仁和寺と御室派のみほとけ   仁和寺編

東京国立博物館で2018年1月16日より3月11日まで、「仁和寺と御室派のみほとけ」展が開催されている。(副題として「天平と真言密教の名宝」)私は、既に「仁和寺、伽藍、御殿、宝物」の3偏を書き綴ったが、この展覧会は、また見栄えある素晴らしい第一級の展覧会であった。この展覧会を2回に分けて連載するが、第1回は「仁和寺  宝物」と重複する部分があるが、それはご寛容頂きたい。特に素晴らしいのは、御室派(おむろは)と呼ばれる全国に広がる、仁和寺を総本山とする全国約790寺の真言宗御室派寺院の秘仏(中には33年間に1回公開するという超秘仏も含まれる)が多数出展されている。京都洛西の景勝地、御室(おむろ)に伽藍を構える仁和寺は、仁和4年(888)、宇多天皇によって開創された。初め、父帝光孝天皇が御願寺(ごがんじ)として着工されたが、落慶をみずに崩御されたため、その遺志を継いだ宇多天皇が創建したことに始まる。以降、歴代天皇の厚い帰依を受けながら、代々の皇族が住職(御室)となる門跡寺院として高い格式を誇ってきた京都有数の古刹であり、現在は全国に約790寺院ある真言宗御室派の総本山でもある。この展覧会は、平成24年12月から着手した仁和寺の観音堂をはじめ金堂、御影堂(みえどう)の大修理が完了したことを紀念して開催されたもので、仁和寺および御室派の寺宝を一堂に展望できる、わが国初めての展覧会である。最初に「仁和寺編」をまとめたが、これは「仁和寺  宝物」と重複する部分が多いが、そこはご寛容いただきたい。

国宝 阿弥陀如来坐像  木造漆箔  像高 89.5cm 平安時代 仁和寺

故光孝天皇の1周忌の法会の本尊が、今霊宝館に安置されている阿弥陀如来坐像及び両脇侍仏と推察される。阿弥陀如来坐像は、像高が90センチ程度で、腹前で「阿弥陀の定印」を持つ阿弥陀如来の中で、およそ制作年代が分かる現在最古の像である。寛平8年(896)に供養された京都・清凉寺の阿弥陀如来坐像(棲霞寺本尊ー「清凉寺」にくわしく解説した)をはじめ、これ以降、定印を結ぶ阿弥陀如来像は、平安時代を通じて盛んに造像されるようになった。仁和寺が天台寺院として創建されたことからすれば、当初、仁和寺に安置された仏像も天台宗の枠組みの中でつくられたと考えるのが自然であろう。現在、仁和寺が真言密教寺院であることや、中尊の阿弥陀如来座像が密教的な性格を持つ定印を結ぶことから、本像が密教修法の本尊として造られたとする見解が妥当だろう。

国宝 阿弥陀三尊像のうち左右脇侍 木造漆箔  平安時代  仁和寺

本尊の脇侍仏で観音菩薩・勢至菩薩であるが、頭上にそれぞれ化仏(けぶつ)、水瓶(すいびょう)を表す通常の形をとらないので、どちらを観音。勢至とするかが説が一定しない。平安時代の後期の金工を思わせるが、同時期の彫刻である醍醐寺如意輪観音像の宝冠とも近似するので、やはり当初の仏像と見るべきであろう。

国宝 薬師如来坐像  円勢・長円作  康和5年(1103)平安時代 仁和寺

霊明殿の本尊である。元は仁和寺北院の本尊で、空海請来と伝える本尊が焼失したので、康和5年(1103)に本尊が仏師円勢と長円親子によって再興されたものである。白檀(びゃくだん)による壇像(だんぞう)である。像高はわずか11センチほどで、台座を含めても21センチ弱の小さな像である。後屏(こうびょう)には日光・月光菩薩立像、円形の頭部には七躯の七仏薬師坐像、台座の腰部にはそれれぞれ十二神将が三躯ずつきわめて精緻に浮彫りされている。火災に遭う前の根本像は空海ゆかりの像だと伝えられており、再興像である本像は、根本像の材質、大きさや形式を忠実に受け継がれていると考えられる。平安時代後期壇像の傑作の一つである。

国宝 孔雀明王像  絹本着色  中国・北宋時代(10~11世紀) 仁和寺

重層的な彩雲を背景に、孔雀に乗った異形の明王がまさに今、地上に降り立つ姿を描く。三面六臂像に描かれる。三面のうち、正面は菩薩の慈悲相であるが、対照的に左右面は暴悪相であり、左面は開口の阿形、右面は閉口の吽形で表現されている。腕は左右第一手は合掌、第二手は弓と箭(や)、第三手は金剛杵(こんごうしょう)と戟(げき)をそれぞれ持つ。六臂像の経典は、もともと日本で究極の秘密、極深秘と言う扱いであったがために、現在六臂像に合致する儀軌(ぎき)は見つかっていない。特筆すべきことはその写実性である。明王や孔雀の顔だけでなく、羽の一枚一枚に到るまで詳細に描かれている。

