中国王朝の至宝(1)

最近、コロナウイルスの関係で、日本国中の美術館等が閉鎖されており、コロナウイルス病の見透しが出来るまで、閉鎖は続くようである。どこの美術館でも「現在は閉館、予定していた美術展は開館出来るようになれば、計画通り開催致します」という張り紙が出ている。従って当分の間、閉館は続くものと考えている。「美」は、その間、止めることも出来るが、実は、1990年頃から2015年までの頃の美術展は見て、かつ図録は買ってあるが、「美」には書けなかった美術展が10回以上残っている。そこで、まず中国関係の美術展を皮切りに、逐次掲載しなかった美術展を、振り返りながら、ここで改めて掲載してみたい。特に、中国関係の美術展は、日本と中国の関係が悪化してから、完全に止まっている。そういう意味で、今回、中国関係の美術展の「掲載できなかった美術展」を、改めて「美」の原稿に付け加えたいと思う。                         一番最初は、「日中国交正常化40周年記念」の「中国王朝の至宝」(2012年10月10日より東京国立博物館で開催され、逐次神戸市立美術館、名古屋市博物館、九州国立博物館まで(2013年7月9日~9月16日)約1年間にわたり、ほぼ東京より西の主力美術館で開催され、私の記憶では、これが中国関係の美術展の最後となり、2022年の今日まで、中国美術展は開催されていない。)   記念すべき美術展であったし、また内容も濃いものであった。

私は、中国の歴史をまともに受けたのは、中学2年生の時のみであり、高校、大学では「世界史」の一環として、中国史を学んだ筈である。中学2年とは、昭和22年で、日本はアメリカの占領下にあり、アメリカが中学生に日本史を教えることを禁止していた時期であった。しかし、この占領軍の学習制度は、私には思い掛け無い幸運であった。東洋史という名前の授業は100%中国史であり、ここで、しっかり中国の歴史を学び、記憶したことは私の生涯の財産となった。当時の藤井先生の学恩に篤く感謝したい。その時に学んだ東洋史という名前の中国史は、黄河流域の中原に誕生した「夏」(か)「殷」(いん)王朝から始まった。これが中国史の常識と思っていた私の中国史観をひっくり返すような、思いがけない内容の美術展であった。1986年、成都市の北方約40キロメートルの所に位置する三星堆(さんせいたい)遺跡から、大量の青銅器や金製品をはじめ、玉石器、土器、象牙、貝など、数千件もの遺物がまとまって発掘され、一躍古代蜀(しょく)の王国の存在が脚光を浴びることとなった。高さ2mを超える青銅像や、突出する目と角状の部位を持つ仮面、さらに総高が4m近くに達する青銅の神樹など、それまで予想もしていなかった驚異の文物の出現に、世界中が耳目をそばだてたわけである。遺構や遺物を総合的に検証した結果、この遺跡は、中原の殷王朝とほぼ平行した時代に、蜀の中心的な都城として機能したことが判明し、古代蜀(しょく)の王都である可能性が高まった。それまで歴史の靄の中に埋もれていた古代蜀に、驚くべき古代文化が栄えていたことが証明されたわけである。その後、2001年に、成都市の西部で金沙(きんさ)遺跡が発見されると、三星堆から金沙に続く古代蜀(しょく)の姿がよりはっきりと浮かび上がってきた。

