京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ(1)

京都の大法恩寺は、天台宗の僧侶・義空(ぎくうー1171~1241)によって鎌倉時代のはじめ、承久2年(1220)に創建された古刹である。大法恩寺の歴史は、寺に伝わる二つの縁起(えんぎ)から知ることが出来る。義空は出羽国の出身であり、岩手中尊時に眠る、奥州藤原氏三代目の藤原秀衡(ひでひら)を祖父に持つと言う。幼少期は鎌倉で学び、19歳で出家、授戒した。鶴岡八幡宮で夢告(むこく)を受け、天台宗を学ぶために上京し、滋賀・延暦寺に入り、澄憲(ちょうけんー1126~1203)に弟子入りした。承久元年(1219)、義空は霊夢を得て、大法恩寺の建立を発願した。翌年に仮堂を建て、3年後の貞応2年(1223)には本堂にとりかかった。この年、「仮堂」には「本尊等身釈迦と三尺の十大弟子」が置かれたという。棟木(むなぎ)の墨書によると、本堂の上棟は、更に4年後の安貞元年(1227)であった。実に発願から十年近い歳月をかけて棟上げにまでこぎつけたことになる。最近の年輪年代測定法で、本堂部材の年輪年代調査を行ったところ、最も新しい部材は、伐採年が1229年と判明した。この調査は、外陣の用材の伐採年が上棟の銘より2年遅れる事を示しており、上棟以後も、本堂の完成まで、さらに時間がかかったことをうかがわせる。多くの人々の寄付を募る勧進(かんじん)という手段によったからであろう。やがて寺は整備され、嘉貞元年(1235)に義空は、俱舎宗・真言宗・天台宗の参宗をあまねく広めること、天下が幾久しく続くよう祈願することを天皇に奏上した。これが認められ、大法恩寺は天皇のお墨付きを得た御願寺(ごがんじ)となった。多くの人々が、天台宗の戒律を受け、天台宗の根本経典である法華経の講義に結縁(けちえん)するために、門前に集ったという。内陣の骨格が出来上がり、最上部に棟木が架けられたのは安貞元年(1227)12月26日頃のことだった。棟木に記された義空自筆の願文には、本堂に等身釈迦如来、弥勒(みろく)、文殊(もんじゅ)、十大弟子の各像が安置されたと記されている。(墨書の写真がある)ここで、六菩薩が明記されていないことを、記憶にとどめて頂きたい。

国宝  本堂  木造・桧皮葺き  鎌倉時代(安貞3年ー1227の棟木あり)

大法恩寺本堂は、棟木銘の願文により安貞元年(1227)に、市井の人々の信仰を集め、天台宗に学んだ義空によって建立されたことが知られる。本堂は桁行5間、梁行(はりゆき)6間で、大棟に並行な方に入口のある平入(ひらいり)の建物で、檜皮葺(ひはだふき)、入母屋造(いりもやつくり)の屋根で、国宝に指定されている。平面は太い四天柱に囲まれた内陣と脇陣、正面に礼堂(外陣)、背面に後戸(うしろど)が取り付き、これらの周囲に切目縁が廻る。中世初期の密教本堂の代表作の一つである。同寺の最古の建築であり、建立後は、たびたび大きな修理によって改造がおこなわれてきたが、昭和29年(1954)の解体修理によって当初の姿に復元され、檜肌葺きの屋根のゆるやかな勾配に復元された。創建当初の姿をとどめる本堂は、奇跡的に戦火を免れた、洛中最古の木造建造物である。

国宝 礼堂(外陣)  木造  鎌倉時代(安貞3年ー1227年の棟木あり)

中世の密教本堂は、仏像を安置する正堂(内陣)と人間が礼拝する場である礼堂(外陣)が併設されることを大きな特徴とする。大法恩寺の礼堂は、母屋柱の上に大虹梁(だいこうりょう)を架けることにより梁間2間分の広々とした空間を作り上げている。私たちが、大法恩寺に詣でる時に、上がって仏像を拝む場所に当たる、現存する建築物のなかでは、大法恩寺本堂が初例である。

国宝  正堂(内陣) 木造  鎌倉時代(安貞3年ー1227年の棟木あり)

本堂中心部の平面は、太い四天柱(してんばしら)に囲まれた内々陣とその周囲一間をめぐる内陣で構成された一間四面堂の平面となっており、四天柱内には仏壇を作って厨子を置き、本尊を納めている。このような中心部に四天柱を持つ求心的平面形式は、天台宗の阿弥陀堂や法華堂などを原型として発展したものと考えられ、義空と天台宗の関係性が建築の形に表されたと考えられる。写真には本尊が映っているが、秘仏であり、私は、本展覧会で初めて本尊を拝した。

