円山応挙展   「写生」を超えて

円山応挙(享保18年~寛政7年=1733~95)は、丹波国穴太村(現在の京都府亀岡市)の農家の子として生まれる。京の呉服商に奉公し、絵は、はじめ石田幽汀について狩野派を学んだ。27歳の頃、玩具商の尾張屋勘兵衛の店で眼鏡絵を描き、遠近法など西洋画法を習得した。33歳の頃大津三井寺の円満院の裕常(1723~73)と関わりを持ち、その蔵画を模写し、中国の古画や清画の写実技法を学んだ。対称の観察に基づく精密感のある描写、室内にまるで本物の光景が出現したかのようなイリュージョンをもたらす画風は、多大な人気を得た。「平安人物志」の明和5年版(1768)、安永4年版(1775)、天明2年版(1782)に名が掲載され、安永、天明版では筆頭であった。応挙は、対称を徹底的に観察し、その形を完璧に写すことができれば、対称の生き生きとした生命感を表現できると考えていた。勢いやニュアンスを重視する伝統的な筆使いや、一見写実とは相容れない華やかな装飾性を作品に導入し、さらにそれまでになかった表現法の創出にまで至った。すなわち「気韻生動」への渇望が、応挙の写生画を再出し続けることになったと思われる。(根津美術館 12月18日まで)

牡丹孔雀図 絹本着色 1幅    安永5年(1776) 宮内庁三の丸尚蔵館

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応挙の花鳥画の典型ともいえる作品である。安永5年9月の作で、同じ年には「雨竹風竹屏風」が6月に、「藤花図屏風」が7月に制作されており、いずれも応挙の画業におけるひとつのピークを形成する作品に位置付けられる。本作品は、江戸時代に公家の久我家から宮中に献上されたものであるという。

雪中水禽図  絹本着色 1幅   安永6年(1776)  個人蔵

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冬の水辺に遊ぶ七羽の水禽を描く大幅である。白い雪の積もった岸に並んでいるのは番の鴛鴦。水面の手前側は凍っており、氷の上には雌雄の真鴨がいる。その先のまだ凍っていない水面には子鴨の雄が浮かび、さらにその背後には水中の餌をあさる一羽がいる。松のかげから飛来するのは軽鴨かとされる。ところで雪景色に鴛鴦を描く作例が伊藤若冲に3点ある。「動稙綵絵」の中の「雪中鴛鴦図」が3点のうちでもっとも時代が新しいものであるが、それでも応挙よりは随分早い。果たして応挙は、若冲の絵を見知っていたのだろうか。私は、二人の鴛鴦図はかなり違うと思う。若冲の絵が幻想的であるのに対し、応挙の作品は自然らしい、二人の画家の資質の違いが明らかに見れる。

雪中残柿猿図 絹本着色  1幅  安永5年(1774)   個人蔵

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二匹の猿が、雪の積もった冬のある日に、枝に残った一つの柿を争うという状況を描いたものである。この猿は、「写生雑記録」(後掲)のスケッチや、「写生図鑑」(後掲)の写生を浄書したものらを参考にしたであろうと思われる。それに比べると、この絵の猿には生気が戻ってきているように感ずる。写生の浄書である写生図は恐らく、生気表現を考えず、思う存分形の類似を求めたフォーマットだったのであろう。そこから更に本画を造る際には生命感を表出することが問題であったのであろう。この猿は実に生き生きと描かれている。

重要文化財 雨竹風竹図屏風 6曲1双絹本着色 安永5年(1776)圓光寺蔵

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安永5年(1776)、応挙44歳の年に次々と大作を生み出している。まず6月月に、この「雨竹風竹図屏風」。7月の「藤花図屏風」、そして9月には先に上げた「牡丹孔雀図」を生み出し、安永期の堂々たる巨匠振りを示している。応挙は早くから強い墨への愛着を示しており、それが天明期の代表作「雪松図屏風」を生み出す原動力になったと思われる。この「左隻」は風竹図であり、右端の数本をはじめとする竹が幹をわずかに揺らすだけである。しかし、連なる竹、そこに施された墨の濃淡の変化に空気の存在を感じることが出来る。絵の中に微かな風が吹いていることを感ずる。軽い乾いた葉音さえ聞こえてきそうである。

