デトロイト美術館展~大西洋を渡ったヨーロッパの名画たち

チラシ

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デトロイト美術館は1885年に創立されて以来、自動車産業をはじめ有力者からの資金援助を受けて世界の名品を収集してきた。ここのコレクションは約65,000点にものぼる。2013年、デトロイト市の深刻な財政難により、財源の確保策として、同館の美術品の売却の可能性も検討された時期があったが、国内外の資金援助やデトロイト市民の声により、そのコレクションは1点たりとも失われことなく、今日もデトロイト市民の憩いの場となっている。今回の展覧会では、選び抜かれた52点の名品から構成されており、それらを「印象派」、「ポスト印象派」、「20世紀のドイツ絵画」、「20世紀のフランス絵画」の4部に分けて構成されている。こにお展覧会の「20世紀のドイツ絵画」を除いた3章から、代表的名画を選んで解説したい。ドイツ絵画を除いた理由は、私にドイツ絵画の知識が無いためである。また、この展覧会の大きな特徴は、月、火曜日に限って、全ての展示作品の写真撮影を許可していることである。「フラッシュ禁止」であるが、どんなカメラでも撮影が許可されていた。私は、人数が少ないと思われる月曜日に訪れたが、大半の人が撮影していた。圧倒的に多いのはスマホであるが、次にタブレットが多かった。私は、キャノンのカメラであったが、カメラ派は圧倒的に少数派であった。私がみたところ、タブレットが一番綺麗に映っていたように思う。私のカメラは、残念ながら殆ど写真としては使い物にならなかった。発光禁止のため、手ブレが多く、鮮明な写真は写っていなかった。参考までに、ゴッホの肖像画の写真を入れておいた。また展示コーナーの最後に、模写した絵画を手でなぞることが出来る絵画が、4点並んでいた、弱視の人に対する、思いやりであろう。定型的な展覧会が多い中で、デトロイト美術館のイキなはからいに感謝したい。因みに、現在発光禁止付でカメラ撮影を許可しているのは、東京国立博物館の常設展(一部禁止がある)と東洋館である。また、52点という展示作品が少ないことも有り難たかった。150点、200点の及ぶ展覧会は疲れて満足に鑑賞できない。デトロイト美術館だから、点数を増やすことはどうにでも出来ただろうが、あえて名画に絞って、何回も廻って楽しめる美術展も、思いやりの深い展覧会である。(上野の森美術館にて、2017年1月21日まで開催)

 

グラジオラス  クロード・モネ作 油彩・カンヴァス  1876年

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印象派以前の画家達は多かれ少なかれ細部の真実にこだわったが、印象派がこだわったのは細部よりも全体の真実であり、「自然はいかにあるべきか」よりも「自然はいかに見えるか」であった。そういう意味でも、今回出品の印象派関係の作品で主題、様式両面で最も印象派らしい絵画を描き続け、モネは印象派の代表者だと思っている。画中に描かれている女性は、モネの妻カミーユである。モネはイーゼルを屋外に持ち出して直接カンヴァスに描くことで、光が花や葉に当たってはじめる瞬間や、強い日差しに揺れる空気の効果を生き生きと伝えている。画面上のグラジオラスの存在は大きい。

坐る浴女 ピエール・オーギュスト・ルノワール作 油彩・カンヴァス 1903~06年頃

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裸婦はルノワールが生涯にわたって取り組んだテーマであるが、その大半は1881年のイタリア旅行から帰ってからの作品である。その意味で、この作品が描かれた1900年代は、ルノワールは印象派に距離を置き、古典絵画の巨匠に学んだ時代であった。印象派が描いてきた同時代の女性像から、ルノワールが求める永遠の女性像へ向かう過渡的な存在である。

