フアンタスティック  江戸絵画の夢と空想   後期

「江戸絵画の魅力を再発見する」ことが、この展覧会の目的であると「図録」は述べている。確かに江戸絵画については、一部の琳派や文人画については良く展覧会も開催されるが、それ以外の江戸絵画については、殆ど知識がないし、知ろうとする努力もしない。江戸時代と言えば、反射的に「浮世絵」と答える人が多いだろう。今回の展覧会は、その常識を覆す試みであり、その面白さに惹かれて後期も引き続いて拝観した。一言で言えば、その魅力に惹きつけられてしまった。なお、浮世絵の展示もあったが、今回は浮世絵を抜きにして、「江戸絵画の夢と空想」に浸りたい。

四季花草図屏風 伊年印 六曲二双屏風   江戸時代初期(17世紀初期)

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この四季草花屏風は、根津美術館で見た覚えがあり、同館の図録を調べたら、かなり草花の種類が違い、別物であることを確認した。伊年とは、俵谷宗達の一門が印章として使用していたものであり、宗達の指導の可能性もある。江戸時代前期に、宗達の工房で描かれた作品であり、数は多い。画面の全てに金箔を貼って、その上に絵具で四季の草花を描き込んでいる。花々はいくつかの種類でひとかたまりをなし、それが上に配置されている。画面の下辺には頭だけが見えるかたまりもあって、画面の中に納まりきらない広がりを感じさせる。厚く塗られた絵具は、金箔に対抗するように華やかに色を発している。そもそも四季の花を同時に目の前に咲かせようという「四季花草」の題目自体が、ファンタスティックな体験装置である。

夏山霽靉(かざんせいあい)図 谷分晁(ぶんちょう)作 寛政7年(1795)

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谷文晁(1763~1840)は江戸時代初期の大画家であり、寛政期には、南宋画と北宋画を融合させた独自の漢画風を展開し、関東の絵画界の大御所として活躍し、門人を多数輩出した。題の「夏山霽靉」とは、寛政7年(1795)、33歳の時に「写山楼」つまり、江戸の自身の画室で描いた作品だと分かる。墨と茶色の淡彩だけで描いているが、何より山の形や描き方が目を引く。全体を見ると、画面中ほど上へk向かって突き出す岩場や、下の方の山へ続く地形など、立体感や奥行きを相当意識しているのが理解できる。さすがに、谷文晁の絵画の素晴らしさが理解できる。

菊滋童図(きくじどうず)狩野惟信(これのぶ)作   江戸時代(18世紀)

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狩野惟信は奥絵師四家の一つである木挽町狩野家、狩野典信の子として生まれる。12歳で早くも奥御用をつとめ、29歳で法眼、42歳で法印に叙された。狩野派の伝統的筆致を守りつつ、大胆さを見せる作品でも知られている。菊滋童は王の寵愛を受けていたが、ある事件で山深くに流された。王は滋童を憐み、お経の一部を与え、滋童は山の中でそれを唱えて暮らしていたが、忘れてはいけないとお経を菊の葉に書いておいた。そして、その葉の滴りを口にした滋童は不老不死の命を得た、という話である。惟信の作品の美しさ、立ち込める神聖な空気は、この物語のイメージを見事に造形化している。若くして法眼、法印に叙せられるだけあって、狩野派の伝統の画力の真骨頂とも言える作品である。

亀図  伊藤若冲作     江戸時代中期(18世紀後半)

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この図は、長い毛のような藻(も)が付いた、いわゆる「藻亀」である。「毛」は、太い筆に濃い墨をつけて、うねらせながら思い切り描いている。しつこいほど重ねられたその激しい描写で画面の大半が満たされているが、亀の甲羅の模様は、「筋目描き」と呼ばれる手法で巧みに表している。水を多く含んだ墨で塗り、それが乾かないうちにその隣にも塗ると、外へ広がる水分が互いにはじき合って、墨の色のない線となって現れるのである。中でも、注目は、亀の前足と目、それに鼻である。絵の全体には力強くいかつい雰囲気もあるが、黒く小さな目と、同じように表された鼻が、可愛くて、心を和ませてくれる。豪快さと愛嬌が味わえる一幅である。、その頃は「米斗翁」(べいとおう)と名乗り、米一斗で絵を描いてあげたと言われるが、そのような絵の一枚ではなかろうか?

