伝岩佐又兵衛  重要文化財 浄瑠璃物語絵巻

岩佐又兵衛は辻惟雄氏の「奇想の系譜」の一人として紹介されて、いろんな所で又兵衛の作品を見る機会に恵まれた。この「美」でも昨年2月にMOA美術館で「山中常盤物語絵巻」で観覧し、その内容を「美」で紹介している。今年は「浄瑠璃物語絵巻」が展示され、その内容を、再び「美」で報告したいと思う。また彼が京都時代に描いた舟木本「洛中洛外図」が、昨年国宝に指定され、それも又昨年4月に「美」に収録している。又兵衛は、福井から江戸に出る時、「廻国之記」という道中記を書いている。それが又兵衛の経歴を知る上で、一番信用できる記録である。それによれば、岩佐又兵衛は天正6年(1578)摂津伊丹城主として織田信長の信認厚かった荒木村重の妾腹の子として生まれた。その年の10月、父村重は主君信長に反逆を企てる。信長は苦戦の末、翌年伊丹城を落したが、村重はその前に城を遁れていた。怒った信長は、城中に残された者全員の処刑を命じ、村重一族30余人は、京の六条加原に引き出され、幼児に至るまで首を刎ねられた。又兵衛は乳母の手で城から救出され、京都の本願寺教団のもとにかくまわれ、そこで成長したという。成人してのちは、信長の子信雄に仕えたとのことだが、お伽衆あるいは祐筆のような役を務めたらしい。姓も、母方の姓と言われる岩佐に改め、勝以(かつもち)と名乗った。武門の再興をあきらめ、関白二条昭実の邸で催された詩歌管弦の集いなどに顔を出し、村重の遺児としての出生のいきさつと、恵まれた画才に身を助けられて渡世する途を、彼は選んだ。慶長20年(1615)の夏、大阪夏の陣によって豊臣方の命運は尽き、年号も元和と改められる。この年、又兵衛は38歳。おそらく画名は相当聞こえていただろうが、彼は程なく京を離れ、越前北之庄へ赴いた。当時の北之庄城主は、菊池寛の「忠直郷行状記」で知られる松平忠直である。家康の孫に当たりながら、乱行ゆえに、元和9年、幕府の命によって豊後へ配流となったと言う。このまことに「かぶき大名」と又兵衛との興味深い出会いについては、「浮世又兵衛行状記」(篠田達明氏)に詳しい。忠直郷追放後の北之庄は甥の忠昌が継ぎ、名を福居(福井)と改めたが又兵衛は引き続きこの地に止まり、結局、寛永13年(1636)まで、足掛け20年を越前で過ごすことになった。彼の個性的な画風は各地へ広まり、寛永14年(1637)、彼は将軍家筋の用命を受け、福井に妻子を残して発ち、京都を経由して江戸へ向かった。当時既に60歳になっていた彼は「廻国道之記」という道中記を記している。今回、MOA美術館で「浄瑠璃物語絵巻」が公開されたので、それを見る為に熱海まで、出掛けた次第である。内容は「山中常盤物語絵巻」同様、牛若を主人公にした古浄瑠璃の正本(テキスト)を詞書(ことばがき)として、その内容を絵画化した12巻の絵巻である。全長、12、988cmの長巻である。豊頬長頤(ほうきょうちょうい)の特徴を持つ人物の姿形や、金泥、銀泥をふんだんに使った豪華絢爛な巻物である。重要文化財に指定されている。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第一巻 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

15歳の春、牛若は平家討伐を成すため、鞍馬の山を出立し奥州を目指す。牛若は金売吉次の一行として旅を急ぐ。吉次一行は三河の国・矢矧宿(やはぎしゅく)に着いた。宿に泊まった夜、宿を出た牛若は宿場で名高い長者の唐御門からもれる管弦にひかれ、門前でしばし耳を傾ける。管弦に笛がないので、牛若は肌身離さぬ名笛を出して唐御門の管弦に合せる。琴を奏でていた浄瑠璃姫は笛の音に気付き、管弦を止めて笛の音に聞き入る。名手ならではの音色に、浄瑠璃は女房十五夜に命じて、笛の主を確かめさせる。十五夜は牛若の凛々しい高貴な姿を見て、着物の紋から源氏の御曹司と見受けられたと報告した。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第三巻 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

浄瑠璃は、牛若と察し、女房たちを使いに立たせて牛若を招く。牛若は七度目の使いである桔梗の局に連れられて、邸内へと進む。牛若は室内に上がり、女房達と合奏した。その時一陣の風が、浄瑠璃の前の御簾を噴き上げ、見つめ合う二人に恋心が芽生える。

重文浄瑠璃物語絵巻 第四巻(1)伝岩佐又兵衛作江戸時代(17世紀)紙本着色

一旦宿に戻り装束を整えた牛若は、再び浄瑠璃の屋敷を訪れ、邸内が寝静まるのを待つ。十五夜に招き入れられた牛若は、女房達の部屋の前を通って浄瑠璃の寝所へと通される。

重文 浄瑠璃物語絵巻第四巻(2)伝岩佐又兵衛作江戸時代(17世紀)紙本着色

浄瑠璃の寝所に近づく牛若は、四方の障子には四季の絵が描かれ、その豪華さは都の御所に勝るとも劣らない。牛若が枕屏風の側からそっと中を覗くと、浄瑠璃は部屋で眠っている。

