プラド美術館  ベラスケスと絵画の栄光

私は、プラド美術館よりもベラスケス(1599~1660)の絵画見たさに、この展覧会を見学した。ベラスケスは、私の記憶する一番最初の西洋画家であり、スペイン王家の宮廷画家として記憶に残っている。それは、父が買い求めた「西洋美術全集」のなかの、スペイン王家を飾る一番素晴らしい絵画がベラスケスであり、王家の一家の中の可愛い王女を描かれた「ラス・メニーナス」(1656)を是非拝観したいという小学校時代の思い出の名画を見る為に、出かけたのである。70点近い絵画を見た最後に、私の希望した絵画が無いため、学芸員に説明を求めたところ、その絵(「ラス・メニーナス」)や、他の王家一同の絵画は、プラド美術館の至宝であり、外部に貸し出したことは一度もないとのことであった。希望が叶わずがっかりしたが、それでもベラスケスの絵画7点も見られたので、一応満足して美術館を出ることが出来た。さてプラド美術館は、スパイン王室によって収集されたスペイン、イタリア、フランドル絵画を中心に、1819年に王立の美術館として開設されたものである。この展覧会は、日本とスペインの外交関係樹立150周年を記念して、プラド美術館の収集作品のうち、ベラスケスの作品7点を軸に、17世紀絵画の名作61点を合せて、約70点を紹介するものである。プラド美術館は現存する約120点のベラスケス作品のうち約4割を所蔵しているが、その重要性のゆえに館外への貸し出しを厳しく制限している、そうした中で日本において7点もの傑作が一堂に展示されるのは、特筆すべきことである。(この部分は、図録の「ごあいさつ」より引用した。これさえ知っていれば、「ラス・メニーナス」が展示される訳がないことが、事前に理解できた。)これに較べると、日本は、フランスへ「鑑真和上像」を貸し出したことがある。これはフランスが日本に「モナ・リザ」を貸し出してくれたお礼であると聞いたことがある。17世紀のスペインはベラスケスを始めリベーラ、スルバランやムリュリョなどの大画家を排出した。彼の芸術を育んだ重要な一因は、歴代スペイン国王がみな絵画を愛好し取集したことがあげられる。国王フェリペ4世の庇護を受け、王室コレクションのティチアーノやルーベンスの傑作群から触発を受けて大成した宮廷画家ベラスケスはスペインにおいて絵画芸術が到達しえた究極の栄光を具現化した存在であった。本展はフェリペ4世の宮廷を中心に17世紀スペインの国際的なアートシーンを再現したものである。

ファン・マルテネス・モンターニスに肖像 ベラスケス作 油彩・カンヴァス1635年頃

この作品は、画家が制作中の彫刻家の肖像を描くという、珍しい作品である。描かれているのは、16世紀末から17世紀前半、セビーリヤで最も重要な彫刻家の一人であったモンタニュースとされている。ベラスケスが修行時代を送っていたときには、すでに名を知られた彫刻家であり、ベラスケスの師であるフランシス・パチェーコとも親交があった。彫刻家は、繻子のようなつやのある黒い宮廷服に身を包み、右手に箆を持ち左手で粘土像支え、胸を張り姿勢を正した半身像で描かれている。彫刻家が制作しているのは国王フェリペ4世の頭部の粘土像である。この像は、ブロンズによるフェリペ4世騎馬像を制作する際の参考として、フィレンツェの彫刻家ピエトロ・タッカのもとに送られたものと考えられる。国王と一面識もない、イタリア彫刻家に送るための胸像制作が、モンタニエースに委託されたのである。ようやく無事に完成したタッカの彫刻は、現在マドリード王宮前のオリネンテ広場の中央に堂々としたその姿を見せている。

聖ベルナドゥスと聖母 アロンソ・カーノ作 油彩・カンヴァス1657~60年

簡素な礼拝堂の中で、祭壇の前に白衣の修道士が跪き、祀られた幼子イエスを抱いた聖母マリアの彫刻が乳房から彼の口をめがけて母乳を注いでいる。手前には、聖人に向かって手を合わせて祈りを捧げる目撃者が描かれている。この一風変わった場面に、私は驚いた。この場面は、12世紀にシトー会修道院長を務めた神学者クレルヴォーの聖バルナンドスの生涯にまつわる、神秘の授乳の物語を表している。それは幾つかのヴァージョンが伝わるが、本作が依拠しているのは1119年にフランスのシャチヨン=シュル=セーヌという町のサン・ヴォルル聖堂で起こったものとするものだろう。マリア信仰のあついことで知られたベルナルドゥスが彼女の前に祈りを捧げ、いつもより熱意を込めて「あなたは母たることをお示しください」と口にすると、彫像が生を得て動き、3滴の乳をペルナンドスの唇に垂らせた、というものである。この幻視の逸話は13世紀末のスペインで創案されたとみられ、その後17世紀末の同国において、マリア信仰の高まりとともに頻繁に表されるようになった。本絵画は、当時のスペイン彫刻が単なる美術作品ではなく、どのような力を持つと見られていたかについて、端的に教えてくれている。

