ゴッホ展  巡りゆく日本の夢(2)

1877,1888年はファン・ゴッホにとって特別な、そして恐らく最も幸福な時期であった。パリ時代の後半からアルル時代の前半にわたるこの2年間を「ゴッホのユートピア時代」と呼んで差し支えないだろう。この時期、彼は「日本」と「日本人」をモデルに芸術家のユートピアを夢想し、芸術家の共同体を実現しょうとした。それは他の人の目には子供じみた夢以外の何物でもなかった。この共同体に参加したのはゴーギャンひとり、しかも、共同体生活は悲惨な結末とともに崩壊することになる。しかし、それでも「夢」は画家の心を支え、画家には恐ろしいほどの霊感力と力を授けたのである。

寝室  ファン・ゴッホ作  1888年   ファン・ゴッホ美術館

アルルの「小さな黄色い家」に移り住んだゴッホは、ここを「芸術家の家」に、「共同生活の場」にすることを夢見ていた。家具から額の絵まで、そのため、「性格のあるもの」にしょうと望んだゴッホは、彼にふさわしいベッドとして、鉄のベッドではなく、農夫用の大きな頑丈なものを選んだ。椅子もまたぶこつな農夫用のもの、壁面には、「ウジェーヌ・ボックの肖像」、「ミリエの肖像」を始め「自画像や彼自身の作品を飾った。(この「寝室」は数点の異なる作品があり、他のものが掛けられている絵もある)この作品は、「陰影を消し去って、浮世絵のように平坦で、すっきりした色で彩色した」と書簡で述べている。私は、日本の浮世絵版画から学んだ要素を取り込んだアルル時代の到達点を示す作品であると解している。ここに描かれているのは、ベッドと机、椅子2脚、額絵数点という簡素な部屋である。ゴッホは後年「ぼくはまさに他の芸術家たちがぼくのように簡潔を欲する気持ちをもってほしいと願っている。日本人はいつも非常に簡素な室内でくらしてきたが、それでも偉大な宗教家が,あの国でうまれたではないか」と述べている。

タラスコンの乗合馬車 ファン・ゴッホ作1888年 ヘンリー&ローズ・パールマン財団

窓の鎧戸の緑、馬車を彩る緑と赤、影と空の平面的な青、壁の黄色、地面のあおみがかった灰色など、鮮やかな色面のコントラストが強調されており、南仏特有のまばゆい太陽の光を想起させる。馬車に立てかけられたはしごが、構図を引き締めるとともに、空間に奥行きをもたらしている。(なお、本作品は日本初公開である)

アルルの女(ジヌー夫人)ファン・ゴッホ作 1890年 ローマ国立近代美術館男の肖像      ファン・ゴッホ作 1888年 クレラー=ミュラー美術館

 

この二つの絵画は、描かれた時期は異なるが、いずれも背景は明るい色面で、浮世絵の大首絵や美人画などの影響を感じさせる。また人物の性格や感情の表現にしても「市川海老蔵の竹村定之進」(写楽)、「三世岩井条三郎の三浦屋の高雄」(歌川國定)のように、目や口にわずかに表現をつけることによって達成しようとしている様子がうかがわれる。

オリーブ園 ファン・ゴッホ作  1889年  クレラー=ミュラー美術館

ファン・ゴッホは1889年6月にオリーブの樹を描いている。オリーブはサン=レミの療養院の近くでよく見られるモチーフだった。以降、ファン・ゴッホは画面に人物を入れたり抜いたりしながらオリーブ園を15点描いている。糸杉やオリーブの樹といった南仏のプローバンスの典型的なモチーフを、ファン・ゴッホはサン=レミ時代には盛んに取り上げているものの、アルル時代には、むしろ避けるかのように作品には描いていない。プロヴァンスでの生活が1年以上経った頃、彼は現地の風景の中の特徴的なモチーフを理解しようと熱心に取り組み始め、作品の主役として描いていった。「オリーブ園は実に特色豊かで、何とかそれを捉えようと懸命になっている。あるとことは緑色、あるところはもっと青く、あるところはまた緑がかり、ブロンズ色になり、それが黄色、ピンク色、紫あるいはオレンジ色から鈍い赤土色にまでなっている地面の上では白く見える。」

渓谷(レ・ベイル)ファン・ゴッホ作 1889年 クレラー=ミュラー美術館                 「歌川豊国/五重三次名所図会 坂の下 岩窟の観音」

  

