ムンク展ー共鳴する魂の叫び(2)

ムンクの一見未完成に見える絵画は、初期の頃にはノルウエーやドイツの評論家たちの批判の的となった。ノルウエー国外では、1892年のスキャンダラスな成功とともにムンクの名は広まった。ベルリン芸術家協会での個展は、保守的な会員やメディアからの圧力により1週間で閉鎖に追い込まれた。だがこの事件のおかげで、ムンクはドイツをはじめ他のヨーロッパ諸国で画家としての頭角を現していく。そして20年後の1912年には、ケルンで開催された歴史的な分離派展で、ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ダン・ゴッホと言った主動的なモダニストと並ぶ新しい芸術の担い手として招介され、一室が与えられた。ムンクは最も先進的なモダニズムの芸術家の一人ともなされたのである。そして1927年にベルリン国立美術館で開催された画家の大回顧展による確固たるものとなった。ムンクが生計を立てるにあたって、作品の販売よりもむしろ「展示」による入場収入に主眼をおいたことも興味深いことである。1892年、ベルリン芸術家協会で人々の怒りや嘲笑を掻き立て展示会が1週間で打ち切られた「ムンク事件」ー事実ムンクはこの一件で時の人となり、古展がドイツ国内を巡回する機会を得た。この時画家は200マルクの報酬か、チケット売上高の3分の1を受け取るかの選択に迫られ、後者を選んでいる。スキャンダルが反響を呼び、数多くの人々が自分の個展に足を運ぶことを理解していたのだろう。ムンクが死去した1944年、ほとんどの作品がオスロ市に寄贈された。1963年同市に「ムンク美術館」が開館した。現在でもなお、ムンクの芸術は世界中からの関心を集めている。日本でもたくさんの展覧会が開催されてきたが、本展のように、ムンクの初期から晩年までの作品を網羅する展覧会が最後に開催されたのは、20年前に遡る。たまたま、私が見学した「世田谷美術館」で開催された。1997年の「ムンク展」である。

月明かり、浜辺の接吻  油彩・カンヴァス         1914年

男と女は、互いに抱き合い接吻を交わしながら一体になる。男女間の愛は、互いの境界を決壊させる。それは個人が抱える孤独や疎外感に打ち勝つ手段となる。だが、ムンクはその誘惑に決して身を委ねなかった。いくつかの情事や恋愛事件は別として、彼は生涯を通じて独身のままでいた。ムンクが彼自身の創造力を維持することをどれほど望んでいたかがわかる。彼は、芸術家がその力量を十全に発揮するためには孤独でなければならないと確信している。

森の吸血鬼  油彩・カンヴァス         1916~18年

ムンクが生涯にわたりさまざまな方法で再制作し、組み合わせた一連のモチーフを生み出したのは1890年代のことであった。本作品においては、女の吸血鬼と男の犠牲者というムンクの象徴的なモチーフと、「夏の夜、声」に描かれた風景、さらに他のいくつかの主題が組み合わされている。ムンク自身の作品の見本として、繰り返し利用することで、新しい解釈と意味の転換を創りだした。

別離  油彩・カンヴァス             1896年

本作品において、ムンクは別離を迎えた一組のカップルを描いた。女のドレスは砂と一体化し、髪は大気の中に溶け込んでいる。前景の男は重々しさをたたえて立ち、その失意の心が大地に肥沃さをもたらし、血のように赤い植物を咲かせている。別離の情景は浜辺を舞台とした、ムンクの生涯にわたり繰り返し描いた湾曲する風景の中で繰り広げられている。

生命のダンス  油彩・カンヴァス               1925年

場面は夏の夜の海岸である。永遠に続く人間ドラマのように見える光景を満月が照らし出している。ムンクは人生を、誕生と繁殖、そして死が織りなす終わりなき循環と考えている。本作品における主要な人物は、前景に描かれた3人の女性たちである。白いドレスを着た若い女性は、青春期の純真さを表している。性愛が支配する画面中央では、赤いドレスの女性と、彼女に魅惑されたパートナーがダンスを踊っている。右側では、黒い服を着た年配の女性が、人生の終わりに近づきづつあることを表している。

フリードリヒ・ニーチェ  油彩・テンペラ、カンヴァス   1906年

ムンクは、コレクターから本人や家族の肖像画などの依頼を受けるようになった。ドイツの有名な哲学者を描いたこの肖像画は、妹のエリーザベルト・フェルスター=ニーチェによって注文された。ムンクはフェルスター・ニーチェが亡くなってから6年後に、写真をもとに本作品を描いた。ムンクはフェルスター=ニーチェが兄の文章類を管理していた東ドイツの都市ヴァイマールも訪ねている。この肖像画には「叫び」の構図の中心的な二つの要素が取り入れられている。それは画面に斜めに配され、線遠近法の強い効果を生み出している小道と、風景や紅色の空に見られる、うねるような有機的フォルムである。

