京都・醍醐寺 真言密教の宇宙(1)

サントリー美術館で「京都・醍醐寺 真言密教の宇宙」展を11月11日まで開催している。醍醐寺は密教美術の宝庫であり、特に真言密教の仏像・仏画は7万点に登り、日本でも世界でも密教美術の宝庫として知られる。御承地の通り、密教は空海が日本にもたらした新しい仏教であるが、真言密教の仏像類は、日本が世界で最大の保管数を誇る。醍醐寺では、平成28年(2016)国宝・重要文化財を多数含む寺宝を、初めて中国で展示した。展覧会は高評を博し、上海と西安の二都市で80万人以上の来場者を迎えた。この中国の展覧会を記念して、この展覧会が日本で開催されることになったのである。私は、何度も醍醐寺を訪れているが、今回は展覧会に沿って、寺宝(仏像・仏画・古文書類)を中心に解説を試みたい。密教美術は、ある意味でグロテスクであり、中々興味を持てないものであるが、できるだけその用途、修法(ずほう)などに触れながら、解説したい。なお、醍醐寺と言えば、秀吉の桜見物が有名であり、その意味でも三法院が重要であるが、今回は堂塔の紹介は最小限に抑え、展覧会の目的である「真言密教の宇宙」を中心にお話を展開したいと思う。いずれ、「京都古寺巡礼」として、醍醐寺と周りのお寺を巡り、「京都古寺巡礼」の旅を記す機会をお約束して、展覧会を忠実に再現したい。さて、醍醐寺には下醍醐(しもだいご)と上醍醐(かみだいご)に別れる。上醍醐とは、下から約1時間20分程登った山頂に存在する寺院である。私は、登ってみて約500メートル程の高度であると思ったが、中々上醍醐まで登頂する人は少ない。貞観11年(869)に東大寺別当であった聖宝(しょうほう)は、笠取山の山頂で湧き出る水を発見し、飲んだところ、「醍醐味なり」と称賛し、「私はここに精舎(しぉうじゃ)を建て、仏法を広めたい」と思い、自ら刻んだ准睼観音(じゅんていかんのん)・如意輪観音菩薩を奉安し、醍醐寺の開創となった。時は貞観16年(874)のことであると伝えられている。以来、醍醐天皇の帰依を受けこの山上に延喜7年(907)に、薬師堂を建立し、薬師三尊を奉安した。

国宝  薬師如来及び両脇侍   平安時代(10世紀)   霊宝館

醍醐寺を開創した聖宝(しょうほう)の死後、弟子の観賢(かんけん)が遺志を継いで延喜13年(913)に完成したものである。薬師如来像は、台座から3メートルもある大きな仏像であるが、それを取り巻く脇侍の日光・月光菩薩は120cm程度で、如来の大きさと、脇侍の高さがアンバランスに見える。しかし10世紀以来の形である。三尊とも一木造、表面に漆箔を施している。醍醐寺草創期の記念碑的作品であり、思わず頭が下がる尊像である。平安初期の仏像の典型例である。本尊はもとより、日光、月光菩薩とも平安時代初期の仏像の典型例であり、本尊は特に重厚な感じがする。

重要文化財 如意輪観音像  平安時代(10世紀)    霊宝館

如意輪観音は、聖宝(しぉゆほう)が准抵(じゅんてい)、如意輪観音像をまつり醍醐寺の始まりとして以来、寺内においては特別に信仰されてきた。本像は、もと上醍醐滝宮(寛治2年ー1088)鎮座の本地仏(ほんじぶつー神体)として祀られていた像である。6本の腕には蓮華・輪宝・如意宝珠・数珠を持ち、ふきらみのある顔や頭部と胴部を一木で彫成しているなど平安時代初期の作風を示し、10世紀末までさかのぼる可能性が高い。美しい、密教仏らしい仏像であり、私は好きだ。

