ゴッホとゴーギヤン展

img997

ゴッホ(1884~1890)の父はプロテスタントの牧師で、オランダの中産階級であった。母は宮廷の装飾師であった人物の娘であった。この牧師と職人の血という父母からだけではなく、ゴッホは遠い家系から連綿として職人と牧師の血をうけついでいた。ファン・ゴッホ家は、ブラババントにおいて、17世紀以来、聖職と芸術家の家系として著名であったのである。伯父が美術商であったため、彼は1896年、16歳でグービル商会ハーグ支店の画廊に勤め、美術館や展覧会を訪れることで芸術に関する幅広い知識を身につけていった。彼が好んだのはミレー等バルビゾン派等写実的な様式で制作する画家であった。また17世紀のオランダ絵画も好み、とりわけレンブランドを高く評価していた。正規の美術学校には学んだことは無かったが、画家となる決意をしたのは1880年8月、27歳の時であった。ポール・ゴーギヤン(1848~1903)はパリに生まれ、1歳のときに一家でペルーに移住した。その途次父を失っている。彼は、1885年初頭に母とフランス(オルレアン)に帰国した。1865年後半から1871年まで、彼は商船や海軍の船に乗り組み、海へ出ていた。パリに落ち着くと、1872年に株式仲買人となり、翌年結婚した。株式証券業界の仕事は順調だったこともあり、絵画や彫刻に興味を持ち始め、芸術家と付き合うようになった。彼は、才能を現し、エドガー・ドガやカミューユ・ピサロに誘われて1879年には第4回印象派展に参加し、最後の第8回展(1886)まで、印象派展への出品を続けた。ゴーギャンも、正規の美術学校に学んだことはない。現在、ゴッホもゴーギヤンも印象派画家と呼ぶことは殆ど無く、セザンヌとともに、ポスト印象派と呼ばれる。(東京都美術館で10月8日より12月18日まで公開)

自画像 ポール・ゴーギヤン作 油彩・カンヴァス 1885年 キンベル美術館

img988

アマチュアとして絵画を描き始めたゴーギャンは、最初はバルビゾン派を称していた。しかし、1880年代には印象派の制作方法を採用し、特にポール・セザンヌを尊敬していた。この36歳頃の自画像は描いた時期に、ゴーギャンは妻の実家のあるコペンハーゲンに暮らしていた。1882年に金融市場が崩壊するまで、パリで成功した株式仲買人であった頃とは対照的な暮らしであった。本作を描いたのち、ゴーギャンは画家に専念する決断をして1885年6月にフランスへ戻った。ゴーギャンもファン・ゴッホと同様に多くの自画像を描いた。アマチュア画家としてパリで学んだ印象派の表現を用いたこの自画像は、その最初のものである。

自画像 フィンセント・ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1887年 クレラーミューラー美術館

img987

1886年2月頃、ファン・ゴッホはパリに着いた。そこで間もなく、彼は暗い色調による描き方を変える必要があることに気付いた。明快な色と大胆な構成を持つ浮世絵版画を収集し始め、後々までその影響を受けることとなった。画廊に勤務していた関係で、印象派の色調で描いていたが、興味を惹く多数の素朴なモチーフを発見したが、人物像は極めて重要な要素となった。この自画像は、色彩は豊かで明るく、より動きのある筆触が認められる。鏡に映る自分自身を凝視する瞳には、背景と呼応するように緑色が置かれ、表情の印象を和らげている。また、新印象派の点描技法や色彩理論を参照した表現の影響が見られる。ファン・ゴッホがパリに住み始めた1886年は、新印象派の作品が展覧会に登場し始めた頃である。青緑色の背景に、ピンクの肌の色と金色に近い赤毛を配した本作は、彼が色彩理論に熟達し実践した好例と言えよう。パリで制作された作品には、安価な厚紙に描いた作品もあるが、本作もその1点で、経済的理由からやむを得ず厚紙を用いたと考えられる。