乗興舟(じょうきょゆしゅう)1巻  伊藤若冲作  明和4年(1767)

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親しく交わった相国寺の大典顕常と共に、京都の伏見から大阪まで淀川を舟で下った旅から生まれた作品である。幅は20cm、長さは110cmの紙に刷られたものがつなぎ合わされて、全長1150cmの巻物となっている。この作品は木版画だが、版木に墨をつける普通のそれではない。版木には墨をつけず、紙をその上から圧着する。すると、紙に版木と同じような凹凸ができるわけだが、その上から、墨をつけた道具で叩いて着色するのである。石碑に刻まれた文字を写し取る時に使う「拓本」に似た方法である。色は単純ではなく、淡い部分やグラデーションの部分もある。まるで夜景のようであるが、二人は夜間に船に乗ったわけではない。大典の言葉には、次のような文がある。「船はしばらくすると晴れた空に逢い、春の日が清らかに照らす」。この巻物は昼と夜とかではなく、そういった現実を超えた美しさに浸るための「黒の世界」なのである。

白狐図  吉川一渓(いっけい)作  江戸時代中期~後期(18世紀後半~19世紀前半)

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吉川一渓(1763~1837)は名古屋の画家、通称は小右衛、名は義信、号は養元、自寛斎。吉川家は、尾張藩御用絵師に学んだ知信に始まるいわゆる町狩野の家だが、藩に関わる仕事にも従事した。一渓も、天保6年、名古屋城本丸御殿障壁画鑑定を命じられている。この絵は、暗闇に現れた白い狐。筋肉の様子を表にしながらも、長くて先が膨らんだ尻尾を含めた全体の姿は、写生的というよりも、流れる形そのものである。狐火も、妖しさを示すだけでなく、その非現実的な形が見る者の心を別世界へ誘うようである。狐は怪異を起す動物として恐れられてきた。それに「お稲荷様」である。花の咲く野辺にいる白狐は、ありがたい。

月夜山水図  曽我蕭白(しょうはく)作  江戸時代中期(18世紀後半)

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曽我蕭白(1730~1781)は、辻惟雄氏の「奇想の系譜」で、奇想の画家として紹介され、昭和40年代に一躍有名になった。辻氏は「古美術通をもって任ずる人でも、曽我蕭白について知ることは多くあるまい」と記している。また、解説を書いた服部幸雄氏も「-岩佐又兵衛、狩野山楽、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳ーは、今日でこそ多くの人々の熱い注目を浴びるようになっているが、本書の初版が出版された1970年代の時点では、ほとんど知られない画家たちであった。日本絵画史の専門家でもあまり知られていない」と述べている。正に現代は「江戸ブーム」、「奇想の画家」の時代である。蕭白の人物図は仙人など、奇想と言われる絵も多いが、この月夜山水図を見て、私は驚いた。この風景画は完璧であり、見事に構築された作品である。絹に墨で描いた中国風の風景画である。豊かに水の流れる川のそばに、侍者を連れた人の姿がある。よく見れば崖の上に門があり、更に高い所には建物がある。建物の背後には、険しい山々が聳え立つ。この地上の景観を照らし出し、作品全体を一つのファンタスチックな空間へ変えているのが、月の光である。私は「奇想の画家」ではなく、極めて正統的な素晴らしい画家であることを見出した。

月下山水図 黒江武禅(1734~1806)作 江戸時代中期(18世紀後半)

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大阪の人。名は道寛、号心月、蒙斎など多数。黒江は本来は号で、画姓として用いていたと考えられる。絵は月岡雪鼎に学び、宗元画を研究した。この作品の、描き方がすこぶる変わっている。一見して不思議な画面である。大きな湖なのか海なのか、広がる水面に点々と陸地が浮かんでいるようだ。山水画としては珍しい風景である。狭くて長い陸地に松の木が生える様子も、奇観である。この作品を強烈に印象づけるのが、光と影の表現である。月夜によって生じる陰を陸地の起伏に沿って表しているが、面白いことに、陰の濃さは何段階かにはっきり分けられている。江戸中期、西洋絵画からの影響もあって、光や陰の表現に興味を持つ画家が登場した。この不思議な月夜の光景は、画家の強い興味から生まれた、現実とも非現実ともつかない世界なのである。

朧月(おぼろつき)図 長沢芦雪(1754~1799)作寛政6年(1794)

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長沢芦雪も又、辻惟雄氏の「奇想の系譜」に書かれた作家である。丹波篠山藩士、上杉彦右衛門の子として生まれ、長沢氏を継ぐ。京に出て円山応挙の弟子となり、天明6年(1786)からは、応挙の代理として紀南の無量寺、草堂寺、成就寺の障壁画を制作。寛政2年(1790)の新造内裏や寛政7年(1795)の大乗寺など、数々の障壁画を制作した。「奇想の画家」では無量寺の虎図襖、薔薇に鶏図襖、山姥図(厳島神社)等が掲載されている。この朧月図には「於厳島写」とあるので、厳島で描いたものである。江戸中期、丸山応挙による研究に端を発した日本絵画の精密化は、それまで画家も、絵を観る者も意識していなかったレベルで、ものの様子を捉えることを促した。そして、個々の人が心の中だけで感じていたものや、歌人や詩人、俳人によって言葉に表してきたものが、「絵に表せる」ようになったのである。見上げれば、天空に月が浮かび、鳥たちが飛び交う世界がある。霞の中にほんわりと見える、人の世界から切り離されたような世界である。前衛的、かつ多くの人が味わえる趣きを湛えた作品である。

