ルノワール展  古典への回帰と成熟

おおよそ12年にわたる印象派の時代、年齢でいえば21歳頃から39歳までの期間だけ見ても、ルノワールの画家としての生活は充実したものであった。それほど、ルノワールの印象派時代の仕事は鮮烈な効果を上げている。ルノワールの天賦の感性が芽生え、育ち、自然に咲き出した第Ⅰ期の活動だった。このまま進めば、おそらく外光一筋の道を歩み、モネ等と同じく印象派画家の態勢をくずさなかったのであろう。しかし、1879年頃から多少とも印象派の自然描写の中にとどまり切れぬ自分を感じていたと思う。ただ外光の中に輝く自然の追及だけではルノワールは満足できなかった。ルノワールの前には人間があり、幼児があり、女がおり、そして裸婦があった。そしてその中に豊かな色の世界があった。すこしずつルノワールは印象派の歩みから離れていくようだった。この年の印象派展覧会に出品しないで、サロンの方へ作品を送っているところを見ると、このあたりからルノワールは、自らの歩みをどこか別の方向へ向けてゆく気持ちになってきた感じがする。1881年、ブージバル近くのセーヌ川で、舟遊びをする人たちの昼飯の大作(本展には出品していない)を最後として、ルノアールは印象派時代に別れを告げることになる。しかし、1882年の第7回印象派展覧会には25点の作品を出品している。この時期に大きな転機が訪れた。1881年の3月から4月にかけて、フランスを去って旅に出かけた。アルジェの町に行き、秋になるとイタリアに渡り、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ポンペイを訪ねた。このイタリア旅行は、ルノワールに深い感動と新しい視野を与えることになった。それぞれの町のルネサンスの画家たちの芸術もさることながら、ルノワールはとりわけ、ポンペイの古代ローマの壁画を見て感動した。単にこの壁画に対して尊敬を捧げるにとどまらず、ルノワールは古典一般に対する関心を高めることになったのである。イタリアの16世紀の画家チェーンニーノ・チェンニーニの絵画論をひもどき、ルネサンス時代の技術を調べ始めた。ルノワールはこうしてこれまでの手法から抜け出て、古典の持つ手堅い「形式」にも心をひかれた。色調の単純化と形体の定着へと進む。その結果、これまであまり目立たなかった線が働きだし、線によって形体が定着するという形式が見られるようになった。(8月22日まで)

猫を抱く小ども ルノアール作  油彩・カンヴァス  1887年

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1887年、ベルト・モリゾ(1841~1895)と、その夫で、画家のエドゥアール・マネの弟でジェーヌ・マネ(1883~1892)は、当時9歳だった一人娘ジュリー・マネ(1878~1966)の肖像画を友人のルノワールに注文した。彼は、一旦この注文を断りながら、結局引き受けた。この肖像画は、ルノワールが作品においてより安定した形態や、より正確なデッサンを追求するようなった転換期に描かれた。この作品はジュリーが亡くなるまでずっと手元に置かれていたそうである。斉藤勝利氏(第一生命会長)は、「印象派の女性画家であるベルト・モリゾと画家マネの弟ウジェーヌの一人娘である。モリゾは溺愛していたジュリーを度々、絵にしている。その彼女がなぜルノワールに娘の肖像画を依頼したのであろうか?抑制の効いた画面、輪郭がはっきりした筆づかいは印象派というより伝統的絵画を思わせる。印象派を経て古典に回帰したルノワールへの評価を誰もためらっている時に、モリゾはいち早くその挑戦の価値を認めた。最愛の娘の肖像を託すことで、友人の背中を、そっと押したのかもしれない」と評されている、誠に的を得た評論だと思う。

