ハプスブルグ展ー600年にわたる帝国コレクションの歴史(3)

ハプスブルス家の最も重要なコレクターに一人で、今日の美術史美術館絵画の礎を築いた、オーストリア大公レオポルト・ヴィルヘルム(1614~1662)のコレクションに注目する。既にコレクシヨンの歴史(2)」で大半を取り上げたが、まだ全部紹介できた訳ではない。この章では、「芸術を愛したネーデルランド総督」であったヴィルヘルム大公の集めた絵画1400点の一部をまず紹介したい。また最終章である本稿では、ハプスブルグ家の難局を乗り切り、広大な領土を統治した女帝マリア・テレジアや、神聖ローマ帝国最後の皇帝で、オーストリア帝国初代皇帝でもあるカール6世や18世紀という激動の時代に生き、それによって我々を魅了してやまないハプスブルグ家の人々を、肖像画を通して紹介することで、本稿を終わりたい。

ユピテルとメルクリウスを歓待するフィレモンとバウキウス 1620~25年頃 油彩・カンヴァス

本作品の主題は、オウイデイウスの「変身物語」に基づく。フリギア(小アジア中西部)で、神々の父ユピテルと彼の伝令使メルクリウスは変貌して宿探しをしていた。幾度も門前払いをされたが、フィレモンとバウキスという老夫婦のみが、彼らの正体を知ることなく自ら簡素な小屋へ招き入れる。夫婦は簡素ながら心のこもった食事を提供し、籠に盛ったナッツ、イチジク、そして甘い香りのするリンゴとブドウのデザートまでつけた。酒も出しのだが、驚くべきことにそれは一向に減らず、飲み干すと自ら満ちるのだった。このために、老夫婦は自らの客人が神であることに気付いたのである。本作品では、向かって左にユピテル、その奥に赤い衣服をまとったメルクリウスが、フィレモンと共に円卓を囲んでいる。フィレモンはメルクリウスの方を向き、右手を胸に当てて粗末なもてなしへの許しを乞う仕草をしている。自らの客人が神々だと気づくのである。円卓の上にはまだパンがまるまる一つと、オウィディウスの記述にあるデザートに似たリンゴ、イチジク、ブドウがいっぱいの籠が載っている。本作品は、バロック期のフランドルにおける傑出した画家ポーテル・パウル・ルーベンスの工房で制作された。ルーベンスは1600年にイタリアに旅たち、1608年にアントウエルペンに戻った後、その地で高度に組織化された工房を設立した。この工房で専門画家たちと共働することさえあった。フランス・スネイルデルス(1579~1657)は静物と動物をしばしば依頼された専門画家であり、本作品におけるガチョウと静物部分は彼の工房によるものである。

ソロモンの塗油 コルネネーリス・デ・フォス(フュルスト、1584/85・アントウエルパエン 1651)

本作品において、コルネーリス・デ・フォスは、主に塗油の儀式に焦点を当てている。そのため19世紀においては、フランク王国の王クローヴィス1世(466年頃~511年)の洗礼を描いたものと見做された。実際、ソロモンが細工の施された盆に屈みこむ様子は、キリスト洗礼のを描いた場面をおおいに想起させる。しかしながら、王家の象徴である笏(左)と王冠(右)を載せたクッションを手にした小姓が左右に控えるために、主題は王に関係していることが明らかである。コルネーリス・デ・フォスはペーテル・バウル・ルーベンスよりも10歳ほど若く、今日ではその肖像は作品によってよく知られている。1630年代には、スペイン王フェリペ4世からルーベンスに注文されたた作品のため、ルーベンスの下で働いていた。1636年から1638年にかけては、王の狩猟休憩塔トーレ・デ・ラ・バラーダのためルーベンスの下絵を用いて「ヴィーナスの誕生」や「アポロンとピユトン」を制作している。

だまされた花婿 ヤン・ステーン作 1670年頃 油彩・カンヴァス

結婚式の一行が宿屋に到着したところである。宴はすでにたけなわにで、音楽と演奏され、ゲストは楽しそうに食べたり飲んだりしている。人々は賑やかに花嫁と花婿の周りでひしめき合う。テーブルについているゲストはわずかである。新婚のふたりはゲストを後にして寝室に向かおうとしている。「花嫁の初夜の床へ誘う」行為が構図の右半分で繰り広げられている。やや中心から外れた位置に置かれているものの、この風俗画作品の主題を解き明かすのはこの場面である。この作品でステーンは16世紀の絵画伝統から生かされた要素をさりげなく用い、全体として、床入り、不釣り合いな恋人たちの讃え、欺かれた花婿という主題を取り上げている。

