仁和寺と御室派のみほとけ   御室派編

仁和寺御室派は、第二次大戦後に成立した真言宗の宗派の一つであり、全国に約790寺で形成されたものである。実は近世以前から仁和寺の末寺であった寺院を戦後に集めて形成されたもので、歴史的に仁和寺とその末寺の姿をよく受け継いでいる。本展には、全国から選りすぐりの優品が集められており、御室派の実力を見せつけられた感じがする。中には、既に優品として拝観した仏像(例えば葛井寺ーふじいでらーの千手観音菩薩坐像)等もあるが、大半の仏像、宝物は初見であり、かつ秘仏が多い。良くぞ、これだけの名品を集めたものだと、感心し、実に楽しく拝観させて頂いた。前期。後期にの2回にわたり、それぞれの優品を見せて頂いた。今年の大きな収穫であった。この展覧会を主宰された関係者各位に厚く御礼申しあげたい。御室派編では、特に関心の高かった仏像に特化した解説となった。

国宝  千手観音菩薩坐像 奈良時代(8世紀)  大阪・葛井寺(ふじいでら)

本展覧会の最大の呼び物である。(後期展示)私は、奈良国立博物館で一度拝観し、日本の仏像彫刻の中の最優秀作品と評価している。葛井寺は、大阪市の南部を流れる大和川と支流の石川の合流地点付近に位置する。畿内でも早くから開けたこの土地では、渡来系氏族が集まり、5世紀に巨大な古墳が築かれた。その後は古墳に代わって、有力氏族の寺院が多数建立された最先端の地域である。この千手観音菩薩坐像は、頭上に十一面をいただき、胸前で合掌する手と像をまわりに半円形に広がる脇手と像をまわりに半円形に広がる脇手とをあわせて1041本の手を持ち、各手の掌には眼が描かれる、十一面千手観音菩薩坐像である。インド初期密教が生み出した変化観音の一つである。本像の作風は天平年間(729~749)後半の作と考えられてきたが、奈良・東大寺の法華堂諸像と共通することが指摘されている。私も、法華堂に安置されていた日光・月光菩薩像と良く似ている面があると思う。近年の研究成果により、法華堂の建立は天平年間の前半まで遡る可能性が高い。この像の制作年代は天平年間の前半頃と見るべきであろう。この像の大きな特徴は、千本の手が認められることである。正しくは1039本の手で台座の蓮華を象った部分が丸く円を描く構図で、脇手が美しさを演出している。奈良・唐招提寺の千手観音菩薩立像(国宝)は、本来千本あったはずであるが、今は953本の手が残るのみである。従って、日本にある天平時代の千手観音菩薩像で千本を超える手を持つ観音像は、本像のみである。葛井寺像の頭上には、正面に化仏(けぶつ)立像があるほか、中央の一番高い位置に仏面、その周囲に十個の面がある。これは十一面観音菩薩像と同じで、観音の目はすべての方向に向いていることを示している。この仏像の美しさは他に類例を見ない。是非、一度拝観されることをお勧めする。この仏像は秘仏であり、葛井寺を拝観しても拝めないことが多いので、是非会期中に拝観をお勧めする。

国宝  十一面観音菩薩立像   平安時代(8~9世紀)  大阪・道明寺

道明寺は、葛井寺(ふじいでら)から約2キロ東に位置する寺である。応神天皇など巨大古墳が点在するこの地域は、古くから栄えた土地であった。道明寺は、平安時代には「土師寺」(はじでら)と呼ばれており、この地域を本拠としていた豪族で、菅原道真の祖先に当たる土師氏(はじし)の氏寺として7世紀に創建された寺である。現在、本寺の本尊として本堂に安置されている。本像の作風は、京都・長岡市に所在する宝菩提院(ほうぼだいいん)の菩薩半跏像に通じており、宝菩提院像が造られたと推定される長岡京時代(784~793)に近いと考えられる。