醍醐水(だいごすい)の基

笠取山中で聖宝(しょうほう)が出合った翁(地主尊、横尾明神)が「永く此の地を師に献ぜむ。よく密教を広め群生を救済せよ。吾も亦擁護せむ」と告げ、落葉をかき分けて、その下から湧き出した泉を汲んで「ああ醍醐なる哉」と讃えたという醍醐寺発祥の湧水である。醍醐(だいご)とは牛乳から作った乳製品とされているが、多分「チーズ」の意味であろうと言われている。それが液体化したということは、私は、むしろ今日のヨーグルトではないだろうかと勝手に想像している。「ヨーグト」こそ、醍醐寺の場合は、心の糧として仏法が最高の味の味であるとするのであろう。

国宝  五重塔  平安時代(10世紀)    下醍醐

3間5重の塔婆(とうば)で本瓦葺、高さ38.2メートルの安定感のある堂々たる五重塔で、京都に遺るものとして最古の五重塔である。「醍醐寺雑事記」によれば、承平元年(931)朱雀天皇が醍醐天皇の冥福を祈って建立を祈願、20年を経た天暦5年(951)村上天皇の御宇うに完成し、翌年に塔供養が催行された。初層内部に描かれた両界曼荼羅・真言八祖像をはじめとする壁画は、醍醐寺最古の密教絵画で、我が国絵画史上貴重な作品である。

国宝 五重塔初重壁画両界曼荼羅図 旧連子窓羽目板断片 平安時代(天暦5年ー951)

塔の建立とほぼ同じ時期に完成したと考えられる両界曼荼羅や真言八祖像などによって埋め尽くされている。今回展示されたのは、旧連子窓羽目板断片2枚で、かっては南側西寄りの壁に嵌められていたものである。ここに描かれた壁画は、唐からの将来品に倣うことから少し自由になり、やがて平安時代後期にわが国独自の美麗なる表現を確立するまでの過渡期を伝える極めて貴重な遺例である。

重分 五大明王像  木造  5体  平安時代(10世紀)  霊宝館

中央が不動明王坐像で、左に金剛夜叉明王、大威徳明王、右に降三世明王、軍荼利明王の五大明王像である。かって上醍醐にあった醍醐寺初代座主観賢(かんげん)の草建になる中院(ちゅういん)に本尊として伝わったとみられる像である。当初の五躯がそろう五大明王像としては、京都・東寺講堂像に次ぐ古作となる。眼球を飛び出させ、歯をむき出した恐ろしげな顔を持ち、細身の体つきなど独特の雰囲気を醸し出す五大明王像で、胴体・頭部を一木で彫りだし、深い内刳りを施す技法で造られる。10世紀ごろ制作になる五大明王の古例として珍重される。醍醐寺には五大明王像が仏画を合せて数組存在しており、密教寺院らしい象徴的な尊像の一つである。その中にあって本像は、上醍醐の五大堂に安置されていた五大明王像に次いで制作された伽藍整備期の作であり、醍醐寺の実質的な基盤を築いた初代座主の観賢の思想が反映された違例として貴重な遺産である。

国宝  虚空菩薩立像  木造  平安時代(9世紀)   霊宝館

醍醐寺に現存する仏像のうち、最古の仏像で、制作時期は同寺の創建以前に遡る。像本体から遊離する天衣(てんね)部分も含め、本体から台座蓮肉部まで一材より彫り出したものである。着衣は体躯の動きに合わせながら深く鋭く刻まれており、量感ある肉身表現とともに、本像をスケールの大きな像に仕立てている。カヤと見られる堅い材を用い、一木から彫り出す技法や、固い材を生かした彫刻表現などは、本来香木である白檀を用いてつくる壇像の特徴となるものである。カヤは白檀が自生しない日本における代用材と考えられ、本像はそれを用いた「代用壇像」の一例に数えられる。本像は長く聖観音像とされてきたが、近年の調査で醍醐寺内に伝わった菩提寺の「虚空蔵菩薩」と刻まれた版木に表された像の形状が本像と同じであることから、平成27年(2015)の国宝指定に伴って名称が変更された。なお私見であるが、この仏像は密教仏ではなく、顕教仏であると私は見ている。専門家の意見を聞きたい。

