中国 王朝の至宝(2)-日中国交正常化40周年記念展 2012年

(1)では、中国の初期王朝として、三星堆遺跡から出土した大量の青銅器や金製品など、数千件の遺物が発掘され、古代「蜀」の存在を先に明らかにした。その後2001年に成都市の西部で金沙(きんさ)遺跡が発見された。これまでに(2012年頃)5キロメートル近くにわたって発掘され、大形建築跡、住居跡、墓地、祭祀坑などが発見され、三星堆遺跡をしのぐ大量の遺物が発見され、大規模な都市遺構であることが判明した。金沙遺跡は、三星堆の末期頃から殷の次の西周王長野頃まで存続した古代蜀の中心都市であると理解されるようになった。古代蜀については、漢時代頃の「蜀王本記」や東晋時代の「華陽国志」に伝説的な事績を交えた記載があり、古代蜀の王として、蚕叢・柏灌(はっかん)・魚鳬(ぎょうふ)等の王名を伝えている。中原において最初期の王朝が誕生したのは、紀元前2000年頃のことと考えられる。それらは「史記」などに記された夏王朝を想定してのことである。夏については、史書の記述以外に物証となるものが発見されないため、その存在自体がまだ完全に証明されたわけではない。しかし、この時期の二里頭(にりとう)遺跡に見られるような大規模な宮殿跡、道路、青銅器、玉器の工房などの遺構と、各種の出土文物の事例に照らしてみれば、当時、この地域に相当規模の権力を持つた集団があり、すでに国としての体裁を整えていたであろうことはある程度まで認めることができる。夏の次の殷時代になると、史書の記載や各地の遺構、そして多数の青銅器や玉器、甲骨文などの例証により、前1600年頃から前11世紀後半にかけて存続した王朝の輪郭がおぼろげながら明らかとなる。殷前期の都の可能性が高い鄭州(ていしゅう)商城遺跡には、当時も巨大な城壁の一部が残り、その内外からは各種の文物が大量に発見される。南方の雄であった楚に対し、山東半島からその西部まで版図とした斎や、それと隣接した魯は、共に、殷王朝(いんおうちょう)を滅ぼした。斎(せい)は,周王室の権威が衰えた春秋時代に、山海の自然と温暖な気候に恵まれた山東半島の地の利を生かして国力を伸長し、次第に大きな影響力をを持つようになった。

中国古代史の関連地図

魯(ろ)は、古くから曲阜(山東省)を都とし、春秋時代には、斎(せい)とともに強国の一つに数えられた。斎・魯は、国力こそ大小の開きがあったものの、思想・文化の点では、春秋戦国時代において多大な影響力を持つ文化大国であったともいえる。孔子・孟子の儒家、老子や荘子の道家、孫武の平家など、諸氏百家と言われる優れた学者や学派が競い合うように世に出た背景には、この方面における両国の保護奨励策が大きな役割を果たしたと見られる。こうした土壌に立って、文物の上でも、目覚ましい展開が見られた。中でも、青銅器にあっては、西周時代までもっぱら祭祀用の礼器としてあったものが、次第に実用的な側面に重きが置かれるようになるという、春秋戦国時代を通じた大きな転換があったことが特筆される。幾種類のもの玉器を多数連ねた豪華な飾り物が増えていったことなど、殷・周時代の祭祀儀礼具の荘重な感覚が仏拭され、より人間的な精神の躍動が前面に表出された実用的な傾向が顕著となっていく。概して見ると、古くからの地域的な文化の中原の伝統を加味しつつ、そこに新たな時代の要素を積極的に取り入れ、高度に洗練された文化を築いていったところに、斎・魯の独自の境地があったということができよう、

玉綜(ぎょくそう) 玉 殷ー周 前12世紀~前10世紀 金沙遺跡出土

玉綜は、円筒と直方体を組み合わせたような形をし、中心部が円筒状の空洞となった玉器である。新石器時代において長江下流域で栄えた良渚文化において発展した器種の一つで、そこから中国各地へ広まったようである。金沙遺跡からは、12点ほどの玉綜が発見されているが、この作品のように、身の外面に何段かの節が設けられた例は2点にとどまる。使途は詳らかではないが、祭祀や王権などにかかわる葬祭儀礼具の一種と推測されている。

梯形玉器(ていけいぎょくき) 玉 殷ー西周(前12世紀ー全10世紀)

玉綜は、円筒と直方体を組み合わせたような形をし、中心部が円筒状の空洞となった玉器である。新石器時代において長江流域で栄えた良渚文化において発展した器種の一つで、そこから中国各地へ広まったようである。金沙遺跡からは、12点ほどの玉綜が発見されているが、この作品にのように、身の外面に何段かの節が設けられた例は2点にとどまる。使途は詳らかではないが、祭祀や王権などにかかわる葬祭儀礼具の一種と推測されている。

玉琩(ぎょくしょう) 玉 殷ー西周(前12世紀ー全10世紀)

玉璋は、長方形の板状の玉を加工し、上方にかけて側面をわずかに湾曲させ幅を広げ、先端(上端)に内側へ湾曲する刃を作り,下部の左右に鋸歯状に凹凸する装飾を施した玉器で、左右が非対称となるのが通例である。新石器時代に山東半島あたりで栄えた山東竜山文化で発展し、それが中原の二里頭文化を経て古代蜀に伝来したものと推測される。