重要文化財 釈迦如来坐像 鎌倉時代(13世紀)  宮城・龍宝寺

京都・清凉寺に安置された釈迦如来像を摸刻したもので、各地に百体を超える清凉寺摸刻像があるが、その出来栄えはさまざまで、この龍宝寺像は中でも中実に原像を写した鎌倉時代までさかのぼる優品である。龍宝寺は伊達家(だてけ)の祈願寺として知られ、御室派では最も東に位置する寺院である。

重要文化財降三世明王立像像高252.4cm平安時代(11世紀)福井・明通寺

明通寺(みょうつうじ)は、福井県小浜市門前に位置し、前谷と後谷がせまる谷間の地に開かれた古刹である。本寺に伝わる縁起などには、平安時代の征夷大将軍である坂上田村麻呂(さかのうえたむろまろ)の宿願によって、大同年間(806~810)に開創されたと伝えられ、また「国内で無双の伽藍」とたたえられたという。降三世明王(ごうざんせみょうおう)、深沙大将(じんじやだいおう)の2メートルを超える巨像は、本尊である半丈六(丈六の半分、像高は約145センチ)の薬師如来像の両脇侍として、鎌倉時代の和様建築で、国宝の本堂に安置されている。降三世明王は、五代明王の一つで東方に安置される尊覚である。髪を逆立て、顔は左右と背面に一面ずつ合計四面あり、本面は三つの眼を怒らせて牙をあらわにし怒りの表情を見せている。降三世明王が開口するのは珍しい。八本の腕を持ち、足下にヒンドュー教の神である大自在天(だいじざいてん=シヴァ神)とその妃の烏摩(うま)を踏み付けると言う奇怪な姿をしている。

重要文化財 深沙大将立像像高256.6cm平安時代(11世紀)福井・明通寺

降三世明王と両脇侍となる深沙大将(じんじゃたいしょう)はインドへ求法の旅に出た高僧・玄奘三蔵(げんじょうさんぞう=三蔵法師)を、砂漠で救ったという守護神である。日本においては、彫刻として独尊か、執金剛神と一対に造られる例が一般的であるが、降三世明王とともに安置されるのは他に類例をみない。この類例のない組み合わせの三尊像は、いずれもヒノキの一材から頭部と体部の主要部分を彫り出し、後頭部や背面から内刳りをする、当時としては古式な一木造りの技法で造られており、また両者の様式も共通している。

重要文化財 馬頭観音菩薩坐像  鎌倉時代(13世紀) 福井。中山寺

中山寺は、「若狭富士」と称される福井県小浜町の青葉山の西側、若狭湾を一望する中幅腹に所在する。本堂は、天文2年(1543)に建立された建物で、その本堂に安置され、厳重な秘仏として守り伝えられてきた。脇侍としては鎌倉時代後期の毘沙門天立像と不動明王立像が安置されている。本像は三面八臂で、胸前にかまえた二本の手で根本馬口印を結ぶ、三面(本面のみ三眼)ともに憤怒の表情をした坐像である。秘仏のためか、非常に色彩が鮮やかに残って、美しい馬頭観音坐像である。運慶次世代の慶派の作風に通じるものがある。いずれにしても13世紀後半には下らない頃の非常に優れた彫刻である。若狭周辺には、仏像の優品が多い。

重要文化財 不動明王坐像  木造・彩色 平安時代(10世紀) 広島・大聖院

大聖院(だいせいいん)は、厳島神社のある宮島に所在し、明治時代初年までは同社に付属する別当寺(べっとうじ)であった。本像は、大正9年(1920)に本寺である仁和寺の新乗院から移され、近年までは、島内最高峰である弥山(みせん)の山上にまつられていた。明王は、7世紀のインドで成立した新しい密教の尊格であり、怒りと恫喝(どうかつ)によって生じた衆生(しゅじょう)を正しい方向に導く使命を持つ。不動明王は、密教の中心的な教主である大日如来の化身とされ、日本には9世紀初頭に空海によってもたらされた。京都の東寺講堂の不動明王坐像と同じ図像で、いわゆる大師様(だいしよう)と称される。美しい色が残るのは、秘仏扱いを受けたものだろうか?

