伊藤若冲   動稙綵絵

江戸時代の画家を代表する尾形光琳が亡くなったのは正徳6年(1716)で、今年は光琳没後300年忌である。ところが、この同じ年、すなわち正徳6年(1716)はまた二人の大画家、伊藤若冲と与謝蕪村が生まれた年でもある。若冲と蕪村の名は、ともに同時代に刊行された人名録「平安人物志」の「画家」の項に載っている。この「平安人物志」は明和5年(1768)に初版が出て以後、慶応3年(1867)まで、計9回にわたり刊行された。若冲と蕪村の名が「平安人物志」に載るのは、明和5年の初版と、安永4年の再販、天明2年の三版の3回にわたってであり、二人はそれぞれ「画家」として登録されている。初版の「画家」のトップは大西酔月で、今日では殆ど知られていない。この画家に続いて、応挙、若冲、大雅、蕪村の四人が並んでいる。二版になると,他界した大西酔月の名は消え、応挙、若冲、大雅、蕪村と並ぶ。伊藤若冲は、辻惟雄氏の「奇想の系譜」(昭和44年ー1969)で突然、名を表した奇人と思っていたが、江戸時代には指折りの大画家であることを知った。同氏の「奇想の図譜」(昭和44年ー1969)もほぼ同じ時期に刊行された図書である。私が「伊藤若冲」を知ったのは、平成21年(2009年)の「御即位20年記念特別展」で、伊藤若冲の動稙綵絵(どうしょくさいえ)全30巻を見た時である。その写実力、彩色の鮮やかさに仰天した。動稙綵絵の一部をご紹介したい。(すべて三の丸尚蔵館所蔵)

芍薬群蝶図 伊藤若冲作  宝暦3~明和3年頃(1757~1766)江戸時代(18世紀)

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さまざまな花の相を見せる芍薬の花の上を、いろんな蝶の群れが飛んでいる。芍薬の花は実に生き生きと描かれているが、ほとんどの蝶は翅(はね)をいっぱいに広げた姿で空中を飛んでいる。一羽だけ花にとまり変化を見せている。本来動きを見せるべき蝶は、完全に静止しているように見える、実際に写生しているようで、どこか現実離れしている。これが若冲の写生である。同じ写生派でも、応挙はプロ、若冲はアマと評価される所以であろう。蝶の動きは別として、芍薬の花の描き方は尋常ではない。これが若冲の魅力だろうか。

大鶏雌雄図  伊藤若冲作  宝暦9年(1759)  江戸時代(18世紀)

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若冲は、若い時に狩野派に入門したが、所詮狩野派を超えることは出来ないと考え、狩野派を捨て、宗元画を学ぶことにしたが、宗元の名手と競ったところで優劣は明らかである。「物」を描いているのに、自分がそれを写していたのでは,差は隔たる一方であると考えた。とどのつまり、動稙物を観察して描く以外に方法が無いことに気付いた。ここが若冲の優れたところである。鶏を窓下に数十羽飼い、それを写すことに数年を費やした(即物写生)。若冲は鶏の絵が実に多い。この動稙綵絵の中でも何点もの鶏の絵が採用されている。ついには、鶏の画家と呼ばれるまでになった。ここに美しい羽の色を誇る雄鶏(おんどり)と、全身が真っ黒な雌鶏とを、背景も無い空間に絶妙なバランスを取って向かい合わせている。今にも動き出しそうな二羽の姿は、画家の鋭い観察眼がもたらしたものであろう。

老松孔雀図  伊藤若冲作           江戸時代(18世紀)

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孔雀は異国の鳥だったが,羽の美しさから喜ばれ、日本にも早くから渡来して、親しまれてきた。若冲の時代には、京の祇園の孔雀茶屋というものがあり、容易に実物を目にすることができた。このほど存在が確認された「孔雀鳳凰図」(双幅)は、この動稙綵絵の老松孔雀図と図柄が似ているとのことである。この所蔵者は、安芸広島藩浅野家12代当主である浅野長薫氏であった。若冲の絵の来歴の中で、「武家と直接的な関わりを示す作品は聞いたことが無い」というのが一般論だった。若冲は、自分の描いた絵を売る必要が無い優雅な身分であったため、その作品の多くは臨済宗や黄檗宗の寺や寺社に納められるか、商家に伝わったと見られる作品が大半である。浅野家と若冲の由来は不明であるが、大名家が所蔵したのは、この作品が最初であり、いずれその理由が明らかになるだろう。

老松鸚鵡図  伊藤若冲作          江戸時代(18世紀)

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まるで大蛇のような松の木に二羽の鸚鵡(おうむ)がとまり、奥の枝には緑色のインコも加えられている。当時、身分の高い人や裕福な商人の間で、このような異国の鳥を飼う趣味が流行っていたが、普通は鳥籠のなかで飼って鑑賞したものである。このように戸外で放し飼いすることはありえなかった。渓流沿いの自然環境の設営は、空想の絵空事として喜ばれたのであろう。

