マリー・ローランサン美術館  都心に開館

マリー・ローランサン美術館は、東京でタクシー会社グリーキャブを設立した高野将弘氏が、1996年はじめてヨーロッパ旅行の折、パリの画廊にてマリー・ローランサンの作品と出会ったことから始まった。5人の息子に恵まれたが女の子を得ることが出来なかった高野氏にとって、その作品を手にすることはまるで自分の娘ができたかのような感覚であったろう。その画家の生涯を学び、その絵から物語を感じた高野氏は、将来美術館を建てようととの野望もなしに彼女の作品の蒐集を始めた。画家の誕生百周年を紀念して長野県蓼科高原のホテルに付属するマリー・ローランサン美術館を設立した。2011年に諸般の事情により、残念ながらホテルも美術館も惜しまれつつ閉館に至った。フランスパリ市マルモッタン=モネ美術館での回顧展を経て、日本全国各地の美術館を巡りながら、マリーローランサン・ファンを確実に日本中に広げた。私は、たまたま府中市美術館で2015年10月に、この展覧会を観て、改めてマリー・ローランサンの美術家としての歩みを同美術館の音ゆみ子学芸員の「マリー・ローランサンの歩んだ道」という研究論文を読んで知った次第である。全国を巡回するこの作品類の将来を案じておった所、たまたま日経新聞2017年8月3日(夕刊)の展覧会情報で、このマリー・ローランサン美術館が、東京都心のニューオータニ・ガーデンコート内に「マリー・ローランサンが東京にお引越し」というキヤッチ・コピーで掲載されているのを発見して、正に天にも昇る気持ちになった。抒情と官能の独特の世界に生きた女性画家マリー・ローランサン(1833~1956)の、世界で唯一の専門美術館が、都心に腰を下ろしたのである。現在の収蔵品は、ローランサンの初期から晩年に到る油彩・水彩・デッサン・版画・挿絵その他、600点以上の作品を網羅している。また貴重な写真や書簡などの資料の拠点となっている。これこそ、世界唯一のマリー・ローランサン美術館(専門)である。なお、第1回の美術展は11月12日までで、その後は、また代わった企画で展覧される予定である。油彩画の主力作品が展示されているので、是非一度足を運んで頂きたい。

自画像  マリー・ローランサン作  油彩・板絵   1904年

マリー・ローランサンは、世紀末のパリで生まれた。未婚の母親と二人暮らしであったが、教育熱心であった母親の方針で、良家の子女の通う女学校に入学したが、本人曰く「世にもなまけものの生徒」だったらしい。やがて女学校を卒業する頃、ローランサンは「画家になりたい」という希望を持つようになった。1904年(21歳)で、画家のフェルナン・アンベールの画塾に通うことになった。画塾では彼女が望んだ本格的な美術教育、すなわちデッサン等の基礎教育の習得が出来た訳ではないが、それ以上に重要な出会いがあった。1つ年上のジョルジュ・ブラックとの出会いである。彼は「あなたは才能がある」と言って新入りのローランサンに自信を与えてくれた。そして何よりも、画塾では学べない「新しい絵画」へと眼を開かせてくれたのである。この自画像は1904年の作であり、画塾に入り、本格的に絵画の勉強を始めた頃の作品である。彼女は、自分を陰気で美しくない乙女として描いた。確かに、後年のローランサンの面影はない。

自画像  マリー・ローランサン作  油彩・カンヴァス  1908年

1906年頃、ローランサンはブラックに連れられて、始めて「洗濯船」(バトー・ラヴォワール)を訪れた。後に恋人となるアポリネールやパブロ・ピカソと出会った。彼らの影響でフォービスムの絵画の表現に興味を持った。この自画像は、単純化された素朴な形態で、鋭い描線などから、原色を使った大胆な色彩のフォーヴィスムや、対称をいろいろな方向から見て描くキュビスムの影響が表れているし、自信に満ちている。