神聖ローマ皇帝カール6世(1685~1740)の肖像 1720~30年頃 油彩・カンヴァス オーストリアの画家

この楕円形の肖像画は神聖ローマ皇帝カール6世が描かれている。彼は1711年に没した兄ヨーゼフ1世を継ぎ、神聖ローマ帝国皇帝に選出された。皇位の承継と同時に、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王の地位も引き継いだ。カール6世は男子の世継を得ないまま1740年に死去したが、周到にも1713年に発布した国事詔書によって、長女マリア・テレジアに代々の領地だけでなく、ボヘミヤとハンガリーの王位も継承できる手筈を整えていた。ただし女性であるがゆえに、彼女が皇帝の称号を引き継ぐことは叶わなかった。かれの地世の対外政策は、南ヨーロッパにおける対オスマン帝国との戦争と、国事詔書を何とかして国際的に承認させることに費やされた。この国事詔書は何とかして国際的に承認させることに費やされた。この国事詔書によって、ハプスブルグ領の不分割と、女性による皇帝継承の可能性が担保された。またオーストリアのバロック芸術は彼女の地世下に頂点を迎え、とりわけ音楽、建築、フレスコ壁画が発展した。

皇妃マリア・テレジア(1717~1780)の肖像 マルティン・ファン・メイデンス作 1745年頃 油彩・カンヴァス

この作品に描かれるのは、オーストリア史で最も重要かつ人気の高い統治者に数えられるマリア・テレジアである。マリア・テレジアは1736年にロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚し、その後に父である神聖ローマ皇帝カール6世が死去すると、オーストリア大公、ボヘミア女王、ハンガリー女王の地位に就く。この三つの地位は、聖イシュトヴァーン王冠(ハンガリー)、聖ヴァーツラフ(ボヘミア)、そしてオーストリア大公冠という、テーブルの上に3つの王冠で表現されている。女性は神聖ローマ皇帝にはなれなかったため、夫が1745年に神聖ローマ皇帝にフランツ1世として即位した。この絵はそのその少し後に制作され、フランツ1世を描いた現存しない絵と対になっていたに違いない。版画に添えられた銘が説明するように、両肖像画はマリ・テレジアの治世初期に重用された宮廷画家、マルティン・ファン・メイテンス(子)によって描かれた。

ホーフブルグで1766年に開催されたオーストリア女大公マリア・クリスティーナとザクセンのアルベルトの婚約記念晩餐会 ヨハン¥カール・アウアーバッハ作1773年頃 油彩・カンヴァス

この大勢の人物が描きこまれた1773年の絵画は、オーストリア大公女マリア・クリスティーナとザクセンのアルペルトの婚約を祝って1766年に開催された公式晩餐会の記録である。マリア・テレジアの愛娘マリア・クリスティーナは2年前にザクセン公アルベルトと知り合い、恋におちていた。しかし父のフランツ・シュテファン(後のローマ皇帝フランツ1世)は、アルベルトと結婚したいいう娘の希望を、妻の同意にもかかわらず受け入れなかった。フランツ1世が亡くなってようやく、後を継いだヨーゼフ2世から、後のザクセン=テシュン公アルベルトー宮廷内ではその地位がマリア・クリスチーナにふさわしくないという意見もあったーとの結婚に同意が得られた。婚礼は、婚約を祝った4日後に宮殿シュロスホーフで行われた。絵に中では、2番目の妻マリア・ヨーゼファ・バイエルンと並んでゲストを前に天蓋のしたに座る皇帝の左手に、新郎新婦が見える。

フランス王妃マリー・アントワネットの肖像 マリー・ルイーズ・エリザベト・ヴィジェ=ルフラン作 1778年 油彩・カンヴァス

1776年、ヴィジェル=ルブランは王家の肖像画家として王室建築局に雇われ、2年後にがその腕を見込まれて王妃マリー・アナントワネットの肖像を描く大役を得る。ヴィジエル=ルブランが描いた肖像画は1779年に引き渡され、それを待ちわびていた母后マリア・テレジアのもとへすぐさま送られた。それが本作である。画家は政略結婚によりフランス王家に嫁いで間もない若きマリー・アントワネットを、瑞々しさと高貴さをかねそなえた佇まいで描き出した。画面右腕には夫ルイ16世の胸像が高い台座の上に掲げられ、その下には王権を象徴する王冠が置かれている。バニエで膨らみをもたせた宮廷ドレスは、サテン地の真珠色と房飾りの金色の繊細なニュアンスによって、豪華でありながらも落ち着いた気品を漂わせる。その一方で、手にしたバラの花と呼応するかのように薄紅色を帯びた王妃の唇や頬は、白くすべらかな肌によく映え、健康的な印象を与える。誠に、素晴らしい出来栄えである。

