中国王朝の至宝(4) 初めての統一王朝「秦」と「漢」

紀元前221年、それまで黄河と長江の上下流域で覇を競い合っていた諸国は、西方から進出してきた秦に相次いで滅ぼされた。ここに、中国史上初の統一王朝が誕生した。始皇帝(在位前221ー前210)による秦王朝である。秦はそれまでの社会体制を大きく変え、国ごとに異なっていた文字や度量衡、貨幣などを統一し、中央集権国家を実現した。急激な変革と強圧的な支配ゆえに、人心の反発を招き、わずか3世15年で王朝の幕を閉じたが、万里の長城の修築や、広大な宮殿(阿房宮)の建設、そして陵墓(秦始皇帝陵)の造営など、治世を象徴する空前の規模の事績によって、秦の立役者であった始皇帝の偉業をしのぶことができる。短命に終わった秦の次に中国全土を治めたのが漢である。漢は基本的には秦の諸制度を継承、発展しながら国家体制を整備し、また儒教を奨励するなど、統一王朝の永続的な運営基盤を築くとともに、周辺地域へも勢力を伸長し、秦をもしのぐ広大な領域を支配下に収めた。王莽(在位8ー23)による王朝の一時的簒奪があったものの、その前後を通して見ると、およそ400年間にわたって中国全土を統治したのである。漢字をはじめ、漢文、漢語、漢方、漢人など、後に中国全体を意味する言葉にこの王朝の名前が冠され、広い範囲で漢代の規範となる文化を構築しえたのは、こうした長期に及んだ支配ゆえでもあった。広い範囲で漢代の規範となる文化を構築しえたのは、こうした長期に及んだ支配ゆえである。長安と洛陽という前漢・後漢の周辺では、皇帝の陵墓をはじめとする数々の遺跡から、おびただしい数量の漢時代の文物が出戸し、かっての栄華を雄弁に物語っている。

踦射俑(きしぁよう) 陶・彩色 秦 前3世紀

秦の始皇帝(前259~前210)は13歳で秦王に即位すると、翌年から自らの陵墓建設に着手した。39歳で東方の六国を平らげて戦国の乱世に終止符を打ち、皇帝を号して郡県制の実施や度量衡の規格統一などの国家施作を実施した。50歳で亡くなると、2代皇帝の胡亥(こがい)によってかねて準備していた驪山稜に埋葬された。この陵墓の周辺には、等身大の陶馬や陶製人形(俑)を収める地下施設(兵馬俑坑)が作られた、本品は、戦車や兵士、戦馬など1372体とも言われる陶製の兵馬を収めた第2号坑から見つかった兵士俑である。この兵馬俑坑については、過去の@「美」で詳しく報告しているので、この1体に留める。

竹節柱博山炉(ちくせつちゅうはくさんろ)青銅・鍍金銀 前漢・前2世紀

博山炉は、大海の中にそびえる博山という山をかたどった香炉である。青銅製で、外面のほとんどの部分に鍍金を施すが、部分的に鍍銀を施している。台座には2頭の龍を浮き彫りで表す。2頭の龍は頭を上に向けて口を開け、ここから竹をかたどった柱が伸びる。節の部分には、細かい枝が枝分かれする様が表されている。柱の上部に香炉の身が乗るが、柱の上部から枝分かれするようにつくり出された3頭の龍の頭が香炉の身の下部を支えている。身の側面の上半には、後ろを振り返る4頭の龍の姿を浮き彫りにする。本作は博山炉としてはもっとも大きく、精巧かつ華麗に作られた屈指の優品である。

男性俑 1躯 前漢 前2世紀 陶、彩色

前漢第6代景帝(前188~前141)を葬った陽稜の陪葬墓から見つかった男性官吏の俑である。陶土の特性を十分生かして、実に巧みな人物表現を見せている。頭髪は額中央で左右に梳き分けて後頭部へおくり、梳き上げた後ろ髪でそれを覆っている。頭上には小さな冠をのせ、顎紐をかけて固定している。顔は墨線で太めの眉、瞳、髪を表し、口元には朱色をさしている。

