ゴッホ展  巡りゆく日本の夢(1)

本展覧会は、ファン・ゴッホ(1853~1891)が日本の美術、中でも浮世絵に魅せられた事実を明らかにすることが目的である。ファン・ゴッホは1885年(33歳)に、パリに居を移し、弟のテオと合い、印象派に接触した。既に、この頃から浮世絵に興味を持っていた。1888年(34歳)の時に画商ピングの店に通い、屋根裏部屋の膨大な浮世絵を見る機会を得た。この浮世絵との出会いが、ファン・ゴッホのジャポニズムの大きなきっかけとなった。彼は大量の浮世絵を研究し、模写し、画家として浮世絵から多くの事を吸収していった。やがて日本の鮮やかな色彩世界を求めて、陽光降り注ぐ南仏に向かった。アルルに落ち着いたファン・ゴッホは、このあと自分はもう「日本にいるのだ」と感じながら37年の生涯の内で最も幸福な1年足らずの時間を過ごし、次々と傑作を描き上げて行った。ここで彼は草を描き、やがて植物のデッサンを描き、次いで季節、自然の景観、最後に動物、そして人物を描くようになった。ファン・ゴッホの思い描いた「日本人」は、ファン・ゴッホ自身の理想であった。「日本人」という理想人物を、そして「日本」と言う名の理想社会、ユートピアを想像の世界につくりあげた。ここにファン・ゴッホのジャポニズムの最大の特徴がある。ゴーギャンとの共同生活は、わずか2ケ月で崩壊した。ゴッホは精神病を発症し、自分の耳を切り取ったのである。そこでファン・ゴッホは「日本の夢」から覚めることになった。しかし、ゴッホが浮世絵に熱中し、日本を夢見ていた1887年から1888年にかけてのわずか1年あまりの期間は、彼にとって創作意欲に満ちた最も幸福な期間であった。その後もファン・ゴッホは浮世絵から吸収したものを自分自身の芸術のなかでさらに深めていった。

画家としての自画像  ファン・ゴッホ作  1887年 ファン・ゴッホ美術館

ゴッホには自画像が多い。また、意外に人物像が一番多い。色彩は豊かで明るくなり、動きのある筆触が認められる。鏡に映る自分自身を凝視する瞳には、背景の淡い青色と呼応するように緑が置かれている。画架を前に筆を取るこの自画像は、パリ滞在中の最後期に描かれたものである。同じ時期に描かれた一連の自画像のなかでもひときわ大きく、かつ入念に描かれている。図録では、この「画中の表現にはどこかに翳り(かげり)を感じさせる」と解説している。その理由として、ゴーギャンや弟テオに宛てた手紙から、この時期、ファン・ゴッホはパリでの生活に倦み(うみ)疲れていたことがうかがえる、としている。ゴッホは、このパリで画商・ピングの屋根裏で膨大な浮世絵を見る機会に恵まれ、それがゴッホのジャポニズムのおおきなきっかけになったのである。ファン・ゴッホはパリを後にして南仏アルルへ向かうのである。

花魁(おいらん)(渓済英泉による)ファン・ゴッホ作 1887年 ファン・ゴッホ美術館

ゴッホはパリのピングの店の熱心な顧客となり、日本美術、中でも浮世絵に熱中したようである。そして1886年5月に、「パリ・イリュストレ」誌の日本美術特集号の表紙に掲載された英泉の花魁(おいらん)の浮世絵を、ゴッホは油絵でなぞった。英泉を写しているが、花魁の額の周りには、ピングの店で見たのか、さまざまな浮世絵から借用したモチーフを自由に組み合わせて背景に描き、更に色彩も自由に解釈して、ゴッホ独自の華やかな花魁姿に仕上げている。ゴッホは日本の版画の伝統が、今やフランス印象派のなかで再生すべきものと考えたのであろう。明晰な線、強烈な色彩の対照、色彩の明るさは、事実、印象派にとっても、ゴッホにとっても極めて大きなひとつの足掛かりとなったのである。私は、ゴッホの作品で、印象派より一歩前身したように思う。ゴッホが模写した浮世絵は、現在のところ3点知られているが(歌川広重”江戸名所百景/亀戸梅屋敷)、(渓済英泉”雲龍打掛の花魁”)、(歌川広重”江戸名所百景/大はしけあたけの夕立)、いずれの模写においても、ファン・ゴッホはオリジナルな版画を忠実に写し取るのではなく、原作にない強烈な原色を用いたり、背景のモチーフを自由に組み合わせたりしている。

