元興寺(がんごうじ)  極楽堂・禅室と境内

日本書紀・朱峻天皇元年(588)に、飛鳥の地に巨大な寺院が建立された模様が、次のように書かれている。「蘇我大臣亦(ま)た本願(ねがひ)の依に(ままに)飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)を起つ(たつ)。」即ち、崇峻天皇元年に法興寺を起工したのであり、日本書紀では、法興寺、飛鳥寺、元興寺の3つの名称を持つ寺である。この日本で最初に建てられた法興寺は、1基の塔に3つの金堂を備え、金銅でできた釈迦如来像(現在の飛鳥大仏)、石でできた弥勒菩薩像、刺繍の仏画をそれぞれ本堂の本尊とした本格的な寺院である。やがて都は飛鳥から藤原京へと遷る。「続日本紀」によれば養老2年(718)に飛鳥の地にあった法興寺を平城京へ遷したという記録が見られる。この移築に関しては、元興寺極楽坊本堂の建築材を年輪年代法で測定したところ、法興寺創建に近い588年頃に切られた木材であることが判明したので、寺の移転は間違い無い事実である。しかし、飛鳥の地には、その後も飛鳥大仏を祀る飛鳥寺が存在しているので、移建に際しては金堂以外の僧坊などの周辺建物を解体移築したものであろう。なお、元興寺は、平成10年(1998)にユネスコの世界文化遺産の一つに登録されている。

重要文化財  東門  木造建築物   室町時代初期(14世紀)

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元興寺の正門である。一間一戸の四脚門という構造形式で、屋根は本瓦葺き、もとは東大寺西南院(さいなんいん)にあったものを応永年間(1394~1428)に移築した建物で、応永18年(1411)と箆書きされた瓦が使われていることから、室町時代初期まで遡る建築と考えられている。

国宝  極楽堂(本堂) 木造建築物  奈良時代(8世紀)

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養老2年(718)に飛鳥から平城京に移築された元興寺は、現在、本来僧侶の居住施設であった僧坊である。極楽堂(坊)も、この僧坊の一部が「極楽坊」として発展したものである。元興寺の僧坊には「智光曼荼羅」と呼ばれる極楽浄土を描いた絵(曼荼羅)が置かれている。平安時代以降、阿弥陀仏のおられる浄土への信仰が高まり、浄土の姿を見ることが出来るこの曼荼羅(まんだら)に対する信仰が盛り上がり、多くの人々がここへ訪れるようになった。その結果、元興寺の堂舎が次々と衰退していくなかで僧坊の一部のみが「極楽坊」として発展していったのである。

国宝 極楽堂(本堂)  木造建築物   奈良時代(8世紀)

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極楽堂を南側(庭園側)から眺めた写真である。屋根に黄色い瓦が見えるが、行基葺き(ぎょくきぶき)伝わる瓦であり、飛鳥時代の瓦と伝えられている。

国宝  極楽堂(本堂)内陣  木造建築物  奈良時代(8世紀)

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曼荼羅堂(まんだらどう)とも呼ぶ。東を正面とし、桁行(けたゆき)・梁間(はりま)ともに六間で、正面に一間の通り庇(ひさし)が付く本瓦葺きの建物である。「寄棟造(よせむねつくり)」で、妻入り(つないり)」という珍しい建物であり寛元2年(1244)に東室南階大房(ひがしろなんかいだいぼう)(僧坊)の東半分を切り離して改築し、今の姿になった。この建物の最も重要なところは、堂内中央に僧坊時代の一房がそのまま取り込まれていることである。まさにこの一房が、極楽坊と呼ばれた智光法師(ちこうほうし)がおられたと伝えられる房そのものであろう。改築後は、中央一間を方形に囲って内陣とし、その中央やや西寄りに須弥壇(しゅみだん)と厨子(ずし)を置く。さらに周囲を拾い外陣(げじん)が取り巻き、「念仏講(ねんぶつこう)」など多くの人々が集うことを可能とした。この改築を契機として納骨の場へと発展し、極楽往生を願う多くの人々が集い、祈る場へと変化したのである。

