九州国立博物館  平常展

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九州国立博物館は、日本の国立博物館として4番目(東京、京都、奈良に続く)に開設された博物館である。開館は2005年(平成17年)であった。私は、新しい国立博物館の誕生を心から喜び、これで九州の人々も等しく日本文化、世界文化に接することが出来、文化国家を国是とした戦後日本の快挙であると思った。しかし、内情を知るに及び、果たして第四の国立博物館として機能するかどうか不安になったものである。まず、出発に当たり、この博物館は収蔵品ゼロからの出発であり、特に国宝が1点も無い状態であった。しかし、開館の年に当たる2005年には、東京国立博物館から3件の国宝が贈られた。借用品だけでオープンするのは、余りにも気の毒である。学芸員の皆さんが肩身も狭いだろうと勝手に思っていた。しかし、心配することなく平成12年度(2000)には文化庁から「鍋島大皿」や対馬の「宗家文書」1万点をはじめとする、重要文化財を含む32件の美術工芸品や歴史資料が、九博に管理替えがなされた。また糸国歴史博物館から平原王墓(2~3世紀頃の糸国王墓)から出土した世界最大級の内行花文鏡が1面九博に寄託(あるいは分譲かも知れない)された。これらの事で、やっと「国宝を持たない国立博物館」から抜け出すことが出来た。私は九博の「その後」を知りたくて、ここ数年毎年、九博を訪問している。稀有壮大な建物を見ると、私の胸がワクワクする。九博の存在価値は、私はアジア諸国との文化交流であろうと思う。その意味で年々、所蔵品が増え、内容が充実し、アジア諸国との文化交流が盛んに行われている現状を見て、心から喜んでいる。なお、今回は特別展ではなく、平常展を見た。どれほど収蔵品が増え、アジア諸国との交流が進んでいるかを点検するためである。

九州国立博物館の外観

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九博は、九州大宰府天満宮の奥地にある。立地場所は「天満宮の隣り」と言えば、分かり易い。九博では「大宰府と言えば九州国立博物館と言われるようになりたい」と述べているが、それはまだまだのことである。2016年7月31日に訪ねたが、その時は「東山魁夷美術展」を開催し、大変な人気であった。2015年の同時期は「大英博物館展」であったが、それほどの入場者数では無いように見えたが、今年の企画は大きく当たったようであり、少なくとも九州(乃至は福岡では)知名度も上がり、企画さえ良ければ、大勢の見物客が集まることが証明されたのは、誠に喜ばしいことである。九博のために、心から喜びたい。建物は4階建で、特別展は3階、平常展は4階である。グッズ売り場は1階である。図録の順序に、写真が入手できたものについて解説する。

北野天神絵巻(「天拝山」の部分) 第2巻    南北朝時代(14世紀)

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「天神縁起絵巻伝」は、全国各地の天神神社にある。京都の北野天満宮には国宝の縁起絵巻が現存する。この「天神縁起絵巻」は、南北朝時代のものであり、九州では一番古い縁起絵巻だそうである。天神縁起は、菅原道真の一生、怨霊となった道真の祟り(たたり)、天神を侵攻する者に与えられる御利益、天満宮建設の由来などからなっている。本巻は全6巻のうち第2巻に当たるもので、道真の一生のうち時平の讒言に合う場面、紅梅との別れを惜しむ姿、九州へ下っていく海路の旅路、太宰府で涙する場面、天拝山に登って無実を訴える場面までの、最も充実した劇的なシーンである。悲劇的内容とは異なり、見る者の心をなごませるものがある。これが南北朝という時代を示す。南北朝時代は日本文化の大きな変わり目であった。鎌倉時代までなんとか命脈を保ってきた貴族文化が落日の時を迎え、新たに伝統の束縛から解き放たれた華々しい活気ある婆沙羅(ばさら)文化、すなわち武士の文化が誕生した。この絵巻はそうした潮目の変わるさなかに制作されたものであるが、伝統的技法が十分に維持されている。

奈良三彩壺                  奈良時代(8世紀)