雲龍打掛の花魁 渓済英泉作  縦大判錦絵2枚続き  千葉市美術館

この作品が、「パリ・イリュストレ」誌の1886年5月号「日本特集」の表紙に載ったのである。多分、ゴッホは、この表紙の花魁を参考にして、油絵の浮世絵を作成したのであろうと考えている。雑誌に載せる時に、左右反転していることには、ゴッホは気付いていなかったと思われる。

カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ ゴッホ作 1887年ファン・ゴッホ美術館

描かれているのはパリのカフェ「ル・タンブラン」の女主人アゴティーナ・セゴトーリである。ファン・ゴッホは1887年の春に彼女の店で浮世絵展を開催している。これはゴッホの所蔵する浮世絵と友人たちのものも含まれていたと思われる浮世絵を展覧したものであるが、彼にとっては浮世絵を勉強するにの大いに役立ったことだろう。その時のものだろうか、女性像の浮世絵がかけられているように見える。女主人と図録では招介しているが、私は職業的なモデルではないかと考えている。ロートレックの作品にも登場するとする説がある。

アイリスの咲くアルルの風景ファン・ゴッホ作1888年 ファン・ゴッホ美術館

1888年2月20日に、ファン・ゴッホは南フランスのアルルの街に降り立った。喧騒のパリを離れたファン・ゴッホにとって、陽光と色彩にあふれるアルルはまさに別天地であった。この地を彼は、しばしば「日本のイメージ」に重ね合せていた。この「アイリスの咲くアルルの風景」は、従来の西洋画の植物画の常識を大きく覆すものであった。西洋では、植物は、枝から切って(死んだ)花生けに活ける花が常識であった。ここで彼は、地に生えたアイリスや黄色い花を描いた。ゴッホは目の前に広がる南仏の風景に憧れていた日本の風景を重ね合せて語っている。ファン・ゴッホが好んで描いたアイリスの花は、画家にとって南仏を象徴する花であり、ひいては理想郷としての日本を想起させるモチーフであった。また、この作品では、遠景の建物や中景の木々、近景のアイリスの花などに、ファン・ゴッホが浮世絵から学んだ繊細な点描が認められる。ファン・ゴッホは、浮世絵から日本人の運筆の素早さと簡潔な点描に感心し、素描や油絵を描く際に取り入れていた。

糸杉の見える花咲く果樹園 ファン・ゴッホ作 1888年 クレラー=ミュラー美術館

アルルの春の花の季節に、ファン・ゴッホは精力的に取り組んだのである。この「果樹園」の絵で、明確に意識された陰影の無い平板な色彩表現がすでに見られる。ファン・ゴッホが日本美術から受けた影響を自分なりに咀嚼して、自身の様式を模索していたプロセスがよく判る。弟テオへの手紙には次のように述べている。「ぼくは夢中で仕事をしている。木々は花盛りだし、底ぬけに陽気なプロバンスの果樹園を描きたいと思ったのだ」と。

花咲くアーモンドの木 ファン・ゴッホ作 1888年 ファン・ゴッホ美術館

この絵と良く似た絵を見たことがある。それは、ファン・ゴッホ作の「グラスに活けたアーモンドの小枝」であり、同じファン・ゴッホ美術館に所蔵されているものである。ゴッホはアイリスと同じようにアーモンドの花も好きだったのであろう。弟テオ宛ての手紙で、ファン・ゴッホは次のように述べている、「日本美術を研究すると、明らかに賢く哲学的で、知的な人物に出会う。その人は何をして時を過ごしているのだろうか。(中略)その人はただ1本の草の芽を研究しているのだ。しかし、この草の芽がやがて彼にあらゆる植物を、ついで四季を、自然の大景観を、最後に動物、そして人間像を描かせるようになる」この絵では、陰影の無い平板な色彩表現が見られ、浮世絵から受けた影響を、咀嚼して自分自身の様式を創ろうとしているこおとが分かる。