重要文化財  智光曼荼羅厨子  絹本着色   室町時代(15世紀)

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通常、寺院の本尊は仏像であるが、元興寺極楽堂(本堂)には智光曼荼羅(ちこうまんだら)が本尊である。智光曼荼羅とは、奈良時代、元興寺で学んだ僧侶・智光法師が夢で見た極楽浄土の様子を描かせた図のことであり、青海曼荼羅、当麻曼荼羅とともに日本三大曼荼羅と呼ばれている。そのため、それが安置された堂に極楽坊・極楽堂の名が付けられた。平安時代末期より極楽往生を願う浄土教信仰(じょうどきょうしんこう)が広がり、それによって智光曼荼羅が脚光を浴びるようになり、「七大寺日記」などの貴族の日記や「覚禅抄」(かくぜんしょう)などの仏教書にしばしば登場する。これらに智光曼荼羅が、約一尺(約30cm)四方のものであったと書かれている。このように智光曼荼羅の正本は奈良時代から、元興寺極楽坊で大切に守られてきた。しかし、宝徳3年(1451)土一揆により起きた火災で元興寺周辺が罹災した際、難を避けるため禅定院(ぜんじょういん)に移された智光曼荼羅は、建物もろとも焼亡してしまった。しかし、元興寺には様々な智光曼荼羅写しが存在していた。この厨子入本は、約50cm四方の大きさで絹の布に描いた絹本着色板貼りのもので、春日厨子に納められている。明応7年(1498)頃の成立とされる。これ以外に板絵本(重要文化財)、軸装本、尊覚開版本等が残っている。

国宝  禅室(僧坊)  木造建築物   鎌倉時代

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元興寺僧坊の姿を伝える建物である。旧僧坊の平面を生かし鎌倉時代に改築したものだが、細部に当時の埼信様式であった「大仏様」(だいぶつよう)を巧みに使用している。桁行4間、梁間4間で平屋の切妻造、本瓦葺き。屋根の一部に飛鳥時代の瓦を使って、行基葺き(ぎょうきぶき)を復元している。室内は南、中央、北と三室に区分されていたと考えられている。現在は、東側3房分を大きな部屋にしているが、西側の一室は僧坊時代の様子を復元している。

講堂の礎石(うち1組)  3個在り    鎌倉時代

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綜合収蔵庫の北側に並ぶ三基の礎石は、平成10年(1998)に奈良市教育委員会が中屋敷町で発掘調査を行った際に発見したものである。礎石は江戸時代始めに穴を掘って埋められていたものと考えられる。いずれも上面に直経80~90cmほどの柱座を持つ。礎石の上には柱座と同規模の太さ80~90cmもの柱が立てられていたと想定でき、講堂がいかに立派なものであったかを想像できる。

浮図田(ふとでん)   鎌倉時代~戦国時代

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元興寺を訪ねると、まず目に付くのは境内に整然と並べられた石塔である。これらは近年まで禅室の北西部石舞台に積み上げられていたものであるが、昭和63年(1988)現在の形に並べ直され、浮図田(ふとでん)と呼ばれている。因みに浮図とは仏陀のことであり、文字通り仏像、石塔が稲田のごとく並ぶ場所という意味である。これらの石塔には様々な形態のものが存在する。もっとも目に付くのは5つの部品を組み合わせて造る「五輪塔」(ごりんとう)である。五輪塔は密教の教義をもとに作り出された塔で、地・水・火・風・空という宇宙を構成する五大要素を体現し、大日如来(だいにちにょらい)と阿弥陀如来を塔の形で表したものである。