サント=ヴィクトワール山 ポール・セザンヌ作 油彩・カンヴァス 1904~06年頃

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ポスト印象派という言葉には、歴史がある。1910年11月から翌年の1月にかけてロンドンのグラフトン・ギャラリーで開催された「マネとポスト印象派展」がそれである。美術史家のロジャー・フライが展覧会名を「だったらポスト印象派にしたらどうか。どちらにしても、彼らは印象派の後から来たのだから」と提案したのである。彼らとはセザンヌ、ゴッホ、ゴーギヤンに加え、点描派のスーラ、シニャック、ナビ派のドニ、ヴァロットン、象徴派のルドン、フォービズムのマチス、ドラン、ヴラマンク、それにピカソなどを指し、総数30名近い作家が名を連ねた。ポスト印象派の画家は不明であるが、私はより限定してセザンヌ、ゴッホ、ゴーギヤンの「御三家」を指す言葉にしたい。セザンヌにとって風景画は生涯に渡る主要なテーマであった。なかでもサント=ヴィクトワール山の連作は、油彩、水彩、デッサンを含めて60点を超える。サン・ヴィクトワール山は後年になるほどその存在感を増していって、独特の形状を持つ岩山がそびえる雄大な眺望を描いたものが多い。本作は、再後期に属する連作である。

自画像 ポール・ゴーギヤン作 油彩・カンヴァス  1893年

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ゴーギヤンは1888年にアルルでゴッホと短い共同生活を送り、その悲劇的な結末を経験している。ゴーギャンは1893年に楽園と言われた南太平洋のタヒチへ向かった。1893年に一度帰国して個展も開いたが、彼の作品はなかなか周囲に理解されなかった。本作はこのフランスへの一時帰国の時期の作品である。右手を顎に当ててこちらを見るゴーギャンの顔は挑戦的にも見えるが、その表情は周囲の無理解に対する不安や疲労を宿しているように見える。背景に壁にはドラクロワのデッサンが掛っている。ゴーギヤンは1895年に再びタヒチに向かい、二度と故国の土を踏むことはなかった。現在のゴーギヤンに対する市場の評価は高い。オークションでは数百億円の最高値が付いたそうである。

自画像 フィンセント・ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1887年頃

ゴッホの作品        ゴッホの作品を無光で写した私の写真

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ゴッホは自画像の多い画家である。モデル代にも困った困窮も大きな理由では無いかと思う。麦藁帽子をかぶり、青い画家用のスモックを着た自分自身の姿を描いている。力強く強烈な色彩と筆触が特徴的である。ゴッホにとって色彩は、内面感情を現す手段であったのだろう。スモックの下方には指先が目立っており、指で塗った部分であることが判る。ゴッホも生前は、殆ど売れなくて弟のテオの世話に成りぱなしであったが、現在の市場価格は極めて高価であるそうだ。(なお、無発光で撮った写真は、これが一番鮮明であったので、参考までにお見せする)

オワーズ川の岸辺、オーヴィエールにて フィンセント・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 1890年

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アルルでのゴーギヤンとの共同生活にピリオッドを打った耳切り事件と、精神障害の発症を経て、1890年5月21日この地にゴッホはやってきたのは、ガシェ博士から治療を受けるためであった。画面はオワーズ川の岸辺の夏の風景である。川面には画面左奥から手前にかけて10艘を超える色鮮やかなボートが並び、左上奥に張られた白い帆も見える。画面一番手前の黄銅色のボートが強い色彩で画面を左右に跨いでいて目を引く。この絵を描いてしばらくした1890年7月29日、ゴッホは自らの体にピストルの弾を撃ち込み、それがもとで37年の生涯を閉じることになる。

窓 アンリ・マチス作  油彩・カンヴァス  1916年

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20世紀初頭の西欧やアメリカは、資本主義が発展し、科学技術や通信・交通手段が飛躍的に進歩を遂げ、都市化や国際化が進む、まさに「進歩」のまっただなかの時代にあった。20世紀前半の最も傑出した二人の巨人、マチスとピカソをはじめとする画家たちが1905年以降フランスを舞台として制作した絵画があるが、そのどれもがフォービズム、キュビズム、プリミティヴィズム、抽象など、古典的規範を打ち破る新しい表現を志向するものであった。ヨーロッパが第一時世界大戦で混乱していた最中に、マチスはイシー=レ=ムリノーにある田舎の家の部屋から見た、此の平和で美しい傑作を描いた。一見何げない室内画にもさまざまな幾何学的要素が組み込まれている。マチィスお気に入りの題材である。全体を美しく調和させているものは、マチスの手紙に綴られている、絶妙の色の対比とハーモニーだろう。

