ルノワール展    印象派時代

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ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841~1919)は、フランス中部の都市リモージュに生まれた。この街は陶器の生産で名高い所であり、父は仕立て職人、母はお針子であった。リモージユは、島崎藤村の「新生」の中に出てくる街で、パリの下宿先であったシモネーの姉を頼って、第一次世界大戦をさけるため、約3ケ月を過ごしたことで、日本人にも馴染みのある街である。ここで生産される陶器は世界でも屈指のものであり、私は2枚の皿を大切に持っている。3歳の時に、一家はパりに移り、ルノワールは父親の意向で陶磁器工房に見習工として入る。絵付けの仕事に従事するが、その腕前は周囲の人を驚かせた。この間に、装飾美術を教える素描学校に通っている。ルノワールのその時代の絵付け燭台がパリ装飾美術館に残っている。工房を辞めたのは、機会化によって手書きの職人が不要になったからである。1861年(20歳)にシャルル・グレールの画塾に学び、そこで後に印象派と呼ばれるシスレー、バジール、モネらと交友を深めた。グレールはサロン(官展)入選を目指すような指導を行ったそうである。1862年(21歳)で国立美術学校に入学し、本格的に絵画を学んだ。ルノワールの職人から芸術家への道を歩み始めるのは20歳頃、1860年頃である。グレールの画塾で学ぶルノワールやシスレー、バジールはモネを介してピサロやセザンヌと親しくなり、彼らはフォンテンブローの森やセーヌ川周辺で一緒に風景画を描いた。もう一人の師は、1863年の落選展でスキャンダルを惹き起こした都会派のマネである。マネはアトリエと住まいをバティニョール地区にもっていたから、その近くの「カフェ・ガルボア」が彼らの集会場所になった。1860年代の印象派予備軍をパティニョール派と呼ぶ。1870年に普仏戦争が勃発し、ルノワールは騎兵隊に入った。モネやピサロは徴兵を逃れるためロンドンに渡った。普仏戦争とパリ・コミューンの動乱の時期が過ぎると、パティニョール派の中で、少なくとも画商デュラン=リュエルの支持を得た画家たちは「僕たちの時代が来た」と感じたかも知れない。主にモネとピサロの尽力で、パティニョール派を中心とした最初のグループ展は1874年に開催された。後に第1回印象派展と呼ばれた展覧会である。ルノワールは、そこに7点出品した。この印象派展は1886年までのあいだに8回開催されたが、ルノワールは最初の3回までは熱心に参加したが、後半は1882年の第7回のみに参加した。第4回展からグループ展に参加しなくなった理由は、出版業者シヤルパンティエn保護と援助を得て、再びサロン出品を始めたからである。しかし、この間にも昔の仲間との友情は続き、作品制作でも戸外風景や近代的な都市風俗など、他の印象派画家たちと共通のテーマの追及を行っていた。

陽光のなかの裸婦 ルノアール作 油彩・カンヴァス1876年 第2回印象派展

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1876年の第2回印象派展に「習作”エチュド”」の題名で出品された。緑の木立のあいだから、少女の上半身に陽光がふりそそぐ。花ひらいたばかりの新鮮な肉体は、むせかえる若葉のなかで,彼女自身まだ意識しない生命の輝きを示す。この神秘を生み出したのは明るい太陽の光である。当時の雑誌「ル・フィガロ」に、批評家のアルベール・ヴォルフが次のような文章を発表している。「さて、ルノワール氏に次のことを説明してほしい。女性のトルソ(胴体)は、死体の完全な腐敗状態を示す、紫色の斑点をともなう分解中の肉の塊ではないことを。」これは旧世代の無理解を示す言葉として有名である。彼は少女の上半身に施された光と影の効果の表現を、彼女自身の肌の固有色だと誤解しているのである。

クロード・モネ ルノアール作 油彩・カンヴァス 1875年 第2回印象派展

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「クロード・モネ(1840~1926)」はアトリエ内で制作する親友の姿をとらえた1枚である。モネのパレットには鮮やかな赤や黄色の絵具が並んでいる。これから草原に咲く花々を描くところなのだろうか。真っ黒な服を着た画家の表情は穏やかで、信愛の情に満ちている。その後の二人の交流は絶えることなく、それぞれの場所でモネの風景画の、ルノワールの人物画の巨匠として大成していく。この絵は、第2回印象派展に出品された。

読書する少女ルノアール作 油彩・カンヴァス1874~76年頃第3回印象派展

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画面の左側からそそぐ光が少女の頭部と顔の右側に当たっている。開かれた本のページからの照り返しも、少女の鼻や口元に反映している。光と影の効果を少女の顔で確認する作業を、画家は小さな筆触や併置(へいち)することによって達成した。エドモンド・ドュランティの言う現代の「生き生きとしたフランスの女性」の好例である。

