プーシキン美術館展ー旅するフランス風景画

プーシキン美術館は、帝政ロシア時代の実業家セルゲイ・シチューキンとイワン・モロゾフという伝説的な二人を中心とするコレクター達が収集した秀逸な西洋絵画コレクションとしてその名が知られている。プーシキン美術館の歴史をたどれば、1912年に「モスクワ大学付属アレクサンドル三世美術館」として開館した。1917年にロシア革命が勃発し、社会主義体制が敷かれて個人コレクションは国有化され、多くのコレクターは海外へ亡命した。シチューキンとモロゾフのコレクションは邸宅ごと接収され、西洋近代美術館(旧モロゾフ邸)に統合された。レニングラードのエルミタージュ美術館から多くの美術品がモスクワに移され、これを統合して「国立モスクワ美術館」に改組された。1937年に詩人プーシキンの没後100年を記念して「国立プーシキン美術館」に改名されて、今日に至っている。旧友Y君と二人で、この「プーシキン美術館展」を見学に出かけのは5月18日であった。当日は、思いがけない「65歳以上無料」の日に当たり、高齢者集団の混雑する中の1名として、無料で参観出来ることとなった。この美術展が日本で開催されたのは、今年が「ロシアにおける日本年」「日本におけるロシア年」に当たり、国立プーシキン美術館の所蔵品による「プーシキン美術館展ー旅するフランス絵画展」を開催することとなったのである。この展覧会は、風景画に焦点を当てたものであった。この企画は17世紀から20世紀のフランス絵画における風景画を紹介することが目的であつた。西洋画において、風景画の地位は極めて低いものであり、宗教美術を頂点とする絵画の序列の中では最下位に近い位置付けであった。しかし、フランスにおいてバルビゾン派の台頭や、19世紀の新しい絵画の道、印象派やポスト印象派の誕生・隆盛により、風景画の地位は高まった。65作の秀作が展示されたが、私は19世紀から20世紀にかけて、馴染みの深い作家中心に解説を試みたい。なお「プーシキン美術館展」を是非観たいという要望は、旧友Y君からの声で、「ロシアを訪ねた際にプーシキン美術館を見たから」という理由であったが、私は、中でもモネの「草上の昼飯」を視たいという願望で見学したようなものである。

山の小屋 ギュスターブ・クールベ作 油彩・カンヴァス  1874年

1871年3月、普仏戦争敗北後のパリに、労働者階級を中心とした、いわゆるパリ・コンミューンが樹立された。4月にクールベはその議員に選ばれ、革命側に立って活動した。しかし、間もなくコミューンがヴェルサイユ政府軍により鎮圧されてからは、クールベは、ヴァンドーム広場のナポレオン記念円柱を破壊した責任を問われ、サント=ベラジー監獄に抑留されてしまった。1873年には円柱再建の賠償金として財産が差し押さえられ、身の危険を感じたクールベはスイスへの亡命を余儀なくされた。雪で覆われたアルプス山脈が遠く背景にそびえる、慎ましやかな山小屋の風景である。亡命先で手掛けられた本作品は、クールベ晩年を代表する1点である。軒先に干された洗濯物、煙突から上がる煙は、そこでクールベが営んだ日常生活を偲ばせるものであろう。1877年、故郷オルナンに思いを馳せつつ、失意のうちに58歳の生涯を閉じることとなった。

刈り入れする人 レオン=オーギュスタン・レルミット作 油彩・カンヴァス1892年以前

レルミットはミレーからの影響を受けて、もっぱら農村部の日常生活を絵に描いていった。油彩に限らず、木炭やパステルを積極的に取り入れた点で、新しいタイプの農民画家であったと言えるであろう。黄金に輝く麦畑で刈り入れ作業にいそしむ二人の女性を描いたものである。農作業にともなう苦労はあまり強調されず、むしろ自然と共に生きる、農婦たちのたくましさに焦点が当てられている。クールベ的な写実主義を見る観がある。レルミットの作品は、同時代の画家たちからも注目を集めていたそうである。とりわけフィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)は熱心な受容者の一人であり、ゴッホは、画商であった弟テオに、その複製画を送るようにしばしば依頼したことが図録に記されている。(ゴッホの手紙「岩波文庫中巻、下巻」では見当たらない)

