ボストン美術館 俺たちの国芳 わたしの國貞

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ボストン美術館は5万2千枚という膨大な浮世絵コレクションを有している。それはウィリアム・スタージス・ピゲローが、1911年(明治44年)にボストン美術館へ寄贈した日本美術コレクションがスタートであった。ピゲローが日本へ来たのは、明治15年(1882)のことである。ピゲローはコレクションの大部分を1880年代に集めた。これはボストン美術館にとって大変な幸運であった。19世紀の最も優れた日本の版画は、北斎や広重と考えられており、国芳、国貞は「退廃的」として退けられていた。ピゲローのコレクションの内、群を抜いていたのは、歌川国芳(3千枚以上)、歌川国貞(9,000枚以上)であった。現在では国芳、国貞の作品は、世界中で愛されているマンガやアニメの原型と目され、評価は極めて高い。歌川国芳(寛政9年~文久元年ー1797~1861)は、江戸で染物業を営む柳屋吉左衛門の子として生まれた。15歳で初代歌川豊国の門人となった。文政年間の「水滸伝」シリーズで好評を得て、人気絵師となる。力強い「武者絵」をはじめ、洋風画の陰影法を取り入れた「名所風景図」、さまざまな着想による「戯画」などで有名である。19世紀の浮世絵界を代表する一人である。歌川國貞(天明6~元冶元年ー1786~1864)は、江戸の本所五つ目の渡し場を経営する亀田屋の角田肖兵衛の子として生まれる。初代歌川豊国に入門したのは15,6歳頃と考えられている。早くから画才を発揮して、役者大首絵などで好評を博した。文政12年(1829)から売り出された柳亭種彦作の合巻「偽紫田舎源氏」の挿絵が評判となり、この挿絵の主人公の姿を独立させて錦絵として売り出したところ、これも人気を呼んで、「源氏絵」という浮世絵の新しいジァンルを生み出すこととなった。2代豊国を称した後は画風が類型化したとも言われるが、歳晩年の役者大首絵シリーズは、役者の姿を余すところなく描くことに長けていた國貞の、集大成とも言える作品である。なお、国貞は2代目豊国と称したが、すでに初代に養子に入った豊重が2代目を襲名したため、今日では3代豊国として区別している。文化期(1804~18)の浮世絵は、それまでの歌麿(文化3年、1806年没)の美人画や勝川派の役者絵の代表される寛政期(1789~1800)から世代交代して、歌川豊国の主導するところとなり、豊国は役者絵・美人画の双方で人気を博し、門人も多く、一門を率いて幕末に至る歌川派の一大潮流を築いた。国芳より11歳年長の兄弟子、国貞は国芳の入門以前の文化4年(1807)には、既に非凡な画才によって一門の中でも師に続く位置を占めていた。後に国貞、国芳と共に活躍することになる広重は国芳と同年の寛政9年(1789)の生まれである。(bunnkamuraで6月5日まで)

「通俗水滸伝豪傑百八人之一人浪裡白跳張順」 歌川国芳作 文政10~天保元年(1827~30)

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国芳は豊国門下となったが、文政10年(1827)までいい仕事に恵まれず、甚だ困窮した時代を過ごした。その頃の国芳を評する言葉が残っている。「其性放蕩不羈にて親族にも見限られし程に有しとぞ」と「広瀬六左衛門雑記」に残っている。美人画、役者絵は兄弟子の国貞の牙城であったからである。20代のころ、商人で狂歌師でもある梅屋鶴寿(かくじゅ)という最大の後援者を得たのち、江戸に水滸伝ブームが訪れ、国芳の転機となった。中国の奇譚「水滸伝」は、「通俗忠義水滸伝」、「新編水滸伝」、「傾城水滸伝」、「通俗水滸伝」などさまざまなシリーズが出版された。「水滸伝」が錦絵として取り上げたのは、初めてである。豪傑の勇猛な姿を描くこのシリーズは、国芳の浮世絵師としての地位とともに、浮世絵の「武者絵」というジジャンルを確立した作品である。水練の達人である頂順(ちょうじゅん)が単身敵城に忍び込み、湧金門(ゆうきんもん)の水門を破ったものの、敵兵に集中攻撃を浴び壮絶な最後を遂げる場面を描いたものである。

「国芳もよう正札附現金男野晒梧助」 歌川国芳作    弘化2年(1845)

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山東京田の「本朝酔菩提全伝」巻四・五に登場する野晒梧助(のざらしごすけ)を描く。梧助が身にまとう髑髏模様(どくろもよう)の衣装は、「人の災いを省くこと髑髏目中の草を抜くがごとく」というモットーを意匠化したものである。初代豊国による「本朝酔菩提全伝」挿図によって定着した。国芳はこれを継承しつつ、それぞれの髑髏にネコたちが寄せ合って形作られるという、彼ならではのユーモアを盛り込んだ。張り詰めた漢気に、健気なまでの愛嬌を融合させた、伊達男の像の傑作である。