「蜀」と「夏・殷(か・いん)」王朝の遺跡    写真

金沙(きんさ)遺跡は、三星堆遺跡をしのぐ大量の遺物が発見され、大規模な都市遺跡であることが判明した。金沙遺跡は、三星堆の末期頃から殷(いん)の次の西周王朝の末頃まで存在した古代蜀の中心都市であると理解されるようになった。三星堆から続く独自の文化を維持しながら、他の文化圏とも交流を持つという当時の蜀(しょく)の情勢を端的に物語るものであり、それは同時に、初期王朝期の多元的な文化の在り方を示唆するものでもあった。中原において最初期の王朝が誕生したのは、紀元前2000年頃のことと考えられる。私は「夏」王朝は、日本の神話の世界のような漠然とした史実の無い時代であると信じていた。紀元前2000年頃に「夏(か)」王朝が誕生したというのは、あくまでも「史記」などに記された夏王朝を想定してのことであった。夏(か)については、史書の記述以外に物証となるものが発見されないため、その存在自体がまだ完全に証明された訳ではない。しかし、この時期の二里頭(にりとう)遺跡(河南省偃師市)に見られるような大規模な宮殿跡や住居跡、道路、青銅器、玉器の工房跡などの遺構と、各種出土文物の事例に照らしてみれば、当時、この地域(黄河流域)に相当規模の権力を持つた集団があり、既に国として体裁を整えていたであろうことは認めることができる。

蜀 突目仮面 1個 青銅 前13~前11世紀 三星堆遺跡出土物

この種の遺物は、これまでのところ、この作品が出土した三星堆遺跡でしか発見されておらず、古代蜀の地域に特有の信仰ないし祭祀に根差した儀礼用の器物と考えられる。古代蜀のことを記した史書に、蜀の始祖である蚕叢(さんそう)という王が「縦目」であったと記すことから、この作品はこの蚕叢を表したものとも言われている。いずれにしても、中原とは異質な文化圏が古代の蜀地域に形成されていたことを物語る、きわめて貴重な遺例である。

人頭像 青銅・貼金 前13世紀~前11世紀 三星堆遺跡

これは巫祝(ふしょくー神職)といった特殊な人物を想定したものかも知れない。後頭部から首にかけて、三つ編状の髪が表現されているが、頭頂部が平に形成されていることからすると、この上に頭髪または冠など、何らかの部位が載せられていた可能性がある。同種の仮面状のものが三星堆遺跡から57点出土したが、この作品のような金製の仮面状のものが添付されているのは4例に過ぎない。三星堆遺跡以外ではなお類品が知られず、この地域固有の文化の実態を示唆する貴重な遺品の一つである。

金製仮面  金 前12世紀~前10世紀 金沙遺跡出土

全体的にごく薄く脆弱な作りであることからすると、これを単独に使用したとは考えにくく、人頭像(前掲)に見られるように、何らかの像の顔に貼り付けたものかも知れない。ただし、三星堆遺跡の人頭像に比べると、眉や目・鼻といった各部がより柔和な表現となっている。同じ文科系統に属しながらも、造形には時代ないし地域的な相違が反映されているようである。この作品のように、金を使用したり、人の形ないしその一部を造形化するのは、古代蜀文化の特徴の一つで、そこに、青銅や玉によってもっぱら祭祀儀礼具を作り続けた中原文化との違いを見出すことができる。

金製漏斗形器 金 殷ー西 前12-前10世紀 成都州金沙遺跡出土

漏斗のような形状をした器物で、金の薄い板を打ち伸ばし、身の三方に、3個ずつの渦巻を連ねた文様を3組、透彫によって表している。表面が平滑に研磨されているのに対し、裏面はやや荒れた地肌を示していることから、もとは何らかの器物に被せていたもののようである。一節には、鈴の類に付けたとも言われるが、形状から見ると。器物の蓋に取り付けたと考える方が理にかなっているかと思われる。似たような形をした金製と青銅製の器物が同じ金沙遺跡から発見されているが、それらには、この作品に見られるような浮彫の文様が見られない。このような漏斗形をした金製や青銅器の器物は、この金沙遺跡には未だ発見されておらず、この地域固有の文化に連なる希少な遺物といえる。

