京都・醍醐寺  真言密教の宇宙(2)

密教は、教理そのもを探究する「教相」(きょうそう)と、その実践である「事相」(じそう)の二つからなるもので、特にこれまでの仏教とは異なる現世利益を実現する事相は、寺院と僧侶によって重要な宗教活動とされ、教相よりも強調される傾向にあった。加持祈祷(かじきとう)とか修法(ずほう)と呼ばれるものが目立つ。これらの相承は、誰も出来るものではなく、師から資質が認められた弟子へと口伝(くでん)によってされることを原則としている。このような相承の流れを「法流」と呼ぶ。本来ならその流れは一つである筈だが、加持祈祷や修法の実践方法の違い等により次第に細分化していくことになる。真言密教における大きな法統は小野流と廣澤流であり、小野流の祖となる人物が聖法で、醍醐寺がその中心寺院となった。もう一つの広沢流は聖宝の法兄になる益信(やくしんー827~906)を祖とし、仁和寺を拠点としている。どりらもその寺院のある地名に因んだ呼称となるものである。醍醐寺は、真言密教の二大法流の一方の拠点として、密教でもより事相である実践に重きをおいた寺院として発展してきたのである。この性格は、醍醐寺に伝わる密教美術を中心とする宝物に関わってくる。密教の実践は、身、口、意(しん・く・い)の三密行を基本とし、手に印を結び(身)、口には陀羅尼(だらに)を唱え(口)、心には本尊を観想する(意)ことにより、行者と本尊の一体化をはかり、それによって様々な宗教的効験を得られるとするもので、これが密教の修法の基本となる。その際、思い描く本尊や緒像の図像が不可欠で、密教と造形美術の密接な結びつきが生まれる。つまり、密教の修法において、その本尊となる絵画などの絵像であり、時には彫刻となるのである。事相の寺として様々な願いに応じるための修法を行ってきた醍醐寺に、数々の彫刻や、白描図が伝わってきた訳である。本章では、白描図、図像をまとめて研究したい。

国宝 閻魔天像  絹本着色  平安時代’(12世紀)

地獄の支配者閻魔大王を密教像として、太い線をもって力強く描いた画像である。正面向きではなく斜め右に描かれており、左足を垂れ、右脚を曲げて水牛の背の乗る。うすい彩色や墨線で仕上げられて、堅苦しさがなく柔らかに描かれている。閻魔天像は宮中の安産を祈祷する密教修法である五檀法(ごだんほう)を修する際、脇壇の本尊として用いられる。醍醐寺においても鳥羽天皇の皇后である待賢門院(たいけんもんいん)も安産祈願のために閻魔天供が修されたことが知られ、現存する「閻魔天騎牛像」は、その際の本尊に当たると考えられている。

重文 普賢延命菩薩坐像 紙本彩色  鎌倉時代(建久9年ー1198)

四頭の象に支えられた蓮華座に坐す二十臂(ひ)の普賢延命菩薩を墨のみで描く。「金剛口決」(こんごうくけつ)に説かれる像容を示し、その姿は、次の像に似ているが、持物の一部と白象の頭上に立つ四天王が右から多聞天、持国天、増長天、広目天と並ぶのはほとんど類例が無い。書写年を示すと考えられる「建久九年六月廿四日」のほか、「仏身黄色」「朱」といった色合いの指示が記されておりそれは裏面にも及ぶ。由緒ある画像を忠実に写そうとする慎重な配慮がうかがえる。

重文 普賢延命菩薩像  絹本着色  鎌倉時代(13世紀)

増益(ぞうやく)や延命長寿を祈るための普賢遠命法の本尊となる普賢延命菩薩を描く。二十本の腕(二十臂)を持ち、四頭の白象が支える蓮華座に結跏跋座する。像の頭上には四天王(右から持国天、増長天、広目天、多聞天)が立つ。普賢延命菩薩像には二臂と二十臂の二つのタイプがある。真言密教では二十臂が主流である。本図に見られる激しい損傷は、この図像が三内で重んじられ、たびたび修法に使用されたことが窺える。延命長寿は、多くの人が望んだことだろう。

重文 孔雀明王図像  紙本墨色  鎌倉時代(12~13世紀)

羽を広げて立つ孔雀の上に坐す孔雀明王を描く。孔雀明王は四臂で、右手第一は蓮華、第二手は倶縁果(くえんか)を、左手第一手は胸前で吉祥果を持ち、第二手は孔雀尾を持つ。明王の下に華盤(けばん)を描くほか、頭部や羽などを描いた部分図も同じ料紙に貼り合わせている。孔雀明王像を本尊とする孔雀経法は、息災(そくさい)や増益(ぞうやく)のほか、さまざまな祈りに応える修法(ずほう)として平安時代以来、絶大な支持を得た。白描図像ながら丁寧に彩色を施し、正中線を用いて正確を期すなどの慎重な制作態度から、本図は彩色本を制作するための本格的な下絵として描かれたと見られる。

孔雀明王  一幅  絹本着色   鎌倉時代(13世紀)