「当世好男子伝」松 歌川国貞作     安政5年(1858)      「九紋龍支進に比す のざらし梧助」三代目市川市蔵、「花和尚魯智真に比す朝比奈藤兵衛」初代中村福助、「行者松に比す 腕の喜三郎」初代河原崎厳十郎、大判錦絵3枚続

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「当世好男子伝」は、安政5年(1858)7月から翌年8月にかけて3回売り出された。松、竹、梅を背景にあしらう三枚ずつの揃物で、全9枚からなる。日本の侠客に扮した歌舞伎役者の肖像を、中国の通俗小説で、江戸後期の日本でも人気が高かった「水滸伝」の登場人物に見立てて描いたものである。

「相馬の古内裏(そうまのふるだいり)」歌川国芳作  弘化元年(1844)「相馬の古内裏に将門の姫君瀧夜妖術を以て味方を集むる大宅太郎光国妖怪を試さんと茲に来り竟に是を亡ぼす」 大判錦絵3枚続

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江戸時代の読み物で、平将門没後の後日譚「善知鳥安方忠義伝」(うとうやすかたちゅうぎでん)の一場面をダイナミックに描いたものである。下相馬(現茨城県辺)にかって将門が築き、朽ち果てた古内裏で、平安時代の武将源頼信の家臣大宅太郎光国(画面中央)が、妖術を操る将門の姫君瀧夜叉と対決する緊迫した場面である。光国が姫を守ろうとする荒井をねじ伏せたとき、御簾(みす)を打ち破り巨大な骸骨が襲い掛かる。国芳は迫力あるバケモノに変更することで、見るものの度胆を抜いた。骸骨を詳しく描き込む国芳は、西洋から伝わった解剖書の挿絵を参考にしたと考えられる。いかにも幕末に相応しい錦絵である。

「讃岐院(さぬきいん)眷属をして為朝(ためとも)をすくふ図」 歌川国芳作 大判錦絵3枚続  嘉永4,5年(1851,52)

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平安末期、皇位継承に関わる内戦の保元の乱(1156)で、崇徳上皇に味方して敗れた強弓の武将、鎮西八郎為朝が活躍する伝記小説「鎮西弓張月」(ちんぜいゆみはりづき)の一場面である。父の仇、平清盛を討つため出帆した為朝の舟は、暴風雨のために難破した。妻の白縫姫(画面右下)は身を投じて、海を鎮めようとする。自分の悲運を嘆き、切腹しようとする為朝(画面左)を、讃岐院(崇徳上皇)が遣わした鴉天狗が捺しとどめる。その時、為朝のために忠死した家臣高間太郎とその妻(中央部)が乗り移った巨大な鰐鮫(わにざめ)が海中より現れ、嫡子の昇天丸(すてんまる)を抱える喜平治を背に乗せ救い出す。この国芳が生み出す奇抜な構図によって、江戸の人々は壮大な架空戦記の世界に一瞬で虜になっただろう。国芳の創意は、この3枚続きの図面法に革命をもたらした。従来の3枚続きは、それぞれの1枚が独立していたが、国芳は、3枚続きの画面全体を、完全に一個のワイドスクリーンとして意識し、思い切った独創的構図をそこに展開したのである。この錦絵の金属片を敷き詰めたような鱗(うろこ)や鋸状の歯も生々しいワニザメの異様な実在感は、国芳の想像力が、オランダ輸入の生物図鑑の類にでも載せられていた精巧な魚類の銅版画に触発された、おそらくその産物だろう。勿論、鰐鮫は架空の動物である。また、白く見える鴉天狗は、讃岐院の使者であり、神の代理であるから眼に見えないように薄い灰色で塗ってある。異時間を1枚にまとめる同図である。

「木曽街道六十九次之内下諏訪 八重垣姫」 歌川国芳作 大判錦絵 嘉永5年(1852)

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木曽街道六十九次は、木曽街道の宿駅名を語呂合わせなどで歌舞伎や浄瑠璃の物語と関連付け、その一場面を描くシリーズである。全71枚、目録1枚の揃物である。本図は、「本朝廿四孝」(ほんちょうにじゅうしこう)の奥庭狐火の場面である。この物語は竹田信玄と上杉謙信の争いを軸に、両家の子弟同士の恋愛模様を織り交ぜ描かれる。近松門左衛門の浄瑠璃「信州川中島合戦」をもとに脚色された作品である。コマ絵は竹田菱。湖を駆ける姫の躍動感が複数の狐のシルエットによって巧みに表現されている。

「大当狂言ノ内 八百屋お七」 五代目岩井半四郎  大判錦絵 歌川国貞作 文化11,12年(1814~15)

