光琳と乾山  芸術家兄弟 響き合う美意識(1)

今年もまた、根津美術館で尾形光琳の「カキツバタ図屏風」を見学する季節となった。毎年、欠かさず拝観しているが、今年のテーマは「光琳と宗達 芸術家兄弟 響き合う美意識」であり、かなり力の入った展覧会であった。相当数の陳列であったので、今年は2回に別けて連載することにした。尾形光琳(1658~1716)は、京都の上層町衆で、慶長期より栄えた呉服商雁金屋(かりがねや)の次男として万治元年(1658)に生を受け、富裕な都市生活、しかも元禄という江戸時代では最も経済的に恵まれた時期に画家として大成した。家業の関係から禁裏や公家などの知遇を得、豊かな趣味を培う機会が多く、能に習熟し、ことに二条家にはたびたび伺候して能舞いの相手を勤めていた様子がある。通常の職業画家としての教育よりも、むしろ幼少から慣れ親しんだ衣装文様などから強い影響を受け、その芸術活動も、絵画では屏風、掛幅、巻物、扇面、香包など実用品の装飾が多い。また弟で陶芸家の乾山のやきもの絵付けや、衣装、漆絵、数寄屋造りのデザインなども行った。日本絵画史上稀有の画家である。光琳は元禄14年(1701)四十四歳のときに法橋(ほっきょう)という位に叙せられ、以後の作品にはほとんどといってよいほど「法橋光琳」の落款を用いた。この法橋叙任間もない頃の作が「燕子花図屏風」であるとされる。本作品が、光琳前半期の集大成的性格を持つとされるゆえんである。その後、宝永元年(1704)光琳は江戸に下る。新天地にあって、当地の大名家や豪商に出入りしながら絵の制作を続けたのである。京都、江戸間の往復を五年間に三度した後、宝永6年に京都二条に新居を構え、その後、享保元年(1716)に五十七歳で他界するまで京都で過ごした。いまに伝わる光琳作品のほとんどがこの七年間の制作にかかり、特に「紅梅図屏風」や「孔雀立葵図屏風」など屏風の傑作が海だされた時期として、光琳画風の大成期とみなさている。(尾形乾山については(2)で説明する)

秋草図屏風 伝尾形光琳作四曲一双屏風 江戸時代(18世紀)サントリー美術館

秋草は古くから日本の美術を彩ってきたモチーフだが、秋草のみならず四季折々の多種類の草花のみからなる装飾性の高い屏風を生み出したのは、俵谷宗達の工房である。宗達晩年から、没後も長く制作されたこれら草花図屏風は、「伊年」の印が捺されていることから「伊年印草花図」と称されている。この作品には、そうした宗達工房の第三世代である喜多川相説の作品からの影響が著しいと言われる。一方で、本作品において相説画に比しては草花の形態が意匠的に整理される点は「燕子図屏風」につながる要素である。筆写に伝が付けられているが、光琳初期の草花図のおもかげを伝える作品である可能性も高い。

国宝 燕子花図屏風 尾形光琳作 特曲一双屏風 江戸時代18世紀)根津美術館

総金地に濃淡の群青と緑青にみによって鮮烈に描きだされた燕子花の群生。その情景には「伊勢物語」に語られた燕子花の名所、三河八橋が潜んでいる。右隻と左隻の構図の対照と均衡を十二分に計算しつつ、リズミカルに配置された燕子花は、一部に型が反復して利用されるなど意匠性が際立つ。むしろ衣装の装飾のために造られたのではないかと思う。光琳が法橋の位を授かった元禄14年(1701)の頃の作品では無いかと思う。光琳が早くも到達した最初の芸術的頂点であろう。

草花図屏風 尾形光琳作 二曲一双 江戸時代(18世紀) 根津美術館

光琳が私淑した宗達と同様、光琳も二曲屏風を多く制作し、そこでもさまざまな構図形式に挑んだ。なかでも本作品は、晩春から夏にかけての草花を一双を通じて対角線的に拝する点で「八橋図屏風」と問題を共有するとともに、その単純化に成功している。また左隻下辺には燕子花も配されているが、やや花弁のボリュームが在り過ぎる「燕子花図屏風」に較べて花の構造をより明瞭にあらわそうとする傾向が見て取れ、それは「八橋図屏風」の態度にちかい。光琳草花図屏風の優品のひとつに数えられる。

重要文化財 太公望図屏風 弐曲一双 尾形光琳作 江戸時代(18世紀)京都国立博物館

太公とは、紀元前11世紀末、殷時代末期から周時代にかけて活躍した軍師・呂尚のことである。隠遁して渭水(いすい)のほとりで釣りをしている呂尚のもとを、周王朝の祖である文王が占いに従って訪れ、呂尚を補佐役として迎える。文王の祖父である太公が待ち望んでいた人物という意味で、太公望と呼ばれた。太公望の働きもあり、やがて周は殷の国を破る。一人釣りをする人物に太公望のイメージを重ねることも古来、行われたが、本作品の太公望は陰逸の軍師としてはいかにも呑気な感じがする。膝に肘をおいて頬杖をつくるポーズがその印象を強めている。本作品の柔らかな中黒の衣装線が宗達の水墨画に由来するものとすれば、引用方法も含めて、宗達から学んだのかもしれない。いくつもの曲線が画面に渦巻くのは、光琳ならではの構図法と言える。署名の書風から宝永元年(1704)に江戸に下向する前の作と考えられている。