重文 釈迦如来坐像  行快作  木造、金泥塗り、漆箔 鎌倉時代(13世紀)

大法恩寺の秘仏本尊であり、年数回しか開扉されない。釈迦如来坐像で、本陣須弥壇の厨子内に安置されている。台座は蓮華九重座、光背は透かし彫り周縁部を伴う二重円光で、また厨子の天井中央には天蓋が吊るされているが、これらはすべて像造当初のものが残されている。本尊は、像高89.3cm(約3尺)の等身坐像である。像内には全面的に黒漆が塗られており、背面下部には「巧匠法眼 行快」と朱署名がある。鎌倉時代を代表する仏師。快慶の弟子、行快(ぎょうかい)(生没年不詳)の自筆の署名であろう。行快が法橋に任ぜられたのは、嘉禄3年(1227)8月以降であるとされる。衣を偏袒右肩(へんたんうけん)に着し、左手を膝の上に置いて掌を上に向け、右手は掌を前に向ける施無為・與願印(せむい・よがんいん)を結び、左足を上に坐している。図録によれば、最も重要な本尊を快慶が造らい訳がない。快慶作の本尊は、「仮堂」に安置され、それが何等かの事情で失われたために、一番弟子の行快が、秘仏を作成したものであろうと推察している。脇侍の弥勒・文殊菩薩は、何時しか失われたのであろう。

重文 十大弟子立像 快慶作  木造・彩色・裁金・玉眼 鎌倉時代(13世紀)

釈迦の弟子のなかでも、特に優れた十人を取り上げて「十大弟子」と呼ぶ。それぞれに出家した年次によってのみ上下関係が築かれ、協力して教団を支えた。経典には個別に登場することが多く、次第に釈迦の弟子の代表として4人、6人と選ばれるようになり、十人ひとかたまりとすることが定着した。出身地こそ、釈迦の布教範囲であるガンジス河流域に集中しているが、王族である釈迦の親族から司祭者階級のバラモン、労働者に至るまで、幅広い出自を持ち、さまざまなエピソードも知られる。奈良・興福寺の十大弟子(国宝・奈良時代ー8世紀、現存は六躯)、京都・清凉寺の十大弟子(重文、平安時代ー11世紀)、京都・大法恩寺(重文・鎌倉時代ー13世紀)神奈川・極楽寺十軀(重文・鎌倉時代ー13世紀)などが有名である。夫々に○○第一と名付けられるが、それは個々に招介したい。大法恩寺の十大弟子の色彩は、背面が今にも美しく残る。それぞれ頭部体幹部を一材から彫り出したのち、前後に割放して内刳りをほどこす割矧造(わりはぎづくり)の技法が用いられている。目建連には「巧匠/法眼快慶」の銘がある。また優婆離の像内には「法眼快慶/法橋行快」の銘がある。署名のある弟子、無い弟子と夫々であるが、快慶歳晩年の名作でまとまって現存するのは、この大報恩寺の十大弟子なのである。制作時期については、発願された承久元年(1219)から仮堂が建った承久3年(1221)頃が推定される。快慶は嘉禄3年(1227)に亡くなっているので、その最晩年の快慶(一門)の作である。

重文 十大弟子の内 舎利拂立像 像高 94.8cm 鎌倉時代(13世紀) 重文 十大弟子の内 目建連立像 像高 97.2cm 鎌倉時代(13世紀)

 

舎利拂(しゃりほつ)は聡明さで知られる「智恵第一」の舎利仏である。顔の肉付けがより肉感的で、衣にも深い襞と浅い襞を織り交ぜて変化が付けられている。目建連(もっけんれん)は釈迦の護衛を勤めた「神通第一」の舎利仏である。目建連立像には快慶の名前が記されている。優婆離と目建連以外に、他の像には銘文は見出されないので、素直に捉えるなら、目建連は快慶作であり、優婆離は、快慶とその弟子行快の合作であると解すべきであろう。

重文 十大弟子の内 大迦葉 像高 98.0cm 鎌倉時代(13世紀)   重文 十大弟子の内 須菩提 像高 94.0cm 鎌倉時代(13世紀) 

大迦葉(だいかしぉう)は清貧を貫いて、釈迦没後の教団を指導した長老で「頭陀第一」の舎利仏である。この像は快慶一門の工房作となるだろう。作者の名前は特定できない。須菩提(ずぼだい)は何事にも実体はないことを明らかにする「解空第一」の舎利仏である。この像も、快慶一門の工房作であろう。作者の名前は特定できない。顔の肉付けがより肉感的で、衣にも深い襞と浅い襞を織り交ぜて変化が付けられている。