コーヒータイム アンリ・マティス作 油彩・カンヴァス 1916年

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マティスは1906年からアルジェリア、1911年と1912年から13年にかけてモロッコと、北アフリカに3度旅行している。「東洋風の昼食」(オリエンタルランチ)とも呼ばれるこの絵には、モロッコ滞在の経験がそのまま、衣装や小道具などのセッティングに投影されている。壁の青と床の赤の2つの大きな色面を背景に、黒の輪郭線が人物を浮かび上がらせ、すべての色とかたちがシンプルに響き合い、この絵にきわめてモダンな感覚を与えている。

読書する女 パブロ・ピカソ作 油彩・カンヴァス  1938年

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モデルは当時ピカソの恋人だった、シュルレアリストの写真家、画家のドラ・マールである。ピカソとドラはシュルレアリスムの仲間を介して1936年に知り合った。ドラは知的で自立した女性で、さらにスペイン語を話せる強みもあり、ピカソと対等に芸術や社会的なことがらについて語り合える相手であった。この絵が描かれる1年前の1937年の夏、ピカソはパリ万国博覧会のために大作「ゲルニカ」を描いたが、その間はずっと傍らに付き添って制作過程を撮影しており、その写真は現在まで貴重な記録となっている。黒い長い髪をうしろにやっておでこを出し、読書に没頭するドラの姿。形式張ってポーズをとるのではなく、日常の姿を素早く写し取った親密な表現である。この絵は、わが国初公開だそうである。

女の肖像 アメデォ・モディリアーニ作 油彩・カンヴァス 1917~20年

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1916年末にモディリアーニは18歳の学生ジャンヌ・エピュルヌと出会い、翌年から一緒に暮らすようになる。一方で、以前から結核を抱えていた身体の状態が悪化し、画商のレオポルド・スボロフスキーの手配により、1918年4月にジャンヌ、そしてジャンヌの母とともにパリを離れ南仏のカーニュ=シュル=メールに移り住む。その年の11月、ジャンヌは長女を出産した。この時期、彼の絵は次第に彫刻的な量感から絵画的なデッサン性へと重心が移り、人物像も形態が伸びて優美になっていく。母国イタリアで慣れ親しんだ穏やかな古典主義やマニエリスムの優雅さを自分の絵に取り戻していった。この女性像も、彼独特の引き伸ばされた楕円形の顔と長い首を持つ女性である。モデルは同定されていない。

 

デトロイトは自動車生産の街である。アメリカの自動車産業は、長引く不景気で、業績が著しく悪化し、各企業は大幅なコストカット、人員削減に乗り出していた。解雇の嵐が吹き荒れた。2013年の3月にデトロイト市は財政破綻に陥った。「デトロイト・フリー・プレス」は次のような記事を掲載した。「去る3月1日、デトロイト市が債務超過状態にあることから、同市の財政破綻危機宣告をしたミシガン州知事は、緊急財務管理者を任命した。このまま同市が財政破綻したら、破産自治体としての負債総額は180億ドルに上ると見込まれ、全米で過去最大になる。デトロイト市はデトロイト美術館ノコレクションを売却して返済に充てることも検討せざるを得ない状況に追い込まれている。」この新聞記事にいち早く注目したのは年金生活者であった。デトロト市は警察、消防署員年金と一般職員年金の二つの年金制度を有していたが、多額の積立金不足により、年金基金がデトロイト市に対して有する債権総額は31億ドルを超えていた。これが圧縮されれば、年金受給者への支給額が大幅に減らされかねない。しかし、デトロイト美術館を救うために「”売る”のではなく、”募る”ことにしょう」と募金活動が始まった。遂に2015年1月に寄付金目標額を達成し、最後にアンドリュー・メロン財団やゲティ財団が巨額な寄付を表明したのである。これと引き換えに、美術館は市の管理下を離れて独立行政法人になった。これで市の経済状態に左右されることなく、存続して行くことが出来るようになった。こう言った活動がなければ、この企画は無くなったであろう。この文章を書きながら、職を失った白人労働者の多くがトランプ氏を大統領に押し上げたのだろうと思った。

 

(本稿は、図録「デトロイト美術展 2016年」、福島繁太郎「近代絵画」、吉川節子「印象派の誕生」、原田マハ「デトロイト美術館の奇跡」を参照した)