尊(そん) 青銅 殷・前13-前11世紀 三星堆遺跡出土

尊(そん)は、中原地域に発達した祭祀儀礼用の酒器の一種で、三星堆遺跡からは8点が出土している。長江中流域の湖北省や湖南省からも類品が出土していることからすると、突面仮面・人頭像のような古代蜀に特有の器物と異なり、中原地域あるいは長江流域の影響や交流によってこの地域でも作られるようになったものと考えられる。同じ遺跡の出土品に、尊を頭上にささげもつ人物像があり、古代蜀では、尊の本場である中原地域とは異なった使用法をとっていた可能性が高い。古代中国における地域間の文化交流のあり方や地域的な文化の展開の様相の一端を垣間みることができる。

跪坐(きざ)人物像 石 殷ー西周 前12世紀~前10世紀 金沙遺跡出土

両足をそろえて跪き、上体をやや前かがみとしながら顔は正面を向け、手を後ろで交差している。この種の石像は、金沙遺跡からこれまでに12躯が発見されている。おおむね次のような形成が基本となっていることがわかる。頭髪は、左右を刈り上げて頭頂中央で左右に分け、後髪を三つ編み状にして背面に長く垂らす。目と口は刻線で表現され、張り出した頬骨の間に大ぶりの鼻がおさまり,耳朶には小穴が開く。口や耳の辺りには朱の着色跡が認められる。背後に回した手は、手首のところを縄で縛られ、また着衣の表現が見られないことから、裸体であるとみなされる。これの石人は、すべて祭祀坑から発見されていることから、奴隷や被征服民、あるいは犯罪者などを生贄とする代わりに、その姿を石材でかたどり、祭祀儀礼において用いたものと推測される。

虎 石 殷ー西周 前12世紀~前10世紀  金沙遺跡出土

四肢を折って蹲り、頸をもたげて口を大きく開き、雄たけびをあげているかのような虎の姿を一つの石材から彫り出している。頭体部とも、四肢や耳及び口腔を牙以外は平滑な面に仕上げ、目・鼻と、顔や口の周囲以外は平滑な面に仕上げ、目・鼻と、額や口の周囲の文様は線刻で表し、臀部にも縦横の刻みを入れている。口腔や耳の辺りには朱色の彩色がはっきりと残る。臀部中央には円穴があり、当初はそこから別材を挿入して尻尾を表現していたようである。石材は、跪坐人物像と同じく、地元産の蛇紋岩と鑑定されている。洗練された造形感覚をうかがうことができる。

人形器(ひとがたき) 青銅 殷ー西周 前12世紀~前10世紀 金沙遺跡出土

人の形を基本としながら、頭部を表現せず、胸の上部に孔を設けるという、特異な形状をした青銅製品。なで肩をした、細長い胴の両側に腕を垂加し、脚を開き気味に構え、つま先を外側に向けている。両手先には、細い刻線によって指らしきものを表している。腰と両腿の付け根に凹溝を刻出しているのは、着衣の表現であろうか。肩の外側と脚の裸(はだし)付近の内外の対比位地は,小孔を設けていることからすると、鋲や釘の類によって固定するなどして用いたものと推測される。古代蜀文化の独自の発想と想像力が生み出した、きわめてユニークな作例である。

 

中国古代蜀文化の遺物5点と、古代殷の遺物3点を紹介した。特に古代蜀の遺物は極めて稀で、三星堆遺跡、二里頭遺跡から発掘されたもので、初めて見る物である。特に突面仮面、人頭像は、極めて異例な人物像で、中国でもごく最近の発見であった。殷と同じ時代に古代蜀の文化があったことは新発見であり、中国古代史にとって大きな発見である。あえて古い展覧会の図録をご紹介したのも、古代蜀の異色の古代文化があったことを、ご報告したいと思ったからである。この「日中国交正常化40周年記念展」以降、中国との関係は悪化し、その後、一切の中国関係の展覧会は開催されず、わずかに台湾の「神品至宝ー台北国立故宮博物院」が2014年に開催されただけである。国交正常化した今日、是非、中国の文物を展示する展覧会を開催してもらいたいと思う。

(本稿は、図録「特別展 日中国交正常化40周年記念 中国王朝の至宝」を参照した)