重文 十大弟子の内 冨楼那立像 像高96.4cm  鎌倉時代(13世紀) 重文 十大弟子の内 迦旋延立像 像高 99.8cm 鎌倉時代(13世紀)

 

冨楼那(ふるな)は、仏弟子の中でもっとも説法に優れた「説法第一」とされた。冨楼那の風貌は、比較的若い。迦旋延(かせんえん)は、釈迦の教えを分かりやすく解説した「論議第一」とされる。容貌は穏やかで深く沈んだ表情をしている。この2体には作者の銘記が無いので、快慶工房の作であろう。

重文 十大弟子の内 阿那律立像 像高 96.7cm 鎌倉時代(13世紀) 重文 十大弟子の内 優婆離立像 像高 96.0cm 鎌倉時代(13世紀)

  

阿那律(あなりつ)は、説法中に居眠りを叱責され、不眠の修行に励んだため失明するに至り、代わりに智恵の眼を得た「天眼第一」とされた。穏やかな顔には、唇の朱が目立つ。失明したせいか、穏やかな風貌で若く見える。優婆離(うばり)は戒律を守ることに勝れた「持律第一」とされた。本像には像内の額裏に「法眼快慶/行快/法橋」と記されている。快慶と行快の共同作であろう。

重文 十大弟子の内 羅醐羅立像 像高97.9cm  鎌倉時代(13世紀) 重文 十大弟子の内 阿難佗立像 像高 97.0cm 鎌倉時代(13世紀)

   

羅醐羅(らごら)は、修行態度が堅実で、もっとも学ぶ意欲に満ちた「密行第一」とされた。釈迦の肉親であり、「釈迦の息子」と伝えられている。顔も若く見える。阿難佗(あなんだ)は、釈迦の侍者を勤め、多くの説法を聞いた「多聞第一」とされた。釈迦の従妹とされる。

 

この展覧会では、真っ暗な大きな部屋で、釈迦如来を中心に、十大弟子を扇面のように配置し、一つ一つの仏像にライトを当てるという素晴らしいレイアウトで魅了された。毎回、霊宝館で見てきた十大弟子が一人一人ライトアップされ、黒漆塗の肌が美しく照り映えた。「見せ方」一つでこんなに変わる物かと思った。釈迦の脇侍(きょうじ)だったと見られる弥勒、文殊菩薩の像は失われて今は無い。十大弟子像は、現在霊宝館に安置されているが、もともとは須弥壇上に、釈迦に随侍するかたちで置かれていたと見られる。ある時期には十大弟子立像は、厨子内に安置されていたようである。撮影時期不明の写真が、厨子内で本尊を十大弟子が取り巻く姿が写真で残されている。大法恩寺が建立された13世紀前半は、人々に仏の教えが届かず、仏法を実践する者すらいなくなる末法(まっぽう)の世を強く実感させる時代であった。12世紀末より全国規模で起こった源氏と平氏の内乱、度重なる大規模災害、なにより戦乱のさなかに東大寺の大仏が焼く崩れてしまったことは、仏法の破滅とそれと連動する王権の衰微を強く印象づけた。こうした時代背景のもと、仏教の教主である釈迦の教えに立ち帰ろうとする動きが強くなり、釈迦信仰が隆盛した。天台僧の義空は、釈迦は永久にこの世に存在し法を説くという「法華経(ほっけきょう)」の教えにもとずいて、大法恩寺を創建した。須弥壇表、裏には壁画が描かれている。今は、朽ちて殆ど満足に見られないが、比較的画題の判り易い仏後壁には「釈迦例鷲山説法図」(しゃかりょうじゆさんせっぽうず)を主題とするものである。大法恩寺本堂後壁は、裏面は壁画により、表面は壁画のみならず釈迦、十大弟子の像によって成り立つ立体曼荼羅により、釈迦霊鷲山説法を表した類例のない空間構成をとるものと思われる。

 

釈迦の脇侍(きょうじ)だったと見られる弥勒、文殊菩薩の像は失われて今は無い。十大弟子は、現在霊宝館に安置されているが、もともとは須弥壇上に、釈迦に随侍するかたちで置かれていたと見られる。ある時期には十大弟子立像は、厨子内にに安置されていたようである。撮影時期不明の写真が、厨子内で本尊を十大弟子が取り巻く姿が写されている。大法恩寺は、京都では千本釈迦堂と呼ばれ、愛されている。上京区にあり、本堂前には「お福さん」と呼ばれる笑みの美しい女性像が安置されている。「千本釈迦堂のお福さん」と京都の人々は愛称している。むしろ庶民信仰のお寺のように人気の高いお寺である。

 

(本稿は、図録「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ   2018年」、原色日本の美術「第9巻 中世寺院と鎌倉彫刻」、探訪日本の古寺「第8巻 京都Ⅲ」を参照した)