パイプと麦わら帽子の自画像 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1887年 ファン・ゴッホ美術館

img998

仕事着に麦わら帽子をかぶり、パイプをふかすファン・ゴッホ34歳の自画像である。夏らしい服装と、白い背景から、アルルに移ったのちに描かれた自画像とされた時期もあったが、今日では1887年の9月から10月の間に、パリで制作されたことが明らかになっている。黄色、オレンジ、茶、ピンク、青緑、灰色がかった緑の限られた色彩のみで描かれ、チューブ絵具から混色せずにそのまま用いられている色も見られる。

グラスに生けた花咲くアーモンドの小枝 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1888年 ファン・ゴッホ美術館

img990

1882年2月パリを出発したファン・ゴッホは、翌日南仏のアルルに到着した。ホテルへの途中、花をつけたアーモンドの木を見つけ、その枝をホテルに持ち帰ってグラスに生けると、2点の小作品を制作した。そのうちの1点が本作である。本作では、1本の素朴な小枝を主題として画面の中央に据え、枝分かれの複雑な構造をクローズアップした構図に、浮世絵の影響を見ることが出来るだろう。1886年から2年間のパリ滞在中、ファン・ゴッホは日本美術と出会い、浮世絵を蒐集し始めた。それのコレクションを通して、日本美術の特徴を学び、そして遠い国日本をユートピアとして憧れを抱くようになる。

ミリエ少尉の肖像 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1888年 クレラー=ミュー美術館

img991

アルジェリアの歩兵連隊の旗手ミリエ少尉とゴッホは親交を結び、デッサンを教えたりしていた。夏に、パリにミリエが旅行したとき、弟テオ(画商)にデッサンをとどけることまでしてやる仲であった。ミリエは、11月にアフリカに出発するが、その前に、ゴッホがこの肖像画を描き、ゴーギヤンもデッサンを1点残している。物にせよ、人にせよ、風景にせよ、ゴッホは、自己の生活に結びつくもの、彼の心のなかになんらかの軌跡を残すものしか描かなかったのである。ミリエの制服もゴッホの興味を倍加したことは想像しうる。(ゴッホとゴーギヤンはアルルで共同生活をしていた頃である)

ゴーギヤンの椅子 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1888年 ファン・ゴッホ美術館

img992

ゴーギヤンがアルルに到着してから5週目の11月下旬にファン・ゴッホは椅子を主題にした2点の作品に着手した。この椅子は、ファン・ゴッホが「黄色い家」に備える家具として揃えたもので、立派な肘掛け椅子のほうをゴーギャンに差し出し、自身は簡素な藁座面の椅子を使用した。ゴーギャンの椅子には2冊の本と蝋燭が置かれており、ガス燈に照らされた本は、ファン・ゴッホがゴーギヤンを「詩人」と称したように、思考や想像から絵画世界を広げるゴーギヤンの制作アプローチを象徴したのであろう。

ジョゼフ・ルーランの肖像 ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1889年 クレラー=ミュラー美術館

img993

ファン・ゴッホはルーランを「郵便配達夫」と呼んでいるが、実際には駅で郵便物を管理する業務に携わっていた。アルルで親しくなったルーランとその家族をモデルにして、ファン・ゴッホは20点以上の肖像画を描いている。ルーランの肖像は1888年7月から1889年4月までの間に6点描かれており、そのうち背景に装飾的な花のモチーフが配されているのは3点である。本作は、ケシやヤグルマギク、デイジーといった夏の花々が配された背景が目を引く。ジョゼフ・ルーランはファン・ゴッホの住んでいた「黄色い家」の近く、ラ・モン・ド・コロド通り10番に住んでいた。

