ゴッホ展(3) サン=レミ、オーヴェール=シュル=オワーズ時代 

ゴーガンがアルルに到着したのは1888年10月23日の早朝であった。ゴッホは日本人のように共同作業をするユートピアを夢見ていたが、ゴーガンはアルルに行くことで当面の生活費、製作費を確保し、そのうち絵が売れるようになれば、南太平洋に行こうと考えていた。しかし、個性の強い二人、理想を共有しない二人が、長く共同生活することは難しかった。芸術上の意見の不一致などが重なり、わずか2ケ月後に悲劇は起きた。いわゆる「耳切り事件」である。1888年12月23日の夜、ファン・ゴッホは自分の耳の一部を剃刀で切り取って、その耳をラシュエルという娼婦のもとに持っていき「これを大事に持っておいてくれ」と手渡したという。翌朝、ファン・ゴッホは自宅で瀕死の状態でいるところを警察に発見された。発作の引き金になったのは、ゴーガンがアルルを去る意思を伝えたことと思われる。何故こんなことをしたのかと医師に問われた時、ファン・ゴッホ自身は「それは個人的な事情だから」と言って明言を避けたという。「耳切り事件」に怯えたアルルの住民は、この危険なオランダ人画家を隔離するよう市長に嘆願書を出している。ファン・ゴッホはアルルの地を去り、サン=レミの療養院に入ることになった。ファン・ゴッホは約1年間このサンレミの療養院にいたが、病気は完治しない。病名については、統合失調症、てんかん、性病、アルコール中毒から緑内障、メニエール病まで、さまざまな診断がされたてきたが、今なお診断が分かれていて確定しない。サン=レミ時代の絵画には名画が多い。

サン=レミの療養院の庭 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩・カンヴァス クレラー=ミシュラー美術館

1889年5月にファン・ゴッホは自ら、サン=レミ郊外の精神療養院に入院する。この療養院はかってロマネスク様式の修道院だったところで、正式には「サン=ポール・ド・モーゾル精神科療養院」というサン=レミの街から南へ5kmほどの場所に位置していた。広大な敷地内には複数の建物があり、ファン・ゴッホが入院した頃には多くの空き部屋があったらしく、画家は自分の部屋以外にもアトリエとして一部屋を使うことができた。入院後数週間は病院を出ることは禁止されていたが、荒れ放題だった療養院の広い庭で描くことは許可されていた。左側にわずかに療養院の建物が描かれているが、その右側に大きな部分を占めている色取り取りの花が咲き誇る木々である。ファン・ゴッホはこの療養院の庭の、「ばら」という絵を松方コレクションに残している。

糸杉 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩/カンヴァス メトロポリタン美術館

サン=レミの療養院に移ると、アルル時代に描いていない糸杉が重要なモチーフとして登場するようになった。本作は1889年6月にサン=レミの療養院に入院してから比較的早い時期の作品である。エジプトのオベリスクのような美しい線と均衡を持つ糸杉に魅了されたファン・ゴッホは、糸杉が過去の西洋絵画にあまり描かれなかったことに気づき、数点の作品を描いている。縦長のカンヴァスに大きな糸杉を描いた本作とクララー=ミュラー美術館にある作品の他に「糸杉のある麦畑」(1889年、メトロポリタン美術館蔵)など横長い風景画もある。全体はうねるような強烈な厚塗りで描かれている。またこの作品のように空にしばしば月が登場する。この理由はわかっていない。本展覧会でも一番人気の作で、多くの人が集まっていた。記憶に残る作品であった。

蔦の絡まる幹 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩・カンヴァス クレラー=ミュラー美術館

蔦が描かれた一連の作品は、サン=レミ療養院の庭で制作された。最初は1889年5月の入院後間もなく、まだ外出できず療養院の庭で題材を探していた時期に描かれた。その後同年の夏にも同様のモチーフの作品群が描かれた。この時期の作品の特徴的なのは、木の上部の葉の部分や空を描かずに、下向きの視点からの根元と地面の描写に集中してことである。ファン・ゴッホが納得いく構図を完成させるために、特定のモチーフをおびただしい数の習作を描いており、蔦の描かれた作品群にも多数のヴァージョンがある。本作はファン・ゴッホ美術館所蔵のの、これより大きな構図の習作か、もしくはそのレプリカと考えられている。

夕暮れの松の木 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩・カンヴァス クレーラー=ミュラー美術館

