光琳と乾山  芸術家兄弟 響き合う美意識(2)

光琳の「カキツバタ図屏風」を展示する時は、根津美術館では必ず、自館の保有する乾山の焼物を展示するのは常である。今年は乾山にも力が入っており、自館保有の焼物だけでは無く、各美術館の「乾山焼物」と、乾山の「絵画」も展覧した。乾山の絵画を見たのは初めてであり、その面でも、今年の根津美術館の展示には力が入っていた。乾山の略歴は、次のようなものである。江戸時代の中期の陶工・尾形乾山(深省、1663~1743)は、京の高級呉服商・雁金屋(かりかねや)の三男に生まれた、絵師の光琳は5歳違いの次兄。25歳(数え年)にして隠居し、文人墨客と過ごす風雅な生活に身を置く。37歳、元禄12年(1699)に京の北西(乾の方向)鳴滝(なるたき)に窯を築き、焼物造りにいそしむ。乾山焼きの誕生であり、名品を多数生み出す。50歳、正徳2年(1712)には、この釜を閉じ、市中の二条丁小町(ちょうじちょう)に移り、やきもの造りは東山山麓の借り釜で続け、晩年は江戸に下向した。兄・光琳が絵を描き、弟・乾山が焼物を焼くと言う形のやきものが多い。「陶工・乾山」と言うが、尾形乾山が作陶のすべてを担当したのか、あるいは作陶の一工程を担当したのか。実際のところ、これほど有名な「陶芸家」でありながら、この疑問に対する解答はいまだにはっきりしないと思われる。竹内順一氏(永清文庫館長)は「乾山の役割は、鳴滝時代と二条丁子屋時代を通じて、釜の経営や新しい製品を開発する企画者のような役割を果たしていたのではないかと」との意見もある。また乾山はやきものだけでは無く、絵画の制作もしたとして、この展覧会では「乾山の絵画」も多数展示された。一例のみ取り上げておく。

銹絵山水四方火入 尾形乾山作 光琳画 江戸時代(18世紀) 大和文華館

全体の白化粧地の上に銹絵の楼閣山水図が四面連続して描かれた火入。タタラ成形による器胎は角皿同様の平面で構成され、画巻のような連続した画面を提供している。銹絵で乾山銘が大きく記されている。画面の最後に「青々光琳」の落款が記された光琳と乾山の合作である。光琳は宝永年間に江戸に滞在し、雪舟の模写などをしていたことが知られるが、本作の画風にはそのような雪舟学習の跡がうかがえる。

銹絵蘭図角皿 尾形乾山作・渡辺始興賛 江戸時代(18世紀) 根津美術館

銹絵の蘭図が描かれた角皿である。この皿の裏に乾山の書で「私が疲れている時に、渡辺素心という画師に書いてもらった」という意味の文書が付けられている。この「書いてもらった」のが、賛なのか絵なのか不明である。渡辺始興(1683~1735)という光琳の弟子がいたとされるが、それが素心と同一人物か、書いてもらったのが絵か賛なのか、これだけでは不明である。乾山、光琳以外の第三者が、乾山焼きに関係したのかが問われる作品である。結論は不明である。(なお渡辺始興の屏風は、畠山記念館の記事に取り上げたことがあるので、興味のある方は、そちらの原稿にも当たってもらいたい)図録では始興賛としているので、根津美術館としては賛として結論づけたのであろう。

色絵菊流水図角皿 尾形乾山作 江戸時代(18世紀) イセ文化財団

色絵角皿では最大級の大きさを誇る作品である。絵付けのモチーフは、薄が交わる菊の叢と流水である。色絵の草花図角皿では、銹絵角皿と異なり内側面まで見込の図様が及ぶが、本作品ではさらに外側面にまで図様が展開している。表現としては、見込に対角線に配された意匠性に富んだ流水模様が注目される。これは光琳の「紅白梅図屏風」などに描かれる「光琳水」そのものである。絵は乾山が描いたものと思う。傑作である。

色絵桔梗文盃台 尾形乾山作  江戸時代(18世紀) MIHO MUSEUM

盃台とは引盃(ひきさかづき)を載せる台のことで、円筒形の高台に鍔(つば)がつく。このタイプの盃台は「渡盞」(とさん)と呼ばれ、酒盃を受けるだけでなく、中央筒内に余った余滴を捨てることができるようになっている。斬新で大胆な乾山の感性をいかんなく発揮された逸品である。一方でこのような意匠を実現するには成形・焼成ともに非常に高い技術を要する。乾山の着想を支えた専門陶工たちの姿も垣間見えることだろう。