ブルターニュの農場 ポール・ゴーギヤン作 油彩・カンヴァス 1894年 メトロポリタン美術館

img994

1891年、ゴーギャンは自然のままの真に原始的な社会を求め、タヒチへ旅立つた。ゴーギャンは1891年から1893年までタヒチに滞在した後、1984年末から11月中頃にかけてブルターニュに滞在した。本作には、なだらかに傾斜する丘が見える、ブルターニュ地方の素朴な美しさが示されている。この土地の人々が住む家屋のつつましい様子は、この場所が近代文明の干渉からは手付かずのまま、まだ田舎の生活が残されていることを物語っている。タヒチで見出したものが、ここブルターニュにも似たものを認めたのであった。この作品の中には印象派からの影響を感じさせるものではあるが、力強く明るい色彩の使用は、彼が最初のタヒチ滞在時に身に付けた特徴を感じさせるものである。

タヒチの女 ポール・ゴーギヤン作 油彩・カンヴァス 1898年 オードロップゴー美術館

img995

手前には、沐浴した後にしばらく休息をとっている様子の女性が、そして奥には、別の女性が小さくまだ沐浴している様子が描かれている。この前景と後景とがはっきりとした距離感をもって描かれることによって、此岸と彼岸とでも言うべき、現実の世界と想像の世界とを対比させて描いているようにも見えてくる。ゴーギャンは1897年から1898年にかけて、色彩についての理論を考察していたようである。この作品の、画面の下半分と手前の女性は類似したオレンジと赤と茶色の陰影で描かれている。画面の上半分では別の色が使われ、手前の女性の顔が背景の紫や緑との明確な対称をなしている。ゴーギャンの絵画の市場評価は極めて高く、オークションでは数百億円の値段が付き、現在の最高値だそうである。

タヒチの3人 ポール・ゴーギヤン作 油彩・カンヴァス 1899年 スコットランド国立美術館

img996

タヒチで描かれたゴーギヤンの絵画に登場するポリネシアの男性と女性たち。ゴーギャンは彼らの壮健な肉体と力強い表情の中に美を見出し、それを彫刻的な量感をもった姿でカンヴァスに描きとめ、古典的ともいえる安定した構図の中で捉えていった。この「タヒチの3人」は、タヒチ時代を代表する作品の一つである。向かって右側の女性は花を手にして、それを男性に渡そうとしているのだろうか、彼のほうに視線を向けている。こちら側に視線を向けるもう一人の女性はリンゴらしき果実を持っているが、リンゴは南国の果実では無い。ここでゴーギヤンは画面の中で異文化を融合させようとしているようだと図録では説明している。彼はタヒチで経験したこの土地の伝統と、西洋のキリスト教的な伝統のふたつが流れ込んでいるのである。リンゴを持つ女性は男性に禁じられた行為へと誘惑する人物として、花を持つ女性は男性を美徳の道に引き戻そうとする人物として描かれている。

肘掛け椅子のひまわり ポール・ゴーギヤン作 油彩・カンヴァス 1901年 ビューレル・コレクション財団

img003

ひまわりは、ゴッホとゴーギャンを結び付ける重要なモチーフであった。彼らがパリで出合った時に、ゴーギヤンはゴッホが描いたひまわりのある静物画を称賛し、その小品2点と自身の作品とを交換した。またゴーギャンがアルルにやってくることになった時、ゴッホは共同生活を送る「黄色い家」を「ひまわり」の連作で飾り、迎えた。また、このひまわりの置かれた椅子も、ゴーギャンにとってゴッホの思い出に欠かせないものであった。ゴッホはゴーギャンとの共同生活を送るために「黄色い家」に用意した豪華な肘掛椅子の方をゴーギャンに差し出し、自らは簡素な藁座面の椅子を使用した。タヒチにひまわりの花は無かった。ゴーギャンは友人に依頼してひまわりの種をフランスから送ってもらい、それをタヒチの自宅の庭に植えて、ひまわりを咲かせた。この作品は当然ながら、こうした経緯が含まれており、ゴーギャンは椅子に自分のサインを入れて自分の分身のように扱い、まるで肘掛椅子(ゴーギャン)がひまわり(ゴッホ)を抱くかたちで描いている。ゴッホとゴーギヤンは悲劇的な別れ方をしているが、ゴーギヤンは晩年に懐かしい友人に思いを馳せて、この作品を描いたのであろう。二人は、事件を起こしながらも、生涯の友人であったのだ。