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かって役者絵は鳥居派・歌川派の浮世絵師によって描かれてきたが、初代豊国の登場により歌川派が台頭し、文化年間(1804~18)後半から幕末まで、その門弟・国貞が主流を占めることになった。本図では八百屋お七に扮するのは、文化~天保期を代表する女形の五代目岩井半四郎である。そのチャームポイントは「目千両」と呼ばれたまなざしで、本図もその鮮烈な印象を与えている。

「欠伸人物更紗(あくびどめじんぶつさらさ)十四人のからだにて三十五人にミゆる」歌川国芳作 大判錦絵 天保13年(1842)

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奇々怪々、複雑に絡み合った男たち。股引や褌姿の者がほとんどで、中には腹掛け姿の大工も見える。男たちは立烏帽子を被った武士や公家、盲目の座頭など身分もさまざまで、若者から年配までえ年齢も幅広い。タイトルに更紗とあるように、人物たちが織り成す複雑な形が背景の水色に映えて更紗の模様のように見える。更に面白いのは、副題に「十四のからだにて三十五人にミゆる」とあるように、単純に数えられる頭数より体の数が多く描かれているところである。

「当世三十弐相(とうせいさんじゅうにそう)よくうれ相」 歌川国貞作 大判錦絵 文政4,5年(1821,22)

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想い人からの文を読む女性像である。「よくうれ相」とあるので売れっ子の芸者なのだろうか。男が宛てた手紙に良からぬことが認めてあったとみえ、口から覗く白い歯でクシャッと潰した一枚を強く咬んでいる。嫉妬なのか、怒気なのか、文を持つ手に力がこもるが指先が艶めかしい。一際目を引くのは異国情緒あふれる更紗の帯である。恋に生き、いかにもエキゾチックなお洒落に身を包んだこの芸者は、客の目にもさぞかし魅力的に映ったことだろう。なお、今様江戸女子姿は「当世三十二相」は全部揃って展示されていた。

「山城 宇治川蛍狩之図」(やましろうじかわほたるとりのず)国貞、広重作 大判錦絵 文久元年(1861)

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柳亭種彦の合巻「偽紫田舎源氏」の流行に触発され数多く刊行された錦絵「源氏絵」のひとつである。国貞が人物を、広重が風景を描く。宇治川の蛍狩を主題とする本図は、合巻の筋とは関係ないが、合巻の本歌である「源氏物語」の最後、橋姫から夢の浮橋までの「宇治十帖」は宇治が主要な舞台であり、このイメージが本図の成立に影響したものであろう。

 

江戸の男たちが熱狂した歴史伝奇小説に登場する英雄屋異形のものたちは、現実世界のものではない。しかし、男たちは、国芳の生み出す荒唐無稽な世界に没入することで、巨大な生物が画面の中で動き回る実感を得て、ヒーローの生き方に強く共感した。また、力強いポーズや彫物は、男たちの心中に抱くべき男気の象徴として、自然に心中に浸透していった。そして国芳の絵をみた男たちは、同好の士が集まって「俺たち」の国芳を熱く語りあったのである。国貞の絵を見る女性は、そこに、それぞれが求める最新のファッションを見出して、自らの生活を彩る新たな道具を買い求める心情を持たざるを得ないだろう。まさに映画やドラマのなかで、華やかに活躍する登場人物の服装や髪形やメイクの仕方、そしてインテリアなどの家具をみて、自らの暮らしに彩りを加えたいと願った。「わたし」の国貞の浮世絵を手にとる女性は、憧れの俳優に思いを馳せ、次に出掛けるときの着物や化粧法に心躍らせることになったのであろう。国芳を乱調の美とするならば、国貞は、いわば洗練された「型」の美と言えよう。清長、歌麿、写楽らの活躍した天明・寛政年間(1781~1802)を、浮世絵の「黄金時代」と呼び、以後のいわゆる末期浮世絵を北斎、広重の風景画を除いては、衰退、退廃として低く評価する、今までの浮世絵史観は、そろそろ見方を改める時期である。今回の展示会は、その意味で意義のあるものであった。幕末は、激動の時代であった。安政期には日本各地で大地震が頻発し、安政2年(1855)には江戸を巨大地震が襲い甚大な被害が出た。そして嘉永6年(1853)ペリー率いるアメリカ海軍の黒船が来航した。人々の不安が高まった陰鬱な時代であった。こんな時代には国芳、国貞の浮世絵がもてはやされたのである。困難な社会状況の中でも、絵師や版元は、人々が求める浮世絵を描き、人々は一抹の享楽をその絵に求めたのである。

 

(本稿は、図録「ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳、わたしの国貞」、図録「大浮世絵展  2014年」、岩切友里子「国芳」、辻惟雄「奇想の系譜」を参照した)