舟形五輪塔    戦国時代~江戸時代前期

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この「五輪塔」と、数は少ないが「豊筐印塔」(ほうきょういんとう)の二つの塔の形を舟形の碑に浮彫や線刻したものを舟形五輪塔板碑(ふながたごりんとういたひ)と呼ぶ。この板碑は戦国時代から江戸時代前期に多い。興福寺大乗院の菩提寺墓所の一つとなっていたので、僧侶の石塔が多い。

その他の石塔

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このほかに箱型の枠内に阿弥陀や地蔵を浮彫した地蔵石龕仏(じぞうせきがんぶつ)、自然石に文字を刻んだ自然石碑など様々な種類の石造物が、浮図田以外にも境内に置かれている。江戸時代以降の法柱状のいわゆる「墓石」がほとんどないが、これは江戸時代前期に元興寺が徳川家のための祈祷を行う寺(御朱印寺ーごしゅいんじ)として指定されたことで、通常の町民の墓寺として機能しなくなったことによるものである。

国宝 薬師如来立像 木造 素地 平安時代(9世紀) 奈良国立博物館寄託

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平安初期の木彫りの代表作である。羅髪や両手首先を除き、足元はもとより台座の蓮肉部まで含めてカヤの木の一材から彫成する。肩幅の広いゆったりとした体型、渦文(かもん)や翻波式衣文(ほんぱしきえもん)を駆使した、深く自在に刻まれた衣のひだ、腹部や大腿部の充実した肉取りなど、存在感あふれる造形である。伝来は不明であるが、江戸時代には元興寺の五重塔に安置されていた。

重要文化財 十一面観音菩薩立像 木造 漆箔 鎌倉時代(13世紀)奈良国立博物館寄託

 

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左手に華瓶(けびよう)を握り、下げた右手に錫杖(亡失)を執る長谷寺式の十一面観音立像。左耳上の頭上面は奈良時代末~平安時代初期制作の乾漆造。左胸の条帛に表された渦文(かもん)や、深めに刻まれた徑部の衣文、膝付近をわたる天衣の装飾的な表現など、やはり奈良~平安初期の像に通ずる要素が認められ、古像の復興像としての性格をもつもの。本像の作風は、鎌倉時代前・中期に南都を中心に活動の知られる仏師善円の作風にきわめて近い。国宝、重要文化財が なぜ総合収蔵庫に納められていないのか、不思議である。

 

日本最古のお寺の歴史を引き継ぐ元興寺は、現在では小さな寺域になっているが、かっては「ならまち」の下に埋もれ、その確かな文物は残り少なくなったが、三ケ所の史跡(極楽坊境内・塔跡・小塔院跡)と、関連する重要文化財や町名などに往時を偲ばせるものがある。平安時代末期より極楽往生を願う浄土信仰が広がり、智光曼荼羅が脚光を浴びるようになり、平安貴族や庶民から篤く信仰されるお寺として栄えた。しかし、寺院としては戦国時代の終わりに近い時代に、元興寺中枢部が町になり始め、江戸時代に入ると急速に都市開発が進むようになった。その背景は、織田・豊臣政権が奈良に進駐することを契機に、それまでの元興寺を支えてきた古い権威が奪われてゆき、江戸幕府の成立でこれが決定的になったというところではないだろうか。東大寺、興福寺を訪れる人は多いが、この元興寺こそ、日本一古い歴史を持つ寺であり、中世には庶民信仰の拠点でもあった。興福寺の下、猿沢池の南にある元興寺を、是非奈良見物の際に加えて頂きたい。元興寺の名称は、「仏法元興之場 聖教最初之地」に由来し、法興寺(飛鳥寺)を前身とする、わが国仏法興隆を願った歴史、基礎仏教の初傳を誇った寺名を有しているのである。

(本稿は,図録「わかる!元興寺 2014年」、、図録「なら仏蔵館 名品図録 2010年」、図録「なら仏蔵館 名品図録 2016年」を三照した)