京都   広 隆 寺

京都・太秦(うずまさ)の地に広隆寺がある。私は、学生時代から京都へ来れば、必ず広隆寺を拝んでいた。理由は、この寺の本尊である弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)を拝観するためである。この弥勒菩薩像は、奈良・斑鳩(いかるが)の里にある中宮寺の弥勒菩薩像にそっくりであると言われる程の美人仏であり、学生時代から愛して止まない仏様である。京福(けいふく)電鉄の太秦駅(うずまさえき)から歩いて3分程の場所に、京都最古のお寺である名刹・広隆寺の南大門(仁王門)が現れる。何度も火災にあうたびに僧侶が仏様を運びだしのであろう。傷も殆どつかない仏像群が霊宝館に祀られれている。国宝17体、重要文化財31体、その殆どを秘仏にすることなく、拝観できるのは、このお寺の大らかさを示すものであろう。私は、仏像博物館とでも呼べる例宝殿を拝するために、何十回と足を運んだのである。仏殿をしっかり拝観したのは、多分、今回(2017年11月)が初めてであるかも知れない。広隆寺にほど近い場所に「蛇塚」と呼ばれる巨大な横穴式石室がある。蛇塚と呼ばれるのは、かって蛇が群棲していたからだと言われ、古墳を盗掘から守るために毒蛇を放ったと言われるが、定かではない。この石室こそが、広隆寺を建立した秦氏(はたし)一族の首長を葬ったものとされている。この石室一つとっても、秦氏の勝れた技術力と強大な力の跡を偲ぶことができる。秦氏一族は、朝鮮半島の新羅(しらぎ)からの渡来人であり、大陸から土木灌漑、養蚕、機械、酒造り、そして自然暦を日本に伝えたのである。その家系を調べると、広隆寺を建立した河勝(かわかつ)の二代前に河公(かわのきみ)という人物がおり、川に関係のある名をともに持つことがわかる。秦昭王(はたあききみ)が桂川に堰(せき)(ダム)を設けて治水を行い、そこから水を引いて広大な水田を開いたと言われている。この堰(せき)が造られたので、渡月橋から下流を大堰川(おおいがわ)と呼んだと言われている。この昭王は河公と同一人物であると言われ、「太子伝」によれば、聖徳太子が大堰(おおい)を訪れ、近くに仮宮を設けたという。この仮宮が川勝寺(せんしょうじ)となり、平安遷都で北に移ったのが広隆寺であるという。川勝寺の名称は、河勝(かわかつ)から命名されたものだろう。広隆寺には桂宮院(けいぐういん)(太子堂)と呼ばれる鎌倉時代の八角円堂があり、中に聖徳太子16歳孝養像が安置され、秦氏と太子の交流を今に伝えている。広隆寺の建立は、推古11年(603)とされ、山城最古の寺院であり、法隆寺とともに聖徳太子建立の日本七大寺の一つとされる。しかし、平安遷都後の弘仁9年(818)に火災に遭ったが、秦氏出身の僧道昌によって再興され、更に久安6年(1150)にも再び焼失、現在の建物はすべて江戸時代に再建されたものである。しかし、仏像だけは二度の火災に遭いながらも、奇跡的に難を逃れた。かくして広隆寺は、仏像博物観と呼んで良いほど数多くの傑作を今日に伝えている。

南大門(総門)  三間一戸の楼門        元禄15年(1702)

再建さえた楼門で、南面し、入母屋造桟瓦葺である。上層の軒は二重で、腰の周囲に廻縁を廻らし、手法は和様であるが、僅かに唐様を加味している。正面左右の金剛柵内に仁王像を安置しているが、製作年代は恐らく室町時代と考えられる。現在では、この門が総門となっている。

重要文化財  講堂            平安時代(永万元年ー1165)

楼門を入るとすぐ見える本瓦葺四柱造の建物で、五間四面、斗栱は和様出組、内部は化粧屋根裏となっている。京都最古の建物で、俗に赤堂と呼ばれる。

国宝 阿弥陀如来像            平安時代(12世紀)

この像は弘仁時代と伝えられ、木造漆箔である。顔は豊満な輪郭を示し、体躯も肩幅広く、両肘を張り堂々とした落ち着きを見せ、重厚な感じを与える。光背は簡素であるが、像との調和が良い。

上宮王院太子伝(本堂)          享保15年(1730)

入母屋造のこの堂は、本尊に聖徳太子像を安置している。非公開であるが、毎年11月22日に開扉される。

霊宝殿                  昭和時代

広隆寺は各時代の仏像、仏画、古文書等を数多く所蔵している京都随一の古名刹である。従来は、この霊宝殿の中に、ガラスケースを設け、その中に多数の仏像を安置していたが、ガラス戸を空け、あまりにも美しい半跏思惟像に惹かれ、京都大学学生が、キスをしようとして抱きつき、指を折ってしまった。以後、ガラス戸を止め、オープン式にして、半跏思惟像は、本尊として、やや奥まった場所に安置し、簡単に近づけないように変わった。壁面に沿って、数十体の古仏が整然と並ぶ様は、素晴らしい。日本一、拝観し易い霊宝殿である。