重要文化財 如意輪観音菩薩坐像木造・彩色 平安時代(10世紀)兵庫・神呪寺

神呪寺(かんのうじ)は、兵庫県西宮市の北部にある標高310メートルの甲山(かぶとやま)の麓に所在する名刹である。私事になるが、昭和40年代前半に、私はこの甲山の近くの夙川(しゅくがわ)付近に住んだことがある。その頃に家族一同で甲山に登り、炊飯を楽しんだ場所であり、大変神呪寺を懐かしく思い出した。神呪寺から見降ろす景色は、西宮市、芦屋市を一望できる絶景の場所であった。さて、本尊の六本の腕(六臂)を持つ如意輪観音像は、平安時代初期に空海が中国より請来した両界曼荼羅(りょうかいまんだら)に描かれており、それ以降、真言密教の尊格として造像の事例が増えている。本像はヒノキの一木造りの像である。左脚部は後補である。秘仏として扱われていたように記憶する。

重要文化財 千手観音菩薩坐像(中央)  平安時代(12世紀)徳島・雲辺寺 重要文化財 毘沙門天立像(右) 平安時代・寿永3年(1184)徳島・雲辺寺重要文化財 不動明王立像(左) 平安時代(12世紀) 徳島・雲辺寺

弘法大師にゆかりのある四国八十八幡霊場の第六十札所に当たる雲辺寺(うんぺんじ)には、それにふさわしい古像が伝来する。本尊(中央)の千手観音菩薩坐像は、その像内に墨書銘を持つことで古くから知られている。また手は千手と言いながら、実は42本である。これは1本の手で25の願いをかなえるとして、40本の腕で千手を示し、これに本来の腕である2本を足して42本とすることが、平安時代以降慣習化された。あわせて、毘沙門天立像ならびに不動明王立像は、少し遅れて追加で造立されたものとみられ、かって千手観音三尊像を構成していた。現在毘沙門天立像は本尊とともに収蔵庫に安置されている。不動明王像は護摩堂(ごまどう)に安置されている。像内に制作年と作者名を記す毘沙門天像は注目を集めてきたが、近年、修理をほどこされた不動明王立像からも銘文が発見され、作者が同じであることが明らかになり、一揃いとして造立された可能性が推測されている。毘沙門天像の像内には、腰辺りに「寿永3年(1184)六月二十二日」という年紀と共に、雲辺寺僧願西が施主となり、「亜州」つまり徳山在住であった仏師慶尊(けいそん)に造らせたことが判明した。おそらく、本尊の千手観音に対し、遅れて二像を加えたものであろう。御室派の古刹にこうした三尊構成が見られることは重要で、徳島と高知、香川を結ぶ交通の要衝であったこの地の特性も伝えている。

 

仁和寺は、今から1100年あまり前の平安時代に開創されたお寺であるが、以後の長い歴史のなかで、今日の御室派(おむろは)諸寺院とさまざまな縁(えにし)が取り結ばれてきた。現在、御室派寺院は約790寺を数える。そこには、両者の歴史がしっかり刻み込まれている。この「御室派編」では、普段は公開されない秘仏を含めて、全国各地の御室派寺院の貴重な仏像を通して、御室派の広がりと、その信仰が作り上げた美を一堂に集めて展覧したものである。私自身、葛井寺の千手観音菩薩坐像(国宝)以外、拝観したことのないみほとけ達であった。大変貴重な秘仏の数々を拝観することが出来て、有り難く楽しい展覧会であった。(最近の情報によれば、東京国立博物館の入場には1時間以上の待ち時間が必要となり、葛井寺(ふじいでら)の千手観音菩薩像(国宝)の拝観が大人気のようである。江戸時代の出開帳以来初めて東京への出品であり、今後も東京出品は、数百年後になるだろうとの思惑からであろう。是非、この機会に拝観されることをお勧めする)

(本稿は、図録「仁和寺と御室派のみほとけ  2018年」、京都古寺巡礼「第22巻 仁和寺」、探訪日本の古寺「第9巻 京都Ⅳ 洛西」を参照した)