ガブリアルとジャン  ルノアール作 油彩・カンヴァス    1895年

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ルノワールは妻アリーヌとの間に3人の息子をもうける。二人目の息子ジャン(1894~1979)が生まれる頃から、アリーヌの従妹ブリエル・ルナール(1878~1959)が、出産の世話をするため家族に加わった。1894年の夏、16歳でシャンパーニュ地方のエッソワからやってきた彼女は、その後20年以上にわたって一家に留まり、子どもたちとともに画家のお気に入りのモデルとなった。赤ん坊を後ろから抱き、牛のおもちゃを動かす10代のガブリエルの垢抜けない雰囲気が、かえって優しい雰囲気を際立たせている。白のベビー服をまとったジャンの生え立ての毛の柔らかさ、甘えた表情。画面のすみずみまで父の愛情に満ち、思わずほほえんでしまう。

道化師(ココの肖像) ルノアール作  油彩・カンヴァス   1909年

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ココの愛称で知られるクロードは、ルノワールの末子となる三男で、1901年に生まれ、兄のピェールやジャンと同様に父のお気に入りのモデルでああった。クロードの肖像画は90点以上を数える。あどけなさの残る表情がかわいらしい。画家は華やかな衣装を好んで着せた。

静物  ルノアール作  油彩・カンヴァス     1885年

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この頃、ルノアールは印象派を乗り越え、デッサンによる古典的な形態把握を目指していた。テーブルクロスの背景に寒色系の色彩を配置し、果物や花の色を引き立たせると同時に、全体として落ち着いた雰囲気にまとめている。ルノワールの作品は知的で厳格なセザンヌとの絵画とは、確かに何もかもちがう。しかし、印象派を経て、再び古典に回帰することで花開いた画風は力強く新しい。まっさきに気づき、絶賛したのはマチスであり、ピカソだった。

モスローズ  ルノワール作  油彩・カンヴァス   1890年頃

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自由なタッチが画面全体を覆うこの絵は、印象派時代の作風に近づいており、バラの形態を把握するよりも、花弁のニュアンスを色彩に置き換えることに関心が向けられているようだ。本作は、外科医で印象派のコレクターであったジョルジュ・ヴィオが1907年まで手元に置いていた。

ピアノを弾く娘たち  ルノワール作  油彩・カンヴァス  1892年

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ルノワールの最も有名な作品である。この主題は、ルノワールは6点描いている。二人の娘たちが寄り添ってピアノを弾きながら、一つのメロディーの中にとけあっている。二人の心持が結んできたさわやかな音調そのものになっている。こういう和らぎの空間をルノワールは愛していた。色と色との調和もこのように和らぎの中に充実することを願っていた。主題は別にとりたてることもない日常の生活の一片であるが、この肌さわりのよい和らぎの感覚をルノワールはどのような色調の中にとらえるかに苦心するのである。赤や青や黄や緑という元色を基調として、これと対比しつつ融合の色感に包むのである。この作品の国家買上げに際して重要な役割を果たした、画家の友人であり詩人であったマラルメは「決定的な絵画、非常にのびやかで自由な、円熟した作品」と評している。

バラを持つガブリエル  ルノアール作  油彩・カンヴァス   1911年

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子供たちの世話役として1894年にルノワール家の一員となったガブリエル・ルナールは、その後も画家のお気に入りのモデルとして約200点の作品に登場する。特に晩年のルノワールは、このガブリエルをたびたび描いていた。ふくよかな肉体が、まさしくルノワールの求める感覚的充実感にぴったりしていたのであろう。上半身だけれども、この肉体はあらわにされた胸のあたりだけでも十分にみずみずしく豊麗であることをうかがわせる。晩年期の作品になると、こういう肉体感を強いて主張するすることなく、自然につぶらかに表現する。この豊かさをさらに一層華麗なバラの花びらによって勢いづけている。きわまりない豪華な官能に向かってルノワールは老齢にもかかわらず、ひたすら没入してゆき、最晩期になってもその作品に新鮮な若さをもっている。