重要美術品 蓬莱山水図  長沢芦雪作   寛永6年(1794)

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蓬莱山は遠くに小さく、しかし細部まで変化に富んだ様子が表されていて、その中歩いてみたくなるほどである。絵を見る者は、自分が上空から接近しているような気分になる。また遠くには、仙人が立ったまま乗る鶴が、列をなして飛んできている。見る者が感じる空中と、描かれた空中、その両方が功を奏して、リアルで爽快な空間を体感できるのだろう。上陸する亀も、やはり目指すのは蓬莱山である。色もまたファンタスティックである。海の青、蓬莱山に架かる橋の赤、桃の花の色、砂州の白、芦雪は、応挙風の静謐で細やかな作品を描いた前半から、奇抜な構図や自由な筆使いを押出した作風に転じた作家である。この絵は、広島で描いた作品である。画家としての完成度は極めて高い作家と思う。天明2年(1782)29歳の時には、既に応挙の高弟として一家をなしていたようである。同年発行の「平安人物志」の画家の項には、応挙、若冲、蕪村からだいぶ離れてはいるが、芦雪の名前がある。辻氏は「種々奇想を凝らしてそれらからの脱出を終生心がけながら、師(応挙)の画風をあまりにも完璧に見に付け過ぎた器用さが仇となって、結局のところ、応挙という(水)を離れることはできなかったようであるし、晩年のグロテスクへの傾倒も、蕭白というその道の天才の後とあっては、しょせん2番煎じを免れなかった」と酷評している。私から見て、本作の出来具合は、極めて完成度が高い。応挙の代理が務まるほどの高弟であれば当然かも知れない。

馬入川富士遠望図 司馬江漢(1747~1818)作 江戸時代中期(18世紀後半)

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画題は日本の風景である。景色から見て馬入川、つまり、相模川ではないかと推測される。遠くの川岸には舟が並び、人の姿もちらほら見える。青空にはうっすらと雲がたなびき、雪を戴いた富士山もくっきり見える。しかし、この絵の主役は、美しい風景を独り占めしている一羽の鶺鴒である。尾羽をぴんと上げ、頭も上に向けその視線は、画面の対角線と重なっている。この絵の最大の特徴は「空」を描いている。人が見たままの空を描いた絵は、これまで殆ど存在しなかったのである。宇宙に興味を持った江漢は、日々、地平線の上に広がる青空を眺めつつ、想像を膨らませていたのであろう。

富士超竜図 葛飾北斎(1760~1849)作 江戸時代後期(19世紀後半)

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縦が174cmに及ぶ大作である。「画狂老人卍筆」という晩年の署名がある。富士山の稜線が長く、山頂が小さい。やや奇異に感じられるが、形の面白さに加えて、山の巨大さ、高さが演出できる独特の描き方だろう。この作品のもう一つの主役が竜である。山麓に立ち込める黒雲は、富士山をぐるりと回って向こう側で初めて立ち上り、そしてその先に竜がいる。雲は竜の動きの軌跡なのだろ。つまり、龍は富士山の手前から現れ、体をうねらせばがら山の周りをめぐり、ようやく勢いよく真上に向かって上昇したのである。江戸時代、富士山を竜が超えるところを描いた作品は多いそうだ。定番になった理由は、山頂に竜が住むと考えられていたことだそうだ。画面の左上に、佐久間象山が漢詩の賛を着けている。その内容は「海から現れた竜」である。北斎の潤いに満ちた墨の表現からも「沛然として」降る雨が想像できる。

 

さて何名の作家をご存じでしたか?私は「奇想の画家」伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪に加え、伊年印、谷文晁、司馬江漢、葛飾北斎の合計7名でした。またファンタステチックと思う絵は①は葛飾北斎 富士超竜図でした。富士山に登り竜の取り合わせは、私にはファンタスチックでした。②は吉川一渓 白狐図でした。狐火で明かりを執る発想と、流線形の形でした。③は伊藤若冲 亀図でした。亀がまるで尻尾のように引きずる藻亀は異常な図でした。一人一人のファンタスチックな絵画を探して下さい。しかし、遠い存在であった江戸絵画が、随分近くに見えるようになりました。

 

(本稿は、図録「ファンタスチック 江戸絵画の夢と空想」、辻惟雄「奇想の系譜」、府中市美術館「かわいい江戸絵画」、府中市美術館「江戸絵画の19世紀」、安村敏信「江戸絵画の非常識」を参照した)