メニッポス ベラスケス作 油彩・カンヴァス  1638年頃

髭を生やした老人が外套を羽織りこちらに背を向けて立ち、今にもその場から去らんとするかのようである。肩越しに我われの方を振り返っている。彼の立つ空間は室内であることだけが漠然と理解され、彼の足元には広げられた本や壺などが雑然と並んでいる。この男は、18世紀初頭の財産目録の記述、および画面左上に記された銘文(ベラスケスの手によるものではない)から、古代ギリシャの犬儒学者派の哲学者メニッポスであることがわかる。かれはかって奴隷で、その後金貸しとして財をなすもののそれを失い、自ら命を絶ったと伝えられる。本作はマドリード近郊にあった狩猟休憩場の装飾として、寓話作家として名高いイソップと対をなすべく、ベラスケスによって描かれた。トーンの装飾全体にいかなるプログラムがあったかのか、そしてそれをどのようにしてベラスケスが制作に関与したのか、詳しい経緯はわかっていない。

マルス ベラスケス作 油彩・カンヴァス   1638年頃

本作は、エル・バルドの森にあった狩猟休憩場のために制作された。国王フェリペス4世は狩猟を好み、1636年にはこの狩猟休憩場の内部装飾のためにルーベンスとその工房にオウイディウスの「変身物語」、古代の哲人、狩猟や動物を主題とした作品など100点を超える作品を依頼している。この塔の装飾のため、ベラスケスはメニッポス、やイソップに次ぐ古代世界3人目の人物として、軍神マルスを描いた。「マルス」という主題は、王家の狩猟のための休憩室にはふさわしい主題と言える。狩猟は、平和の時代にあって「戦い」の疑似体験でもあった。フェリペ4世をはじめ、ハプスブルグ王家の人々が狩りを好むようになったのは、そのような伝統があったからである。本作で画家は軍神マルスをあくまでも現実の戦士と捉え、その疲れ切った姿を描いている。戦いから戻り、鎧を脱ぎ武器を置いた戦士の姿である。このマルスの姿をフェリペ4世と結びつけ、メランコリックなポーズは、疲弊するスペインの姿であるとの解説もある。1640年代、スペインは幾度かの戦いによってその軍事力は弱体化する一方であった。

音楽にくつろぐヴィーナス ティツィアーノ・ヴェチェリッオ作 油彩・カンヴァス 1550年頃

寝台に横たわる裸婦は、クッションにもたれ体を起し、左手で仔犬をあやしている。女性の首元や腕には豪華な装飾品が光る。足元に座る若いオルガン奏者は、左手を鍵盤にのせ、体を大きくひねり、女性と仔犬に視線を向けている。手摺の向うには、ポプラ並木の連なる風景が広がり、サテュロス像の立つ噴水やクシャク、タカジカのつがい、肩を寄せ合って歩く恋人たちがいる。並木道の先には街が見える。本作は、ティツィアーノが繰り返し手がけたヴィーナスとオルガン奏者を主体とする絵画の一つである。裸婦を眺めるオルガン奏者の存在は、観者が自身を奏者に重ね合せ、裸婦を眺めることを促す新たな仕掛けであろう。知的なユーモアと官能性を兼ね備えた本作品は、注文主の期待に巧みに応え、ヨーロッパに広くパトロンを得たティツィアーノならではの創意に満ちた絵画と言えよう。

狩猟姿のフェリペ4世 ベラスケス作  油彩・カンヴァス 1632~34年

マドリード近郊のエル・バルドの森にある狩猟休憩室のために描かれた、狩猟服姿の国王の肖像画である。離宮もあるエリ・バルドの森は、王家の人々が毎年秋になると狩猟を楽しむために必ず訪れた場所であるが、その狩猟の合間の休憩時などに王家の人々が私的に利用する施設が狩猟休憩場であった。17世紀前半に増改築工事が行われ、それに伴なって、無味乾燥な内部の壁を華やかにするための絵画作品が、内外の画家に対して発注された。スペイン人画家としてベラスケスも「イソップ」、「メニッポス」、「マルス」など、10点余りの作品を描いた。本作に描かれた国王フェルペ4世は、制作年代を考えれば、年齢が20歳代後半から30歳頃であり、いまだ体力、気力を失わず、狩猟の腕前も確かであり、政治手腕を発揮して王国スペインを統治した時代で、有能なる為政者としての姿がここにはある。狩猟用の衣装をまとった国王は右手に長い銃を持ち、その銃の横には猟犬を従えている。力強さに溢れた国王の姿である。