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中国の「唐三彩」に倣って日本で作りだされた陶器で、唐三彩と区別するため奈良三彩と呼ばれる。唐三彩は7世紀末には遣唐使などにより日本にもたらされており、九州でも福岡県沖ノ島祭祀遺跡から発見されており、国宝に指定されている。奈良三菜の多くは、この緑・褐または黄・白の三色を用いているので、三彩と呼ばれる。奈良三彩は緑釉が中心となり、それに黄・白が配色されるが、奈良時代後半には多くが緑・白の二彩となる。朝鮮では、新羅三彩が作り出された。奈良時代には中国を中心として朝鮮半島から日本に三彩陶器の文化が広がっていたのである。

三角神獣鏡               古墳時代(4世紀)

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この三角神獣鏡は、明治18年(1885)、福岡県早良群姪浜(現・福岡市西区姪浜)在住の帆足可楽氏が、自分の所有する通称「城の辻山」を発掘して発見したもので、この鏡以外にも鉄剣1本発見されていた。この「卯内尺古墳」(うないじゃくこふん)は現在消滅している。これが発見された時代には、日本は日清戦争に向けて軍靴の音が高まる時代であったため、霊鏡として祭り挙げられた。明治26年(1893)、宮内省の監査会議でも多くの称賛を浴びて、8月に全国宝物参考簿に登録された。この鏡は現在の考古学では三角神獣鏡と呼ばれるものである。三角神獣鏡とは、古墳時代の始め(3~4世紀)に、近畿地区の古墳から集中して出土する、銅鏡である。この鏡が重要であるのは、同じ型で製造された鏡が南九州から東北南部にわたって500面ほど出土した点である。大和の政権が中国から入手した貴重な鏡を地方支配の承認として下賜したものと考えるのが考古学界では通説となっている。(一説では考古学者の90%が、そのような考えているそうである)実は、この三角神獣鏡は耶馬台国畿内説の根拠となっている。しからば、何故福岡市内の古墳から出土したのか?「耶馬台国は九州にあった」のではないかと私は考えている。

突線鈕袈裟文銅鐸(とっせんちゅうけさもんどうたく) 弥生後期(2~3世紀)

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九州国立博物館には現在2点の銅鐸を所有している。この2点は、弥生時代の終わりに近い2~3世紀頃のもので、その一つがこの銅鐸である。銅鐸のルーツは、中国中原地域の殷周青銅文化で使われた鈴・鐘にあたると考えられる。日本最古の銅鐸がどこで作られたかは、九州説、畿内説に別れている。しかし2004年12月に名古屋市内で最古級の銅鐸鋳型が発見され、最初の銅鐸生産地について新たな謎が生まれた。銅鐸は元来「音を聞く銅鐸」であった。事実、中国の銅鐸は、内部に舌が有り、音を出す楽器であったと私は認識している。しかし、日本では大型化し「見る銅鐸」へ変化している。九博の2基の銅鐸は最末期のものであり、それに凹帯が見えるのは、従来の通説に一石を投ずるものである。

重要文化財 浄土曼荼羅図(じょうどまんだらず)   鎌倉時代(14世紀)

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西方浄土は、蓮池を前に華麗な楼閣宮殿が並び、常に妙なる音楽が響き、馥郁たる香りに包まれ、光あふれる所として経典には描写される。中国では初唐から盛唐にかけて(7~8世紀)この浄土図が盛んに制作された。敦煌莫高窟には、今でも素晴らしい浄土曼荼羅図が描かれている。日本では、その図柄をもとに綴織(つづれおり)という技法で織った巨大な浄土図が、奈良の当麻寺(たいまでら)に伝来している。(8世紀)これを別名「当麻曼荼羅」と呼ぶ国宝である。ところが、この当麻曼荼羅は、平安時代にはなぜか世間には知られることは少なかった。一挙に広まるのは、鎌倉時代の浄土宗西山派の祖、証空上人の時からである。仏教では、釈迦亡き後、長い時間が経過すると、正しい教え(法)が失われる法滅期が来るとされた。いわゆる末法の世である。日本では永承7年(1052)に、それが訪れると信じられ、末法における救済策が焦眉の急となった。そこでクローズアップされたのが、阿弥陀如来である。浄瑠璃寺の九体仏が信仰された時代である。この九博の所蔵となった、この作品は重要文化財に指定されており、鎌倉時代半ばから後半にかけて制作されたと思われる当麻曼荼羅図である。類品の中では、きわめて丁寧に仕上げられた綴織である。

