入江一子  100歳記念展ーシルクロードに魅せられて

上野の森美術館の前を通ったところ、この表題の展覧会を開催していた。不勉強ばがら、入江一子という女流画家については全く知らず、普通ならそのまま見過ごす処だが、100歳記念展という珍しい長寿と、シルクロードの魅力に惹かれて、思いがけず入館し、思いがけない感動を得ることができた。近来稀にみる、感動であった。そこで、この感想を「美」で取り上げてみたい。入江和子先生は、大正5年(1916)5月に、韓国天邱(テグ)で生まれた。入江家は毛利藩士の家系で父は貿易商を営んでいたが、早く亡くなった。しかし、十分な資産があり生活に困ることはなく、母親フミノは芸術的天文の豊かな人で、特に手芸に堪能だった。この血を受け継ぎ、入江先生は幼少から異様なまでに描くことが好きだった。1929年、大邱公立高等女学校に進学し5年生のとき、第12回朝鮮美術展に2点入作した。昭和9年(1934)、女子美術専門学校師範西洋画部に入学した。当寺は、ここ以外に女子が学べる美術学校は無かったそうである。上京して、美校に学んだが、「日本の風景が箱庭のようで驚きました。本当に美しい国だと思いました」と語っている。しかし、彼女の色彩は、不器用なまでに大陸的であったと言う。私が、この全く知らない画家の100歳展を見て、思わず引き込まれてのが、色彩の異常なまでの美しさであった。女子美を卒業後一旦朝鮮に帰国し、丸善のソウル支店に勤務し、ショーウインドーを担当し、生涯の師となる林武氏を知った。昭和16年(1941)8月に入江先生は一人で汽車に乗ってハルピンやチチハルに出かけ、ホテルの会場で自分の描いた絵を売りさばいていた。そこで、彼女は次のような言葉を述べている。「満州の空は、抜けるような青色です。ノンコウという川に行ってみると、川面は血を流したように夕日で真っ赤に染まり、そこにジャンクのような舟が一隻浮かんでいます。その風景は生涯、忘れることができないほど、たいへん感動的なものでした」。この原始的な青と赤。これが入江一子と色の出会い、色彩の発見であり、これが後に画家をシルクロードへ駆り立てる原動力となったのである。(本江邦夫氏筆)私が、シルクロードを描かれた入江一子氏の絵を見て感激したのは、まさに本江先生のご指摘通り、シルクロードを描く、色彩の素晴らしさに強く惹かれたのである。入江先生のシルクロード巡りは50歳代になってからであるが、力作は、その絵を100号、200号というとてつもない大きさで描いたことである。まず、シルクロードの絵を招介したい。

イスタンブールの朝焼け  1975年  100号F 第29回女流画家協会展

作者の言葉より、引用して説明に替えたい。(以下このスタイルによる)「中国の西安をシルクロードの起点とするならば、トルコのイスタンブールは、東方のシルクロードの終点ともいえるところです。6本のミレット(祈りの塔)のあるブルーモスクやアヤソフィア、ハギヤソフィアとトプカプ宮殿などがあります。人々の服装もかなりヨーロッパ的な感じになってきて、東洋と西洋を結ぶシルクロードの接点としてエキゾチックな魅力にあふれた街です。長年、チチハルのノンコウに血潮を流したような景色がずっと目に焼き付いていたのですが、この時、ノンコウの面影とボスボラス湾の朝焼けを重ね合せることができたのです。ボスボラス湾の刻々と変わりゆく自然の美しさを作品にしょうと、スケッチブックに色を重ねていきました。この絵を描くことで、シルクロードへの憧れをより深くすることができると思ったのです。そこには、いつも心の中に焼き付いていたノンコウの美しさと同じ色彩がありました。ノンコウは夕陽でしたが、この朝焼けの真っ赤な色彩に運命的に出会ったことで、この作品を描くことができました。思えば私にとってシルクロードの旅は、このノンコウの色彩を追い求めることから始まったともいえるのです。」(色彩自在ーシルクロードを描きつづけてーより)