カーニュの風景  ルノアール作  油彩・カンヴァス    1915年頃

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1890年代になると、次第に激しく頻繁に起こるようになった関節炎の発作に苦しんだルノワールは痛みの緩和のために南フランスに滞在した。南仏の陽光に魅了されたルノワールは、とりわけニース近辺のカーニュとその丘の上にある古い町に夢中になった。1898年ないし1899年から何度もそこに滞在したのち、樹齢100年のオリーブが植わった広大な場所をレ・コレットに求めた。ルノワールの描く風景は、色調の調和の中に自然が包まれている。樹木が一つ一つ存在しているのではなく、どの木も、またどの葉も、みな互いに一つの調和の中に溶け込んでいる。そういう調和が微妙な色の関係から生まれている。明るい光と暗い木陰との対称も画面全体の色のリズムをなし、暗い面も色として大きく働いている。印象派以後、陰は決して黒や褐色ではなく、紫とか青とかの色として働き、画面のアクセントとして効果をあげているのである。

浴女たち  ルノワール作  油彩・カンヴァス   1918~1919年

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病に立ち向かっていたルノワールは、プロヴァンス地方のカーニャのレ・コレットの邸宅で、亡くなるまでの数か月を費やして「浴女たち」を描き上げた。78歳で亡くなる直前に仕上げた傑作が「浴女たち」である。豊満な女性が、大地と一つになって微笑みを浮かべた夢のような光景である。画家は最後に何を描きたかったのだろうか。ルノワールのひ孫、ジャックさんは次のように述べている。「オーギュスト(画家のファーストネーム)は、裸婦に美を見出した。それは女性を生命の源と考えていたから。裸婦と大地が一体になった作品は、いわば、生きとし生けるものへの賛歌である。生命や宇宙といった、大きなエネルギーを表現したかったんじゃないのかな」最後は50キロを切るほどやせこけていく画家とは対照的に、カンヴァスの女性はますます豊かに、鮮やかになった。そして最後に描いたのが生命賛歌であったのだ。」

 

ヨーロッパの画家の中で、日本で一番人気の高い画家は、ルノワールだと思う。どこの美術館へ行っても、ルノワールの絵画の無い美術館は無いと言っても過言ではない。大原美術館、岡山県立美術館、ブリジストン美術館、ポーラ美術館など、その所蔵する絵まで思い出すことが出来る。また、どこの家庭でも、ルノワールのポスターやカレンダーはあるに違いない。日本には、雑誌「白樺」等の出版物を通してその名と画風を知り、影響を受けた画家たちが沢山いる。それは岸田劉生、中村彜、赤松麟作、さらには日本画土田麦僊などにまでおよぶ。なかでも梅原龍三郎がカーニュのレ・コレットを訪ねたときの様子は、画家の次男のジャン・ルノワールの回想録の最後に近いページに記している。1908年にパリに着いた梅原はリュクサンブール美術館で見たルノワールの作品に感激し、翌09年2月にレ・コレットのルノワールに会いに行くのである。その年に梅原は、山下新太郎や有島生馬を連れて再度レ・コレットを訪れた。彼らはルノワールの作品を譲り受け日本に請来した。100年以上昔の話である。東京近辺には「ルノワール」と名付けた喫茶店が100店以上ある。落ち着いた雰囲気で、ルノワールの名画の複製を展示している。この落ち着いた雰囲気を好む人が多いのも、店名に由来するのであろう。なおルノワール展の入場者数は50万人を突破した。これも日本人のルノワール好きの結果であろう。

 

(本稿は、図録「ルノワール展 オルセー美術館・オランジュリー美術館 2016年」、島田紀夫「ルノワール」、現代世界美術展「第4巻ルノワール」、日経新聞「美の美、2016年2月14日、2月21日、2月28日」、日経新聞「ルノワール展特集、2016年4月24日、4月30日、5月2日、5月4日、6月4日、6月26日、7月28日、日経新聞「生命のよろこび、2016年5月16日から5月24日まで」、を参照した。