銅製瓔珞付鏡筒(ようらくつききょうづつ)    平安時代(12世紀)

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平安時代の終わりごろから人々は、仏教の経典を書写し、経巻という巻物にして容器に納めて、地面に埋葬することが流行した。この埋葬した場所を経塚と呼ぶ。最も有名な例が、寛弘4年(1007)銘の藤原道長の金銅経筒(国宝)である。経塚築造の流行には、この世の終わりを説く末法思想が結びついていた。仏教の歴史観では釈迦が亡くなると、釈迦の教えである仏法が段階的に滅んでいき、平安時代の1052年が末法1年に当たると考えられた。この時期は自然災害や飢饉、動乱などが続き、この末法思想は現実味を増して受け入れられた。この経筒は岩手県から鹿児島県まで全国に及んでいるが、近畿と並んで北部九州が多い。特に福岡県太宰府の四王寺周辺に集中している。この経筒は、青銅製の鋳物瓔珞付経筒である。瓔珞という飾りを垂らしているのが大きな特徴である。出土は四王寺で、観世音寺に隣接した地域での出土であることから、観世音寺の僧がその製造と埋納に深くかかわったと考えられている。土中に埋める共筒であるが、見るからに美しい形状である。

重要文化財  浮彫三尊仏龕(さんそんぶつがん)   唐時代(8世紀)

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石灰岩に浮彫で、如来と二菩薩の三尊像が表された二面の石仏が九博に伝わる。かって唐の都であった長安の法慶寺にあったもので、早くに中国から流出し、現存する三十面のうち二十一面が重要文化財に指定されている。九博の石仏龕二面は、中尊がともに左手を膝に伏せた印相であるから、いずれも弥勒仏の三尊龕である。この仏龕には玄宗皇帝の開元12年(724)の刻銘がある。玄宗時代に制作されたこれら二面の銘文には、一字の即天文字も使用されていない。そこには即天武后の統治を否定した、玄宗時代の政治と文化の姿勢を反映している。

重要文化財  鬼瓦  都府楼跡       奈良時代(8世紀)

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福岡県太宰府には、現在都府楼跡(とふろうあと)の名で市民に親しまれている。都府楼跡から、その栄華を物語る遺物が多数出土している。瓦類が一番多い。そんな瓦の一つに鬼面模様の鬼瓦がある。文字通り、太宰府を象徴する顔である。鬼瓦が登場するのは7世紀前半の法隆寺若草伽藍である。(焼けた法隆寺)鬼面の鬼瓦が成立するのは8世紀の奈良時代になってからである。平城京やこの大宰府など、主要な官衙(かんが)の建物に瓦葺きが採用され始めたことと軌を一にしている。中国風の瓦葺きを普及させることで、新しい国づくりのための威勢と権力を、仰ぎ見る者に示したかったのであろう。

 

関東の人が九州国立博物館に行くことは稀であろう。私は、その稀な例の一人であるが、かねて九州国立博物館の開館については知っていた。「国宝を1点も持たない国立博物館」と言われ、その館蔵品の充実を期待したが、年をふるごとに重要文化財の展示品も多くなり、安心していた。博物館の建物は、異形であり、驚かされる。平常展示物を見れば、その博物館の実力が判るが、九博は着々と実力を付けて来ている。また、本来の役割は「アジア諸国との文化交流」と思っていたが、それも概ね出来ている。第四の国立博物館として信用できるものになってきた。心から喜んでいる。

 

 

(本稿は、図録「いにしえの旅  2009年版」、図録「いにしえの旅 2005年版」、石田茂作「仏教美術の基本」を参照した)