敦煌飛天 1979年  200号F    第47回独立展

「私は320窟(くつ)の飛天の魅力にすっかり魅せられて、なんとしても画き留めたいと思いました。ここは撮影が許可されていないので、男性の通訳が外で見張りをしています。しかも中は真っ暗で、本来は、外国人には、模写はさせてもらえないのですが、懐中電灯を明かりとして、2時間かけて飛天を模写させてもらいました。3階もある莫高窟(ばっこうくつ)の壊れかけた木の階段をリュツクサックに画材やカメラ、テープレコーダー、懐中電灯などを持って、大変な思いをして登った私の熱心さに感激してくれたのか、女性の通訳の好意により特別に模写することができました。そうした死闘の結果、200号の「敦煌飛天」が出来上がったのです。」(色彩自在ースルクロードを描きつづけてーより)敦煌320窟は、「阿弥陀浄土変相図」と呼ばれる窟で、一番上の飛天が美しいことで有名な窟です。私も感激して観た記憶があります。(黒川)

トルファン祭りの日  1981年  200号F

「ウルムチやトルファンはシルクロードとともに歴史を刻んだ場所です。葡萄棚の下のウイグルの人々の踊りを、どうしても絵にしたいと思っていましたので、訪ねるならば葡萄の実が成る時と決めていました。その機会に恵まれて、1980(昭和55)年8月7日に訪れることができたのです。スケッチは翌日ほとんど完成しました。そうして個展に出品する作品に仕上げるために、日本に帰ってからもアトリエで200号のキャンパスに描きつづけました。」(色彩自在ーシルクロードを描きつづけてーより)

パミール高原  1990年  150号F   第58回独立展

この高原は天山、カラコルム、ヒンズークッシュの3つの大山脈が集まって形成された巨大な高原地帯です。高原と言っても平均海抜5000メートルにも達する場所で、6000,7000メートル級の山々がそり立っています。パミールは珍しく快晴で、砂ぼこりがおさまり、これらの白い山々を遠望できました。古代中国の人は、これを「惣嶺」(そうれい)と呼んでいますが、この場所から、ブルンクリンまで訪ねました。高原で絵を描いていると、集落の家々から人がたくさん出てきました。ウイグル、タジク、その他多くの少数民族の人々で、モチーフとしては格好の題材でした。(「色彩自在ーシルクロードを描き続けて」ーより)

四姑娘(しーくーにゃん)山の青いケシ 1992年 200号P 第60回記念独立展

中国の成都よりチベットに向かう四姑娘(シークーニヤン)山麓に青いケシの花が咲いているという話を、ずっと以前から聞いていました。青いケシを見たい一心で、遂に行く決心をしました。ガイド役に植物にくわしい先生がつき、現地では、もし落ちそうだったら添乗員が私を馬に乗せていってあげるというので、その言葉を頼りにしての決心でした。1992年7月、まずは中国大陸に渡り、上海からの出発です。上海からは空路で成都へ向かいました。成都に行くのは、山岳地帯に向かっているわけですから、かなり気候は涼しくなってきています。翌朝、専用車で臥龍(がりゅう)まで向かい、臥龍の招待所で泊まる予定です。その予定で出発したのですが、7月は雨が多い季節で長雨のために土砂崩れでバスが通れません。仕方なくバスを捨てて耕運機に乗って1時間ほど進むことになりました。臥龍に近づいていくと、今度は橋が落ちていて、耕運機も通行できない状態です。もう歩くよりひかに方法がなくなり、泥んこ道を1時間ほど歩きつづけました。みんな山登りの人たちですから装備は完璧です。山崩れで道が悪くても、臥龍まで歩く予定でしたが、途中、臥龍からバスが出迎えに来てくれました。今度はバスで日隆(リーロン)に向かうことになりました。途中は、やはり多くの花が咲いていました。この辺は中国といっても、完全にチベット文化圏に入っている地域です。招待所はひどい状態でした。翌日は、いよいよ山登りの旅であり、四姑娘山麓のお花畑に向かっていきました。日隆の標高は3600メートル。これからベースキャンプに行って、テント生活をします。途中の山の斜面には、ヤギや羊の群れがみえて、村の子どもが世話をしています。民族衣装を着たチベット娘たちが、花が一面に咲いている高原で「四姑娘の娘」を歌いながら、籠の中に草を採って歩いています。翌朝はタークーニャン4300メートルまで、いよいよ青いケシの花を訪ねて山登りになります。雨が降って霧が流れているのでUターンして帰ろうとすると、突然、青いケシの花が一面に咲いているのがみえはじめました。はるばる訪ねてきた甲斐があったと、みんな大感激でした。息苦しい4000メートルの高地に、ようやく美しいケシの群生をみることができたのです。感激を心の中にとどめながら、私は雨の降るなかを、ベースキャンプに向かって下りて行きました。(「色彩自在ーシルクロードを描きつづけて「-より)この絵は、私が見た入江さんの絵の中で一番美しい絵でした。(黒川)