庭にて ムーラン・ド・ラ・ギャレットの木陰 ピエール=オーギュスト・ルノワ-ル作 油彩・カンヴァス 1876年

パリの街の北端にあるモンマルトルの丘は、パを見下ろす絶好の地である。19世紀後半には、パティニヨール地区を含むこのあたりがパリ市に編入されるまでは、畑や風車のある郊外の田舎の村であった。産業革命の影響で風力より蒸気機関が動力源として有力になると製粉業を営んでいたドブレー親子は、風車だけを残して、製粉小屋を田舎風の舞踏場に改装した。城壁で囲まれていた古いパリ市との境界線上にある地域には、舞踏場や安い居酒屋などが軒を連ね、庶民の憩いの地になった。モンマルトルの丘の中腹にあるムーラン・ド・ラ・ギヤレットの舞踏場は特に有名であった。1876年にルノワールの名作「ムーアン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」を描き、2017年に初来日した。(2016年8月9日「黒川孝雄の美」参照)この「庭にて」は、「舞踏場」を描く準備段階で描かれたものと思われる。「舞踏場」の前景に座る女性のドレスは、本作品に描かれる青いストライプのドレスとよく似ていいる。ルノワールは親しい友人たちにしばしばモデルを依頼し、近代生活を楽しむパリの人々を描いていた。この集まりに指し込む陽光や人物たちの重なり合うような配置は、彼らの親密さを強調しているようである。印象派の特徴の一つに戸外制作が挙げられるが、「舞踏会」と同様に、戸外制作ののち、適切な光のもとでアトリエで手直しがなされたと思われる。

草上の昼飯 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 130×181cm 1866年

私は、オルセー美術館展(2014年)で、この絵の巨大な作品を見て、「黒川孝雄の美」(2014年8月11日)に記している。「モネは1865~66年に大きな「草上の昼飯」に取り組んだ。モネはまず準備習作に取り組み、次いで秋にはパリのアトリエで大きな絵画(縦4M、横6M以上)を制作した。この作品にはエドュアール・マネに対しての挑戦でもあった。1866年のサロンに出品されるはずであった。しかし、モネは絵を完成させることなく、アルジャントュイュの債権者へ預けた。そしてモネが1884年に買い戻したときには、湿気の多い地下室に保管していたことで傷んでしまったことが分かったので、二つの断片に切り分けたのである。しかしながら、左と中央の部分の二つの断片が残されていて、これは幸いにオルセー美術館のコレクションに入り、今日では隣り合っている。」今回のプーシキン美術展では、この完制作が見られるということが最大の話題であり、私自身も大いに楽しみにしていた。また、主催者も、この絵が最大の話題になることを期待しているように、案内書の写真は、モネの「草上の昼飯」であった。この作品は、上記の「創作準備に取り組み」とある、準備作品(下書き)を完全に仕上げて、ロシアのコレクターに売ったものであろうと思う。(諸説あり)完全に完制作として創られていた。モネの作品を見ていて、一番左に位置する画家はモネ、その隣はモネの妻カミーユと思う。不思議なのは右端の白樺に書かれたPと言う文字と、ハートのマークに矢印が突き刺さっていることである。何かを象徴するものだろうが、私には不明である。もうひとつ、白樺の右下に一人の紳士が潜んでいる。誰か?目的は?いずれも不明である。パリからピクニックに来た若者たちの楽しむ風景は美しいが、不明な点も多い絵である。縦130、横180cmの意欲作であり、当日の一番人気の作品であった。