緑色の服を着たインゲボルグ  油彩・カンヴァス     1012年

この大型の絵画に描かれた女性は、インゲンボルグ・ガウリンである。彼女はムンクのモデルを定期的務めた女性の一人で、数年は家政婦としも働いていた。後の1915年、彼女はノルウエーの画家ソーレン・オンサーゲルと結婚した。本作品は、緑色の色彩研究とみなすことができるかも知れない。ムンクは緑色を補色の紫色と対比させ、極めてヴァラエティに富む色調を展開させている。さまざまな緑色が表されている。ムンクの作品の中では、珍しい色使いである。

疾駆する馬  油彩・カンヴァス           1910~12年

視る者に向かって疾駆する馬を描いた本作品によって、ムンクは絵画の静的な領域の中で最大限のダイナミズムを生み出した。馬が疾駆するスピードは、極端な短縮法や粗い筆遣い、ぼやけた色面、雪のはね返り、そして道から飛びのく人々の姿によって伝わってくる。こうした絵画的な効果は、写真や映画といった新しいメデイアの技術に対するムンクの実験に影響を受けた可能性をうかがわせる。1902年は、ムンクは既にカメラを購入していた。図録にも沢山のカメラ映像が残されている。

太陽  油彩・カンヴァス            1910~13年

ヨーロッパでの評価が高まる一方、ノルウエーでは作品が受け入れられなかったムンクは、長年諸国を転々とし、酒に溺れ神経症に苦しんだ。1909年の個展で国立美術館が作品5点を購入した。ようやく祖国での名声を確立することになった。クリスチャニア大学(現オスロ大学)の講堂壁画は、ノルウエーに帰国したムンクが7年を費やした記念碑的な大作である。3方を囲む巨大な作品群の中心となるのが「太陽」である。強烈な光線が降り注ぎ、爆発的なエネルギーが画面からあふれ出ている。故国を終のすみかにしたムンクは、かってと打って変わった明るい色彩で、豊かな自然や人々の姿を描いた。80歳になるまで、創作への情熱を最後まで燃やし続けた。

星月夜  油彩・カンヴァス           1922・24年

亡くなるまでの30年は、オスロー近郊のエーケリーに邸宅とアトリエを構えた。幻想世界を立ち上げる筆がさえる「星月夜」はここで生まれた。冷えた空気にまたたく星と、オスロの街の灯が美しい。画面左下に控えめに映り込む影はムンク本人とみられる。人間の暗部や負の感情を直接的に訴えた前半の表現とは一転し、急性精神病を乗り越えたムンクは、美しい色彩やエネルギーに満ちた多くの風景画を製作した。

自画像  油彩・カンヴァス            1940-43年

ここに、80歳に届こうとしている老年のムンクがいる。彼は壁いっぱいに自分の絵を飾った部屋の中にいて、ベッドと時計に挟まれて立っている。この柱時計とベッドは、象徴的な意味を持つものとして描かれている。砂時計は伝統的に死を意味するシンボルであったが針も振り子も描かれていない時計は、ムンクに残された時間がもはやほとんどないことを暗示している。一方ベッドは「思春期」や「病室での死」など、愛と死を扱った多くの作品に登場してきたモチーフとして、彼のこれまでの画業を象徴するものであると同時に、もうすぐ彼自身の死の床となるであろうことを暗示している。画面左横にある裸婦像はムンクの画業において欠かせないものであった。これは死に対応する愛の象徴なのかも知れない。

 

エドバルド・ムンクはノルウエーの由緒ある家の生まれである。紆余曲折を経て徐々に名声を高め、国民的画家へと上り詰めた。精神的な病に苦しみ、複雑な内面を抱えていたが、そんな自らを冷徹に観察し、終生自画像を描き続けた。カメラを手に入れ、「自撮り」の写真まで残している。自画像は、彼の芸術家然とした姿を世間に印象づける、効果的な手段であったのであろう。60年に及ぶ画業の全体像を描き出す、素晴らしい展覧会であった。是非、大勢の方に見てもらいたい展覧会であった。

 

(本稿は、図録「ムンク展ー共鳴する魂の叫び  2018年」、図録「ムンク展ー1997年」、朝日新聞 記念号外「ムンクー共鳴する魂の叫び」、高橋秀爾監修「西洋美術史」、福島繁太郎「近代絵画」、高橋秀爾「近代絵画(下)」を参照した)