女性俑 1躯 陶、彩色 前漢 前2世紀

男性俑を埋葬したのと同じ墓から出土した女性侍女の陶俑である。同墓出土の要はいずれも造形が巧みであり、前漢時代の髪形や服装を知る上で基準となる。頭髪は額中央で左右に梳き分け、耳の上を通して後頭部へおくり、後ろ髪と一束ねにして背中へおろす。途中で逸れを瘤状に縛ったのち、さらに腰まで垂加させる。顔は墨線で細くつりあがった眉、瞳を表し、眉に朱色をさす。着衣は右衽(うじん)であり、朱色と白色と藍色の三色の衣を重ね着し、その上に白色の長衣を身に着け、朱色の帯で縛る。これらの俑を埋葬した墓からは、「周応」の名を刻んだ銅印が出土している。史書の記載から、景帝の時代の鄲侯か縄侯のいずれにか封じられた人物と考えられる。

鴈形灯  1躯 青銅、彩色 前漢 前1世紀

後ろ向きの鴈が魚をくわえた姿をかたどった照明器具。鴈の背と魚の間にある円筒の中に火を灯した。円筒の側壁は左右に開閉することができ、照明の範囲調整や風よけといった機能を果たした。内部はすべて空洞になっており、灯火から出る煤は鴈の口から首を経由して腹の中に貯まり、外に漏れることはなかった。表面全体を赤、朱、白,黒などで着色している。青銅器の表面は総じて円滑であるのにも関わらず、絵具がこれほど見事にのって良好な状態を保っているのは、「漆」と報告されている粘性のある塗料を用いているほか、あらかじめ表面をヤスリで凹凸にして塗料のくいつきをよくしているためだろう。本作は漢代の青銅器の中でも、技術と趣向の面で最高の水準に達した傑作である。

馬  1躯  陶、施釉 前漢前2世紀~前1世紀

前漢第7代武帝(前156~前87)の陪葬墓におさめられていたもので、胴部と四肢、尻尾を別別の型で作り合わせた陶製の牡馬である。胴部は中空で、底面と臀部にのみ、四肢と尾をあわせるための穿孔がある。直立して胸を張り、ややうつむき加減の姿態、発達した頬骨などは、前漢時代に特徴的な馬の表現である。本来は表面に鉛釉をかkて焼成したと見られるが、その多くは剥落している。

玉舗首 1個  陶、施釉  前漢  前2世紀~前1世紀

重さ10Kgをゆうに超える大型の舗首で浮彫・線刻などの多彩な技法を駆使して一つの玉の塊から彫り上げている。表面は所々で風化しているが、この玉材が本来持っているきめの細かさや青味がかかった白の色つやは、現在もよく残っている。技巧と玉材の本来持つている自然の美しさが融合した漢代でも屈指の玉器である。漢の武帝を葬った茂稜の東南で出土した。付近には大型建築の遺構があり、茂稜付近の重要な門や建物の扉に玉舗首を使用していた可能性がある。

硯 1合 石 後漢 延憙3年(160)

蓋を伴う石製の硯である。硯本体にも蓋に華麗な装飾を施している。硯の本体は円盤状で、獣をかたどった3本の足をもつ。硯の上面の一角に耳杯(じはいー楕円形の身の両側に人の耳のような把手が付く食器)の掘り込みがある。磨った墨を溜めたのでろう。掘り込みの周囲には波を表したような文様を刻んでいる。硯の上面は平滑で、墨の痕跡がある。古代中国の石製の硯としてはもっとも手が込んだものである。出土した墓の規模から観て、有力な地方豪族の持物であったと考えられる。

 

始めての統一王朝である、秦と漢の遺物を紹介した。秦については、すでに詳細な報告をしているので、専ら前漢、後漢の遺物を紹した。

(本稿は、図録「中国 王朝の至宝 特別展 日中国交正常化40周年記念 2012年」を参照した)