 

1889年10月頃には、屋外での制作許可が下りて、ゴッホは療養院近くのオリーブの木や糸杉に集中的に取り組んだ。10月にはアルビーユ山脈に連なる山に登るなど、屋外での制作に精力的に取り組んだ。岩場や山間の渓流などを主題に取り上げ制作に励んでいる様子を、ベルナールに次のように書き送っている。「ぼくは渓谷の大作に取り掛かっている。非常に固い二つの岩山の裾の間を一条の流れが走り、第三の岩山が谷間に行く手をふさいでいる。こうしたモチーフはたしかに美しいメランコリーがあるし、まったく荒涼たる場所で制作するのは楽しい。そこでは風に何もかも吹き倒されないようにしてイーゼルを石の中へ叩き込まねばならい」ファン・ゴッホ自身は渓谷を描いた2点のうち、10月に制作した方を習作、12月に制作した本作を完制作と考えたらしい。彼は本作の方が「より構成に無駄の無いデッサンで、情熱が抑えられ、色も鮮やかだ」と弟テオに述べている。そして同年3~4月に開催された第6回アンデパンダン展に他の9点とともに出品されると、人々の称賛を得た。本作は歌川広重の「五十三次名所図会/四十九 坂の下岩窟の観音」と共通していおり、山道を歩く人物が風景に溶け込むように描かれる点についても、こうした浮世絵版画からの影響と考えられる。

アニエールの公園  ファン・ゴッホ作  1887年  個人蔵

1887年の春から、ファン・ゴッホは風景画に一層重点を置くようになり、パリ近郊のアニエール制作に出かけた。この作品は、新印象派の点描技法を取り入れ、かつ、日本の浮世絵版画を独自に吸収した、自由な解釈による空間構成が現れる。「アニエールの公園」では、印象派や浮世絵版画のように地平線を画面から排除した構図を取っている。かつ画面の三分の二が地面に集中している。

蝶とけし  ファン・ゴッホ作  1889年 ファン・ゴッホ美術館

サン=レミとオーベル=シュル=オワーズで過ごした最晩年の時期、ファン・ゴッホは、花や昆虫、木の枝などの小さなモチーフをクローズアップの非対称の構図で描くようになった。これらは日本の花鳥画を思わせるものである。具体的には「江戸名所百景/亀戸梅屋敷」や「新選花鳥尽し」といった浮世絵、ピングが「芸術の日本」で紹介した複製画、ピエール・ロティの「お菊さん」の挿絵など、パリ時代に出会った日本美術の作品が影響を与えている。

 

1890(明治23)年7月29日、パリの北西部に位置する小さな町オーヴェル=シュル=オワーズの宿屋ラヴー邸の一室でゴッホは息を引き取った。37歳であった。それは、最愛の弟テオ、そして最晩年の画家を世話した医師ポール・フェルデイナン・ガシエに看取られた、ひっそりとした死であった。ファン・ゴッホの死からおよそ20年を経て日本でこの画家の招介が始まった。最初に熱心だったのは「白樺派」の人々であった。雑誌「白樺」に、ゴッホの作品が次々に招介され、大正期から昭和初期にかけて熱狂の渦は徐々に広がり、渡仏した日本人の多くがファン・ゴッホの作品と足跡が残るオーヴェールへと赴くことになった。この頃、ガシェ医師はすでに世になく(1909年没)、ガシェの手元の20点あまりのコレクションは息子ポール・ルイ・ガシエが大切に守り伝えた。オーヴェールはまさに「ファン・ゴッホ巡礼の地」となった。ガシェ家には、来訪した日本人の名が記された芳名録3冊が残された。(現在は国立ギメ美術館蔵)芳名録には里見勝蔵、前田寛治、佐伯祐三、斉藤茂吉、橋本観雪、式場隆三郎、荻巣高徳氏などの署名があった。(芳名録は、展覧会で展示している)ゴッホは「日本に恋をした」が、また日本人も「ゴッホをこよなく愛した」と深く思った。ゴッホ程深く日本人に愛された画家も少ないだろう。

 

(本稿は、図録「ゴッホ展  巡りゆく日本の夢  2017年」、図録「ゴッホとゴーギャン展  2016年」、現代美術全集(第8巻  ゴッホ」を参照した)