 

1882年2月に、ファン・ゴッホは南仏のアルルに到着した。アルルの時代は、ゴッホの短い画家としての経歴(約10年間)の中で、真の塾盛期と呼ぶべき時期で、それは1882年2月から1889年5月までのわずかな年月であった。この間におよそ190点の油絵を完成させている。この数はパリ時代の制作量にくらべても驚くべき点数であった。この間に「収獲」、「ルーラン一家の肖像」等多数の秀作を制作した。アルルの公園前に「黄色い家」を借りて、ゴーギャンの到着を待った。1888年10月に、ゴーギャンが到着し、ゴッホは南仏に芸術家の共同体を形成するという希望の第一歩であった。ゴッホは「芸術家たちの楽園」、「詩人に庭」を空想したのである。ゴーギャンは、彼の強い影響力をゴッホに及ぼそうとした。終局的に、この二人の性格なり画法が一致するはずはなかった。ゴーギヤンの想像力、画面の装飾的体系への熾烈な意志、そして尊大な態度は、ゴッホにおけるレアリスム、細やかな内面的表現への執着、そして献身的であればあるほど結局排他的にならざるを得ない性格は、11月になるとたちまち衝突を始めていた。ゴーギヤンはゴッホの弟テオ(画商)に12月12日に次のような手紙を送っている、「フィンセントとわたしは、性格の不一致のために、問題なく一緒に暮らすことはできない。彼も私も、制作するためには平穏が必要だ。」ゴーギャンがゴッホの肖像を描いたとき、ゴッホは「まさしくぼく自身の肖像だ、だが気の狂ったぼくだ、」と叫んだクリスマスの夜、二人の口論は激しくなり、ゴツホは、ゴーギヤンを殺そうととし、あげくの果てに自分の耳を切り落した。ゴッホは病院に収容され、ゴーギャンは逃げ帰った。翌1889年1月7日まで入院し、2月からふたたび入院。「ぼくは、熱情に、狂気に、あるいは床几にすわる巫女の神託のような予言にうちまかされてしまう時があるのです。」この耳の切落した絵は2点ある。2月21日に退院したゴッホは、数日後、近所の住民によって告訴され、みたび強制監禁されている。監禁はほどなく解かれたが、ゴッホは自信を喪失した。1889年5月、ゴッホはサン・レミの病院に入院した。サン・レミ時代、さらに明確な方向性、曲線、渦巻、螺旋紋の体系をとって、より直接的にゴッホの心象を表現し始めている。1890年5月、サン・レミを出たゴッホは弟テオ(画商)のはからいによってオーベル・シュル・オワーズ医師が紹介されたのである。土地の医師ガッシェは、熱心な好事家として有名であり、この土地になかば引退生活を送りながら、ピサロやギョーマンやセザンヌのよき理解者となった。しかし、ゴッホは誰よりも早く、性急に、消耗し、貪りつくし、終局へと向かっていったのである。7月20日、ル・シヤトレー・ドーベルにのぼりピストル自殺を企てた。しかし弾は心臓をはずれ、ゴッホは村に帰り、カフェ・ラヴォーの部屋に倒れた。翌日の深夜過ぎ、弟テオ(画商)に看取られながら、静かに息をひきとった。画家としての活動期間は約10年であるが、その間に描いた絵画は1700点に上る(2日に1作のわり)多作の作家であった。このような別れ方をしたゴーギャンは、しかし決してゴッホを嫌っていたわけでは無い。それは1190年に作成されたゴーギヤンの「肘掛椅子のひまわり」を見れば、誰でも理解できる筈である。

 

(本稿は、図録「ゴッホとゴーギャン展  2016年」、現代世界美術全集「第8巻 ゴッホ」、図録「ポーラ美術館名作選  2010年」、福島繁太郎「近代絵画」を参照した)