家具付きの貸家  マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス  1912年

キュビスムの作家として売り出したローランサンは、根っこの部分で彼らとつながっていなかった。後に「キュビスムの画家にならなかったのは、なろうとしてもなれなかったのです」と自ら語っている。ローランサンの表面的なキュビスムは、他の画家にない独特の魅力を生み出していた。それを最も良く理解したのはアポリネール(評論家)であった。しかし、彼女を先導したアポリネールは、1911年の「モナ・リザ」窃盗事件の容疑者として収監された。結局、この疑いはすぐ晴れたものの、この突拍子もないスキャンダルによって、ローランサンの心は次第にアポリネールから離れていった。ここで描かれている家具付きの貸家とは、家具のついた長期滞在用のホテルのことで、おそらくローランサンとアポリネールが逢瀬を楽しんだ貸家を描いたものであろう。この年(1912年)に二人は破局を迎えることになった。窓辺に向き合い恋人と深刻に語り合う情景は、二人のエンドを意味する場面だろう。

アンドレ・グルー夫人ニコル マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス 1913年

楕円形の画面はピカソやブラックも1911年から翌年にかけて試みている。ニコルはファッション・デザイナー、ポール・ポワレの妹で、室内装飾アンドレ・クルーの妻である。自身もデザイナーであり、夫とともにアール・デコの潮流の中心にいた。彼女はアンデパンダン展に出品されたローランサンの作品を購入して以来、ローランサンの芸術の良き理解者であった。牡鹿にふわりと腰かけるニコラスは身にまとう衣ともども重力から解き放たれた優美な姿である。線の描き方などキュビスムの影響が見られる。しかしパステルカラーは後年のローランサンを予告するようである。キュビスムとは正反対の軽快で優しい世界へ模様替えしたような絵を生み出していたのである。

読書する女 マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス  1913年頃

けだるい様子で机の上の書物に目を落とす女性。白っぽい灰色に、ピンクと水色を加えた色彩、線描を主体にした表現は同時期の他の作品と共通するが、背景のカーテンや女性のターバンなど、わざわざと絵具をにじませる描き方が異色である。この数年後にローランサンは、強い線を表現の中心に据えたキュビスム的な造形を変えようと本格的に模作を始めるが、この作品の描き方は、すでにこの頃からその兆しが始まっていたことえを示しているだろう。つまり、彼女のキュビス画家としての頂点とも言われる1913年にも、キュビスムと、「自分らしい」作風の間で揺れ動くローランサンの姿を見出すことができるのである。

三美神 マリー・ローランサン作  油彩・カンヴァス  1921年

1914年、ローランサンはドイツ人男爵と結婚した。しかし、丁度、その年に、第一次世界大戦が勃発したため、夫とともに中立国のスペイン各地で終戦まで過ごすことになった。亡命生活の中、夫との関係は悪化し、祖国に戻ることも出来ず、私生活の上では苦しい日々であった。しかし、パリの芸術界から離れることが、彼女自身の創作と向き合うことになった。それは結果的に、キュビスム的表現から脱皮する契機となった。さらに1920年代に入ると、輪郭線は完全に消え、ゆるゆるとした形が生まれた。キュビスムとは対極の「ローランサン・スタイル」が生まれたのである。亡命生活を終え、夫であったオットーと別れを告げ、パリに移った年に描いた作品である。亡命中は沈んだ色が多かったが、心機一転、本作のように青空のもと、微笑みのある女性が登場している。三美神とは、ギリシャ神話とローマ神話に登場する三人の美しい女神のことであり、サンドロ・ポッティチェリーの名作で知られる。

私の肖像  マリー・ローランサン作  油彩・カンヴァス  1924年

1924年6月に描かれた自画像である。ローランサンは40代に入っていた。1921年にポール・ロザンベールの画廊で開いた第一次世界大戦後初の個展が成功し、1923年に制作したグールゴー男爵夫人の肖像画をきっかけに、流行の肖像画家として人気が高まっていた。のちに「狂乱の時代」と呼ばれる活気に満ちた両大戦間のパリで、ローランサンは充実期を迎えたのである。それを反映して本作での画家は、伏し目がちながら落ち着きをみせ、ゆったりと佇む。ドレスのピンクと背景の青に見られるパステルカラーがほどよい華やぎをつくり、髪飾りの緑がやや赤みのあるピンク色の唇と補色をなして、アクセントを効かせている。(この絵が、入場券に印刷されていた)

接吻 マリー・ローランサン作  油彩・カンヴァス  1926年

私は、この絵こそ、ローランサン・スタイルの極致を表す絵画であると評価している。1920年前後にスタイルを確立して以来、パステルカラーを中心とした柔らかな色調を用いてきたローランサンだが、1920年代中頃から、黒色を効果的に活かすようになった。それは、あくまでもパステルカラーをより美しく見せるために、引き立て役として黒色を加えたのである。