敦煌飛天  2005年  150号F    第73回独立展

前に見た1979年の「敦煌飛天」と同じ320窟の「敦煌飛天」の色を変えた絵ですが、私の好みから言えば、前作の色の方が、敦煌の壁の色に似ていると思います。しかし、色を変えた、この新しい「敦煌飛天」も魅力的です。なお、「敦煌飛天」は同じスケッチを基にして描かれた作品と思いますが、ここまで変わり得るものかと思いました。(黒川)

雲南ジンボー族まつりの日  2015年  200号P  第83回独立展

残念ながら、この絵について、入江さんの説明はない。多分、雲南地区の少数民族(ジンボー族)の祭りの様子を描いたものです。ややキュビズム的な感じがしますが、色の美しさ、衣装の美しさを鑑賞してください。民族ののぼり旗が3本たち、沢山の旗がきらめいています。多分、チベット仏教のお経を書いた旗では無いかと思います。祭りの儀礼だろうと思います。99歳の老人の描く絵かと思います。勢いを感じます。(黒川)

ホータンのまちかど  1986~2015年  200号P 第84回独立展

「この作品は、ロシヤとの境にある、並木の美しい、土塀のつづく小さなモスクのある中国の町です。外人は入れないのですが、特別に入らせて頂きました。10号のスケッチブックを開いて20号にしてがんばりました。カセットテープで録音をとり、当時の臨場感をだして、がんばりました。中々思い通りに進まない時、今でも大切に保存している林武先生のはげましの言葉を思い出します。「君が中途で止めておく手腕があれば、君が近々絵を描ける様になったと思います」。当時はあまり分からなかったのですが、現在では苦労の末に分かる様になりました。今年も「シルバーカー」を押しながら、200号をがんばります。」2016年と言えば、正に100歳の時です。こんな素晴らしい絵を描き続ける入江先生の「がんばり」に驚き、感激しました。(黒川)

あだし野  1970年  100号F   第38回独立展

「最近、石仏に興味をもち、京都・深草の五百羅漢、奈良の浄瑠璃寺周辺の磨崖仏、兵庫県北条の五百羅漢、或いは九州の装飾古墳、などをテーマに描いております。私の石仏は、宗教につながるものではなく、石の肌合い、表情の面白さにひかれているのです。」残念ながら出典はあきらかではありませんが、入江先生の文章です。私が思うに、これは京都・化野の念仏像と思います。1970年と言えば54歳の一番力の籠った時期と思いますが、面白いことに100歳の絵(「ホータンのまちかど」)の方に、力を感じます。それがシルクロードの絵のせいでしょうか。(黒川)

 

 

入江先生の絵は、若い時ほど色彩が暗く、いかにも専門の画家が描いた絵という感じがします。お年をめす程、色彩が明るくなり、素晴らしい「シルクロード」の案内となりました。特に「敦煌飛天」は2図ありますが、最初の(1979年)方が、はるかに現実に近く、私が見た第320窟の思い出に近い色になっていますが、後年(2005年ー入江先生89歳)の方は、思い切って明るく、写実を離れて、色合いも変えて、自由自在に描かれた絵のように思います。全く偶然に「シルクロードの魅力」の言葉に惹かれて拝見し、思いがけない美しさに酔いました。大村智先生(ノーベル生理学賞受賞者、女子美大理事長、韮崎大村美術館館長)は、図録の招介で「入江一子先生の生き方」と題して、次のような文章を寄せられています。「女流画家の大御所の一人である、入江一子先生が、2016年5月に100歳を迎えられました。私は女流画家協会展のオープニングパーティーに毎年招かれて行きます。女子美術大学は、2013年11月に、最初の”女子美栄誉賞”を入江先生に授与させていただきました。(途中略)入江先生の精力的な制作発表はまだまだ続きます。この度の上野の森美術館で開催される”百彩自在”と題した展覧会会場にて、またその美しい色彩が織りなす大作を拝見するのを楽しみにしたいと思います。」

 

(本稿は、図録「入江一子100歳記念展ーシルクロードに魅せられて」をほぼ原文のまま引用させて頂きました。なお、入江一子作の「色彩自在」を改めて読んでみたいとおもいます。もし、先生の展覧会を観る機会がありましたら、今度は自分の言葉で、感想を述べます。また「砂漠の美術館ー永遠なる敦煌  1996」は第320窟を確認するために参照しました)