ジヴェルニーの積みわら クロード・モネ作油彩・カンヴァス 1884~89年

1883年4月、モネはパリの北西65キロほど離れたジヴェルニーに家を借りた。この地は余程気にいったのであろう。モネは7年後にその家と土地を買い取り、1926年に86歳で亡くなるまで、この地で過ごした。さて、この「積みわら」の絵は、丘とポプラ並木を背景に、陽の当たる場所に丘とポプラ並木を配し、日陰には大きく干し草の山が描かれている。日陰の大きな積みわらに灰色がかった縁取りが施されており、モチーフの周りで揺れ動く光や大気に対するモネの関心の高さが読み取れる。同じような角度から、同じポプラと積みわらを描いた2点の作品が残されているそうである。この連作という行為は、ジャポニズムの大きな影響だろうと思う。北斎の富嶽三十六景等に触発されて、この時期、連作がいろんな作家が描いている。典型的なのは、同じ時期に制作された「エッフェル塔三十六景」という作品等であろう。(「北斎とジャポニズムー2017年」)

白い睡蓮 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス  1899年

ジヴェルニーに移り住んで10年を経た1893年、モネは自宅に隣接した土地を購入した。そこに水を引き、睡蓮を育てて、太鼓橋をかけ、自邸の庭に自らの理想の風景を造り上げていった。1897年、モネは敷地内に第二のアトリエを建設し、睡蓮をはじめとする庭のモチーフに精力的に取り組んで行く。最晩年までに200点以上もの作品に睡蓮を描くが、この作品はその初期に当たるものである。この太鼓橋を描いた図は、ポーラ美術館でも見た。1899年から1900年にかけて、モネは睡蓮の浮かぶ池に太鼓橋が架かる風景を18点てがけているそうである。ポーラ美術館の作品は18点の内の1点であろう。所で、印象派作家と呼ばれる作家は多いが、最後まで印象派を貫いたのはモネ1人だと私は思う。例えば、ルノワールはイタリア旅行を契機に、印象派から離れて、人物等を多く描くようになった。モネは印象派の指導者と目されるが、ただの1回も印象派展に出品したことは無く、常に官展を狙っていたのである。モネが印象派の指導者であることは間違いないが、決して徹底した印象派作家ではなかったと言うのが、私の持論である。

ブーローニュの森 アンリ・マチス作 油彩・カンヴァス 1902年

19世紀後半、パリを起点に鉄道網が発達した。大都市パリに住む人々は、気軽に郊外でレジャーを楽しむようになり、自然に触れながらつかの間の休息を楽しみ、画家たちはこぞって郊外に滞在、あるいは移り住み、緑あふれる光景を作品にしていった。マチスは大胆な筆使いで差し込む陽光を表現した。木々は固有の色を保ちながらも、形態はやや単純化され、陽光は幅の広い筆触で大胆に小道に指し込んでいる。一定の広がりをもった濃淡のある色彩の塊が、風景を形作っている。本作品に見られるこうした力強い色彩の採用は、1905年のフォービズム誕生を予感させるものである。

サント=ヴィクトワル山、レ・ローブからの眺め ポール・セザンヌ作 1905~6年

(サン=ヴィクトワール山、レ・ロープからの眺め)(1882-85年)から20年ほど経て制作された、最晩年の作品の一つである。2点の作品を較べると、色彩や筆触、山の様子と距離などが大きく異なり、画家の風景に対するまなざしと表現の変化がよくわかる。1902年に63歳のセザンヌが念願のアトリエを構えたレ・ロープの丘は、高い位置からサント=ヴィクトワール山をのぞむ未払台に近かった。丘から眺めるサント=ヴィクトワール山は、10点ほどの油彩画と17点ほどの水彩画に描かれるほか、数枚の数枚の絵がカンヴァスに残されている。前景の木々やふもとの家には具象的な形態を表す線を認めることができるが、抽象的といえる画面が構築されている。こうした最晩年のセザンヌの表現は、キビュズムの画家たちに高く評価されていった。