白楽天図屏風 六曲一双 尾形光琳作 江戸時代(18世紀) 根津美術館

日本にやってきた唐の詩人・白楽天が、航海と和歌を守護する住吉明神、その化身である年老いた漁師に、和歌の偉大さを思い知らされたうえ、神風で中国に追い返されるという内容の謡曲「白楽天」にもとずく。ことのほか能を好んだ光琳に相応しい作品である。光琳は、もとの舟を多く反り返らせて、画面に円環的な構図と動きを生み出している。

重要美術品 鵜舟図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀)静嘉堂文庫美術館

狩衣のような衣をつける烏帽子を被った鵜匠が小舟に乗り、舳先にしつらえた篝火のもと、紐につないだ二羽の鵜を操って鵜飼いをしている。一羽はまさに魚を捕えたところ、一羽は水中の獲物を狙って水面を滑る様子の鵜は、生家に伝わった宗達作品に学んだと考えられるたらしこみを用いながら簡潔的確に描かれている。筆勢を残した没骨で表された子舟は縦長の画面を半分に前半分を斜めに差し入れ、その周囲を、細い墨線で何本も重ねてから波頭の部分を白く塗り残すようにして藍と淡墨を施しながら柔らかくもボリューム感ある波が包み込む。すべてのモチーフが動きをはらみ、かつそれらが有機的に繋がって画面に奥行きを生んでいる。署名が「法橋光琳」の書風が、「燕子花図屏風」と近似しており、二つの作品はともに元禄14年(1701)の法橋叙任後間もない時期の作と考えられる。

重要美術品 李白観瀑図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀)ブリジストン美術館

光琳は最初、狩野派について基本的な画技を身に付けたと思われる。唐時代の詩人・李白が滝を眺める情景を描いた本作品は、そうした初期の狩野派学習をベースに、宗達風に宮廷の美意識をも反映させた「鵜舟図」における独自の水墨表現を加味し、さらに宝永元年(1704)から6年間の江戸滞在期における漢画体験を踏まえた、画風高揚期における颯爽たる水墨淡彩画と評することができる。

兼好法師図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀) MOA美術館

小さな文机に左肘をついて灯火のもと読書をする人物、これは「徒然草」第十三段に「ひとり灯の下にて文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、このようななぐさむわざなる」と書いて読書の楽しみを説いた兼好法師の像としてよいだろう。

黒梅図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀) 個人蔵

新出作品である。画面右上、やや変わった位置に太い幹の一部が見える。その幹との関係もいささか不合理ながら、そのすこし上から枝が勢いよく下方に向かって伸び、画面下端でまた不思議な動きを見せてから、さらに細かい枝が何本も派生して、その先に白い梅の花が開く。下に伸びる枝の途中にも小さな枝分れがあって、やはり花をつける。梅の白さを際立たせるために、背後に淡墨が塗られる。「青々」落款の作品であるが、やはり帰洛後の作品である。

黒菊図 一幅 尾形光琳作 江戸時代(18世紀)  個人蔵

ほんのりした輝きをはらんだ無背景の絹地に、白菊の咲く秋の野の一角が玄出する。本作品の絹は、不定形のいくつかの断片がつなぎあわされ、通常では考えにくい様子を示している。観察すると、大方は小袖の後右見頃から右袖にかけての部分に該当しそうに思われる。そうであればトリミングされた一番下の菊の下に、まだ絹が数十センチ続いていたことにもなる。絹の小袖の鍼合わせかも知れない。今後の研究がまたれる。署名は「青々」である。

わが家の菖蒲の花       2018年4月30日撮影

10年程前に、横須賀衣笠(きぬがさ)菖蒲園で1株の菖蒲を買って植えたことをすっかり忘れていたところ、昨年1輪だけ咲いた。今年は10輪以上咲き、美しく庭を飾ってくれた。毎年、根津美術館のカキツバタの写真を載せる所だが、今年は庭の菖蒲を掲載した。花の咲く時期はほぼ同じ頃なので、来年以降は、この菖蒲の花が咲いたら、根津美術館の光琳の「燕子花図屏風」を見に行こうと思う。

 

根津美術館の4,5月頃は「カキツバタ図屏風」が毎年公開されて楽しみである。美術館が力を入れる年と、入れない年がある。今年は、かなり気合の入った年であった。テーマは「光琳と乾山」で代わり映えしないが、展示された作品には力が籠っていた。例年なら、1回で済ますところ、新しい展示品が並んだため、「光琳」と「乾山」を別の項目で取り扱うようにした。光琳に関して言えば、今年は根津美術館以外の美術館、個人蔵などが目立った。また、光琳が法橋の地位を得た元禄14年(1701)以降の作品が多く、光琳の画業に磨きがかかった時代に焦点を合わせる展示会であったと思う。裕福な呉服商の次男とは言え、法橋の地位は簡単には得られるものでは無かったであろう。公家や貴族、裕福な町人衆の引き立てがあればこそ、40代の若さで法橋への昇格が出来たのであろう。法橋という地位を得て、光琳が画業に励み、一層磨きがかかった時代の作品が多いのが、今年の最大の特徴では無いだろうか。また、新規に2点の光琳作品が発掘されたことも大きな事件である。特に「黒菊図」には驚いた。小袖を、切り抜いて、軸装に仕立てたものではないかと思われる。新機軸かも知れない。是非解明を進めてもらいたい。

 

(本稿は、図録「光琳と乾山  2018年」、図録「燕子花と紅梅図 2015年」、図録「KORINN展  2012年」、図録「琳派コレクション 2013年」を参照した)