シュザンヌ・モロー(青い服)マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス1940年

シュザンヌ・モローは、1925年からローランサンの家政婦として働き始め、その後一緒に生活し、ローランサンが亡くなる2年前に養女となった女性である。スザンヌとの二人きりの生活は、大好きな母親ポーリーヌとの二人暮らしに似ていたかも知れない。本作からは穏やかな空気が伝わってくる。ローランサンは1956年6月8日に、心臓発作のため、パリの自宅で息をひきとった。遺志に従い、白い衣装に真っ赤なバラの花と、アポリネール(恋人)から送られてきた手紙の束を抱いて、パリ東部のペーラ=ラシューズ墓地に埋葬された。

シャルリー・デルマス夫人マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス1923年

空前の好景気に湧いた1920年代の「狂乱の時代」は、1929年のニュヨークの株価暴落に端を発する世界恐慌によって幕を閉じた。一変して不安と暗い1930年代に入った。もちろん美術市場も急落し、ローランサンも以前のような派手な生活を送ることはできなくなった。しかし、そうした中で、レジオン・ドヌール勲章シュヴェリエの受賞、さらに作品の国家買上げなどといった公の評価は、50歳代を迎えた彼女を流行作家から一流画家へと押し上げた。女優シァルリー・デルマス夫人の肖像画は、この人物の優雅さや優しい表情を引きたてている。また画面右奥には建物が姿をみせ、奥行きをしめし、構図、色彩ともに工夫を凝らした魅力的な肖像画である。

三人の若い女 マリー・ローランサン作 油彩・カンヴァス 1953年

ギターを弾く女性を中心に寄り添う三人の女性を描いたものである。三人ともローランサンが生み出した世界の住人である。彼女が追及したものは、一枚の絵の中に「愛らしさ」(私は「カワイイ」と呼びたい)を凝縮することであった。立体的なのっぺりではなく、ふっくらとした立体感を加えることで、柔らかな感触を伝える表現を目指したものであろう。晩年は世間との関わりを極力避け、ひとり静かに制作を続けた。自身の絵画世界を深めるために、もはや他人の芸術は必要がないとはっきり気づいたからであろう。

 

 

マリー・ローランサンは「カワイイ」女性を美しく描く画家と思っていた私に、この「マリー・ローランサン展」は思いがけない、ローランサンの世界を見せてくれた。図録「マリー・ローランサン展  2015年」(府中市美術館)に寄せられた音ゆみ子氏(府中美術館学芸員)の「マリー・ローランサンの歩んだ道」によれば、次のような人生を歩いている。父親のいない母子の生活、素人画家がキュビスムやフォービスムの仲間入り、前衛画家の一人として活躍したこと、アポリネールという絵画評論家との恋愛、その恋人が「モナ・リザ」窃盗事件の容疑で逮捕され、このスキヤンダルから恋人と別れ、第一次大戦の前にドイツの男爵と結婚し、ドイツ国籍となり、夫とスペインに亡命、スパイ容疑を掛けられ、夫は酒に溺れ、夫婦生活が行き詰まり離婚、亡命生活の時代にキュビスムから徐々に逃れて、独自のスタイルへ向かったこと等、すべて新知識であった。ローランサンと言えば「カワイイ」女性を描く、「夢幻的」な女性画家と思い込んでいた、自分の無知に驚いた始末である。やはり個人美術展でないと、深堀りできないことを痛感した。なお、私の教科書である福島繁太郎氏の「近代絵画」では、次のようにマリー・ローランサンをまとめている。「フランスでは、女性画家は一括して民衆画家に近いものとして扱うのが一般的である。(中略)この本能的な女性画家の代表者はマリー・ローランサンである。ローランサンはアカデミーに通ったが大した技術を会得したとは思われず、ピカソやアポリネールのグループに加わって、たちまち仲間の人気者となったが、何れにしても、彼女自身はキュビスム風の絵は描かなかった。」このテキストから、ローランサンを理解していた私には、誠に思いがけない人生劇であった。

 

(本稿は ,図録「マリーローランサン作品集 2017年」、図録「マリー・ローランサン  2015年」(府中美術館)、福島繁太郎「近代絵画」、高橋秀爾「西洋美術史」を参照した)