活躍した画商である。1900年以降、ルノワールの作品を扱う主要な画商のひとりとなり、晩年のルノワールから聞き取った話をまとめた「ルノワールは語る」を出版した。ヴォラールは、多くの作家に自らの肖像画を注文したが、なかでもルノワールは彼の肖像画を5点も手掛けている。本作品は3番目の作であり、1908年、ルノワールがヴォラールを南仏に招いた際に制作された。ヴォラールは、裸婦の小像を鑑定する目利きの姿として描かれている。テーブルに肘をつき、小さな石膏像を大きな手に持ち吟味している。胸に黄色いハンカチーフを挿し、スーツを着た姿は成功した画商に似つかわしい。団子鼻で浅黒く巨漢、ときに物売りに間違えられるほど洗練さに欠けた身なりであったと伝えられるヴォラールは、ルノワールの手によって、現実の姿よりもかなり魅力的に描写されているようだ。ヴォラールが手にする石膏像は、アリスティド・マイヨールによるものである。マイヨールはこの頃、ヴォラールからルノワールの胸像の制作を依頼されていた。ヴォラールが彼の作品を手にするのは、そうした関係を示唆しているものかも知れない。テーブルには、青と白の陶人形と陶器が置かれている。どっしりとした画商の存在感を和らげるように、テーブルクロスには軽やかに動物が置かれている。赤を基調とした背景に加え、親密さを感じさせるテーブルクロスは、モデルに対するルノワールの温かなまなざじを伝えてくれる。

靴紐を結ぶ女 オーギュスト・ルノワール作 1918年頃 油彩・カンヴァス

ルノワール最晩年の作品の一つである。印象派展に参加していた頃、ルノワールは近代都市となったパリの人々の新しい日常を積極的に描いていたが、次第に時代を超越した普遍的な主題へと関心を高めていった。晩年は、水浴や身支度する女性の姿を繰り返し描いていった。くつろいだ、様子で、女性は靴紐を結んでいる。左手には、これから身につけるであろう衣服や花飾りがついた帽子が置かれている。晩年のルノワールの作品に特徴的な赤みを帯びた色彩が用いられ、明確な輪郭線は見られず、全体にやわらかい印象がつくられている。女性がまとう下着やペチコート、背景には粗い筆触が顕著にみられ、滑らかな肌の質感を際立たせている。青を用いて陰を表していたルノワールだが、晩年になると本作品に認められるように、黒やグレーを使うようになった。

桟敷席 オーギュスト・ルノワール作 1874年 油彩・カンヴァス

普仏戦争が終わって第三共和制が始まると、観劇の習慣が戻ってきた。劇場は市民にとって社交の場でもあった。桟敷席に陣取った二人は舞台を熱心に鑑賞しているようには見えない。豪華な衣装を身に着けている女性は、ニニと愛称されていたモンマルトルの少女。オペラグラスをかけてあらぬ方向を見ている男性はルノワールの弟のエドモンドである。1874年の第1回印印象派展に出品された記念すべき本作は、1925年、イギリスの画商パーシ・ムーア・ターナーを介し、サミュエル・コートールドが購入したもので、11万ドルという価格は、コートールドが収集に費やしたなかでも最も高額なものであった。オペラやコンサートへも支援を惜しまなかったコートールド夫妻は、本作品を自邸の音楽室に掛けて愛でたという。

税関 アンリー・ルソー作 1890年頃 油彩・カンヴァス

20年以上もパリの関税に務めたルソーは、「税官吏ルソー」とも呼ばれる。40歳頃から本格的に絵を描き始めるが、専門的な美術教育は受けていない。本作品は、彼が自らの職場である税関を主題とした唯一の絵画とされるが、現実と想像を組み合わせて描かれたと考えられている。パリ市の入市税関を撮影した同時代の写真が残されているが、本作品の風景のいずれにも類似しない。本作品はコートールドが収集した唯一のルソーの作品である。本作品は「とても素晴らしい質の小品」と評価していたが、さらなる購入を促すには至らなかったようだ。

舞台上の二人の踊り子 エドガー・ドガ作 1874年 油彩・カンヴァス

踊り子に魅了されたドガは、稽古場やリハーサルの様子をはじめバレエに関わる数多くの作品を残している。上演作品が明らかにわかるがドガの絵画は非常に少ないが、本作品の踊り子は、モーツアルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の幕間に上演される、「バラの踊り」を舞っているところである可能性が指摘されている。ひとりは赤とピンクの花をモチーフにした衣装、もう一人は葉や萼を思わせる緑が配された服を衣装にまとい、バラに扮しているようだ。ドガは当時流行した日本美術から刺激を受け、西洋美術の伝統には見られない新しい視点を採用することがあった。本作品も、桟敷席から見下ろすかのような、やや高い視点から舞台を捉えている。画面左手には舞台の床が広がり、余白の多い斬新な構成がつくられている。

フォリー=ベルジュのバー エドゥアール・マネ作 1882年 油彩・カンヴァス

フォリー=ベルジェールはパリのミュージック・ホールで、歌や踊り、曲芸や珍獣の公開など多彩な演じ物で人気を博した。本作品の舞台は、その一角にあったバーである。バーメイドはアルコールの提供だけでなく、娼婦となることもあったという。マネは実際にここを何度も訪れているが、制作の際にはアトリエにバーカウンターの一部を再現し、シュゾンという名のフォリー=ベルジェールのバーメイドを呼び、モデルとした。その表情は、ぼんやりとしているようでも、物憂げな様子でもあり、解釈は鑑賞者に委ねられているようだ。マネ晩年の傑作として知られる本作品は、亡くなる前年の1882年のサロンで発表された。無数の観客と喧騒がすばやく粗い筆致で描かれる一方、手前の大理石のカウンターには酒のボトルやオレンジが丁寧に描写される。本作品は、鏡で作られた複雑で多義的な空間に、人物、群衆、静物を卓越した技術で描いたマネの画業の集大成と言えよう。この作前には、大勢の観客が集まり、一番人気の作品であった。

 

本稿は、「時代背景から読み解く」と題する章から選んだものである。産業化が急速に進んだ19世紀フランス。近代都市となったパリでは、中産階級が台頭し都市生活や余暇を謳歌する人々が増えていく。パリを起点とした鉄道網が整備されると、都市の人々は緑豊かな郊外やノルマンディーの海辺へと、以前より気軽に足を運ぶようになった。

 

(本稿は、図録「コートールド美術館展ー魅惑の印象派  2019年」、高橋秀爾「近代絵画史 上」を参照した。)