草原の坂道 ルノアール作 油彩・カンヴァス 1874~77年

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坂の一番上に糸杉かモミの大木が立っている。視線を自然と引き付ける。強い日差しを浴びて、2組の母子が下りてくる。母親がさす日傘は、彼らが都市の住民であることを示唆する。この2組は1組の親子の距離の移動と時間の経過を暗示しているかもしれない。ほぼ全面が草原である。やわらかい独特の筆触で土から生え出る草花が描かれている。モネの「ひなげし」(1873年)と似ている。いずれも印象派らしい作品である。私が最も好きな絵の一つである。

ぶらんこ ルノアール作 油彩・カンヴァス  1876年 第3回印象派展

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モンマルトルの象徴であるサクレ=クレール寺院から西に少し下がったあたりに位置するこのコルトー街に、ルノワールがアトリエを借りたのは1875年4月のことであった。「ぶらんこ」はこのアトリエで描かれたが、そこにはモンマルトルの有名なダンス・ホール、ムーラン・ド・ギャレットからも近く、このダンス・ホールを描いたルノワールの畢生の大作も同じアトリエで描かれている。画面中央で楽しげにぶらんこに揺れているモデルはジャンヌ。ジャンヌは「大きな黒い瞳、赤い唇、明るい栗色の巻き毛」を持った16歳の娘で、ムーラン・ド・ギャレットで彼女を見かけたルノワールは一目で気に入り、渋る彼女とその母親をあの手この手でかきくどき、なんとかモデルになることを了解させたという。このジャンヌは「ぶらんこ」だけではなく、「ムーラン・ド。ラ・ギャレット」でも主要なモデルを務めている。傍らの二人の男性は、ルノワールの弟のエドモンドと画家仲間のノルベール・グヌットではないかとされている。降り注ぐ木漏れ日を浴びながら、楽しげに語り合う男女の姿は、まさに印象派の世界そのものである。だがそれゆえにこの作品が1877年の第3回印象派展に出品された時の観客の反応は、芳しいものではなかった。「レヴェヌマン」紙に掲載された批評は「この作品では太陽の光が非常に奇妙なやり方で処理されており、まさしく人物の衣装に油じみのような効果をもたらしている」と述べている。また、「パリ=ジュナル」紙は「ルノワールはこの会場では多産かつ大胆不敵な画家の一人である。私は彼の”ぶらんこ”を推薦するが、これほどグロテスクで恥知らずな作品もないだろう」とこき下ろしている。しかし、リヴィエールは用語の筆を採っている。モンマルトルの片隅のありふれた庭の情景が、ルノワールの手にかかるとまるで別世界の喜びに満ちたユートピアへと変貌してしまう。そこには安酒場や見世物小屋が立ち並び、あやしげな女たちが街頭にたむろするモンマルトルの猥雑な空気は全く見当たらない。同時代のパリに、そして庶民の生活に取材しながらも、マネやドガとは全く異なる世界を描き出してみせる、もう一人の印象派の画家の姿がここにはある。

アルフォンシーヌ・フルネーズ ルノワール作 油彩・カンヴァス 1879年

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19世紀後半、パリでは郊外へのピクニックが流行した。若きルノアールもセーヌ河畔の行楽地に足しげく通い、新しい絵画を生み出していった。この絵は、シャトーのレストランが舞台で、貸ボート屋を営むフルネーズ氏が1860年に開いた店で、ルノワールは常連であった。麦藁帽子と涼しげなブルーのドレスをまとったモデルは店主の娘である。川をのぞむ2階のバルコニー席でほおづえをつき、優しくほほえんでいる。大陽の光を受けたドレスと、背景の木々、川の色が響き合い、幻想的な雰囲気が漂う。レストランは現存し、バルコニー席も健在で、往時をしのばせる。

ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会 ルノワール作 油彩・カンヴァス 1876年第3回印象派展

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ルノワールの最高傑作とされ、日本では初めての展示である。この舞踏会場の名称は、ムーラン(風車)を建物の目玉にして、入場者にギャレットというクレープのようなお菓子を配ったことに由来する。ルノワールは、この舞踏場の庶民的な雰囲気が気に入り、モンマルトルの丘の中腹にアトリエを借りてこの作品を描いた。現場で制作するために友人たちがカンヴァスを運ぶのを手伝い、モデルの役もつとめてくれた。この舞踏場は庭園でもダンスを楽しむことができた。大きな樹木が木陰をつくり、シァンデリアが輝いていた。世紀末になると、ロートレックやピカソが、この舞踏場の室内の退廃的な雰囲気を描くようになった。男性と踊っているピンクのドレスの女性はマルゴ(ぶらんこのモデル)である。ルノワールはこの絵の制作に1876年春から秋にかけての数ケ月を費やしている。本作品の準備段階にあたる全体図のデッサンがある。ルノワールは完全な現地制作と言っているが、実のところは戸外制作ののち、明らかにアトリエで手直しが加えられている。展覧会場では、この作品の参考のために、沢山の画家の絵画を展覧している。例えばゴッホの「アルルのダンス・ホール」や、同時代の「夜会」、「舞踏会」などの作品である。この作品を際立たせるために、精一杯の努力をしているように感じた。また、十分、その気持ちが伝わる演出であった。兎に角「楽しい」絵画である。