動物文飾板 青銅・緑松石 二里頭文化期(夏)(前17世紀ー前16世紀)

文様の輪郭が突出する青銅器の板に、緑松石(トルコ石)を巧みにはめ込んで文様を表したものである。何かに縫い付けるか縛り付けるかをするためと思われる輪が4ケ所ある。背面は青銅の板のままでなんの装飾もない。象嵌は高度な技術で施されて、美しく迫力がある。多くの研究者が、獣の顔を表したとするが、細部の解釈は一定しない。

方鼎(ほうてい) 青銅  殷(前16世紀ー全15世紀)

殷時代には青銅器鋳造技術が発展した。殷王朝前期の首都である現在の河南省鄭州市では大型の青銅器が多数出戸しており、本品はその代表例である。方鼎とは身の断面が長方形で、4本の足を持つ器である。神々や先祖の霊に供える肉を煮るのに用いた。銅と錫の合金である青銅の本来の色は金色である。ここにある文様は殷時代から西周時代にかけて作られた青銅器にしばしば表されている。

盉(か) 青銅 殷(前16世紀ー前15世紀) 河南省鄭州市出土

殷時代の青銅器の盉(か)である。二里頭文化期(夏)の土器と盉と、基本的な形態は同じである。中空の3本の足が合わさって胴となり、一つの足に縦長の把手が付く。筒状の注ぎ口は把手の反対側に付き、注ぎ口と把手の間に口があく。先の盉の口には蓋が被さったが、本品には蓋は無かったようである。殷の青銅器の中では早い時期に作られたものの一つである。

爵(しゃく) 青銅 殷(前16-前15世紀) 出土地不明

爵も酒を温めて杯に注ぐ器。注ぎ口はまれに筒状のものがあるが、多くは樋状であり、注ぎ口の反対側に付き、注ぎ口と把手の間に口があく。先の盃の口には蓋が被さったが、本品には蓋は無かったようである。殷の青銅器の中では早い時期に作られたものの一つである。

爵(しゃく) 青銅 殷(前16-前15世紀) 出土地不明

爵も酒を温めて杯に注ぐ器。注ぎ口はまれに筒状のものがあるが、多くは樋状であり、注ぎ口の反対側は長く伸びて稜をなす。把手は注ぎ口と直角に側面に付く。細長い脚が3本あり、1本は把手の下に位置する。また多くの場合、注ぎ口の根元に柱が2本立つ。あるいは爵に酒を入れる時に、ここに布をかけて酒を漉したのではないかとも想像される。この爵の胴部には、2本の隆起線の間に珠門を配している。殷時代の爵としては簡素な文様である。

尊(そん) 青銅 殷(前14-前13世紀) 河南省鄭州市出土

尊は酒や水を備える容器である。口は大きく広がり、胴部はやや上下に押しつぶされた形で底に至る。底の下に高い高台が付く。側面にはC字を連ねたようなひれが120度の間隔で3条つき、側面を三分割している。肩部中央にはC字を連ねたようなひれが120度の間隔で3条つき、側面を三分割している。肩部中央には水牛の頭を大きく表す。

玉戚(ぎょくせき) 玉  殷(前13世紀) 河南省安陽市出土

戚とは斧のやや大型のものである。大型の斧は人の首を切るのに用いられたことから、古代中国では斧は軍を指揮したり死刑の執行したりすることが出来る高い身分を象徴する器物であった。この玉戚は実用の武器ではなく宗教的な威力を備えた儀器と考えられる。この戚は円盤の一部を切り取ったような形をしている。中央の円孔は縁が一段高く、断面がT字型になっている。四川省金沙遺跡の玉器にも同様の形状のものがある。老力を費やして、あえて貴重な玉材をすり減らして作った、大変ぜいたくな玉器である。

ト甲(ぼっこう) 亀甲 殷・前13-前11世紀  河南省安陽市出土

殷の王室では、国家の大事から日常の生活に至るまで、様々な事柄を占った。占いには亀の甲螺(主に腹側の甲羅)や牛あるいは羊の肩甲骨を用い、これらを加熱して生じるひび割れの形で吉凶を判断した。占ったのち、ひび割れの周囲に占った内容や占いの結果を文字に刻んだ。占いに用いた甲羅と卜甲、占いに用いた骨をト骨と呼ぶ。甲や骨に彫りこんだ文字であることから、これらを甲骨文字という。甲骨見字は今日の漢字の祖型であり、甲骨文字から殷代の歴史や文化を知ることが出来る。

 

「蜀」と「夏・殷」の遺物を取り出してみた。特に「夏・殷」は、私には神話の世界の思いが強かったが、遺跡から出土した文物を見ると、かなり高い精神文化が、既に前16世紀頃に、中国にあったことが判明した。この大国から、日本は文字を学び、文化を学び、今日に至ったのである。中学生の頃に、藤井先生から聞いた話は、現実であり、出土物件で見事に証明されたのである。改めて、中華文明の先進性に感心した次第である。

(本稿は、図録「中国王朝の至宝 特別展 日中国交正状化40周年 2012年」、図録「誕生!中国文明  2010年」を参照した)