梅花群鶴図  伊藤若冲作         江戸時代(18世紀)

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花の開いた梅の木のかたわらに、鶴が体を寄せ合い、思い思いの方向を向いている。一見5羽に見えるが、足が11本見えるところから6羽のようである。鶴の描写は中国画から学んでいるが、それを群れとして描いているところが、若冲独特の感覚であり、誰の真似でもない。魅力的な作品である。

群鶏図   伊藤若冲作           江戸時代(18世紀)

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彩絵の中で9図を占める鶏連作の集大成ともいうべき作品である。全部で何羽の鶏が描かれているか、判らないが鶏冠(とさか)の数で、ようやく13羽と確認できる。若冲の観察力と想像力、装飾的才能がみごとに融合している傑作である。余談ながらブログに絵画を取り込むためには、1MK以内に縮小する必要があるが、この群鶏図は3KM以上の濃さがあり、縮小するのに一番手間がかかった。顔料が多く、かつ西洋渡来の染料も用いられていたのではないかと推測している。

貝甲図(ばいこうず)  伊藤若冲作        江戸時代(19世紀)

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この絵は貝尽くしを試みたもので、潮の引いた浜辺にさまざまな種類の貝が集められている。自由に装飾と空想を加えた形と色の千変万化が見られる。甲は殻の意味で、これほどの形や色や大きさが異なる貝殻の知識を、どこから、誰から仕入れたのであろう。正に博物学の世界である。18世紀後半の京都市民が生んだシュルレアリスムである。マニアックで、非現実的光景である。

諸魚図   伊藤若冲作            江戸時代(18世紀)

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魚だけを集めて描いた魚尽くしの絵である。右上から左下に向かって泳ぐ魚たちの群れを横から描いたもので、大小の蛸が主役の役割を果たし、見事な鯛が目だって大きく描かれている。鯛の左下前方を泳ぐルリハタという魚には、当時ヨーロッパから伝わったばかりの絵具、ベルリンブルーが使用されている。鎖国当時の京都にいて、外国文化への関心や好奇心が強い若冲であった。

 

 

若冲は京都錦小路通にあった青物問屋「枡屋」(ますや)の長男として生まれた。23歳のときに父親が亡くなったため、四代目枡屋源左衛門として青物問屋を継いだが、若冲がいつから絵を習い始めたかは不明である。ただ、若冲が明和3年(1766)に造った寿蔵(生前墓)に刻された銘文によれば、当初は狩野派の絵師に学んだとする。40歳で家業を次男・宗厳(そうがん)に譲って以降、絵の制作に没頭していった。基本的に注文によって制作する他の画家と違い、若冲は隠居後も、生家の経済的援助を受け、良質な絹・紙・顔料などを贅沢に使い、自分自身のために絵を描いていったと考えられ、相国寺や大雲院、正伝寺などの代寺院の什宝を写す機会に恵まれた。

若冲の代表作である動稙綵絵30幅の制作は、宝暦7年頃から画き始め、明和3年(1766)には完成していたと考えられる.若冲は42歳頃から約10年の歳月を掛けて完成したものと推定される、この大作は、若冲が精神的にも、経済的にも、最も充実した時期に描かれたものである。この絵は、釈迦三尊像とともに相国寺に寄進した仏画であるが、その鮮やかさ、意表をつく荘厳さで評判となり、若冲の名を高めた。若冲の言葉「千栽具眼の徒を俟」は、自分の絵を理解する人が現れるまで千年待つという意味で、その言葉通り、さまざまな技法や表現駆使しており、若冲の作品は、時を超えて多くの人をひきつけてやまない。

「動稙綵絵」30幅は、明治22年(1989),下賜金の返礼として相国寺から皇室へ献納され、現在宮内庁の保管となっている。これは法隆寺の小金銅仏と同じ形であり、下賜金(1万円)の名目で,皇室が徴収したものと私は理解している。(時価に換算すれば、何十億円の価値であろう。明治政府も”えげつないこと”をしたものだと思う。)もっとも法隆寺側は「宝物が寺外の各所に散逸ししまい、一括の宝物として維持することが困難になるという予想は十分にあった」とし、下賜金をもって「伽藍などの修複、整備も緊急の課題であった」とも述べているが、私は後から付けた理屈に見えてしょうがない。(以上はすべて私感であり、実際にどのような想いがあったのかは知る由もない)

 

 

(本稿は図録「御即位20年記念特別展  皇室の名宝1 2009年」、図録「生誕300年同い年の天才絵師 若冲と蕪村  2015年」、図録「岡田美術館名品選 2013年」,辻惟雄「奇想の系譜」,辻惟雄「奇想の図譜」、小林忠他「若冲の描いた生き物たち」、澤田弘子「若冲」、図録「特別展 法隆寺献納宝物」、日経新聞2016年3月4日記事を参照した)