種まく人 ファン・ゴッホ作 1888年  ファン・ゴッホ美術館

ゴッホには1890年に描いた「種まく人(ミレーによる)」と題する作品がある。今回の作品は、類似を求めれば、むしろ歌川広重の「江戸名所百景”亀戸屋敷”」に基づいたもので、近景に大きく木の幹を拡大して描く大胆な描写が目を引く。左上から右下に向かう対角線上に配された樹木の幹が、左側の人物像とともにシルエットのように描かれている。また、夕日が大きく描かれているのも、大きな特徴だろう。私は、この太陽は、ミレーの作品の誇張であると思っている。とにかく1888年には多くの作品を発表した年である。日本に対する憧れ、浮世絵への関心が一番強かった時期であると思う。

ムスメの肖像  ファン・ゴッホ作 1888年 プーシキン美術館

アルルでファン・ゴッホはピエールロティの小説「お雪さん」を読んだ。ロティが日本に海軍将校として滞在した体験をもとに書いたこの小説は、当時大いに人気を博した。読み終えて間もなく、ファン・ゴッホはアルルの少女をモデルにして、小説に出てくる「ムスメ」の風貌になぞらえて肖像画を制作した。「お菊さん」にはこのムスメという言葉について、次のように記している。「ムスメというのは若い少女もしくは非常に若い女を意味する言葉である。それはニッポンの言葉の中でも一番きれいな言葉の一つである。」ロティは「ムスメ」という言葉の中に、フランス語の「口をとがらす」と「かわいい顔」とが含まれていると述べている。この展覧会では残念ながらデッサンしか展示されていなかったが、油彩画も作成されている。ここではデッサンを紹介している。ゴッホン日本に対する強い憧れが見られる。

夾竹桃と本のある静物 ファン・ゴッホ作  1888年 メトロポリタン美術館

上記のデッサンで、ファン・ゴッホは少女の「かわいい小さな手の中」に夾竹桃の花を持たせている。「お菊さん」のなかにも、ムスメと夾竹桃が一緒に記述されている場面があるそうだ。夾竹桃はゴッホにとっては、特別な意味があるようである。アルルの黄色い家に住み始めた直後に、「ぼくはまた、門の前に樽植えにして夾竹桃を二本、植えようと思っている」と弟テオに書き、また別の手紙では「夾竹桃ーああー恋をささやく」と記している。夾竹桃のモチーフは、ほぼアルルの時代に描かれている。これは南仏では広く分布した植物なので、アルル以前には描かれなかったと思われる。夾竹桃は彼にとって、ユートピアである「日本」に対する憧れを重ね合せたモチーフだったのであろう。

 

ファン・ゴッホに取っては、日本のイメージは理想郷であったのであろう。しかし同時にこのユートピアは、ただ彼の夢のなかだけに現れた、この世のどこにも存在しない場所であった。アルルに落ち着いたファン・ゴッホは、自分はもう「日本にいるのだ」と感じながら37年の生涯の中でもっとも幸福な一年足らずの時間を過ごし、次々に傑作を生み出していった。「日本の夢」の中で、画家は次のような手紙を書いている。「まるで自分自身が花であるかのような自然の中に生きる。こんな素朴な日本人がわれわれに教えてくれるもの、それこそ真の宗教と言っていいだろうか。日本美術を研究すれば、もっと幸せになるに違いないと僕には見える。因習まみれの世界で教育され、働いている僕らを自然へ回帰させてくれる。」「日本の画家たちは、ほんのわずかな金しか稼がず、一介の労働者のように暮らしている」ファン・ゴッホは「日本」という理想社会、ユートピアを想像の世界につくりあげたのである。ここにファン・ゴッホのジャポニズム最大の特徴がある。ジャポニズムについては、既に「北斎とジャポニズム」で明らかにしたが、ファン・ゴッホほど、日本を理想郷と思った芸術家は、いなかった。

(本稿は、図録「ゴッホ展  巡りゆく日本の夢  2017年」、図録「ゴッホとゴーギヤン展  2016年」、現代世界美術全集「第8巻 ゴッホ」を参照した)