バリューカスの少年  ベラスケス作 油彩・カンヴァス 1635~45年

矮人(わいじん)の肖像画である。ビスカヤ地方の出身でその名をフランシスコ・レスカノーといい、1634年に宮廷に上がり、王太子バルタサール・カルロスに仕えたとされている。その出身地から「ビスカイーノ(ビスカヤ人)」とも呼ばれていた。王太子の死から3年後の1649年に25歳で没している。本作はモデルが12,3歳頃だとすれば、1636年頃に描かれたと考えられる。「バリエーカスの少年」という呼称は、1794年に王宮の財産目録作成に際して付されたものである。画面右奥にはマドリード近郊の王家の狩猟場、グアダラマの山系が眺望されるが、この景色はベラスケス作の「狩猟服姿の王太子バルタサール・カルロス」の景色とも重なる。レスカーノは道化や矮人(エナーノ)たちが宮廷で着用していた濃い緑の衣服を着ており、彼が王家の随員であることが明示されている。このように矮人たちは、主人たちの私的な用向きが仕事であった。

王太子バルタサール・カルロス騎馬像ベラスケス作油彩・カンヴァス1653年頃

王位継承者の王太子バッタサール・カルロスの凛々しい公式騎馬像である。王太子は王族の期待と希望を担って1629年10月17日、父国王フェリペ4世とフランス・ブルボン王家から嫁いだ王妃イサベルとの間に誕生した。当時、ベラスケスはイタリア遊学中のために不在で、国王は、幼い王太子の肖像を寵愛の「予の宮廷画家」のみに描かせるよう早急な帰国を心待ちしていたという。王都マドリードの郊外に離宮ブエン・レテイーロの造営が始まった頃である。本作はそれから数年後の1635年頃、ほぼ竣工した休息と娯楽のための離宮レティーロ内でその中核をなす唯一の政治的な空間、「諸王国の間(サロン)」を飾るために制作された。ここは諸外国の大使や要人が必ず訪ねる公的な場所であった。王太子の装いや持物、馬のポーズや彼らを取り巻く清澄な風景を理解するためには、この絵が掲げられる場(トポス)と他の絵画装飾、その機能をひもとくことから始めなければならない。王太子の顔から緑の丘陵に至るまで、自由闊達で簡略化したベラスケス一流の近代的描法が全面的に息づき、賦彩も「絶対色感」のような揺るぎなく、ベラスケスはもう成熟の域に到達している。パノラミックな山岳風景はアルカサル山系の写実であり(季節は3月頃か)、遠ざかるに従いブルーの色調が深まる流麗な空気遠近法が駆使されている。この展覧会の白眉の作品である。

東方三博士の礼拝 ベラスケス作 油彩・カンヴァス 1619年

ベラスケスがマドリードの宮廷に王付き画家として迎えられるのは1623年の秋であるが、その4年前の1619年に故郷のセビーリヤで描いた宗教画が本作である。1920年頃に行われた修復で聖母の足元の石の側面に年紀が発見され、当初は最後の数字の判読に議論があったが、現在では、最後の数字は9と読むことで意見の一致を見ている。描かれた主題は、マタイによる福音書第2章の「東方の三博士(マギ)の礼拝」であり、誕生したばかりの幼子イエスに敬意を表するために、3人の博士が東方から贈り物を携えてやってくるという場面である。伝統的にこの主題を扱う絵画では、幼子イエスを抱く聖母の足元に、3人の中でも最年長のカスパールが跪き、黄金の贈り物を捧げる様子が描かれてきた。しかし、ベラスケスはこの作品で、聖母の目の前の、我々鑑賞者に一番近い位置に跪くのは、年老いた王ではなく若い王であり、この主題の伝統的図像との相違が見られる。余計なモチーフを排除した画面の中で、その一番手前側、右上から左下へ対角線上に配置された聖母、幼子イエス、若い王はとりわけ目立っているが、なかでも画面左上からの光を受けて明るく輝く、白いおくるみを巻かれた幼子イエスは、見る者の注目を強くひきつける。十字架上での磔という未来がまっているのであり、画面右下の隅に描かれたアザミは、その受難を控えめながらもはっきりと示しているのである。

 

プラド美術館の絵画を、ベラスケスを中心に見て来たが、やはりベラスケスは、表面的な写実主義だけでなく、絵画を超越したリアリズムに到達した西洋美術史における最高峰の画家の一人と評価することが出来るだろう。宮廷画家という枠は外せないが、17世紀のスペインを代表する画家の第一人者であったと思う。

 

(本稿は、図録「プラド美術館  ベラスケスと絵画の栄光  2018年」、高橋秀爾「西洋美術史」、木村泰司「西洋美術史」を参照した)