国宝  弥勒菩薩半跏思惟像     国宝一号  飛鳥時代(7世紀)

釈迦仏に代わって、この世のすべての悩み、苦しみを御救い下さる慈悲の仏である。用材は赤松であり、製作年代は飛鳥時代である。私は、朝鮮渡来の仏像であると思う。秦氏が朝鮮からもたらしたものであろう。わが国の国宝第一号であり、奈良・中宮寺の弥勒菩薩像と比較されることが多い。私は、中宮寺の半跏思惟弥勒菩薩像に惹かれる。この広隆寺弥勒菩薩像には、学生が、ガラス戸を開けて中に入り、キスをしようとして仏様の指が折れたという話は、あまりにも有名な事件である。事後、お寺では、仏像の陳列様式を変え、壁に沿って一列に並べる見易い方式になったが、この弥勒菩薩像は、本尊のように真中に据え、なかなか近づけないように工夫しているが、開架式を維持し、仏像を拝観する上で、最高の状態にしている。お寺の見識に感服した。

国宝  弥勒菩薩半跏思惟像      朝鮮製  飛鳥時代(7世紀)

「日本書記」によれば、聖徳太子没後1年の推古31年(623)、新羅から遣使があり、太子供養のために仏像1体、舎利、幡一具、小幡十二条を貢納したとある。この仏像が、この弥勒菩薩半跏思惟像である。本像は眼が大きく切れが長く伏目で口元を引き締めていることから「泣き弥勒」とも呼ばれる。堂々とした飛鳥仏(朝鮮製)である。金色が色濃く残っているのは、永年秘仏扱いされてきたからであろう。

国宝  不空羂寂観音像              天平時代(8世紀)

天平時代の作で、八臂の立像であり、全身はすらりと伸び、均整のとれた端麗な姿である。お顔は、高雅で、肉付きは引き締まっていながら弾力性を感じる。贅肉を一切作らぬ巧妙な造り方である。また衣文の彫り方も強い隆起を示す渦文を表し、柔軟流麗である。光背は円形光背のまわりに五つの火焔をつけた板光背である。

国宝  十一面千手観音立像           平安時代(9世紀)

弘仁時代(810~823)の作で千手観音の彫刻像の儀軌通りに十一面四十二臂像に作ってあり、各臂の持物も儀軌の規定に従っている。漆箔像であり、頭部から足までと、合掌する二臂と鉄鉢を持つ二臂は一木彫成であって、他の部分は繋ぎ合わせて作っている。堂々たる威厳のある相好を示している。

国宝  十二神将像(摩尼羅像)          平安時代(9~10世紀)

定朝の弟子である仏師長勢の作と伝えられている。薬師の守護神であるかた十二軀ともそれぞれ顔は怒りを表し、身には甲冑を付け、手には剣、鉾、弓等の武器を持ち、岩座上に立っている。躍動する姿が巧みに作られ、一々変化そ示している。藤原時代の作で、わが国最古の木彫りの神将像である。

国宝  桂宮院               慶長3年(1251)鎌倉時代

境内の西北部に桂宮院(けいきゅういん)、別名八角円堂がある。慶長2年(1251)に、中観上人により再建された鎌倉建築で、単層屋根桧皮葺八柱造であり、頂上に八角形の露盤を置き、その上に法珠を載せている。中央に聖徳太子像、右側に阿弥陀如来像、左に如意輪観音像を安置する。(公開は4,5,10,11月の日曜、祝日のみ)

広隆寺を訪ねたのは久しぶりである。霊宝殿の仏像の並べ方がすっかり変わっているのに驚いた。あれほど、世間を騒がせた学生事件を受けても、公開姿勢を堅持する広隆寺の逞しさに感服した。とにかく、国宝、重要文化財の仏像類が多い事では京都随一であり、一見の価値はある。私が訪れたのは2017年11月下旬の紅葉の季節のせいか、霊宝殿は、私一人であった。紅葉だけが京都ではない。これだけの仏像が並ぶお寺を拝まない人は不幸だと思った。是非、京都へ立ち寄る場合は、広隆寺を拝観して頂きたい。なお、紅葉の季節に京都の西部(洛西)を訪れる場合は、山陰線を利用することをお勧めする。バスで1時間以上要するところを、20分位で到着する。私には、新しい発見であった。

 

(本稿は、探訪日本の古寺「第9巻 京都洛西」、宮本健次「京都 特別な寺」、パンフレット「広隆寺」を参照した)