国宝 十二天像 毘沙門天像  平安時代 台治2年(1127)京都国立博物館

台治2年(1127)、宮中で行われていた後七日後修法(ごしちにちみしほ)の際に掛けられていた十二天像が焼失した。その際、宇多法王ゆかりの仁和寺円堂後壁の画像をもとに描かれたのが十二天像である。失われた仁和寺円堂の様子がうかがえる貴重な作例である。本図は、十二天像のうちの毘沙門天像を表す。

国宝  三十帖冊子  空海ほか筆  平安時代(9世紀)  仁和寺

弘法大師空海が、在唐中(804~806)に長安の清龍寺恵果阿闍梨(746~806)らから密教経典などを、唐の写経生のほか空海自身も書写し持ち帰ったものである。元来三十八帖あったものであるが、現在は三十帖となり、この名で呼ばれるようになったのである。本書は東寺経堂から高野山、そして東寺に戻されてきたが、文治2年(1186)主覚法親王が借覧し仁和寺大聖院経蔵に収め以後、そのまま返還しないで、今日に到ったものである。借りたまま返さないということになるだろう。

国宝  医心法  紙本墨書  5帖   平安時代   仁和寺

「医心法」は、日本における現在最古の医学書(全三十巻)である。平安時代の鍼(はり)博士丹波康頼(たんばやすより)(912~995)が天元5年(982)に撰述し、清書したのち、永観2年(984)に奏進した。中国の前漢から隋・唐時代の「黄帝内経」(こうていないきょう)や「備急千金要法」「養生要集」ほかの医学書を100種以上使ってまとめており、現在ほかの医学書が失われているものも多いため中国の医学研究においても重要視されている。

国宝黄帝内経太素23巻紙本墨書平安時代(仁和2~3ー1167~68)仁和寺

中国伝説上の黄帝である黄帝と名医岐伯(きはく)の問答形式で書かれた医書「黄帝内経」の注釈書で、特に医学理論を論じる。これは典薬頭(てんやくのかみ)を襲った医家、丹波家に伝来した古写本23巻で、「医心法」を撰述した康頼の7代の孫、頼基の書写になる。仁和寺には泰素のほかに、鍼灸など臨床の治療について注釈した「黄帝内経明堂」(国宝)2巻が伝存する。こちらは永仁4年(1296)と永徳3年(1383)に、やはり丹波家で書写された。

国宝  御室相承記  6巻  紙本墨書  鎌倉時代   仁和寺

仁和寺門跡初代の宇多天皇(空理)から、第7世道法親王(尊性、後高野御室ー1166~1214)まで歴代門跡の事績を記録した年代記である。各門跡Ⅰ世ごとに巻が当てられ、第6世守覚(しゅうかく)法親王の巻を欠くので、全6巻が伝わっている。法会や密教修法を行った月日や場所、関係者まで記述され、平安時代から鎌倉時代初期までの仁和寺の動向を知る最重要資料である。

国宝 高倉天皇宸翰消息  紙本墨書  平安時代(治承2年ー1178)仁和寺

高倉天皇(在位1168~80)の中宮、平徳子(たいらとくこ、健礼門院)は、父清盛の六波羅亭で天皇御子を生もうとしていた。時に治承2年(1178)。仁和寺第6世主覚心法親王は、安産祈願の孔雀経法を修し、無事皇子が生まれた(のちの安徳天皇)。この消息は、修法の効験と、先年三条烏丸内裏での同法の霊験も殊勝であったことを合せて謝する内容である。守覚法親王は高倉天皇の兄で、消息の冒頭「大法無事結願、喜悦」と、18歳で父親となった天皇は、兄に対して素直な喜びと謝意を表す。天皇は現存唯一のこの宸翰を残し、わずか2年2カ月後に崩御する。

 

「仁和寺と御室派にみほとけ」の仁和寺編は、先の「仁和寺  宝物」と似たテーマであり、幾つかオーバーした事例もあるが、いずれも「仁和寺」を語る上で欠かせない宝物である。さて、仁和寺の歴史を見ると、火災の焼失の歴史であり、特に応仁の乱では、京都全域が壊滅状態になるが、仁和寺も応仁2年には東軍の兵によって堂塔のすべてが焼かれた。いまに伝わる本尊などの仏像や経典、宝物は、仁和寺近くの双ヶ岡(ならびがおか)の麓にあった真光院に移されていたため難を逃れたと考えられる。応仁の乱からの再建が始まるのは江戸時代初期のことである。よくぞこれだけの宝物、仏像類が無事、現在まで伝わったものだと感心した。「日本人の物持ちの良さ」が端的現れた事例であり、先人各位のご努力に感謝したい。

 

(本稿は、図録「仁和寺と御室派のみほとけ   2018年」、京都古寺巡礼「第22巻 仁和寺」、日本古寺探訪「第9巻 京都Ⅳ 洛西」を参照した)