重要文化財藤花図屏風6曲1双 紙本金地着色 安永5年(1776)根津美術館           左隻                  右隻

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画面上端を藤棚に見立てたかのような構成で、総金地に藤の木と花を描いている。幹や枝、蔓(つる)は、刷毛の一筆描きで対称を表現する付立(つけたち)よ呼ばれる技法であらわされている。濃度の異なる墨を筆にふくませることで描線に濃淡が生じ、それによって幹や枝の陰影、ひいては立体感が表現される。また、力をこめた筆さばきが生む墨のムラがゴツゴツした藤の幹の表面を再現し、また奔放に走る描線が伸びやかに蔓を描き出す。印象派を思わせるような、きわめて斬新な技法、表現である。応挙の安永期の傑作の一つであろう。

国宝雪松図屏風 6曲1双絹本金地着色天明6年(1786)頃 三井記念美術館    左隻                   右隻

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一面の雪の中にきらめく光を照り返して屹立する松の姿を墨と金泥と紙の白色のみで情感豊かに描いた絵である。松は輪郭線を用いないで没骨法(もっこつほう)をもってし、右隻には直線的で柔らかい若木を配する。画面中央に出現した余白が、空間の広がりを感じさせる。写生を基礎に、これを伝統的な装飾画風と合せた平明で清新な応挙様式の代表作である。雪の部分は、紙を塗らずに、白い感じを見事に出している。応挙一代の傑作と言えよう。

筍図  1幅 絹本着色    天明4年(1784)   個人蔵

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3本の筍が描かれている。一番手前が赤みを帯びたなめらかな竹の皮を持つ淡竹の筍、その奥にあるのは剛毛に覆われた竹に黒い細やかな斑模様のある孟宗竹の筍、更に一番後ろに添えられているのが真竹の筍である。之を見ると、まさにスケッチして描いたように見える。しかし、実は3本のうち孟宗竹と眞竹は、「写生図鑑」や「写生図録」などに含まれる筍の図に基づいている。単に、モチーフが共通しているのではなく、皮の枚数や模様、そして孟宗竹の根の付近の土の付き方を見れば、これら写生図を使って描かれていることが確認できる。「写生帳」とは、対称をまさに目の前にして行った写生(一次写生)に対し、それらの写生を浄書したものを指す。「筍図」は、応挙が確かに写生を出発点にして本画を描いたことを明らかに示す。写生と本画を直接に結び付けることこそ応挙の達成の一つと言える。十数年前の筍図を本図に用いているのである。それは、ある時期の写生図が依拠すべき「典型」にまで高められているということが推測できる。「筍図」は、応挙の絵画制作において、写生という段階が極めて重大な事柄であったのである。

四条河原夕涼図(眼鏡絵) 紙本着色 宝暦年間(1751~64) 個人蔵

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眼鏡絵とは、西洋風の遠近法を用いて描かれ、それをレンズの付いた覗き眼鏡を使って見ることで強調された遠近感、さらには臨場感を楽しむ絵である。西洋が発祥で、オランダや中国を経由して日本にもたらされた。若い時に奉公していた尾張屋中島勘兵衛が覗き眼鏡を販売していたが、付属していた絵だけでは目先が変わらないので応挙に新たに眼鏡絵を描かせたところ、それが人気を得たという。需要に応えるため、後には木版でも制作されたのである。この絵は四条河原の夕暮れ時を描いている。季節は夏である。川の両岸には見世物小屋が並ぶ。岸の近くには川床が作られ、浮かれ踊る人々を提灯が照らし出している。

