世界遺産”「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群”

第41回世界遺産委員会は7月9日に”「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群”の世界文化遺産への登録を決めた。地元は歓迎一色であった。この登録が決定した遺産群とは、福岡県宗像市の沖ノ島と3つの岩礁(小屋島、御門柱、天狗岩)のほか宗像大社沖津島遥拝所、同中津宮、同辺津宮、と新原・奴山古墳群が一括で登録されたのである。ユネスコ世界遺産委員会は「構成資産は文化的・歴史的に結びついた一体のもので、価値を理解するには全てが必要である」と指摘している。九州北部と大陸の文化交流の拠点であるこの宗像は、玄界灘に面した福岡県宗像市にある辺津宮(へつぐう)、沖合の大島の中津宮(なかつぐう)、そして朝鮮半島と日本のちょうど中間に位置する沖ノ島の沖移宮(おきつぐう)という三つの宮があり、それぞれ三人の女神が祀られている。これら三宮をあわせて宗像大社と呼んでいる。三宮の中でも沖津宮のある沖ノ島は、朝鮮・中国、さらには遠くペルシャといった遠方の工芸品がシルクロードを通して運ばれ、「海の正倉院」と称される内容を持った奉献品を出土したことで知られている。1954年から1971年までの三次にわたる学術調査によって発見され、4世紀から9世紀にわたる沖ノ島出土品約8万点はすべて一括して国宝指定されている。一方、遣唐使の派遣の廃止などをうけ、辺津宮(宗像社)での祭祀が中心となった中世以降も、対外交渉に活躍した宗像大宮司家を中心に宗像三女神への尊崇が続いたことが当時の古文書からも知られる。江戸時代には、宗像大社は福岡藩主黒田家の庇護を受けるとともに、歴代藩主より様々な品が奉納されている。

重要文化財 宗像大社拝殿         桃山時代(天正18年ー1590)

宗像大社の社殿は、遅くとも12世紀末までに築かれたことが判っているが、度々の戦乱などにより焼失し、最後に焼失したのが弘治3年((1557)で、天正6年(1578)に大宮司宗像氏貞により本殿(国宝)が再建され、拝殿(重文)は小早川隆景によって天正18年(1590)に再建された。

重要文化財  宗像大社拝殿  三十六歌仙篇額 36面 江戸時代(17世紀)

柿本人麻呂など三十六歌仙篇額が拝殿に奉納されている。これは黒田藩第三代藩主黒田光之が、延宝8年(1680)に辺津宮に奉納したもので、書は藤原基時(1635~1704)、絵は狩野安信(1614~1685)によるものである。狩野安信は、狩野探幽の弟で、狩野家の頭領となった。のちに江戸中橋に屋敷を拝領し、江戸幕府の御用絵師となり、江戸城などの障壁画制作に係った。絵の技量は探幽に劣ると言わざるを得ないが、著書「画道要訣」(1680)では、狩野派の絵画に対する考え方をまとめ、江戸時代を通して日本絵画史に与えた影響は大きい。本絵馬は、重厚な画風が現れている。

国宝 宗像大社本殿        桃山時代(天正18年1590)

本殿には辺津宮が祀られている。桃山時代を代表する宸殿造りである。特に桧肌葺による曲線が美しいと思う。沖津宮、中津宮も同じ宸殿造りであると言われている。

高宮斎宮                古墳時代(3~5世紀)

宗像大社の横の道をぬけ、背後の宗像山へ昇っていくと、高宮祭場があらわれる。高宮祭場は辺津宮の起源となる古代祭祀の場であるそうだ。この祭祀場は、荘厳な趣きがある。ここより、少し下がった場所に遥かに大島を拝する場所がある。但し、沖津島は、ここからは望めない。

沖ノ島全景

玄界灘の真只中に浮かぶ孤島である。周囲は4km、最高峰一の岳は243m、前面には小屋島、御柱島、天狗岩と島々が浮かぶ。この島は「神宿る島」として人々から宗敬を集めててきた。島の信仰が深まる中で、女人禁制、禊(みそぎ)、島での見聞の口外無用、島内のものの持出無用、一般人の入島禁止など禁忌(きんき)が現れ、今でも厳守されている。この島では、百済との通交がきっかけにヤマト王権による国家祭祀が始まった。当初は巨岩を盤座(いわくら)とし、その上面に祭場を営んでいたが、やがて祭場は岩陰へと移ってていった。岩上祭祀期は弥生時代から古墳時代にかけてである。岩陰祭祀期は古墳時代から磐井の乱の時代にかけてである。露店祭祀期は奈良・平安時代とされている。4世紀初めには、玄界灘と宗像地域に勢力を持った宗像一族が奉斎することとなった。4世紀後半、ヤマト王権と百済の通交開始の際、宗像一族とその信仰の重要性が高まり、沖ノ島でヤマト王権による国家祭祀が始まった。昭和29年(1954)から、昭和46年(1971)に行われた学術調査で、23ケ所の大規模な祭場と約8万点に及ぶ奉納品(国宝)が発見され、この祭祀跡が4世紀後半から9世紀にかけて繰り広げられたヤマト王権・大和朝廷と東アジア諸国との対外交渉に深く関わることが明らかになった。