重文 浄瑠璃物語絵巻第四巻(3)伝岩佐又兵衛作江戸時代(17世紀)紙本着色

部屋に入った牛若は、思いを和歌にして助瑠璃を口説こうとする。なかなか靡かない浄瑠璃に、牛若は、さまざまな例を出しながら浄瑠璃を口説くために言葉を重ねる。浄瑠璃は、父の供養のため、読経念仏にいそしむ精進中の身であり、叶わぬ恋なので、あきらめてほしいと嘆願する。牛若は自らの素性を打ち明け、互いに精進中の身であるから差しさわりは無いと言う。浄瑠璃は、断りきれないと覚悟し、心を寄せる。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第五巻伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

浄瑠璃は十五夜に酒肴の準備をさせ、二人は仮の祝言を挙げる。いよいよ姫はなびく。一夜の契りを結ぶ牛若と浄瑠璃姫。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第八巻 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

蒲原の宿では、一行を歓迎して盛大な宴会が催される。牛若は、旅の疲れと浄瑠璃と別れた悲しさから病となり、床に伏してしまう。宿の女将は牛若に娘と結婚をせまるが、なびかない。夫の与一が箱根権現に行った留守中に、女将は近くの男たちを雇い、牛若を海に沈めるよう命じる。

重文浄瑠璃物語絵巻第九段(1)伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

源氏に伝わる宝物が大蛇、白鳩、鳥、子童に姿をかえて牛若を守る。牛若は、浄瑠璃への手紙を客僧に託す。牛若の手紙を読んだ浄瑠璃は病に伏す牛若を思い、矢も楯もたまらず、母にも告げず牛若の後を追う。箱根権現の化身である尼公から、牛若の命が尽きたことを聞かされ、浄瑠璃は嘆き悲しむ。浄瑠璃は牛若を砂から掘り出す。浄瑠璃の涙が不老不死の薬となり、牛若は息を吹き返す。

重文浄瑠璃物語絵巻 第十一巻 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

牛若は平家討伐の暁には浄瑠璃を北政所にすることを約し、大天狗・子天狗に矢矧の宿まで送り届けるよう頼む。

重文浄瑠璃物語絵巻第十二段(1)伝岩佐又兵衛作江戸時代(17世紀)紙本着色

牛若は大天狗、子天狗から受け取った浄瑠璃の文を読み、涙ながらに東国を目指す。軍勢を引き連れ都へ上がる牛若は、途中矢矧の宿に立寄る。長者から歓待を受けるが、浄瑠璃の姿が見当たらない。不審に思って牛若は、様子をさぐるように命じる。髪を剃った冷泉が現れ、浄瑠璃は母の長者から屋敷を追い出され、悲しい最後を遂げたと涙ながらに語る。

重文 浄瑠璃物語絵巻 第十二段(2)伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)紙本着色

牛若は冷泉の安内で浄瑠璃の墓に参り、法華経を詠むと、墓より返歌が聞こえてくる。和歌のやり取りの後、五輪塔が輝いて砕け散り、一部は牛若の懐へ飛び込んだ。牛若は浄瑠璃の成仏を確信し、墓の上に寺を建て、冷泉寺と名付ける。

 

 

「浄瑠璃物語」の正本はそのまま用いた詞によって、牛若の衣装模様や女房たちの局の襖の画題、浄瑠璃姫の寝室の調度、二人が交わす大和言葉の逐一まで事細かに語られ、それらの場面が、金箔・金銀泥・緑青・群青・朱など各種の高価な顔料を使い、艶麗な色調で微細に描かれている。又兵衛作とされる絵巻物群中、最も色彩の華麗な絢爛豪華な作品である。本絵巻物は、伝岩佐又兵衛作とされるが、岩佐又兵衛の関与は極めて少なく、殆ど又兵衛工房の作と考えられる。むしろ「全く関与していない」と言っても良い作品であり、絢爛豪華な絵巻物は、越前藩主松平家からの注文によるものと推定される。越前藩主松平忠直の子光吉が転封(てんぽう)になった津山藩主松平家に伝わったものである。越前藩主であった松平忠直の署名がある稲富流鉄砲伝書「直矢倉之巻」に用いられている菊花流水押し文様が、「浄瑠璃物語絵巻」の銀箔地の軸付紙に空押しされていることからも、本絵巻制作における越前松平家の関与が想定される。制作時期は、寛永(1624~45)末年から正保(1645~48)・慶安(1648~51)頃と推定されるが、元和(1615~24)とする意見もある。又兵衛の年齢から考えて、私は、寛永末年から正保・慶安年間(1624~48)と見たい。「浄瑠璃物語絵巻」の人物の顔貌・姿態と金銀泥を多用した濃密な彩色は「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館)との共通点が多く、又兵衛工房と風俗画との関係を考えるうえでも重要な作品である。

 

(本稿は、図録「岩佐又兵衛作品集  2013年」、図録「岩佐又兵衛と源氏絵   2017年」、日本美絵画全集「第13巻  岩佐又兵衛」、辻 惟雄「岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎」、辻惟夫「奇想の系譜」を参照した)