写生雑記帳 1帖 紙本墨画ほか 明和7年~安永元年(1771~72)個人蔵

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応挙が、図と文字で、絵画制作に関わる様々な事柄を書き留めた帳面で、本来の表紙には「写応挙」とあり、「圓山氏図書記」という印が捺されたものが二図ある。大部分は袋綴じになっているが一部厚手の一枚紙の頁もある。基本は図や文字の直書きであるが、中には写生図の切り抜きを貼ったり、逆に図の輪郭に沿ってまわりを切除したりしている。内容でもっとも多いのは、動植物や山水風景、自然現象の写生、スケッチで、全体の半数近くに及ぶ。鳥や動物や魚、あるいは草花や木々を全体や部分、ときには様々な角度で描き別け、優れた観察力とデッサンを示す。次いで注目されのは中国の絵画や版元挿絵の縮図である。また、中国以外に、日本の古画を写したものもある。蘇我蛇足や宗旦などの中世の画家の名前と作品の縮図が見える。昭和30年代に本作品が登場したことにより、それまで知られていた応挙の多くの写生図が、ここに含まれる一次写生の浄書、すなわち二次写生や模写として認識されるようになった。応挙の制作の秘密に迫るために必須の作品であり今後の研究が期待される。

重要文化財写生図巻二巻紙本着色明和7年~安永元年(1770~72)(株)千総    甲巻               乙巻

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紙を横づかいした九枚の写生図を、それぞれ甲乙二巻の巻子に仕立てている。もとは「写生図」のような画帳形式であったものを、巻物に改めたようである。甲巻は巻頭から、第一図に金柑や霊芝、椎や栗、櫟などの実、稲、蜜柑などが描かれている。乙巻は、第一図に笹の露、青松傘、蜘蛛、蛍、第二図に猿が描かれている乙巻第一図が「筍図」である。乙巻第二図に「写応挙」の署名がある。乙第一図が「筍図」に応用されている。

写生図帖  一帖  明和7年~安永元年(1770~72) 東京国立博物館

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横使いと縦使いが混在した形で二十枚の写生図を貼り込んだ帖形式の写生図である。東京国立博物館には、現在応挙筆とされる複数の写生帳があり、便宜的に名付けられた甲乙丙丁四帖のうち、本作品は乙帖に当たる。「写生図鑑」と共通する写生図が十図ある。写真は「桜」の部分である。近年、本作品は弟子の筆になるるのではないかという観測がなされている。浄書された写生図の更なる転写本が存在することは、それらが写し、学ぶべき粉本と化していることを示しているようだ。

重要文化財 七難七福図巻 3巻  紙本着色 明和5年(1768) 相国寺蔵

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明和5年(1768)、36歳の応挙は、3巻からなる絵巻を完成させた。大津に位置する門跡寺院・円満院の裕常(ゆうじょう)門主が、若き応挙の才能を見込んで描かせたものである。主題は「仁王経」に説かれる七難と七福である。応挙は、この作品の制作に3年の歳月を費やした。そこには人間と、人間を取り巻く自然の諸相が緊張感に満ちた筆致で描かれている。応挙の絵画理論が深まったのも、この作品を契機とすえ裕常との対話を通じてであった。

 

 

当時の狩野派を中心とする絵画制作は、「粉本」によるものであった。江戸狩野探幽以来の絵手本、下図、古画の模写等を「粉本」(ふんぽん)と称しており、新たに絵を描く時は、それらの「粉本」を参考にし、あるいは組み合わせて制作する。そこには新しい創造性、芸術性はなかなか求められないのである。そういう中で、応挙は様々なものを実際に見て写生をし、あるいは古い中国や日本の画家の絵を写したりして自身の画嚢(がのう)を肥やしている。応挙の写生図といわれる作品も今日多く伝えられている。これらをもとに応挙は自分の作品を描き上げたのである。応挙は、時間をおいてよく似た作品をいくつも制作する一方で、ある時には一見全く異なる画風を共存させ、また時として突出した新奇な技法を披露する。段階的な画風展開でとらえることが難しい画家である。これは「気韻生動」への渇望、それこそが応挙の写生画を更新し続けたのではないだろうか。

 

(本稿は、図録「円山応挙ー「写生」を超えてー 2016年」、「図録「美の伝統 三井家 伝来の名宝 2005年」、図録「琳派コレクション 根津美術館 2014年」、を参照した)