色絵菊文盃台 尾形乾山作  江戸時代(18世紀) サントリー美術館

上記と同じ様式の盃台である。この2つの他に「色絵雲錦文盃台」の計3点が知られている。乾山作の傑作である。

色絵竜田川文透彫反鉢  尾形乾山作  江戸時代(18世紀) 出光美術館

ロクロ水挽きで成形された、口縁部が少し反った鉢。口縁がジグザグや丸みを帯びた形で切り取られ、内外側面の上方に白化粧を施してから、丸い方の縁の形を生かしつつ、また透彫は波頭の形に対応させながら、銹絵で渦巻く流水を描いて本焼した後に、赤と緑、黄の三色によって、流水に流され、あるいは飲まれる楓を、やはり口縁のジグザグも生かして上絵付けし、さらに楓の輪郭や葉脈に金彩が施されている。底面には二条丁子屋町時代の商標とも言うべき、白化粧地で短冊形の枠に乾山の銹絵銘が描かれる。

重要文化財 白泥染付金彩芒文蓋物 尾形乾山作 江戸時代(18世紀)サントリー美術館

隅の丸い、ゆるやかな方形の蓋物で、蓋は身の上に覆い被せる構造を持つ。独特の器形は籠や本阿弥光悦の硯箱などが参考とされたようである。鳴滝時代の作と見られている。蓋表と身側面の全体に白泥と染付・金彩で薄を描き、武蔵野を想起させる意匠に仕上がっている。この蓋物は開けるという一連の動作には、外からうかがい知れないこの世ならざる世界の扉を開けるといったイメージが込められているのだろう。

重要文化財 銹絵染付金銀白彩松波文蓋物 尾形乾山作 江戸時代(18世紀) 出光美術館

隅の丸い、ゆるやかな方形の蓋物で、端正な成形を見せている。大きさも近く、洗い陶土のざらつきのある肌触りが活かされた焼締陶である。外側には光悦謡本の「うとふ」に見られるような松樹を白彩・染付・金銀彩で描くが、乾山焼で銀彩が使用されるのは珍しく、特別な機会に制作されたものであることを窺わせる。土と肌の丸さが松の生える土埞を想起させ、内外の水の描写と合せて、いかにも清浄な州浜のイメージを呼び起こす。乾山の蓋物はこうした清浄性や聖性といった現代では失われてしまった日本人の感性に訴えかけるものとなっていたのだろう。

重要文化財 八橋図 尾形乾山筆  江戸時代(18世紀) 文化庁

乾山は陶芸家と思っていたが、今回は乾山の絵が何点も展示された。記憶に残った1点のみを取り上げたい。画面の中程に大胆な筆致で墨を引いて表した橋の上下に、柔らかな筆使いで燕子花の青い花と緑の葉を描き込む。さらにその余白を埋め尽くすように墨書された文章と和歌から、伊勢物語の第九段「東下り」そのうち「八橋」の場面に取材することが明らかになる。乾山の書画作品が、日本美術における絵画と和歌、絵画と書の親和性を継承するものであることがうかがえる。自身の東下り、すなわち江戸下向との時期と合致するかも知れない。

 

乾山が鳴滝窯を引き払い、洛中の二条丁子屋町へと作陶の舞台を変えたのは正徳2年(1712)、乾山50歳の時であった。その表向きの理由は、恐らく販売体制の見直しが原因であったものと思われる。鳴滝に集まるサロンのメンバーを支持基盤とする高級器専門窯(ある意味で一点物)では、成り立たない時代になっており、広く不特定多数の一般需要層を対象にした、量産を前提とするシステムに切り替えていかねばならなかったと推定される。そこで切り札となるのは、やはり兄・光琳による光琳模様や琳派意匠であったと思われる。特に華麗な琳派意匠による色絵の製品は、一般大衆や勃興してきた町衆に熱狂的に支持されたと思う。このように量産化を目指した新生乾山窯は、経緯的に成功を収めたようで、正徳3年(1508)刊の「和漢三才図会」では山城国土産に乾山窯が採り上げられ、同5年に大阪で初演された近松門左衛門の「生玉心中」にも乾山焼の名が現れるなど、世間での評判が高まった。しかし、鳴滝時代に乾山が目指した、気韻生動する造詣のうつわが、徐々に薄らいでいった。鳴滝工房には、乾山の物づくりへの情熱、そして乾山の要求に応えた光琳の描線とセンス、さらには有能な工房のスタッフ達の高い技量、それが総合された贅沢な創作空間が存在したのであろう。

 

(本稿は、図録「光琳と乾山  2018年」、図録「乾山見参 2015年」、図録「燕子花と紅梅図 2015年」、図録「KORIN展  2012年」図録「琳派コレクション 2013年」、図録「大琳派展 2008年」を参照した)