シァトゥーの鉄道橋 ルノアール作 油彩・カンヴァス   1881年

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この絵では、花を付けたマロニエの木々が画面の中心的役割を果たしている。女性も子どももここには見当たらない。植物に覆われた中景に目をやると、麦藁帽子を被った男性がいるのが分かる。ルノワールは、19世紀中ごろからフランスの風景を変えていった工業化に厳しい批判を浴びせようとする当時の風潮のなかにありながら、この作品においてはそのような批判的態度は取っていない。橋は正確に描写されてはいるが、周りを取り囲む植物のなかに埋もれ、調和を乱すこともない。ルノアールは1880年代初期には印象派的な作風を捨てたとしばしば指摘されるが、この作品は、画家の変化の過程が、一般に想像されるよりも複雑で、豊かなものであったことを示している。

田舎のダンス ルノワール作  油彩・カンヴァス   1883年

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「田舎のダンス」と「都会のダンス」は対の作品で、いずれも1883年の制作である。日本で、両作品が揃って展示されるのは45年振りだそうである。実は、今回展示されていないが、「プーシヴァルのダンス」という作品もあり、「ダンス3部作」と呼ぶそうである。この「田舎のダンス」の女性モデルはアリーヌ・シアリゴ(画家の後の妻)、男性のモデルはアンドレ・ロート(友人で小説家)である。画面の左上に女性が持つ扇があり、右下に男性が被っていたであろう麦わら帽子が落ちている。19世紀後半のパリの庶民の間でダンスが流行しており、美術作品でもしばしば取り上げられた。ルノワールは周囲の雰囲気を変えながら、二人の夢の楽園を求めていたのかも知れない。この2点の「ダンス」は、1891年に画商デュラン=リュエルが画廊を飾るために買い入れた。画商は、このルノワールの傑作を展示することはあっても、決して手放すことはなかった。ヨーロッパやアメリカで両作品を展示することはあった。

都会のダンス  ルノワール作  油彩・カンヴァス   1882~3年

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女性のモデル、シュザンヌ・ヴァラドンはまだ17歳、怪我でサーカスを止め、モデルになった。画家ユトリロの母親だが、ルノワールが父親に擬(ぎ)せられたこともある。「田舎のダンス」のモデルの衣装は木綿であるが、「都会のダンス」はタフカスである。前者の場所はラ・グルヌイエール近くのガンケット(居酒屋)、後者は都会のダンス・ホールである。この絵を描いた当時、ルノアールはアリーヌ・シアルゴとラ・グルヌイエールの双方に好意を抱いていたと言われる。さて、両者を較べて、どちらがお好きですか?私は無条件に「田舎のダンス」が好きである。一緒に展覧会を観た家内は、「都会のダンス」の写真を買いました。

 

19世紀後半、産業革命が進んだパリは、地方の労働力を集めて人口が一気に増えた。その時代、庶民の憩いの場として栄えたのが、安い酒を出すガンケット(安酒場)だった。手頃な酒や料理に加えて、ダンス場をそなえた店が流行した。特に多かったのがモンマルトルである。1860年にパリ市に編入されて、家賃は安いので、労働者や画学生が住みついた。ルノワールにとっても、ガンゲットは仲間と過ごす格好の場所だった。1876年、丘の中腹にある人気店「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を舞台にした大作をてがけた。ムーラン(風車)がトレードマークのこの店は、戸外のダンス場が最大の売り物だった。この「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」は、若いルノワールの最高の傑作と言われた。19世紀後半に活躍した印象派の画家は、神話などの伝統的な画題ではなく、同時代の日常生活を描いた点が斬新であった。その筆頭がルノワールである。

 

(本稿は、図録「ルノワール展 オルセー美術館・オランジュリー美術館2016年」、島田紀夫「ルノワール」、現代世界美術全集「第4巻 ルノワール」、日本経済新聞社「美の美」2016年2月14日、21日、28日、日本経済新聞社2016年4月24日、30日、5月2日、4日、6月4日、26日、7月18日「ルノワール展特集」、日本経済新聞社2016年5月16日~24日「ルノワール展から 生命のよろこび1~8」を参照した)