マタモエ、孔雀のいる風景 ポール・ゴーガン作 油彩・カンヴァス 1892年

1891年4月、ゴーガンはタヒチ島へと出航した。出発前にその動機を、「文明の影響から解放されて、心静かに暮らすために行く。私は単純な、ごく単純な芸術しかつくりたくない。そのためには、汚れない自然の中で自分を鍛え直し、野生の人にしか会わず、彼らと同じように生きる」必要があると述べていたが、タヒチ島にはすでに近代社会の影響が及び、ゴーガンが考えていた以上に西洋式の暮らしが広まっていた。しかし鮮やかな色彩や見慣れない素朴なモチーフの数々に魅せられてゴーガンは、ときに豊かな想像力を駆使しながら、美しい風景を描いていく。本作品は、最初のタヒチ滞在の早い時期に制作されたと考えられる。山や地面には不定型の鮮やかなな色の面が広がり、幻想的な熱帯の風景が生み出されている。装飾的な画面には、パンダナの葉で覆われる小屋、高く優雅に伸びるココナッツの木、孔雀など異国的なモチーフが配されている。

馬を襲うジャガー アンリ・ルソー作 油彩・カンヴァス 1910年

私の先生である福島繁太郎氏は「近代絵画」の中で、次のようにルソーを表している。「穏やかな、純真な、そして誰もが親しみやすい美しい詩は、老いたる天使と言われた無教育の聖者アンリ・ルソーの単純な心に安住の住居を見出している。」と解説している。そして、「ルソーの主題は、自分が身近に感じたものに限られている」と述べたあとに、次の文章を書き足している。「ルソーは青年時代、マキシミリアン応援の仏軍に軍楽手として加わりメキシコに渡ったが、温帯のフランスばかりで生活し、又知識も狭い彼にとって、熱帯の激しい雰囲気は偉大な脅威であるばかりでなく、恐怖でさえあった。この脅威の追憶が熱帯の空想画となって現れたのである。」この教科書通りの絵画が、プーシキン美術館にあったことには驚いた。ルソーは1890年初めに描いたジャングルを舞台とした風景を、1905年頃から再び手掛けるようになったのである。中央に動物を配し、熱帯の植物がそれを囲む構図は、彼の多くの作品に繰り返され、「馬を襲うジャガー」も同様の構図が採用されている。アンリ・ルソーの絵が、プーシキン美術館の展示会の終わり頃に登場して、懐かしさと、意外感に襲われた。

 

プーシキン美術館の「旅するフランス風景画」展は、非常に幅広い風景画を含んでいた。17世紀から20世紀にかけての風景画であったが、取り上げたのは、殆ど印象派とポスト印象派と呼ばれる画家であった。やはり、印象派は懐かしい、書き易い作品が多いからである。65点を見終わって、感じたことは保管状態が極めて良く、新しい印象が強かった。一番関心が高かったのは、当然、モネの「草上の昼飯」である。オルセー美術館の二枚に別れた、巨大な作品(4M×6M)を見てきた私にとって、鑑賞した作品はは小さいという印象であった。しかし丁寧に見てみると、思いがけない発見を幾つかした。右端の白樺に書かれたPという文字(誰かのイニシャルか)、ハートマークに突き刺さった矢印はどんな意味か、更に白樺の木陰に隠れた紳士は誰か?など謎は多い。しかし、オルセー美術館で視た、無残な絵が、小さいと言え、完制作が見られたことは幸せであった。更に、アンリ・ルソーの「馬を襲うジャガー」には驚いた。アンリー・ルソーは、もっと前の時代の人といおう印象であったので、最後の、フォーブの時代の作品の中に1点、見事なルソーの作品は意外感で一杯であった。私が、今まで見たルソーの絵は、20年ほど前の19世紀終わり頃の作品が多く、まさか20世紀の作品が出てくるとは思わなかったのである。

 

(本稿は、図録「プーシキン美術館ー旅するフランス絵画  2018年」、図録「オルセー美術館ー印象派の誕生ー描くことの自由  2014年」、福島繁太郎「近代絵画」、吉河節子「印象派の誕生」、中野京子「印象派で近代を詠む」、日経大人のOFF2018年一月号、朝日新聞・記念号「プーシキン美術館ー旅するフランス風景画」を参照した。