正面向きで羽を広げる孔雀に乗り、蓮華座に座る孔雀明王を描く。四本の手を持ち、右手には蓮華と倶縁果(くえんか)、左手には吉祥果と孔雀尾を持つ。画面下の左右には宝珠を置き、右上に月輪(がちりん)に包まれた蓮台(れんだい)を表す。孔雀明王は。、毒蛇さえも食べるという孔雀を神格化したもので、あらゆる災厄をはらうとして信仰を集めた。息災や増益(ぞうやく)、祈雨のため修される孔雀経法の本尊とされるが、空海の影響が大きい。裏彩色(うらざいしき)や中間色を多用したおだやかな色調、肉身に施された微妙な朱、丸みを帯びたおだやかな面相など、平安仏の雰囲気を残した優美な作例である。

重文 善女竜王図像 深賢筆  鎌倉時代(建仁元年ー1201)

冠をいただき唐服を着けた王族風の男性が、湧き上がる雲に乗る姿を描く。左手には火焔宝珠を載せた皿を持つ。その裾を見るとわずかに龍尾がのぞいており、空海と縁の深い善女善竜王であると判明する。善女竜王図は、天長元年(824)空海が神泉苑において雨乞いの修法(ずほう)を行った際に愛宕山に現れたと伝わる。醍醐寺には、善女竜王を描いた作例としては鎌倉時代にさかのぼる白描図がもう一幅、彩色本も一幅残されており、醍醐寺において重視されたことが窺える。

善女竜王図  絹本着色  一幅   鎌倉時代(13世紀)

空海所縁の尊格で、請雨経法(しょううきょうほう)の本尊として重視された善女竜王を描く。涌雲に乗る王族風の龍王の姿は、平安時代・久安元年(1145)に絵仏師定智が描いた「善女竜王図」(国宝、和歌山、金剛岑寺蔵)と細部まで一致する。前出の白描描図像をもとに描いたと推定される。本図における、緑や青、橙などほぼ原色で用いる明快な色使いと謹直で太さのある描線は、醍醐寺に残る鎌倉時代の絵画に共通する。

重文 不動明王像 紙本白描 信海作   鎌倉時代(弘安5年ー1282)

右上隅の銘文より、弘安5年(1282)に仔細があって描かれた像であることが分かる。海上に孤立した岩の上に立ち、剣を杖に体を前かがみにして前方を見るともなく沈思している精悍な不動の姿を描く。筆者の信海は似絵(にせえ)の名手といわれた宮中繪所(えどころ)の絵師藤原信実(のぶざね)の第4子に当たると言われ、醍醐寺に住み画僧として仏画を描いていたらしい。

重文 不動明王図像  長賢筆  鎌倉時代(13世紀)

向って左に顔をふり、身体は右に向け、右手に剣、左手に羂索を持って悉悉座(しつしつざ)に坐す不動明王、両目は見開き、上の歯で下唇を咬む。髪は全体をまとめて左耳前に垂らし、頭頂に蓮華を載せる。全体を包む火焔光背には迦楼羅鳥(かるらちょう)が表されている。本図の原本は京都・神護寺に伝わる高雄曼荼羅(国宝)の中の不動明王像に求められる。高雄曼荼羅は、空海が唐から請来した両界曼荼羅(現存せず)の現存最古の転写本で、空海在世時に制作されたと考えられる。本図はその不動明王の姿を細部までよく写しているものである。なお、彫刻作例ではあるが、醍醐寺に残る快慶作不動明王坐像も同じ図像による。

重文  不動明王坐像  快慶作  鎌倉時代ー建仁3年ー1203)

像内削り面に墨書銘があり、そのうち胸部には建仁3年の年紀や仏師快慶の法号が記されていた。本像の像様については、これまで京都・東寺講堂像に端を発した、いわゆる「大師様」であることが語られてきたが、醍醐寺伝来の長賀筆「不動明王図像」は裏面に「以高雄曼荼羅本様摸之」と注記があり、本像とほぼ一致する形式を示す。白描図は彫刻の下図として活用されていたことが分かる。

 

真言密教は教相(教義)と事相(教義に基ずく実践)を主柱として継承されてきたが、とりわけ醍醐寺では、聖宝(しょうほう)による創建以来、公武権力との関わりのもとで事相を前面に掲げ、鎮護国家や現世利益のための修法を重んじながら存続と発展を図ってきた。醍醐寺に伝存する聖教は、事相に関するものが大半を占めている。特に修法の次第や作法に関する口伝を記したものが多く、醍醐寺聖教の世界は、修法の世界そのものと言っても過言ではない。第二章では、絵画特に白線描図を中心にまとめてみた。白線描図は仁和寺と醍醐寺が最も多く伝わっている。やはり真言密教の事相を中心に維持発展してきた流派であると思った。事実、長賢筆の不動明王図像が、鎌倉時代の快慶作の「不動明王」(重文)となって表されている。仏像の彫刻のみを見ていては、本当の密教美術は理解できないと思った。

 

(本稿は、図録「京都・醍醐寺真言密教の宇宙  2018年」、古寺巡礼・京都「醍醐寺」、図録「鳥獣戯画 京都・高山寺の至宝  2015年」日本経済新聞2018年8月20日「特集 アートライフ」を参照した)