国宝  三角神獣鏡(さんかくしんじゅうきょう)中国・魏~西晋時代(3世紀)

内区に不老長寿の思想を表す神仙や霊獣の文様を配した鏡を神獣鏡というが、そのうち鏡背の縁の断面が三角形をなす鏡が三角神獣鏡である。わが国では古墳時代前期の古墳から大量に出土し、多くは中国三国時代の魏で製作されれた舶載教と推定されるが、それを模した仿製鏡(ほうせいきょう)も存在する。

国宝 堅玉・水晶・雲母片岩・滑石製棗玉・滑石製臼玉・碧玉・古墳時代

白色を帯びた堅玉勾玉2点のうち、大型品は沖ノ島出土品では最大の勾玉である。碧玉勾玉は出雲の花仙山(かせんざん)産と見られる勾玉5点が含まれる。管玉(くだたま)には経が0・5cm程度のものと、経が1cmの太めの大形のものがある。

国宝 鉄剣、鉄刀、鉄地銀張鎺(てつじぎんはりはばき)古墳時代(4~6世紀)

本作品のうち、鉄製鍔(つば)と銀製鍔の豪華な装具を持つ鉄剣は茎(なかご)の端部近くに目釘孔を一孔穿っている。他の二刀は、倭風太刀で、二振りの捩じり環頭太刀が奉献された思われる。古墳時代前期以来の伝統的な刀剣の外装具の流れを引く倭風太刀の一種で、5世紀に出現した可能性が高い。

国宝  滑石製子持勾玉             古墳時代(4~6世紀)

その名のごとく、比較的大きな勾玉の背・両側面に、複数の小さな勾玉や突起を削り出して形作ったものである。4~6世紀のものであろう。滑石という軟らかい石で作られている。増殖等に関する呪術的な祭具とも考えられている。沖ノ島祭祀では長期にわたって奉献されている。

国宝  金製指輪     朝鮮・新羅時代(三国時代、5~6世紀)

純金製の指輪は、正面中央を上下に突き出るように菱形にした金板を曲げて、正面と反対側で接合し環状に仕上げたものである。菱形状の中心には四枚の花弁を持つ花文があしらわれ、花弁の間には円環を配している。この形の指輪は、韓国慶州にある三国時代新羅(しらぎ)の王陵の出土品に多数類例が見られる。本品は新羅からもたらされたものと見られている。

国宝  カットグラス碗片(わんへん)  イラン・ササン朝時代(6世紀)

気泡を多く持ち、淡い緑色をおびた半透明のガラスの破片は、表面に浮出の円文が施されている。復元すると、上段に九個、下段に七個の浮出文をめぐらした特異な趣のカットグラス碗となる。本作品はササン朝ペルシャから伝来したササン・グラスと見られている。(碗片のみが発見され、この透明のカットグラスは、想像図である)正倉院御物の白璃碗に似ている。

国宝 金銅製棘䈎形杏葉(きょくようがたぎょうよう) 古墳時代(6~7世紀)

鞍から馬の胸部や臀部に伸びる革帯に下げて馬を飾り立てる金具である。馬具は、百点以上出土している。三国時代新羅の技術要素を持つ「新羅系馬具」を主体としており、ヤマト王権と朝鮮半島諸国との活発で複雑な交渉を反映するものである。この馬具類の多さは、戦後発表された、江上波夫氏の「騎馬民族説」を、思い出させる。

国宝 金銅製龍頭(こんどうせいりゅうとう) 一対 中国・東魏時代(6世紀)

一対をなす龍頭は、同形同大のようだが、葉の本数など細部の表現に違いがある。鋭い眼、湾曲しながら後ろへ伸びる頭角、先端が大きく開いている鳥の嘴状に尖った分厚い唇、迫力を持つ龍である。敦煌莫高窟の隋代、唐代の壁画には、竿先に本品と同様の龍がつけられ、口元から幡た天蓋が吊り下げる様子が描かれており、用途を知ることが出来る。

国宝  奈良三菜小壺(こつぼ)         奈良時代(8世紀)

奈良時代にわが国で制作された鉛釉彩陶のうち、複数色を用いた多彩釉陶器を奈良三彩という。7世紀後半頃、朝鮮半島南部の影響の下に製作が始まった緑釉陶器の技術に、8世紀の中国唐三彩の技術が加わり誕生したものである。

 

”「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群”が7月9日にユネスコ第41世界遺産委員会で「世界文化遺産」への登録が決定された。通常、立ち入ることが出来る場所は宗像市の宗像大社と、大島である。今回は、宗像大社に詣で、かつ神宝館の国宝類を見学した。時間があれば、大島の中津宮へ行きたかったが、残念ながら時間が無く、宗像大社と神宝館の国宝に限定した報告となった。大島は、宗像大社の高宮祭場から、やや下がった場所から拝することできた。世界遺産への登録は、参詣者を増やし、大勢の参拝者が訪れていた。しかし神宝館まで、足を伸ばす人は少なく、大変残念である。

(本稿は、図録「宗像大社国宝展  2014年)、日経新聞2017年7月16日、7月17日”「宗像・沖ノ島」世界遺産に”、ウイキペディア「宗像大社」を参照した)