国宝  五大尊像  図像 絹本着色 鎌倉時代(12~13世紀) 霊宝館

図像であり、彫刻仏では無い。中央が軍荼利明王、大威徳明王、右が降三世明王、金剛夜叉明王の五大尊像の図像である。鎮護国家を祈る仁王経や、息災や調伏(ちょうふく)を目的とする五檀法の本尊となる五大尊像である。不動明王や大威徳明王など五尊を一幅ずつに描いた五幅対である。不動明王以外の四明王は、12世紀に成立した図像集「別尊雑記」所載の遠心様(えんしんよう)にほぼ一致する。鎌倉時代初期にさかのぼる五大尊の名品である。これこそ、密教美術らしい図像であると思う。

重分 大元帥法本尊像(6図)内大元帥明王像(36臂)絹本着色 鎌倉時代(14世紀)

大元帥法(だいげんすいほう)は鎮護国家や外敵調伏(がいてきちぉゆぶく)を祈る秘法で、空海の弟子である常業が承和6年(839)に留学先の唐から図像や経軌を持ち帰り、その効験を朝廷に訴え、承和7年(840)に内裏で初めて修されたのち、忍寿元年(851)からは毎年正月に勤修(ごんしゅう)されるようになった。常暁の住した小栗栖法琳寺は大元帥法の修法院と定められ、本尊も安置されるなど、長くその修法を護り継いだ。平安時代後期に法脈が衰退すると、理性院の祖である兼覚が法琳寺の別当となるなど影響を及ぼすようになり、やがて南北朝時代以降、大元帥法は理性院に承継されることになる。現在の六幅は、正和2年(1313)、法琳寺大元堂の本尊が焼失したため、絵仏師賢信によって新たに描かれたものである。その画風は「醍醐寺様」とも呼ばれる醍醐寺伝来の鎌倉時代の仏画に共通してみられる、鮮烈な彩色と謹直な線描といった特徴を備えている。密教の大元帥法を醍醐寺が如何に、吸収していったかという道筋が明らかにされた事例であろう。

国宝 訶李帝母像 一幅 絹本着色  平安時代(12世紀)

訶李帝母は鬼子母神ともいい、他人の子を捕って食べる悪鬼であったが、釈迦の教化によって子供たちを守る神になったという。絵は、左腕の中に赤子を抱き、右手に多産の象徴である柘榴をとって床座に座る訶李帝母を大きく描く。訶李帝母像は、安産や子供の成長を祈る訶李帝母法の本尊となる。訶李帝母法は、安産祈願のために平安時代以降、たびたび修されたことが資料から明らかで、特に大治元年(1126)と翌年にかけて、三方院流の祖である勝覚が鳥羽天皇の皇后である待賢門院の安産祈願のために訶李帝母法を行っている。この像も密教らしい像である。

 

上醍醐の時代と仏像や、修法の密法の図像を多数示したが、密教の仏教美術には、なかなか馴染み難い点が多々ある。しかし鮮烈な元色や、荒々しい仏像の姿は、多分平安時代の人々を魅了し、既存仏教とは違う妖しい美しさに魅了されたであろう。朝廷と結びついて発達したことも、大きな特徴であり、大いに繁盛した理由であろう。今日の私達にも、何かと馴染み難い仏教美術であるが、それを乗り越えると密教美術の妖しさに心惹かれるものである。醍醐寺は、京都・東寺、仁和寺と並ぶ密教美術の宝庫であり、この後も、引き続き醍醐寺を連載するので、是非、密教美術の魅力を堪能して頂きたい。

 

(本稿は、図録「京都・醍醐寺真言密教の宇宙  2018年」、京都古寺巡礼「京都6 醍醐寺」、探訪日本の古寺「第七巻  京都洛中・洛南」2018年9月18日「日経特集号」を参照した)