イタリア王としてのナポレオン・ポナバルト 1806年以降 油彩・カンヴァス アンドレ・アッピーニの工房作

本作品の像主であるナポレオンは、流星の如き異例の勢いで頭角を現した。青年期までをコルシカ島で過ごした後、1793年にトゥーロン包囲戦で砲兵体長を務め、初めて指揮を執ったこの戦いで見事に勝利を収めた。それからわずか数年後に、軍勢の数で劣勢に立たされながらも、ピエモンテ=オストリア連合軍の同盟関係を切り崩し、北イタリアの大部分をフランスの支配下に置くことに成功した。彼はとりわけ将軍として兵士たちの忠誠心を掌握する能力に秀でていた。また戦術に長け、戦場の地勢についての正確な知見を有していた。イタリア遠征とそれに続くエジプト遠征ににょって、彼はフランスのあらゆる政治派閥から幅広い支持を得た。ナポレオンはまた、政治家としても精力的に活動した。イタリア王ナポレオンの戴冠式は、1805年5月26日にミラノ大聖堂で執り行われた。アッピーニによって手掛けられた本作品は、おそらく戴冠式の直後に描かれたものであろう。

オーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨゼフ1世 ヴィクトール・シュタウフアー作 1916年頃 油彩・カンヴァス

フランツ・ヨーゼフ1世は最後から2番目のオーストリア皇帝で、在位は68年に及んだ。この肖像画は、有名な肖像亜画家ヴィクトール・シュタウファー作である。皇帝の死の直前に制作された可能性が高く、どちらかと言えば非公式なものである。皇帝は明らかに年を取っているが、意思の力を感じサセルオーラがにじみ出ている。くすんだ水色の陸軍元帥の軍服を身に包んでいるが、これは1914年に第一次世界大戦が勃発して以来、ハプスブルグ帝国が戦争状態にあることを意味するようである。フランツ・ヨーゼフ1世の死の2年後に終結するこの壊滅的な戦争は、オーストリア=ハンガリー帝国の敗北と君主制の廃止をもたらした。ハプスブルグ家のコレクションをまとめたウィーン美術史美術館が1891年に開館したのも、その在位中のことである。

薄い青のドレスの皇妃エリザベト  ヨーゼフ・ボラチュク作 1858年 油彩・カンヴァス

エリザベトを縮めたシシィという愛称で知られる。オーストリア=ハンガリー二重帝国皇妃の生涯は、その死後ほどなくして、神話的な地位を得るようになる。数々の書籍、ミュージカル、映画が、彼女の生涯を感傷的かつロンティックな物語として描き出したのである。こうした物語の登場人物としてシシィが盛んに取り上げられたのは、言うまでもなく、彼女が「世紀末」という、ハプスブルグ家が君主政治が隆盛を極めた時代に生きたことによる。さらに無政府主義者ルイージ・ルケーニの手に掛かり悲劇的な死を遂げたことも、大衆の関心を一層高める要因となった。一方で、シシィが名声を獲得しえたのは、自立心の強いその人間性によるところも大きく、その点で彼女はハプスブルグ皇帝の皇妃たちと一線を画した。

 

ナポレオン戦争をきっかけに神聖ローマ帝国は解体し、1804年にオーストリア帝国が誕生する。(1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国に改組)しかし、同帝国も大一次世界大戦での敗戦により崩壊し、ハプスブルグ家の栄華は終焉を迎える。いわゆる同家の黄昏の時代であるが、この時代には、現在につながるウィーンの街の姿を整えられ、ウイーン美術史美術館の建設も行われた。最終章では、実質的な「最後の皇帝」として、ハプスブルグ家有終の美を飾ったフランツ・ヨーゼフ1世ゆかりの品品である。また彼の皇妃で、類まれな美貌と悲劇的な人生で今日も注目をされ続けるエリザベト(1831~1898)の肖像画である。神聖ローマ帝国とか、ハプスブルグ家とか、必ずしも詳しくない近世、中世のオーストリア、ハンガリーの歴史や人物を詳しくしることがっ出来て、大変良い歴史の勉強になった。特に、小学校の時から憧れた「マルガリータ・テレサ」の肖像画に出会え得たことは、何よりも大きな収穫であった。特に、今年の美術展では記憶に残る展覧会であった。

(本稿は、図録「ハプスブルグ展ー600年にわたる帝国コレクション 2019年」、図録「フェルメール展  2018年」、山川出版社「山川世界史」を参照した)