画面を見ると何本かの枝は折れていて、枝や野原には薄く雪が積もっているようだ。中央や右上には太陽が描かれ、木の下の小道には傘を差して歩いていく女性が見える。この作品の色合いは、描かれた当時は極めて強烈だったと思われるが、時間を経て退色してしまい、現在ではだいぶ落ち着いていると思われる。この作品にはサインが入っているが、サン=レミ時代の作品でサインの入ったものは少ない。

オリーブを摘む人々 ファン・ゴッホ作 1889年 油彩・カンヴァス クレーラー=ミュラー美術館

精神療養院に暮らす中で周囲の自然に題材を求めた時期、ファン・ゴッホは糸杉とオリーブの木の造形や佇まいに強く惹かれ、それらを何度も描いた。どちらも過去の中心的なモチーフとして扱われてきた例がほとんど無いことから、自分だけの主題として確立させようと考えた。またこの時期にゴーギャンとベルナールが聖書を主題ににした作品にオリーブ園の絵を制作している。光の加減で様々に雰囲気が変わるオリーヴを何かとらえようとしたのか、それぞれの絵は空の色とオリーブの木の色が異なりまったく違った印象を与える。空も樹木も地面もすべて短いタッチで緻密に並べて描いていることから、オリーヴ園に陣取りながら観察を重ね、慎重に筆を運んだ画家の姿が思い浮かぶようだ。顔料の分析から、前景に広がる青色がかっては赤色だったことが判明している。

薔薇 ファン・ゴッホ作 1890年 油彩・カンヴァス ワシントン・ナショナル・ギャラリー

ファン・ゴッホはパリに出た1886年夏に30点以上もの静物画を描いている。これらは色彩研究の実践・研究するために補色を並置して描くのが特徴だった。1890年5月サン=レミでの退院の時期に体調が安定し、大量の作品を生み出した。その中には花の静物画も複数含まれ、やはり補色関係にある2色の隣に並べて色の鮮やかさを浮き上がらせていた。そのうちの2点は薔薇を描いたものだった。その1点、本作では、花瓶からあふれんばかりの薔薇は生き生きと描くことで、春の訪れや自然賛美、健康が回復したことへの喜びが率直に表現されているかのようだ。今日では退色し、赤と緑の色彩の対比は薄れているが、逆に力強い筆使いが目立っている。

ガシェ博士の肖像 ファン・ゴッホ作 1890年 エッチング ピエール・シアナダ財団

ポール=フェルデイナン・ガシェはオーヴェール=シュル=オワーズの住人で神経系の病気を専門とする医師だった。一方で美術愛好家として作品を収集していたことから、モネ、ピサロ、セザンヌら印象派の芸術家たちと知り合っていた。はじめはファン・ゴッホは博士を風変りで自分と同じような病を患ったに違いないと訝しんでいたが、たちまち仲良くなると彼の肖像画を油彩で2点描いている。ガシェ博士はエッチング用のプレス機を持っており、本作はそれで印刷されたものと考えられる。パイプを咥えてこちらを見る博士の眼差しはどこか焦点が定まっておらず、歪んだ輪郭や癖のある線遣いにも博士の独特な人物像が表されているようだ。この肖像画は何枚も試みられ、テオやゴーギャンに送られた。本作のように赤い油絵具を使うなど実験的な試みも行っている。

 

サン=レミの療養生活にも拘わらず、病気は良くならなかった。テオの勧めもあっ、ファン・ゴッホはついに南仏を後にし、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズに移り住んで、美術好きな精神科医ガシェ博士に診てもらうことになった。この地でファン・ゴッホは最晩年の2ケ月を過ごすことになった。発病以来、体の調子によって作品の質にバラツキはある。しかし、歳晩年の作品群、特に50センチ×1メートルの横長のカンヴァスに描かれた最後の作品群は、その十年間の画業と、37年間の戦いの掉尾を飾るに相応しいものである。1890年7月27日、ファン・ゴッホはみずから胸に銃弾を撃ち込んだ。翌日、パリからテオがかけつけたが、医師も銃弾を除く処置をできず、29日、ファン・ゴッホは息を引き取った。享年37歳、画家仲間から認められ始め、作品もすでに1点イ売れていた。あと5年も生き延びていれば、画家として自立し、自身の成功を目の当たりにすることができたかも知れない。

(本稿は、図録「ゴッホ展  2019年」、図録「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢 2017年」、図録「ゴッホとゴーギャン展  2016年」、圀府寺 司「ゴッホ」、西岡文彦「謎解きゴッホ」を参照した。